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古代人のの嘘にはもう騙されない!日本書紀甚大の不可解な人名地名解釈と戦います。

【 第一回 ~ 第二十四回 】

【 第一回/ 第五回第十二回第十六回第二十四回
日本書紀のエラーコラム
第一回 オノコロは自ずから凝り固まっていない!
 日本書紀神代の国生み冒頭にオノコロは登場します。

■矛の先からしたたった海水が、凝り固まって一つの島になった。名づけて [石殷]馭慮 オノコロ という

 基本的に、これを事実だと考える人は皆無でしょう。つまり、言うまでもなく、漢字表記から後世に創作された物語とするのが妥当に思えます。日本書紀の神代周辺に記される不可解な物語の正体の多くは、このような漢字表記からのこじつけです。この物語を創作した当時の人々には縄文語(アイヌ語)の知識がまったくなかったのかもしれません。神代は軽く数百年以上昔の出来事です。
 オノコロは、縄文語で

●オノコロ=「オンネ・コッ・ル」=「年老いた・窪地の・海」

 の意で、出雲の宍道湖を指していると思います。宍道湖は

●宍道湖=「シアン・テュ・コッ」=「実に・古い・窪地」

 の意。オノコロと同じ意味です。
 オノコロ島を生み出したイザナギ、イザナミは、縄文語で解釈すれば、それぞれ、アシナヅチ、テナヅチと同一人物。以下のように出雲周辺の地名に置き換えることができます。

●イザナギ=「エテュ・ナゥケピ」=「岬・その木カギ=枝状の岬」
=アシナヅチ=「アゥ・シ・ナ・テューテュ」=「枝の・峰の・方の・岬」=鳥取県の夜見島(弓ヶ浜半島)


●イザナミ=「エテュ・ヌミ」=「岬・その玉=玉状の岬」
=テナヅチ=「タ・ナ・テューテュ」=「玉の・方の・岬」=島根県の大根島


 イザナギ、イザナミの正体が分かれば、自ずと天照大神の正体も分かります。天照大神はイザナギとイザナミの娘ですから、つまり、

●天照大神はアシナヅチ・テナヅチの娘の奇稲田姫

です。素戔嗚は八岐大蛇を退治する時に、奇稲田姫を娶っていますから、奇稲田姫と天照大神が同一人物とすれば、天照大神と素戔嗚の関係も判明することになります。二人は夫婦です。


第一回/ 第五回/ 第十二回第十六回第二十四回
日本書紀のエラーコラム
第五回 イザナギの墓は淡路島ではない!
 古事記のイザナギ・イザナミの墓にまつわる記載内容は以下です。
(1)イザナミがカグツチを産む時に亡くなったので、出雲国と伯耆国の境の「比婆の山」に葬った。
(2)イザナギがイザナミを求めて黄泉の国まで行くが、変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出す。 イザナギは追いかけて来た黄泉の国の軍勢を「黄泉平坂」で撃退する。
 
比婆山周辺地図
(3)イザナミが最後に追いかけて来たが、イザナギは黄泉平坂に「千引の岩」を据えて、イザナミに別れを告げる。
(4)イザナギはこの世の仕事を終え、「淡路の多賀」にいる。

 上記に登場した地名を縄文語解釈してみます。

◆淡路の多賀=「アゥ・テュ・ウン・タ・カ」=「隣の・峰・にある・石の・ほとり」
◆千引(岩)=「テュピン・ケゥ」=「老父の・死体(イザナギの遺体)」
◆比婆山=「ピ・パ(山)」=「石の・頭(頂)の(山)」
◆黄泉平坂=「イェ・ムンテュ
・ウン・ピラ・サッコッ」=「石の・草原・にある・崖の・枯れた沢」
【参考】おっぱら(越)=「オッ・パ」=「死体(をござで包んだもの)の・入口」
【参考】飛越(岩)=「テュピン・コ」=「老父の婿(イザナギ)


 この解釈によれば、イザナギが眠る「淡路の多賀」はイザナミの墓のある「比婆山」の隣の峰の「飛越岩」、あるいは「千引岩」のほとりということになります。夫婦の墓の場所として適当かもしれません。通説の淡路島とは大分異なります。
 また、「飛越岩」の解釈が妥当だとすれば、イザナギは婿だったことになります。
 「比婆山」、「淡路の多賀」、「千引岩」、「飛越岩」、「おっぱら越」。これらの意味のすべての辻褄が合うというのであれば、ここをイザナギの墓所の比定地にするのが妥当に思えます。そして、イザナミの墓も広島県庄原市の比婆山ということになります。
 このように、漢字表記と縄文語とでは、意味がまったく異なります。つまり、記紀を縄文語で解釈すると、古代人が漢字表記からデタラメに創作した意味不明で不可解な物語の分だけ、まったく異なる物語が見えてくるということです。それが邪馬台国を指し示していてもなんの不思議もありません。これまで邪馬台国の謎が解けなかったのは、「堅固な漢字の鎧」に守られていたからだと考えます。



