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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百十一回 ~ 第二百二十回】

第二百十一回第二百十二回第二百十三回第二百十四回第二百十五回第二百十六回第二百十七回第二百十八回第二百十九回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~武蔵野・総国・安房/阿波・淡路島・近江~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「武蔵野」地名由来(『武蔵野及其周辺』鳥居竜蔵 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【私は要するにムサシの地名はもと朝鮮語と同じく、モシシの苧種子の意味であって、最初武蔵の一カ所に小部分にこの苧を殖えた所の名で、これが次第に広い武蔵の地名となったものと思う。】

×「武蔵/胸刺」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』)
【中島利一郎氏は、この武蔵というのは朝鮮語のムネサシ(宗城・主城)から来たものだとして、次のように書いている。
 「武蔵が朝鮮帰化族の中心たるを示す言葉として、宗城・主城の意を以て、そうした地名が生じたものと思われる。而して同じ『国造本紀』に、武蔵国造と胸刺国造と二国造の併立するは、同族の分裂して勢力を相争うに基するのではないか。<中略>
 此の如くして、武蔵国内だけでも朝鮮帰化族は二分裂し、武蔵、胸刺と各割拠するの形成を取ったが、其の意は共に同じく「宗城」「主城」である。<中略>」
 ほかにもまた焼畑を意味した朝鮮語のサシから来たという説もあるが、どちらにしろ武蔵あるいは武蔵野という言葉が朝鮮語からきたものということに変わりはない】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「武蔵/胸刺」=「ムィサ・シ」=「入り江のほとりの・大地、山」

 縄文語は「東京湾、入間湾のほとりの大地」という意味です。

  関東の似た語源には、千葉県に武社国造の領域にあたる武射郡があります。



×「武社/武射」地名由来(『関東の史蹟と民族』須田重信 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先ず上総の国には武射がある。さらに関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処で一寸説明して置くが、上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻生、麻績、麻生等々である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「武社/武射」=「ムィサ」=「入り江のほとり」

現在の山武市周辺、九十九里浜の海沿いで、縄文時代は丘陵の麓まで海が湾入していました。なんでもかんでも朝鮮語由来にしないでいただきたい。


「上総、下総のフサは麻の意」という説は有名な説ですが、これもまたデタラメこじつけ物語です。斎部広成の「古語拾遺」が元です。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「総国」の由来(『古語拾遺』斎部広成)要約
【天富命が天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波国麻植(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け一方は黒潮に乗って東に向かった。東の陸地に上陸した彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている。麻の栽培して成功した肥沃な大地が「総の国」で、天日鷲命の後裔の阿波の忌部の居住地は、「阿波」の名をとって「安房」としたのだという。】(wikipedia)

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「総」=「プッ・サ」=「川口の・浜」
◎縄文語:「安房/阿波」=「アゥ・ワ」=「枝分かれた(隣の)・岸」(※海を挟んだ隣の土地)

「総国」の由来も「阿波/安房」の由来も縄文語で、地勢そのままを表現しています。

「淡路島=アゥ・テュ=枝分かれた・峰」「淡海(近江)=アゥ・メ=枝分かれた泉」も類似語源です。古文献が必死にウソをついていることが分かります。

余談ですが、近つ淡海(近江)の対比であげられる遠つ淡海(遠江)は「テューテュ・モィ=出崎の・入り江」で、浜名湖の地勢を指していると考えられます。


■山武市周辺(旧武射郡)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都]八王子・王子~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「八王子」「王子」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』)
【1969年の東京新聞夕刊には『地名風土記』というのが連載されていたが、そのうち東京都北区「王子と八王子」についての項をみるとこうである。
 「北区の王子は、もと独立した区であった。これと東京西郊の機業都市八王子とは、何か関係がありそうに見える。
 王子は京浜東北線王子駅にある王子神社、八王子は中央線高尾駅の北西、八王子城跡にある八王子神社が地名のもとで、この点は似ている。ところが、王子神社は紀州の熊野神社摂社にまつる諸王子中第一の若一(じゃくいち)王子を勧請したもので、八王子神社は、牛頭天王すなわち素戔嗚尊の五男三女、つまり八人の王子王女をまつったものであり、京都の八坂神社の系統に属し、この点は王子神社とは違う。
 しかし、熊野神社の本宮の祭神家都御子神(けつみこのかみ)は、素戔嗚尊の別名で、ここにも八王子をまつってあるので、「王子」と「八王子」は、ここでつながってくるといえなくもないのである。(浅井得一=玉川大教授)」】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「八王子」=「ハッタ・オ・ウシ」=「淵・尻・のところ」=淵の出口(入口)

