書籍購入 電子書籍閲覧方法ご意見・ご感想
サイトトップ/日出ずる国のエラーコラム(第七十一回~第八十回)

日出ずる国のエラーコラム

【 第七十一回 ~ 第八十回】

 邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。

日出ずる国のエラーコラム
第八十回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~山城国/大和国/河内国編~
 今回より、各国逸文の縄文語解釈を進めます。今回は山城国、大和国、河内国です。

【今回取り上げる内容】
<山城国>
伊奈利社/賀茂社/宇治/桂里
<大和国>

<河内国>百済村


※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「山城国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「ヤマ・シオ」=「山の・山裾」

□□□「伊奈利社」命名由来 □□□

×山城国風土記逸文(『延喜式』神名帳頭註)
「風土記にいう。伊奈利というのは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等の遠祖、伊侶具の秦公が穀物を多く収穫し、裕福になった。それで、餅を的としたが、白い鳥に変って飛び去った。そして、山の峯にいて、そこに稲が生えた。よって社の名とした。その子孫は、先祖の過ちを悔い、社の木を引き抜き、家に植えて祭った。今、その木を植えて育てば幸福を得、枯れれば幸福にはならない」

◎縄文語:「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=高台の祭場=稲荷山山頂の祭場⇒google map

 稲荷神は「稲成り」の意で「穀物の神」だという説が一般的ですが、こういった漢字表記にこじつけた伝承も神様も残念ながらすべてデタラメです。

 稲荷は「高台の祭場」を表し、伏見稲荷の場合は、稲荷山の山頂を指します。

 伏見稲荷大社の主祭神である、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は、稲荷山の地勢を表します。

●「ウカノミタマ」=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=磐座⇒写真(google画像検索)

 「ウカ≠食物」です。穀物神などではありません。名前が似ているのでトヨウケと同一神ともされますが、

●「トヨウケ」=「トヤ・ウカウェ」=「海岸の・石が折り重なったところ」=丹後半島、伊勢志摩の岩礁

 です。トヨウケは丹波から伊勢に移ってきてますが、両地方の共通点は岩礁です。同じ地勢であれば、同じ名称であっても不思議はありません。どんな文献に何が書いてあろうとも、記紀、風土記以降に編纂されたものであれば、こじつけ創作の可能性が非常に高いので、まったく信用するに値しません。

 また、稲荷神の眷属とされる狐も

●狐=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」=稲荷山
⇒写真(google画像検索)

 で、これも稲荷山を指しています。岩にお揚げをお供えしてもまったくの無駄です。

 さらに、全国にある狐塚古墳は、そのほとんどが河岸段丘や崖の上の立地、あるいは葺石の古墳となっています。(【統計】狐塚古墳が「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」である確率は、32/38=84.2% ※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)

 ついでに、愛宕山も、

●愛宕=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」

 の意です。(【統計】愛宕山が「ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」の確率は、124/126=98.4% ※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)

 愛宕神社に祀られるカグツチも、

●カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」=愛宕山の地勢
⇒google ストリートビュー(※嵐山渡月橋から中央右奥)

 です。カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」などではありません。生まれた時にイザナミの陰部を火傷させたというのももちろんウソです。

 「カッ・ク=形が・弓」の山は類例が豊富にあるので、解釈はまず間違いありません。下部の【参考】例をご覧ください。風土記に「鹿が来た」「鏡を安置した/落とした/似ている」のような由来譚があるものもありますが、それらは悉く漢字表記にこじつけた創作物語です。風土記がいかにデタラメを書いているかが分かります。

 日本の八百万の神の多くは、アマテラスを初め、縄文語を理解できない古代人による漢字表記の語呂合わせから生まれていて、伝承の由来、由緒の多くは残念ながらデタラメです。
 これらの神々の大元は先住民による自然崇拝で、それら本来の意味は、このような創作物語に上書きされて消されています。六~七世紀に北方系渡来人による王朝交代が起こった結果です。代表的な神社の地勢も【参考】例として付記します。


【参考】
他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
※以下過去のコラムより再掲。
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
鏡山(豊前国)(香春岳/福岡県田川郡香春町)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
・鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー

【参考】代表的な神社の地勢。
・「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」 ※石清水八幡宇佐神宮鶴岡八幡ほか、全国の八幡神社の地勢。
・「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢
・「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」※熊野本宮大社前の山
・「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
・「薬師(神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺)※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
・「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢

□□□「賀茂社」命名由来 □□□

×山城国風土記逸文(『釈日本紀』卜部兼方 巻九「頭八咫烏」)
「山城国風土記にいう。可茂の社。
 可茂というのは、日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に天降りした神、賀茂建角身命が神倭石余比古(かむやまといはれひこ=神武天皇)の先導役に立ち、大倭(やまと)の葛木山の峯(みね)に宿り、 そこより次第に遷り、山代国の岡田の賀茂に至り、さらに山代河(木津川)の沿いに下り、葛野河(かどのがは=桂川)と賀茂河との合流点に至った。 賀茂川を見渡して、『狭くはあっても、石の多い川の清んだ川である』と仰った。よって、名づけて石川の瀬見の小川という。
 その川より上り、久我国の北山の麓に鎮座した。その時より、名づけて賀茂という。

 賀茂建角身命、丹波国の神野の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)を娶って生ませた子を玉依日子(たまよりひこ)といい、次を玉依日賣(たまよりひめ)という。
玉依日賣が石川の瀬見の小川で川遊びした時、丹塗矢が川上より流れ下ってきた。これを取って、寝床にさし置くと、遂に妊娠して男子を生んだ。

 成人して、外祖父の建角身命、広い屋敷を造り、多くの扉を設け、たくさんの酒を造り、神を集めて、七日七夜、宴をし、そうして孫に言った。 「汝の父と思う人にこの酒をのませなさい」と。孫は坏を捧げて、天に向かって祭ろうと思い、屋根の瓦を突き破り、天に昇った
外祖父の名によって、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と名づけた。

 いはゆる丹塗矢は、乙訓郡の社に鎮座する火雷神(ほのいかつちのかみ)である。

 可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉里の三井の社に鎮座している」

◎縄文語: 賀茂、鴨、加茂=「コ・マ」=「湾曲した・川」⇒google map

 賀茂川は、一般的に、上賀茂神社付近に拠点を構えた賀茂氏の名に由来すると言われています。

 「カモ」の縄文語解釈は、幾通りもの選択肢があり、難易度が高そうです。上記では、上流部が蛇行している様を表現しました。

 賀茂氏一族の発祥の地とされる葛城の高鴨神社を縄文語解釈してみます。

●高鴨=「トンケ・コ・マ」=「沼尻の・湾曲した・川」⇒google map

 「葛城川沿いの沼尻」の意とすれば、地勢と完全に一致します。

  さらに千葉県鴨川市を流れる「加茂川」を見てみると、こちらも同様に湾曲した川です。⇒google map

  ただ、類例が少ないのと、地勢の表現が一般的すぎるので、周辺地域の解釈も含め、検討する必要があります。

■■■「宇治」命名由来 ■■■

×山城国風土記逸文(由阿『詞林采葉抄』第一「宇治郡」)
「山城国風土記にいう。宇治というのは、応神天皇の皇子、宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)が桐原の日桁の宮を造り、宮室とした。この名により、宇治と名づけた。元の名は許の国という」

◎縄文語: 宇治=「ウテュ」=「間」⇒google map

 言うまでもありませんが、現在の宇治市です。

 当初、「巨椋池と琵琶湖の間」の意かと考えていたのですが、「宇治川の谷地形」を指したのではないかと考えるようになりました。

 アイヌ語には「テュンナィ(=ウテュ・ナィ)=谷川」の言葉があり、また、山城国逸文に登場する「許の国」を縄文語解釈すると、

●許(の国)=「コッ」=「谷、谷間」

 の意となるからです。「宇治」=「許の国」で解釈も地勢も完全一致しています。

 似た由来では、「塩尻」があります。

●塩尻=「シ・ウテュル」=「山の・間」⇒google map

 決して「塩の道の終点」の意味ではありません。「両側から山が迫っている地勢」を表しています。上田市の「塩尻」も同様の地勢です。⇒google map

□□□「鳥部里」命名由来 □□□

×山城国風土記逸文(四辻善成『河海抄』)
「山城の国の風土記にいう。南鳥部の里。鳥部というのは、奉公伊呂具(はたのきみいろぐ)が餅を的にすると、鳥に変化して、飛び去ってしまった。その所の森を鳥部という」

◎縄文語:「トラィぺ」=「湿地の水たまり」⇒google map

 鳥部里は、奈良から平安期の山城国愛宕(おたぎ)郡止利倍(度利戸)で、東山山麓、清水寺周辺に比定されています。

 縄文語解釈は、発音が完全一致した単語があるので、まず間違いはないと思われます。龍が棲むとされる八坂神社の池などを見れば、地勢とも完全に一致します。

 餅が鳥になることなどあり得ません。

□□□「桂里」命名由来 □□□

×山城国風土記逸文(大島武好『山城名勝志』)
「山城の国の風土記にいう。月読尊が天照大神の勅を受けて、豊葦原中国に降り、保食(うけもち)の神の許に到る。時に、一つの湯津桂の樹があった。月読尊はその樹に寄って立った。その樹のあるところを、今、桂里と名づけた」

◎縄文語:桂=「コッチャ」=「谷の入口」⇒google map

 比定地は、京都市西京区桂地区です。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。丹波と京都を結ぶ古道であった老ノ坂峠(大枝峠)の入口ではないでしょうか。老ノ坂峠手前の桂坂地区の縄文語解釈は、

●桂坂=「コッチャ・サン・カ」=「谷の入口の・坂の・ほとり(or上)」

 こちらも地勢と完全に一致します。

◆◆◆「大和国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「ヤ・ムンテュ」=「岸の・草むら」

◆◆◆「河内国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「カィ・ワ・テュ」=「折れ曲がった・岸の・岬」=上町台地

□□□「百済村」命名由来 □□□


×河内国風土記逸文(『日本声母伝』)
「もともと大和言葉がかえって韓国語のようになることがある。<中略>百済の人が渡来すると、多くは河内国久多羅郡に住まわされた。この郡は分かれて、その中にクタラ邑があった。敏達天皇の時に、阿耨多羅三藐三菩提寺(あのくたらさんみゃくさんぼたいじ)などを建てた。だから(クタラという)地名にしたと河内国風土記に見える。昔、そのくたら郡に住まわされたことによって、後に日本中に住んだ百済人もクタラ人と呼ぶようになった。本来クタラは河内の地名であって、韓語で百済(ペクチェ)国を「クタラ」というのではない」

◎縄文語:百済=「クッチャ」=「湾、川等の入口」

 これは、第四十三回コラムでも取り上げているので、以下再掲します。

 「クッチャ」というのは、そもそも「湾や、川等の入口」につけられた地名で、同じ地勢に同じ地名が与えられていたものです。「百済」は他地域にも見られる地名ですが、これまでの地名由来譚の縄文語解釈も勘案すると、発音を機縁として「百済人が住まわせられた」か、あるいは、由来がはっきりしない場合は、発音や「百済」という漢字表記から「百済人が住んだ」という物語が創作されたか、いずれかの可能性が高いと思われます。「高麗(=「コ・マ=湾曲した川」)」とまったく同じロジックです。

 なぜ「百済」という漢字が充てられたかと言えば、それは朝鮮半島の「百済」も「黄海の入口の国」を表した「クッチャ」と倭人から呼ばれていたからではないでしょうか。それは同時に朝鮮半島南部にも倭人の勢力圏があった可能性を示しています。

※ほか、新羅、加羅、高麗については第四十三回コラムの「新羅、加羅、百済、高麗のデタラメ地名由来について」をご参照ください。


日出ずる国のエラーコラム
第七十九回 肥前国風土記のウソを徹底的に暴く!~松浦は「入り江の入口」の意、アユは釣れても珍しくない!~

 ついに豊後国、肥前国風土記の縄文語解釈も終わり、これで、常陸国、播磨国、出雲国を含め、写本が現存する風土記の縄文語解釈がすべて終わりました。あとは逸文を残すのみとなります。

 決して縄文語(アイヌ)解釈のすべてが妥当だとは言い切れませんが、それでも各地の地勢と一致する確度の高い解釈を多数発見することができました。それは、言うまでもなく、創作色の強い風土記の内容よりもはるかに現実味のある解釈です。

 関東から九州までの古墳名、そして各国風土記の縄文語解釈。これらの作業を終え、総括して言えることは、

「大規模古墳の時代までは確実に日本各地で縄文語が使用されている痕跡がある一方、風土記は縄文語の意味を敢えて無視(or否定)しているような上代日本語の創作物語で満たされている」

 ということです。

 ヤマトの古墳でさえ、実に6世紀まで縄文語解釈できるものが散見されます。いったい、いつ、どこで、上代日本語になったのか。書記官の言語だけが特殊だったのか、あるいは書き言葉と話し言葉が不一致だったのか。縄文語を話す勢力と上代日本語の勢力の交代があったのか。まだまだ分からないことだらけです。

 確実に言えることは、風土記記載の漢字表記にこじつけた内容は、明らかに全てデタラメだということです。同じ視点で見るならば、記紀の漢字表記にこじつけた内容もすべて疑うことができます。
 邪馬台国隠蔽の意図を含んで書かれた記紀の神話。このような先住民の歴史や文化を塗りつぶすような態度で書かれているのは、いったいいつ頃までなのでしょうか。同時期編纂の風土記を見るに、それが全編に及んでいてもまったく不思議はありません。
 消えた先住民の歴史や文化を発掘するための作業はまだまだ続きます。

 次回から逸文の縄文語解釈を進めたいと思います。

【今回取り上げる内容】
肥前国/基肆郡/長岡神社/姫社郷/養父郡/鳥樔郷/曰理郷/狭山郷/三根郡/物部郷/漢部郷/米多郷/神埼郡/三根郷/船帆郷/蒲田郷/琴木岡/宮処郷/佐嘉郡/小城郡/松浦郡/鏡渡/褶振峯/賀周里/遭鹿駅/登望駅/大家嶋/値嘉郷/杵嶋郡/嬢子山/藤津郡/能美郷/託羅郷/塩田川/彼杵郡/浮穴郷/周賀郷/速来門/高来郡/土歯池

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「肥前国」命名由来 ◆◆◆

×風土記:「肥前国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、崇神天皇の世、肥後国益城郡の朝来名(あさくな)の峯に打猴(うちさる)と頸猴(くびさる)という二人の土蜘蛛がおり、百八十人余りの手下を率いて皇命に従わず、降伏しなかった。
 天皇は肥君らの祖、健緒組(たけをくみ)を遣わして征伐させた。健緒組はそれを承って悉く滅ぼした。それから国を巡って観察した。八代郡の白髪山で日が暮れ、宿をとった。その夜、虚空に火が現れて自ら燃え、だんだんと下り、この山について燃えた。健緒組は驚き、不思議に思った。
 健緒組は朝廷に参上した際に『勅命を受けて、遠く西の戎を攻めたところ、刀の刃を濡らさずして、賊ども自ずと滅びました。天皇の霊威でなければ、こんなことができるでしょうか。」と申し上げた。
 天皇は「今聞いたことは、昔より聞いたことがない。火が下った国であれば、火の国というべきだろう」と仰った。
 健緒組は火君健緒紕(ひのきみたけをくみ)の姓名を賜り、この国を治めさせた。よって火の国という。後、肥前と肥後に分けた。

 また、景行天皇が球磨贈於(くまそ)を誅して筑紫国を巡狩した時、葦北の火流れの浦より船出して、火の国に行幸した。海を渡るほどに、日が暮れ、暗くて船をつけるところが分からなくなった。忽然と光り輝く火が現れ、遥か行く先に見えた。
 天皇は「ただ火のところを目指せ」と仰った。ついに岸に辿り着くことができた。
 天皇は勅して曰く、『火が燃えたところ何という国だ?この火は何のための火か?』と。土地の人は『これは、火の国八代郡の火の邑です。ただ、この火の主は知りません』と答えた。 天皇は群臣に詔して曰く、『今、この燃える火は人のものではない。火の国と名づけた由縁を知った』と仰った」

◎縄文語:肥国=「ピ」=「石ころ」 ⇒google map

 風土記の内容は肥後の国の出来事です。よくもまあ、こんなデタラメを長々と作ったものです。それが千年以上たった現代でも肥国の命名由来として言い伝えられているのですから、記紀や風土記の歴史に対する罪は、非常に大きいと言わざるを得ません。

 「ピ=石ころ」は、どう考えても阿蘇山のカルデラ周辺に散らばる石や岩のことです。
「阿蘇山 石」でgoogle検索した結果をご覧ください。明らかすぎて見るまでもないかもしれません。⇒google 検索(阿蘇山 石岩)

▼▼▼「基肆郡(きのこおり)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:
「昔、景行天皇が巡狩した時、筑紫国御井郡高羅の行宮にいて国内を遊覧すると、霧が基肆の山を覆っていた。天皇は勅して曰く、「この国を霧の国と呼ぼう」と仰った。後の人、改めて基肆国(きのくに)と名づけた。今は郡名となっている。」

◎縄文語:「ケナ」=「川端の木原」google map

 比定地は佐賀県三養基郡(みやきぐん)の北東部です。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。「ケナ=川端の木原」。毛野、紀国と同語源です。地勢とも完全に一致しています。

□□□「長岡神社」命名由来 □□□

×風土記
:「景行天皇が高羅の行宮より還幸し、酒殿の泉の辺りにいた。ここで食事をとる時、纏っていた鎧が異常に光り輝いた。そこで、卜部の殖坂(ゑさか)に占わせた。卜部は奏して「この地に神がいて、その鎧をたいへん欲しがっています」と言った。
 天皇が「本当にそうであるならば、神社に奉納しよう。これを長き世の財(たから)となすべし」と言った。これによって永世社(ながよのやしろ)と名づけた。後の人が改めて長岡社という。その鎧を結ぶ紐はことごとく腐っているが、兜と鎧の板は今も残っている」

◎縄文語: 「ナィ・カ・オケ」=「川・岸の・裾」=川沿いの段丘の端⇒google map

 比定地は鳥栖市永吉町の永世神社です。

 縄文語解釈そのままの地勢です。「川沿いの段丘の端」。

□□□「酒殿泉」命名由来 □□□

×風土記
:「この泉は秋の九月の初めに白くなり、味は酸っぱくて臭いので飲むことができない。春正月には清く冷たくなり、人が飲めるようになる。よって酒井の泉という。後の人、改めて酒殿泉という」

◎縄文語:
「サッコッ・テュンナィェ」=「ふだんは水がなく雨が降った時だけ水が出る枯れ沢の・谷川」
⇒google map

 比定地は鳥栖市飯田町重田の「しげぬいの井」か、酒井地区だと考えられています。(※参考:佐賀新聞)

 間違いなく、酒は関係ありません。「宝満川支流の泉」ことを指したのだと思います。「しげぬいの井」だとすれば、山下川、あるいは秋光川沿いの泉ということになります。⇒google ストリートビュー(山下川)

■■■「姫社郷(ひめこそ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「この郷に川があり、名を山道川という。その水源は郡の北の山から出て、南に流れて御井大川(みいのおほかは)に合流する。昔、この川の西に荒ぶる神がいて、道行く人は半数が殺された。
 そこで、祟る理由を占い求めると『筑前国の宗像郡の人である珂是古(かぜこ)に吾が社を祀らせよ。もし願いが叶えば、荒々しい心を起こさないだろう』と亀卜に出た。
 そこで、珂是古を探して社に神を祀らせた。珂是古は幡(はた)を捧げて祈祷し、「本当に私の祭祀を欲するならば、この幡は風の吹くままに飛んでいき、その神の辺りに堕ちよ」と言った。そして幡を掲げて風に放ちやった。その幡は空を飛行していき、御原郡の姫社の社に堕ち、また、再び還り飛んでいって、山道川の辺りの田村に堕ちた。それで珂是古は神の居場所を知ることになった。
 その夜、珂是古の夢を見た。臥機(くつびき)や絡?(たたり)(※いずれも機織器具)が舞い遊び出てきて、珂是古を圧し驚かした。珂是古は、その神が機織の女神であると知った。それから社を建てて祀った。それ以来、道行く人は殺されなくなった。よって姫社にという。今もって郷の名とする」

◎縄文語:
「ピンナィ・クッチャ」=「細い川の・入口」or
「ピンナィ・コッチャ」=「細い川の・沢の入口」
⇒google map

 比定地には姫古曽神社が建ちます。
 山下川と本川川の合流点。本川川の入口。縄文語解釈そのままの地勢です。

▼▼▼「養父郡(やぶ)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:
「昔、(景行天皇)が巡狩した時、この郡の百姓がこぞって集まったので、天皇の犬が出て吠えた。そこに、一人の産婦が犬を見つめると、犬は吠えるのを止めた。よって犬の声止むの国といった。今は訛って養父郡という」

◎縄文語:「ヤン・ペ」=「内陸の方の(or陸につく)・ところ」⇒google map

 比定地は鳥栖市養父町周辺です。

 縄文語解釈そのままの地勢です。
 但馬国、三河、近江にも、養父郡、養父郷があります。共通点は川沿いということです。

◎但馬国養父郡⇒google map
◎三河国養父郷⇒google map
◎近江国養父郷⇒google map

■■■「鳥樔郷(とす)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、応神天皇の世、鳥屋をこの郷に造り、様々な鳥を集めて養いなづけ、朝廷に献上した。よって鳥屋郷という。後の人は、改めて鳥樔郷という」

◎縄文語:
「トセイ」=「小高い丘、小山、丸山」or
「ト」=「小山、丸山」
⇒google map

 比定地は鳥栖市です。

 縄文語解釈は、朝日山公園が妥当です。⇒google ストリートビュー

■■■「曰理郷(わたり)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、筑後国の御井川の瀬がとても広く、人も獣も渡るのが困難であった。景行天皇が巡狩の時、生葉山(いくはやま)について船山とし、高羅山について梶山として、船を造り備え、人や物を漕ぎ渡した。よって日理郷という」

◎縄文語:日理=「ワッタ」=「淵」⇒google map

 比定地は鳥栖市水屋町・高田町・安楽寺町付近とされています。

 縄文語解釈の「ワッタ=淵」は筑後川が深くなっている箇所を指したものと思われます。
 そして、登場する山の縄文語解釈。高羅山には高良大社が建ちます。

●高羅山=「コッ・ウン・ル」=「窪地・にある・岬」
●梶山=「コッチャ・ヤマ」=「窪地(or谷)の入口の・山」
⇒google map

 南西方向の峰先には、藤山甲塚古墳があります。

●甲塚=「コッ・プチ・テュ」=「窪地(or谷)の・入口の・小山」
●藤山=「プッ・チャ(orチャ)・ヤマ」=「入口の・縁の(or口)・山」
(福岡県久留米市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

 高羅山、梶山の解釈と見事に一致します。
 また、これまでの縄文語地名解釈によると、「船山」は決して「船を作る山」ではありません。

●船山=「ペナ・ヤマ」=「上流の・山」
●生葉山=「エンコ・パ・ヤマ」=「岬の・先端の・山」


 の意です。比定地は耳納連山です。

■■■「狭山郷」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が行幸した時、この山の行宮から出歩き、四方を望むと、はっきりと見えた。これによって分明村(さやけむら)といった。今は訛って狭山郷という」

◎縄文語:「サン・ヤマ」=「棚のような平らな・山」⇒google map

 比定地は鳥栖市南西部です。

 縄文語解釈そのままの地勢です。見渡す限り「平べったい山」だらけです。 ⇒googleストリートビュー

▼▼▼「三根郡(みね)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:
「昔はこの郡と神埼郡を合わせて一つの郡とした。それで、海部直鳥(あまべのあたいとり)が願い出て三根郡を分け、神埼郡の三根村の名によって郡名とした」

◎縄文語:「メナ」=「上流の細い枝川」⇒google map

 比定地は佐賀県三養基郡上峰町周辺です。

 縄文語解釈は、これ以上ないぐらい的確な表現です。「上流の細い枝川」。まさにその通りの地勢で、発音もほぼ一致しています。確度の高い縄文語解釈です。

■■■「物部郷」命名由来 ■■■

×風土記:「この郡に神社がある。神の名を物部経津主神(もののべふつぬしのかみ)という。昔、推古天皇が来目皇子を将軍として新羅を征伐させた。その時、皇子は勅を承り、筑紫に至り、物部の若宮部を遣わして社をこの村に建て、その神を鎮め祀った。よって物部郷という」

◎縄文語:「マィ・ノ・ヌ・プ」=「金属音を・よく・聞く・者(orところ)」⇒google map

 比定地は佐賀県三養基郡みやき町中津隈板部付近と言われています。

 縄文語解釈は、「物部」氏がかつて銅鐸祭祀をしたことに由来しています。風土記の由来譚は全般的にデタラメですから、物部郡の場合は、ただ「祭祀をする場所」を指しただけで、物部氏はまったく関係なかったかもしれません。

 また、物部神祖のニギハヤヒの名前も銅鐸祭祀を窺わせる名を持っています。縄文語解釈すると、「天照」は太陽神ではなく「銅鐸祭祀をする者」となります。

●ニギハヤヒ=天照/國照/彦(天火明櫛玉饒速日尊)=「ウ・マィ・エ・タ/ケ・ニッ・エ・タ/シク」=「互いに・響く金属音・それで・踊る/光る・棒・それで・踊る/大夫」

※詳しくは第二十四回コラムをご参照ください。

■■■「漢部郷」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、来目皇子が新羅を征伐しようとして、忍海の漢人に勅して、この村に据えて兵器を造らせた。よって漢部郷という」

◎縄文語:
「ア・ヤ・ウン・ぺ」=「一方の・岸・に(orが)ある・ところ」or
「アゥ・ヤ・ウン・ぺ」=「枝分かれた・岸・に(orが)ある・ところ」
⇒google map

 比定地は三養基郡みやき町原古賀綾部周辺です。

 この漢字表記から短絡的に「漢人が住んだ」という由来とするのはかなり危険です。
 類例として「高麗(こま)」という地名がありますが、その由来はすべての地で「高麗人が住んだ」ということになっています。しかし、「高麗」を縄文語解釈すると、

●高麗=「コ・マ」=「湾曲した・川」

 という意味になり、各地の「高麗」の地勢と完全に一致します。地勢を漢字にこじつけることはできませんから、記紀、風土記が漢字表記にこじつけて由来譚を創作したと考える方が妥当です。
 あるいは、実際に高麗人が住んだとしても、似た発音を機縁として、そのような差配が行われたのかもしれません。

 同様に、百済も「クッチャル=川や湾などの入口」の意で、百済人が住んだという由来も疑わなければなりません。
 これら、朝鮮半島系の地名由来については、第三十四回コラム「本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」、および、第四十三回コラム「新羅、伽耶、百済、高麗のデタラメ地名由来について」の項をご参照ください。

■■■「米多郷」命名由来 ■■■

×風土記:「この郷に井戸がある。その名を米多井(めたゐ)という。水の味は塩辛い。
昔、井戸の底に海藻(め)が生えていた。景行天皇が巡狩した時、この井戸の底の海藻をご覧になり、勅して海藻生ふる井と言った。今、米多井と訛り、郷の名となった」

◎縄文語:米多=「メ・チャ」=「泉(湧水)の・岸」⇒google map

 比定地は三養基郡上峰町大字前牟田の上米多、下米多周辺です。小河川が多数あります。池沼や湧水があったのかもしれません。

 隣接するみやき町も、

●みやき=「メ・ヤ・ケ」=「泉(湧水)の・岸の・ところ」

 と解釈でき、「米多」と完全に一致しています。また、「みやきの名水(湧水)」も有名です。

 言うまでもなく、井戸に海藻は生えません。

▼▼▼「神埼郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:
「昔、この郡に荒ぶる神がいて、往来の人々が多く殺害された。景行天皇が巡狩した時、この神は和らいだ。それよりこの方、災いが起こることはなくなった。よって神埼郡という」

◎縄文語:「コ・チャ・ケ」=「湾曲した・岸の・ところ」⇒google map

 比定地は神埼市南部です。

 縄文語解釈は、筑後川とその支流が湾曲しているところと捉えられます。地勢と完全に一致しています。
 また、後述する神埼郡蒲田郷も「蒲田=コ・チャ=湾曲した・岸」の意で、まったく同じ解釈ができます。神埼郡の名は、蒲田郷付近で湾曲する「佐賀江川」を指したと考えられます。極めて確度の高い縄文語解釈です。

■■■「三根郷(みね)」命名由来 ■■■

×風土記:「この郷に川がある。その水源は郡の北の山から出て、南に流れて海に入る。年魚(あゆ)がいる。景行天皇が行幸した時、御船でこの川の湖から来て、この村で宿をとった。天皇勅して曰く、「昨夜は安らかに眠れた。この村は天皇の御寐安の村(みねやすのむら)と言うがよい」と仰った。よって御寐と名づけた。今は「寐」の字を改めて「根」としている」

◎縄文語:「メナ」=「上流の細い枝川」⇒google map

 比定地は神埼市千代田町直鳥の周辺です。

 小河川が多数あります。縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。次項の「船帆郷」とも解釈が一致しています。極めて確度の高い縄文語解釈です。

■■■「船帆郷(ふなほ)」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が巡行した時、諸々の氏人らがこぞって船に乗り、帆をあげて三根川の津に参集し、天皇に仕え奉った。よって船帆郷という。
 また、御船の沈石(いかり)が四つ、その津の辺りに残っている。
 この中の一つは高さ六尺(約1.8m)、直径五尺である。もう一つは高さ八尺、直径五尺である。子の無い婦女がこの二つの石に祈れば必ず子が授かる。
 もう一つは高さ四尺、直径五尺、もう一つは高さ三尺、直径四尺である。日照りの時、この二つに雨乞いし、祈ると、必ず雨が降る」

◎縄文語:「ペナ・ポ」=「上流の・小さな川」⇒google map

 比定地は神埼市千代田町嘉納の周辺です。三根郷の東隣です。

 「船=ペナ=上流」は、全国各地で地名、古墳名に用いられる表現です。
 「船帆(郷)=上流の小さな川」は、「三根(郷)=メナ=上流の細い枝川」と地勢、解釈が完全に一致しています。
 三根郷含め、極めて確度の高い縄文語解釈です。

■■■「蒲田郷(かまた)」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が行幸した時、この郷の西に宿をとった。食事をすすめた時、蝿がたくさんいて、その音が大きく囂(かまびす)しかった。天皇は勅して「蝿の声がとても囂(かまびす)しい」と仰った。よって囂郷(かまのさと)といった。今蒲田郷というのは、訛ったのである」

◎縄文語:「コ・チャ」=「湾曲した・岸」⇒google map

 比定地は佐賀市蓮池町の蒲田津周辺です。「佐賀江川」が湾曲するところ。

 神埼郡の縄文語解釈とまったく同じです。極めて確度の高い縄文語です。

●神埼(郡)=「コ・チャ・ケ」=「湾曲した・岸の・ところ」

 蝿が関係あるとはまったく思えません。

□□□「琴木岡」命名由来 □□□

×風土記
:「この地は平原で元々は岡はなかった。景行天皇が勅して曰く、『この地の形は、必ず岡が必要である」といい、郡臣たちにこの岡を造らせた。造り終えた時、岡に登って宴を開いた。興が過ぎた後に御琴を立てると、それが樟になった。高さ五丈(約14.85m)・周囲3丈であった。よって琴木岡と呼ばれている」

◎縄文語:「コッチャ・ケ・オカ」=「谷の入口の・ところの・跡」⇒google map

 比定地は神埼市千代田町周辺です。

 周囲に岡が見当たりません。縄文語解釈は、小川が入り乱れている様子を表したのでしょうか。少々自信がありません。

□□□「宮処郷」命名由来 □□□

×風土記
:「景行天皇が行幸した時、この村に行宮を造った。よって宮処郷という」

◎縄文語:「メ・ヤ・ケ」=「泉の・岸の・ところ」⇒google map

 比定地は神埼市千代田町周辺です。

 北東の三根郡米多郷、現在の地名のみやき町と同じ由来です。このあたりは、筑後川の氾濫原なので、湖沼が筑後川周辺にたくさんあったのかもしれません。

▼▼▼「佐嘉郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:
「昔、一株の樟がこの村には生えていた。幹や枝がたいへん高く、多くの葉が茂っていた。朝日でできた陰は杵島郡の蒲川山を覆い、夕日でできた陰は養父郡の草横山を覆った。
 日本武尊が巡幸した時、樟が生い茂り栄えるのをご覧になり、勅して『この国は栄国と言うべきだ』と仰った。よって栄郡といった。後に改めて佐嘉郡と名づけた。
 別の人は言うには、この郡の西には川がある。その川の名を佐嘉川という。年魚がいる。その水源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。
 この川の川上に荒ぶる神がいて、往来の人の半分を生かし、半分を殺した。そこで県主らの祖である大荒田が占い問うた。
 その時、土蜘蛛の大山田女(おおやまだめ)と狭山田女(さやまだめ)がいて、二人の女が『下田村の土を取り、人形と馬形を作ってこの神を祀れば、必ず和らぐでしょう』と言ったので、大荒田はその言葉に従ってこの神を祀ると、上は供え物を受けて、ついに和やかになった。
 大荒田は『この女たちはこのように実に賢い。ゆえに賢女(さかしめ)をもって国の名にしようと思う』と言った。よって賢女郡という。今は佐嘉郡というのは訛ったのである」