第一回第五回/ 第十二回/ 第十六回第二十四回
日本書紀のエラーコラム
第十二回 出雲まで白鳥を追いかける愚か者はいない!
 日本書紀記載の鳥取について。

■第十一代垂仁天皇の時、第一皇子の誉津別命が問うたクグイ(白鳥)を天湯河板挙が出雲まで行って捕まえた。よって鳥取造の姓を与えられた。

 白鳥を追いかけて、ヤマトから出雲まで行くなんて、もう、バカじゃないの?いえいえ、これも「鳥取」の漢字表記から生み出されたデタラメ物語です。

●鳥取=「トント・リ」=「禿地の・高台(鳥取砂丘)」

 縄文語(アイヌ語)で「トント」は「なめした皮」の意で、地形では「禿地」を指します。「リ」は、「高台」の意です。鳥取の禿地の高台と言えば、鳥取砂丘しかありません(※【参考】鳥取砂丘wikipedia)。



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日本書紀のエラーコラム
第十六回 卑弥呼は鏡姫!間違いなく百襲姫です!
 これまで邪馬台国や卑弥呼の正体が謎だった最大の理由は、

1)古代人の神話創作により、欠史八代天皇周辺の史実がねじ曲げられて伝えられていること
2)現代に至るまで、記紀神代が主に漢字表記から解釈されてきたこと

 だと思います。
 1)については、邪馬台国を隠蔽する意図があったかどうかは後段のコラムで検証しますが、第十代崇神天皇以降の流れを正当化し、神格化するために神話が創作されたのは確かなことだと思います。 そのために、神武天皇という実在しない初代天皇を生み出し、神話上で崇神天皇の事績を記しています。始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と神武天皇と崇神天皇の名が重なるのはその理由と考えます。(神武東征神話の前半はスサノオやニニギの行動がモチーフになっていると考えますが、ここでは話が長くなるので割愛します。)

 神武天皇が熊野で目覚めて、ヤマト侵攻を開始し、長髄彦を倒すところが、まさに崇神天皇の邪馬台国侵攻の物語です。葛城等の賊の征伐は邪馬台国滅亡後の後処理となります。

 なぜ、このようなことが言えるかというと、縄文語解釈による人物比定がヒントになります。これが2)にあたります。漢字解釈ではなく縄文語(アイヌ語)で解釈することにより、神話から別の物語が浮かび上がります。なぜアイヌ語かは、このコラムの他の例証でご理解いただけると思います。
 まずは、邪馬台国の女王である卑弥呼。

●卑弥呼=「ヘ・カ」=「光る・泉の・表面」=「水鏡」

 これは、「鏡」を意味すると考えます。縄文の鏡は水鏡ですから、中国から伝えられた鏡も「水鏡」と表現したのだと思います。卑弥呼の鏡と言えば、三角縁神獣鏡でしょうか。
 そして、重要なのは、鏡の意味を名に含む人物が、神話と欠史八代周辺で複数存在するということです。

《以下、すべて「鏡」の意を含む名前》
◆(倭)迹迹日百襲姫=「(ヤマト・)タッタ・へ・モ・メ・ソ」=「踊り・光る・小さな・泉の・表面」=鏡の巫女
◆ 三炊屋媛 =「メ・カ・キヤィ」=「泉の・表面の・光」=鏡媛
◆ (天津)甕星 =「メ・カ・フチ」=「泉の・表面の・老婆」=鏡の老婆
◆彌馬升(魏志倭人伝)=「メ・メ・ソ」=「きらめく・泉の・表面」=鏡

 日本神話の中で大国主が多くの別名を持っていることは広く知られています。大国主の息子の事代主も、神武天皇も崇神天皇も多くの別名を持っています。この時代、貴人が複数の名を持つことは普通のことだったのではないでしょうか。
 その観点から、卑弥呼も多くの別名を持っていたとすれば、上記の名前に「鏡」を含む人物を卑弥呼と同一人物として仮定することができます。
 それぞれの人物の登場する時代が神話と欠史八代周辺でばらけていますが、筆者はこれを同一時代と考えます。つまり、神武天皇と崇神天皇の例だけでなく、欠史八代全体の事績が加工されて神話が創作されたと考える訳です。欠史八代の天皇の事績は神話にすでに書かれているため、事績の項には記載がありません。一系を貫くために、抜け殻の名前が縦列に並べられているだけです。
 神話に登場する神武天皇周辺の人物は、そのほとんどを崇神天皇の周辺の人物に当てはめることができます(※詳しくは人物紹介ページ縄文語解説ページ、書籍をご覧ください)。

 神武天皇の最大の敵、ヤマトの先住民の大将とも言うべき長髄彦に注目して縄文語の意味を見てみます。

●長髄彦=「ナィ・カ・シ・ニェ/シクル」=「川岸の崖の林/大夫」 

 長髄彦の妹には卑弥呼の別名としてあげた三炊屋媛がいます。つまり、先にあげた「鏡」の意を持つ名前をすべて 卑弥呼だとすると、長髄彦について次の公式が導き出せます。

◎長髄彦=三炊屋媛の兄=倭迹迹日百襲姫の兄=卑弥呼の兄

 となります。この公式をよく見ると、問題となる人物が欠史八代の中から一人浮かび上がってきます。それは、

◎倭迹迹日百襲姫の兄=第八代孝元天皇=長髄彦

 です。

◇孝元天皇が長髄彦?

