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邪馬台国周辺人物縄文語解説
「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」電子書籍掲載の一部を抜粋したものです。
※参考文献『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)他。
参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。
※掲載の写真は、特記があるもの以外は、すべて筆者撮影、GNU、CC0ライセンス、パブリックドメインのものです。

卑弥呼=【彌馬升】=倭迹迹日百襲姫=三炊屋媛=天津甕星

●卑弥呼=「ヘ・メ・カ」=「光る泉の表面(水鏡)」
 「ヘ」は名詞で「光」、「ヘル」は動詞で「光る」。いずれかだと思います。「メ」は「泉」、「カ」は表面。つまり、「光る泉の表面」で「水鏡」のこと。縄文の鏡は言うまでもなく水鏡。水面に光が反射する様を表現しているのだと思います。鏡が手に入るようになっても、それを水鏡と呼んだのではないでしょうか。
 以下の別名と思われる名もすべて「鏡」の意です。

三角縁神獣鏡(wikipediaより
倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ=「ヤ・ムンテュ/タッタ・へ・モ・メ・ソ」=「陸岸の・草むら/踊る・光る・小さな・泉の・表面」
三炊屋媛ミカシキヤヒメ=「メ・カ・キヤィ」=「泉の・表面の・光」
◆彌馬升=「メ・メ・ソ」=「きらめく・泉の・表面」
(天津)甕星アマツミカボシ=「メ・カ・フチ」=「泉の・表面の・老婆」
◆日女=「へ・メ」=「光る・泉」

 「タッタ」は「踊り」の意の「タ」×2で、「踊り踊り」の意。つまり、踊る祭祀の様子を表したのだと思います。タタラ製鉄も同源で、もともとふいごを踏む動作を表しているのではないでしょうか。
 「メ」は「ヘ」と同義で「光る」様を意味します。ほかに「キヤィ」「ケ」も「光」の意です。「ソ」と「カ」は「カ」と同じく、「表面」を意味します。

長髄彦ナガスネヒコ=【伊支馬】=孝元天皇こうげんてんのう

●長髄彦=「ナィ・カ・シ・ニェ/シ・クル」=「川岸の崖の林/大夫」
 「ナィ・カ」の「ナィ」は「川」、「カ」は「岸」あるいは「ほとり」で、つまり「川岸」の意。「シ・ニェ」の「シ」は、山や大地の意味のほか、「水際の崖」の意味があります。「ニェ」は「林」で、つまり、「川岸の崖の林」の意。
 「シ・ク」の「シ」は「大きい」、「ク」は「人」で、「大きな人」を指し、「大夫」を意味します。古代の人たちは、この音に漢字の「彦」を充てたのだと思います。
 つまり、長髄彦は「川岸の崖の林の大夫」の意。
●【孝元天皇】(大日本)根子彦国牽(おおやまとねこひこ-くにくる)
 =「ナィ・カ/シ・ク/クッ・ニクリ」=「川岸/大夫/崖の林」
 根子彦に充てた「ナィ・カ・シ・ク」は「川・岸の・大夫」。国牽に充てた「クッ・ニクリ」の「クッ」は「崖」、「ニクリ」は「林」で「崖の林」。つまり、根子彦国牽は「川岸の大夫/崖の林」となり、長髄彦とまったく同じ意味となります。

 これは、長髄彦の別名である登美毘古の説に含まれる、旧鳥見郷の丘陵(奈良市の富雄付近、生駒市)を指したのではないかと思います。縄文時代の奈良盆地の中央には大きな湖があり、弥生時代も現代よりかなり水量が多かったはずです。丘陵の西側を谷川が洗っていたのではないでしょうか。さらに、長髄彦を物部氏系図に現れる活馬長砂彦と捉え、活馬を邪馬台国の役職の伊支馬、地名の生駒と捉えれば、ほとんどの辻褄が合います。孝元天皇と活馬長砂彦の世代はぴったり合うので、合わないのは、創作された神話の中の長髄彦だけになります(※古代天皇家系図参照)
 因みに、伊支馬は、
◆伊支馬(=活馬=生駒)=「エンコ・マ」=「岬の・谷川」
 の意で、漢風諡号の
◆孝元(天皇)=「コッ・ウン・ケィ」=「谷・にある・岬」
 に通じます。
 漢風諡号は後世に後付けされたというのが通説ですが、敢えて縄文語で解釈しても辻褄が合います。先に縄文語の音があり、それを渡来人が漢字表記し、後世に好字に書き改められたと仮定すれば、無理なく解釈できます。創造力豊かな神話の創作を鑑みれば、欠史八代周辺の歴史はどう手が加えられていてもおかしくはありません。