 全国の八王子の地名、山名はすべて「淵の出口」となっています(※第三十八回コラム参照)。牛頭天王の八王子説の大元は京都の牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗、山王神道の神仏習合です。
 つまり、後世の尾ひれを除くと「琵琶湖の出口」という意味です。

■八王子 ※淵の出口(山から平地に川が出るところ)


■京都の牛尾山(八王子山) ※琵琶湖の出口


 八坂神社の由緒には「新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を奉斎した」とありますが、もちろんこれもウソです。日本の神様はこういった漢字表記こじつけ説ばかりです。北方系渡来人が日本先住民になりすますために物語を創作したのは火を見るより明らかです。

◎縄文語:「八坂(神社)」=「ヤン・サン・カ」=「陸岸にある・出崎の・ほとり」(華頂山のほとり)
◎縄文語:「新羅」=「シロケ」=「山裾」(華頂山のふもと)
◎縄文語:「牛頭」
=「コッチャ
」=「谷の入口」=白川と鴨川の合流地点
or「コッ・チャ」=「窪地の・岸」=八坂神社本殿下の池の岸

■八坂神社/白川


 鴨川支流の「白川」については、wikipediaにも命名由来がありますが、漢字こじつけ説なのでまったく信用できません。こんなことをしていては渡来人の思う壺です。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
【流域一帯が花崗岩を含む礫質砂層で構成されており、川が白砂(石英砂)に敷き詰められているようである様から命名されたと言われている。】(wikipedia)

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白(川)」=「シ・オ」=「山・裾」 (※山裾を流れる川)

 白川は東山の山裾を流れて八坂神社の北側で鴨川に合流する川です。 新羅の縄文語解釈とも辻褄が合います。

 今後何度も登場すると思いますが、「新羅」は単に「山裾」の意です。発音が似ているので「新羅」という漢字が充てられた結果、逐一新羅系渡来人の物語が登場します。

 素戔嗚尊は、私見ではオオワタツミと同一人物であり、日本書紀の一書に記される故国の「新羅=山裾」の「曽尸茂梨」は大分の国東半島がふさわしく思えます。

◎縄文語:「大分」=「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「大きな・険しい・石の・岬の・入り江」
◎縄文語:「碩田」=「オオ・ケィ・タ」=「大きな・頭の・石」

◎縄文語:「曽尸茂梨」=「シ・スマ・ル」=「大きな・石の・頭」

 ちなみに朝鮮半島南東部の「新羅」も縄文語(アイヌ語)由来で「山裾」の意の可能性が高いと言えます。なぜなら、東夷、南蛮、朝鮮半島南部、日本全域は、縄文語(アイヌ語)を共有する同系の民族だったからです。(※「日没する国のエラーコラム」参照)
 東アジアの歴史では、大陸南部、朝鮮半島南部、日本全域の倭人を代表とする南方系民族と、中原の漢人、朝鮮半島北部の北方系遊牧民族の対比関係があり、南方系は残念ながら、大陸、朝鮮半島、日本において、その後の歴史でいずれも北方系に敗北し、歴史や文化を消される結果を招いています。中国の長江文明、朝鮮半島の任那(辰国、三韓もか)、日本全国の縄文人、弥生人、大規模古墳人しかり。
 新羅は「斯蘆(シロ)」であっても、縄文語で「シ・オ=山・裾」の解釈が可能です。京都の白川と同じ解釈です。  


 話が飛んで、遅くなりましたが、北区の「王子」も地名由来に神社は関係ありません。

◎縄文語:「王子」 =「オ・ウシ」=「川尻(or山尻)・のところ」

 「王子」は石神井川と隅田川(旧入間川)の合流地点を表しています。

 余談ですが、ついでに石神井も縄文語解釈すると

◎縄文語:「石神井」 =「シアン・クッチャ」=「大きな・湖沼の入口」

 となり、石神井池の入口を指していることが分かります。


■東京都北区王子周辺 ※隅田川と石神井川の合流点。

■石神井池


 全国の「王子」はすべて川尻(川の合流地点)、あるいは山尻です(※第三十八回コラム参照)。「オ・ウシ」という地名に「王子」という漢字が充てられて、王子信仰が相乗りしたと考える方が自然です。

 また、「王子」に関連して、皇子塚、王子塚、皇子山という古墳が散見されますが、これらの古墳も「山尻、あるいは、川の合流地点(川口)に築かれた塚」の意です。築造年代を見ると、縄文語の使用状況が分かります。

