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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百七十一回~第二百八十回】

第二百七十一回第二百七十二回第二百七十三回第二百七十四回第二百七十五回第二百七十六回第二百七十七回第二百七十八回第二百七十九回第二百八十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]神奈備・三輪山(御諸山)・檜原神社・穴師坐兵主神社【中国】[島根県]御室山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「神奈備山・三輪山(御諸山)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【松本清張氏の『遊史疑考』「神奈備山の起源」をみると、「神奈備」ということばももとは朝鮮語であったとして、それが重なり合ったイメージとなっている三輪山・御諸山についてこう書かれている。
「三輪山というのは豪族三輪氏にちなんで名づけたので、その前は「御諸山」であった。また、その前は無名の山であった。その山を出雲系の三輪氏の祖が呪術の対象にしたとき、出雲の「御室山」から「御諸山」の名を持ってきたのであろう。」』

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「神奈備」=「カンナ・ピ」=「上にある・石」(山上の磐座、三輪山)
◎縄文語:「三輪山」=「メ・ワ・ヤマ」=「泉の・岸の・山」
(西麓に池沼地帯)
◎縄文語:「御諸山/御室山」=「メモロ(メ・オロ)・ヤマ」=「泉のところ(泉の・ところ)の・山」
(三輪山西麓に池沼地帯/島根県御室山の麓の須賀神社境内に温泉の池)

 「神奈備」は縄文語(アイヌ語)由来ですが、朝鮮半島南部には倭人と縄文語を共有する南方系の人々が居住していたので、朝鮮語由来ということもできます。ただの定義の違いです。

 奈良の三輪山、御諸山、出雲の御室山、いずれも「池沼のところの山」の意です。縄文語由来であることは明らかなので、三輪山は南方系先住民による自然崇拝ということになります。西麓の大神神社は「三輪山」自体が御神体です。
※三輪山は以前は「モィ・ワ・山=入り江の・岸の・山」 と解釈していましたが、 御諸山の解釈との整合性を考慮し、解釈を「泉の岸の山」に修正しました。申し訳ありません。

 ちなみに近隣の檜原神社も三輪山を指しています。  

◎縄文語:「檜原(神社)」=「ピ・パ・オロ」=「石の・岬の・ところ」(山上に磐座のある三輪山)


■三輪山 ※西麓に池沼地帯。


■島根県須賀神社境内の蓮池 ※出雲国風土記によると温泉が沸いていたとされる。


■島根県須賀神社 ※後背の山が御室山。

 檜原神社の北方、穴師山の麓には穴師坐兵主神社があります
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穴師坐兵主神社」について
(wikipedia)
【元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇二年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「穴師(坐)/兵主(神社)」=「アゥ・ナ・ウシ/ピエテュ」=「隣の・方・のところ/石の岬」(三輪山の隣の方の石の岬=巻向山)

「弓月岳」の比定地は三輪山東方の峰、「磐座」のある「巻向山」がふさわしく見えます。

 穴師坐兵主神社の祭神は「兵主大神」です。「天皇の御膳の守護神」あるいは「八千矛神(大国主)」ということですが、いずれにしても違います。

 神社側が主張する「御食津神」伏見稲荷の祭神としても有名な「ウカノミタマ」で、一般的にはその表記(「倉稲魂命」日本書紀)から「食物の神」とされていますが、縄文語解釈は単に「磐座」の意です。「伏見稲荷」と「巻向山」の共通点、それは山頂付近の磐座です。

◎縄文語:「ウカノミタマ(御食津神)」=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」(三輪山、稲荷山の頂)

 一方、「兵」の表記に引きずられて「八千矛神(大国主)」の説が生まれたようですが、「兵主」自体が「ピエテュ=石の岬」の意なので、見当違いです。似たような例で「武器を埋めたので兵庫」という創作物語がありますが、これも「兵庫=ピ・オコッ=石の・沢」で「六甲山」を指しています。


■穴師坐兵主神社の比定地「巻向山」の西方の白山 ※三輪山の隣の方の石の岬。

■巻向山



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]石上神宮・布留御魂・布都御魂・布留の高庭・高橋~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「石上神宮・布留御魂」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【境内のあちこちにある献灯には「布留社」と、大きな字が彫り込まれている。それをみて私は、
「布留、フルですね」と上田(正昭)さんに向かって言った。すると、上田さんもすぐにこたえた。
「そう。そのフルです」
 なにやら暗号のような問答だったが、つまり、布留の石上という布留は、朝鮮語のソウル・ソフル(徐伐)からきた京・都ということで、いわば聖地という意味でもあった。では、石上のいそ(石)とは何かというと、石上の”い”は新井白石のいう発語、接頭語で、この”そ”もソフルのソ(徐)からきたものではなかったかと私は思う。】

○「石上神宮」由緒抜粋(石上神宮公式HP)
【石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。<中略>
 総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。】

×「万葉集(巻十二-二九九七)(作者不詳)
【石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「石上(神宮)」=「エサン・カムィ」=「岬の・神」(布留山の祭場)
◎縄文語:「布留御魂」=「フ・ミンタ」=「丘の・祭場」(布留山の祭場)