生駒山(wikipediaより
※アイヌ語の文法的なことを言えば、「ニクリ」は三人称で、通常は「ニクル」の発音となります。アイヌ語で「崖の林」と言う場合は、「崖、その林(三人称)」と言わなければならず、「クッ・ニクリ」となります。しかし、「崖の林」と一つの合成語と捉えた場合は「クッニクル」という発音が可能となります。この場合、どちらが正しいのかは、筆者には判断がつきません。そして、現代のアイヌ語の文法が1700年以上前の縄文の言葉にどれだけ当てはまるかも残念ながら分かりません。あくまで、ぼんやりとした全体像を掴む目的と割り切った方がいいのかもしれません。
 上記以外にも、孝元天皇の別名と考えられる候補がいくつかあります。以下に列挙します。

◆大伊賀彦=「オオ・エンコ」=「深い・岬」
 先代旧事本紀に記される大伊賀姫の父です。言うまでもなく「伊支馬」の名に音も意味も通じます。大伊賀姫は尾張氏の系譜の神祖ニギハヤヒから数えて八世の孫に見られる倭得玉彦の妻ですが、倭得玉彦は存在が非常に怪しく、筆者は、この人物は事代主であり、孝昭天皇であると考えています。つまり、
 「大伊賀彦(大伊賀姫の父)」=「倭得玉彦(事代主、孝昭天皇)の義父」=「孝元天皇」 =「長髄彦」
 となります。※詳しくは「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍内の事代主の項をご参照ください。

◆豊秋狭太彦=「ト・ヤ/ア・ケィェ・サン・タィ」=「湖の・岸 /片割れの・その岬が・前にある・林」 =「崖の岬の林」
 十市氏系図に見られる名です。日本書紀では孝昭天皇の皇后である大井媛の母として倭國豊秋狭太媛の名が見えます。崇神天皇の別名である、御間城入彦と皇后の御間城姫の関係と同様に、夫婦を同じ名で呼んだだけではないでしょうか。やはり、ここでも大伊賀彦で登場した公式と同様に、
 「豊秋狭太彦」=「孝昭天皇の義父」=「孝元天皇」 =「長髄彦」
 となり、名前の意味も、系譜も一致します。とすれば、
 「大井媛」=「大伊賀姫」
 の公式も成立することになります。 これだけでは、少々論拠として弱いのですが、「豊秋狭太彦」を「孝元天皇」とすることにより、「媛蹈鞴五十鈴媛」や「事代主(=孝昭天皇)」周辺の辻褄が合い、それぞれの仮説が相互補完する関係を作ります。詳しくは、媛蹈鞴五十鈴媛コラムを参照してみてください。