 本当でしょうか。孝元天皇の別名を縄文語で解釈してみます。

●【第八代孝元天皇】(大日本)根子彦国牽(おおやまとねこひこ-くにくる)=「ナィ・カ/シク/クッ・ニクリ」=「川岸/大夫/崖の林」

 長髄彦の意味と比べてみてください。まったく同じ意味です。拠点とした富雄の丘陵を指したのではないでしょうか。
 つまり、

◇日本神話: 初代神武天皇は、ヤマトの先住民である長髄彦と、その妹の三炊屋媛を攻め滅ぼした。
◇欠史八代: 第十代崇神天皇は、邪馬台国の第八代孝元天皇と、その妹の倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)を攻め滅ぼした。


 これらが同じ出来事となります。
 傍証としては、その周辺人物の縄文語解釈や系図解釈等たくさんありますが、ここに記した中からあげれば、卑弥呼と同一人物とした天津甕星が分かりやすいかもしれません。これは前述のとおり、「鏡の老婆」の意味ですが、日本書紀には神武天皇以前にヤマトにいた「まつろわぬ神」と書かれています。敵対する卑弥呼を表現したのだと思います。
 魏志倭人伝に記される邪馬台国の官の一つ、「彌馬升」についても「鏡」の意味で、卑弥呼を指していると考えます。
 また、卑弥呼の墓の説もある箸墓古墳。日本書紀には倭迹迹日百襲姫の墓とあります。箸墓を縄文語で解釈すれば、

●箸墓=「フチ・フカ」=「老婆の・高台」

 です。当時すでに大長寿だった卑弥呼の墓だと考えます。 ホトに箸が刺さるはずはありません。

 つまりは、記紀に書かれている神話のストーリーは、漢字表記にこじつけてデタラメに創作されたもので、まったくあてにならないということです。
 縄文語で解釈して、これだけ邪馬台国解読のヒントが出てくるということは、他のコラムでも書いたように、少なくとも記紀が編纂された当時の人々には、縄文語の知識がまったくなかったということになるかもしれません。

 これらだけでは、証拠として不十分かもしれないので、他の例証については、他のコラム、人物ページ縄文語解説ページ、書籍をご参照ください。


[補足 ※邪馬台国周辺人物縄文語解説ページより引用]
 孝元天皇の名前は、長髄彦の別名である登美毘古の説に含まれる、旧鳥見郷の丘陵(奈良市の富雄付近、生駒市)を指したのではないかと思います。縄文時代の奈良盆地の中央には大きな湖があり、弥生時代も現代よりかなり水量が多かったはずです。丘陵の西側を谷川が洗っていたのではないでしょうか。

 さらに、長髄彦を物部氏系図に現れる「活馬長砂彦」(鬱色雄の妻の兄)と捉え、「活馬」を邪馬台国の役職の「伊支馬」、地名の「生駒」と捉えれば、ほとんどの辻褄が合います。孝元天皇と活馬長砂彦の世代はぴったり合うので、合わないのは、創作された神話の中の長髄彦だけになります(※古代天皇家系図参照)

 因みに、伊支馬は、
◆伊支馬(=活馬=生駒)=「エンコ・マ」=「岬の・谷川」
 の意で、漢風諡号の
◆孝元(天皇)=「コッ・ウン・ケィ」=「谷・にある・岬」
 に通じます。
 漢風諡号は後世に後付けされたというのが通説ですが、敢えて縄文語で解釈しても辻褄が合います。先に縄文語の音があり、それを渡来人が漢字表記し、後世に好字に書き改められたと仮定すれば、無理なく解釈できます。創造力豊かな神話の創作を鑑みれば、欠史八代周辺の歴史はどう手が加えられていてもおかしくはありません。

※追記:日本書紀の天皇諡号、各国風土記の地名由来譚、関東から九州までの大規模古墳名を縄文語解釈した結果、6世紀代まで各地で縄文語を使用している痕跡がはっきりと確認できました。日本書紀に登場する人名、地名は大化の改新頃までは縄文語解釈した方が真実の歴史が見えてきます。当時の権力中枢の人々は、不都合な歴史を闇に葬り去っています。 詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」をご覧ください。

[余談 日向峠は鏡峠か?]
 魏志倭人伝記載の伊都国の代表的な史跡として糸島市の平原遺跡があります。一の鳥居と平原王墓の柱穴を結ぶと、その延長線上に日向峠があることから、平原王墓を太陽信仰と関連付ける説があります。
 現在、日向峠の読みは「ひなたとうげ」ですが、これはもともと「ひむかとうげ」と呼んでいた可能性はないでしょうか。「ひむか」を縄文語解釈すると、

◆日向(ヒムカ)=「ヘ・カ」=「光る・泉の・表面」

 で、「鏡峠」となります。平原王墓からは、日本最大の内行花文鏡のほか、大量の鏡が出土しています。鏡の祭祀が行われ、日向峠に鏡の反射光が当てられたのかもしれません。「鏡姫」である卑弥呼の縄文語解釈とも一致します。

 「ひなた」の読みであれば

◆日向(ひなた)=「ペナ・タ」=「川上・の方」

 の解釈が考えられます。

※ちなみに「天照」の漢字語呂合わせから太陽神とされる天照大神ですが、筆者の縄文語解釈では「天照」は「銅鐸祭祀」の意味で、太陽神ではありません(※第二十四回コラム参照)。