◎縄文語:「サ・カ」=「浜の・ほとり」⇒google map

 比定地は佐賀市、佐賀郡一帯です。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。「浜のほとり」。地勢そのままです。風土記は言うまでもなく、まったくのデタラメです。

▼▼▼「小城郡(をき)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、この村に土蜘蛛がいた。堡(をき=砦)を造って隠れ、皇命に従わなかった。日本武尊が巡幸した日、皆悉く誅殺した。よって小城郡と名付けた」

◎縄文語:「オ・ケ」=「川尻の・ところ」⇒google map

 比定地は多久市、小城市一帯です。

 これも考えるまでもなく、「川下」のことです。「佐賀=浜のほとり」と同類の語源です。

▼▼▼「松浦郡(まつら)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようと思い、この郡にやって来て、玉島の小川のほとりで食事された。ここで、皇后は針を曲げて釣り針とし、米粒を餌に、裳の糸を釣糸にして、川中の石に登り、二者択一で神意を問うた。「朕は新羅を征伐して、その財宝を求めようと思っている。その事が成功して凱旋するのならば、アユよ、朕の釣り針を呑め」と仰った。
 釣り針を投げて片時でアユが釣れた。皇后は「とても希見(めずら)しい物だ」と言った。よって希見国(めづらしのくに)という。今は訛って松浦郡という。
 ゆえに、この国の婦女は初夏四月になると針をもって年魚を釣る。男は釣りをしても獲ることはできない」

◎縄文語:「モィ・チャ」=「入り江の・入口」⇒google map

 比定地は唐津市周辺です。

 日本書紀にも同様のことが記載されているので、第二十八回コラムでも軽く触れましたが、こんな物語が本当なわけありません。

 「モィ・チャ=入り江の・入口」。これ以上ない命名です。そして、これは一般名詞ともとれ、同じ地勢の場所であれば、同じ地名があっても何の不思議もありません。
 つまり、唐津市も、松浦地域も「モィ・チャ=入り江の・入口」と呼ばれていた可能性があるということです。

 いい機会なので、魏志倭人伝記載の国名の縄文語解釈もご紹介します。

・対馬国=「テュ・スマ」=「峰(岬)の・岩」
・一支国=「エ・ケ」=「頭の・ところ」※尖岩の意か?
・末盧国=「モィ・チャ」=「入り江の・入口」
・伊都国=「エテュ」=「岬」
・奴国=「ヌッ」=「川がゆっくり流れているところ」
or=「ヌ」=「野原」
・不弥国=「プッ・モィ」=「川口の・入り江」
・投馬国=「テュー・モィ」=「岬の・入り江」
=出雲国=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
・邪馬台国=「ヤ・ムンテュ」=「岸の・草むら」
=倭面土国=「ワ・ムンテュ」=「岸の・草むら」

□□□「鏡渡」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、宣化天皇の世、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)連を遣わして、任那国を鎮め、また、百済国を救った。大伴狭手彦は命を受けてやって来て、この村に到った。篠原村の弟日女子(おとひめこ)と妻問婚した。日下部君らの祖である。弟日女子はとても容貌が美しい女性であった。狭手彦は別れる日に弟日女子に鏡を与えた。弟日女子は悲しみ泣きながら栗川を渡ったが、そのとき、鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。よって鏡渡と名付けられた」

◎縄文語:「カッ・ク・ムィェ・ウン・ワッタ」=「形が・弓の・頂・が(orに)ある・淵」⇒google map

 比定地は唐津市鏡村周辺です。栗川は現在の松浦川です。

 風土記の物語は情緒があって、大変悲しい物語ですが、これも例外なく漢字表記にこじつけた創作物語で、残念ながら事実ではありません。

 「カッ・ク=形が・弓」の山はこれまで関東から九州まで何度も登場しています。すべて「中窪みのある山」です。極めて確度の高い縄文語解釈です。
 もちろん、この鏡渡にある「鏡山」も同様の地形です。⇒googleストリートビュー


【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
※以下第七十三回コラムの再掲。
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュク」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。
・小熊山古墳
(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
※以下第七十四回コラムの再掲。
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー

□□□「褶振峯(ひれふりのみね)」命名由来 □□□

×風土記
:「大伴狭手彦連が船で任那に渡った時、弟日姫子はこの峯に登って褶(ひれ)を振って狭手彦の魂を招いた。よって褶振峯と名付けられた。
 そうして弟日姫子が狭手彦と別れて五日が経った後、ある人が夜毎に来て、弟日姫子と一緒に寝て、暁になると早々と帰っていった。容姿は狭手彦に似ていた。弟日姫子は怪しく思い、黙っていられず、密かに麻糸をその人の裾に縫い付け、麻糸をたどって行くと、この峯の頂にある沼の辺に至った。そこには寝ている蛇がいた。その身体は人であり、沼底に沈んでいて、頭は蛇で沼のほとりに横たわっていた。蛇は忽ち人に化けて曰く、
 『篠原の 弟姫子ぞ さ一夜も 率寢てむ時や 家にくださむ(篠原の弟日姫子よ、一夜一緒に寝た時には、家に帰そう)』と。
 その時、弟日姫子の侍女が走って親族に告げた。親族は大勢の人を連れて峯に登って見たが、そこに蛇と弟日姫子の姿はなかった。それからその沼底を見ると、ただ人の屍だけがあった。人々は弟日女子の遺骸だと言って、この峯の南に行き、墓を造って葬った。その墓は今もある」

◎縄文語:「ピラ(土崖)・フ」=「崖の・丘」
or「フレ・フ」=「崩れて赤い地肌が露出した・丘」⇒google map

 褶振峯は現在の鏡山です。

 鏡山は急斜面がいたるところにあるので妥当な縄文語解釈です。

 この褶振峯は、播磨国の褶墓(日岡陵古墳)を連想させます。播磨国風土記にも同類の由来譚が記されています。

●褶墓=「ピラ・フカ」=「崖の・高台」
or「フレ・フカ」=「崩れて赤い地肌が露出した・高台」⇒google map

 この褶墓は日岡に築造されています。 ●日岡=「ピ・オカ」=「石の・跡」  褶墓の解釈と一致します。

■■■「賀周里(かす)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、この里に土蜘蛛がいて、その名を海松橿媛(みるかしひめ)といった。景行天皇がこの国を巡った時、陪従の大屋田子(おおやたこ、日下部君ら祖である)を遣わして誅滅させた。その時に霞が四方を包んで、物が見えなかった。よって霞里という。今は賀周里というのは訛ったのである」

◎縄文語:「カス・イ」=「上を越す・ところ」=山を越えるところ⇒google map

 比定地は唐津市見借付近。

 縄文語の「カス=上を越す」は地名、古墳名に頻繁に使用されています。山であれば「峰の間を縫って越えるようなところ」、川であれば「川を渡るところ」の意になります。賀周里の場合は「山を越えるところ」の意です。

 以下「カス」のつく古墳、地名の例です。

【参考】「カス」のつく古墳
・掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map
・真弓鑵子塚古墳(奈良県高市郡明日香村/6世紀中頃~後半/円墳)⇒google map
・与楽鑵子塚古墳(奈良県高市郡高取町/6世紀後半/円墳)⇒google map(同上)
・別所鑵子塚古墳(奈良県天理市別所町/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
・近内鑵子塚古墳(奈良県五條市近内町/5世紀前半/円墳)⇒google map
・母神山鑵子塚古墳(香川県観音寺市/6世紀後半/円墳)⇒google map
・鹿隅鑵子塚古墳(香川県観音寺市)⇒google map
クワンス塚古墳(兵庫県加西市/5世紀前半/円墳)⇒google map

【参考】「カス」のつく地名
・柏原(市)=「カス・ワ・ラ」=「上を越す・岸の・低いところ」⇒google map
・橿原(市)=「カス・ハ・ラ」=「上を越す(川を渡る)・水が引いた・低いところ」
⇒google map
・播磨国柏野里=「カス・ワ・ウン・ヌ」=「上を越す(川を渡る)・岸・にある・野原」google map
・播磨国柏原里=「カス・ワ・ハ・ラ」=「上を越す・岸・水が引いた・低いところ」google map


□□□「遭鹿駅(あふかのうまや)」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、神功皇后が新羅を征伐しようと思い、行幸した時、この道で鹿と遭遇した。よって遇鹿駅と名づけられた。駅の東の海では、鮑、螺、鯛、海藻、海松などがとれる」

◎縄文語:「アゥ・ケ」=「枝分かれた(or隣の)・ところ」⇒google map

 比定地は唐津市相賀です。

 縄文語解釈の地勢そのままです。他の平地枝分かれたところ、隣のところです。


□□□「登望駅(とものうまや)」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、神功皇后がここに至り留まった時に男装したところ、身に帯びた鞆がこの村に落ちた。よって鞆駅(とものうまや)と名づけられた。駅の東西の海では、鮑、螺、鯛などの様々な魚、海藻、海松などがとれる」

◎縄文語:
「テュ・モィ」=「岬の・入り江」or
「ト・モィ」=「海の・入り江」
⇒google map

 比定地は唐津市呼子町大友、小友です。

 「テュ・モィ=岬の・入り江」であれば、筆者が出雲に比定している投馬国と同じ解釈です。
 また、「ト・モィ」とすれば、「プッ・モィ=川口の・入り江」と解釈した不弥国の対比となります。 
 アイヌ語の「モィ=入り江」は、海だけでなく、内陸の同様の地形も指すので、「モィ」単体では、海か内陸か、いずれか分かりません。

□□□「大家嶋(おおやしま)」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、景行天皇が巡幸した時、この村には土蜘蛛がいて、名を大身といった。常に皇命を拒み、降服しなかった。天皇は勅命を出して誅滅させた。それ以来、白水郎(あま=海人)らが この嶋に家を造って住むようになった。よって大家郷という。
 この島の南には岩窟があり、そこには鍾乳洞や木蘭がある。周りの海には、鮑、螺、鯛、様々な魚や海藻、海松が多い」

◎縄文語:「オオ・ヤ・スマ」=「大きな・浜の・岩」⇒google map

 比定地は不明ですが、縄文語解釈が単純なので、それを頼りに探してみると、唐津市呼子町大友の浜の東にある国定公園の七ツ釜が相応しく見えます。柱状節理、海食洞で有名です。風土記では鍾乳となっていますが、似た地勢もそう呼んだのではないでしょうか。

 比定地が不明なのは、大家嶋の「嶋」を文字通り海に浮かぶ「島」と解釈しているからではないでしょうか。
 播磨国にも「家嶋」がありますが、「家を造って住み着いた」という同類の由来となっています。また、播磨国飾磨郡少川里の伊刀嶋は内陸のはずですが、「鹿が泳いで渡った」ことになっています。これをいわゆる海に浮かぶ「島」と解釈していては、必然的に迷宮入りとなります。
 播磨国には他にも「神嶋」「韓荷嶋」「高島」があり、家島諸島に比定されていますが、縄文語解釈では、すべて「綾部山の海際の断崖」と解釈することができます。詳しくは第六十三回コラムをご参照ください。

■■■「値嘉郷(ちか)」命名由来 ■■■

×風土記
:「昔、景行天皇が巡幸した時、志式島の行宮にいて西海をご覧になると、海には嶋があり、多くの煙が覆っていた。
 天皇は阿曇連百足を遣わせて偵察させた。そこには八十余りの嶋があり、そのうち二つの嶋にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島は小近(をちか)といい、そこには土蜘蛛の大耳(おほみみ)が住んでいた。第二の島は大近(おほちか)といい、土蜘蛛の垂耳(たりみみ)が住んでいた。その他の島は人が住んでいなかった。
 そこで百足は大耳らを捕えて報告した。天皇は勅して、誅殺させようとした。その時、大耳らは頭を下げて『私どもの罪は実に極刑に値します。一万回殺されても罪を償うには足りません。もし恩情によって生きることを得られれば、御贄(魚、鳥など)を作って奉り、常に御膳を献上しましょう』と言った。そして木の皮を取って、長鮑、鞭鮑、短鮑、陰鮑、羽割鮑などの見本をつくり、献上した。
 それで、天皇は恩赦を与えて許し、放した。また、さらに『この島は遠いが、まるで近いようにも見える。近島と呼ぶがよい」と仰った。よって値嘉という。
<中略>
 この付近には、一方に百余りの嶋があり、また一方には八十余りの島々がある。また、西には停泊させる港が二ヵ所ある。一つは相子田停(あいこたのとまり)といい、二十余りの船を停泊させることができる。もう一つは川原浦(かはらのうら)といい、十余りの船を停泊させることができる。遣唐使はこの港より発って、美弥良久(みみらく)の埼に到り(川原浦の西の崎がこれである)、さらにここから船出して西に向かう。この島の白水郎(海人)は容貌が隼人に似て、常に騎射を好み、その言葉も俗人とは異なる」

◎縄文語:
「チン・ケ」=「崖の・ところ」or
「チン・カ」=「崖の・上」
⇒google map

 比定地は五島列島とされています。

 五島列島には崖の島がたくさんあります。よってどこを指したのかは不明です。

 また、前項のように島にとらわれなければ「東松浦郡玄海町の値賀」の地名が気になります。⇒google map

 地勢も縄文語解釈と完全一致しています。「登望駅」や「大家嶋」などの前条から次条の杵島郡への地域的な流れもスムーズです。
 ただ、風土記記載の遣唐使の内容はかなり具体性があり、まさに風土記編纂の時代とも重なるので、否定することはできません。もしかすると、年代の異なる同名の地名由来が入り乱れているのかもしれません。

▼▼▼「杵嶋郡(きしま)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、景行天皇が巡幸した時、この郡にある磐田杵(いはたき)の村に御船を停泊させた。その時、??(かし=船を繋ぐ杭)の穴から冷水が自然に湧涌き出た。

 別の言い伝えでは、船が停泊したところが自ら一つの島になった。天皇はそれをご覧になり、郡臣らに『この郡は??島(かししま)郡というがよい』と仰った。今、杵島郡というのは訛ったのである。
 郡の西には温泉が湧き出ているところがある。岩の岸が険しいため、人が行くのはまれである」

◎縄文語:「キサ・マ」=「耳のように突き出た・谷川」」⇒google map

 比定地は武雄市、杵島郡です。

 風土記の言い訳はかなり苦しいです。風土記の編纂者も、後世の研究者も、「島=海に浮かぶ島」と解釈しようとするので、かなりの曲解が必要となります。

 アイヌ語の「キサ」はもともと「耳」の意で、地形では「耳のように突き出た場所」を表します。杵島郡の場合、明らかに「六角川」の湾曲を指しています。

□□□「嬢子山(をみなやま)」命名由来 □□□

×風土記
:「景行天皇が行幸した時、八十女(やそめ)という土蜘蛛がこの山の山頂にいた。常に皇命に逆らい、降伏することがなかった。そこで、天皇は兵を使わして襲い、滅ぼした。よって嬢子山という」

◎縄文語:「オマン・ノッ」=「奥の・岬」
⇒google map ※女山(両子山)
⇒google map ※鬼ノ鼻山

 比定地は多久市の女山(両子山)、あるいは鬼ノ鼻山と言われています。

 縄文語解釈を見ると、鬼ノ鼻山の地勢の方が一致しています。

▼▼▼「藤津郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、日本武尊が行幸した時、この津に到ると、西の山に日が落ちたので御船を停泊させた。翌朝遊覧して、船のとも綱を大きな藤の木に繋げた。よって藤津郡という」

◎縄文語:
「ペッペッ・チャ」=「小川がごちゃごちゃと集っている・岸」or
「ペッ・プチ」=「川・口」
⇒google map

 比定地は鹿島市です。縄文語解釈そのままの地勢です。

 また、鹿島は、茨城県の鹿嶋と同じ解釈をすると、

●鹿島=「ケ・モィ」=「末端(はずれ)の・入り江」

 となります。地勢と一致しています。

■■■「能美郷(のみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、景行天皇が行幸した時、この里に土蜘蛛が三人いた。兄の名は大白(おほしろ)、次の名は中白(なかしろ)、弟の名は少白(をしろ)だった。
 この人ら、砦を造って隠れ住み、降伏しようとしなかった。その時、陪従の紀直らの祖である穉日子(わかひこ)を遣わして誅滅させようとした。ここに大白たち三人はただ叩頭して、己の罪を陳(の)べ、共に命乞いした。よって能美郷という」

◎縄文語:「ノッ・モィ」=「岬の・入り江」=山を越えるところ⇒google map

 比定地は鹿島市の能古見地区です。

 能古見も同様に解釈できます。地勢そのままです。岬に挟まれた入り江。

●能古見=「ノッケ・モィ」=「岬の・入り江」

 
己の罪を「述べ」たから「能美」とは、いくら何でも苦しすぎます。

■■■「託羅郷(たら)」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が行幸した時、此処に到り、郷をご覧になると、海産物が豊かだった。天皇は勅して曰く、「地勢は狭いといえども、食物は豊かに足りている。豊足(たらし)村というべきだ」と仰った。今、託羅郷というのは訛ったのである」

◎縄文語:「タン・ラ」=「こちらの・低いところ」⇒google map

 比定地は太良町周辺です。多良川流域。

 縄文語解釈の「タン=こちら」は、東国から西国まで各地で使用されています。この言葉は「アル=一方の」と同様に、近くに比較対象となる類似地形がある場合がほとんどです。
 託羅郷(太良町)の場合も、多良岳の裾野の峰が同様の地形をたくさん作っています。

□□□「塩田川」命名由来 □□□

×風土記
:「この川の水源は、郡の西南にある託羅峰より出て、東に流れて海に入る。満潮の時には逆流する。その勢いは激しく、はなはだ水量が増して水位が高くなる。よって潮高満川(しほたかみつがわ)という。それが今は訛って塩田川という。
 水源には淵があり、深さは二丈(約5.94m)で、石壁は険しく、周囲は垣のようである。年魚がたくさんいる。東の辺には温泉があって、よく人の病を癒す」

◎縄文語:「シ・オ・チャ」=「山・裾の・岸」⇒google map

 現在も塩田川と呼ばれています。

 縄文語解釈の「シ・オ=山・裾」に充てられる漢字は、「塩」のほか、「白」「城」「親王(皇)」「新皇(皇)」「将」などがあり、全国各地で地名や古墳名に用いられています。例えば、日本各地にある白浜などは、決して「白い浜」の意ではなく、「山裾の浜」の意だと思われます。

 また、塩田川の南を流れる黒川は

●黒(川)=「キ・オ」=「山・裾」

 で、塩田川とまったく同じ意味となります。縄文語解釈では「白」も「黒」も「山裾」の意となるのが面白いです。

 この「黒」に関連して余談。雄略朝に献上されたとされる「甲斐の黒駒」が有名ですが、筆者は、これも単に「八ヶ岳の麓の湾曲した川」を指しただけではないかと疑っています。詳しくは「第三十四回 本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」をご参照ください。

▼▼▼「彼杵郡(そのき)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、景行天皇が球磨噌唹(くまそ)を誅滅して凱旋した時、豊前国の宇佐の海浜の行宮に居て、陪従の神代(かみしろ)直に勅して、この郡の速来村(はやきのむら)に遣わし、土蜘蛛を捕えさせた。
 その時、速来津姫(はやきつひめ)という人が現れ、『私の弟の健津三間(たけつみま)が健村里に住んでいます。彼は美しい玉を持っています。名を石上神の木蓮子玉(いたびたま)といいます。これを愛でて固く隠し、他人に見せようとはしません』と言った。
 神代直が詳しく尋ねると、健津三間は山を超えて逃げ、落石岑(おちいしのみね)まで走った(郡より北の山である)。
 神代直は追いかけて捕まえ、虚実を問うと、健津三間は『本当に二色の玉を持っています。一つは石上神の木蓮子玉といい、もう一つは白珠(しらたま)と言います。これは??と比べられるほどのものですが、願わくは献上したいと思います』と言った。
 また、速来津姫は『篦簗(のやな)という者が、川岸の村に住んでいます。この人も美しい玉を持っています。それを極めて愛でています。きっと命令に従おうとしないでしょう』と言った。
 神代直は箆簗を捕えて問うと、箆簗は『本当に玉を持っています。これは御所に献上しようと思います。敢えて惜しみません』と言った。
 神代直は この三色の玉を捧げて還り、御所に献上した。その時、天皇は勅して曰く、『この国は具足玉(そなひたま)の国と呼ぶがいい』と。今は彼杵郡というのは訛ったのである」

◎縄文語:「サン・ノッケ」=「前に出ている・岬」⇒google map

 比定地は大村湾沿いの東西彼杵郡、大村市周辺です。

 縄文語解釈に該当する場所は、東彼杵郡の大崎半島しかありません。まさに「前に出ている岬」です。

■■■「浮穴郷(うきあな)」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が宇佐の浜の行宮にいて、神代直に勅して『朕は諸国を廻って、すでに平らげ治めるに至った。未だ朕の統治を受け入れない怪しい者どもはいるだろうか』と仰った。神代直は承って『あの煙の立っている村は、なお統治を受け入れていません』と言った。
 天皇が神代直を遣わせると、土蜘蛛がいた。名を浮穴沫媛(うきあなわひめ)といった。皇命に逆らい、ひどく無礼だったので、すぐに誅殺した。よって浮穴郷という」

◎縄文語:「ウカオ・ノッ」=「石が折り重なっている・岬」⇒google map

 比定地は不明です。西彼杵郡、や佐世保市などの説があります。

 縄文語解釈を参考にすると、西彼杵郡時津町の「鯖くさらかし岩」が相応しく見えます。まさに「石が折り重なっている奇岩」です。
 このとても日本語には思えない「鯖くさらかし岩」を縄文語解釈すると、

●鯖くさらかし岩=「サパ・クッチャ・カ」=「岬の・入口の・上」

 となります。「鯖を腐らすまで石が落ちるのを待っていた」という由来は、ありえません。

■■■「周賀郷(すか)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、神功皇后が新羅征伐とうとして行幸した時、御船をこの郷の東北の海に繋いだが、船首と船尾を繋ぐ杭が磯に化けた。高さ二十丈(約59.4m)余り、周囲は十丈余りで、相隔てること十町(約1090m)余りであった。高く険しく、草木が生えない。
 それだけでなく、陪従の船は風に遭って漂い沈んだ。ここに土蜘蛛の石欝比表麻呂(いわうつひをまろ)がいて、その船を救った。よって救郷(すくひのさと)といった。今、周賀郷というのは訛ったのである」

◎縄文語:「シ・カ」=「山の・ほとり」⇒google map

 比定地は不明です。五島灘(角力灘)付近、大村湾南西部などの説があります。

 縄文語解釈も一般的過ぎて、残念ながら場所を特定するヒントにはなりません。

□□□「速来門(はやきのと)」命名由来 □□□

×風土記
:「この門に潮が来て、東に落ちると西に湧き登り、その湧く響きは雷の音と同じである。よって速来門という。また、茂る木がある。根元は地に着き、枝は海に沈んでいる。海藻が早く生えるので、朝廷への貢物にしている」

◎縄文語:「パ・ヤケ」=「岬の・岸辺」⇒google map

 比定地は佐世保市の早岐瀬戸です。

 縄文語解釈そのままの地勢です。

▼▼▼「高来郡(たかく)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、景行天皇が肥後国玉名郡の長渚(ながす)浜の行宮に居た時、この郡の山をご覧になり、「この山の形は離島に似ている。陸続きの山か、並んでいる島か。朕は知りたいと思う」と仰った。神大野(みわのおほの)宿禰に勅して、見させると、この郡に到った。
 出迎えの人が来て言う。『私は この山の神で高来津座(たかくつくら)と申します。天皇の使いが来ると聞いてお迎えに上がりました」と言った。よって高来郡という」

◎縄文語:「タ・カ・ケ」=「石の・ほとりの・ところ」⇒google map

 比定地は雲仙市、南島原市、諫早市、島原市周辺です。高来津座は雲仙岳の神です。

 縄文語解釈は、雲仙岳の麓ととれますが、郡域が広すぎて特定には至りません。

□□□「土歯池(ひぢはのいけ)」命名由来 □□□

×風土記
:「土地の人は、岸を比遅波と言う。郡の西北にある。
 この池は東の海辺に岸がある。高さは百丈(約297m)余り、長さは三百丈余りである。西の海の波で常に洗われている。土地の人の言葉では、土歯の池という。
 池の堤は、長さ六百丈(約1782m)余り、広さ五十丈余り、高さ二丈余りである。池の内側は縦横二十町(約2180㎡)ほどある。潮が来ると、常に堤を越えて突き入る。蓮、菱がたくさん生えている。秋の七、八月には蓮の根がとても甘い。秋の九月は、香りも味も変わり、食用には適さない。
 峰湯泉。郡の南にある。
 この温泉は、源泉が郡の南にある高来峰の西南の峯より出て、東に流れる。流れる勢いは多く熱く、他の湯とは異なっている。ただ、冷たい水と混ぜて、沐浴できるようになる。味は酸っぱく、硫黄・白土(石灰)・和松がある。その松の葉は細く、小豆のような実があり、食べることができる」

◎縄文語:
「ピッチェ・パ」=「禿げている・岬」
⇒google map

 風土記には、土歯池のことがかなり具体的に描写されていますが、比定地には大きく三つの説があります。

<比定地の三つの説>
1)島原半島北岸の雲仙市国見周辺
2)諌早市森山町唐比東の唐比湿地
3)雲仙市千々石(ちぢわ)町周辺

 縄文語解釈を参考にすれば、2)の唐比湿地の可能性が高くなります。「禿げている岬」というのは、海に面した千々石断層の石ころの海岸以外に考えられません。⇒google ストリートビュー

 似たような命名の仕方では、敦賀があります。

●敦賀=「テュ・ルッケイ」=「岬が・崩れているところ」
⇒google画像検索

 また、千々石を縄文語解釈すると、これも千々石断層の岸と捉えることができます。

●千々石=「テューテュ・ワ」=「峰の・岸」

 峰の湯は雲仙岳の雲仙温泉、高来峰は雲仙岳に比定されています。


日出ずる国のエラーコラム
第七十八回 豊後国風土記のウソを徹底的に暴く!~由布岳は「溶岩の倉の形の山」の意。木綿は作っていない!~
【今回取り上げる内容】
豊後国/日田郡/石井郷/鏡坂/靭編郷/五馬山/球珠郡/直入郡/柏原郷/祢疑野/蹶石野/球覃郷/宮処野/大野郡/海石榴市・血田/網磯野/海部郡/丹生郷/穂門郷郡/大分/速見郡/赤湯泉/玖倍理湯/柚富郷/頚峯/国埼郡/伊美郷

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈
◆◆◆「豊後国」命名由来 ◆◆◆

×風土記:「景行天皇の時、豊国の直の祖である菟名手に豊国を治めさせた。菟名手が豊前国仲津郡の中臣村に到着した時、白い鳥が現れ、餅に姿を変え、また里芋数千株に変わり、その花と葉が冬も栄えた。菟名手が天皇の徳の高さ故だと喜んで朝廷に報告すると、天皇も喜び『それは地上が豊かにみのる象徴である。おまえの国は豊国というがよい』と言った。それで豊国の直の姓を賜った。こういうわけで豊国というのである。後に、豊前、豊後と国を二つに分けた」

◎縄文語:「ト・ヤ」=「海(or湖沼)・岸」
⇒google map

 現在でも、「豊」がつくのは「豊穣な土地」という意味だとする説がいたるところで堂々とまかり通っていますが、縄文語解釈では、ただの「海岸」の意味です。これも日本神話同様、漢字表記からの創作由来です。

▼▼▼「日田郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「景行天皇が球磨贈於(くまそ)を征伐して凱旋した時、この郡においでになった。久津媛という神が人の姿になって出迎え、この土地の状態を報告した。これによって久津媛の郡といった。今、日田郡というのは、訛ったのである」

◎縄文語:「ピ・チャ」=「小石の・岸」⇒google map

 比定地は日田市周辺です。日田盆地にはかつて大きな湖がありました。その湖の岸という意味です。久津媛という神などいません。

■■■「石井郷」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、この村に土蜘蛛の砦があった。石を用いず、土で築いている。これにより、名を無石(いしなし)の砦と言った。後の人が石井郷というのは誤りである。」

◎縄文語:「エサン・イ」=「岬の(頭が前に出ている)・ところorそこから浜へ降りる・ところ(浜への降り口)」⇒google map

 比定地は日田市石井です。

 縄文語解釈が地勢と完全一致しています。かつての日田湖の岸辺です。ガランドヤ古墳がありますが、これも「湖畔の古墳」の意味です。(※第七十三回コラム参照)

 風土記の土蜘蛛の砦云々は、もちろんデタラメです。

□□□「鏡坂」命名由来 □□□

×風土記:「景行天皇が、この坂の上に上り、国の形をご覧になり、『この国の形は鏡の面に似ている』と言った。よって鏡坂という」

◎縄文語:「カッ・ク・ムィェ・サン・ケ」=「形が・弓の・頂の・出崎の・ところ」⇒google map
⇒googleストリートビュー

 比定地は日田市高瀬上野町の鏡坂です。
 ストリートビューを見ていただくと分かりますが、これは「弓の形の出崎」の意で、中窪み山の形状を表しています。

 「カッ・ク=形が・弓」の山はこれまでも何度か登場しています。すべてが中窪み形状の山です。下記の他地域の例をご参照下さい。解釈は間違いありません。つまり、風土記はデタラメです。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュク」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。
・カクメ石古墳
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー

■■■「靭編郷(ゆぎあみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、欽明天皇の世、日下部君等の祖、邑阿自(むらあじ)が靭部として仕えた。この村について、家を造って居住した。これにより名を靭負(ゆきおい)の村という。後の人は改めて靭編郷という」

◎縄文語:「ユケ・アミ」=「温泉が・寝そべっているところ」=日田温泉⇒google map

 比定地は玖珠川と大山川の合流し、三隈川(旧日田川)となるところです。
 つまり、日田温泉です。近代に涌き出たということですが、縄文語解釈が妥当であれば、風土記以前に温泉があったということになります。

□□□「五馬山(いつまやま)」命名由来 □□□

×風土記:「昔、この山に土蜘蛛がいた。名を五馬媛という。よって五馬山という。天武天皇の世、大きな地震があり、山も岡も裂け崩れ、温泉が湧き出た。<中略>水は紺色で、常には流れず、人の声を聞けば、驚き怒り、泥を一丈(約2.97m)ほど噴き上げた。今いかり湯というのはこれである」

◎縄文語:五馬山=「エテュ・メ・ヤマ」=「岬の・涌き出る泉の・山」⇒google map

 比定地は日田市天瀬町五馬市です。縄文語解釈は、山間の温泉というところでしょうか。
 別名のいかり湯も同じ意味です。決して風土記のように怒っている訳ではありません。

●いかり湯=「エンコ・ユ」=「岬の・温泉」

 どちらが正しいかは、明らかです。

▼▼▼「球珠郡(くす)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、この村に大きな樟があった。よって球珠郡という」

◎縄文語:
「ク」=「川向こう(対岸)」or
「ク・オ(クーソ)」=「川向こうの・ところ」
⇒google map

 比定地は玖珠町、九重町周辺です。縄文語解釈は「九州」と同じ語源ともしてみましたが、あまりにもありきたりな表現なので、残念ながら解釈確度についても何とも言えません。

▼▼▼「直入郡(なほり)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、郡の東にある垂氷(たるひ)村に桑が生えていた。極めて高く、枝も幹も直く(真っ直ぐで)美しい。土地の人は直桑村という。後の人は改めて直入郡というのはこのことである」

◎縄文語:「ナィ・オ・リ」=「川・尻の・高台」=川の合流点の高台 ⇒google map

 比定地は竹田市周辺。縄文語解釈の「川の合流点の高台」と一致する地勢が多すぎてどこを指したのか分かりません。google mapは「竹田市直入町」。

■■■「柏原郷(かしはばら)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、この里に柏の木が多く生えていた。よって柏原郷という」

◎縄文語:「カス・パ」=「上を越す・岬」⇒google map

 比定地は竹田市荻町柏原です。この縄文語解釈もありきたりで解釈確度についてはなんとも言えません。

□□□「祢疑野(ねぎの)」命名由来 □□□

×風土記:「柏原の野の南にあり。昔、景行天皇が行幸した時、この野に土蜘蛛がいた。名を打?(うちさる)・八田・国摩呂という三人だった。天皇は自らこの賊を伐とうとして、この野で勅して、兵衆(いくさびとども)をあまねく労った。よって祢疑野という」

◎縄文語:「ニ・ナィェ」=「隙間の・川」⇒google map

 比定地は竹田市小塚周辺です。
 風土記がデタラメなのも、地名が日本語ではないのも明らかです。縄文語解釈は峰の間を流れる川を指したとすれば地勢と一致します。

□□□「蹶石野(ほむしの)」命名由来 □□□

×風土記:「柏原の里の中にあり。景行天皇が土蜘蛛の賊を伐とうとして、柏原の大野に行幸した。長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の石があった。天皇は『朕がこの賊を滅ぼすには、この石を踏むに、例えば柏の葉のようになるべし』とおっしゃって踏むと、柏葉のごとく舞い上がった。よって蹶石野という」