【参考】皇子塚、王子塚、皇子山のつく古墳
◎皇子塚古墳(群馬県藤岡/六世紀後半/円墳)⇒google map
◎皇子塚古墳(長野県上田市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
◎王子塚古墳(長野県上田市/五世紀中頃から六世紀前半/帆立貝形古墳)⇒googlemap
◎皇子山古墳群(滋賀県大津市/三世紀末~四世紀後半/前方後円墳、円墳)⇒googlemap



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]百済木~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「百済木」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』)
【東京都史跡調査課の稲村坦元・豊島寛彰氏による『東京の史蹟と文化財』にこうある。
「八王子市付近には飛鳥・奈良時代に朝鮮から移住して来た人々が造ったと思われる朝鮮式の古墳石室が見いだされ、これらの人々は仏教伝来後もなお旧習に従って古式の古墳を営んだものと思われる。<中略>
 奈良朝初め頃には、・・・・・・武蔵にも沢山の朝鮮人が集団移住した。高麗郡、新羅郡の郡名や「百済木」の地名が出来、北多摩郡の狛江郷(現狛江市)も高麗人から来た地名であり、南多摩郡の古墳に朝鮮式のものがあるのもその結果である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「百済木」(埼玉県深谷市)=「クッチャ・ケ」=「湾や湖沼の入口・のところ」

 高麗、新羅、百済の地名が登場すると、もれなく半島系渡来人が活躍する物語が語られるのですが、繰り返しになりますが、日本全国共通で「高麗=コ・マ=湾曲する・谷川」(狛江も同源)「新羅=シロケ=山裾」「百済=クッチャ=湾や湖沼の入口」です。「高麗」は大磯の高麗山など「コ=湾曲する山(丸山)」の意で用いられることもあります。

 今回登場する「百済木」も同様です。

 「百済木遺跡」は凸版印刷深谷工場付近に豪族居館がありました。北方の荒川沿いには「鹿島古墳群(鹿島古墳公園)」があります。これは六世紀末~8世紀初頭の群集墳なので、確かに北方系渡来人が来た可能性はないとは言い切れません。この一帯は七世紀ごろから男衾郡に含まれますが、有名な郡司に小川町の和紙を特産品にした壬生吉士福正(平安初期)がいて、新羅系渡来人と目されています。

 しかし、それでもその命名由来は先住民の縄文語です。
 「百済木」の縄文語解釈である「湾や湖沼の入口のところ」は荒川支流の「吉野川、和田吉野川沿いの低地の入口」という意味です。 また、郡司の名前も  

◎縄文語:「壬生」=「メ(=メ)」=「泉」

 の意なので、吉野川の流域の泉を指したとも捉えられます。 鹿島古墳群も縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「鹿島」
=「カ・マ」=「表面の(浅い)・谷川」
or「カ・メ」=「表面の(浅い)・泉」


 となります。


■鹿島古墳群



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都]調布・砧・狛江・亀塚古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「調布」「砧」「狛江」地名由来(『地名風土記』東京新聞夕刊(年月日不明)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【調布市、世田谷区砧町(現世田谷区砧)、北玉郡狛江町(現狛江市)は、いずれも東京西郊の多摩川に近いところにあり、この三つの地名は、ともに七、八世紀のころ移住してきた朝鮮からの帰化人に縁がある。かれらは朝廷に麻布を調(みつぎ)として出していたが、その布を織ることが調布で、布を水にさらし、木または石の大の上でたたいてやわらかにし、つやを出す作業がである。砧は衣板(きぬいた)の略で、その台のことも砧という。
 狛江の狛は、高句麗のことを日本で高麗とよんだのからきており、ここは668年に滅びた高句麗の遺民である高麗人(こまびと)が、はるばるやってきて住みついた狛江郷のあとである。
 調布という地名は、調布市のほか、世田谷区や大田区に町名としていくつもあり、大田区の田園調布などは有名であるが、いずれも多摩川に近いところにある。現在は青梅市内となっており、町名としても消えてしまったが、西多摩郡にはかつて調布村があった。これも多摩川に沿っており、布をさらすのに多摩川の水が使われたことはいうまでもない。(浅井得一=玉川大教授)】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「調布」
=「チゥ・ペ」=「水流、水脈の・水」
or「チ・ぺ」=「したたる・もの」
(※湧水があるところ)