陶津耳スエツミミ=「ス・エテュ/メ・メ」 =「激湍の・岬/きらめく・泉(鏡)」
三嶋溝クイミシマミゾクイ =「ムィ・スマ/ムィ・ソケイ」 =「頂の・岩/頂が・崩れているところ」
 日本書紀において、陶津耳の娘の活玉依姫は大田田根子の母であり、大物主の妃です。 一方、先代旧事本紀においては、活玉依姫は三島溝杭の娘であり、事代主の妃とあります。媛蹈鞴五十鈴媛の誕生譚では、日本書紀、古事記、先代旧事本紀で、三輪山の「大物主」と「事代主」が重なります。つまり、
 「陶津耳」=「三嶋溝クイ」
 という公式が成立します。さらに、事代主=孝昭天皇(※媛蹈鞴五十鈴媛コラム参照)ですから、
 「事代主の妃、三嶋溝クイの娘、活玉依姫」=「孝昭天皇(事代主)の皇后、倭国豊秋狭太媛の娘、大井媛」
 となります。豊秋狭太媛は豊秋狭太彦の妃と考えられますから、前述の考証に従い、豊秋狭太彦を孝元天皇とすれば、
 「陶津耳」=「三嶋溝クイ」=「豊秋狭太彦」=「孝元天皇」=「長髄彦」
 となります。

日子刺肩別ひこさしかたわけ=【奴佳韃】

●奴佳韃=「ノッ・カ・タィ」=「岬のほとりの林」
 「ノッ」は「岬」、「カ」は「ほとり」、「タィ」は「林」で、「岬のほとりの林」の意です。
●日子刺肩別=「シ・コッ/サン・シ・カ・タィ/ワ・ケ」=「出崎の崖のほとり林/輪の光(光るクシロ)」
 「シ」は「大きい」、「コッ」は「窪地」で、「大きな窪地」。磯城の地形のことを指しているのだと思います。
 「サン」は「出崎」、「シ」は「崖」、「カ」は「ほとり」、「タィ」は「林」。つまり、「出崎の崖のほとりの林」。奴佳韃と同義になるとともに、長髄彦、根子彦国牽とも同じ意味で、富雄の丘陵を指したのではないでしょうか。
 「ワ・ケ」は官職名で、「輪の・光」の意。光るクシロを指したのだと思います。これについては、ほかの官職名である「耳」「大臣」「臣」「宿禰」と合わせて、総合的に考えました。耳は「メ・メ」で「きらめく・泉」。鏡を配って与えた官職に思えます。

崇神天皇すじんてんのう=【彌馬獲支】=【卑弥弓呼】

●彌馬獲支=「メ・メ・コ」=「きらめく泉の婿(鏡の婿)=卑弥呼の婿」
 「メ」は「きらめく」、「メ」は「泉」で、「きらめく・泉(鏡)」の意。鏡姫である卑弥呼を指します。「コ」は「婿」で、つまり「卑弥呼の婿」の意。「コ」は三人称では「ココ」と発音するので、「鏡、その婿」とし、合成語とせずに三人称を採用した方がいいのかもしれません。
●卑弥弓呼=「へル・ム・カ・コ」=「光る泉の表面の婿(鏡の婿)=卑弥呼の婿」
 「へ」は「光る」、「メ」は「泉」、「カ」は「表面」で、「光る・泉の・表面」で「鏡」の意。言うまでもなく卑弥呼です。「コ」は「婿」で、「卑弥呼の婿」。彌馬獲支のただの言い換えともとれます。
●【崇神天皇】御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)
 =「メ・メ・コ/イウォル・シ・ク/エエニ・エ」
 =「きらめく泉(鏡=卑弥呼)の婿/神の住むところの男/尖り山の頭」
 「御間城」は「メ・メ・コ」で、彌馬獲支と同様に「卑弥呼の婿」の意。「入彦」は神武天皇の別名の「磐余彦」と同義ではないでしょうか。ここの仮説としては、「創作神話の神武天皇」=「実在の崇神天皇」です(※古代天皇家系図参照)。「イウォル」は「神の住むところ」の意で、神武天皇が拠点とした磐余の地を示し、「尖り山の頭」は形から言えば耳成山がふさわしいかとも思うのですが、場所と神聖度を考慮すると香具山を指したのだと思います。