◎縄文語:「フマ・ノッ」=「切り立った(断片が多い)・岬」⇒google map
⇒googleストリートビュー

 比定地は竹田市荻町柏原付近です。大谷川沿いが切り立った山の連続です。ストリートビューでご覧下さい。

■■■「球覃郷(くたみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「景行天皇が行幸した時、食膳の担当の者が飲み水用に泉の水を汲むと、オカミ(水の神)が現れた。天皇は『必ず臭いので、汲んで用いてはならぬ』と言った。これによって、名を臭泉といい、名とした。今、球覃郷というのは訛ったのである」

◎縄文語:「クッチャ・メ」=「入口の・泉」⇒google map

 比定地は大分県竹田市久住町周辺です。
 縄文語解釈は風土記の内容に重なります。「谷の入口の泉」の意とすれば、老野湧水と地勢が一致します。⇒google map

□□□「宮処野(みやこの)」命名由来 □□□

×風土記:「朽網(くたみ)の里にある野である。景行天皇が土蜘蛛を征伐しようとした時、行宮をこの野に建てた。それで、宮処野という」

◎縄文語:「モィェ・コッネ・イ」=「入り江が・窪んでいる・ところ」⇒google map

 比定地には宮処野神社があります。

 縄文語解釈の「入り江」は、山中の同様の地形も表します。つまり、山が奥まって窪んでいるところ。

 景行天皇の行宮については、他の地名由来譚と併せて総合的に判断します。判断材料はまだまだあります。

▼▼▼「大野郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「この郡の管轄はすべて原野である。それにより、名を大野郡という」

◎縄文語:「オオ・ノッ」=「大きな・岬(あご)」 ⇒google map

 比定地は豊後大野市周辺です。豊後大野市の多くは山地で、風土記の説明とは異なります。
 縄文語解釈の「大きな岬」は、火砕流の爪痕や柱状節理を指したとすれば地勢と完全に一致します。アイヌ語の「ノッ」は、本来、人体の「あご」の意なので、まさにピッタリな表現です。

 地勢については、「おおいた豊後大野ジオパーク」公式サイトが参考になります。


□□□「海石榴市(つばきち)/血田」命名由来 □□□

×風土記:「昔、景行天皇が球覃の行宮にいた。鼠の石窟の土蜘蛛を誅殺したいと思い、群臣に海石榴(ツバキ)の樹を伐採して、鎚を作って武器とし、勇猛な兵を選んで武器を授け、山野に切り込み、土蜘蛛を襲って、悉く誅殺した。流れる血でくるぶしまで浸った。その鎚を作ったところは、海石榴市という。また、血が流れたところは、血田という」

◎縄文語:
・海石榴市=「チン・パケ・チャ」=「崖の・岬の・岸」
・血田=「チン・チャ」=「岩崖の・岸」
⇒google map
⇒googleストリートビュー

 比定地は、緒方町知田周辺です。

 極めて確度の高い縄文語解釈です。発音、地勢とも完全一致です。言うまでもなく、風土記の由来はデタラメです。

 また、血田の地名に関連して、緒方川の下流、大野川と合流するところに「沈堕の滝」がありますが、これもまさに「崖の岸」で同語源です。

沈堕=「チン・チャ」=「岩崖の・岸」⇒googleストリートビュー(沈堕の滝付近)


□□□「網磯野(あみしの)」命名由来 □□□

×風土記:「郡役所の西南にある。景行天皇が行幸した時、ここに土蜘蛛がいた。名を小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)という。この二人、天皇の食事用に、狩をしたが、狩の声が甚だしくうるさかった。天皇は『大変やかましい(大囂[あなみす])』と言った。よって、あなみす野という。今、網磯野というのは訛ったのである」

 比定地は朝地町綿田とされますが、郡役所の西南ではないため確実ではありません。よって、縄文語解釈もできません。

▼▼▼「海部郡(あま)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「この郡の百姓は、皆、海辺の漁民である。よって海部郡という」

◎縄文語:「アゥ・モィ」=「枝分かれた・入り江」 ⇒google map

 比定地は、大分市東部、臼杵市沿岸部、津久見市、佐伯市周辺です。

 縄文語解釈と地勢は一致していますが、風土記の由来も完全には否定できませんので、他の例証を待ちます。

■■■「丹生郷(にふ)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔の人、この山の沙をとって、朱沙(に)に充てた。よって丹生郷という」

◎縄文語:丹生川=「ナィポ」=「小川」=丹生川⇒google map

 比定地は大分市の丹生川と大野川に挟まれたところです。

 縄文語解釈は丹生川を指したとすればピッタリです。

■■■「穂門郷(ほと)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、景行天皇が船をこの門(両岸が迫って門のような地形)に泊めたところ、海の底に海藻がたくさん生えていて、長く美しかった。勅して『最も優れた海藻をとれ(ホツメという)』と言って、食事に出させた。よってホツメの門という。今、穂門というのは、訛ったのである」

◎縄文語:
・「ポッチェ・イ」=「どろどろしている・ところ」or
・「ペッチャ」=「川端」or
・「ペッチャ」=「川の入口」or
・「ペト」=「川口」
⇒google map

 比定地は臼杵市沿岸部、津久見市、佐伯市です。

 「ホト」は「女性の陰部」の古語として知られていますが、他に「湿地帯」の意味があるとされています。これはまさにアイヌ語語源と考えられます。
 穂門郷も沿岸部ですから湿地帯だったということになります。

 仙台弁の女性の陰部を指す「ベッチョ」も上記由来か、あるいは、

●ベッチョ=「ペッチョ(ペッ・ソ)」=「滝壺」

 の可能性が高いと思われます。

▼▼▼「大分郡(おおきた)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、景行天皇が豊前国の京都の行宮からこの郡に行幸し、国の形をご覧になり、『広く大きいかな、この郡は。碩田国(おおきたのくに)と名づけるべし』と仰った。今、大分という。これがその理由である。」

◎縄文語:
・おおきた
=「オオ・ケィ・タ」=「大きな・頭(岬)の・石」
or「オオ・キタィ」=「大きな・山の頂」
・おおいた=「オオ・ウェン・タ」=「大きな・険しい・石」
⇒google map

 比定地は大分市、由布市、別府市の一部です。

 この地域の解釈については、日本書紀のエラーコラム第四回「スサノオは本当に新羅から来たのか!?」と内容が重複しますが、改めてご紹介します。

 筆者は、この豊後国がスサノオの出身地ではないかと疑っています。スサノオとその存在が重なる大綿津見を縄文語解釈すると、大分と完全に一致します。

●大綿津見=「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「大きな・険しい・石の・岬の・入り江」

 これは別府湾、あるいは豊後高田市、宇佐市の地勢とすれば辻褄が合います。
 そして、日本書紀には、スサノオは新羅の曾尸茂梨から来たという記載があります。

●新羅=「シロケ」=「山裾」
●曾尸茂梨=「シスマ・ル」=「大石の・岬」


 これは国東半島の麓と捉えられます。「シロケシ=山裾」などという地勢はどこにでもあるので、朝鮮半島の新羅だけを指したとは限りません。富士山の麓の「駿河」も同語源と考えられます。

 また、国東半島を

●国東
=「クッ・ネ・サン・ケィ」=「崖・の・出崎の・頭」
or
「クッ・ネ・サン・ケ」=「崖・の・出崎の・ところ」

 とすれば、これも地勢と一致します。さらに、

●杵築=「ケィ・テュ・ケ」=「頭の・岬の・ところ」
or
「キタィ・ケ」=「頭のてっぺんの・ところ」

 杵築の解釈も一致します。出雲の杵築も半島の先端の麓です。⇒google map

 豊国は、国名由来のところで、

●豊=「ト・ヤ」=「海・岸」

 の意だと書きましたが、豊国の西には遠賀川が北流しており、遠賀川東岸には、物部十市氏と一致する地名があります。

●十市=「ト(ー)・チャ」=「海・岸」

 で、「豊」の解釈と完全に一致します。つまり、スサノオは、物部十市氏で豊国の出身の可能性があるということです。


 また、別府は、国司免符などによって開発された荘園が独立した存在になったと解釈するが通説だと思いますが、アイヌ語研究者であるバチェラー博士が

●別府=Pepepu=「水たまり」

 だとする見解を示しています。

▼▼▼「速見郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、景行天皇が球磨贈(くまそ)を誅殺したいと思い、筑紫に行幸した。周防国の佐波郡より船出して海部郡の宮浦に停泊した。この村に速津媛という女人がいて、その地域の長だった。天皇の行幸を聞いて自ら出迎え、『この山に大きな岩窟があり、名を鼠の岩窟といいます。土蜘蛛二人が住んでいて、名を青、白といいます。また、直入郡の祢疑野に土蜘蛛が三人います。その名を打?(うちさる)・八田・国摩呂といいます。この五人は凶暴で、子分もたくさんいます。皆、【皇命には従わない。もし、強引に従属させようとすれば、兵をおこして防ぐだろう】と言っています。』
 天皇は兵を送り、その要害を遮り、悉く誅殺した。これによって、名を速津媛の国という。後の人は改めて速見郡という」

◎縄文語:
「ハ・ヤ・モィ」=「水が引いた・岸の・入り江」or
「パ・ヤ・モィ」=「岬の・岸の・入り江」
⇒google map

 比定地は別府市、速見郡周辺です。

●別府=「ペペ」=「水たまり」

 とし、「速見=水の引いた岸の入り江」とすれば、辻褄が合います。

 別府市の春来川流域の地名は「鶴見」ですが、これも水の関係する地名です。

●鶴見=「チ・メ」=「したたる・泉」

□□□「赤湯泉」命名由来 □□□

×風土記:「郡の西北の竈門山にある。周囲は十五丈(約44.55m)。湯の色が赤く泥がある。家の柱を塗ることができる。流れ出て清水に変わり、東に下り流れる。よって赤湯の泉という」

◎縄文語:「アケ・ユ」=「片割れの・湯」⇒google map

 血の池地獄と呼ばれる国名勝指定の赤い温泉。風土記の「赤い温泉」という意味は、否定できません。

 一応縄文語解釈してみますが、「ぽつんと離れた温泉」という意味になると思います。

□□□「玖倍理湯(くべりゆ)の井」命名由来 □□□

×風土記:「この湯は、郡の西の河直山の東の岸にあり、口径は一丈ほど(約2.97m)あり、湯の色は黒く、泥はいつも流れていない、人が井のそばに行って、大声で叫ぶと、驚いて二丈ほど涌きあがる。その湯気は、燃えるように熱く、近づくべきではない。あたりの草木は、ことごとく枯れ萎む。よっていかり湯の井という。俗の語に玖倍理湯の井という」

◎縄文語:
・玖倍理湯=「キピ・ユ」=「水際の崖の・湯」
・いかり湯=「エンコ・ユ」=「岬の・湯」
⇒google map

 風土記の「くべりゆ」は、「湯煙のくずぶる様」を表すとされ、比定地は鉄輪温泉とされていますが、確定ではありません。
 筆者が考えるに、この「湯煙がくすぶる」の解釈は、発音に似た言葉を日本語から探し出しただけです。

縄文語解釈では、玖倍理湯もいかり湯も、同類の意となります。「水辺の崖の温泉」ですから、鉄輪温泉のほかにもいくつか候補が出てきそうです。「水辺」自体が温泉を示しているとも考えられ、とすれば、「崖下の温泉」ということになります。

 この「キピ=水際の断崖」は、「岐阜」や「吉備」の由来ともなっています。極めて確度の高い縄文語解釈です。
⇒google ストリートビュー(岐阜城から長良川を望む)
⇒google ストリートビュー(岡山県玉野市王子が岳)

■■■「柚富郷(ゆふ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「この郷の中に、栲の樹(かじの木)がたくさん生えていた。常に栲の皮をとって、木綿を作った。よって、柚富郷という。
 柚富の峯。柚富郷の西にあり。この峯の頂に岩屋あり。その深さ十丈(約29.7m)、高さ八丈四尺、広さ三丈。常に氷があり、夏を経ても溶けない。すべて柚富郷はこの峯に近い。よって峯の名とする」

◎縄文語:「イェ・プ」=「溶岩の・倉の形の山」⇒google map

 比定地は湯布院です。

 縄文語は、間違いなく由布岳を指しています。溶岩ドームが数個、山頂には溶岩がごろごろしている、倉の屋根のような形の山です。
 地勢も発音も完全に一致していて、極めて確度の高い縄文語解釈と言えます。
⇒googleストリートビュー

□□□「頚峯(くびのみね)の井」命名由来 □□□

×風土記
:「柚富の峯の西南にある。この峯の下に水田(こなた)あり。本の名は宅田(やけだ)である。この田の苗を、鹿が常に食べる。田の主が柵を作って伺い待っていると、鹿が来て、頚をあげて柵の間に入れて苗を食べた。名の主は、鹿を捕らえて、その頚を斬ろうとした。
 その時、鹿が請うて言った。『私は、今、誓いを立てます。私の死罪を許してください。もし大きな恩をいただき、また生きることができれば、私の子孫に、苗を絶対に食べてはならないと伝えます』と。
 田の主は、ここに大変不思議に思って、許して斬らなかった。
 その時以来、この田の苗は、鹿に食べられず、実りを得た。よって頚田といい、また、峯の名とした」

◎縄文語:
・頚峯=「キピ」=「水際の崖」
・宅田=「ヤンク・チャ(or田)」=「先住民の・岸(or田)」
 or=「ユ・チャ(or田)」=「鹿の・岸(or田)」
⇒google map

 由布岳の南西方向ですが、比定地ははっきりしません。よって、縄文語解釈の確度についても何とも言えません。

▼▼▼「国埼郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「景行天皇の御船が、周防国の佐波郡を出発してこの地に渡って来た。遙かにこの国を見て勅して曰く、『あそこに見えるのは、国の埼か』と仰った。よって国埼郡という」

◎縄文語:
「クッ・ネ・サン・ケィ」=「崖・の・出崎の・頭」or
「クッ・ネ・サン・ケ」=「崖・の・出崎の・ところ」
⇒google map

 比定地は言うまでもなく国東半島です。

 詳しくは前述の「大分」の項をご参照ください。

■■■「伊美郷(いみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「景行天皇がこの村にいるとき、勅して曰く、『この国の道のりが遙かに遠く、山谷が険しく深く、往来もほとんどない。この国をようやく見ることができた』と仰った。よって国見の村という。今、伊美郷というのは、その訛りである」

◎縄文語:
・伊美=「エン・ムィ」=「尖った・頂」
・国見=「クッ・ネ・ムィ=「崖・の・頂」
⇒google map

 比定地は国東市国見町伊美周辺です。

 伊美も国見も国東も、ほぼ同様の意に捉えられます。すべて国東半島の地勢です。


日出ずる国のエラーコラム
第七十七回 <九州総括>宮崎県の古墳名から王朝交代を探る! ~弥五郎塚は縄文語で「先住民の墓」の意!宮崎の大規模古墳はすべて先住民の墓だ!

 まずは、九州の古墳の縄文語解釈を総括して。

 風土記の残る出雲国、播磨国、常陸国。これらの地域の古墳名は、少なくとも6世紀代まで縄文語解釈可能でした。このことは、ヤマト主導の元に上代日本語で編纂された記紀、風土記(8世紀初頭)までの間に、大きなブラックボックスが存在することを暗に示しています。

 一般的に、西国に至るまで縄文語(アイヌ語)が使用されていたとすると、違和感を持つ人が多数いるとは思いますが、筆者が考えるに、少なくとも邪馬台国時代において縄文語が使用されていたのは確実と言えます。
 それは、日本の国号由来を始め、当時の地名、国名などから明らかです。

・日本=「チュ・パ」=「太陽の・上手=東の国」※朝鮮半島、大陸から見て東の意
・九州=「クーソ」=「対岸」※朝鮮半島から見て対岸の意
・末盧国=「モィチャ」=「入江の入口」
・伊都国=「エテュ」=「岬」
・一大率=「エテュ・タ・アン・サ・チャ」=「岬・そこに・ある・浜の・館」

 さらに、陰暦月が縄文語で「月の満ちる過程」と解釈できることからも、日本全域で縄文語が使用されていたことは確実です。

 それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。その謎解きのために古墳名の縄文語解釈を始めましたが、それもついに九州までたどり着いてしまいました。

 当初、九州の古墳を縄文語解釈するにあたり、風土記の残る豊後と肥前を重点的に進めようとしましたが、残念ながら確度の高い解釈をそれほど見つけることができませんでした。さすがに根拠が希薄すぎるので、方針を変更して九州全域を徹底的に調べてみることにしました。
 通説においては「九州=アイヌ語」はあり得ないと考えられているので、例証は一つでも多くあることに越したことはありません。

 結果、かなり面白いことが見えてきました。
 九州でも6世紀代まで縄文語が使用されていたのは確実です。確度の高い解釈が見つかったのは、大分県北部、福岡県一帯、佐賀平野、熊本の一部、そして特に宮崎の大規模古墳が顕著な例を示してくれました。 これらの古墳は、おそらくは縄文語を使う先住民の墓です。

 筆者がここで言う先住民とは「縄文人+弥生人+大規模古墳人」です。なぜなら、彼らは、生物学的な特徴は違えど、同じ言語、文化を共有していた可能性が高い人々(倭人)だからです。
 異種なのは、上代日本語を使い始めた古代ヤマト王権の人々の方です。

 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。即位から奈良に入るまでに実に19年、ようやく奈良に辿りついたのはその晩年です。
 同時期、九州ではヤマトに逆らった磐井の乱があります。その後、熊本の宇土地方も出雲の意宇平野の勢力と協力してヤマトに対抗しています。九州にも、出雲にも縄文語使用の痕跡があります。

 権力側の意図を多分に含んで編纂された日本書紀、古事記、風土記には、無数のデタラメ創作物語が盛り込まれています。緻密な中国古文献で漢字を学んだであろう人々が敢えてこれらを編纂した(編纂させられた)のです。これらの文献を正攻法で読み解いていては、日本の歴史の真実は見えてきません。

 次回からは、いよいよ豊後国風土記、肥前国風土記にとりかかります。新たな発見があることを期待しています。

※縄文語解釈した古墳の中には、後世の命名のものが紛れているかもしれません。その場合は、お知らせいただければ幸いです。

【今回取り上げる内容】
弥五郎塚古墳/大久保塚古墳/水神塚古墳/百足塚古墳/機織塚古墳/霧島塚古墳/瀬戸塚古墳/千畑古墳/尾畑古墳/男狭穂塚古墳/女狭穂塚古墳/船塚古墳(西都市)/姫塚古墳/計塚古墳/山の神塚古墳/松本塚古墳/船塚古墳(宮崎市)/御陵墓古墳/狐塚古墳

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■ 弥五郎塚古墳 ■■■
(児湯郡新富町/前方後円墳)⇒google map

●「ヤウンク・テュ」=「本国人の・小山」

 墳丘長95m、楯形の周堀、周堤を持つ前方後円墳。祇園原古墳群中2番目の規模。この古墳からの出土物はありませんが、陪冢と見られる近隣古墳から6世紀中頃~後半の須恵器が出土しています。

 この古墳の縄文語解釈に登場する「弥五郎=ヤウンク=本国人」は非常に重要です。発音がピタリと一致しています。
 弥五郎は宮崎、鹿児島に伝わる巨人伝説ですが、隼人の反乱(720年)を率いた人物だったという説もあります。隼人も本国人でしょうから、その対比となる律令政府の人々が渡来人であった可能性が出てきます。
 つまり、

◆隼人の反乱=「縄文語の隼人」vs「上代日本語の律令政府」

 だったのではないかということです。

 さらに、「本国人」という表現をよくよく考えると、対比となる「渡来人」の割合が小さい場合、このような表現を用いる必要性は低く感じられます。例えば、仮に「本国人:渡来人=8:2」であった場合、本国人がマジョリティである以上、わざわざ「本国人の」というような形容はいりません。反対に、逆の割合の場合は必要となります。
 ということは、この時代、この周辺では、古墳を築くような上層部の人々には、すでにかなりの割合で渡来人が含まれていた可能性が高いということになります。

 また、この「ヤウンク」に関連して、出雲の形容である「八雲立つ」についても同様のことが言えます。

●八雲立つ=「ヤウンク・モィ・テューテュ」=「本国人の・入り江の・出崎」

 出雲国風土記には八束水臣津野命が「八雲立つ」と言ったのが出雲国の命名由来だとありますが、そんな訳ありません。漢字表記にこじつけて物語に雲を登場させただけです。「出雲」の縄文語解釈は「八雲立つ」と一致します。

●出雲=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
●投馬=「テュー・モィ」=「岬の・入り江」

 つまり、出雲は縄文語を使う本国人の国で、6世紀肥後の宇土地方と手を結んでヤマト王権と対峙していた可能性が高いということですから、この勢力に隣国日向も加わる可能性が出てきたということです。

 また、出雲国の東方には因幡国がありますが、因幡国には出雲の神とされる大国主が兎を助けて八上比売を娶ったという「因幡の白兎」の神話があります。しかし、「白兎」縄文語解釈すると以下のようになります。

●白兎=「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜の・ところ」=白兎海岸⇒google map

 白兎海岸はまさに「山裾の浜」です。ぜひ、google mapで確認してみてください。日本神話の多くはこのような漢字表記のこじつけから生み出されています。

■■■ 大久保塚古墳(別名:大公方塚古墳) ■■■
(児湯郡新富町/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「オン・ケ・テュ」=「古い方の・縁の・小山」

 墳丘長84m、祇園原古墳群中3番目の規模の前方後円墳。楯形の周濠、円筒埴輪などが出土。

 巨大古墳の中では古い方の古墳。縄文語解釈と一致します。

■■■ 水神塚古墳 ■■■
(児湯郡新富町/古墳時代後期/前方後円墳)⇒google map

●「スィ・チウェ・テュ」=「穴の・水脈の・小山」=周濠のある古墳

 墳丘長49.4m。楯形の周濠、円筒、人物埴輪が墳丘上に並べられていました。

■■■ 百足塚(むかでづか)古墳 ■■■
(児湯郡新富町/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「メ・カ・タ・テュ」=「泉の・ほとり・そこにある・小山」=周溝のある古墳

 墳丘長82m、祇園原古墳群中4番目の規模の前方後円墳。楯形の周濠、多種多様の埴輪が出土。

 縄文語解釈そのままです。

■■■ 機織塚古墳 ■■■
(児湯郡新富町/6世紀中頃~後半/前方後円墳)⇒google map

●「パ・タ・オリ」=「岬・そこにある・丘」

 新田原台地より一段高い段丘の傾斜地に築造。浅い周溝、動物の足と思われる埴輪が出土。

 縄文語解釈と地勢、発音がピタリと一致しています。

■■■ 霧島塚古墳 ■■■
(児湯郡新富町/前方後円墳)⇒google map

●「キ・チャ・ムィェ・テュ」=「山の・縁の・頂の・小山」=河岸段丘の突端の古墳

 墳丘長97m、祇園原古墳群最大の前方後円墳。一ツ瀬川に突き出た丘陵に築造。新田原古墳群最古の可能性。

 縄文語解釈そのままの地勢です。河岸段丘の突端に築かれた古墳。

■■■ 瀬戸塚古墳 ■■■
(児湯郡新富町/前方後円墳)⇒google map

●「シアン・ト・テュ」=「大きな・湖の・小山」=大きな周濠の古墳

 墳丘長62.7m、濠、堤を含めて全長98m。現在自衛隊基地で消滅。

 消滅していますが、縄文語解釈そのままの構造です。周濠のある古墳。

■■■ 千畑(ちばたけ)古墳 ■■■
(宮崎県西都市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「チュパ・チャ・ケ」=「日の上(東)の・岸の・ところ」

 墳長60mの前方後円墳。一ツ瀬川左岸の台地裾の斜面に築造。

 縄文語解釈そのままです。一ツ瀬川東岸に築かれた古墳。
 この「チュパ」は、日本の国号と同語源です。日本は縄文語で「東の国」の意。日本海は「東の海」の意。
 奈良の三輪山の麓の海柘榴市も、「椿が咲いていた」などという俗説はもうやめて、「東の市」とした方が圧倒的に信憑性があります。

■■■ 尾畑古墳 ■■■
(宮崎県西都市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「オ・パ・チャ・ケ」=「川口(川の合流点)の・岬の・岸の・ところ」

 径10m前後の円墳。一ツ瀬川支流の、瀬江川と竹尾川の合流点の台地の突端に築かれた古墳。

 縄文語解釈そのままですが、どうやら地名由来のようです。


■■■ 男狭穂塚古墳 ■■■
(西都市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「サンポ・テュ」=「小さな平山の・小山」

 墳丘長176m、帆立貝形の巨大前方後円墳。宮内庁によりニニギの墓と推定されています。

 ニニギは伊都国にいました。また、ニニギはアマテラスの孫ですから、築造時期がまったく合いません。言うまでもなく、これはニニギの墓ではありません。

■■■ 女狭穂塚古墳 ■■■
(西都市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「サンポ・テュ」=「小さな平山の・小山」

 墳丘長176.3m、九州最大の前方後円墳。宮内庁によりニニギの妻の木花開耶姫の墓と推定されています。

 この木花開耶姫の墓というのももちろん違います。

■■■ 船塚古墳(西都原265号墳) ■■■
(西都市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「ペナ・テュ」=「川上の・小山」

 全長59.2m、西都原台地北縁に築かれた前方後円墳。古くから「船塚」と呼ばれているようですが、船に関連する出土物はありません。

 縄文語解釈そのままです。東を流れる一之瀬川やその支流見ても、西都原古墳群の中でも最も川上に位置する代表的な古墳。

 繰り返しになりますが「船=ペナ=川上」は頻繁に地名に登場する言葉です。この地域での築造時期の縄文語使用は、まず間違いありません。

■■■ 姫塚古墳(西都原202号墳) ■■■
(西都市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●姫塚=「シ・メ・テュ」=「大きな・泉の・小山」=大きな周濠の古墳

 墳丘長51m、幅10mの楯形の周濠を持つ、西都原古墳群最終期の前方後円墳。

 縄文語解釈の「シ・メ・テュ」は、新田原古墳群の瀬戸塚古墳と同義です。

●瀬戸塚=「シアン・ト・テュ」=「大きな・湖の・小山」=大きな周濠の古墳

 瀬戸塚は残念ながら現存しません。墳丘長62.7m、濠、堤を含めて全長98m。

■■■ 計塚古墳 ■■■
(児湯郡高鍋町/前方後円墳)⇒google map

●「パケ・リ・テュ」=「岬の・高いところ」=河岸段丘の突端の古墳

 祇園原古墳群最大の前方後円墳。

 縄文語解釈そのままの地勢です。河岸段丘の突端に築かれた古墳。

■■■ 山の神塚古墳 ■■■
(児湯郡高鍋町/前方後円墳)⇒google map

●「ヤマ・ノッケ・ムィェ・テュ」=「山の・岬の・頂(or入り江)の・小山」

 現存長約46mの前方後円墳。台地の突端、谷の下り口に築造。

 縄文語解釈そのままの地勢です。「山神様」の意とは思えません。

■■■ 松本塚古墳(別名:船塚) ■■■
(西都市/5世紀後半~末/前方後円墳)⇒google map

●船塚=「ペナ・テュ」=「上流の・小山」

 墳丘長104m、周溝を含めた全長は149m。陪冢の円墳を伴います。同時期では南九州最大 規模の前方後円墳。大阪府羽曳野市の軽里大塚古墳(5世紀後半)の相似形ではないかと言われています。

 縄文語解釈の「ペナ=上流」は、東国から西国まで頻繁に登場する表現です。解釈はまず間違いありません。
 また、軽里大塚古墳と相似形と言われていますが、当時の羽曳野市周辺の古墳名も縄文語解釈できているので、この古墳名の縄文語使用も妥当だと言えます。

 地元には神武天皇の父のウガヤフキアエズの墓という伝承がありますが、残念ながら違うと思います。神武天皇は第十代崇神天皇と同一人物で、ウガヤフキアエズは崇神天皇の父です。ですから、墓はヤマトにある可能性が高いです。九州であっても、ニニギ系であれば、伊都国です。※第三十回コラム参照。

■■■ 船塚古墳 ■■■
(宮崎市/古墳時代中期後半~後期前半/前方後円墳)⇒google map

●船塚=「プッ・ナ・テュ」=「川口の・方の・小山」=川の合流点(分岐点)の小山

 全長76.8mの前方後円墳。大淀川によって形成された沖積台地上に築造。

 縄文語解釈するにあたり、「船=ペナ=上流」かと思ったのですが、地勢を見るとまったく違います。他の古墳との相対関係を見ると、むしろ川下です。

 こういう場合は、川下の形状が当時と現在で大きく変わっていることが頻繁にあります。調べて見ると、大淀川の下流は、何度も流路を変えています。築造当時、海に向けて幾筋かの流路があったのではないでしょうか。
 ということで「船=プッ・ナ=川口の・方」とすれば、ピタリと地勢に一致します。

■■■ 御陵墓古墳(別名:経塚、可愛山陵(えのみささぎ))※ニニギの墓治定 ■■■
(延岡市/円墳)⇒google map

●経塚=「キ・オ・テュ」=「山・裾の・小山」

 ニニギの墓伝承がある、可愛岳東麓に築造。

 ニニギは伊都国の人ですから、残念ながらここにはいません。天孫降臨の地は日向峠のある伊都国です。※第三十回コラム「ニニギはヤマトから一大率に派遣された!」参照。 

■■■ 狐塚古墳 ■■■
(日南市/円墳)⇒google map

●「クテュニン・テュ」=「岩の段々のついている崖の・小山」

 径14~16m、砂丘上に築かれた円墳。墳丘は破壊で形状は見ることができません。病院の敷地内に立地。 

 狐塚は全国にあります。「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」の意です。この日南市の狐塚も砂丘上ですから、類似地形です。

 詳しくは第三十六回コラムをご参照ください。各地の狐塚の地勢をご覧いただけます。伏見稲荷と狐の関係についても詳述しています。狐の物語は縄文語に充てた漢字から創作されているだけです。



日出ずる国のエラーコラム
第七十六回 熊本県の古墳名から王朝交代を探る!