 もし、租庸調の「調」であれば、この町名としていくつもあるという「調布」を冠する地域はすべて「調として布を納めていた」ことになります。また、「調」は絹、布、地方の特産物を納めることですから、「調絹」「調紙」「調漆」といった組み合わせの地名があってもおかしくはありませんが、聞いたことがありません。非常に疑わしいです。

 縄文語では「湧水があるところ」と解釈できます。東京都の湧水マップを見れば一目瞭然です。縄文語に「調布」という漢字が充てられて物語が創作されただけではないでしょうか。

【調布、大田区、青梅市の湧水】
・調布市=実篤公園、深大寺等、豊水期29か所、渇水期22か所(調布市HP)
・田園調布=田園調布せせらぎ公園(大田区HP)
・大田区=清水窪弁財天、旧六郷用水脇、旧六郷用水沿い洗い場跡、水神公園(大田区HP)
・青梅市調布(青梅市南部)=「山から平野に移りかわる 青梅の地形は湧水が多く、 寺社の立地や生活用水として 利用されてきました。 」(『青梅環境ニュース』2018/3/15)
⇒ 東京の湧水マップ - 東京都環境局


◎縄文語:「砧」 =「キヌ・チャ」=「葦などが生えている湿原の・岸」(※仙川の岸)

 「砧」は「仙川沿いの低地の岸辺」を指したものと思われます。世田谷区のハザードマップをご参照下さい。⇒世田谷区ハザードマップ


◎縄文語:「狛江」 =「コ・マ・エ」=「湾曲した・谷川の・頭」
(※野川の旧流路)

 狛江は高麗人の拠点とした説で有名ですが、筆者にはこれも疑わしく見えています。
 狛江の縄文語解釈は、野川の旧流路を指したと捉えられます。湾曲して入間川に合流していて、その湾曲の頭の部分が狛江です。⇒google画像検索

 狛江には亀塚古墳(五世紀末~六世紀初頭)があり、これも「この地を開拓した高麗人の墳墓」だという説がありますが、高句麗が滅亡したのは668年ですから、それ以後に高麗人が来たとすると、時代の辻褄が合わなくなってしまいます。周辺からは、縄文の敷石住居、弥生の方形周溝墓なども発見されています。

◎縄文語:「亀塚」 =「コ・テュ」=「持ち手の曲がりのような湾曲した・小山」=(丸い小山)

 この亀塚は、大磯の高麗山と同じ意味です。単に「鍋の持ち手の形」に似ているので名づけられただけです。形状は帆立貝形古墳です。

 亀塚古墳からは「金銅製毛彫飾板」が出土し、竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗古墳壁画との関係が注目されましたが、「高句麗由来の出土物=高句麗人の墳墓」となる訳ではありません。出土した後漢鏡の同笵鏡が大阪の古墳からも見つかっているので、畿内政権とのつながりがあったとされています。
 また、 狛江以外にも「亀塚」を冠する古墳は各地に見られますが、いずれも「高句麗」との関連を見つけることができません。「丸山」を表現したのであれば辻褄が合います。

 この亀塚古墳が属する狛江古墳群は五世紀前半から築造されています。前述のとおり、周辺には縄文や弥生の遺跡もあります。関東の大規模古墳はその名称が七世紀まで縄文語解釈可能なので、それまでは南方系の先住民勢力の方が強かったはずです。

 ヤマト王権の民族が北方系渡来人に入れ替わるのが六世紀中頃~七世紀ですから、関東に勢力を扶植するのはそれ以降の可能性が高いと言えます。考えられるのは、国司、国衙あたりからで、 上代日本語で漢字こじつけ物語が創作されるのはその頃からです。それが記紀風土記の記載内容へとつながっていきます。
 とすれば、必然的に地方は国衙周辺と他地域で言語が異なる二重構造だったということになります。

■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山。


 何度も言いますが、記紀風土記や俗説の地名由来潭の創作フローは以下です。

1)先住民の縄文語(アイヌ語)
2)渡来人による漢字表記
3)漢字表記、発音からの(朝鮮半島由来の)物語創作


 これで地名由来潭のほぼすべてを説明することができます。分かりやすい例をあげると次のようになります。

■「常陸国」命名由来(風土記)
◎1)縄文語:「ピタ・チャ(orチャ)=小石河原の・岸(or河口)」
(常陸那珂川の岸、河口)
⇒「2)常陸」⇒「3)日本武尊が袖を浸した/道がまっすぐ(直通ひたみち)」