【追記】神武天皇皇后の媛蹈鞴五十鈴媛の縄文語解釈を参考にすると、「エエニ・エ」は、「三輪山」とも解釈できます。「五十鈴(エン・シ・テュ)」は「突き出た・山の・岬(三輪山)」で、「事代主の子」であることを示しています。とすれば、御間城入彦五十瓊殖の意味は、「卑弥呼の婿で事代主の子」ということになり、媛蹈鞴五十鈴媛とほぼ同じ意味となります。(※御間城姫=媛蹈鞴五十鈴媛の項参照
●狗古智卑狗=「コ・チャ・シ・ク」=「婿の館の大夫=崇神天皇の館の大夫」
 「チャ」は「館」。「シ・ク」の「シ」は「大きい」、「ク」は「人」で、「大きな人」を指し、「大夫」を意味します。

彦五十狭芹彦ひこいさせりひこ=【伊聲耆掖邪狗】

●伊聲耆掖邪狗=「エサンケィ・エ・カィ・イェ・ケィ」=「岬、そこで折れている石の頭(崖)」
 「エサンケィ」は元来「頭を前に出している者」の意で「岬」のこと。「エ」は「そこで」「そこに」「それで」など、動詞の意味を補完する役割があります。「カィ」は「折れる」、「イェ」は「石」、「ケィ」は「頭」。つまり、「岬で折れている石の頭」。つまり、岬の先端の崖を表したのだと思います。
●彦五十狭芹彦=「シ・コッ/エン・サン・シリ/シ・ク」=「磯城/突き出ている岬の断崖/大夫」
 「シ」は「大きな」、「コッ」は「窪地」で、「大きな窪地」。「磯城」のこと。「エン」は「突き出た」、「サン」は「岬」、「シリ」は「シル」の三人称で「水際の崖」の意。「シ・ク」は「大夫」。つまり、「磯城/突き出ている岬の断崖/大夫」で、伊聲耆掖邪狗と同義になります。

彦狭島ひこさしま=【載斯烏越】

●載斯烏越=「サン・シ・ウン・エテュ」=「出崎の峰にある岬」
 「サン」は「出崎」、「シ」は「山(峰)」、「ウン」は「そこにある」、「エテュ」は「岬」。つまり「出崎の峰にある岬」。
●彦狭島=「シコッ/サン・シ・ムィェ」=「磯城/出崎の峰の頂」
 「シコッ」は「大きな窪地」で「磯城」のこと。「サン」は「出崎」、「シ」は「山(峰)」、「ムィェ」は「ムィ」の三人称で「頂」の意。つまり「出崎の峰にある岬」。載斯烏越と同義です。