【今回取り上げる内容】
江田船山古墳/虚空蔵塚古墳/塚坊主古墳/チブサン古墳/オブサン古墳/馬塚古墳/亀塚古墳/端山塚古墳/大坊古墳/小路古墳/楢崎古墳/向野田古墳/宇賀岳古墳/池尾古墳

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■ 江田船山古墳 ■■■
(玉名郡和水町/5世紀末~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「プッ・ナ・ヤマ」=「川口(川の合流点)の・方の・山」

 墳丘長62メートル、盾形の周濠の古墳。豊富な副葬品、銘文のある鉄刀が出土。

 説明の必要はないかもしれませんが「ワカタケル大王」(雄略天皇)の銘文があります。
この古墳が縄文語解釈できるというのはどういうことでしょうか。
 埼玉県行田市の稲荷山古墳(5世紀後半)からも銘文のある鉄刀が出土していますが、この周辺でも明らかに縄文語が使われていた痕跡があります。

 つまり、書記官と庶民はまったく異なる言語を使っていたということになるのではないでしょうか。

 菊池川と江田川の合流点ですから、縄文語解釈に齟齬はありません。

■■■ 虚空蔵塚古墳 ■■■

(玉名郡和水町/前方後円墳)⇒google map

●「コッ・クッチャ・テュ」=「谷の・入口の・小山」

 墳丘長44メートル、菊池川と江田川の合流点、江田船山古墳の南西に位置する古墳。

 虚空蔵はいわゆる虚空蔵菩薩とするのが一般的だと思いますが、この古墳と虚空蔵菩薩の一致点はあるのでしょうか。縄文語解釈と地勢は一致しています。

 縄文語に似ている音の漢字を充てただけの疑いがあるので、他の虚空蔵を冠する古墳も見てみましたが、残念ながら確証は得られませんでした。

【参考】他の虚空蔵塚(or山)古墳
・虚空蔵山古墳(埼玉県行田市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
 ※墳丘上に虚空蔵菩薩あり。小河川の入口。
・虚空蔵塚古墳(群馬県渋川市/7世紀後半/円墳)⇒google map
  ※石室に虚空蔵菩薩あり。吾妻川の入口。
・鬼の岩屋虚空蔵古墳(熊本県八代市/円墳)⇒google map
 ※明らかに後世の虚空蔵由来。河川の入口も遠い。

■■■ 塚坊主古墳 ■■■
(玉名郡和水町/前方後円墳)⇒google map

●「テュ・ポッチェ・イ」=「小山が・ドロドロしている(ぬかるんでいる)・ところ」

 墳丘長43.4mの前方後円墳。幅4.6~6mの周溝が廻っています。周溝を含めると全長54m。

 縄文語解釈が妥当だとすると、周溝にあまり水がなく、ぬかるんでいたということになります。


■■■ チブサン古墳 ■■■
(山鹿市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「チェ・サン」=「魚のような・平山」=前方後円墳

 墳丘長44mの前方後円墳。壁画に描かれた二つの円が乳房に似ていることから命名されたと言われていますが、おそらくは違います。

 縄文語解釈は横から見た前方後円墳の形状を示しています。

■■■ オブサン古墳 ■■■
(山鹿市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「オ・サン」=「槍の柄の・平山」=柄がある古墳

 径22m、周溝4mの円墳。開口部前方両脇に矩形の突出部がある特異な古墳。

 縄文語解釈が、発音、構造ともに完全一致しています。日本語ではないことは明らかです。チプサン古墳と併せて非常に確度の高い縄文語解釈です。

■■■ 馬塚古墳 ■■■
(山鹿市/6世紀中頃/円墳)⇒google map

●「マーテュ・カ」=「波打ち際の・ほとり」
or
「マ・テュ」=「谷川の・小山」

 岩野川右岸の丘陵に築かれた古墳。

 馬の神様としての信仰が古くからあるらしいですが、これも漢字表記にこじつけた空想物語です。
 縄文語解釈の川辺の古墳の意で間違いありません。

 以下ご参照下さい。馬塚、万塚、枡、松すべて「水辺の古墳」の意です。


【参考1】「マーテュ」の解釈が可能な各地の古墳 ※第五十七回コラム引用。
◎枡塚古墳(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map
=「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」
 ※日本海を望む段丘に築造。
◎マンジュウ古墳(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
=「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
 ※ため池の際に築造。
◎爺ヶ松古墳(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
=「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」
 ※峰に挟まれた池畔。
◎相作馬塚古墳(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map
 ※池畔。
◎万塚古墳(香川県高松市/6世紀)⇒google map
=「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」
 ※平池の南岸に築造。
◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map
 ※池畔。

【参考2】各地の枡形のつく地名 ※いずれも川沿い、海沿い
◎神奈川県川崎市多摩区枡形 ※多摩川支流沿い⇒google map
◎愛知県名古屋市北区1丁目桝形町 ※庄内川支流沿い⇒google map
◎京都府京都市伏見区桝形町 ※濠川沿い⇒google map
※秀吉が伏見城の外堀として開削したが、それ以前も川沿いではなかったか。
◎愛媛県宇和島市桝形町 ※宇和島港沿い⇒google map

■■■ 亀塚古墳 ■■■
(山鹿市/前方後円墳)⇒google map

●「コ・マ・テュ」=「湾曲した・川の・小山」=菊池川が湾曲しているところの古墳

 詳細は不明。

 前方後円墳に亀塚ですから、少々違和感があります。縄文語解釈のように菊池川の曲がりを指したとすれば辻褄が合います。

■■■ 端山塚古墳 ■■■
(山鹿市/円墳)⇒google map

●「パ・ヤマ・テュ」=「岬の・山の・小山」

 詳細は不明。

 菊池川の際の台地の南端に築造されています。縄文語解釈そのままの地勢です。

■■■ 大坊(だいぼう)古墳 ■■■
(玉名市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「トィ・ポ」=「小さな墓」

 全長50mの装飾古墳。菊池川と支流の繁根木川に挟まれた丘陵の南斜面に築かれています。

 縄文語解釈は確度が高いとは言えません。

■■■ 小路(しょうじ)古墳 ■■■
(玉名市/6世紀末/円墳)⇒google map

●「シ・オ・チャ」=「山・裾の・岸」

 径9~11mの円墳。玉名平野北部の丘陵の東南端、標高20mの山頂に築造。現在地に移築復元。

 菊池川沿いですから、縄文語解釈そのままの地勢です。ただ、「小路」単体で古墳名とはなりえないので、地名由来でしょうか。
 繰り返しになりますが、「シ・オ」塚は、日本各地にあり、新皇、親王、新皇、将、白、塩、などの漢字が充てられています。

■■■ 楢崎古墳 ■■■
(宇土市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「ナラ・チャ・ケ」=「山中の平地の・岸の・ところ」
or
「ナラ・サ・ケ」=「山中の平地の・浜の・ところ」

 全長46mの前方後円墳。花園池の池畔に築かれています。

 縄文語解釈は、池畔の地勢と一致していますので、確度が高そうです。

■■■ 向野田古墳 ■■■
(宇城市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「ムィ・カ・ウン・ノッ・チャ」=「入江の・ほとり・にある・岬の・岸」

 全長90mの前方後円墳。女性の埋葬者、多くの副葬品。

 縄文語解釈は一応地勢と一致していますが、かなり自信がありません。

■■■ 宇賀岳古墳(通称:鬼の岩屋) ■■■
(宇城市/古墳時代後期/巨石横穴型)⇒google map

●「ウカ・タ」=「折り重なっている・石」



 封土が失われ横穴式石室のみだったが、現在復元。

 縄文語解釈は構造と一致していますが、確度の高い縄文語解釈できる古墳があまりにも周辺にないので、何とも言えません。

■■■ 池尾古墳 ■■■
(宇城市/6世紀/円墳)⇒google map

●「エンコ・オ」=「岬の・尻(裾)」

 径8mの小円墳。丘陵の裾に築かれています。



日出ずる国のエラーコラム
第七十五回 佐賀県、長崎県の古墳名から王朝交代を探る!
【今回取り上げる内容】
雌塚古墳/岩田丸山古墳/関行丸古墳/銚子塚古墳/西隈古墳/築山古墳/船塚古墳/小隈山古墳/円山古墳/多蛇古古墳/玉島古墳/谷口古墳/鬼塚古墳/ひさご塚古墳

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈
▼▼▼ 以下佐賀県の古墳 ▼▼▼

■■■ 雌塚(めずか)古墳 ■■■
(三養基郡みやき町/4世紀後半~5世紀初頭/円墳)⇒google map

●雌塚=「メ・テュ」=「泉の・小山」

 径32mの前期の大型円墳。西南脇に雄塚と呼ばれる古墳があったようですが、現在は消滅しています。

 普通に考えれば、「メス」と「オス」の対比なのですが、周辺古墳が縄文語解釈できているので、この古墳だけ漢字表記からの解釈とするのは逆に不自然です。また、なぜか「メス塚」ではなく「メ塚」の読みです。

 この古墳は池畔に築かれているので縄文語解釈そのままの地勢です。西南にあった雄塚は

●雌塚=「オ・テュ」=「後ろの・小山」

 と解釈すれば、地勢と完全一致します。

■■■ 岩田丸山古墳 ■■■
(神埼市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 全長20mの前方後円墳。

 現地案内看板には、「円形の丘陵上に築かれた」という記述があり、「丸山」の表記と関連づけているような雰囲気がありますが、本当でしょうか。

 この丸山という古墳は各地にありますが、ことごとく水辺にあります。この岩田丸山古墳の周囲は、後世の開発ではっきりとした水辺があったかどうか不明ですが、上流の水源より流れ出る河川があったことは想像に難くありません。

 ただ、そこに確証はありませんので、周辺古墳の解釈を進め、裏付けを補強したいと思います。

■■■ 関行丸(せきぎょうまる)古墳 ■■■
(佐賀市/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「チゥケ・クー・マ・オロ」=「水脈を・飲む・谷水の・ところ」

 全長55mの前方後円墳。5体の遺骸が発見されています。

 縄文語解釈はちょっと自信がありませんが、川端、池畔の立地なので、「マ・オロ=谷水の・ところ」の解釈は確実です。

■■■ 銚子塚古墳 ■■■
(佐賀市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「チー・テュ」=「中窪みの・小山」=前方後円墳

 全長98mの前方後円墳。周溝を含めた面積は、佐賀県最大。

 銚子塚は日本全国にあります。また「銚子」を冠する地名も日本全国にあります。共通するのは決して「酒器の銚子」ではありません。縄文語の「チーシ=中窪み」です。
 詳しくは第三十六回コラムの「銚子塚/銚子山古墳」の項をご参照ください。非常に確度の高い縄文語解釈です。

■■■ 西隈古墳 ■■■
(佐賀市/5世紀末/円墳)⇒google map

●「ニセィ・クマ・テュ」=「川端の崖の・横山」

 径30mの円墳。

 発音も地勢も完全に一致しています。また、漢字表記の意味も通じません。極めて確度の高い縄文語解釈です。
 現地周辺のストリートビューでご確認ください。
⇒google ストリートビュー1(※正面の平山の麓に立地。小河川沿いです。)
⇒google ストリートビュー2(※古墳背後の地勢。急斜面の崖のような地勢です。)

■■■ 築山古墳 ■■■
(佐賀市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「チゥ・ケ・ヤマ」=「水脈の・ところの・山」

 前方部が造成で破壊された前方後円墳。円筒、鎧の埴輪、勾玉、管玉、直刀が出土。

 再掲となりますが、各地の築山古墳を挙げます。すべて「小河川(水脈)」沿いであることが分かります。非常に確度の高い縄文語解釈です。

【参考】各地の築山古墳 ※第73回コラム引用
・築山古墳(愛知県稲沢市/円墳) ⇒google map
・築山古墳(奈良県大和高田市/5世紀/前方後円墳) ⇒google map
・高屋築山古墳(安閑天皇陵)(大阪府羽曳野市/6世紀初頭/前方後円墳) ⇒google map
・築山古墳(大阪府堺市/5世紀/円墳)⇒google map
・築山古墳(岡山県瀬戸内市/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
・上塩冶築山古墳(島根県出雲市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
・築山古墳(糸島市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map
・築山古墳(大分市/5世紀/前方後円墳) ⇒google map

■■■ 船塚古墳 ■■■
(佐賀市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「ペナ・テュ」=「川上の・小山」

 墳丘長114m、佐賀県最大規模の古墳。幅12~18mの周濠あり。陪冢が11基もある、大豪族の古墳。

 このような大規模古墳が「船塚」という名前で本当にありがたいです。
 「船=ペナ=川上」はこれまで何度も登場しています。確実な縄文語解釈で、この地域でのこの時期の縄文語使用は確実です。
 もちろん、上流に築かれた古墳で、地勢とも完全に一致しています。

■■■ 小隈山古墳 ■■■
(佐賀市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「オ・クマ」=「中窪みの・横山」

 脊振山系南麓の独立丘陵上に立地する全長63mの前方後円墳。船塚古墳と同じ系譜の埋葬者と言われています。

 古墳の立地する独立丘陵と、背後の脊振山の峰が中窪みを挟んで峰続きであることが分かります。縄文語解釈とは一致する地勢ですが、地名由来の命名である可能性があります。
⇒google ストリートビュー(※正面の峰の先端の丘陵上に立地)
⇒さがの歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベースサイト)

■■■ 円山古墳 ■■■
(小城市/5世紀後半/円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 径46mの大型円墳。

 現地案内看板には、円墳なので「丸山」だとの解説がありますが、間違いです。なぜなら、この古墳の築造は5世紀後半。そして、東方約2km、5世紀中頃に築造されたこの地方随一の規模の船塚古墳は、極めて確度の高い縄文語解釈が可能です。
 さらに、九州には数多くの「丸山古墳」が存在し、ほぼすべて「川辺(水辺)に築かれた古墳」「川辺(水辺)の山に築かれた古墳」で、円墳よりも前方後円墳が圧倒的に優勢です。

 よってこの円山古墳だけが「丸い山」由来の命名であるはずがありません。

【参考1】九州地方の「丸山古墳」 ※第73回コラム引用。
入津原丸山古墳(大分県豊後高田市/4世紀末~5世紀初頭/帆立貝形古墳⇒google map
  ※河川に挟まれた立地。
猫石丸山古墳(大分県豊後高田市/6世紀/前方後円墳⇒google map
  ※川に挟まれた山に築造。
丸山古墳(大分県臼杵市/5世紀中頃/円墳⇒google map
  ※川辺の山築造。
箕田丸山古墳(福岡県京都郡/6世紀半ば/前方後円墳⇒google map
  ※川岸、池畔に立地。
島津丸山古墳(福岡県遠賀郡/古墳時代前期/前方後円墳⇒google map
  ※川に挟まれた立地。

■■■ 茶筅塚古墳 ■■■
(佐賀市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

 全長50m、佐賀平野で最も古い前方後円墳。

 「茶筅」ですから、茶が伝来した後の命名でしょうか。さすがに、前方後円墳が「茶筅の形状」に似ていることから命名されたという流れを否定することはできません。

 ただ、もともとは同時期の「銚子塚古墳」と同じ

●「チー・テュ」=「中窪みの・小山」

 で、後世に「茶筅塚」の漢字が充てられた可能性もあると思います。

■■■ 多蛇古(たいじゃこ)古墳 ■■■
(佐賀市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「タン・チャ・ケ」=「こちら・岸の・ところ」

 全長40m、武雄市内最大規模の前方後円墳。粘土槨。武雄川支流沿いに築造。

 多蛇古が日本語ではないことはあきらかです。縄文語解釈の「タン=こちらの」は、これまでも多数取り上げていますが、比較対象として、同様の地勢が近隣に存在します。つまり、この古墳の場合は、対比として「あちら岸」の古墳がある可能性が高いということです。
 築造時期と地勢を考慮すると、武雄川左岸の矢ノ浦古墳(5世紀前半/前方後円墳)がふさわしく思えます。
 残念ながら、この矢ノ浦古墳は後世の命名の可能性が強いので、縄文語解釈はしていません。

■■■ 玉島古墳 ■■■
(佐賀市/5世紀末/円墳)⇒google map

●「タン・マ・サ」=「こちら・谷川の・ほとり」

 南北48m、東西42m、佐賀県内最大級の円墳。

 これも確度の高そうな縄文語解釈です。地勢そのままで、前述のようにこの「タン=こちらの」の対比となるのは、西方を流れる「六角川」ではないかと思います。

■■■ 谷口古墳 ■■■
(唐津市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「タン・ナィ・クッチャ」=「こちらの・川の・入口」

 全長77mの前方後円墳。

 「谷の入口」の意と言われると、それも否定できない地勢なので、縄文語解釈の確度は周辺古墳次第です。


▼▼▼ 以下長崎県の古墳 ▼▼▼

■■■ 鬼塚古墳(別名:御塚) ■■■
(佐世保市/5世紀後半/円墳)⇒google map

●鬼塚=「オンネ・テュ」=「古い(親の)・小山」
●御塚=「オン・テュ」=「古い・小山」

 御塚は鬼塚の言い換えで、まったく同じ意味です。つまり、この古墳は「鬼塚」がいわゆる「鬼籍に入る」というような意味ではないことを如実に示しています。同様に「鬼の岩窟」のような名称も由来を再検討した方がいいのではないでしょうか。いずれも縄文語に似た音に「鬼」を充てたことから様々な物語が生まれていると思われます。

■■■ ひさご塚古墳 ■■■

(東彼杵郡東彼杵町/5世紀前半~中頃/前方後円墳)⇒google map

●「ピ・サ・ケ・テュ」=「小石の・浜の・ところの・小山」

 全長58.8mの長崎県最大級の前方後円墳。海岸に形成された砂礫丘に築造されています。

 縄文語解釈と地勢、発音、完全一致です。

 「ひさご」は瓢?や夕顔の和名ですが、元来瓢?はくびれたものではありませんでした。くびれた瓢?は中世以降でなければ確認されていません。
※参考文献「ウリとヒョウタンの文化史」辻 誠一郎(東京大学大学院新領域創成科学研究科)-くらしの植物苑だより196 回くらしの植物苑観察会 2015/7/25 国立歴史民俗博物館

 つまり、この命名が中世以降でなければ、いわゆる「瓢?形」の日本語解釈は成立しません。これは単に、縄文語に似た発音から、後世に日本語の「ひさご」を充てた可能性があります。


日出ずる国のエラーコラム
第七十四回 福岡県の古墳名から王朝交代を探る!
【今回取り上げる内容】
上ん山古墳/茶毘志山古墳/荒神森古墳/雨窪古墳/石塚山古墳/番塚古墳/御所山古墳/恩塚古墳/八雷古墳/庄屋塚古墳/橘塚古墳/綾塚古墳/扇八幡古墳/箕田丸山古墳/甲塚古墳/隼人塚古墳/楡生山古墳/金居塚古墳/穴ヶ葉山古墳/一本松塚古墳/門田古墳/東郷高塚古墳/桜京古墳/須多田ニタ塚古墳/高野剣塚古墳/損ヶ熊古墳/八幡塚古墳/合屋古墳/位登古墳/寺山古墳/カクメ石古墳/卯内尺古墳/老司古墳/日拝塚古墳/塚口古墳/鋤崎古墳/丸隈山古墳/兜塚古墳/飯氏二塚古墳/砂魚塚古墳/釜塚古墳/一貴山銚子塚古墳/狐塚古墳/銭瓶塚古墳/ワレ塚古墳/端山古墳/築山古墳/観音塚古墳/仙道古墳/五郎山古墳/横隈山古墳/湯の隈装飾古墳/狐塚古墳/中原狐塚古墳/月岡古墳/塚堂古墳/日岡古墳/塚花塚墳/重定古墳/楠名古墳/安富古墳/御塚古墳/権現塚古墳/藤山甲塚古墳/鷲塚古墳/欠塚古墳/岩戸山古墳/乗場古墳/善蔵塚古墳/丸山塚古墳/鶴見山古墳/丸山古墳/権現塚古墳/蜘蛛塚古墳/クワンス塚古墳

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■ 上ん山(うえんやま)古墳 ■■■
(北九州市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ウェン・ヤマ」=「難所の・山」

 全長約五十一mの前方後円墳。

 この縄文語解釈は考えるまでもありません。発音が完全一致しています。表記どおり「上の山」とも解釈できないので、日本語ではないのは明らかです。
 アイヌ語の「ウェン」は「険しい地形」「交通困難な場所」「飲用にならない水」「事故のあった場所」等に用いられます。

 上ん山古墳の場合、現在の地勢では何が「難所」なのか判然としませんが、ちょっと調べてみると、すぐに判明しました。

 この古墳の所在地である小倉南地区の海沿いは、古くから干潟でした。いわゆる曾根干潟です。昔は海岸線が西側に深く入り込んでいたようなので、上ん山古墳は干潟の際の古墳ということになります。まさに「交通困難な場所」という表現にピッタリです。

■■■ 茶毘志山古墳 ■■■
(北九州市/5世紀後半~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「チャ・ピッチェイ・ヤマ」=「岸が・禿げているところの・山」

 全長54m。大阪の百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳と相似形の前方後円墳。二段築成で、上部の前方部は開かず、下部はバチ形に開いています。
北東に隣接する上ん山古墳に先行する古墳です。

 地勢は、上ん山古墳同様、西に入り込んでいた曾根干潟沿いと考えられます。とすれば、「岸が禿げているところ」という表現はピッタリです。

■■■ 荒神森古墳/カンカンの森古墳/トントンの森古墳 ■■■
(北九州市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●荒神森=「カ・チャ・ウン・モ・ル」=「禿げた(※原義:皮)・岸・にある・小さな・岬」=干潟の岸の古墳

 全長68m。北九州市最大の前方後円墳。

 縄文語解釈の発音が少々ズレている感じがしますが、近隣古墳も考慮すると、確度の高い縄文語解釈であることが分かります。

 まず、この辺はやはり海岸線は西に大きく入り込んでいたようで、日豊本線あたりまで海だったようです。干潟でしょうから、縄文語解釈の内容自体は的を射ていることになります。

 次に、近隣にあったとされる陪冢の「カンカンの森古墳」「トントンの森古墳」を縄文語解釈してみます。

●カンカン(の森)=「カ・カ・ウン・モ・ル」=「禿げた・岸・にある・小さな・岬」=干潟の岸の古墳

●トントン(の森)=「トント・ウン・モ・ル」=「禿地(※原義:なめし皮)・にある・小さな・岬」=干潟の古墳

 いずれも「禿地」の意で、荒神森古墳と完全に一致するだけでなく、前掲の茶毘志山古墳の縄文語解釈とも完全に一致することになります。

●茶毘志山=「チャ・ピッチェ・イ・ヤマ」=「岸が・禿げている・ところの・山」=干潟の古墳

 また、天然の干潟が残る南方の白石海岸沿いに立地する御所山古墳もまったく同様の解釈ができます。(※後述)

●御所山=「カ・チャ・ヤマ」=「禿げた(※原義:皮)・岸の・山」=干潟の岸の古墳

 曾根干潟、白石海岸にあるこれらの古墳の縄文語解釈は、上ん山古墳も含め、極めて確度が高いと言えます。この地域での、古墳築造時期の縄文語の使用はほぼ確実です。

 また、荒神森、カンカン森、トントン森の三つの古墳に共通する「森」とはいったいなんでしょう。古墳の上にのちのち木が生えて森になったということでしょうか。それまで少なくとも何十年かは待たなくてはなりません。

 縄文語で

●森=「モ・ル」=「小さな・岬」=古墳

 とすれば、「塚=テュ=小山」の意と同義となるので、古墳の形容として相応しい表現になります。

■■■ 雨窪古墳 ■■■
(北九州市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「ア・マクン・ペ」=「一方の・奥に行く・ところ」

 苅田町最大の円墳。縄文語解釈は一般的すぎて解釈確度の評価はできません。

■■■ 石塚山古墳 ■■■
(京都郡苅田町/4世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

 全長130m。九州最大、最古級の前方後円墳。墳丘は人頭第の葺石で覆われている。

 日本語の「石の塚=葺石の古墳」の意が妥当に思えるので、縄文語解釈はしません。

■■■ 番塚古墳 ■■■
(京都郡苅田町/5世紀末~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「パン・テュ」=「川下の・小山」

 全長50m。海岸近くの丘陵上に造られた前方後円墳。

 これまで幾度となく登場した「パン=川下の」です。地勢上もピッタリです。ただ、宅地造成中に偶然発見されたようなので、もともとの古墳の呼び名ではないようです。

■■■ 御所山古墳 ■■■
(京都郡苅田町/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「カ・チャ・ヤマ」=「禿げた(※原義:皮)・岸の・山」=干潟の岸の古墳

 全長119mの北部九州屈指の規模の前方後円墳。

 この縄文語解釈も前掲の曾根干潟沿いの古墳群と完全に一致しています。この古墳の都東側にある白石海岸は、苅田町で唯一残っている自然の海岸で、干潮時は広大な干潟が現れます。

■■■ 恩塚古墳 ■■■
(京都郡苅田町/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「オ・ウン・テュ」=「山裾・にある・小山」

 径25m、後期の円墳。大久保山の麓に築かれた古墳。

 縄文語解釈と地勢は一致していますが、特徴のない解釈のため、解釈確度については評価できません。

■■■ 八雷(はちらい)古墳 ■■■
(行橋市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ペチ・ライ・イ」=「川が・死んでいる・ところ」=古い川が停滞しているところ

 川が死んでいるとは、すなわち、流れが滞っているようなところを指します。八雷古墳のそばには小河川が流れているので、その川を指したものと思われます。

 八雷古墳は、豊前、豊後地域、豊国最大級の前方後円墳です。大阪府羽曳野市の白髪山古墳と相似形をしています。ちなみに、白髪は、

●白髪山古墳=「シロケ・ヤマ」=「山裾の・山」⇒google map

 で、峰塚公園の丘陵裾の古墳の意です。生まれながらに白髪だったという清寧天皇の伝説は非常にウソくさいです。アルビノということでしょうか。この類いの漢字表記にこじつけた物語はこれまで数え切れないほど見てきましたが、信憑性を感じたことはほぼありません。
 清寧天皇の館が山裾にあったことに由来しているとする方が圧倒的に説得力があります。皇居とされる磐余甕栗宮(奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社⇒google map )も山裾にあります。

 ほか、豊国の縄文語解釈は、

●豊=「ト・ヤ」=「海・岸」

 の意で、これも「豊かな国」という通説の解釈は明らかに間違いです。

■■■ 庄屋塚古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「シ・オ・ヤ・テュ」=「大地の・尻(端)の・岸の・小山」

 全長85m。みやこ町最大の前方後円墳。

 現地の案内看板に「小河川の浸食で形成された微高地上に築かれた」とあります。縄文語解釈と完全に一致します。

 この「シ・オ」は、ここでは「大地の・尻(端)」と解釈しましたが、「シ=山」の意もあるので、「シ・オ=山・尻(裾、端)」の意でも全国各地で頻繁に使われます。
「シ・オ」には、主に「白」「城」「将」「親王」「新皇」「塩」などの漢字が充てられています。

 各地の将軍塚、親王塚、新皇塚、塩塚、白塚は、すべて山裾、山の端、大地の端に立地しています。決して、通説のように将軍や、親王が埋葬されている訳ではありません。

 また、因幡の白兎も、「白兎=シ・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜の・ところ」で山裾にある白兎海岸のことです。

 少々話が逸れますが、塩のつく地名で有名な「塩尻」も「塩の道の終点」とする通説はまったくの間違いです。「塩尻=シ・ウテュ=山の・間」で、両側から山が迫っている地勢を表します。

 これらには、後世、たくさんの物語が付加されていますが、そのほとんどは漢字表記にこじつけて創造力豊かに生み出された空想物語で、本来の言葉の意味とはまったく異なります。

 日本の八百万の神も、アマテラスを筆頭にこのような漢字こじつけ方式で無数に生み出されていて、その根拠は甚だ怪しいものだらけです。人間が作り出したウソの神様にどんなに祈っても霊験などありません。祖先崇拝や自然崇拝の方が圧倒的に理に適っています。
※筆者の見解では、アマテラスは奇稲田姫なので、崇神天皇(神武天皇)の祖先ということになります。古代天皇家の祖先となるかどうかは、まだまだ不分明です。

 話が大分横道に逸れましたが、この地域での縄文語の使用は確実です。

■■■ 橘塚古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/6世紀末/方墳)⇒google map

●「タン・チャ・ペナ・テュ」=「こちら・岸の・川上の方の・小山」

 一辺37~39mの方墳。

 こちらも庄屋塚古墳同様に、現地の説明看板に「小河川の浸食で形成された微高地上に築かれた」とあります。庄屋塚古墳から南西に続く微高地です。

 「タン=こちらの」がつくと、近隣に比較対象の同様の地勢があるということはこれまでも何度か書いています。橘塚古墳の「タン=こちらの」は、先行して築かれた川下の庄屋塚古墳とするのが相応しく見えます。

 「鼻」「花」などの漢字が充てられることが多いのは「パナ=川下」ですが、この橘塚古墳の場合は、「ペナ=川上」とした方が、庄屋塚古墳との関係性をうまく説明できます。

 橘古墳は、先行する庄屋塚古墳に比して「こちらの古墳」であり、「川上に築かれた古墳」です。

■■■ 綾塚古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「ア・ヤ・テュ」=「もう一方の・陸の方の・小山」

 橘塚古墳に後続する径40mの円墳。橘古墳の西方500mに位置しています。

 ここに登場する「ア=一方の」もまた、前述の「タン=こちらの」と同じように、近隣に同様の地勢があることを示します。この場合は、言うまでもなく、先行する橘古墳との対比です。

 前掲の庄屋塚古墳、橘古墳、綾塚古墳は、みごとにその関係性を古墳名に残しています。ということは、実に7世紀代まで、この地域で縄文語が使用されていた可能性が高いということになります。つまり、縄文語(アイヌ語)は少なくともこの時期まで日本全国で使われていたということになります。

■■■ 扇八幡古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「アケ・ペッチャマ」=「もう一方のところの・川端」

 全長58m、外堤を含めると80m以上。二基の陪冢あり。

 一般的に墳丘上にある扇八幡神社由来の命名とされていると思いますが、筆者の見解は少々異なります。

 日本全国の八幡神社の多くは、川端にあります。つまり「ペッチャム=川端」という地名に八幡神社が後付けで勧請された可能性があると考えています。
※詳しくは第三十七回コラムの八幡塚古墳(各地の八幡塚および八幡のつく地名)の項をご参照下さい。

 この扇八幡古墳も長峡川沿いにありますので、縄文語解釈と地勢は一致しています。

■■■ 箕田丸山古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「(メ・チャ)マ・オロ・ヤマ」=「(泉の・岸)谷水の・ところの・山」

 全長40mの前方後円墳。

 九州には多くの丸山古墳があります。例外なく水辺にあるか、または、水辺のそばの山にあります。(※第七十三回コラム「入津原丸山古墳」の項参照)

 また、この古墳の所在地名は「箕田」ですが、湖沼の多い地勢です。縄文語解釈で「メム・チャ=泉の・岸」と解釈すれば、ピッタリです。

■■■ 甲塚古墳 ■■■
(京都郡みやこ町/6世紀後半/方墳)⇒google map

●「コッ・プチ・テュ」=「窪地(or谷)の・入口の・小山」

 東西43m、南北35m。九州最大の方墳。長養池の岸辺に築かれた古墳。

 発音も地勢も縄文語解釈と一致します。

 この甲山古墳の解釈確度の向上に一役買ってくれるのが、同じ九州福岡県、筑後の藤山甲塚古墳です。
 この地名の「藤山」を縄文語解釈すると、

●藤山(甲塚)
=「プッ・チャ(orチャ)・ヤマ」=「入口の・縁の(or口)・山」
⇒google map

 となり、古墳名とも地勢が一致します。古墳は明星山から伸びる丘陵の先端に築造された、全長70mの帆立貝式前方後円墳です。明星山の麓には、谷や池沼がたくさんあります。
 この藤山は日本書紀の第十二代景行天皇の九州巡視にも登場する古道筋にあります。

 他地域の甲塚、冑塚、兜塚も見てみます。円墳の場合は、日本語のいわゆる「兜の形」のような命名もあるようです。「窪地や谷の入口」の意ととれるものもあり、半々というところです。

【参考】各地のかぶと塚 ※かぶと塚古墳以外も表示されます。
・関東、中部のかぶと塚⇒google map
・関西のかぶと塚⇒google map
・甲山(西宮市)⇒google map


■■■ 隼人塚古墳 ■■■
(行橋市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「ハー・ヤチ・テュ」=「水の引いた・泥(湿地)の・小山」

 全長39mの前方後円墳。祓川東岸の豪族の墓と考えられています。

 近隣には池沼があるので、縄文語解釈から察するに、もともと水のたまりやすい土地だったのではないでしょうか。

■■■ 楡生山(にりょうやま)古墳 ■■■
(築上郡吉富町/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「ニナ・ヤマ」=「川沿いの原野の・山」

 後円部径17mの小規模前方後円墳。

 縄文語解釈は、発音がズレています。また、この古墳名は残念ながら地名由来なので、縄文語使用時期の判断材料にはなりません。

■■■ 金居塚古墳(西方古墳) ■■■
(築上郡上毛町/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map

●「カンナ・イ・テュ」=「上の方にある・ところの・小山」

 全長56mの前方後円墳。この古墳のある丘陵一帯には多くの未調査の古墳が数多く残り、金居塚古墳群として整備が進められています。

 縄文語解釈は、丘陵上にある古墳を指すには相応しい表現です。

■■■ 穴ヶ葉山古墳 ■■■
(築上郡上毛町/6世紀末~7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「アゥ・ナィカ・パ・ヤマ」=「枝・川岸の・岬の・山」

 直径30mの円墳。山国川流域屈指の巨大石室墳。渡来系氏族と関係が深いとも言われています。

 この渡来系という言葉は、そもそも怪しい表現です。筆者が考えるに、当時、朝鮮半島南部にも同じ縄文語を使う倭人がいたはずで、そこの人々が来たのであれば、ただ、同族が引っ越して来たというだけです。渡来人という言葉では、異文化を持つ異国の人というニュアンスが強くなりすぎます。

 この古墳は小河川沿いの丘陵上に築かれています。縄文語解釈は、この古墳の地勢に一致しています。

 また、「穴」はアイヌ語の「アゥ・ナ=枝分かれた・方」「アゥ(orア)・ナィ=枝(or一方の)・川」が充てられることが多く、例としては播磨国の宍禾郡安師(あなし)里、飾磨郡安師里、奈良の穴師坐兵主神社、下総国の穴薬師古墳などがあげられます。いずれも川沿いに立地しています。決して「穴があるから」などという解釈ではありません。
 「穴薬師」は「アゥ・ナ(orナィ)・ヤ・ケシ=枝分かれた・方(or川)の・岸の・外れ」で、「薬師像が祀られている穴」というのは後世に発音からこじつけて設定されたものだと考えます。八幡様(「ペッチャ=川端」)もほぼすべて川沿いなので、縄文語(アイヌ語)の発音に漢字をこじつけて設定された神様と言えます。

■■■ 一本松塚古墳 ■■■
(北九州市/6世紀末/円墳)⇒google map

●「エン・ポン・マーテュ・テュ」=「尖った・小さな・波打ち際の・小山」

 直径15mの円墳。九州北限の装飾古墳。板櫃川下流左岸に立地。

 いわゆる「一本の松」由来でなければ、縄文語解釈はまさにこの古墳の地勢、構造にぴったりの表現です。

■■■ 門田古墳 ■■■
(遠賀郡岡垣町/6世紀/円墳)⇒google map

●「カン・トー・チャ」=「上の・湖の・岸」

 直径12~14mの楕円形墳。門田池に突き出た岬上に築造。

 門田池は溜め池ですが、縄文語解釈が妥当だとすれば、当時から水がたまるような場所だったということになります。

■■■ 東郷高塚古墳 ■■■
(宗像市/4世紀/前方後円墳)⇒google map

●「トケ・テュ」=「湖の外れの・小山」

 全長64.4m。宗像地域初の前方後円墳。長浦池の北方に築造。

 まさに湖の外れの小山です。

■■■ 桜京古墳 ■■■
(宗像市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「サケ・ラケ・オ」=「節のところの・低いところの・尻」