◎縄文語:「布都御魂」=「ピテュ・ミンタ」=「石の峰の・祭場」(布留山の磐座)
◎縄文語:「布留の高庭」 =「フ/タ・ナィ・ワ」=「丘/石の・川・岸」(布留山の滝)
◎縄文語:「高橋」=「タ・パ・ウシ」=「石の・岬の・ところ」(布留山の磐座)

 石上神宮は縄文語解釈を総括すると「磐座のある布留山の丘の祭場」という意味になります。地勢と完全に一致しています。

 万葉集の「高橋」を「高い橋」の意に解釈する歌は非常に疑わしいです。これは先住民文化を上書きするために徹底して漢字こじつけ由来を書いた各国風土記とまったく同じ態度に見えます。周辺地名の多くは縄文語解釈可能です。この歌は「ハタの滝」の側に架けられた「布留の高橋(※現代に設置)」の現地案内看板にも書かれているのですが、「ハタ」を縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「ハタ」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」(ハタの滝)

 となり、これも地勢と一致します。よくある秦氏が活躍する地名に登場する解釈です。

 南方系の先住民の名づけた地名を漢字表記し、新たな物語で上書きする行為は、この時代以降当然のように行われていることです。
 

■石上神宮

■桃尾の滝(布留の滝)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]四天王寺[奈良県]薬師寺・法隆寺(斑鳩寺)・興福寺・大安寺・豊浦寺・飛鳥寺(法興寺)・元興寺・葛城寺・坂田金剛寺[京都府]広隆寺・太秦蜂岡[滋賀県]崇福寺(志賀寺)・園城寺(三井寺)・三尾寺・新羅明神【九州】[福岡県]観世音寺・太宰府~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「四天王寺・薬師寺・法隆寺・興福寺・大安寺・豊浦寺・飛鳥寺・葛城寺」について(『園城寺と志賀郡』山田弘道 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【わが国の古代寺院の名称には、大別して三つの類型がある。四天王寺・薬師寺・観世音寺のような安置礼拝仏によるもの、法隆寺・興福寺・大安寺のような・寺院の隆盛安泰を願った吉祥用語を用いたもの、豊浦寺・飛鳥寺・葛城寺のような所在地の地名を冠するものに分かれている。
 では、近江国しか郡園城寺の場合はいずれに属すのか。<中略>
 大和の元興寺飛鳥寺金剛寺坂田寺法隆寺斑鳩寺、そして崇福寺志賀寺と呼ばれていたように、この大友村主の氏寺も、一般には園城寺と呼びなされていたとすれば、園城は地名で訓むべきで、その場合「ソノキ」以外には読みがたいように思われる。<中略>
 園城寺のソノキが地名によってよばれたものであれば、志賀郡の古名と思われる新羅郡すなわち「ソの評」に因ったものであろう。朝鮮からの渡来人たちは、湖西から湖南の地に新羅の分国をつくり、その領域を一般にソボル(徐伐)とよび、精神的拠り所として新羅明神を祭り、それに付随した神宮司として原園城寺を建立したのではなかったか。あるいは渡来人の統率者が豪族かした時点での氏寺であったかもしれない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 古代(平安時代以前)の寺院は、先住民の縄文語(アイヌ語)による地名に漢字を充てて命名され、その表記に「仏」がこじつけられて由緒が創作されています。有名どころの四天王寺、法隆寺、東大寺、飛鳥寺でさえもです。安置礼拝仏吉祥用語も本当の由来ではありません。

  しかし、その名称と縄文語解釈の地勢は一致しても、由緒には縄文語の内容が一切現れていません。各国風土記とまったく同じ態度です。先住民文化を上書きする意図がはっきりと感じられます。
 以下地形図をご確認ください。


◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地。当初は大阪城辺りにあったとの説あり。


◎縄文語:「薬師寺」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端にある。


◎縄文語:「観世音寺」=「カン・チゥ・オ」=「上にある・水流、水脈の・尻(はずれ)」 ※丘陵の池沼地帯のはずれ。


◎縄文語:「太宰(府)」=「タン・チゥ」=「こちらの・水流、水脈」※観世音の池沼地帯。


◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。


◎縄文語:「興福寺」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」※奈良盆地北部の低地の岬。


◎縄文語:「広隆寺」=「コッ・ラー」=「窪地の・低いところ」※太秦周辺の湿地の跡。
◎縄文語:「(京都市右京区)太秦/蜂岡(町)」=「ウテュ・マサ/ハッタ・オカ」=「水辺の・草原/淵の・跡」※広隆寺所在地。


◎縄文語:「大安寺」
=「タン・アゥ」=「こちらの・枝分かれ」※佐保川と支流の分岐。近隣の分岐との対比表現。
or 「トー・アゥ」=「湖沼の・枝分かれ」※池沼のほとり。


◎縄文語:「豊浦寺」=「ト・ヤ・ウン・ラ」=「湖沼の・岸辺・にある・低いところ」※和田池の岸辺の低地。


◎縄文語:「飛鳥寺(法興寺)」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」※飛鳥川の岸辺。
◎縄文語:「法興寺」=「ポン・コッ」=「小さな・窪地」※飛鳥川の岸辺の低地。
※飛鳥寺(法興寺)の南、飛鳥宮跡の住所は「村岡」=「モ・ラ・オカ」=「小さな・低地の・跡」※=法興寺