第一回第五回第十二回第十六回/ 第二十四回】
日本書紀のエラーコラム
第二十四回 スサノオは日本初の大王、帥升だ!
 これまでのコラムで何度か触れたスサノオ。筆者はこのスサノオが後漢書東夷伝に記される帥升ではないかと疑っています。帥升は中国古文献に記される初めての日本の王です。

◇後漢書東夷伝:安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。

 西暦107年ということは邪馬台国の約100年前ということになります。一世代二十年平均とすれば、卑弥呼から五代ぐらい前でしょうか。
 筆者は卑弥呼を、第八代孝元天皇の妹の倭迹迹日百襲姫に比定しています。そして、同世代で生きた人物に、敵対した狗奴国王の初代神武天皇がいます。神武天皇は第十代崇神天皇と同一人物で、崇神天皇の祖先の系譜も神武天皇のそれと同一であると第二十回コラムで書きました。つまり、神武天皇の父のウガヤフキアエズは崇神天皇の父であり、その先祖に大国主もスサノオも天照大神もいることになる訳です。それを前提とすれば、卑弥呼の代からスサノオまで遡るのは容易です。

・邪馬台国時代=第十代崇神天皇(初代神武天皇)=西暦200年前後
・一世代前=ウガヤフキアエズ
・二世代前=彦火火出見(山幸彦)
・三世代前=邇邇芸(ニニギ)
・四世代前=天忍穂耳
・五世代前=天照大神(スサノオと同世代)

 帥升の世代は、天照大神、スサノオとピタリと一致します。
 さらに、帥升がスサノオであるとするには、もちろんスサノオの行動を追わなければなりません。第四回コラムで書いたように、筆者はスサノオが豊国の王子だと考えています。以下に縄文語解釈を記します。

●大分=「オオ・ウェン・タ」=「深い・険阻な・石」
●〔旧国名〕碩田(おおきた)=「オオ・ケィ・タ」=「深い・岬の・石」
●国東半島=「クッ・ネ・サン・ケィ」=「崖・の・出崎の・頭」
●大綿津見=「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「深い・険阻な・石の・岬の・入り江」
●豊玉(彦)=「ト・ヤ・テュ・モィ」=「海・岸の・岬の・入り江」

●新羅=「シロケ」=「山の麓」
●曾尸茂梨=「シスマ・ル」=「大石の・岬」

 とすると、スサノオは九州東北部の豊国から出雲の奇稲田姫に婿入りしたことになります。奇稲田姫の父母はアシナヅチ、テナヅチで、二人はイザナギ、イザナミと同一人物です。その名前は、出雲周辺地域を示しています。以下、縄文語解釈です。

●イザナギ=「エテュ・ナゥケピ」=「岬・その木カギ=枝状の岬」
●アシナヅチ=「アゥ・シ・ナ・テューテュ」=「枝の峰の方の岬」=鳥取県の夜見島(弓ヶ浜半島)

●イザナミ=「エテュ・ヌミ」=「岬・その玉=玉状の岬」
●テナヅチ=「タ・ナ・テューテュ」=「玉の方の岬」=島根県の大根島


 また、二人が生み出したオノコロ島は、出雲の宍道湖のことです。

●オノコロ=「オンネ・コッ・ル」=「年老いた・窪地の・海」
◎宍道湖=「シアン・テュ・コッ」=「実に・古い・窪地」


 アシナヅチとイザナギ、テナヅチとイザナミが、同一人物であれば、その娘も同一人物です。つまり、

■奇稲田姫=スサノオの妻=天照大神

 です。そして、このスサノオの名前が何に由来するのかを探ってみます。アシナヅチやテナヅチらの名前が、島根と鳥取の半島や島を指しているので、それらと同様に名づけられたのではないかと疑ってみます。

●スサノオ=「スィェ・サン・ノッ」=「その穴・前にある・岬」=洞窟の岬
 そして、
●帥升=「スィ・シ」=「穴の・峰」=洞窟の峰

 この、「洞窟の峰」は島根半島を指したのではないでしょうか。島根半島には、多古の七つ穴ほか、多くの洞窟が点在し、縄文弥生の住居跡も発見されています。
 スサノオは、この出雲の地で奇稲田姫を娶り、出雲に圧力をかける八岐大蛇を倒しました。八岐大蛇はヤマトから派遣されている越出身の役職者だと第二回コラムで書きましたが、であるとすれば、八岐大蛇を倒しただけでは完全解決には至りません。元締めであるヤマトを倒さなければ、また八岐大蛇の代わりの者を送ってくるだけです。
 日本書紀には、神武天皇がヤマトを制圧した後、歴代の権力者の面々が集い、ヤマトを褒める局面があります。

・神武天皇「蜻蛉が交尾しているように山々が連なり、囲んでいる国だ」
・イザナギ「ヤマトは心安らぐ国、良い武器がたくさんある国、勝れてよく整った国」
・大己貴(大国主)「美しい垣のような山に囲まれた国」
・ニギハヤヒ(物部神祖)「空から見てよい国だと選んだ国」