 全長39mの前方後円墳。石室の石屋形の奥壁に赤、緑、黄で塗られた装飾がある古墳。

 棚山の鞍部に立地しています。⇒googleストリートビュー

■■■ 須多田ニタ塚古墳 ■■■
(福津市/5世紀後半/円墳)⇒google map

●「ニタッ・テュ」=「湿地の・小山」

 直径34mの円墳。二重濠。近隣に多数の湖沼あり。宗像一族の墓と考えられています。

 縄文語解釈は発音、地勢ピッタリです。

■■■ 高野剣塚古墳 ■■■
(宮若市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「チ・ケ・テュ」=「水脈の・ところの・小山」

 全長62mの前方後円墳。二段築成、葺石、円筒埴輪、周溝あり。犬鳴川と黒丸川の合流点に築造。

 日本全国にある「チ=水脈」の地名です。多くは「ツル」と発音され「鶴」などの漢字が充てられています。

■■■ 損ヶ熊古墳 ■■■
(宮若市/6世紀末~7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「ソケ・クマ」=「土が崩れている・横山」

 径14.4mの円墳。墳丘表から弥生式土器が出土。赤色顔料による格子模様の壁画あり。

 縄文語解釈どおりの地勢ですが、発音が少々ズレているのが残念です。


■■■ 八幡塚古墳/別当塚/斎藤塚 ■■■
(宮若市/5世紀後半/円墳)⇒google map

●八幡塚=「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」

 径35m、犬鳴川流域最大の円墳。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。これまで幾度となく登場した「八幡=ペッチャム=川端」です。二見、富士見なども同語源です。

 近隣に別当塚と斎藤塚があったとされています。別当塚は現存しません。

●別当塚=「ペッチャ・テュ」=「川岸の・小山」

 これも八幡塚と似た語源です。斎藤塚も無理矢理解釈すれば、

●斎藤塚=「サン・チャ・テュ」=「前にある・岸の・小山」

 いずれの解釈も山口川沿いであることを示しています。

■■■ 合屋(ごうや)古墳 ■■■
(鞍手郡小竹町/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「コッ・ウン・ヤ」=「窪地(谷)・にある・岸」

 遠賀川と庄内川の合流地点の池畔に立地。

 縄文語解釈は地勢と発音が完全一致です。水がなかったとしても窪地、谷であることは間違いありません。
■■■ 位登(いとう)古墳 ■■■
(田川市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map

●「エテュ」=「岬」
 全長52m、田川地方最古、最大の前方後円墳。

 縄文語解釈は、これ以外ありません。残念ですが、地名由来です。位登地区は西方の船尾山の峰を指したのではないでしょうか。

■■■ 寺山古墳 ■■■
(飯塚市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「タオ・ヤマ」=「川岸の高所の・山」

 全長68m、遠賀川流域最大級の前方後円墳。円筒埴輪が集中して出土しました。ほか形象埴輪多数、周濠あり、鎧の小札、鉄鏃出土。

 遠賀川右岸の丘陵に築かれています。縄文語解釈そのままです。

■■■ カクメ石古墳 ■■■
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒google map

●「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」

 飯塚市大字下三諸字カクメ石にあった古墳の石室を移築。竪穴式石室と横穴式石室の過渡期の石室。竪穴系横穴式石室。内部全面に赤色顔料が塗られています。

 元の場所の目安は飯塚市立飯塚東小学校です。⇒google map
 その場所の地勢を見てみます。⇒googleストリートビュー

 後世の開発で建物が建ったため、その形状は微妙ですが、縄文語解釈どおり、「弓の形」に見えなくもありません。
 傍証のために、他の例を挙げます。これまでも「カッ・ク=形が・弓(の山)」はいくつか見てきました。九州では小熊山古墳に続き二例目です。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳⇒googleストリートビュー

※以下第七十三回コラムの再掲です。
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。

■■■ 卯内尺古墳 ■■■
(福岡市/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map(※老司古墳の北方100m)

●「ウッ・ナィ・チャ・ケ」=「枝・川の・岸の・ところ」

 全長70mの前方後円墳。那珂川西岸の丘陵上に立地。老司古墳に先行する那珂川流域の首長墓。

 地勢ピッタリの縄文語解釈ですが、古墳は地名由来の命名です。

■■■ 老司古墳 ■■■
(福岡市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「ラ・ウン・シ」=「低いところ・にある・山」

 全長75mの前方後円墳。那珂川西岸の丘陵上に立地。

 解釈確度の高そうな縄文語解釈ですが、残念ながら、この古墳も地名由来の命名です。

■■■ 日拝塚(ひはいづか)古墳 ■■■
(春日市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ペッパ・テュ」=「川端の・小山」

 墳丘長43m。周溝を含めると61mの前方後円墳。河岸段丘上に立地。

 通説では、「彼岸の時期に大根地山(筑紫野市)から昇る太陽を拝む丘」の意とされていますが、本当でしょうか。このような漢字表記にこじつけた解釈がことごとくデタラメであることは、これまで見てきたとおりです。

 縄文語解釈では、川端の古墳の意となり、地勢と完全に一致します。

 年に二回しかない彼岸の日の出を由来とするのか、それとも立地を由来とするのか。いずれが恣意的なものか判断するには、まだまだ他の例証が必要です。九州は縄文語使用の根拠が少々希薄です。

■■■ 塚口古墳 ■■■
(筑紫野市)⇒google map

●「テュ・クッチャ」=「小山の・川の入口」

 複式横穴式石室の古墳。築造時期、出土品は不明。宝満川とその支流の分岐点に築かれた古墳。周辺には17基の古墳があったようです。

 「塚口」は字名です。古墳があることが由来だとされていますが、それでは「口」が説明できません。
 アイヌ語では「河口」が「川の入口」と表現されるので、縄文語解釈はこの古墳の立地そのままを指しています。

■■■ 鋤崎古墳 ■■■
(福岡市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「ソケ・サン・ケ」=「土崩れがしている・平山の・ところ」
 全長62m。今宿青木の低丘陵上に築造。日本初の横穴式石室であることから、朝鮮半島との繋がりの強い人物の墓とされ、三体の遺体の埋葬の痕跡と、多くの副葬品が発見されています。

 縄文語解釈ピッタリの地勢です。ストリートビューでは崩れている丘陵の痕跡を見て取ることができます。
⇒googleストリートビュー

 朝鮮半島と繋がりの深いと人物の墓が、もし縄文語解釈できるとすればどういうことになるでしょうか。

■■■ 丸隈山古墳 ■■■
(福岡市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「マ・オロ・クマ・ヤマ」=「谷水の・ところの・横棒のような(平べったい横山)・山」

 全長84.6m。湯溜池池畔に築造された前方後円墳。

 江戸時代の初めに発見されたようですが、もともとこの名称があったのではないでしょうか。それにしても縄文語解釈が発音、地勢に完全一致しているので、この地域での縄文語使用はかなり確度が高いと言えます。

 「丸=マ・オロ=谷水の・ところ」で、河川や湖沼沿いにあることはこれまでの例でもほぼ間違いありません。※第七十三回コラムの入津原丸山古墳参照

■■■ 兜塚古墳 ■■■
(福岡市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「コッ・プチ・テュ」=「窪地(or谷)の・入口の・小山」

 全長53m以上、後方部が短い前方後円墳です。池畔の丘陵に築造されています。発音も地勢も縄文語解釈と一致します。

 また、京都郡みやこ町の甲塚も同様に池畔の立地で、極めて確度の高い縄文語解釈と言えます。この甲塚古墳は方墳、一方福岡市の兜塚古墳は前方後円墳。いわゆる「兜の形」の意と捉えるのは少々強引に感じます。⇒google map


■■■ 飯氏二塚古墳 ■■■
(福岡市/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「プッ・タ・テュ」=「沼の入口・にある・小山」

 全長48mの前方後円墳。兜塚古墳に後続する古墳。

 この周辺の古墳はスムーズに縄文語解釈できていることから、この二塚も縄文語解釈してみます。兜塚古墳に通じる沼のそばにある古墳の意です。
「二つの塚」で前方後円墳ともとれますが、周囲の古墳の状況を見ると、後世の命名とする明らかな証拠がなければ、縄文語解釈の方が妥当です。

■■■ 砂魚(はぜ)塚古墳 ■■■
(糸島市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「パン・チャ・テュ」=「川下の・岸の・小山」

 全長24メートルの帆立貝形古墳。美咲が丘の造成で発掘調査が行われ、現在は「はな咲き公園」に移築されています。

 こちら1号墳となっていることから複数あったということでしょうか。命名由来がはっきりしないのですが、縄文語解釈は地勢と完全に一致しています。極めて確度の高い縄文語解釈です。

「パン=川下の」は、地名に頻繁に登場する単語です。代表的な例としては「坂東=パン・ト=川下の・湖沼=霞ヶ浦周辺」があります。※決して漢字語呂合わせの「坂の東」の意ではありません。

 この古墳で注目すべきは、副葬品の一つに、出雲の花仙山で産出された碧玉の原石があることです。

 筆者は、初期ヤマト王権の礎を築いたのは、縄文語を話す出雲の人々(スサノオやアマテラス=奇稲田姫比定)だと考えています(※第二十四回コラム参照)。

 日本神話や欠史八代周辺の縄文語解釈によれば、当時の初期ヤマト王権の人々は明らかに縄文語を話していますし、出雲の古墳名も、少なくとも6世紀までは縄文語解釈できています。

 しかしながら、ヤマトの権力筋は、8世紀初頭に縄文語とは似ても似つかない上代日本語の記紀、風土記を編纂することになります。当然、この間に、何かしらの革命が起こったと考える方が自然です。

 6世紀の出雲では、主たる大古墳が、突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは各地域の首長が、ヤマト勢力に対抗するためにとった措置だと考えられています。
そして、その出雲の古墳には、熊本県宇土地方の石棺式石室が取り入れられていて、さらに、この砂魚古墳にも出雲の産物が副葬されているということになる訳です。

 つまり、九州のこの地域と出雲地方は、同じ縄文語を使う者同士で手を組んでいた可能性があり、上代日本語という異言語を操るヤマトとは別の流れを汲む勢力だった可能性が高いということになります。

 神話の中では、大国主は国譲りの後に出雲に封印されてしまいましたが、そこには大国主の流れを汲む、上記のような子孫や勢力も含まれているのかもしれません。それが大国主の物語の中に集約され、象徴として描かれているとしても不思議はありません。

■■■ 釜塚古墳 ■■■
(糸島市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「コ・マ・テュ」=「湾曲した・川の・小山」=長野川

 径56m、高さ10m、北部九州最大級の円墳。三段築成で、斜面に葺石、周濠もあります。円筒、朝顔、楯形、家形の各種埴輪も多数出土しています。

 縄文語解釈で「釜」に充てた「コ・マ=湾曲した・川」はもちろん、この古墳の眼下を流れる長野川を指します。

 「コ・マ=湾曲した・川」は、これまでも何度か登場しましたが、「高麗」の漢字が充てられることが多く、ほぼすべて「高麗人が住んだ」という由来とセットになっています。
 しかし、それらの地勢を見てみると、例外なく「湾曲した川」沿いの地名であることが分かります。漢字表記にこじつけた由来はここでも極めて怪しいと言わざるを得ません。
※詳しくは、第三十四回コラム「本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」、第四十三回コラム「新羅、伽耶、百済、高麗のデタラメ地名由来について」の項をご参照ください。

■■■ 一貴山銚子塚古墳 ■■■
(糸島市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「チー・テュ」=「中窪みの・小山」=前方後円墳

 全長103m、糸島地方最大の前方後円墳。方格規矩四神鏡、内行花文鏡、三角縁神獣鏡が出土しています。

 「金の銚子(酒器)が埋まっている」との伝説が地元にあり、それが命名由来とされています。

 銚子塚は日本各地にあり、一般的には、江戸期に「酒器の銚子に似ている」ことから「前方後円墳」の別名として用いられるようになったと言われています。

 何度も書いていますが、このような漢字表記にこじつけた説は、ほぼデタラメです。縄文語(アイヌ語)を理解できない後世の人々が、漢字表記からそれらしい物語をねつ造しただけです。

 全国の銚子塚はことごとく前方後円墳ですが、銚子口、銚子岬、銚子の滝、銚子が峰など、地名も含めて考察すると、すべて「中窪みを持つ地形」で、「銚子≠酒器の銚子のような形」は明らかです。
 詳しくは、第三十六回コラムの「銚子山・銚子塚古墳」の項をご参照ください。

■■■ 狐塚古墳 ■■■
(糸島市/5世紀前半/円墳)⇒google map

●狐塚=「クテュニン・テュ」=「岩の段々のある崖の・小山」

 径33mの大型円墳。三段築成で、各段斜面に葺石が貼られています。

 狐塚古墳は、全国各地に点在しています。すべて、「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」の意で間違いありません。糸島市の狐塚古墳も河岸段丘上に造られています。この古墳の場合は、葺石が見られますので、それを「クテュニン=崖」と表現したのかもしれません。
 極めて確度の高い縄文語解釈です。周辺の古墳の状況を鑑みても、この時期、この地域での縄文語使用は、間違いありません。

 因みに伏見稲荷の眷属とされる「狐」ですが、これも稲荷山周辺の地勢のことで、動物の狐とはまったく関係ありません。何度も言いますが、お揚げをお供えしても無駄です。※伏見稲荷や狐については、第三十六回コラムの「稲荷山・稲荷塚古墳」「狐塚古墳」の項をご参照ください。

■■■ 銭瓶塚(ぜにがめづか)古墳 ■■■
(糸島市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「チゥヌ・カン・メ・テュ」=「流れ出る・上方の・泉の・小山」

 墳丘長50m、後円部37m、周壕を含めると全長60mの帆立貝形前方後円墳。三段築成で、各段斜面には葺石が施されています。 

 銭瓶塚古墳は雷山川と瑞梅寺川に挟まれた河岸段丘上に築かれているのですが、ここに泉があったのでしょうか。次に挙げる近隣のワレ古墳も「水辺の古墳」の意です。

■■■ ワレ塚古墳 ■■■
(糸島市/5世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「ウォ・テュ」=「水の・小山」=前方後円墳

 全長42mの帆立貝形前方後円墳。各種埴輪が出土し、当時のヤマト政権との繋がりを伺わせます。

 前掲の銭亀塚古墳と同様、「水辺」を感じさせる古墳名です。河岸段丘上ですが、近隣に小河川が流れているので、小さな水源があったのかもしれません。

■■■ 端山古墳 ■■■
(糸島市/4世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「ハー・イ・ヤマ」=「水が引いた・ところの・小山」

 全長78.5mの前方後円墳。河川が幾筋も流れる平地に築かれています。縄文語解釈そのままの立地です。

 被葬者は「伊都国の王に代わってこの地域を支配した大和政権と深いつながりを持つ豪族であった」と現地案内看板に書かれていますが、もともと伊都国はスサノオがヤマトで大王になった時から、アマテラスの子の天忍穂耳が任されていた国であり、さらにその子のニニギが天孫降臨した国なので、まったくの異系統という訳ではありません。
※第三十回コラム「ニニギはヤマトから一大率に派遣された!」参照。

 系譜上ニニギの三代後の神武天皇(=崇神天皇)は、ヤマトの邪馬台国を攻め滅ぼして、権力を手中にしていますから、「伊都国王に代わって」という内容が事実であれば、邪馬台国配下と目される伊都国内部で、「親邪馬台国」「反邪馬台国」の勢力争いがあったということになります。筆者は、それが海幸山幸神話に象徴的に描かれていると考えています。
※同上参照。

 また、熊本県には似た名称の端山塚古墳もあります。こちらも川沿いの立地です。

【参考】
・端山塚古墳(熊本県/円墳)⇒google map


■■■ 築山古墳 ■■■
(糸島市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「チゥ・ケ・ヤマ」=「水脈の・ところの・山」

 墳丘長60m、周濠を含めて全長約105mの端山古墳に後続する帆立貝形前方後円墳。

 端山古墳に後続する古墳。今でも小河川の名残のある地勢です。各地の築山古墳を以下に挙げます。すべて水辺で、縄文語解釈の確度が高いことが分かります。

【参考】各地の築山古墳 ※第七十三回コラム参照
・築山古墳(愛知県稲沢市/円墳) ⇒google map
・築山古墳(奈良県大和高田市/5世紀/前方後円墳) ⇒google map
・高屋築山古墳(安閑天皇陵)(大阪府羽曳野市/6世紀初頭/前方後円墳) ⇒google map
・築山古墳(大阪府堺市/5世紀/円墳) ⇒google map
・築山古墳(岡山県瀬戸内市/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳) ⇒google map
・上塩冶築山古墳(島根県出雲市/古墳時代後期/円墳) ⇒google map
・築山古墳(大分市/5世紀/前方後円墳)⇒google map
・築山古墳(佐賀県佐賀市/前方後円墳) ⇒google map

■■■ 観音塚古墳 ■■■
(朝倉郡夜須町/6世紀末/円墳)⇒google map

●「カン・ノッ・テュ」=「上方の・岬の・小山」

 径13mの装飾円墳。

 少なくとも江戸期からその存在が知られています。砥上岳の中腹に築かれていますので、縄文語解釈と一致しています。

■■■ 仙道古墳 ■■■
(朝倉郡筑前町/6世紀後期/円墳)⇒google map

●「シアン・トー」=「大きな・湖」=大きな周濠のある古墳

 径45m、二重の周溝を持つ二段築成の大型装飾円墳。武人、馬、人物、家形など形象埴輪多数。

 縄文語解釈は、大きな周溝を持つこの古墳の固有名詞と捉えることができます。

■■■ 五郎山古墳 ■■■
(筑紫野市/6世紀中頃/円墳)⇒google map

●「コッ・オロ・ヤマ」=「窪地の・中の・山」

 径32m。横穴式石室の壁面には、赤、黒、緑の色彩豊かな彩色画。平地の小高い丘に築かれた古墳。

 縄文語解釈は、これ以外ないと思われるほどの解釈です。しかし、これは地名由来です。

■■■ 横隈山古墳 ■■■
(小郡市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ヤケ・クマ・ヤマ」=「岸辺の・横棒のような(平べったい横山)・山」

 全長31.6mの前方後円墳。

 宅地造成の際に見つかった古墳ですが、地名の解釈はぴたりと地勢に一致しています。古墳が忘れ去られて、地名だけが残っていたのかもしれません。

 参考までに埼玉県の横隈山をご紹介します。こちらもまさに「岸辺の横棒のような(平べったい横山)山」です。

【参考】
・横隈山(埼玉県)⇒google ストリートビュー(正面)

■■■ 湯の隈装飾古墳 ■■■
(朝倉市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「ヤ・ネ・クマ」=「陸・になる・横棒のような(平べったい横山)山」=陸の方の横山

 径20m、宮地嶽の南側中腹台地に築かれた装飾古墳。江戸期にはすで知られています。近接して湯隈神社があり、かつて湯が出たことを命名由来としているようですが、かなり怪しい伝承です。

 何度も言いますが、漢字表記にこじつけた由来譚は、地名、神様問わず、高確率でデタラメです。

 縄文語解釈の「陸の方の平山」と地勢が完全に一致しています。ストリートビューでご確認ください。⇒google ストリートビュー(正面)


■■■ 狐塚古墳 ■■■
(朝倉市/7世紀初頭/円墳)⇒google map

●狐塚=「クテュニン・テュ」=「岩の段々のある崖の・小山」

 径40~60mの大型装飾古墳。筑後川右岸の河岸段丘の先端に築かれています。

 狐塚は日本各地にあり、これまで何度も登場しています。繰り返しになりますが、狐塚は、

・狐塚=「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」

 です。前掲の糸島市の狐塚古墳(5世紀前半)も河岸段丘上に立地しています。

 この縄文語解釈は非常に確度が高く、築造時期のこの地域での縄文語使用は確実です。しかも、この古墳は、7世紀初頭の築造です。
 上代日本語で書かれる記紀、風土記の編纂が8世紀初頭ですから、どういう接続の仕方をしたのでしょうか。非常に興味深いです。

■■■ 中原狐塚古墳 ■■■
(久留米市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「クテュニン・テュ」=「岩の段々のある崖の・小山」

 直径19mの装飾古墳。耳納山麓の台地上に築造。

 こちらの狐塚は、畑の開墾で当時の地勢がまったく不明なのが残念です。⇒google ストリートビュー


■■■ 月岡古墳 ■■■
(うきは市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「チゥケ・オ・カ」=「水脈の・川尻(川の合流点)の・岸」

 全長約80m。筑後川左岸に築かれた若宮古墳群で最初に築かれた古墳。鉄製武具、馬具などの多種多様な出土品から朝鮮半島との強いつながりが指摘されています。

 縄文語解釈では、以下に挙げた近隣の「塚堂古墳」では「水脈」が、「日岡古墳」では「川の合流点」の解釈が一致しています。かなり解釈確度が高そうです。

■■■ 塚堂古墳 ■■■
(朝倉市/5世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「チゥケ・トー」=「水脈のところの・湖」

 墳丘長90m、筑後川左岸に築かれた二重濠の古墳。濠底の灰色年度は長期間水に浸っていたことを示しています。

 縄文語解釈は、「水辺に近い周濠のある古墳」の意にとれます。

■■■ 日岡(ひのおか)古墳 ■■■
(うきは市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ペナ・オ・カ」=「川上の・川尻(川の合流点)の・岸」

 墳丘長80m、筑後川左岸に築かれた装飾古墳。若宮古墳群で最後に築造。

 周辺は筑後川の支流がたくさん流れているので、「川上の川の合流点」という縄文語解釈は妥当に見えます。また、次項に挙げた月岡古墳の解釈とも「川の合流点」で一致しています。

■■■ 塚花塚墳 ■■■
(うきは市/古墳時代後期/円墳)⇒google map

●「チゥケ・ペナ・テュ」=「水脈の・上流の・小山」

 径30m、朱、緑の顔料の装飾がある円墳。

 塚花塚古墳、以下で挙げる重定古墳、楠名古墳と、このそばに水脈があったことを伺わせる縄文語解釈が可能です。
 この塚花塚古墳は、非常に確度の高い縄文語解釈です。「ペナ=上流」は各地で頻繁に登場する地名です。

■■■ 重定古墳 ■■■
(うきは市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「チゥケ・サ・チャ」=「水脈のところの・ほとりの・岸」

 現存長51mの前方後円墳。壁面に赤緑の装飾。筑後川支流の隈上川左岸に築造されています。

 縄文語解釈と地勢は一致しています。

■■■ 楠名(くすみょう)古墳 ■■■
(うきは市/7世紀前半/円墳)⇒google map

●「ク・スミ・オ」=「対岸の・西の・川尻(川の合流点)」

 径32m、重定古墳の南に位置する円墳。

 縄文語解釈では、塚花塚古墳が「上流」、そして楠名古墳が「下流」の意となっています。

■■■ 安富古墳 ■■■
(うきは市/6世紀末~7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「ヤチ・トマ」=「泥の・沼地」

 径15m、山裾のため池端の古墳。

 縄文語解釈が妥当であれば、当時からすでに水の溜まるような場所だったということになります。

■■■ 御塚(おんつか)古墳(旧名鬼塚古墳) ■■■
(久留米市/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳)⇒google map


●「オンネ・テュ」=「古い方の(or親の方の)・小山」

 全長100mを超える巨大帆立貝形前方後円墳。新羅系の須恵器が出土。地方豪族である水沼君の一族の墓とされ、中国との関係も指摘されています。

 隣接する権現塚古墳に先行して築かれています。縄文語解釈は、きわめて確度が高いと言えます。

■■■ 権現塚古墳 ■■■
(久留米市/5世紀後半~6世紀前半/円墳)⇒google map

●「コッ・ケ・テュ」=「窪地の・ところの・小山」=二重濠の古墳

 二重濠を含めると直径150mを超える巨大円墳。九州第二位の規模。こちらの古墳でも新羅系の須恵器が出土しています。

 縄文語解釈は古墳の二重濠の構造にぴったりで、隣接する御塚古墳と併せて極めて確度の高い解釈と言えます。

■■■ 藤山甲塚古墳 ■■■
(福岡県久留米市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●甲塚=「コッ・プチ・テュ」=「窪地(or谷)の・入口の・小山」

 全長70mの帆立貝形前方後円墳。明星山から伸びる複数の丘陵の先端に築かれています。

 この明星山の麓には、谷や池沼が豊富にあり、まさに縄文語解釈ピッタリの地勢です。また、この甲塚は、兜塚、冑塚の表記を含め、各地にありますが、いわゆる「カブトの形」を命名由来とする円墳以外はすべて地勢が一致しています。極めて確度の高い縄文語解釈です。

【参考】各地のかぶと塚 ※かぶと塚古墳以外も表示されます。
・関東、中部のかぶと塚⇒google map
・関西のかぶと塚⇒google map
・甲山(西宮市)⇒google map

 また、日本書紀景行天皇の条の九州巡視では、「藤山」の名が登場します。この頃の日本書紀は、邪馬台国の卑弥呼を継いだ台与の事績を隠蔽しているので、あまり信用できませんが、一応縄文語解釈すると、

●藤山=「プッ・チャ(orチャ)・ヤマ」=「入口の・縁の(or口)・山」

 となり、古墳名と整合性がとれます。

■■■ 鷲塚古墳 ■■■
(福岡県久留米市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「ワ・ウン・シ・テュ」=「岸に・にある・大きな・小山」

 全長5、60mの前方後円墳。

 現存しませんが、池畔に築かれていることは明らかです。周辺地名にある鷲塚は古墳由来ではないでしょうか。

■■■ 欠塚(かげつか)古墳 ■■■
(筑後市/5世紀末/前方後円墳)⇒google map

●欠塚=「カッ・ク・テュ」=「形が・弓の・小山」=前方後円墳

 全長45mの前方後円墳。

 「カッ・ク=形が・弓」は山の形で何度か登場していますが、この古墳のように前方後円墳の別名ともとれます。周辺地名の「欠塚」はこの古墳由来の命名ではないでしょうか。
 大分県宇佐市の角房古墳も

●角房=「カッ・ク・ポ・テュ」=「形が・弓の・小さい物の・小山」

 も、丁寧に指小辞の「ポ」がついているので、解釈確度は高いように見えます。


■■■ 岩戸山古墳 ■■■
(八女市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「イワ・テュ・ヤマ」=「祖先の祭場のある神聖な山・峰の・山」

 墳丘長135m。九州北部最大規模の古墳。

 縄文語解釈では、この古墳の築かれた山一帯が祖先を祀る祭場であったことを示しています。

 この古墳は、527年、ヤマト王権に戦いを挑み、物部麁鹿火に鎮圧された筑紫君磐井の墓とされています。この乱の後、肥後で伸張した勢力は、出雲と手を組んでヤマト王権に対抗したとする説があります。時は出自が疑われる継体天皇の世です。

 この出雲と九州の勢力が縄文語を話していたことはこれまでの古墳名の縄文語解釈から確実であり、一方のヤマト勢力は200年後に上代日本語の記紀、風土記を編纂しています。これはいったいどういうことでしょうか。

■■■ 乗場(のりば)古墳(旧名奈良山) ■■■
(八女市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●乗場=「ナラ・パ」=「山中の平地の・岬」
●奈良山=「ナラ・ヤマ」=「山中の平地の・山」

 墳丘長70m。岩戸山古墳に後続する前方後円墳。周溝と周堤がめぐっていましたが、現存しません。

 縄文語解釈では、乗場、奈良山は同じ意味です。丘陵の平地に築かれたこの古墳の地勢そのままです。

■■■ 善蔵塚古墳 ■■■
(八女市/6世紀前半~中頃/前方後円墳)⇒google map

●「チゥ・サ・テュ」=「川の・ほとりの・小山」

 全長70m。八女古墳群中、三番目の規模。

 広川沿いの丘陵上に築かれた古墳です。善蔵塚が日本語とも思えないので、この縄文語解釈は確実です。

■■■ 丸山塚古墳 ■■■
(八女市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ・テュ」=「谷水の・ところの・山の・塚」

 径30mの円墳。

 縄文語解釈通り確かに池畔ですが、円墳なので日本語のいわゆる「丸い山」の意の命名も否定はできません。

■■■ 鶴見山古墳 ■■■
(八女市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「テュ・ル・ヤマ」=「峰の・先端の・山」

 全長87.5m。丘陵の先端に築かれた前方後円墳。武装石人が出土したことで有名。筑紫君磐井の子の「葛子」の墓とも言われている。

 縄文語解釈は、これ以上ないぐらい的確な表現で地勢を表しています。周辺の古墳の縄文語解釈を鑑みても、この一帯のこの時期の縄文語使用は確実です。

 つまり、「磐井の乱=縄文語の筑紫野君磐井VS上代日本語のヤマト」の可能性があるということです。

■■■ 丸山古墳 ■■■
(八女市/5世紀末~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷川の・ところの・山」

 全長55mの前方後円墳。丘陵の先端に築かれた前方後円墳。

 前方後円墳なのに「丸山」なので「丸い山」の意ではないことは確かです。全国の丸山を鑑みても「谷水のところの古墳」で間違いありません。(※第七十三回コラム「入津原丸山古墳」の項参照)

■■■ 権現塚古墳 ■■■
(みやま市/5世紀/円墳)⇒google map

●「コッ・ケ・テュ」=「窪地の・ところの・小山」

 直径45m。周囲に幅11m、深さ1.2mの溝が廻ります。

 縄文語解釈では、周溝のある古墳を表現しています。また、久留米市の権現塚古墳も二重濠を持つ古墳なので、権現塚は「窪地にある古墳」以外に「周溝を持つ古墳」の意で使用されることもありそうです。

■■■ 蜘蛛塚古墳(旧名:女王塚) ■■■
(みやま市/4世紀?/円墳?前方後円墳?)⇒google map

●「シ・オ・テュ」=「山・尻(裾、端)の・小山」

 形状、規模は不明です。一説によると、もともと前方後円墳だったものが、道路工事で分断され、二つの塚になったということです。もう一つの塚は新たな道路工事で破壊され、女王塚は皇室に忖度して大塚(蜘蛛塚)に改めたということです。
 この墓の被葬者には二つの伝説があります。

1)第十二代景行天皇の西征時、朝廷に従わない首長を征伐して葬った。
2)神功皇后により誅殺された山門郡の女王の田油津媛。

 何度も言いますが、この時代の記紀は、卑弥呼の後を継いだ台与の事績を隠蔽しているので、どこまで真実か分かりません。
※詳しくは第三十回コラム「ニニギはヤマトから一大率に派遣された!」をご参照ください。

 縄文語解釈で、旧名の女王塚は単に「山尻(裾、端)の古墳」の意で、この解釈は確実です。

 「山裾の古墳」の意を表す「シ・オ」塚は、日本各地にあり、新皇、親王、新皇、将、白、塩、などの漢字が充てられていて、ことごとく「山尻(裾、端)の古墳」に築かれています。この古墳で新たに「女王」の表記も加わりました。
 縄文語(アイヌ語)では無声音と有声音の区別がないので、「女王」の発音もありかと思います。

 また、再掲ですが、因幡の白兎も、「シ・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜の・ところ」の意で白兎海岸のことです。決して神話にあるような大国主と兎の物語ではありません。日本神話のほとんどは、このような漢字表記にこじつけて創造力豊かに創作されたものです。
 八百万神も同じ類いで、そのような神様たちはもともといません。多くは縄文時代からの自然崇拝に漢字表記にこじつけて擬人的な神様を作り上げただけです。

■■■ クワンス塚古墳 ■■■
(みやま市/5世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「カス・テュ」=「山or川を越える・小山」

 周溝を含め、全長84mの赤坂古墳群最大の前方後円墳。

 「クワンス塚古墳」は兵庫県加西市にもあります。また、同語源と考えられる「鑵子(カンス)」のつく古墳は近畿地方に複数あります。漢字表記からは「鑵子=青銅、真鍮などで造った湯沸かし。茶釜」の古墳という意味になりますが、いずれも周辺の古墳が縄文語解釈可能なので、この「クワンス」「鑵子」を第四十回コラムで縄文語解釈しました。

 これまで登場したいずれの「クワンス塚古墳」「鑵子塚古墳」も、

・山であれば「峰の間を縫って越えるようなところ」、川であれば「川を渡るところ」

 の地勢で、縄文語解釈と一致しています。

 このみやま市のクワンス塚古墳も西方には丘陵があり、国道443号がその鞍部を通っています。これは、他の「クワンス塚古墳」「鑵子塚古墳」の地勢と完全に一致しています。