◎縄文語:「元興寺」=「カン・コッ」=「上にある・窪地」※春日山西麓の低地。


◎縄文語:「漢國(かんごう)神社」=「カン・コッ」=「上にある・窪地」※近隣の元興寺とまったくの同義。

◎縄文語:「葛城寺」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口・のところ」※比定地の御所市朝妻。


◎縄文語:「坂田金剛寺」=「カン・コッ」=「上にある・窪地」
※高台の窪んでいるところ。全国の「金剛山」は「頂に窪地」がある。平安時代までに建立された「金剛寺」は「高台の窪地」にある。
◎縄文語:「坂田寺」=「サン・カ・タ」=「出崎・のほとり・の方」
※丘陵の上。坂田金剛寺西北西約二百メートルに跡地。


◎縄文語:「崇福寺」=「シパ・ケ」=「岬・のところ」※比叡山の麓。
◎縄文語:「志賀寺」=「シ・カ」=「大きな・岸」※所在地の「大津=オオ・チャ=大きな・岸」と同義。

◎縄文語:「園城寺」=「オン・チゥ」=「古い・水流、水脈」※境内の池。
◎縄文語:「三井寺」=「ミンタ」=「祭場」
◎縄文語:「三尾(神社)」=「メ・オ」=「泉の・尻(端)」 ※三井寺の池端。
◎縄文語:「新羅(明神)」=「シロケ」=「山裾」※ 長等山のふもと


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]沙沙貴山君(狭々城山君、佐佐紀山君、佐々貴山君)・韓袋蒲生・安土城・猪子山・伊庭山・瓜生山・繖山(きぬがさやま)・観音正寺・箕作山・太郎坊 ~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「近江の佐々貴山の君韓袋」について(『日本書紀』雄略紀)
【近江の佐々貴山の君韓袋(からぶくろ)が言うのに、「いま近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿が沢山います。その頂いた角は枯れ木の枝に似ています。その揃えた脚は、灌木のようであり、吐く息は朝霧に似ています」と申している。】

×「佐々紀の山君の祖、韓袋」について(『古事記』安康天皇)
【淡海の佐々紀の山君の祖、名は韓袋白さく、「淡海の久多綿の蚊屋野<中略>」】

×「近江の佐佐紀山君」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【近江の佐佐紀山君の祖は韓袋という古代朝鮮渡来のそれにほかならなかったのである。そしてこれがのちいわゆる佐々木源氏となって、観音寺山麓に氏神としての沙沙貴神社を祭り、されにまたそれが湖南の大津のほうに進出しては、新羅(善神堂)神社をいつき祭ったのである。】

×「沙沙貴山君」について(wikipedia)
【沙沙貴山君(ささきやまぎみ、ささきやまのきみ)は、古代の豪族の一つ。狭々城山君(『日本書紀』)、佐佐紀山君(『古事記』)、佐々貴山君(『万葉集』)とも書かれる。
 孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされる。平安時代まで蒲生・神崎両郡の大領として近江国(現在の滋賀県)に勢力を持っていた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「沙沙貴山(狭々城山、佐佐紀山、佐々貴山)」=「サン・サン・ケ」=「前にある・出崎・のところ」
※繖山(きぬがさやま)周辺の峰。
◎縄文語:「韓袋」=「カリ・プケ・ラ」=「回る・洪水が出る・低地」 ※蛇行する日野川の氾濫原。

 いわゆる後世の「佐々木」は、「琵琶湖の岸辺の方にある山」の意で、佐々木城のある「繖山(きぬがさやま)周辺の峰」を指します。

■繖山(きぬがさやま) ※琵琶湖の岸辺の方にある山。



 「韓袋」は必ずしも朝鮮半島系の渡来人を指しているという訳ではなく、「蛇行する日野川の氾濫原」を指しています。
 佐々木氏はこの辺一帯、蒲生郡を中心に勢力を張りましたが、蒲生郡を縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「蒲生」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」 ※蛇行する日野川。

 となり、「韓袋」の解釈とも一致します。また、この「湾曲する川」は「高麗」「狛」などによく見られる解釈です。

■蒲生郡と蛇行する日野川 ※韓袋「回る・洪水の出る・低地」(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、佐々木城のある繖山の西には安土山があります。この周辺の山は簡単に縄文語解釈可能なので、参考例として挙げておきます。

■安土城、繖山周辺 ※縄文語解釈と地勢の一致。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「安土山」=「アッ・テューテュ」=「片割れの、一方の・出崎」
◎縄文語:「猪子山」=「エン・ノッケ」=「尖った・岬」
◎縄文語:「伊庭山」=「エエニワ(エ・エン・イワ)」=「尖り山(頭が・尖った・山)」※北海道の「恵庭」と同語源。
◎縄文語:「瓜生山」=「ウ」=「丘」
◎縄文語:「繖山(きぬがさやま) 」=「キヌ・カ」=「湿原の・上」
◎縄文語:「観音正寺 」=「カンナ・シ」=「上にある・山」
◎縄文語:「佐々木城」=「サン・サン・ケ」=「前にある・出崎・のところ」
◎縄文語:「箕作山」=「ムィェ・チケレ・ヤマ」=「その頂・削れている・山」
◎縄文語:「太郎坊」=「タン・ル」=「こちらの・頭」