御間城姫みまきひめ媛蹈鞴五十鈴媛ひめたたらいすずひめ

崇神天皇=神武天皇だとすると、当然同一人物として疑わなければならない人物に、それぞれの皇后の御間城姫と媛蹈鞴五十鈴媛がいます。
●御間城(姫)=「メ・メ・コ」=「きらめく泉(鏡=卑弥呼)の婿」=御間城入彦(崇神天皇)の姫
 「メ」は「きらめく」、「メ」は「泉」、「コ」は「婿」、つまり「鏡の婿」で、「卑弥呼の婿」の意。
 日本書紀に記される崇神天皇の皇后である「御間城姫」は、単に「御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)の皇后」であることを指した名に思えます。
●御真津(比売)=「メ・メ・チャ」=「きらめく泉(鏡=卑弥呼)の館」
 古事記には「御真津比売」と記されますが、日本書紀の御間城姫よりも重要な意味を含んでいるように思えます。「津」を「館」を意味する「チャ」とすると、「卑弥呼の館の姫」ということになり、「卑弥呼に仕えた姫」と捉えることができます。「津」を格助詞の「ツ」と捉えても、「卑弥呼の姫」となり、同じ意味になります。
●媛蹈鞴五十鈴(媛)=「ヘ・メ・タッタ/エン・シ・テュ」
 =「光る泉の踊り(鏡の巫女=卑弥呼)/突き出た山の岬(三輪山)」
 媛蹈鞴五十鈴媛は日本書紀の表記です。
 「ヘ・メ」は「光る泉」、「タッタ」は、「踊り」を意味する「タ」×2で、「踊り踊り」。祭祀の様子を表します。つまり、「ヘ・メ・タッタ」で、「鏡の祭祀」となり、「鏡の巫女(卑弥呼)」を表します。これで御真津比売と同じ意味です。
 「エン」は「突き出た」、「シ」は「山」、「テュ」は「岬」。「突き出た山の岬」の意となります。古事記記載の三輪山の大物主を父に持つ誕生譚を考慮すれば、「三輪山」を指したのだと思います。
 つまり、媛蹈鞴五十鈴媛は、卑弥呼と三輪山の姫という意味です。
●比売多多良伊須気余理(比売)=「ヘ・メ・タッタ/エン・シ・ケィ・イェ・ル
 =「光る泉の踊り(鏡の巫女=卑弥呼)/突き出た山の頂の石の頭(三輪山)」
 比売多多良伊須気余理比売は古事記の表記です。
 「ヘ・メ・タッタ」は、媛蹈鞴五十鈴媛同様、「鏡の巫女(卑弥呼)」を表します。
 「エン・シ」で「突き出た山」、「ケィ」は「頭」の意で「頂」。「イェ」は「石」、「ル」は「頭」。「突き出た山の頂の石の頭」となります。これも「三輪山」の頂の磐座を指したのだと思います。
 つまり、比売多多良伊須気余理比売は、媛蹈鞴五十鈴媛と同様に、卑弥呼と三輪山の姫という意味です。
●富登多多良伊須岐(比売)=「ピテュ・タッタ/エン・シ・ケィ」
 =「岩崎の踊り(岩崎の家系の巫女=玉櫛媛)/突き出た山の頂(三輪山)」
 富登多多良伊須岐比売は古事記に記される別名です。母の勢夜陀多良比売が、三輪山の大物主に「ホト」を突かれて生まれたことから名付けられ、後に、「陰部」を指す「ホト」という名を嫌って「比売多多良」に改名したとあります。まったく真面目に聞く気になれません。古代人の明らかな嘘にひっかかってはいけません。
 「ホト」は、「ピテュ」で「岩崎」です。「タッタ」は前述のように「巫女」。つまり、「岩崎の巫女」です。ここで「岩崎」が何を示すかですが、これは経津主に比定した孝霊天皇のことで、その流れを汲んでいることを表すのではないかと思います。
 「ピテュ・タッタ」で「岩崎の巫女」。「エン・シ」で「突き出た山」、「ケィ」は「頭」の意で「岬」。これも「突き出た山の頂」となり、「三輪山」を指します。 つまり、岩崎の巫女と三輪山の姫という意味です。
媛蹈鞴五十鈴媛の誕生譚から、「事代主」と「大彦」と「孝昭天皇」を同一人物とする
   媛蹈鞴五十鈴媛の周辺に、古代人がたくさんの物語を創作してくれたおかげで、多くの謎解きができます。事代主が誰なのか、三嶋溝クイが誰なのか、果ては台与の人物比定のヒントまで与えてくれます。まさに、語るに落ちるというところです。
 まずは、同一人物と仮定した御間城姫とともに、与えられている情報を整理しましょう。

■御間城姫(崇神天皇皇后)
<日本書紀> 【名】御間城姫  【父】大彦命(開化天皇の兄)
<古事記> 【名】御真津比売

■媛蹈鞴五十鈴媛(神武天皇皇后) ※神武天皇と敵対する国津神系の姫
<日本書紀> 【名】媛蹈鞴五十鈴媛  【父】事代主  【母】玉櫛姫(三嶋溝クイ姫)
<古事記> 【名1】比売多多良伊須気余理比売  【名2】富登多多良伊須岐比売  【父】三輪大物主神(大国主の和魂) 【母】勢夜陀多良比売
<先代旧事本紀> 【父】事代主 【母】活玉依姫