 この物語に信憑性を持たせた場合、この四人はすべてヤマトにいたということになります。そして、イザナギもヤマトを見ていたということであれば、時期として可能性が高いのは、八岐大蛇を退治した後です。イザナギはスサノオとともにヤマトに乗り込んだのではないでしょうか。そのルートは、河内湖、紀国、紀ノ川、葛城というルートではなかったかと考えます。
 そして、八岐大蛇の尾を切った時に出てきた天叢雲剣。先代旧事本紀に記される、この剣と同名の天村雲は、ニギハヤヒの孫とされています。つまり、「天村雲も八岐大蛇と同様にヤマトに仕えていたが、八岐大蛇がスサノオに敗れるに及んで、ヤマトを裏切ってスサノオをヤマトに手引きした」ということを示しているのかもしれません。
 スサノオは、イザナギ、奇稲田姫(天照大神)、そして、息子の五十猛を引き連れてヤマトに向かいました。途中、紀国に拠点を構え、ヤマト攻略を狙います。五十猛や、その妹のオオヤツヒメ、ツマツヒメが紀伊に祀られているのは、その名残ではないでしょうか。決して「木を植えたから」ではありません。それは「木国(紀国)」の漢字表記にこじつけて後世に創作された絵空事です。
 大国主は兄たちにいじめられて紀国に逃げていますが、大国主はスサノオの曾孫のホスセリに比定していますので、故国に戻っただけという見方もできます。そして、筆者はこの紀国が狗奴国であると考えます。

●紀国=狗奴国=「ケナ」=「川端の木原」=紀ノ川流域

 です。この後、おそらくスサノオはヤマトを手に入れ、大王となったのだと思います。それは、天照大神の名からも推測できます。
 「天照」は、「天を照らす」から「太陽神」と言ってまえば、縄文語の知識のない古代人同様、漢字表記からのこじつけになります。縄文語で解釈すれば、

●天照=「ウ・マィ・エ・タ」=「互いに・響く金属音・それで・踊る」

 という意味を作ることができます。この天照を名に持つ人物がもう一人います。物部神祖のニギハヤヒです。

●ニギハヤヒ=天照/國照/彦(天火明櫛玉饒速日尊)=「ウ・マィ・エ・タ/ケ・ニッ・エ・タ/シク」=「互いに・響く金属音・それで・踊る/光る・棒・それで・踊る/大夫」

 物部は銅鐸祭祀を行ったという説があります。縄文語で解釈してもそうなります。

●物部=「マィ・ノ・ヌ・プ」=「金属音を・よく・聴く・者」

「天照」は物部と同様に「銅鐸祭祀」を表現
しているのではないでしょうか。
 さらに、天照大神と同一人物とした奇稲田姫。この名前も縄文語解釈してみます。

●奇稲田姫=「ケ・シ・ニッ・エ・タ」=「光る・真の・棒・それで・踊る」
あるいは、
●奇稲田姫=「ケル・ニッ・エ・タ」=「光る・棒・それで・踊る」

 です。ここで何かに気づきます。

●国照=「ケ・ニッ・エ・タ」=「光る・棒・それで・踊る」=銅剣、銅矛で踊る巫覡


 ニギハヤヒの名に含まれる「国照」と「奇稲田」は同じ意味です。つまり、

■天照/國照/彦(天火明櫛玉饒速日尊)=天照大神+奇稲田姫

 だということです。これは、いったい何を示しているのでしょうか。他の例を見ると、同じ名前で呼ぶのは「親子」または「夫婦」です。神話ではニギハヤヒは神武天皇以前にヤマトを支配していたということになっています。そしてニギハヤヒは物部氏の先祖です。
 先代旧事本紀ではニギハヤヒを天火明と同一人物とし、天照大神の孫としていますから辻褄が合います。しかし、神武東征の前半、ヤマトにたどり着くまで(熊野の眠りの前)をスサノオの行動をモチーフに創作した物語だとすると、ニギハヤヒはスサノオ襲来以前からヤマトを治めていたということになります。
 スサノオが帥升だとすれば、ヤマトは一旦、スサノオの手に落ちたのかもしれません。しかし、神話ではこれで収まりません。天照大神はスサノオと仲違いし、天岩戸に隠れます。天照大神を苦労して天岩戸から引き出した八十万の神は、皆で相談してスサノオを高天原から追放しました。そしてスサノオは出雲に隠居することになります。
 「天岩戸」をニギハヤヒの館だとすれば、話は生々しくなりますが、そうでもしなければ、この天照大神とニギハヤヒの名前の奇妙な一致の謎は解けません。さらに、ニギハヤヒがヤマトに降り立ったときに乗っていた乗り物。それは「天磐船」です。

■「天岩戸」≒「天磐船」=ニギハヤヒの館か?

 参考までに、縄文語解釈してみます。天岩戸は天岩屋戸とも呼ばれています。

●天岩屋戸=「ウ・マィ/イワ・イェ/チャ」=「互いに・響く金属音(銅鐸祭祀)/岩・石/館」
●天磐船=「ウ・マィ/イワ・ポィナ」=「互いに・響く金属音(銅鐸祭祀)/岩・石」


 神話では、ニギハヤヒに嫁いだのは、長髄彦の妹の三炊屋媛となっていますが、本当でしょうか。倭迹迹日百襲姫に比定した三炊屋媛では、ニギハヤヒと時代が合いません。一方、あくまで想像ですが、天照大神の行動をモチーフとして創作した物語だとすれば、名前の意味も時代も一致することになります。神武天皇と敵対したはずのニギハヤヒが完全な敵として描かれていないのは、一部崇神天皇の先祖になっているからなのかもしれません。スサノオが大暴れしたのも頷けるような気がします。
 とにかく、時代はここから欠史八代に突入することになります。