■伊庭山 ※右端の頂。尖り山。

■箕作山(太郎坊) ※削れている頂の山。



 余談になりますが、吉備国の大規模古墳である「造山古墳」「作山古墳」も「箕作山」と同類の語源となります。

◎縄文語:「造山古墳/作山古墳」=「チケレ・ヤマ」=「削れている・山」

 いずれも自然地形を利用し、丘陵を削り取って築造されています。「造山古墳」が五世紀前半、「作山古墳」が五世紀中ごろの築造です。縄文語使用の年代、地域の参考となります。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[和歌山県]日前神宮(名草宮)・日像鏡・國懸神宮・日矛鏡・伊太祁曽神社・五十猛・紀国・紀氏~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「日前神宮(名草宮)・國懸神宮・伊太祁曽神社」について(wikipedia)
【社伝によれば、神武東征の後の神武天皇二年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。
 当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇一六年に現在地に遷座したと伝えられている。なお、伊太祁󠄀曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁󠄀曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁󠄀曽神社は現在地に遷座したとしている。また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。 】

×「ヒノクマ」について(『日本書紀における』高階成章 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【紀伊国の異郷的性格は、何としても朝鮮半島の文物の大和国への伝播通路城の拠点というところに発生した。そしてその第一次地帯は、紀伊国でも西方の名草郡がその中心となった。名草地方が朝鮮半島との往還の要地となる以前から紀伊国の主宰神的性格をもっていたのが日前・國懸の両社であったようである。日前と書いて「ヒノクマ」と訓ましているのは日の神という古い称え方が、神聖なものを「クマ」と称える韓国の言葉に影響された結果であろう。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「日前(神宮)」=「ペナ・クマ」=「川上の・平べったい山」※紀ノ川の当時の流路で川上。花山など和歌山市東部の丘陵。岩橋千塚古墳群。
◎縄文語:「日像(鏡)
(ひがたのかがみ)」=「ペンケ・テュ」=「川上の・岬」 ※同上。
◎縄文語:「國懸(神宮)」=「コッネ・カンカン・チゥ」=「窪んだ・小腸のように屈曲した・水流」
※紀ノ川の当時の流路。
◎縄文語:「日矛(鏡)」=「ペン・ポケ」=「川上の・温泉」
※花山温泉。
◎縄文語:「花山」=「ペナ・ヤマ」=「川上の・山」
◎縄文語:「伊太祁曽(神社)」=「エテュ・クッチャ」=「岬の・入口」 ※旧地が丘陵の入口。
◎縄文語:「五十猛(命)」=「エテュ・キ」=「岬の・足、山」 ※丘陵の先端。
◎縄文語:「名草」=「ナィ・クッチャ」=「川の・入口」 ※紀ノ川の入口。

 なぜ、「檜前神宮」が「川上」、「國懸神宮」が「湾曲した水流」なのか。それは当時の紀ノ川の河口の流路が大きく南に湾曲して和歌浦に注いでいたからです。
 すべて地勢と一致しています。「鏡を造った」という物語は信用できません。何かの祭祀があったのだとすれば、それは先住民による自然崇拝です。
 「日前」の「クマ」は明らかに朝鮮語由来ではありません。

■日前神宮・國懸神宮周辺(国土地理院の電子地形図を加工して作成) ※参考:和歌山河川国道事務所HP


■和歌山市東部の丘陵(千塚古墳群) ※「日前=川上の平べったい山」。




 縄文語解釈では「日矛鏡」も「天日槍」も「矛」や「槍」、ましてや「新羅」とはまったく無関係です。両者とも温泉を指します。「天日槍」は「城崎温泉」で、出石周辺の出身であることを表現しています。つまり、「天日槍が新羅から来た」という物語自体、疑った方がいいということです。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ」=「横たわっている・野原・沸いているところ」※城崎温泉。


■城崎温泉 ◎縄文語:城崎(温泉)=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「紀国・紀氏」について(『紀氏に関する一試考』岸俊男 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【紀氏は古事記ではもっぱら木臣、木角宿禰と表記され、書紀では一般に「紀」の用字に統一されているが、孝徳紀大化五年三月庚午条には木臣麻呂とみえる。「紀」氏の用字は国名としての「紀伊」が「木」に代わって用いられてから、「木」→「紀伊」→「紀」と変化したのではなかろうか。なお百済に「木」なる姓があり・・・・・・。 】

○「紀伊国造」について(『日本歴史大事典』岸俊男 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『紀伊国続風土記』巻之十四名草郡日前・國懸両大神宮下の国造系譜によれば、「国造家譜は貞観十六年国造三十六代広世の時改め写す所にして夫(それ)より後次第に書加えて二千有余年の今に至れば世に稀なる系なれども星霜を歴(へ)る事久しく幾度も転写を歴し故謬伝ともなれるにや古書正史と合いがたき所もあり」とあり史実は明らかでないが、大化前代紀北における有力な豪族として、また、日前・國懸両大神宮の神官として世々祭政の権を握っていたようである。大化改新後行政上の権原は失ったが、なおその職名は踏襲していた。そしてしばしば郡司に任じられた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「紀(国)」
=「ケナ」=「川端の木原」
※紀ノ川流域。
or「キ」=「茅」