■「吾妻」命名由来(記紀)
◎1)縄文語:「アッ(orアケ)・テュ・マ=片割れの・峰の・谷川=断崖の谷川」
(吾妻川の断崖)
⇒「2)吾妻」⇒「3)日本武尊がああわが妻よと言った」

■「木更津」命名由来(俗説)
◎1)縄文語:「キサ・テュ(orチャ)=耳のように出っ張った・岬(or岸)」
(木更津の岬)
⇒「2)木更津」⇒「3)日本武尊が君去らずと言った」

 このように漢字こじつけ説は極めて疑わしいのです。 特に風土記はこの作業フローが顕著で、地方の先住民文化をことごとく上代日本語で塗りつぶしています。記紀の日本神話も同類です。八百万の神の由緒も推して知るべしです。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都/神奈川県]多摩川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「多摩川」地名由来(『多摩町の今昔/多摩川について』多摩町教育委員会(年月日不明)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
多摩の名は、和名抄には多摩と書いて太婆(たば)と訓ずるとあり、万葉集には多麻(たま)と書いている。前者をタバと読むのは、奥多摩の丹波山に源を発するからだといっている。万葉の多麻と書いているのは、武蔵国ではこの沿岸で麻を多く栽培していたから、この名が出たといわれている。
 日本には六玉川と称して玉川は六カ所あり、ここの多摩川は古来から調布の玉川と称している。奈良朝の頃、朝鮮の帰化人が武蔵国の開発に当り、この多摩に済み麻を栽培して、その遷移で布を織り、朝廷に貢とした。その布を多摩川で晒し、布の目をつまらせるために砧で打った。このため調布・砧・染屋等の地名が残り、高麗人が住んででいたので狛江という名が残っている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「多摩(川)/玉(川)」 =「タン・マ」=「こちらの・谷川」
◎縄文語:「丹波」 =「タンパ」=「こちら岸」or「こちらの岬」
◎縄文語:「染屋」 =「サ・ヤ」=「隣の・岸」
※「調布」「砧」「狛江」については、前回第二百十四回をご参照ください。

 そもそも地名に物語を付加する必要などありません。縄文語では、そのままズバリ地勢を表現しています。「タン=こちらの」は地名に頻繁に登場する表現で、「ア=一方の」と同じく、近隣に対比となるより規模の大きい同様の地勢が存在する場合がほとんどです。多摩川の場合は、北方の荒川、入間川、利根川との対比と考えられます。多摩川だけポツンと離れた大河川です。

 解釈確度を高めるために、ほかの例をご紹介します。wikipediaに「玉川」の一覧があります。ほとんどが支流となっています。本流であれば、近隣に大きな川があります。 ⇒wikipedia(玉川)
 「荒川(=一方の川)」も同様です。⇒wikipedia(荒川)

■東京湾に注ぐ大河川と縄文海進



 丹波山については、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典に以下のようにあります。

【 山梨県北東端,多摩川最上流の丹波川流域を占める村。地名の由来には,峠を意味する「タワ」,「タバ」にちなむとする説など諸説がある。】(コトバンクより引用)

 これも縄文語で「こちら岸」or「こちらの岬」と解釈すれば解決します。wikipediaに「兵庫県の丹波山とは関係がない」とありますが、同様の地勢に同じ漢字が充てられただけです。全国で散見される「豊=トヤ=海岸」を冠する地名などと同様です。

■丹波山村



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都]瀬戸岡古墳群・あきる野~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「あきる」地名由来(『関東の史蹟と民族』須田重信 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【狭山の西南方面、多摩川から秋川が別れるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸には阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルとは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも云えるし、陸奥(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である】

×「瀬戸岡古墳群」について(『武蔵野を掘る』甲野勇 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大塚(古墳)の北、千二、三百メートル、畑地のつきるところに瀬戸岡部落が見える。この西はずれ平井川の段丘の上に、瀬戸岡古墳群がある。ここの古墳は、すべて地下を掘り下げて造った石室の上に石を積み重ね、わずかばかりの槌をおおった一種の積石ヅカである。その数は二十ぐらいもあろうか。この古墳は昭和二十五年、後藤守一教授の指導のもとに国立高校、立川高校をはじめ三つの高校の歴史研究部員がそろって発掘調査を行った。・・・・・・
 後藤教授はいろいろな点を検討して、この古墳群の築造年代を奈良時代、造った人々を朝鮮の帰化人と推定している。このあたりは和名抄にのせられた小川郷、延喜式にある小川牧に相当する。この牧の経営は、牧畜に経験ある帰化人によってなされたものではないだろうか】
※瀬戸岡古墳群は現在では古墳時代終末期(七世紀)の築造とされており、出土した蔵骨器は奈良時代の石室再利用と考えられています。