【参考】古墳名に「鑵子」のつく古墳 ※第四十回コラム引用
◎掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map
◎真弓鑵子塚古墳(奈良県高市郡明日香村/6世紀中頃~後半/円墳)⇒google map
◎与楽鑵子塚古墳(奈良県高市郡高取町/6世紀後半/円墳)⇒google map(同上)
◎別所鑵子塚古墳(奈良県天理市別所町/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
◎近内鑵子塚古墳(奈良県五條市近内町/5世紀前半/円墳)⇒google map
◎母神山鑵子塚古墳(香川県観音寺市/6世紀後半/円墳)⇒google map
◎鹿隅鑵子塚古墳(香川県観音寺市)⇒google map




日出ずる国のエラーコラム
第七十三回 大分県の古墳名から王朝交代を探る!
【今回取り上げる内容】
真玉大塚古墳/野内古墳/入津原丸山古墳/猫石丸山古墳/高倉古墳/赤塚古墳/免ヶ平古墳/福勝寺古墳/車坂古墳/角房古墳/鶴見古墳/凶首塚古墳/宮山古墳/葛原古墳/鬼塚古墳/行者原古墳群/小熊山古墳/御塔山古墳/七双子古墳/鷹塚古墳/千代丸古墳/丑殿古墳/蓬莱山古墳/大臣塚古墳/丸山古墳/亀塚古墳/築山古墳/丸山古墳/臼塚古墳/竜ヶ鼻古墳/道ノ上古墳/小坂大塚古墳/重政古墳/立野古墳/秋葉鬼塚古墳/坊ノ原古墳/ガランドヤ古墳/ダンワラ古墳/三郎丸古墳/惣田塚古墳/亀都起古墳

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■ 真玉大塚古墳 ■■■
(豊後高田市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「オオ・テュ」=「大きな・小山」

 国東半島の北西岸、墳丘長100メートル以上、周濠を含めると135メートル。大分県北部最大の大型前方後円墳。

残念ながら、古墳名はありきたりで、縄文語解釈の確度を述べるまでに至りません。

■■■ 野内古墳 ■■■
(豊後高田市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ノッ・チャ」=「岬の・岸」

 赤坂川右岸の段丘先端部に築造された墳丘長44メートルの前方後円墳。現代の削平前は50メートル以上あったとされています。
干拓前はさらに海沿いだったと思われます。

 縄文語解釈そのままの立地です。一応解釈確度は高く見えますが、まだまだ例証が足りません。

■■■ 入津原丸山古墳 ■■■
(豊後高田市/4世紀末~5世紀初頭/帆立貝形古墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 円丘部径約70メートルに、約7メートルの大型の造出を持つ帆立貝形古墳。幅広の濠を持つ。

 「丸山古墳」は各地にありますが、ほぼすべて「川辺(水辺)に築かれた古墳」または、「川辺(水辺)の山に築かれた古墳」で間違いありません。
九州地方の丸山古墳の場合は、特に前方後円墳が多く、漢字表記とも辻褄が合いません。

 九州地方の丸山古墳の解釈が妥当であれば、縄文語の使用は東国から九州地域まで、日本全国に広がる可能性があります。まだ論拠が希薄なので縄文語解釈を続けます。


【参考1】九州地方の「丸山古墳」
入津原丸山古墳(大分県豊後高田市/4世紀末~5世紀初頭/帆立貝形古墳⇒google map
 ※河川に挟まれた立地。
猫石丸山古墳(大分県豊後高田市/6世紀/前方後円墳⇒google map
 ※川に挟まれた山に築造。
丸山古墳(大分県臼杵市/5世紀中頃/円墳⇒google map
 ※川辺の山築造。
箕田丸山古墳(福岡県京都郡/6世紀半ば/前方後円墳⇒google map
 ※川岸、池畔に立地。
島津丸山古墳(福岡県遠賀郡/古墳時代前期/前方後円墳⇒google map
 ※川に挟まれた立地。
岩田丸山古墳(佐賀県神埼市/5世紀後半/前方後円墳⇒google map
 ※後世の開拓で不分明も、小河川が多数。
丸山古墳(佐賀県武雄市/円墳⇒google map
 ※川沿いに立地。
丸山塚古墳(福岡県八女市/6世紀後半/円墳⇒google map
 ※川沿いの峰上に築造。
丸山古墳(福岡県八女市/6世紀前半/前方後円墳⇒google map
 ※小川に囲まれた立地。

【参考2】他地域の丸山古墳
・関東地方の丸山古墳⇒google map
・中部地方の丸山古墳⇒google map
・関西、中国四国地方の丸山古墳⇒google map

■■■ 猫石丸山古墳 ■■■
(豊後高田市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 墳丘長60メートルの前方後円墳。入津原丸山古墳と同様の語源。灌漑用の溜め池端に立地。もともと水脈があったか。

 溜め池と思われる池畔にありますが、溜め池は沢水、雨水を塞き止めて溜めたものなので、もともと水脈があったと思われます。

■■■ 高倉古墳 ■■■
(宇佐市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ト・キ」=「突起した・山」

 全長124メートルの前方後円墳らしいですが、現在は四分の一程度の墳丘が残るだけです。
縄文語解釈も一般的で、確度については何とも言えません。

■■■ 赤塚古墳 ■■■
(宇佐市/3世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「アカ・テュ」=「魚の背のような尾根の・小山」

 大分県最大の古墳群である川部・高森古墳群の一つ。全長57メートル、九州最古の前方後円墳。

 縄文語の「アカ」は、もともと「魚の背」の意で、地形では「尾根」を指します。前方後円墳を形容にピッタリです。

■■■ 免ヶ平古墳 ■■■
(宇佐市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「メカ・ピラ」=「尾根の(物の背筋の)・土崖」
or「メ・カ・ピラ」=「泉の・ほとりの・土崖」


 大分県最大の古墳群である川部・高森古墳群の一つ。全長50メートル超の前方後円墳。

 縄文語解釈では、「メカ・ピラ=尾根の・土崖」とすれば、前項の赤塚古墳の「アカ・テュ=尾根の・小山」と類似の表現となります。
「尾根の土崖」としても「泉のほとりの土崖」としても解釈確度が極めて高いと言えます。

■■■ 福勝寺古墳 ■■■
(宇佐市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●福勝寺=「プッケ・ウン・シ・オ・チャ」=「川口・にある・峰・裾の・岸」

 川部・高森古墳群内最大、大分県で四番目の規模の古墳。全長78メートルの前方後円墳。

 福勝寺という寺との関係が不明なので、一応縄文語解釈してみました。福勝寺古墳は駅館川右岸の台地の端にあります。また、駅館川左岸の低地は、もともと氾濫原で古代から開発が進められてきました。今よりも河口が奥まっていたということです。

 この古墳は春日山古墳とも呼ばれているので、こちらも縄文語解釈してみます。

●春日山=「コッチャ・カ・ヤマ」=「沢の入口の・ほとり・山」

「福勝寺=川口」と同義であることが分かります。

 春日のつく地名は全国に見られますが、ほぼすべて川沿いです。
奈良の春日大社も「谷の入口」の立地です。⇒google map(春日大社)

■■■ 車坂古墳 ■■■
(宇佐市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ケゥ・ル・サン・カ」=「死体の・岬の・坂(or平山)の・上」

 福勝寺古墳に後続する古墳。全長58メートルの前方後円墳。

 縄文語解釈は、「古墳の丘の坂の上」の意ととれます。駅館川の河谷に接する立地そのままで、うまい命名です。

■■■ 角房古墳 ■■■
(宇佐市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「カッ・ク・ポ」=「形が・弓の・小さいもの」=小さな弓の形の山
or
(かくふさ)の読みであれば、
「カッ・ク・ウン・プッ・チャ」=「形が・弓・のある・川口の・岸」=弓形の山がある川口の岸

 車坂古墳に後続する古墳。全長46メートルの前方後円墳。

 縄文語解釈の「カッ・ク=形が・弓」は、山の名前で何度か登場しています。角房古墳の場合は「指小辞」の「ポ=小さいもの」がついているので、前方後円墳を指したとすれば辻褄が合います。

 下記は「形が弓の山」の参考例です。ストリートビューを見ていただくと一目瞭然です。極めて確度の高い縄文語解釈です。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチ決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。

■■■ 鶴見古墳 ■■■
(宇佐市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「チ・メ」=「水のしたたる・泉」

 川部・高森古墳群の最後の古墳。全長31メートルの前方後円墳。

 「ツル」の地名はすでに「水流」の意と解釈され、全国各地にあります。これもアイヌ語起源ではないでしょうか。
 鶴見古墳のそばには大池がありますが、古墳名を便りにすれば、もともと水脈があったということになります。

■■■ 凶首塚古墳 ■■■
(宇佐市/6世紀末~7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「キ・オ・テューテュ」=「山・裾の・出崎」

 盛り土や石積みは焼失し、巨石の横穴式石室がむき出しになっています。もともとは直径15メートルの円墳のようです。

 寄藻川左岸の段丘裾に立地。縄文語解釈そのままの地勢です。
後述しますが、国東半島東岸にある「行者原古墳群=山裾の岸の古墳群」と類似の命名です。

 この古墳について以下の伝承があります。

<伝承>
 養老4年(720年)に起きた隼人の反乱の際、八幡大神が御輿に乗って出御し、隼人を討伐して、百個の首を持ち帰った。

 築造時期が合いませんので、この伝承はデタラメです。

■■■ 宮山古墳 ■■■
(宇佐市/円墳)⇒google map

●「メ・ヤ・ヤマ」=「泉の・岸の・山」

 池畔の古墳。詳細は不明ですが、解釈確度が高く見えます。

 ただし、他地域の宮山古墳を見ると、奈良県御所市、大阪府藤井寺市、大阪府高槻市、岡山県総社市、いずれも神社由来とも捉えられるので、宇佐市の宮山古墳についても、周辺の古墳の解釈と併せて総合的に判断する必要があります。


■■■ 葛原古墳(鬼塚古墳) ■■■
(宇佐市/5世紀後半/円墳or前方後円墳)⇒google map

●「オンネ・テュ」=「古い(or親のor大きな)・小山」

 駅館川左岸の台地上に立地。直径53メートルの円墳(or前方部が削られた前方後円墳)。

 近隣に近親者を窺わせる古墳があればいいのですが、この古墳は孤立しているので、縄文語解釈の確度は残念ながら不明です。

■■■ 鬼塚古墳 ■■■
(国東市/6世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「オンネ・テュ」=「古い(or親のor大きな)・小山」

 国東半島北岸、西山古墳群の一つ。竹田津港を望む丘陵上に築かれた古墳。横穴式石室内、玄室の線刻画が有名。

 縄文語解釈から察するに、西山古墳群内でも有力な埋葬者と捉えることができます。近隣の古墳との関係性が気になるところですが、残念ながら情報が得られませんでした。

■■■ 行者原古墳群 ■■■
(国東市/5~6世紀/円墳)⇒google map

●「キ・オ・チャ(原)」=「山・裾の・岸」

 国東半島東部の40基からなる古墳群。地名由来の名称ですが、縄文語解釈そのままの地勢です。

 前述の凶首塚古墳と同じ地勢からの同類の命名です。解釈確度がそれだけ高いということになります。

■■■ 小熊山古墳 ■■■
(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」⇒googleストリートビュー

 全長116.5メートルの大分県最大級の前方後円墳。

 九州でも「形が弓の山」を発見しました。真ん中が凹んだ二つの頂を持つ山です。極めて確度の高い縄文語解釈です。この地域での縄文語使用は確実です。

 繰り返しになりますが、他地域の「形が弓の山」も再掲します。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。

 長野県の木崎湖湖畔に小熊山があります。こちらも「形が弓の山」と捉えられなくもないですが、他の例に比べると判然としません。⇒googleストリートビュー(正面右手が小熊山)


■■■ 御塔山古墳 ■■■
(杵築市/5世紀前半/円墳)⇒google map

●「オタ・ウン・ヤマ」=「砂浜・にある・山」

 国東半島南岸に築造された墳丘長75.5メートルの巨大円墳。小熊山古墳に後続する古墳時代前期の盟主墳。

 google mapは衛星画像にしていますので、縄文語解釈どおり砂浜の跡が見て取れると思います。周辺にも砂浜があります。

■■■ 七双子(ならぞうし)古墳 ■■■
(杵築市/6世紀/横穴式石室)⇒google map

●「ナラ・サ・ウシ」=「山中の平地の・浜・のところ」

 古墳時代後期の横穴式石室。墳丘は不明。

■■■ 鷹塚(たかのつか)古墳 ■■■
(別府市/6世紀末/方墳)⇒google map

●「タ・ネ・テュ」=「石・である・小山」

 一辺30メートル以上の二段築成の方墳。羨道8メートル、幅2.6メートル、5メートル以上の巨石を持つ県内最大級の横穴式石室。盛土に大量の葺石。

 縄文語解釈と完全に一致する構造ですが、似たような発音の単語が他にもたくさんあるので、解釈確度が高いとも言えません。

■■■ 千代丸古墳 ■■■
(大分市/7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「チゥ・マ・オロ」=「水脈の・谷水の・ところ」

 賀来川左岸の丘陵部に築造された円墳。玄室の棚石前面に線刻画あり。

 この縄文語解釈も地勢どおりですが、固有名詞的特徴が欠けるので解釈確度が高いとは言い切れません。

■■■ 丑殿古墳 ■■■
(大分市/6世紀後半~7世紀初頭/円墳)⇒google map

●「ウ・ウン・テュンナィ」=「入江・にある・谷川」

 大分川左岸の丘陵裾に立地。丑殿は神社名でもあるようですが、日本語ではないのは明らかです。

 大分川はかつて丑殿古墳のある丘陵のふもとを蛇行して流れていました。ちょうど丘陵の凹みのあたりで川が湾曲しているので、それを「入江」と表現したとすれば、辻褄が合います。

■■■ 蓬莱山古墳 ■■■
(大分市/4世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ポロ・イ・ヤマ」=「大きな(or親の)・ものの・山」

 全長60メートルの前期の前方後円墳。大分川流域の首長墳。

■■■ 大臣塚古墳 ■■■
(大分市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「タン・シ・テュ」=「こちら・山の・小山」

 御陵古墳に後続する首長墳。蒙古襲来にまつわる読み物に登場する百合若大臣の名から命名されたと言われていますが、このような漢字表記こじつけた由来はデタラメがほとんどなので縄文語でも由来を探ってみます。

 縄文語解釈では、西方の蓬莱山古墳の峰との対比とすればピッタリの表現です。

 他に、王子塚、将軍塚、新皇塚、親王塚など、人物由来の古墳名がありますが、それらの由来もすべてデタラメです。(※将軍塚:第三十五回コラム、王子塚:第三十八回コラム、親王塚:第四十回コラム「阿保親王塚古墳」参照。)

■■■ 丸山古墳 ■■■
(大分市)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷川・のところの・山」

 丸山墓地公園内の古墳らしいのですが、詳細は分かりません。「丸山」の名が目についたので、縄文語解釈してみます。

 繰り返しになりますが、丸山古墳とは「川辺(水辺)に築かれた古墳」または、「川辺(水辺)の山に築かれた古墳」です。

 この古墳は一見水辺とは関係なさそうに見えますが、かつて大分川はこの丘陵の南の裾に沿って流れていました。つまり、「川辺の山に築かれた古墳」ということになります。

■■■ 亀塚古墳 ■■■
(大分市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「コ・マ・テュ」=「鍋の持ち手の曲がりの(湾曲した)・川の・小山」

 全長116メートル。大分県最大の前方後円墳。

 亀に似てもいない前方後円墳がなぜ亀塚なのでしょうか。その答えは地勢です。ちょうど丹生川の湾曲部の山に築かれた古墳です。極めて確度の高い縄文語解釈です。
同様の解釈ができる他地域の「亀塚古墳」を以下に参考例として挙げます。

 「コ・テュ=鍋の持ち手の曲がりの・小山」とすると、円墳を形容したと捉えることもできます。

 また、「コ・マ・テュ=湾曲した川」は、全国各地の「高麗」の地名とも同語源です。決して「高麗人が住んだから」という由来を鵜呑みにすることはできません。「高麗」は例外なく川の湾曲部の地名です。(※第三十四回「本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」参照)

【参考】他地域の亀塚古墳(※第三十七回コラム引用)
◎亀塚古墳(大分県大分市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※丹生川の湾曲部。
◎亀塚古墳(東京都狛江市/5世紀末頃/帆立貝形古墳)⇒google map
 ※野川の旧流路が湾曲。⇒google画像検索
◎神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市/3世紀前半/前方後方墳)⇒google map
 ※小河川の湾曲部。
◎亀塚古墳(栃木県下都賀郡/6世紀/前方後円墳) ⇒google map
 ※姿川の湾曲部。

■■■ 築山古墳 ■■■
(大分市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「チゥ・ケ・ヤマ」=「水脈の・ところの・山」

 全長90メートルの中期の前方後円墳。被葬者は女性で、大量の朱が使われた豪華な古墳。

 各地の築山古墳を調べると、すべて「小河川(水脈)」沿いであることが分かります。

【参考】各地の築山古墳
・築山古墳(愛知県稲沢市/円墳) ⇒google map
・築山古墳(奈良県大和高田市/5世紀/前方後円墳) ⇒google map
・高屋築山古墳(安閑天皇陵)(大阪府羽曳野市/6世紀初頭/前方後円墳) ⇒google map
・築山古墳(大阪府堺市/5世紀/円墳)⇒google map
・築山古墳(岡山県瀬戸内市/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
・上塩冶築山古墳(島根県出雲市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
・築山古墳(糸島市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map
・築山古墳(佐賀市/6世紀/前方後円墳)⇒google map

■■■ 丸山古墳 ■■■
(臼杵市/5世紀/円墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 直径10メートル前後の円墳。この古墳も他の丸山古墳と同語源です。川辺の山に立地しています。

■■■ 臼塚古墳 ■■■
(臼杵市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●臼杵=「ウ・ケ」=「湾の・ところ」

 全長87メートルの前方後円墳。沿岸一帯を支配した海部氏の首長墓と考えられています。2基の石甲が立てられています。

 臼塚は臼杵(神社)由来だと思われるので、臼杵を縄文語解釈しました。臼杵市の名は臼杵湾由来です。

■■■ 竜ヶ鼻古墳 ■■■
(豊後大野市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「タン・チャ・ケ・パナ」=「こちら・岸の・ところの・川下」=川の合流点

 全長約35メートルの前方後円墳。三重川と支流の合流点の台地突端に築かれた古墳。

 縄文語解釈そのままの地勢です。極めて解釈確度の高い縄文語解釈です。大分県内ではこれまでで最も確度が高く思われます。

 「パナ=川下」は「ペナ=川上」とともに他地域でも頻繁に登場する表現です。特に播磨国では大変目に付きました。
 名字の「鼻毛」さんも、鼻の穴に生える毛とは関係なく「パナ・ケ=川下の・ところ」に住んでいたとする方が妥当です。

■■■ 道ノ上古墳 ■■■
(豊後大野市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「マーテュ・ウン・ノッ・へ」=「波打ち際(水辺)・にある・岬の・頭」=川の合流点の岬の先端

 全長74メートル、県南最大規模の前方後円墳。三重川沿いの台地突端に築かれています。

 縄文語解釈の「マーテュ=水辺」は、他地域でも見られる表現です。いずれの古墳も「川辺」「海辺」「湖沼のほとり」に築かれています。確度の高い縄文語解釈ですが、少々発音がズレているところが残念です。

▼以下第五十七回コラム引用。
【参考1】「マーテュ」の解釈が可能な各地の古墳
◎枡塚古墳(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map
 =「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」
 ※日本海を望む段丘に築造。
◎マンジュウ古墳(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
 =「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
 ※ため池の際に築造。
◎爺ヶ松古墳(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
 =「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」
 ※峰に挟まれた池畔。
◎相作馬塚古墳(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map
 ※池畔。
◎万塚古墳(香川県高松市/6世紀)⇒google map
 =「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」
 ※平池の南岸に築造。
◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map
 ※池畔。

【参考2】各地の枡形のつく地名 ※いずれも川沿い、海沿い
◎神奈川県川崎市多摩区枡形 ※多摩川支流沿い⇒google map
◎愛知県名古屋市北区1丁目桝形町 ※庄内川支流沿い⇒google map
◎京都府京都市伏見区桝形町 ※濠川沿い⇒google map
 ※秀吉が伏見城の外堀として開削したが、それ以前も川沿いではなかったか。
◎愛媛県宇和島市桝形町 ※宇和島港沿い⇒google map

■■■ 小坂大塚古墳 ■■■
(豊後大野市/4世紀/前方後円墳)⇒google map

●「オオ・テュ」=「大きな・小山」

 全長43メートル。詳細不明。

 縄文語解釈も一般的な形容で、特徴は見られません。

■■■ 重政古墳 ■■■
(豊後大野市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「シ・カ・ウン・マサ」=「山の・上・にある・浜辺の草原」

 全長54メートル。三重中学校の敷地内の重政原と呼ばれる台地に立地。

 アイヌ語の「マサ」は「浜から一段高くなったところの草原」の意で、この古墳の立地と完全に一致します。他に「重政」という人物などの由来がなければ、解釈確度は高く見えます。しかしながら、古墳の名前は「重政原」の地名由来の可能性も高く、縄文語使用の年代を特定する傍証とするには危うい感じがします。

■■■ 立野古墳 ■■■
(豊後大野市/4世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「タン・チャ・ウン・ノッ」=「こちらの・岸・にある・岬」

 全長65メートルの前期の前方後円墳。三重町上田原の峰裾に立地。

 豊後大野市の古墳が集まる南部の三重川沿いから北に離れた大野川沿いの峰裾に築造。「タン=こちらの」は、比較対象となる同様の地勢が近隣にあることを示すので、三重川と大野川の対比を表したとすれば辻褄が合います。

■■■ 秋葉鬼塚古墳 ■■■
(豊後大野市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「オンネ・テュ」=「古い(or親のor大きな)・小山」

 全長52メートルの中期の前方後円墳。竜王山と呼ばれる台地に立地。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。大分県には「鬼=オンネ=親」のつく古墳が多数見受けられます。ただ、これも残念ながら「親」の対比となる古墳が近隣に見当たりません。

■■■ 坊ノ原古墳 ■■■
(豊後大野市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「ポン・ノッ・パロ」=「小さな・岬の・入口」

 小さな峰の先端に築かれた全長45メートルの前方後円墳。

 縄文語解釈そのままの立地です。

■■■ ガランドヤ古墳 ■■■
(日田市/6世紀後半/円墳)⇒google map

●「カンナ・ト・ヤ」=「上の方にある・湖の・岸」

 玄室の奥に壁画のある装飾古墳。ガランドヤが日本語ではないのは明らかです。

 日田盆地にはかつて大きな湖がありました。盆地周辺に湖岸段丘が見られます。
縄文語解釈が妥当であれば、少なくとも古墳築造時期の6世紀後半までは湖があったことになります。ガランドヤ古墳は湖岸にあたります。
 少々発音がズレているのが残念なところです。

 ちなみに日田市は、

●日田=「ピタ」=「河原or砂原」

 の意で、湖のほとりの砂浜とすれば、辻褄が合います。

 これまで多数見てきたとおり、漢字表記にこじつけた各地の地名由来は、ことごとくデタラメなので、日高の命名由来とされる「日と鷹神話」や、景行天皇時の「久津媛」伝説も、間違いなくその類いのものです。

■■■ ダンワラ古墳 ■■■
(日田市)⇒google map

●「タン・ワ・ラ」=「こちら・岸の・低いところ」

 卑弥呼の鏡と噂された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したとされる古墳。鉄道工事によって発見されました。詳細は不明。

 「ダンワラ」が日本語ではないのは明らかですが、この古墳は残念ながら地名由来の命名です。

 縄文語解釈は湖沿いであったことを彷彿させます。

■■■ 三郎丸古墳 ■■■
(日田市/6世紀/円墳)⇒google map

●「サパ・エ・ラ・マ・オロ」=「岬が・そこで・低くなっている・谷川の・ところ」

 日田盆地の西端、花月川と二串川の合流点に築かれた古墳。

 ちょうど峰が切れて低くなっているところです。縄文語解釈そのままの立地です。

 この古墳名に関連して、丸山古墳が水辺に築かれた古墳だということを何度か書いています。

●丸山=「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 つまり「丸=水辺」を表しているということになります。この三郎丸古墳も例外なく、水辺に築かれた古墳です。

■■■ 惣田塚古墳 ■■■
(日田市/7世紀初頭/円墳)⇒google map

⇒googleストリートビュー
●「サン・チャ・テュ」=「棚のような平山の・岸の・小山」

 直径12~13メートルの円墳。三隈川支流の高瀬川沿いに築かれています。

 ストリートビューを見ると一目瞭然ですが、縄文語解釈そのままの地勢です。

■■■ 亀都起古墳 ■■■
(玖珠郡玖珠町/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「キ・チャ・ケ」=「茅の・岸の・ところ」

 この周辺では唯一の前方後円墳。全長48メートル。

 縄文語解釈は一般的すぎるので残念ながら解釈確度の評価できません。




日出ずる国のエラーコラム
第七十二回 常陸国風土記のウソを徹底的に暴く!(二)~香島郡~多珂郡~「久慈郡が鯨に似ている」は古代人の大ウソ!久慈郡は「川の出口」の意だ!
 常陸国風土記の縄文語解釈の後半。香島郡からです。
 言うまでもなくデタラメ由来だらけです。出雲国、播磨国風土記に引き続き、もともとの縄文語の由来とはまったく異なる漢字表記にこじつけた物語がたくさん創作されています。

 記紀や風土記に無数に記されるこのような創作物語が日本の歴史の礎になっていますから、一旦どこかのタイミングですべて検証し直す必要があると考えます。

 古墳名の縄文語解釈も加えて鑑みれば、古墳時代後期から記紀、風土記が編纂されるまでの間に、言語が切り替わるほどの大変革が起こったことは明らかです。このブラックボックスを解明することなしに、日本の本当の歴史は見えてきません。

 次回から再び西国に戻り、中国四国地方西部、九州地方の古墳名、そして、豊後国風土記、肥前国風土記と、縄文語解釈を続けていこうと思います。

【今回取り上げる内容】
香島郡/奈美松・古津松/角折浜/那賀郡/茨城里/河内駅家・曝井/久慈郡/河内里/静織里/玉川/小田里/長幡部神社/薩都里/賀?礼/助川駅家/多珂郡/飽田村/藻島駅家

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「香島郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「東は大海。南は下総国と常陸国との堺にある安是(あぜ)の河口。西は流れ海。北は那賀郡と香島郡との堺にある阿多可奈(あたかな)の河口である。
 古老が言うには、難波長柄豊前大朝(おおみや)で天下を統治した天皇(孝徳天皇)の御世の、己酉(つちのとのとり)年(大化五年・649年)に、大乙上中臣子、大乙下中臣部兎子(うのこ)等が、総領の高向太夫に願い出て、下総国の海上(うなかみ)国造の所管地のうち、軽野から南一理と那賀国造の所管地のうちの寒田(さむた)から北にある五里とを分割して、特別に神郡を設置した。
 その地に鎮座する天の大神社(あめのおおかみのやしろ)、坂戸社、沼尾社の三社を総称して香島天之大神という。これによって郡の名称とした。土地の言葉に『霰零る(あられふる)香島の国』という
 清(す)んで明るい気と濁って重い気が混交していた天地の開けない以前、諸神の祖神である天神(土地の人は『かみるみ・かみるき』という)が八百万の神たちを、天の原に集めた時、諸神の祖神の天神が仰るには、『今、我が子孫の命(みこと)が統治する豊葦原の水穂の国』と仰った。(この皇孫降臨にあたって)高天原から降って来た大神の名を豊香島の宮と名づけ、降臨地(常陸)では豊香島の宮と名づけている。土地の人が言うには『(天神が皇孫に)豊葦原の水穂の国の統治を委任すると仰ったところ、(豊葦原の水穂の国の)荒々しい神等や岩石、木々、草の葉片までもが物を言い、昼は五月の生えの用に音声がうるさく、夜は火がちらぎらと燃え光る国であった。これを説き従わせ平定する大御神(おおみかみ)として皇孫に供奉した』
 その後に、初めてこの国土を統治した美麻貴天皇(崇神天皇)の御世になって、この神に供え奉ったものは、大刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、枚鉄一連、錬鉄一連、馬一疋、鞍一具、八咫鏡二面、五色の?(ふときぬ)一連である。
 土地の人が言うには、美麻貴天皇(崇神天皇)の御世に、大坂山の頂上で、白い着物を召して、白い杵(ほこ)を御杖として持ち、明らかにした言葉は『私を十分に祭って下さるならば、あなたが統治する国を、大国も小国もすべて任せられるようにして差し上げましょう』と。
そこで天皇はおおくの臣下たちを召集し、事の次第をすべて示し諮問した。すると大中臣神聞勝(かむききかつ)命が答えて申すには『大八島国はあなた(陛下)が統治すべき国であると、この自ら平定なさった国土を、陛下に賜った香島の国に鎮座している天津大御階が、示し教えたものでございます』と申した。天皇はこれを聞いて、恐れ多さに驚き、前に掲げた供え物を神の宮に奉納した。<後略>」

◎縄文語:
・香島=「ケ・モィ」=「末端(はずれ)の・入江」
※霞ヶ浦と同語源⇒google map
・安是=「アッ・チャ」=「一方の・河口」
・流れ海(現霞ヶ浦)=「ナィカ・ウン・ル」=「川のほとり・にある・海」
・阿多可奈=「アッ・ト・カ・ウン・ナィ」=「一方の・湖の・ほとり・にある・川」
※流れ海の対比か⇒google map


 香島郡は、南は銚子の河口から、北は涸沼、那珂川の河口までです。

 香島は霞ヶ浦と同語源としました。

 安是の「一方の河口」の縄文語解釈は、鹿島神宮から銚子の間で複数の河口があったことを示しています。

 阿多可奈の「一方の湖のほとりにある川」は涸沼川あるいは那珂川河口付近の地勢と一致しています。


□□□「奈美松・古津松」命名由来 □□□

×風土記(要約):「(軽野の)南に童子女松原がある。むかし、那賀の寒田の郎子(いらつこ)、海上の安是の嬢子(いらつめ)という神に仕えていた若い男女がいた。ともに容姿端麗で、近隣の村々の評判が高かった。互いの噂を聞いて、ともに二人は慕う思いを抱くようになった。月日が立ち、歌垣の集いで二人は偶然出会った。二人は歌を交わし、思いを伝え合った。
 二人は人目を避け、夜が更けるのも忘れ、浜辺の林でともに過ごした。気がつけば、朝が訪れ、日が差し込んでいた。二人は人に見られることが恥ずかしくなり、松になってしまった。
郎子の松を奈美松、嬢子の松を古津松という」

◎縄文語:
・奈美松=「ナ・メ・マーテュ」=「冷たい・泉の・波打ち際」
・古津松=「コッチャ・マーテュ」=「窪地の入口の・波打ち際」
⇒google map


 このような物語には、必ず隠された別の本当の由来があります。鹿島神宮の南に郡役所があり、その南が軽野なので、当時は、まさに流れ海(霞ヶ浦)の入口の浜です。

 奈美松の縄文語解釈は、行方と同じ意味になります。

●行方=「ナ・メ・カ・タ」=「冷たい・泉の・ほとりの・方」

 男と女が松になる訳がありません。このように先住民の言葉に適当な漢字が充てられ、その漢字表記にこじつけてデタラメ物語が無数に生まれています。


■■■「白鳥里」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所の北三十里に、白鳥里がある。古老が言うには、伊久米天皇(垂仁天皇)の御世に、白鳥がいた。天から飛んできて、童女に姿を変え、夕方になると天に昇り、朝になると降りてくる。石をつまみ取って池を造る。その堤を築こうとするが、むだに月日を重ねる。築いては壊れることの繰り返しで、完成できなかった。童女たちは、

 白鳥が、羽で堤を造っても、沐浴をする間も無くつらい、□□は壊れて

 と、口々にうたって天に昇り、ふたたび降りて来ることはなかった。このことによって、その所を白鳥の郷と名づけた」

◎縄文語:「シテュ・ル」=「いつもくずれる・岬」=崖が多い地勢⇒google map


 比定地は鉾田市の旧大洋村南部周辺です。太平洋と北浦に挟まれた丘陵部です。

 何の暗合か、風土記の「白鳥が築こうとする堤が崩れる」という話と、縄文語解釈の「いつも崩れる岬」の内容が一致しています。

 先住民の影響が見て取れます。このような例は、非常に稀ですが、出雲国風土記や播磨国風土記でも数例確認しています。

 ほかの地域の「白鳥」は

◎縄文語:「白鳥」=「シ(・オ)・タオリ」=「山の(・裾の)・川岸の高所」
◎縄文語:「白鳥」 =「シ・オ・ト・オロ」=「山・裾の・湖沼・のところ」


 のことが多いようです。縄文語と漢字は一意で結びつけられてはいません。周辺地名や地勢との整合性から判断する必要があります。



□□□「角折浜」命名由来 □□□

×風土記:「(白鳥里の)南の方角にある砂原を角折浜という。昔大蛇がいたという。東の海に行きたいと思って浜を掘って穴を作ったところ、蛇の角が折れて落ちてしまった。それによって名づけたという。
 また、ある伝えには、倭武天皇がこの浜で宿をとることになった。食事を差し上げる時に、まったく飲む水がない。そこで鹿の角を手に持って地面を掘り返すと、角が折れてしまった。このことから名づけた」