 他国名はすべて縄文語解釈可能なので、「紀国」だけ朝鮮語由来とするには無理があります。

 岩橋千塚古墳群からは馬具等の副葬品が出土しています。百済王族、高句麗の北方系(扶余系)との関わりが窺えます。
 しかしながら、周辺の代表的な大規模古墳は縄文語解釈可能です。

 ヤマト王権では第三十代敏達天皇から北方系渡来人が中枢に入り込みましたが、言語が上代日本語に完全に切り替わるのは、乙巳の変(六四五年)で蘇我氏本宗家が滅んだ後からです。
 『紀伊国続風土記』の内容を参考にすると、紀伊国造は大化改新後に権力を失っているようです。大化改新で大和王権は北方系に完全に切り替わっていますから、反対に紀伊国造は南方系だった可能性が高いということになります。南方系とは、縄文語を共有する縄文、弥生、朝鮮半島南部、中国大陸東夷南蛮由来の人々のことです。


◎縄文語:「(園部)丸山(古墳)」=「マ・オロ・ヤマ」=「谷川・のところの・山」 ※六世紀中葉築造の円墳。 鳴滝川の東岸。全国の「丸山古墳」は「水辺の古墳」の意です。
◎縄文語:「大谷(古墳)」=「オン・ティネィ」=「古い・湿地」 昭和の発見。六世紀初頭築造の前方後円墳。
◎縄文語:「将軍塚(古墳)」=「シ・オ・ケ・テュ」=「山の・はずれの・ところの・小山」 ※六世紀後半築造の前方後円墳。全国の「将軍塚古墳」は「山のはずれの古墳」or「山裾の古墳」の意です。「親王塚」「親皇塚」「新王塚」「新皇塚」「塩塚」「白塚」等も「シ・オ・テュ=山の・はずれのor裾の・小山」の意で、将軍塚と同じ地勢に築造されています。将軍も親王も眠っていません。
◎縄文語:「知事塚(古墳)」=「テューテュ・テュ」=「出崎の・小山」 ※六世紀築造の前方後円墳。
◎縄文語:「天王塚(古墳)」=「タン・ノッ・テュ」=「こちらの・岬の・小山」 ※六世紀中葉築造の前方後円墳。
◎縄文語:「井辺八幡山(古墳)」=「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」 昭和の発見。六世紀前半築造の前方後円墳。 全国の「八幡」を冠する古墳、「八幡」を冠する神社、地名はほぼすべて川端にあります。
◎縄文語:「八幡塚(古墳)」=「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」 ※円墳。
◎縄文語:「丸山(古墳)」=「マ・オロ・ヤマ」=「谷川・のところの・山」 ※五世紀中葉築造の円墳。貴志川左岸段丘。
◎縄文語:「三昧塚(古墳)」=「サン・マーテュ・テュ」=「前にある・波打ち際の・小山」 ※五世紀中葉築造の円墳。貴志川左岸段丘。 そのほか「松塚古墳」「万塚古墳」なども「波打ち際、水辺」の意です。
◎縄文語:「鑵子塚(古墳)」=「カス・テュ」=「徒渉するところの・小山」 ※五世紀築造の円墳。


■紀ノ川周辺の古墳(国土地理院の電子地形図を加工して作成) ※参考:和歌山河川国道事務所HP




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[和歌山県]伊都郡・神戸(かんべ)郷・加美郷・村主郷・揖理(いぶり)郷~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「伊都郡・神戸郷・加美郷・村主郷・揖理(いぶり)郷」について(『伊都郡誌』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【和名抄には郡中の郷名神部・加美・村主・揖理・桑原の五あり。神戸郷は丹生明神の神封にして紀ノ川の南部なり。加美は上の義にして、郡中紀ノ川の上なるを以て斯く呼びしなるべし。即ち現今の隅田村、橋本町附近なり。村主郷の地位定かならざれども、高野山所蔵元久元年の文書に保元年中造内裏時山田村主両荘事云々とあり。即ち村主は山田に近き所なるべければ、現今の山田村附近なるべし。村主はもと県主にしたがいて戸口を掌りし職名にして、郷名となれるは其の居りし地より起れるならん。】

×「村主」について(『日本史辞典』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【すぐり 村主 古代姓(かばね)の一。語源は村落の長という意味の古代朝鮮語にあるという。多く、渡来人系の小豪族の称したものであったが、六八四(天武一三)八色の姓で制度上は廃止。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「村主(郷)」=「シ」=「山」※古代朝鮮語の役職名も同じ由来ではないか。
◎縄文語:「山田」=「ヤマ・タ」=「山・の方」※「村主郷」現在地名。
◎縄文語:「加美(郷)」=「カン・メ」=「上にある・泉」
◎縄文語:「隅田」=「スィ・タ」=「穴・の方」※池沼の方。
◎縄文語:「神戸(郷)」=「カン・ペ」=「上にある・水」
◎縄文語:「丹生都(比賣神社)」=「二アゥ・チャ」=「枝(分かれた川)の・岸」
◎縄文語:「伊都(郡)」=「エテュ」=「岬」
◎縄文語:「九度山」=「クッチャ・ヤマ」=「入口の・山」
◎縄文語:「かつらぎ町」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口・のところ」