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「あきる」 =「ア・キ」=「片割れの、一方の・山」 (天竺山)
◎縄文語:「瀬戸岡」=「シテュ・オケ」 =「大きな山の走り根(支山)の・裾、麓・のところ」

 縄文語の「あきる=片割れの山」はあきる野市中央部にある「天竺山」を指したと思われます。三方の峰から独立した低山です。
 瀬戸岡地区の北方は西方の秩父山塊からの山の走り根の麓です。
 
 あきる野地域は縄文時代の遺跡が豊富で、弥生から古墳時代前期までの遺跡があります。古墳時代前期の古墳からは東海系、近畿系の土器が出土しています。大規模古墳の時代までは縄文語を共有していますから、これらの遺跡を残したのは南方系先住民である倭人ということになります。
 瀬戸岡古墳群は確かに群集墳で終末期にあたり、のちの小川牧もありますから、北方系渡来人が埋葬されている可能性はあります。
 しかし、先住民の遺跡を考慮すれば、地名由来までそうとは限りません。

■天竺山 ※片割れの山。一方の山。

■瀬戸岡古墳群




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都/埼玉県]~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「野火止」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「高麗人によっては特に野火によって火田を作ること、即ち焼き畑が盛んに行われた」とは須田重信氏の『関東の史蹟と民族』にもある。そしてサシといったその焼き畑と野火止というのは、斉藤鶴磯氏の『武蔵野話』をみるとこういうものだったのである。
「按ずるに野火止の名はむかし火田というて原野に火をつけ草を焼いてこやしとなしその所へ蕎麦などの種をおろして稼収(うけつけとりおさめ)する事にて、是を焼畑という。今に秩父、信州などにてやきかり蕎麦といえる是なり。其原中の燃る火の人家へ及ぼさぬ為に、塚堤など築きて野火を止めるゆえに野火止の名あるなり。」】

×「野火止」地名由来(wikipedia)
【昔、焼き畑が行われた頃に、その火が人家に及ばないように、塚や堤を築いて止めたことによる『埼玉県地名辞典 韮塚一三郎 関東図書』。 古くは野火止塚に由来し、文明年間に記された『廻国雑記』にもこの地名が読みと取れるという。 <中略>
 なお、東京都東久留米市にも同名の地名があり、東村山市にも野火止小学校が存在するが、これらは「のびどめ」と読む。新座市内でも新座市立野火止小学校のように、読みを「のびどめ」とする場合もある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「野火止(塚)」 =「ヌ・トモ(・テュ)」=「野原の・中(・の小山)」

 東久留米市、東村山市、そして新座市の野火止も同じような地勢です。縄文語解釈もありきたりですが、「焼き畑の野火を止めるための塚」よりは説得力がありそうに思えますが、いかがでしょうか。


■新座市野火止



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[東京都]浅草・檜前・白鬚神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「浅草・檜前」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【浅草寺のことについては、野田宇太郎氏の『浅草観音』をここに紹介しなくてはならない。野田氏もこのなかで、鳥居竜蔵氏などの文章ほかを引きながらいろいろと考えをすすめ、「江戸の華として歴史に誇る下町文化は、小さな(一寸八分の)仏像をもたらした帰化人によって仏教の民間信仰が盛んになった浅草文化に根ざしている」として、さいごに、詩人らしい想像力を馳せてこう書いている。
朝鮮からの帰化人の子孫であった檜前は、武蔵野のはて、太平洋に面した大きな河口附近に放牧に適する原野をみつけ、大和高市の里を出て祖先伝来の馬牧をはじめることになった。その浅草は全くの楽園のようなところで、やろうと思えばいつでも海のすなどりさえ出来た。この檜前大和から大切にして武蔵に持参したのは一体の小さな朝鮮渡来の仏像であったが、ようやく武蔵野のほとりにも帰化人の住民も多くなると共に仏教が民間信仰としてひろまり、個人的信仰として檜前の家の内に祀る仏像を一目おがみたいという者が多くなった。その結果檜前は馬牧の傍らにささやかながら仏堂を造って、人々の信仰を許さねばならなかったが、浜成も武成(檜前兄弟)も世を去ったあと、浅草海浜の馬牧と共に、観音菩薩の信仰はいよいよひろまり、檜前の家系はやがて馬牧よりも、寺をまもることを正業とするようになった。<後略>」】