◎縄文語:「テュンナィ・オロ」=「谷川の・ところ」⇒google map


 比定地は鹿嶋市の角折(旧大野村)です。

 縄文語解釈の「谷川」とは、大野潮騒はまなす公園の渓流しかありません。

 角がある蛇は稀にいるらしいですが、この地域にいたのでしょうか。万一いたとしても穴を掘って角が折れるなどということはありません。ヤマトタケルの東征伝承は、何度も言いますが、ほぼすべてデタラメです。


▼▼▼「那賀郡(那珂郡)」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「東は大海。南は鹿島、茨城郡、西は新治郡と下野国との堺の大きな山、北は久慈郡である。
 平津の駅家の西十二里のところに岡がある。名を大櫛という。遠い昔に人がいた。体格はきわめて背が高く、からだは丘の上に座っていながら、手で浜辺の蜃(うむぎ:大蛤)をつまみとるほどだった。その食べた貝殻が積もって岡となった。当時の人が、おおくじり(おおいにつまみとる)の言葉から取って、今は大櫛の岡という。
 かれの踏んだ足跡は、長さ四十歩、幅二十歩あまりである。尿の穴の直径は、二十歩あまりである」※一歩=約1.8m

◎縄文語:
・那賀郡=「ナィ・カ」=「川・岸」
⇒google map
・大櫛=「オオ・クッチャ」=「大きな・沼から水が流れ出る口」⇒google map


 那賀郡の比定地はひたちなか市、常陸大宮市、那珂市、水戸市の那珂川北東地域、東海村周辺です。つまり、おおよそ那珂川と久慈川に挟まれた地域一帯です。

 大櫛の比定地には、現在の大串貝塚です。縄文語解釈は「涸沼の出口」という意味です。

 各地に巨人伝説はありますが、これらは内陸にある貝塚を正当化するための物語です。つまり、縄文海進の伝承が消えた結果が巨人伝説に繋がることになります。それだけ先住民がいなくなったということでしょうか。
 ただ「おおくじり」の発音の方が縄文語に近いので、少なくとも地名は残っていたということが窺えます。

 那賀郡、大櫛、ともに極めて確度の高い縄文語解釈です。つまり風土記は言うまでもなくデタラメです。


■■■「茨城里」命名由来 ■■■

×風土記:「ここから北の方角に高い丘がある。名を?時臥山(くれふしのやま)という。古老が言うには、兄と妹の二人がいた。兄の名を努賀?古(ぬかびこ)、妹の名を努賀?咩(ぬかびめ)という。
 あるとき、妹が部屋の中にいたところ、いつの間にか一人の男が来ていた。氏も名もわからないその男は、いつもやってきて求婚するが、夜になると来て、明るくなると帰って行った。やっと求婚を承(う)け入れて夫婦になると、一夜で身ごもった。
 やがて産み月になると、ついに小さな蛇を産んだ。その小蛇は、夜が明けると口が利けないようであるが、夕暮れになると母と語ることができた。これには母も伯父も驚き不思議がり、心に神の子ではないかと思った。
 そこで浄められた器に小蛇を入れ、祭壇を設置してそこに置いた。小蛇は一晩のうちに器一杯に満ちていた。そこでさらにお盆を大きいのに取り替えて置く。するとまた盆の中一杯に満ちている。このようなことが三度四度と重なって、入れて用いる器がなくなった。
 母が子に告げて言うには、
『お前の能力を推し量ってみると、おのずから神の子であるとわかった。私の家系の力ではお前を養い育てることができない。父のいらっしゃるところに生きなさい。ここにいてはいけない』と。その時、子は悲しんで泣き、顔面を拭って答えて言った。
『謹んで母上の仰せを承知しました。何の異存もありません。しかし、身一つ独り行くには、身近に従う者もいません。どうか憐れんで私に一人の童児をつけてください』
母は言う。
『我が家にいるのは母と伯父だけ、このこともお前が明らかに知っていること。お前に付き従う人はいない』
 すると子は、怨みの気持ちを懐(いだ)いて、一言も物を言わなくなった。
 いよいよ別れの時になると、怒り恨む心に耐えられなくなり、伯父を怒り殺して天に昇ろうとした。その時、母は驚いて、お盆を手に取って投げつけると、子に当たって昇天できなくなってしまった。このためにこの峰に留まることになった。神蛇を入れたお盆と甕は今も片岡の村に残っている。この子孫が社を建てて祭りをし、承け継いで今も絶えないでいる」

◎縄文語:
・茨城=「エペラ・アン・キ」=「川上・にある・山」
・?時臥山=?? ※以下本文内参照
⇒google map


 茨城里は、茨城郡の縄文語解釈と同義です。茨城郡の「川上にある山」は筑波山塊を指しましたが、茨城里は?時臥山比定地の朝房山周辺です。

 朝房山の縄文語解釈は、

●朝房山=「アサ・ポン・ヤマ」=「奥の・小さな・山」

 で、茨城里の「川上の山」の解釈と一致します。朝房山は標高201mの小さな山です。

 ?時臥山(くれふしのやま)ですが、どうも朝坊山と平仄の合う解釈が見つかりませんでした。本当に朝坊山なのでしょうか。何も考慮することなく、発音に合わせれば、

◎?時臥山=「キ・プチ」=「山の・川口」=山にある川の合流点

 と解釈できます。周辺の地名を当たってみると、藤井町、飯富町が相応しく見えます。

●藤井(町)=「プッ・チャ・エ」=「川口の・岸の・頭(岬)」⇒google map
●飯富(町)=「オプッ」=「川口」⇒google map

 飯富町は那珂川と藤井川、西田川の合流点ですが、「山」の意が含まれていないので、縄文語の意味からすると、藤井町が近いと言えます。藤井町は、藤井川と前沢川、西田川の合流点にあり、藤井川と西田川に挟まれた丘陵地(岬)でもあります。

 もし、朝房山が「あさふさやま」であれば、

朝房山=「アサ・プッ・チャ・ヤマ」=「奥の・川口の・岸の・山」

 とし、藤井町とまったく同じ解釈とすることもできます。この周辺一帯が「藤井」と呼ばれていたのであれば、辻褄が合います。現に藤井川の上流は朝房山の西方の山塊です。

 飯富も含め、「那珂川とその支流の合流点にある山」とすれば、辻褄は合いますが、残念ながら今ひとつ確定要素が足りないのは否めません。


□□□「河内駅家/曝井(さらしい)」命名由来 □□□

×風土記:「郡役所より北東にあたり、粟川(那珂川)を渡ったところに駅家が置かれている。もと駅家は粟河を繞(めぐ)らせる位置にあったので河内駅家というのである。川の流れが変わったのに今も元の通りに名づけている。
 其の南の方角に、泉が坂の途中に湧き出している。流量が多くたいそう清らかである。曝井という。泉のほとりに住んでいる村の婦人たちは、夏の季節には集って布を洗い、何度も日に当てて干している」

◎縄文語:
・河内=「カィ・ワ・テュ」=「折れた・岸の・岬」
⇒google map
・曝井=「サンル・スィ」=「浜に出る道の・(水の湧く)穴」 ⇒google map


 河内駅家の比定地は、水戸市中河内町です。ちょうど那珂川が折れ曲がっているところです。大阪の河内も「折れ曲がった河内湾の岸の岬(上町台地)」の意で、同語源です。

 曝井の比定地は県内最大級の前方後円墳である愛宕山古墳(6世紀初頭、全長136.5m)の西方の坂にある曝台の湧水です。

 愛宕山古墳は那珂川の河岸段丘の上の立地ですので、その坂というのは、「那珂川の浜に出る坂」という意味になります。非常に確度の高い縄文語解釈です。

 また、愛宕山古墳は、

●愛宕=「アッ・タ=片割れの・尾根の端の(orぽつんと離れた)山」

 という意味なので、那珂川河岸段丘の突端の地勢と完全に一致します。他地域の愛宕山古墳も同様の地勢です(※第三十六回コラムの愛宕山古墳の項参照)。墳丘上の愛宕神社は後世に発音にこじつけて勧請された可能性が高いと言えます。

 さらに、愛宕山古墳の南に接して馬塚古墳がありますが、これは、

●馬塚=「マーテュ・カ」=「波打ち際の・ほとり」=那珂川の岸辺

 という意味で、これも完全に解釈が一致します。他地域の「マーテュ」を関する古墳については、第七十回コラムの馬塚古墳で取り上げています。いずれも水辺であることが分かります。

 愛宕山古墳は6世紀初頭の築造で、しかも那珂川両岸を支配した仲国の首長墓と目されています。その古墳の縄文語解釈確度が高いということは、埋葬されている人物が風土記を編纂した8世紀の上代日本語集団とは別系統の支配者であった可能性が高いということになります。

 風土記編纂者側が仲国首長と同系であれば、曝井や河内駅家の由来が漢字表記にこじつけたデタラメであるのはかなり不自然で、もし、敢えて由来をねじ曲げているのであれば、上代日本語を操るヤマト側の軍門に完全に降っていたということになります。
 いずれにしても、この時代のヤマトの権力筋と先住民は、異なる言語を使っている可能性が高いので、別民族と捉える方が自然です。


▼▼▼「久慈郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「東は大海。南と西は那賀郡。北は多珂郡とむず国との堺の岳(やま)である。
古老が言うには、郡役所から南の方向、近いところに小さな丘がある。形が鯨に似ている。倭武天皇がそれで久慈と名づけた」

◎縄文語:「クッチャ」=「川の出口」⇒google map


 鯨に似ている?(笑)。古代人にここまでバカにされれば、いい加減これらの大嘘に気づいてもよさそうですが。

 アイヌ語の「クッチャ」は主に「湖沼から流れ出る川の口」を指しますが、「クッ=喉」と「チャ=口」が語源となっていますので、「川の出口」と捉えてもよさそうです。

 とすると、比定地は常陸太田市周辺ですから、当該の川が久慈川、あるいはその支流であっても、いずれも「川が谷から平野に流れ出る出口」になっていることがわかります。
ちなみに郡衙は久慈川支流の山田川流域にあったとされています。


■■■「河内里」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所から西北六里に河内里がある。もとは古々の邑(ここのむら)と名づけていた。土地の言葉で猿の声をここという。東の山に石の鏡がある。昔すだまという山の怪物がいた。寄り集ってきて鏡をもてあそんで、自分の顔が写るのを見ると、すぐに自然といなくなってしまう。<後略>
 世に言う久慈川の源流は、古々の邑から発している」

◎縄文語:
・河内=「カィ・ワ・テュ」=「折れた・岸の・岬」⇒google map
・古々=「コ・コッ」=「湾曲した・谷」

 河内里は久慈川中流から上流域ですが、範囲が広いので縄文語解釈確度についても何とも言えませんが、このあたりの久慈川に「蛇行している谷地形」があるのは確かです。


■■■「静織里(しとり)」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所から西■里に静織里がある。上古の時代、綾を織る機織りを知る人がいなかった。ある時にこの村で初めて倭文(しつ)という綾を織った。このことで静織と名づけたのである」

◎縄文語:「シテュ・リ」=「大きな山の走り根の・高台」
or「シテュ・ル」=「大きな山の走り根の・岬」⇒google map


 比定地は常陸国二ノ宮静神社周辺です。久慈川と那珂川に挟まれた峰に築かれています。まさに「大きな山の走り根の岬」で、縄文語解釈そのままです。

 風土記記載の倭文神(しどりのかみ)は静神社の由緒にも登場しますが、他の礼も勘案すると、残念ながらこの由緒は信用できません。

 他の名だたる神社も含め、日本の神社の由緒の多くは風土記時代に創作されたデタラメです。それらのほとんどは、もともと縄文人による自然崇拝です。
 そこに縄文語を理解できない後世(古墳時代後期以降)の渡来系の人々が、漢字表記にこじつけて創作した物語が由緒となっています。神様が嘘つきなのですから、もう何を信じていいか分かりません。

 繰り返しになりますが、以下、神社の縄文語解釈例です。

<第四十六回コラムより引用>
◎伊勢神宮=「イソ」=「磯、岩礁」=伊勢志摩の磯
 ※天照大神は漢字表記こじつけの太陽神ではなく、銅鐸祭祀のことです(※第二十四回コラム参照)。
◎太一信仰=「タ・エテュ」=「石の・岬」=伊勢志摩の岬
 ※伊勢の太一信仰は伊勢志摩の自然崇拝のことで、北極星とは関係ありません。  
◎愛宕神社=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」
 ※全国の愛宕山の地勢です(※詳細は第三十六回コラム参照)。
◎八幡神社=「ペッチャ」=「川端」
 ※八幡神社のほとんどは川端に立地(※詳細は第三十七回コラム参照)。
◎稲荷神社=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=高台の祭場=稲荷山の山上
 ※狐=「クテュニン」=「岩の段々のある崖」=稲荷山の地勢
 ※ウカノミタマ=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=稲荷山の山上
◎籠神社=「コッ・ウン・ノッ」=「窪地・にある・岬」=天橋立
※詳細は第四十四回コラム参照
◎金刀比羅宮=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」
◎熊野神社=「クマ・ノッ」=「横に長くなっているような・岬」


□□□「玉川」命名由来 □□□

×風土記:「(静織里の)北に小川がある。川の石の中に赤い石が入り混じっている。色は琥珀に似ている。火打ち石とするのにとてもよいので玉川と名づけている」

◎縄文語:「タン・マ」=「こちらの・川」⇒google map


 玉川は現在でも玉川と呼ばれています。久慈川支流です。流域には旧玉川村がありました。

 縄文語で「タン=こちらの」がつきますので、比較対象となる川が近隣にあるということを示しています。言うまでもなく、それは久慈川です。

 東京、神奈川の境界を流れる多摩川も同語源ではないでしょうか。

 wikipediaに玉川の一覧がありました。「水系」「支流」とつくのは調べるまでもなく、比較対象の本流、または他の支流があります。本流についても、近隣に比較対象の河川があります。
 日本は谷と川だらけなので、どこまで信憑性があるのか分かりませんが、例外なく該当しています。

■全国の「玉川」
・秋田県大仙市・仙北市を流れる雄物川水系の一級河川。
・山形県西置賜郡小国町を流れる荒川水系の一級河川。
・山形県東田川郡庄内町を流れる最上川水系立谷沢川支流の河川。
・福島県大沼郡昭和村を流れる阿賀野川水系野尻川支流の一級河川。
・茨城県常陸大宮市を流れる久慈川水系の一級河川。
・千葉県香取市を流れる利根川水系黒部川支流の一級河川。
・神奈川県厚木市を流れる相模川水系の一級河川。
・新潟県佐渡市を流れる本流の二級河川。⇒google map
・長野県飯田市を流れる天竜川水系イタチ川支流の一級河川。
・京都府綴喜郡井手町を流れる淀川水系木津川支流の一級河川。
・京都府福知山市を流れる由良川水系宮川支流の一級河川。
・和歌山県日高郡みなべ町を流れる南部川水系の二級河川。
・和歌山県有田郡有田川町を流れる有田川水系早月谷川支流の二級河川。
・鳥取県倉吉市を流れる天神川水系小鴨川支流の一級河川。
・島根県江津市を流れる江の川水系八戸川支流の一級河川。
・岡山県高梁市を流れる高梁川水系の一級河川。
・愛媛県今治市を流れる蒼社川水系木地川支流の二級河川。
・愛媛県大洲市を流れる肱川水系の一級河川。


■■■「小田里」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所の東に小田里がある。たくさん墾田したので里の名とした。
そこに流れる清らかな河は、水源を北方の山に発し、郡役所の南を通って久慈川に合流する。<後略>」

◎縄文語:「オ・チャ」=「川尻の・岸」=川の合流点の岸辺⇒google map


 久慈郡の郡役所の東、山田川と久慈川の合流する場所です。縄文語解釈そのままで、極めて確度の高い縄文語解釈です。

 風土記はご丁寧に「久慈川に合流」と本当の由来を自ら書いていますので、まさに語るに落ちるというところです。墾田はしたかもしれませんが、由来とはなりえません。


□□□「長幡部神社」命名由来 □□□

×風土記:「郡役所の東七里の太田郷に長幡部神社がある。
 古老が言うには、天照大神のみ孫の瓊瓊杵尊が天降ってきた時に、ご料衣を織るためにつき従って天降った神の名、綺(かんばた)日女命は、はじめ筑紫の日向の二折の峰に降り、それから美濃国の引津根の丘に移った。
 後に美麻貴天皇(崇神)の御世になって、長幡部氏の遠い祖先の多弖命は美濃から去って久慈に移り、機織屋を建築し、初めて織物を織った。<中略>
今は、毎年特別に長幡部神社の祭神綺日女命からのたてまつり物として、朝廷に奉納している」

◎縄文語:
・太田=「オタ」=「砂浜」
・長幡部神社=「ナィカ・パ・タ・アン・ぺ」=「川岸の・岬・そこに・ある・ところ」
⇒google map


 縄文語の「オタ=砂浜」は川岸の砂原を指したのでしょうか。残念ながら、現在は土手で護岸されているので見る影もありません。
 一方、長幡部神社は久慈川支流の里川と茂宮川に挟まれた峰の突端にあるので、縄文語解釈そのままです。

 神社の由来には、以下のようにあります。

<長幡部神社由緒>「長幡とは?の名(あしぎぬ=絹織物の一種)にして、これを織り作るものを長幡部という。御祭神の子孫が、その遠祖を祀ったのが当社である」

 日本の神社の多くが、大小かかわらず古代人が創作したデタラメ物語を由緒としているところがほとんどなので、長幡部神社についても当然疑わざるをえません。

 だいたい風土記には崇神天皇が登場していますが、各地域の古墳名の縄文語解釈から察するに、当時は全国で縄文語(アイヌ語)が使用されていた可能性が非常に高く、言語が変わるほどの変革を経た後の風土記時代の人々と強い繋がりがあるとも思えません。
 日本の歴史には、古墳時代後期以降に大きなブラックボックスがあります。

 何度も言いますが、日本の神社の大元の多くは、もともと縄文人の自然崇拝です。そこに縄文語が解釈できない後世の人々が上物を建て、漢字表記にこじつけて由緒を創作したのが日本の神社、神様の正体です。適当に充てた漢字から神様が生まれるのですから、八百万にもなるわけです。


■■■ 薩都里(さつ)」命名由来 ■■■

×風土記:「ここ(太田里)から北の方角に薩都里がある。
 昔、国栖がいた。名を土雲という。この時に、兎上(うなかみ)命が郡を発動して皆殺しにした。その時全滅できて『幸いなことよ』と言った。そこで佐都(さつ)と名づけた。
 この里の北の山に産する白土は画の原料に適している」

◎縄文語:「サン・チャ」=「山から浜に出る・岸」⇒google map


 比定地は薩都神社周辺です。風土記の物語が事実であるとすれば、先住民を殺しまくったということになります。ただし、命名由来は当然デタラメです。

 縄文語解釈どおり、まさに山峡から平地が開ける岸辺の地勢です。


□□□「賀毘礼(かびれ)の高峰」命名由来 □□□

×風土記:「<要約>東にある大きい山を賀毘礼の高峰という。
立速男命(たてはやおのみこと、別名:速経和気命[はやふわけのみこと])という神が天上界から降り、松沢の松の枝の上にいた。たたりが大変きびしく、松の木に大小便をすると、恐ろしい目に合わせ、病気で苦しめる。近所の住民は困って朝廷に報告した。朝廷は片岡大連を遣わして祭らせた。片岡大連は神に申し上げた。
『ここは民が多く朝夕不浄なところなので、どうぞ高い山の清浄な境内に鎮座してください』
 神はこれを聞き入れ、賀毘礼の峰に上った。
 その社は、石を垣根として、神に仕える一族がたくさんいる。また、いろいろな宝物や、弓、鉾、釜、器具の類が、すべて石になって今に残っている。<後略>」

◎縄文語:「カン・ピ・ル」=「上の方にある・石の・岬」⇒google map


 風土記と縄文語の意味が一致しているので、縄文語解釈確度は高いと言えます。ただし、風土記編纂者は、賀?礼の意味を理解していたかどうかは分かりません。


■■■「助川駅家(すけかわのうまや)」命名由来 ■■■

×風土記:「密筑里から北東三十里に助川駅家がある。昔は遇鹿と言った。古老が言うには、倭武天皇がきた時に皇后が来て会った。それに因んで地名とした。
 国司の久米大夫の時になって、河で鮭漁をしたために、改めて助川と名付けた。地元では鮭の親を須介(すけ)という」

◎縄文語:
・遇鹿=「アゥ・カ」=「枝川の・岸」
=google map
・助川=「シ・ケ(川orカ・ワ)」=「川沿いの崖の・ところ(の川orのほとりの・岸)」


 比定地は日立市助川町、会瀬町、相賀町です。ここに流れている川と言えば、日立セメントと関係の深い、数沢川(かずさがわ)と平沢川しかありません。数沢川は宮田川の支流で、平沢川は数沢川の支流です。

 数沢川と平沢川も縄文語解釈してみます。

●数沢川(かずさがわ)=「コッチャ・サン」=「谷の入口の・平山」⇒googleストリートビュー
●平沢川=「ピラ」=「土崖⇒googleストリートビュー

 言うまでもなく、いずれの川も「枝川」で、風土記記載の「遇鹿=枝川の・岸」の解釈と一致します。
 また、平沢川も、これも縄文語解釈どおり「土崖の川」で、「助川=川沿いの崖のところ」の縄文語解釈と完全に一致します。

 つまり、これらはすべて、この二つの河川の言い換えであることが分かります。ストリートビュー見ていただくとわかりますが、実際の地勢とも完全に一致しています。極めて確度の高い縄文語解釈です。

 決してヤマトタケルが皇后と会ったなどということはありません。鮭を獲ったかもしれませんが、たとえそうであってもただの偶然です。決して川の名前の由来ではありません。親鮭を「スケ」と呼んだということですが、これも極めて怪しいと言わざるをえません。


▼▼▼「多珂郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「東と南とはともに大海、西と北とは陸奥と常陸と二つの国の堺にある高山である。
 古老が言うには、斯我高穴穂宮で天下を統治した天皇(成務天皇)の御世に、建御狭日(たけみさひ)命を多珂の国造に任命した。この人が最初の国造として赴任して、地勢を巡見した。
 峰がけわしく山が高いところと思って、それで多珂国と命名した。
 建御狭日命という人は、出雲臣氏と同じ一族である。今、多珂石城といっているのが、(成務天皇の時の)多珂国である。土地の人が言うには『薦枕多珂国』という。
<以下要約>
 建御狭日命の時は、助河を入口とし、陸奥国石城郡の苦麻村までを郡域とした。その後、孝徳天皇の白雉四年(653年)、多珂国造の石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)の志許赤(しこあか)らが、所管地域の範囲が広すぎて往来に不便ということを総領の高向太夫に申請し、多珂と石城と二つの郡(評)に分割することになった。石城は今陸奥国の領域である」

◎縄文語:
・多珂=「タ・カ」=「石の・ほとり」
・石城=「イワ・ケ」=「岩山の・ところ」
・薦枕=「コマ・マクン・ラ」=「湾曲した川が・奥に行く・低いところ」


 比定地は高萩市、北茨城市です。653年以前は石城郡の比定地であるいわき市も含まれていました。

 縄文語解釈から察するに、これらはいずれもいわき市周辺の地勢を表現しているように見えます。
 「岩のほとり」「岩山」は、男体山、女体山の二つの岩峰を擁する二ッ箭山とすれば、ぴったりの表現です。⇒googleストリートビュー

 また、薦枕の「湾曲した川が奥に行く低いところ」とは、夏井川流域の地勢がふさわしく、上流は二ッ箭山に向かいます。

 「山が高いから多可郡」「袖を浸したから常陸」などというバカげた由来を後世に伝えるのは、そろそろやめていただきたいです。

■余談:「コマ=湾曲した川」と「高麗」

 縄文語の「コマ=湾曲した川」には「高麗」の漢字が充てられることが多く、ほとんどの場所で、漢字表記にこじつけて「高麗人が移り住んだから」という由来となっていますが、極めて疑わしいと言わざるを得ません。
 埼玉の高麗川あたりがもっとも有名ですが、これも高麗川が湾曲している様を表していると考えられます。たとえ本当に高麗人を移住させたとしても、最初に「コマ=湾曲した川」の縄文語があり、そこに似た発音の「高麗」を機縁として移住させたとする方がしっくりきます。⇒google map(高麗川の湾曲)

 他の「高麗」もことごとく「川の湾曲部」付近にある地名なので、漢字知識豊富な渡来人が縄文語の発音に似た漢字を適当に充てて由来を創作したとする方が妥当です。記紀風土記に書かれている漢字表記にこじつけた由来はほぼすべてデタラメなので、「高麗」もその一つに過ぎないということです。
(※各地の「高麗」の地名については、第三十四回コラム「本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」、第四十三回コラムの「新羅、加羅、百済、高麗のデタラメ地名由来について」をご参照ください。)


□□□「飽田村」命名由来 □□□

×風土記:「その道前の里に飽田村がある。
 古老が言うには、倭武天皇が東の辺境を巡ろうとして、この野に宿を取った。ある人が天皇に申し上げた。『野の上に群れたる鹿は甚だ多く、其の聳える角は、枯れた蘆原のようで、その呼気を例えれば、朝霧が立つのに似ています。また、海に鰒(あわび)があり、八尺もあります。あわせて諸種の珍味、すなどりの獲物がいっぱいです』
 そこで天皇は野に出、橘皇后を海に遣わして漁をさせた。獲物の成果を競おうとして、山の幸と海の幸とに分けて獲物を探した。
 この時に、野の狩は、終日駆けて矢を射たが、一匹の獣も得ることができなかった。海の漁の方は、わずかな時にたっぷりの収穫があり、たくさんの美味を得た。
 狩と漁とすべて終わり、食事を差し上げた時、天皇は陪従に言った。
『今日の遊は、朕と皇后と、それぞれ野と海とに出て、祥福(土地の言葉で「さち」という)を争いあった。野の獲物は得られなかったが、海の味覚はすべて飽きるほど食べた』と言った。後世、この言葉の跡を継いで飽田村と名づけた』
 国守が川原宿禰黒麻呂の時、大海の辺の岸壁に観世音菩薩の造を彫って造った。今も存している。それで海辺を仏浜と名づけた」

◎縄文語:
・飽田=「アケ・チャ」=「片割れの(一方の)・岸」
⇒google map
・仏浜=「プッチャ・ハ・マ」=「川口を欠く・水が引いた・川」⇒google map


 飽田村の比定地は日立市相田町周辺です。縄文語解釈はあまりにも一般的な地勢なので、解釈確度についても何とも言えません。ただ、風土記の「食べ飽きたから飽田」は間違いなくウソです。

 一方の仏浜ですが、こちらは非常に確度の高い縄文語解釈になりました。
比定地を流れる小川の出所がはっきりしません。暗渠になっているのでしょうか。このような「出口を欠く川」をアイヌ語では「プチャナィ=入口を欠く川」と表現するので、仏浜は類似の表現と言えます。風土記にあるようないわゆる海辺の「浜」は周辺には見当たりません。


□□□「藻島駅家(めしまのうまや)」命名由来 □□□


×風土記:「郡の南三十里に、藻島駅家がある。東南の浜に産する碁石の色は珠玉のようである。常陸国の碁石といわれるこの浜に産する美しい碁石は、ただこの浜だけにある。
昔、倭武天皇が舟に乗り、海に浮かんで、島の磯がご覧になった。いろいろの種類の藻がたくさん生い茂っていた。それで藻島と名づけた」

◎縄文語:「メ・スマ」=「泉の・岩」
⇒google map(鵜の岬スイレン池公園)
⇒google map(鵜の岬海岸)

 比定地は小字に目島が残ることから日立市十王町伊師とされています。縄文語解釈では十王町伊師南部の「鵜の岬」がふさわしく見えます。まさに、「泉と岩の組み合わせ」です。
 藻が生えていても、それは海ですから当然です。

 ちなみに、静岡県の「三島」も同語源と考えられます。こちらも富士山の麓の溶岩と湧水の多いところですから疑いなく「泉と岩の組み合わせ」です。⇒google map(柿田川湧水群)



日出ずる国のエラーコラム
第七十一回 常陸国風土記のウソを徹底的に暴く!(一)~総記~行方郡~「袖を浸したから常陸」などとデタラメを言うな!常陸は那珂川の「砂原の河口」の意だ!
 今回より常陸国風土記の縄文語解釈を始めます。まずは冒頭の総記、行方郡から。予想通り、出雲国風土記、播磨国風土記に続き、常陸国風土記もデタラメ物語満載です。

【今回取り上げる内容】
常陸国/新治郡/白壁郡/筑波郡/信太郡/乗浜/茨城郡/田余/行方郡/現原/梶無川/鴨野/提賀里/曾根村/夜刀神/椎井池/男高里・鯨岡・栗家池/麻生里・香澄里/板来里/当麻郷/芸都里/大生・相鹿里

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「常陸国」命名由来 ◆◆◆

×風土記:「そう名づけた由縁は、往き来の道路が大河や海の渡し場を隔てることなく、郡郷の境界線が山河の峰や谷に続いているので、真っ直ぐな陸路の意味を取って、国の名としたのである。
 また、ある人はこう言う。倭武(ヤマトタケル)天皇が、東の夷の国を巡視し、新治の県を通過した。国造である●那良珠(ひならす)命を遣わせて、新しく井を掘らせたところ、流れる泉が清らかに澄み、たいそう心惹かれた。その時に、乗り物を止めて、水を賞美して御手を洗った。御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという意味によって、この国の名としたのである。
 土地の言い習わしに、『筑波岳に黒雲がかかり、衣袖をひたす=ヒタチの国』というのは、このことをいうのである」
※「●」=田へんに比

◎縄文語:「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・岸」
or「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・河口」
⇒google map


 言うまでもなく、風土記の内容はもちろんデタラメです。ヤマトタケルの東国遠征譚も漢字表記にこじつけたデタラメ創作物語なので、まったく信用するに値しません。(※詳しくは拙著「日本書紀のエラーコラム(電子書籍)」を参照)

 袖を浸したからヒタチ?本当にバカ言うな!です。

 縄文語解釈の「小石河原(or砂原の)岸(or河口)」は、どこにでもありそうな地形となりますが、常陸国で言えば、那珂川下流域あたりが相応しく見えます。現在の河口は開発が進み、ほとんど当時の様子は見る影もありませんが、かつては、大きな砂州が北側に向かって伸び、広大な砂丘地があったようです。
⇒google ストリートビュー(那珂川河口)

 やはり、出雲国、播磨国に続き、常陸国風土記も漢字表記にこじつけた物語を創作する方針のようです。前回の茨城県の古墳名の縄文語解釈により、7世紀代までは縄文語が使用されている可能性が高いと判断できるので、この方針は故意にしか見えません。
 つまり、そもそもデタラメな内容は承知で、読み手を騙すことを意図して書かれている可能性が高いということです。この傾向は記紀や風土記に一貫しているので、先住民の文化を新しい文化で上書きしようとする権力側の意志がそれだけ強かったということになります。


▼▼▼「新治郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「古老が言うには『昔、美麻貴(みまき)天皇(崇神天皇)が天下を統治した御代に、東国の荒々しい賊(当時の人々の言葉では、あらぶるにしものという)を討ち平らげようとして、新治の国造の祖先で、名は比奈良珠(ひならす)命という人を派遣した。この人が下向して来て新しい井を掘った。(今も新治の里にある。時節になると祭をする。)その水は清く流れ出た。そこで新しく井を開いたので、それに因んで郡の名に着けた。そのときから現在になるまでその名のままである』という。(土地の人の諺に白遠ふ新治の国という。)」

◎縄文語:新治=「ヌプリ」=「山」⇒google map


 比定地は現在の茨城県笠間市、筑西市、桜川市です。筑波山地周辺。北から筑波山に向かって筑波連山が伸びています。説明の必要もありません。山のところ。

 風土記は言うまでもなくデタラメです。


▼▼▼「白壁郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「郡役所より東方五十里(約2.5km)に笠間村がある。そこへ越えて行く道を葦穂山という。古老が言うには『古い時代のこと、そこに山賊がいた。名を油置売(あぶらおきめ)命という。今も杜の中に岩屋がある』という。土地の人々の歌にいう。
 二人の噂がひどく立つようなら おはつせ山の 岩屋にでも あなたを連れて隠れてしまおう だからそんなに恋い焦がれないで我が妻よ」

◎縄文語:「シ・ケピ」=「山の・ふち」⇒google map


 7世紀後半、新治郡から南部(筑波山北西部)が分立して成立した郡。現在の筑西市、桜川市西部周辺。風土記の白壁郡の地名由来は現存しません。

縄文語解釈では、「筑波山塊のふち(山裾)」という意味にとれます。


▼▼▼「筑波郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「古老が言うには、筑波県は、遠い昔には紀国といった。崇神天皇の御代に、采女(うぬめ)臣の支族の筑簟(つくは)命を紀国の国造として派遣した。その時、筑簟命が言うには、『自分の名をこの国に着けて、後代までも絶えることなくずっと伝えさせたいものだ』と言った。そこでそれまでの国名を改めて、今度は筑波ということになった。(土地の人の言葉で「握飯筑波の国」という)」