 縄文語では「村主」は「山」を指します。現在地名の「山田町」とほぼ同義です。朝鮮の役職名である「村主」も同語源の可能性があります。朝鮮半島南部は縄文語圏です。つまり、同じ地名であってもそれらに関連があるとは限りません。
 地名由来を漢字表記から解釈すると通説、俗説のようにデタラメなものになります。そこに何かしらの意図があってもなくても、歴史が捏造される結果を招くことに変わりはありません。

 当然「丹が採れるから丹生都比売神」という物語も疑わなければなりません。稲荷神社、八幡神社、愛宕神社ほか、このような漢字こじつけの神様の由緒が本当だったためしがありません。あるとすれば、いずれも先住民による自然崇拝です。


■伊都郡の郷と現在地名(国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[和歌山県]高師神社・土生・藤並神社・天満・飛鳥川・今城岡・今城野・今城橋・建王子・王仁・植野・津野・丹生図・吉備町~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高師神社・土生・藤並神社・天満・吉備町」について(『有田郡誌』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(高師神社は)土生(はにう)の東高瀬にあり。古(いにしえ)、博士王仁の封土にして韓人多く住し、仍て王仁を祀れるなりと伝う。因りて云う。高瀬は高師(たかし)にして、もと高師(こうし)より転じたるにはあらざるか。】

×「今城岡・飛鳥川」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「藤並神社境内の一部に古墳あり。<中略>古来、建王子の陵列と伝う。この丘を今城岡と呼ぶ。岡の南に今城野今城橋飛鳥川など称する地名存せり。」(有田郡誌)
 いまは史跡として保存されている古墳のほか、岡はなくなって平地になってしまっていたが、ここがかつては今城岡(いまきおか)、すなわち今来の岡とよばれていたという。そしてさらにまた、大和(奈良県)の今来郡だった高市郡に飛鳥があるのとおなじように、ここにも朝鮮語アンスク・アスク(安宿)またはスク・スカ(村)をその語源とする飛鳥川があったというのもおもしろい。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高師(神社)」=「トンケ」=「湖沼のはずれ」
◎縄文語:「土生(はにう)」 =「パニ・アゥ」=「川下の・枝分かれ」※枝分かれた川下

 高師神社は明治末より吉備地区の「天満」にある「藤並神社」に合祀されています。藤並神社境内には「今城岡」という古墳があり、周辺には「今城野」「今城橋」という地名があるようです。

◎縄文語:「藤並(神社)」=「プッ・ナ・メ」=「川下の・方の・泉」=「高師」+「土生」
◎縄文語:「天満」=「タン・マ」=「こちらの・谷川」
◎縄文語:「飛鳥(川)」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」※飛鳥川の岸辺。
◎縄文語:「今城岡」 =「エコ・オカ」=「水源の・跡」
 ※「岡」は後世に「丘陵」の意で加えられたとも考えられます。
◎縄文語:「今城野」 =「エコ・ノッ」=「水源の・岬」
◎縄文語:「今城橋」 =「エコ・パ・ウシ」=「水源の・岬・のところ」

◎縄文語:「建王子」 =「ト・ケ・ウシ」=「湖沼の・ところ・のもの」

 周辺の地名を考慮すると、高師神社の命名由来を「王仁」の「高師(こうし)」に求めるのには無理があります。
 縄文語では「かつての池沼の岸辺」だったと解釈できます。もちろん、奈良の高市郡や飛鳥とも地勢が一致しているだけで関連性はありません。


■藤並神社周辺 ※低地と難所の岬の地勢。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「王仁」は周辺地名を鑑みると、

◎縄文語:「王仁」=「ウェン・イ」=「難所の・ところ」

 の意です。 かつて「高師神社」のあった土生の東隣の地区は「植野(うえの)」です。その東には「下津野」「丹生図(にゅうのず)」があります。そして、この地域は旧「吉備町」です。

◎縄文語:「植野」=「ウェン・ノッ」=「難所の・岬」
◎縄文語:「(下)津野」=「チゥ・ノッ」=「水流、水脈の・岬」

◎縄文語:「丹生図」=「二アゥ・ノツ」=「枝の・岬」※枝分かれた岬。
◎縄文語:「吉備(町)」=「キピ」=「水際の崖」

 さらに、「高師神社」は地元の「平松氏」と関係が深いようで、平松氏は「高志氏」の末裔であることを自認しています。

◎縄文語:「平松」=「ピラ・マーテュ」=「崖の・水際」

 「吉備=キピ=水際の崖」の言い換え表現です。


■吉備地区のため池と崖(有田川町役場吉備庁舎周辺)



 つまり、「高師神社」に「王仁」が祀られたのは「高師=湖沼のはずれ」「王仁=難所のところ」だったからです。これは「韓人が多くいたから王仁を祀った」のではなく、六~七世紀に大和朝廷の権力を握った北方系渡来人に”先住民文化を渡来人物語で徹底的に上書きする”という方針があったことに起因しています。それは各国風土記の縄文語解釈からも明らかで、高麗神社、新羅神社、稲荷神社、八幡神社、愛宕神社、春日大社、松尾大社、法隆寺、東大寺、興福寺、飛鳥寺、四天王寺などの名だたる神社仏閣も、その名称由来はすべて”所在地の地勢を表した縄文語”です。由緒に縄文語のひとかけらも見当たらないところがその徹底ぶりを表しています。