×『浅草寺縁起』から(wikipedia)
【 飛鳥時代の推古天皇三六年(六二八)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「浅草」 =「アサ・クッチャ」=「湾の奥の・入口」 (東京湾の入口)
◎縄文語:「檜前」 =「ペナ・クマ」=「川上の・横山(横に平べったい山)」 (上野の山/奈良盆地南部の低山)


 大和の高市郡にも檜前の地名があるので上記由来がこじつけ創作されたとするのが妥当です。高市郡は渡来人の集住地です。
 檜前は縄文語で「ペナ・クマ=川上の・横山」の意で、浅草の場合は西方の「上野の山」、大和高市郡の場合も奈良盆地南部の低山を指したと思われます。

 檜前兄弟が渡来人であったかどうかは不明です。縄文語由来の名前ですから先住民であったことも十分に考えられます。

 このように、同じ地勢を指した縄文語に同じ漢字が当てられ、由来が結びつけられたり、また、神社仏閣が設けられたりする例が無数にあります。 次に紹介する白鬚神社も同様です。


■浅草寺 ※西方に上野の山。

■奈良件高市郡明日香村檜前 ※奈良盆地南部の低山。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白鬚神社」について(『東京の史蹟と文化財』(東京都史蹟調査課 稲村坦元・豊島寛彰) ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【社伝に天暦五年(九五一)に近江国滋賀郡打下から勧請祭祀したといわれ、近江の本社は比良明神と称して、祭神は猿田彦命であるが、元来は海を渡ってきた朝鮮の神で、武蔵にも上代朝鮮帰化人が来住したので、それらによって祀られたものと思われる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白鬚」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」(滋賀県高島市白鬚神社/墨田区白鬚神社)
◎縄文語:「比良」 =「ピラ」=「崖」
(※朝鮮語でも「崖」の意なので、朝鮮半島南部、南方系由来(東夷南蛮、倭人と同系)の言葉の可能性あり。)


 もともと「白鬚=山裾の石」の由来に渡来人は関係ありません。「ピラ」はアイヌ語でも朝鮮語でも「崖」を指します。いずれにせよ滋賀県の白鬚神社周辺の地勢と完全に一致しています。

 墨田区の白鬚神社は「大地のはずれ」の意で、「川端」を指しています。白鬚神社の多くは、山裾や川端にあります。発音を機縁にして勧請されたと考えられます。


■滋賀県高島市白鬚神社 ※琵琶湖の岬の神社。

■墨田区白鬚神社 ※大地のはずれ。川岸。


 神社仏閣にはこのような「縄文語」の発音を機縁にして勧請された例が多数見受けられ、主に漢字表記にこじつけて生み出された神様が創作物語とともに付加されています。 当該地域に実際に渡来人が移り住んだかどうかは不明ですが、もし何かが祀られていたとするならば、大元は先住民の自然崇拝です。見事に北方系渡来人が作り上げた神様に上書きされています。


【「縄文語」を機縁にして勧請された神社仏閣の一例】 
※いずれも先住民の自然崇拝が起源。一般に語られる神様、由緒の多くはデタラメです。(※詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照

・八幡神社=「ペッチャ」=「川端」
・富士神社=「ペッチャ」=「川岸」
・愛宕神社=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山 or 尾根の先がたんこぶのように高くなっているところ」
・薬師神社、薬師寺=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(川端、池端、湖畔など)
・八王子神社=「ハッタ・オ・ウシ」=「淵・尻・のところ」(淵の出口、川が山から平地に出るところ)
・王子神社=「オ・ウシ」=「尻・のところ」(山裾・川尻、河口、川の合流点)
・稲荷神社=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」(高台の祭場)
 

騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~木更津/馬来田、金鈴塚古墳出土金銅荘環頭大刀(高麗剣)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「金鈴塚古墳」について(『金鈴塚』保坂三郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【金鈴塚古墳は墳丘の全長約100メートルの前方後円墳である。かつては二子塚古墳と呼ばれていたが、1950年に行われた発掘の結果、未盗掘であった横穴式石室内から金製の鈴5つを始めとする多くの貴重な遺物が出土し、金鈴にちなみ金鈴塚古墳と改名された。 出土品の内容などから金鈴塚古墳は六世紀末 - 七世紀初頭、前方後円墳の最末期に造られた古墳であると見られている。被葬者は小櫃川流域の首長であり、馬来田国造との説がある。前方後円墳最末期の古墳としては全国有数の規模であり、横穴式石室の一部は加工された切石を使用しており、当時としては新しい技術も用いて築造されている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「馬来田」 =「マ・タ」=「奥の・方」