 これまでのコラムをまとめます。欠史八代とは、以下の物語です。

 ヤマトの大王だったスサノオが出雲に隠居した後、ヤマトでは大国主と兄神たちの後継争いが勃発しました。土豪たちの権力闘争です。それは、魏志倭人伝記載の

◆倭国はもともと男王が七、八十年にわたって治めていたが、国が乱れ、戦いあって年が過ぎた。その後に卑弥呼が女王となった。

 という内容に一致します。
 そして、首尾良く権力を継承した大国主(第三代安寧天皇)は、少彦名とともにヤマトの国作りを進めました。しかし、それもつかの間、経津主(第七代孝霊天皇)が大国主に権力の禅譲を迫り、大国主は死に追いやられます。その後、経津主の子の長髄彦(第八代孝元天皇)と妹の三炊屋媛卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)が邪馬台国を繁栄させますが、結局、大国主の子である事代主(第五代孝昭天皇)と、その娘婿である神武天皇(第十代崇神天皇)によって攻め滅ぼされました。


 これが欠史八代を再構築した物語となります。このように日本神話は欠史八代の天皇周辺に実際に起こった出来事から創作した物語と考えることができます。


写真つき全国地名縄文語解説
※「坂東の雲」電子書籍掲載の一部を抜粋して写真つきで解説したものです。
※参考文献『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)他。
参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。
※掲載の写真は、特記があるもの以外は、すべて筆者撮影、GNU、CC0ライセンス、パブリックドメインのものです。

●箸墓=フチ・フカ=老婆の丘

 「フチ」は「老婆」、「フカ」は「高台」の意。つまり「老婆の丘」。卑弥呼の墓を指していると思います。決して 倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメ が箸でホトを突いて亡くなったから「箸墓」というのではありません。

 
箸墓古墳(wikipediaより

●日本(ジッポン)=チュ・パ=太陽が昇るところ(東の国)

 「チュ」は「太陽」、「パ」は「上手」で、「太陽の上」。「太陽が昇るところ」の意。つまり「東の国」。「日出ずる国」と書いた聖徳太子も知っていたのでしょうか。英語の「ジャパン」の理解も容易になります。
 同様に「日本海」は「東の海」。「日本海」と「東海(トンヘ)」の表記問題も、日本、朝鮮半島南岸、中国大陸東岸を往来する海に生きた倭人からすれば、いずれも同じ意味になります。「東海」は「チュ・パ海」を意味する漢字を後付けで充てて、朝鮮語読みにしたものと思います。逆の順番はあまり考えられませんね。
 アイヌ語には「チュ・カ」という言葉があり、「日の・上」の意とし、「東」を指します。「カ」も「パ」も「上手」の意です。

 
日の出(pixabayより

●富士山=ヘ・チセ=頭が竪穴式住居の形の山

 「へ」は「頭」、「チセ」は「家」の意。当時の家は、言うまでもなく竪穴式住居。つまり、富士山は「頭が竪穴式住居の形の山」。縄文人は自然の地形を人の構造になぞらえて表現しました。山の頂は人で言うところの「頭」にあたります。
 
富士山(wikipediaより)/竪穴式住居(wikipediaより

●坂東=パン・ト=川下の湖沼

 「パン」は「川下」、「ト」は「湖」の意。坂東は「川下の湖沼」。縄文時代、温暖化による縄文海進で海面が上昇し、関東平野の川下にはたくさんの湖沼が広がっていました。通説の「坂の東」は、後世に漢字を充てただけだと思います。

 
関東平野の縄文海進の様子(wikipediaより

●赤城山=アカ・キ=魚の背のような尾根の山(くろほのねろ=ク・ホ・ノ・ネ・ル=神の尻の跡)

 「アカ」は「魚の背のようななだらかな尾根」、「キ」は「山」で、赤城山は「魚の背のようななだらかな尾根の山」。赤城山の別名のくろほのねろは、「ク」が「人or神」、「ホ」は「尻」、「ノ」は「よく」(副詞)、「ネ」は「のような」、「ル」は「跡」。つまり、「神の尻によく似ている跡」で、神が腰掛けた跡を表現しています。山頂の複雑な起伏を背びれに見立てれば、広い裾野を含めて巨大な魚の背に見えますし、山頂だけを見れば尻の跡にも見えます。
 ※クホノの「ノ」は後世に後付けされた助詞とも考えられます。
 
赤城山遠景

●榛名山=パラ・ナ=広い山中の平地

 「パラ」は「広い」、「ナ」は「ナラ」と同じく、「山中の平地」の意。つまり、「広い山中の平地」の意で、榛名山のカルデラの平地を指します。榛名富士の西にカルデラ湖、南麓に広大な榛名高原が広がります。
 →広大な榛名高原(googlemap)
 
カルデラの榛名富士、榛名高原

●妙義山=ムィ・オッ・キ=頂がたくさんある山

 「ムィ」は「山頂」、「オッ」は「たくさんある」、「キ」は「山」。「頂がたくさんある山」。見たままです。

 
妙義山(wikipediaより

●群馬(車村)=クッ・モィ=崖の入り江(河岸段丘)