 「王仁/和邇/和珥」はこのほか、

◎縄文語:「王仁/和邇/和珥」=「オンネ」=「大きな、親の」

 に充てられる例があり、近隣の「モ~=小さな~」「ポン~=小さな~」と対の表現で用いられることがあります。 滋賀県大津市、奈良県奈良市がその例です。

■滋賀県大津市
◎縄文語:「和邇(川)」 =「オンネ」=「親の、大きな(川)」
◎縄文語:「真野(川)」=「モ・ナィ」=「子の・川」


■奈良市
◎縄文語:「和珥」=「オンネ」=「親の、大きな(岬)」
◎縄文語:「櫟本」=「エテュノッ/モ・テュ 」=「岬/小さな・岬」
◎縄文語:「森本」=「モ・ル/モ・テュ」=「小さな・岬/小さな・岬」

 また、「吉備町」は「吉備国」や「岐阜」と同語源です。 「吉備国」は瀬戸内海に突き出た「王子が岳」、「岐阜」は長良川沿いの「金華山(岐阜城)」を指しています。


■岡山県王子が岳 ※瀬戸内海に突き出た急峻な岩崖。


■岐阜城(金華山) ※長良川に突き出た険阻な山。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高石市・高石神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【高師でもあった高志とは、朝鮮の百済から渡来した王仁系氏族よりわかれ出た一支続であった。大阪府下の高石市高石神社があり、高師浜というところがあるが、これもその高志ということからきたもので、この高志氏族から出た古代史上の有名な人物としては、日本さいしょの大僧正となった行基がある。
 そしてその高志がさらにまた、この紀伊にひろがってきては高瀬という地名や人名となり、平松という姓にもなったのであった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高石(市)」=「タ・エテュ」=「石の・岬」
◎縄文語:「高師(浜)」=「タ・ウシ」=「石の・ところ」

 和歌山と大阪の「高師」の語源は異なります。文字が同じ、発音が同じだからといって安易に結びつけると、際限なく空想物語が広がり、”何でもあり”状態になります。しかし、日本の古代史にはそのような要素が無数にちりばめられています。もはや、何を信じていいか分かりません。

 大阪の高石市には羽衣の地名があり、羽衣伝説があります。

◎縄文語:「羽衣」=「パケ・ル」=「岬の・頭」

 「羽衣伝説」なども「岬の頭」の地勢を表す縄文語に創作物語が便乗しているだけです。日本全国の「羽衣伝説」の所在地の地勢は「岬の頭」です。「高石市=石の岬」の解釈とも辻褄が合います。

  近隣には伽羅橋駅があり、これも朝鮮半島南部とこじつけられそうなので、これも解釈すると、

◎縄文語:「伽羅(橋)」=「カ・ラ」=「岸の・低いところ

 となります。朝鮮半島南部も縄文語圏なので、同じ地勢であれば同じ地名であっても不思議はありません。「岸の低いところ」などという地勢は日本全国、朝鮮半島にも無数にあるものです。すべて結びつけると、もれなく空想の宇宙が広がります。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[和歌山県]白浜・牟婁郡・会津川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白浜・牟婁郡」について(『白浜温泉』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【白浜温泉の湯崎地区は飛鳥、奈良の時代、すでに大和の調整に知られていた古い温泉であるが、そのころ牟婁温湯、紀ノ温湯と呼ばれ、又、武漏温泉とも書かれた(紀巻二六、斉明、文武の条)。<中略>
(牟婁の地名は)もとは白浜地方の小さな区域に過ぎなかった。だから牟婁の名の起こりは、元の牟婁郷のうちに求めねばならぬ。
 牟婁、武漏のムロという名を有漏無漏などの漢字にハメてその源を求め、仏教かなにかに関係があるのではないかと考える人もあるが、仏教伝来以前のものだとする説が有力だ。それは松岡静雄氏の『古語大辞典』によると、ムロは朝鮮語でウムと記され、地室と同源の意味を持つとしている。】

×「牟婁郡」について(『『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【この牟婁とはやはり『三国志』の『魏志』「東夷伝」「馬韓」条にある「咨離牟盧国」「牟盧卑離国」といったそれとおなじで、牟盧、牟羅(ムラ=村)ということではなかったかと私は思う。
 すなわち人々の集落、ということではなかったかと思うのであるが、それはどちらにしろ、この牟婁ということが朝鮮語からきたものであることに変わりはない。】

×「田辺市」について(『日本大百科全書(ニッポニカ) 』 ※コトバンクより引用)
【地名はこの地に置かれた館(むろづみ)に収める稲をつくる田部(たのべ)に由来する(東牟婁郡誌)といわれる。中心地区の田辺は『日本書紀』には牟婁津とあり、田辺湾に注ぐ会津(あいづ)川の古い河口港で、『源平盛衰記』には田部湊(たなべのみなと)とある。】