 縄文語解釈が地勢と完全に一致しています。
 また、金鈴塚の旧名である「二子塚」は一般的に前方後円墳を指したするのが通説ですが、縄文語では別の解釈が可能です。

◎縄文語:「二子塚」 =「プッチャ・コッ・テュ」=「出口のない・窪地、谷の・小山」(周濠、周壕のある古墳)

 全国の二子塚古墳は不明なもの以外はすべて周濠、周壕のある古墳です。(※第三十六回コラム参照


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「金鈴塚古墳出土金銅荘環頭大刀」について(『金鈴塚』保坂三郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この種、柄頭に環がついている環頭大刀は、『万葉集』などに「高麗剣(こまつるぎ)」といわれているものであって、その環の顕著なため「和蹔(わざみ)が原」(今の関ヶ原)とか、「わがこころ」など「わ」にかかる枕詞として使われているほど、古代人の心を惹いたものであった。それはその名の示す通り、本来わが国固有のものでなく、高麗即ち朝鮮からもたらされたもので、その意義においても貴重視されていたに相違ない。】

○「環頭大刀」について(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 」※「コトバンク」より引用)
【上古時代の刀剣の一種で,古くは高麗剣 (こまつるぎ) とも称していた。柄頭の装飾の形状が環状をなすもの。起源は中国で、日本には古墳時代中期に伝播した形式。「こまつるぎ」は【万葉集】では「わ」の枕詞として用いられている。種類としては環頭にまったく文様のないものや,鳳凰文,竜文などを配したものがある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗」 =「コ」=「持ち手の曲がり、湾曲したもの」(湾曲した頭の剣)
⇒文化遺産オンラインHP(金銅荘環頭大刀)

 つまり、高麗剣とは「湾曲した頭の剣」という意味です。百済や新羅でも多く出土していますが、「高麗」を冠している理由はこれで解けます。「高麗からもたらされた」という意味ではありません。

 金鈴塚古墳が属する祇園・長須賀古墳群は、五世紀半ばから築造されている古墳群なので、縄文語を使う南方系先住民(東夷、南蛮、朝鮮半島南部、倭人)の墳墓です。上代日本語を使う北方系勢力(高句麗、百済)の伸張は、飛鳥白鳳時代以降です。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百二十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~群馬県/妙義山・波己曽社・村主・勝~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「妙義山・波己曽社、村主、勝」について(『上野における韓来文化』尾崎喜左雄 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【神社の名称には村主、勝(すぐり)等が数個見え、明らかに朝鮮系統と考えられるし、妙義神社の古称波己曽神社も「こそ」を含んでいるので、「ひめこそ」神の伝承から新羅系とも考えられる】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「妙義山」 =「ムィ・オ・キ」=「頂が・たくさんある・山」
◎縄文語:「村主/勝」 =「シ」=「山」
◎縄文語:「波己曽」 =「パケ・サ」=「岬の・前」

 全国の神社の由来は縄文語の漢字表記にこじつけて創作されたものです。「八幡神社/富士神社/薬師神社」であれば「川沿い」、「愛宕神社」であれば「ぽつんと離れた山」、「八王子神社」であれば「淵の出口」等々。(※詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照

 この妙義神社も同様です。漢字表記からいちいち朝鮮半島由来の連想ゲームをされては困ります。妙義山の写真をご覧下さい。縄文語解釈そのまま「頂がたくさんある山」です。

■妙義山 ※頂がたくさんある山。(出典:wikipedia 
■妙義神社(旧波己曽社) ※岬の前の神社。


 「村主」「勝」も古代朝鮮語の「族長」を意味するというのが通説ですが、これも縄文語が漢字こじつけ物語で上書きされている可能性があります。妙義山を指す「シ=山」という縄文語にたまたま発音が似ているので「村主」などの漢字が充てられ、朝鮮半島由来とされてしまったということです。

 六~七世紀以降、日本全国に建てられた神社仏閣の由来は、北方系渡来人が自らの出自を正当化するために創作している可能性が非常に高いので、真に受けて解釈すると、日本中朝鮮半島系渡来人の子孫だらけになってしまいます。
 古墳時代以前からの伝承がある神社の由来も後世の創作です。もし、本当の由来を記しているならば、先住民の自然崇拝、原始信仰となっているはずです。例えば、大神神社の三輪山、金鑚神社の御室山などですが、これらは後背の山が信仰の対象となっています。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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