 「クッ」は「崖」、「モィ」は「入り江」で、「崖の入り江」の意。「モィ」は海の入り江以外に、山中の似たような地形も指します。群馬の場合は、河岸段丘を指したものと思います。
 群馬県の河岸段丘の代表例は写真の沼田市、片品川沿いのものですが、高崎市の烏川にも見られます。
 →烏川の河岸段丘(googlemap)
 
群馬県沼田市の河岸段丘(wikipedeliaより)
(Copyright c 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省)

●八ヶ岳=イェ・テュ(ヶ岳)=溶岩の峰

 「イェ」は「溶岩」、「テュ」は「峰」で「溶岩の峰」。八ヶ岳は日本百名山にも名を連ねる大火山。 至る所に溶岩の峰があります。西麓の茅野市には、縄文遺跡で有名な尖石遺跡があります。
 →北八ヶ岳山頂の坪庭の溶岩の峰(googlemap)
 
八ヶ岳遠景(wikipedeliaより ※筆者色加工)

●塩尻峠=シ・ウテュル=山の間(峠)

 「シ」 は「山」、「ウテュル」は「間」で、「山の間」。つまり、ここでは「峠」の意。塩の道の終点という説がありますが、どうでしょうか。ちなみに、上田市の地名にある塩尻も、山が両側から迫った千曲川沿いの場所にあります。

 →上田市下塩尻(googlemap)

 
塩尻峠(wikipedeliaより)

●各務原=カッ・ク・ムィェ(ヶ原)=形が・弓の・頂

 「カッ・ク=形が・弓」の山は、日本各地に多数存在します。形状はいずれも弓を寝せた形の「中窪み山」で、一部では前方後円墳の別名としても使用されています。この各務ヶ原も例外なく各務原市北部の小丘陵の形状を指しているものと思われます。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
※以下第七十三回コラム引用。
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ライ・イ」=「形が・弓の・死んでいる・ところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳
⇒googleストリートビュー
※以下第七十四回コラムの引用。
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー

●岐阜=キピ=水際にそそり立つ崖

 「キピ」は「水際にそそり立つ崖」。長良川沿いの岐阜城の稲葉山のことだと思います。信長が中国の故事より・・・という説は、その漢字を当てはめたというだけではないでしょうか。後述する吉備の意味も同源と思われます。
 →岐阜城から長良川を望む(googlemap)

 
岐阜城図(円徳寺蔵 wikipedliaより

●香具山=カッ・ク(山)=弓の形の山

 「カッ」は「形」、「ク」は「弓」で「形が弓の山」。見たままです。 頂上の微妙な窪みが弓の形そのものです。
 →香具山遠景(googlemap)

●畝傍山=ウナ・ピ(山)=火山灰の石の山

 「ウナ」は「火山灰」、「ピ」は「石」で、「火山灰の石の山」。畝傍山は瀬戸内火山帯に属する小さな火山です。頂上付近には火山岩がごろごろしているようです。
 →畝傍山解説(wkipedia)

●河内=カィ・ワ・テュ=曲がった岸の岬

 「カィ」は「折れる」、「ワ」は「岸」、「テュ」は岬で、「折れ曲がった岸の岬」。海面が上昇した縄文海進の頃、上町台地は岬となり、その東には河内湖が広がっていました。内海の河内湖から見て、上町の岬は折れ曲がった岸の岬そのものでした。
 
大阪平野地形図(wikipediaより ※海岸線、文字筆者加工)

●中国=テュー・コッ・ケ=峰の窪地のところ

 「テュー」は「テュ」と同様に「峰」、「コッ」は「窪地」、「ケ」は名詞について場所を示す「ところ」の意。つまり、「峰の窪地のところ」。中国山地の真ん中にある津山盆地あたりを指したのではないでしょうか。
 
神南備山から望む津山市(wikipediaより ※筆者加工)

●瀬戸内海=シアン・ト・ナィ(海)=たいへん大きな川

 「シアン」は「実に」、「ト」は「海」、「ナィ」は「川」。つまり、「海のようにとても大きな川」。関東の利根川の由来も「ト・ナィ」で、「海のように大きな川」の意です。一目瞭然です。
 
瀬戸内海衛星写真(wikipediaより

●吉備=キピ=水際にそそり立つ崖

 「キピ」は「水際にそそり立つ崖」。旧吉備児島である児島半島玉野市の海岸線あたりを指したのではないでしょうか。前掲の岐阜と同源と思われます。

 →玉野市王子が岳(google map)

●鳥取=トント・リ=禿地の高台(鳥取砂丘)

 「トント」は元来「なめした皮」の意。地形では「禿地」を意味します。「リ 」 は「高台」。つまり、「禿地の高台」。言わずと知れた鳥取砂丘のことではないでしょうか。日本書紀記載の第十一代垂仁天皇の時に、皇子の誉津別命のために、湯河板挙(鳥取造の祖)が白鳥を出雲まで追いかけて捕まえたというのは、漢字の意味から創作した作り話とするのが妥当に思えます。
 