 このままでは、何も見えてきませんから、名前の縄文語を参考に解読してみます。
 まずは、 御間城姫ですが、古事記の名である「御真津比売」は、前述の縄文語解説で記したように「卑弥呼に仕える姫」です。言外に得られるヒントはこれぐらいでしょうか。
 次に媛蹈鞴五十鈴媛、比売多多良伊須気余理比売ですが、これは「卑弥呼と三輪山の姫」の意です。そして、改名する前の別名、「富登多多良伊須岐比売」は、「岩崎の巫女と三輪山の姫」です。つまり、「岩崎の巫女の姫」から、後に「卑弥呼の姫」となっているということです。卑弥呼は独身ですから、「岩崎の巫女の姫」が卑弥呼に仕える養女になったとすれば、辻褄が合います。「岩崎」は前述の通り、孝霊天皇を指しますから(※「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍内の孝霊天皇の項参照)、名前の意味を額面どおりにとれば、「孝霊天皇の娘の巫女」ということになるのですが、世代から考えて、「ピテュ(岩崎)」の流れを孝霊天皇の子の孝元天皇(長髄彦)が受け継いでいるか、あるいは孝霊天皇の孫娘にあたる姫を「岩崎の巫女」と呼んだのだと思います。孝元天皇の名前の意味に含まれる「崖」や「深い岬」が「岩崎」の言い換えともとれます(※長髄彦の項参照)。かなり論拠に乏しいですが、こう考えることであとの系図の辻褄が合ってきます。

 まず、日本書紀において、五十鈴姫の母が三嶋溝クイ姫である玉櫛姫となっていることから、
「孝元天皇」=「三嶋溝クイ」
 ということになります。つまり、
「孝元天皇(長髄彦)の娘」=「玉櫛姫(三嶋溝クイ姫) 」=「勢夜陀多良比売」=「活玉依姫」=「媛蹈鞴五十鈴媛の母」=「御間城姫(御真津比売)の母」
 となります。

 次に、媛蹈鞴五十鈴媛の父親を確定させます。 五十鈴媛の誕生譚と御間城姫の系譜から、
 「大物主」≒「三輪山」≒「事代主」=「大彦(御間城姫の父)」
 となります。
 大物主から事代主までを「=」で結ばないのは、事代主が大物主と別人なのは明らかですし、大物主をすでに亡くなっている大国主の和魂とすれば、事代主は父の大国主が祀られている三輪山を守る役割を担っているということで理解が可能になります。
 重要なのは、「御間城姫」=「媛蹈鞴五十鈴媛」とすれば、
 「事代主」=「大彦」
 という公式があぶり出されるということです。
 「大彦」と言えば、開化天皇の兄で、孝元天皇の第一皇子です。また、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比コ」に比定する説があります。これが事代主とはどういうことでしょうか。事代主は大国主(=安寧天皇※「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍内の大国主の項参照))の子であると考えるのが妥当に思えるので、大彦の系譜を疑ってみます。
 日本書紀記載の媛蹈鞴五十鈴媛の父母を思い出してみます。父は事代主で、母は玉櫛姫(三嶋溝クイ姫)です。「三嶋溝クイ」=「孝元天皇」ですから、事代主は孝元天皇の娘婿ということになります。つまり、
 「大彦」=「事代主」=「孝元天皇の娘婿」=「孝元天皇の第一皇子」
 ということになります。
 そして、事代主は大国主の子ですから、大国主と同一人物と仮定した安寧天皇の周辺に、孝元天皇の娘婿となる事代主に該当する人物がいるはずです。もちろん、通説では、安寧天皇は第三代天皇、孝元天皇は第八代天皇であり、時代が異なるので、そのような人物がいる訳はありません。しかし、縄文語解釈で、第六代の「孝安天皇」を「建御名方」としているので(※「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍内の孝安天皇の項参照)、少なくとも安寧天皇の次の懿徳天皇から孝安天皇までは、安寧天皇(大国主)の子として疑うことができます。(※こうすることで、妃や皇后の候補となるハエの娘が、何世代にも渡って登場するという矛盾が解消できます。)加えて、異名を複数持つ人物を重ねながら探ります。
 すると、安寧天皇の周辺で、孝元天皇の娘を妃とする者がただ一人いることに気づきます。孝昭天皇です。
 孝昭天皇の皇后候補を挙げてみましょう。