◎縄文語:
・筑波=「チケ・パ」=「断崖の・頭」=筑波山
⇒google map(女体山山頂)
・紀(国)=「ケナ」=「川端の木原」
or「キヌ」=「葦原」
⇒google map


 現在のつくば市、つくばみらい市周辺です。風土記の内容は、もちろんお話になりません。

 縄文語解釈では、「筑波」は岩の頂の筑波山を意味します。
 紀国の由来は、毛野と同一語源ともとれます。川沿いによくある地勢で、紀国の「川端の木原or葦原」も紀ノ川流域を指したのではないでしょうか。風土記の信太郡の条に、「葦原の鹿肉は美味である」との記載があるので、「キヌ=葦原」の方が相応しいかもしれません。

 日本全国同様の地勢は無数にあるので、同じ地名が複数あっても何ら問題はありません。風土記のように、同じ地名を適当な物語でつなぎ合わせ始めたらキリがありません。デタラメ伝承が増えるだけです。


▼▼▼「信太郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「古老が言うには、難波の長柄豊前宮で天下を統治した天皇(孝徳天皇)の御世の癸丑年(白雉四年-653年)小山上の物部河内・大乙上の物部会津らが総領の高向大夫らに願い出て、筑波郡と筑波郡の七百戸を分割して、信太郡を新設した。ここはもとの日高見国である。云々。
 黒坂命が奥州の蝦夷を討ちに行った。ことが終わって凱旋の時、多珂郡の角枯山(つのかれやま)まで至ったところで、黒坂命は病に侵されて亡くなった。そこで、角枯を改めて黒前山と名づけた。黒坂命の棺を載せた葬送の車が、黒前山を出発して日高国に至るまで、葬礼の飾りものは、赤旗、白旗と入り混じり、風に吹き上げられひるがえって、往きが飛ぶごとく虹がかかる如く、野を照らし、葬送の路(みち)を輝かせた。当時の人は、このことから日高見国を赤旗が垂れ下がる国といった。後世の言葉では、言い換えて信太国という」

◎縄文語:
・信太=「シ・チャ」=「大きな・岸」
⇒google map ⇒google ストリートビュー
・日高(見)=「シ・チュカ(・マ)」=「ずっと(or真)・東(の・奥)」

 現在の稲敷郡美浦村、阿見町周辺。霞ヶ浦南西の湖畔です。

 風土記が「信太」と「日高見」を結びつけたのは、単に発音が似ていたからではないでしょうか。
 一般的に日高見はヤマトから見た蝦夷の国を指していると解釈されているので、縄文語解釈も「東の国」の意としました。ちなみに、これは筆者が日本の命名由来としている「チュ・パ」と同語源です。

・日本=「チュ・パ」=「日の・上(日が昇るところ)」=東
=「チュ・カ」=「日の・上(日が昇るところ)」=東

 角枯山は黒前山となった後、現在は竪破山(たつわれさん)と呼ばれています。これも縄文語解釈します。

・角枯(山)=「テュヌンコッ・ウン・ル」=「谷間・に(orが)ある・岬」
・黒前(山)=「コッネ・サン・ケ」=「窪んでいる・出崎の・ところ」
・現在名:竪破山=「テューテュ・ワ・アン・ル」=「二つの峰の間(谷間)・に・ある・岬」

 いずれも似たような地勢を指す解釈が可能です。これは竪破山の頂が二つに分かれて、その間が凹んでいる様を表現したのではないでしょうか。


□□□「乗浜」命名由来 □□□

×風土記:「古老が言うには、倭武天皇が海辺を巡行して、乗浜に着いた。その時に、浜や浦のほとりに多くの海苔(土地の人は「のり」という)を干していた。これに因んで能理波麻村と名づけたという」

◎縄文語:「ノ・ル・パナ」=「よい・海の・下の方(海に近い方)」=霞ヶ浦東部⇒google map


 現在の稲敷市周辺です。縄文語解釈では「霞ヶ浦の東部」という意味になります。ただ、風土記の由来も否定はできません。


▼▼▼「茨城郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「古老が言うには、昔、国巣(土地の言葉で都知久母[つちぐも]また夜都賀波岐[やつかはぎ]という)である山の佐伯・野の佐伯というものがいた。いたるところの山野に穴倉を掘っておき、いつも穴に居住し、外部の人がやってくると穴倉に入って箕を隠し、その人が去れば、また野辺に出て遊ぶ。狼の荒くすさむ性情、梟の悪鳥といわれる暴虐生をもって、鼠のようにひそかに様子を窺い、犬のように盗みとる。(こうして彼らは孤立して一般の民から)招かれ慰撫されるということもないので、ますます世間の風習からかけ隔たってしまっていた。
 この時、多氏の同族の黒坂命は、(国巣たちが)穴倉から出て遊んでいる時を狙って、茨蕀(うばら)を穴の中に敷き並べたところで、騎兵を出して突如として追い攻めさせた。国巣の佐伯らはいつもの通りに穴倉に走り帰ったが、全員茨棘にひっかかって、蕀(とげ)に突きささり傷つけられて病になり、死にもして散り散りになってしまった。そこで、茨蕀の名を取って県の名につけた。(いわゆる茨城は今那珂郡内の西に存在する。昔はここに郡家が置かれた。ここは茨城郡内だった。土地の人の諺に『水潜る茨城の国』という)
 ある人が言うには、山の佐伯、野の佐伯が自ら国巣の賊の頭目となり、一味の連中を率いて、勝手気ままに往行し、ひどい略取や殺害をした。その時に、黒坂命がこの賊党を計略を使って滅ぼそうとして、茨(うばら)で城を造った。こういうわけで、ここの地の名を茨城という。
 茨城の国造の始祖の多祁許呂[たけころ]命、息長帯比売天皇[神功皇后]の朝廷に仕えて品太天皇(応神天皇)生誕の時まで仕えた。多祁許呂命には八人の子がいた。次男の筑波使主は、茨城郡の湯坐連(ゆえのむらじ)等の始祖である」

◎縄文語:
・茨城=「エペラ・アン・キ」=「川上・にある・山」=筑波山塊
⇒google map


 茨城郡は現在のかすみがうら市周辺です。縄文語解釈にある「川上にある山」とは、筑波山塊しかありません。

 風土記の内容はひどいものです。茨城の地名由来はまったくのデタラメです。先住民を陥れるための大きな悪意を感じます。関東の広大な土地を盗み取ったのは明らかに風土記編纂者側です。

 国巣、都知久母(=土蜘蛛)、夜都賀波岐(=八束脛)である佐伯の実在は甚だ怪しいですが、もし実在したものならば、疑いなく先住民の一派だと言えます。権力側の体制に取り込まれた者と、それに反発した者に分かれていたということでしょうか。

 ヤマトによる関東地域への侵略は、古墳時代終了までに少なくとも二度あります。二度目は使用する言語が異なる可能性が高いので同じヤマトであっても別民族かもしれません。

●ヤマトによる関東の侵略
<一度目の侵略>3世紀後半~4世紀
 邪馬台国が滅んだ後、邪馬台国の残存勢力が東国支配に遣わされた時。
<二度目の侵略>7世紀中頃~
 改新の詔、律令に従い、各地に国衙が築かれて国司が置かれた時。

 程度は不明ですが、二度目の侵略の時に新しい言語である上代日本語が国府に持ち込まれたのは、風土記の編纂から明らかです。

 周辺の古墳名の縄文語解釈から察するに、少なくとも6~7世紀まではこの地域で縄文語(アイヌ語)が使用されていた可能性は極めて高く、それはすなわち国府(or国衙or国司周辺)とその他地域で言語が異なる二重構造であった可能性が高いということになります(※茨城県の古墳名の縄文語解釈については第七十回コラム参照)。

 また、上代日本語の貴重な資料として、埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣がありますが、これは5世紀後半のものとされています。群馬県や埼玉県の古墳名も、少なくとも7世紀までは縄文語解釈可能なので、ここに刻まれた上代日本語などは特殊技能を持った一部の書記官だけが使用する書き言葉だったとする方が辻褄が合います。

 ちなみに、稲荷山鉄剣に刻まれた系譜は、ほぼ間違いなく事代主(第五代孝昭天皇=大彦)から続く尾張氏の系譜です(※第三十一回コラム参照)。ここも邪馬台国が滅んだ後に尾張氏が扶植しています。
 愛知の朝日遺跡が邪馬台国滅亡に合わせて消滅していますから、そこの人々が移住してきたのかもしれません。埼玉古墳群の前身は、東松山市の野本将軍塚古墳の勢力とみられています。近隣の遺跡からは、三角縁神獣鏡のほか、東海系の土器も多数出土しています。

 風土記記載の多祁許呂命は神功皇后や応神天皇と接点があるようですが、そもそもこの時代が絡む物語は信用できません。
 三韓征伐の間、神功皇后は股に石を挟んで出産を我慢し、臨月を三ヶ月耐えて応神天皇を生んでいます。神功皇后、応神天皇にも仕えた武内宿禰は300年以上生きています。神功皇后が祀った住吉三神も決して海の神ではなく、六甲山の自然崇拝のことです(※第三十九回コラム「住吉三神と六甲山」の項参照)。
 このあたりは邪馬台国を継いだ台与の事績を隠蔽するために物語が創作された可能性が高いことは第三十回コラムですでに書いたとおりです。


□□□「田余」命名由来 □□□

×風土記:「郡役所の東五キロ半ばのところに桑原山がある。昔、倭武天皇が、山の上に葦を留めたことがあった。食事を差し上げる時に水役人に命じて新たに井を掘らせた。涌き出た泉は浄らかで香しく飲料に最良であった。天皇が勅して『よくこれほどの清水をためていたものだ』と仰った。土地の人は「よくたまれる水かな」という。こういうわけで、里の名を、今田余という」

◎縄文語:「タン・モ・ル」=「こちらの・小さな・岬」
or「タン・モィ・ル」=「こちらの・入江の・岬」
⇒google map


 比定地は旧田余村、現小美玉市玉里地区周辺です。

 「タン=こちらの」がつくと「比較対象となる同様の地勢が近隣にある」ことが多いということはこれまでも何度か書いています。
今回の場合は簡単です。霞ヶ浦の対岸に大きな岬、その南に入り江があります。

 言うまでもなく、風土記の倭武天皇の物語は真実ではありません。前にも書きましたが、ヤマトタケルの東国遠征の物語は伝承も含め、全体を通してほぼすべてデタラメです(※電子書籍「日本書紀のエラーコラム」参照)。


▼▼▼「行方郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「古老の言うには、難波長柄豊前の大宮で天下を統治した天皇(孝徳天皇)の御世の白雉四年(653年)に、茨城の国造の小乙下壬生連麿と那珂の国造の大建壬生直夫子等が、総領である高向の大夫と中臣幡織田の大夫らに願い出て、茨城国の土地八里を分割し、そこの百余戸を合わせて、別に一郡を立て郡役所を設置した。
 行方郡というわけは、倭武天皇が天下を巡視して、霞ヶ浦の北方を平定した。その折、茨城国を通過して、槻野の清水においでになった。水場で手を洗ったところ、玉を井に落としてしまった。その清水の井は今も行方里の中にある。玉の清水という。
 そこからさらに御輿を廻らして現原(あらはら)の丘においでになり、食事を差し上げた。この時に天皇は四方を遠く見はるかし、前にいる高官たちを振り返って仰るには『御輿を止めて歩き回りつつ目をあげて見渡してみると、山の走る隅々、流れ海の湾曲の高低長短が入り組み、交わり、くねくね曲がりくねっている。山の峯は雲を浮かべ、谿の稜線は霧を抱擁している。万物の形状配色は心に沁みて美しく、この国土の姿形にたいそう心奪われる。この土地の名を行細(なみくは)し国というがよい』と仰った。後世になって、この仰せ言(ごと)をうけて、同じように行方と名づけた。土地の人の諺に、立雨ふる行方の国という。」

◎縄文語:「ナ・メ・カ・タ」=「冷たい・泉の・ほとりの・方」⇒google map


 比定地は言わずもがな、行方市です。行方市は霞ヶ浦と北浦に東西を挟まれた地勢です。つまり「冷たい泉のほとりの岸」です。

 後述しますが、香島郡に登場する見目麗しき少年が化けたとされる奈美松と同じ意味です。

●奈美松=「ナ・メ・マーテュ」=「冷たい・泉の・波打ち際」

 もちろん、ヤマトタケルは関係ありません。


□□□「現原(あらはら)」命名由来 □□□

×風土記:「その岡は高く明らかに眼の前に広がっている。このように立ち露われているので現原と名づけた」

◎縄文語:「ア・パ・ラ」=「一方の・岬の・低いところ」⇒google map


 比定地には現原の丘碑が立っています。風土記の由来が書かれていますが、残念ですがデタラメです。

 後述する提賀里の「荒原神社」も同様の地勢にあります。「丘陵の凹んだところ」を指したものと思われます。


□□□「梶無川」命名由来 □□□

×風土記:「(倭武天皇が)岡から下って大益川にいらっしゃり、小舟に乗って川を上った時、舟をさす梶を折ってしまった。これに因んでその川の名を無梶川(かじなしがわ)という。
無梶川は、茨城、行方二郡の境界である。」

◎縄文語:「コッチャ・ナイチャ」=「沢の入口の・川岸」⇒google map


 現在の梶無川です。川の流れる範囲は大きく、地勢との比較も難しいので、縄文語解釈の確度も高いとは言えません。
 風土記は言わずもがな、まったくのデタラメです。


□□□「鴨野」命名由来 □□□

×風土記:「(倭武天皇が)無梶川を遡って辺境の地に到達した時、鴨が飛び渡っていた。天皇が鴨を見上げた時、鴨は天皇のならす弓の弦の音に反応して境界線の近くに落ちた。それでそこを鴨野という」

◎縄文語:「コ・ノッ」=「持ち手の曲がりのような・岬」
⇒google map
⇒google ストリートビュー


 縄文語解釈は、「鍋の持ち手のような丸い山」という意味です。ストリートビューでご確認ください。

 播磨国風土記にも似たような山がありました。いずれも、鍋の持ち手のような丸い山です。

◎縄文語
・神山=「コ・ヤマ」=「持ち手の曲がりのような・山」
⇒googleストリートビュー
・蒲阜(林田里)=蒲阜=「コ(阜)」=「持ち手の曲がりのような(阜)」⇒googleストリートビュー


 同様の地形に漢字「亀」が充てられ「亀の甲羅に似ている」というような由来がつけられているものもちらほら見かけますが、もともとは「コム=鍋の持ち手の曲がり」の意の可能性が高いのではないかと考えます。周辺地名も縄文語解釈できるならば、この「亀」だけが日本語(漢字)由来であるのは不自然です。


■■■「提賀里」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所から西北に提賀里がある。ずっと昔佐伯が住んでいた。名を手鹿という。その人がそこを住居とした。後になって里にその名をつけた。
その里の北に香嶋神子神社がある」

◎縄文語:「テ・カ」=「(浦の)手の・ほとり」⇒google map


 比定地は行方市手賀です。

 アイヌ語には「モィ・テ=入江の・手=浦の両端にある出崎」の言葉があるので、霞ヶ浦に突き出た岬のほとりを指したものと解釈しました。縄文海進を想定して平地を海にしてみれば、手賀地区は入り組んだ入江だったことが分かります。周辺の貝塚もほぼ平地にはありません。

 風土記に登場する「香嶋神子神社」は現在の「荒原神社」に比定されています。

◎縄文語:荒原=「ア・パ・ラ」=「一方の・岬の・低いところ」⇒google map


 前述の「現原」と同様の地勢です。「丘陵の凹んだところ」の意。


□□□「曾根村」命名由来 □□□

×風土記:「ここから(香嶋神子神社)の北の方に曾根村。遠い昔佐伯がいた。名を曾禰[田比]古(そねびこ)という。その名をとって村の名につけた。今駅家を置いている。これを曾尼(そね)という」

◎縄文語:「サッナィ」=「枯れた沢」⇒google map


 比定地は玉造字和泉付近ななど。異説あります。比定地が特定されていないため、縄文語解釈も確度が高いとは言えません。


□□□「夜刀神」命名由来 □□□

×風土記:<要約>「継体天皇の世に、箭括氏(やはずのうじ)の麻多智(またち)という人がいた。郡役所の西の谷の葦原を開墾して神殿を造成した。この時、夜刀神が群をなして来て、妨害し、田の耕作をさせなかった。土地の人は蛇のことを夜刀の神という。そこで麻多智は、鎧をつけ、矛を手にして、夜刀神を打ち殺し追い払った。
 山の登り口まで追ってきたところで、境界の標識として杖を立て、
『ここから上は神の土地とすることを許そう。ここから下は人が田を耕作する。今から後、自分が神を祀る司祭者となって、永久に敬い祭ってやろう。どうか祟らないでくれ。恨まないでくれ』と夜刀神に言って、社を定めて初めて夜刀神を祭ったという。その後、麻多智の子孫が 代々受け継いで祭りを行った。
 孝徳天皇の世、壬生連麿が初めてその谷に立入禁止の標示をして、池の堤を築かせた。その時、夜刀神が池畔の椎の木に上り集まって、いつまでも退去しない。そこで麿は大声で
『この池の堤を修復させたのは、要するに民を生活させるためである。どこのなんという名の神が、天皇の威徳に不服だというのか』
 といった。そして、工事で働く民に命じて言った。
『目に見える物は、魚類、虫類、気兼ねなく、恐れることなく、すべて打ち殺せ』
 言い終わると同時に、神蛇は逃げ隠れた」

◎縄文語:
・夜刀=「ヤチ」=「泥」
⇒google map


 第二十六代継体天皇(5世紀中~6世紀前半)は、ヤマトに入るのにもかなり難渋し、晩年の数年しかヤマトにいません。ヤマトにさえなかなか受け入れてもらえない勢力ですから、常陸先住民の神から反発を食らうのもまったく不自然ではありません。

 この後、各地に群集墳が増え、仏教公伝、遣隋使、聖徳太子の政治(冠位十二階、十七条の憲法等)、遣唐使、大化改新、大宝律令と、革命的な出来事が続き、着々と古代国家の体が整えられていきます。孝徳天皇は大化の改新(645年)の時の天皇です。
 記紀、風土記は、大宝律令の後ですから、この革命続きの時代に上代日本語を使う勢力が興隆したのは明らかなことです。

 周囲の古墳名の解釈から察するに、継体天皇在世時の6世紀前半、常陸国では縄文語が使用されていたのは明らかで、その環境を割って上代日本語を操るヤマトが勢力を扶植したのであれば、先住民と争いが起こるのは当然のことと言えます。

 どのような妥当性を持って、ヤマト勢力はここに土着したのでしょうか。すでに大規模古墳などを築いて、それなりの組織体を持っていたはずの先住民が、話し合いなどで自らの土地を譲る訳もありませんから、背景に武力があったのは容易に推察できます。
 また、侵略者側であるヤマト勢力が後世のために歴史を書くとするならば、善悪の対立軸を作り、敗者を悪者にして自らを正当化するのは当然であり、それが歴史の常です。

 つまり、風土記に記されるデタラメ物語はそういった背景で書かれたもので、本質的には征服された側の現地の人々が誇りにするような内容ではないはずです。

 ここに書かれる夜刀神も先住民を象徴する神であれば、いわれのない罪を着せられ、千年以上も語り継がれているのですから、本当にかわいそうなものです。
 歴史の闇に葬られている邪馬台国も同様の存在です。邪馬台国は記紀にその名をとどめることもできず、攻め滅ぼされるべきヤマトの先住民の悪の象徴として描かれています。その汚名は現在の教科書に載るほどに流布されています。


□□□「椎井池(しいいのいけ)」命名由来 □□□

×風土記:「ここに言われるその池は、今は椎井池と名がついている。池の西側の椎の根床のあったところから清水が涌いている。その井に因んで池の名とした。ここは香嶋に行く陸路の駅馬の公路にあたっている」

◎縄文語:「スィ」=「穴」=水が湧く穴 ⇒google map


 比定地は、行方市玉造の椎井池です。夜刀神の湧水で有名です。

 椎の根床に清水が湧いているから椎井池というのではありません。清水が湧く穴自体を「スィ」というのです。それに音の似た適当な漢字「椎井」を充て、漢字表記にこじつけて由来を創作しました。というのが正解です。


■■■「男高里/鯨岡/栗家池」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所の南七里の男高里に、ずっと昔、佐伯の小高が住んでいて、そこを住居とした。それに因んで里の名とした。
 国司の当麻太夫だった時に築造した池が、今でも街道の東側に残っている。その池から西側の山は、猪、猿がたくさんいて、草木が密生している。
 南側には鯨岡がある。上古の時代、鯨が腹ばうようにして来て伏せってしまった。そこに栗家(くりや)の池がある。そこの栗の実が大きいので池の名とした。北には香取神子神社がある」

◎縄文語:
・男高=「オタ・カ」=「砂浜の・ほとり」
⇒google map
・鯨丘=「クッチャ・オ・カ(or日本語の[丘]か)」=「湖沼の出口の・尻の・ほとり(or湖沼の出口の・丘)」
⇒google map
・栗家=「キ・ヤ」=「山の・岸」⇒google ストリートビュー


 男高里の比定地は、行方市小高地区周辺です。大宝律令時の1里は、約533.5mとされているので、七里は約3.87kmとなります。

 縄文語解釈では、「霞ヶ浦の砂浜のほとり」ということになります。風土記にある「佐伯の小高が住んでいた」というのは、先住民の象徴でしょうか。先住民であれば、この地を「オタ・カ(砂浜の・ほとり)」と呼ぶのは妥当です。

 鯨岡に鯨が来たとすれば、縄文海進の頃の霞ヶ浦が海と大きく繋がっていた頃のことです。弥生期後半には寒冷期に入っていますし、8世紀当時は、すでに霞ヶ浦と海との接点は銚子の河口だけとなっています。かなり疑わしい話です。

 縄文語解釈の「クッチャ」は「湖沼から流れ出る川の出口」を表します。そばに栗家の池があるということですから、そこから「栗家の池から流れ出る川の口」と捉えられます。

 栗家が「山の岸」の意であれば、この辺りまで霞ヶ浦の岸が迫っていたということになります。鯨岡の比定地には、現在、「橋門の阿弥陀様」があります。⇒google ストリートビュー


 香取神子神社は現在の側鷹神社です。⇒google map


■■■「麻生里/香澄里」命名由来 ■■■

×風土記:「ずっと昔、麻が溜め池のほとりに生えた。茎の周囲は大きい竹ほどもあり、高さが一丈(約3m)余りもあった。里を囲む山があり、椎、栗、槻、櫟(いちい)が生え、猪、猿が栖んでいるそこの野は筋力の強い馬を産する。飛鳥浄御原大宮で天下を統治した天皇(天武天皇)の御世に、同じ郡の大生里の建部袁許呂(たけべのおころ)命が、この野の馬を手に入れて、朝廷に献上した。世にいう行方の馬である。ある人が茨城里の馬というのは誤りである。
郡役所の南二十里の香澄里は、古い伝えに言うには、大足日子天皇(景行天皇)が下総国の印旛郡の鳥見の丘に登り、滞在し、遙か遠くをご覧になり、東の方をふり向いて、御膳に侍る高官に仰った。
『海は青い波が広々と流れ、陸地は赤くたなびく雲気がうっすら漂っている。わが国土は波と雲気のその中に朕が目には見えることよ』と。
その当時の人が、この言葉によって霞郷というに至った。(霞郷の)東の山には社がある。榎、槻、椿、椎、竹、箭、麦門冬(やますげ)があちこちに多い。
この里から西の海中の北の洲を新治洲という。そういわれるわけは、洲の上に立って北の方面を見霽(みはる)かすと、新治国のある筑波山が目に入ってくる。それに因んでの名である」

◎縄文語:
・麻生=「アッ・チャ・オ」=「一方の・岸の・尻」
⇒google map
・香澄(霞)=「ケ・モィ」=「末端の・入江」
=「ケ・メ」=「末端の・泉」
⇒google map
・新治=「ヌプリ」=「山」


 麻生の比定地は行方市麻生です。「オ=尻」がついていますから、霞ヶ浦に突き出た岬を指しているのではないでしょうか。もちろん、麻が生えていることを由来とする地名ではありません。

 香澄の比定地は、茨城県潮来市牛堀周辺です。縄文語解釈の「ケ・モィ(orメ)=末端の・入江(or泉)」は、鹿嶋の語源にもなっているのではないかと疑っています。「ケ・モィ」だとすれば、宮城県の気仙沼(計仙麻)も同語源です。いずれも、「末端(しもの外れ)の入江」です。

また、霞ヶ浦古代の名称である「流海(ながれうみ)」は、

●流海=「ナィ・カ・ウン・ル」=「川の・ほとり・にある・海」

が相応しく思われます。


■■■「板来里」命名由来 ■■■

×風土記:「ここ(麻生里)から南十里(約5km)に板来村がある。海辺に近接して駅(うまや)がある。これを板来駅という。その西側にえのきが林を成している。飛鳥浄見原天皇の御世に、麻績王を追放して置いた所である。その海は、塩を焼くに用いる藻、海松、白貝、辛螺(にし)、蛤をたくさん産する
<以下要約>
 崇神天皇の世、東国の賊の平定に建借間命(那賀国造の祖)を遣わした。道々ずる賢い奴を征伐した。安婆の島に宿営した折り、東の浦に煙が見えた。建借間命は誓いを立てて天に言う。
『天皇に服属する者の煙であれば、我らの上を覆い、賊の煙ならば、退いて海上にたなびけ』
 煙は海へ流れたので、賊がいることを知った。
 賊には夜尺斯(やさかし)、夜筑斯(やつくし)という二人がいた。賊は穴の陣に籠もり防いだ。
 建借間命は勇猛な兵を山陰に潜ませ、海辺を飾り立て、琴、笛で美しい音を奏で、七日七夜歌い踊った。
 賊は盛大な音楽を聞き、一族こぞって出てきて、浜がひっくり返るほど喜び笑った。
 建借間命は騎兵に命じて、賊の陣を閉め、背後から襲いかかり、捕らえて、一挙に焼き殺した。この時に『痛く殺す』と言ったところを伊多久(いたく)郷といい、『悉(ふつ)に斬(た)つ』と言ったところは、今、布都奈(ふつな)村といい、『安く殺(と)る』と言ったところは、今、安伐(やすとり)里といい、『吉(え)く殺(さ)く』と言ったところは、吉前邑(えさきのむら)という」

◎縄文語:
・板来(伊多久)=「エン・チャ・ケ」=「突き出た・岸の・ところ」
⇒google map
・布都奈=「プッ・ナ」=「川口の・方」
⇒google map
・安伐=「ヤチ・ウテュ」=「泥(湿地)の・間」
⇒google map
・吉前=「エン・サ・ケ」=「突き出た・浜の・ところ」
⇒google map


 比定地はそれぞれ、板来が潮来市潮来、布都奈(ふつな)村が潮来市古高、安伐里が古高の安波台、吉前邑が江崎となっています。いずれも縄文語解釈に齟齬はありません。

 それにしても、風土記の物語はひどいものです。神武天皇(=崇神天皇)のヤマト先住民(=邪馬台国)攻略にもよく出てくるだまし討ちです。
 侵略者と戦うのが悪なのですから、やはり勝てば官軍です。


■■■「当麻郷(たぎま)」命名由来 ■■■

×風土記:「郡役所から東北十五里に当麻郷がある。古老が言うには『倭武天皇が巡行して、この郷を通過した。
 この郷に佐伯が住んでいた。名を烏日子と言った。倭武天皇の仰せに従わず逆らったので、天皇はたやすく誅殺してしまった。
 天皇は屋形野の行宮に行ったが、乗り物の通る道が狭く地面がでこぼこしていた。そこで悪路という意味をとって、この土地を当麻というようになった。土地の人は凸凹状態を『たぎたぎし』という。
 この地の野は土が固くやせ、耕作に適さないが紫草が生えるのでそれを採る。ここには香取・香島の二社の分祠がある。その周りの山野には、櫟、柞(ははそ)、栗、柴(くぬぎ)があちこちに林を成しており、猪、猿、狼がたくさん棲んでいる」

◎縄文語:当麻=「トコ」=「小さな山」 ⇒google map


 比定地は、鉾田市当間です。当間は小山が連なる地勢です。縄文語解釈そのままです。

 ヤマトタケルの東国遠征は創作物語なので、風土記の内容ももちろんウソです。繰り返しになりますが、ヤマトタケルの父は第十二代景行天皇ですが、この頃は邪馬台国を継いだ台与の事績を隠蔽している時代です。記紀に記される多くの出来事を疑って見なければなりません。(※第三十回コラム参照)


■■■「芸都里(きつ)」命名由来 ■■■

×風土記:「当麻さとから南に芸都里がある。ずっと昔、国栖の、名は寸津?古(きつひこ)、寸津?売という二人がいた。
 寸津?古は、天皇がおいでになった折、仰せに反して教えに服従せず、たいそう無礼であった。そこで天皇は御釼(みつるぎ)を抜いて即座に切り殺した。すると寸津?売は畏れおののき嘆き訴えようと、白旗をはっきりと高く掲げて、御輿の道に出迎えて拝礼申し上げた。天皇は哀れみをかけて恩恵を与え、一家の罪を許した。
 更に乗輿をめぐらし、小抜野(おぬきの)の行宮に行った。すると寸津?売は、姉妹を引き連れ、雨風厭わず、真心を尽くして朝夕に仕えた。天皇は、その至らぬところのない細やかな心配りに喜び、うるわしみになった。そこでこの野を『うるはしの小野』という。
小抜野の一部を田里(たのさと)という。そのわけは、息長足日売皇后(神功皇后)の時に、ある人がこの地にいた。名を古都比古(こつひこ)という。三度韓国に派遣された。その功績を重視して功田を賜った。それで田里と名づけた。
 また、波聚(はず)の野がある。倭武天皇がこの野に宿泊して、弓の弦をかける筈を修繕した。それで名づけた。」

◎縄文語:
・芸都=「キタィ」=「沼の奥」
⇒google map
・小抜野=「オ・ノカン・ノッ」=「尻が・小さい・岬」
⇒google ストリートビュー
・うるわしの小野=「ウォ・ワ・シ・オッ・ノッ」=「水・岸の・山が・たくさんある・岬」⇒google ストリートビュー(同上)
・田里=「ト・アサ・テュ」=「沼の・奥の・峰」
⇒google ストリートビュー(同上)
・波聚=「パ・チャ」=「岬の・岸」
⇒google ストリートビュー(同上)


 「芸都」の縄文語解釈は非常に確度が高く見えます。芸都里は、北浦の奥の西岸にあります。

 「小抜野」「うるわしの小野」「田里」「波聚」すべて、「北浦の奥の岸辺の峰」の地勢を表現しています。



□□□「大生/相鹿」命名由来 □□□

×風土記:「ここ(芸都里)から南に相鹿(あうか)、大生里がある。古老がいうには、倭武天皇が相鹿の丘前の宮にいた時、天皇の朝食膳舎を浦の浜辺に建設して、小舟をつなぎ並べて橋とし、行在所に食事を運び通わせた。食事を炊く意の大炊(おおい)から取って大生村と名づけた。
 また倭武天皇の后の大橘比売命が、倭から下って来て、この地で天皇の許に参上し、お目にかかった。それで安布賀(あふか)邑という」

◎縄文語:
・大生(飯富)=「オプッ」=「川口」=北浦の出口
⇒google map
・相鹿(安布賀)=「アゥ・カ」=「枝分かれの・ほとり」=北浦と霞ヶ浦が枝分かれたところ ⇒google map


 大生の遺称地は現在でも大生です。大生古墳群が有名です。この古墳群は古墳時代中期なので、時代的に縄文語使用は明らかなのですが、その分、風土記とは時代の隔たりが大きくなります。

 「大生」の読みは「おおう」ですが、この古墳群がこの地を支配した飯富(おぶ)氏の墓だと言われていますから、もともとは「おぶ」の読みだったのではないでしょうか。旧大生郷は、現在の潮来市延方まで含んでいたようなので、地勢的には「北浦の出口」という意味になります。

 また、「相鹿(安布賀)」については、アイヌ語の「アゥ」がもともと鹿角の意で、地勢では「枝分かれた状態」を指します。「北浦と霞ヶ浦が枝分かれたところ」とすれば、ピッタリです。

 これらは地勢とも発音とも完全に一致しているので、極めて確度の高い縄文語解釈と判断できます。

 ということは、言うまでもなく風土記の物語はまったくのデタラメだということです。


 余談ですが、飯富と似た由来を持つ名字として「鼻毛」があります。
 大変珍しい名字ですが、アイヌ語では「パナケ=川下のところ」の意ですので、ただ単に「河口に住んでいた」というのがおそらく本当の由来です。それに「鼻毛」という漢字を充てたことから読んで字の如く様々な由来が誕生したということになります。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

©Kagetsu Kinoe