鳥取砂丘(wikipediaより

●出雲=エテュ・モィ=岬の入り江

 「エテュ」は「岬」、「モィ」は「入り江」 で「岬の入り江」。 縄文の頃、美保湾から中海、宍道湖まで海面がつながる内海でした。「テュ(ー)」も「エテュ」と同じ「岬」の意味で、「エテュ」と置き換えれば「テュー・モィ」となります。「投馬国」とも捉えられます。
 宍道湖はオノコロと同義です。
[[石殷]馭慮=オンネ・コッ・ル=年老いた・窪地の・海]=[宍道湖=シアン・テュ・コッ=実に・古い・窪地]
※「弓ヶ浜半島・大根島」=「イザナギ・イザナミ」=「アシナヅチ・テナヅチ」の解説は、日本書紀エラーコラムの第一回をご覧ください。
 
島根半島地形図(wikipediaより ※筆者加工)

●四国=シ・コ・ケ=大地が湾曲しているところ

 「シ」は「大地」、「コ」は「鍋のつるのような曲がり」 、「ケ」は名詞について「ところ」を表します。つまり、「大地が湾曲しているところ」。四国の南北いずれかの海岸線(写真点線部分)のことを指しているのだと思います。
 
四国衛星写真(wikipediaより ※筆者加工)

●土佐=タ・サ=石の浜

 「タ」は「石」、「サ」は「浜」で、「石の浜」の意。竜串海岸がもっともその名に相応しいように思えます。
 →竜串海岸(google map)

  
竜串海岸(wikipediaより

●愛媛=エン・ピ・ムィ=突き出た石の頂/伊予=エン・イェ=突き出た岩

 「エン」は「突き出た」、「ピ」は「石」、「ムィ」は「頂」、「イェ」は「岩」。愛媛も伊予も「突き出た岩の頂」を表します。佐田岬のことだと思います。 佐田岬も「サン・タ」で、「前にある・石」の意味です。
 →佐田岬(google map)
 
佐田岬(wikipediaより

●大分=オオ・ウェン・タ=深い険阻な石
●碩田(おおきた)=オオ・ケィ・タ=深い岬の石(国東半島)

 「オオ」は「深い」、「ウェン」は「険阻な」、「タ」 は「石」、「ケィ」は「頭」で、地形では「岬」の意。つまり、大分、旧名のおおきた、ともに「深い険阻な石の岬」の意。国東半島のことだと思います。国東半島も「クッ・ネ・サン・ケィ」で、「崖・の・出崎の・頭」の意味です。
 大綿津見神も「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」で、「深い・険阻な・石の・岬の・入り江」の意で、国東半島に盤踞した氏族の神だと思います。
 →国東半島(豊後高田市公式サイト)
 
国東半島衛星写真(wikipediaより

●鹿児島=クッ・コッ=崖の窪み

 「クッ」は「崖」、「コッ」は「窪み」で「崖の窪みの島」の意。つまり、桜島のこと。鹿児島の「カゴ」が崖の意味というのは、「クッ・コッ」に由来するものではないでしょうか。訛りの違いで「カゴ」になったと捉えられなくもありません。桜島は「サン・クッ・ラ」だとすると、「出崎の・崖の・低いところ」の意になります。桜島の噴火口のことです。

 
桜島衛星写真(wikipediaより

●対馬=テュ・スマ=岬の岩

 「テュ」は「岬」、「スマ」は「岩」で、「岬の岩」の意。対馬市の公式サイトにも”対馬の地質の大部分は、対州層群(対州は対馬の別称)と呼ばれる約3000万年前に海底に降り積もってできた堆積岩”とあります。
 →対馬の自然(対馬市公式サイト)
 →対馬南端の豆酘崎(google map)
 
対馬、浅茅湾大千切島付近のリアス式海岸地形の空中写真(wikipediaより
(Copyright c 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省)
朝鮮半島南部地名解説
※朝鮮半島南部、中国大陸東岸、ともに倭人が活動していた海際に縄文語と思しき地名が散見されます。

●釜山(プサン)=プッ・サン=河口の出崎

 「プッ」は「河口」、「サン」は「出崎」で、「河口の出崎」の意。釜山は洛東江の河口の岬の意味です。
 →釜山解説(wikipedia)
 
釜山の岬(pixabayより

●済州島(チェジュド)=チン・テュ(島)=崖の岬の島

 「チン」は「崖」、「テュ」は「岬」あるいは「峰」で、「崖の岬(峰)」の意。見たままです。柱状節理の海岸や城山日出峰、山房山等を指したのだと思います。
 →済州島解説(wikipedia)

 
済州島衛星写真(wikipediaより
中国大陸東岸地名解説

●青島(チンタオ)=チン・タオ=崖の水際の高所

 「チン」は「崖」、「タオ」は「水際の高所」で、「崖の水際の高所」の意。青島市街地に隣接して北九水風景区という風光明媚な険しい峡谷があります。
 →北九水風景区(google画像検索)
 →青島北九水(山東省観光局)

●上海=シアン・ハ・イ=広大な水が引いたところ

 「シアン」は「大きい」、「ハ」は「水が引く」、「イ」は形容詞、動詞について「ところ」や「もの」を表します。つまり「広大な水が引いたところ」。上海は長江下流の広大な三角州で、長江デルタの中心地です。そのままの意味です。
 →上海市解説(wikipedia)
 
上海衛星写真(wikipediaより
※「日本書紀のエラーコラム」「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍掲載の一部を抜粋したものです。
◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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