 ・世襲足媛(尾張連祖の瀛津世襲の妹)─<日本書紀>本文、<古事記>
 ・渟名城津媛(磯城県主葉江の娘)─<日本書紀>第一の一書
 ・大井媛(倭国豊秋狭太媛の女)─<日本書紀>第二の一書

 この中で孝元天皇の娘は「大井媛」です。孝元天皇の項で考察したように、
 「豊秋狭太彦(倭国豊秋狭太媛の夫)」=「孝昭天皇の義父」=「孝元天皇」 =「長髄彦」
 です。

 さらに孝昭天皇が事代主である傍証があります。
 事代主神が後世、鴨氏の氏神として葛城の鴨都波神社の主祭神となっていることを考慮してみます。そして、孝昭天皇が本拠とした掖上池心宮 、陵墓として比定されている掖上博多山上陵の場所を調べてみます。なんと、鴨都波神社の南に接しています。
 →畝傍山南繊沙渓上陵(google map)

 この事代主(孝昭天皇)は、かなり奥が深く、厄介です。この人物周辺に関する記載がこれだけ多いのは、大国主(安寧天皇)、卑弥呼(百襲姫)、長髄彦(孝元天皇)、崇神天皇(神武天皇)らに負けず劣らず活躍した人物だったということです。そのいくつかを挙げてみます。

 事代主を祀る鴨氏の中で真っ先に思いつく代表的な人物と言えば、鴨氏始祖の賀茂建角身です。神武東征神話に八咫烏として神武天皇を先導した人物です。建角身自身からは、
 ・神魂命の孫。
 ・建玉依比古と建玉依比売命の二人の子供がいる 。
 という情報が得られますが、 これだけではまったく面白くないので、建角身と同一人物と思われる「奇日方天日方武茅渟祇」を調べてみます。「武茅渟祇」は「タケチヌツミ」で、同一人物と考えない方が不自然なくらいに名前が似ています。奇日方天日方武茅渟祇は崇神天皇の時代に、大田田根子の祖父として日本書紀に名前が見えます。建角身は神武天皇時代、武茅渟祇は崇神天皇時代ですが、
「創作神話の神武天皇」=「実在の崇神天皇」(※古代天皇家系図参照)
ですから、逆にまったく時代が一致します。さらに、武茅渟祇と同一人物と目される人物に先代旧事本紀に登場する「天日方奇日方」がいます。そこに面白いことが書かれています。

・事代主は三島溝杭の娘、活玉依姫との間に一男一女をもうけた。
・その子の天日方奇日方は神武天皇時代に、政の大夫となった。
・天日方奇日方命の妹の姫鞴五十鈴姫命が神武天皇の皇后になり、綏靖天皇と彦八井耳を産んだ。

 つまり、
「賀茂建角身」=「奇日方天日方武茅渟祇」=「天日方奇日方」=「事代主の子」=「姫鞴五十鈴姫の兄」
 です。 さらに、
「姫鞴五十鈴姫(神武天皇皇后)」=「御間城姫(崇神天皇皇后)」
 という情報を加えてみます。話を分かりやすく、物語風にまとめると、
「大国主(安寧天皇)の子である事代主(孝昭天皇)は、長髄彦(孝元天皇)の娘の大井媛(玉櫛姫、活玉依姫)を娶り、賀茂建角身と御間城姫(姫鞴五十鈴姫)の二人の子をもうけた。御間城姫は後に卑弥呼(三炊屋媛、倭迹迹日百襲姫)に仕えさせ、崇神天皇(神武天皇)に嫁がせた。最終的に、事代主の子の賀茂建角身は崇神天皇と手を組み、卑弥呼、長髄彦の邪馬台国を滅ぼした」
 ということになります。
つづきは書籍で
※「邪馬台国 欠史八代 縄文語解説」書籍掲載の一部を抜粋したものです。
◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/ほか

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