×「白浜」について(南紀白浜観光協会HP)
【白浜の名の由来にもなった延長約620mに渡る白砂の浜。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「田辺」=「タン・ナンペ」=「こちらの・泉
◎縄文語:「牟婁(郡)」=「ム・ラ」=「ふさがっている・低地
◎縄文語:「白(浜)」=「シ・オ」=「山・裾※日本全国の「白浜」は「山裾の浜」。

 周辺地名を鑑みると、右会津川と左会津川の分岐点付近が湖沼地帯、湿地帯であったことが分かります。

◎縄文語:「会津(川)」=「アゥ・チゥ」=「枝分かれた・水流、水脈」
◎縄文語:「秋津」=「アケ・チゥ」=「一方の・水流、水脈」
◎縄文語:「万呂」=「マ・オロ」=「谷水・のところ」
◎縄文語:「目座」=「メ・チャ」=「泉の・岸」
◎縄文語:「新万」=「シアン・マ」=「大きな・谷水」


 周辺地名がことごとく縄文語解釈可能なので、「牟婁」や「白浜」だけ朝鮮語や漢字表記こじつけ説をその由来とする訳にはいきません。
 「田辺」については「百済系渡来人の田辺氏が~」という説が流布していますが、「田辺」はどこにでもある「こちらの泉」の意なので、いちいち「田辺」の地名を結んで渡来人物語を創作してはいけません。 京田辺も柏原市の田辺も由来は池沼です。

 解釈確度を上げるために周辺地名も縄文語解釈しましたので、その地勢と解釈の一致をご覧下さい。

■田辺市周辺の縄文語解釈(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■会津川の分岐点、万呂周辺。



 また、白浜南方の海岸の地名にある「日置」は「白浜」とほぼ同義です。

◎縄文語:「日置」※日本全国の「日置」は「山裾」。
=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」

or「シロケ(シ・オケ)」=「山裾(山・裾)」

 日本全国の「白浜」「日置」はともに「山裾」の地勢です。日置氏が鉱山と関係があるとの説もありますが、単に「山裾」を拠点としていただけです。

 余談ですが、「因幡の白兎」も単なる「山裾の浜」の意です。

◎縄文語:「因幡/白兎」 =「エン・ノッ・パ/シ・オ・ウン・サ・ケ」=「尖った・岬の・頭/山・裾・にある・浜・のところ」

 日本神話には「因幡の白兎」のような漢字表記にこじつけた創作物語が満載です。


■周辺地名の縄文語解釈
◎縄文語:「糸田」=「エテュ・チャ」=「岬の・岸」
◎縄文語:「八幡(町)」=「ペッチャ」=「川端」
◎縄文語:「堅田」=「コッチャ・チャ」=「谷の入口の・岸」
◎縄文語:「千畳敷」=「シアン・チゥ・チャ・ケ」=「大きな・水流の・岸・のところ」※「千畳の畳のように広い」は単に漢字表記にこじつけた物語ではないか。
◎縄文語:「才野」=「サン・ノッ」=「前にある・岬」
◎縄文語:「衣笠山」=「キヌ・カ・ヤマ」=「湿地の・上の・山」※全国「衣笠」は同様の地勢。
◎縄文語:「三栖」=「メ・シ」=「泉の・山」
◎縄文語:「尋聲寺」=「チゥ・シ」=「水流、水脈の・山」
◎縄文語:「生馬(いくま)」=「エンコ・マ」=「岬の・谷水」
◎縄文語:「田熊」=「タン・クマ」=「こちらの・平べったい山」
◎縄文語:「朝来」=「アッ・チャ」=「一方の・岸」
◎縄文語:「高雄」=「ト・カ・オ」=「湖沼の・岸の・はずれ」
◎縄文語:「屋敷(町)」=「ヤン・チゥ・ケ」=「陸岸にある・水流、水脈・のところ」
◎縄文語:「宝来(町)」=「ポン・ラ」=「小さな・低地」
◎縄文語:「東陽」=「トー・ヤー」=「海・岸」
◎縄文語:「文理(もり)」=「モ・ル」=「小さな・岬」
◎縄文語:「新庄(町)」=「シアン・テュ」=「大きな・岬」
◎縄文語:「保呂」=「ポン・ラ」=「小さな・低地」
◎縄文語:「内ノ(川)」=「エテュノッ」=「岬」
◎縄文語:「一ノ瀬」=「エテュノッ・シ」=「岬の・山」
◎縄文語:「中」=「ナィ・カ」=「川・岸」
◎縄文語:「十九渕 (つづらふち)」=「テューテュ・ラ・プチ」=「岬の・低地の・川口」
◎縄文語:「平」=「タン・ラ」=「こちらの・低地」
◎縄文語:「富田」=「トー・チャ」=「湖沼or海・岸」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[和歌山県]熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社・阿須賀神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「熊野大社・阿須賀神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
阿須賀、すなわちアスカとは朝鮮語アンスク・アスク(安宿)、またはスク・スカ(村)からきたものということはさきにみたとおりであるが、問題は熊野である。<中略>
 高階成章氏の「日本書紀に於ける熊野」のなかの次の言葉である。 「日前と書いて『ヒノクマ』と訓ましているのは日の神という古い称え方が、神聖なものを『クマ』と称える韓国の言葉に影響された結果であろう」<中略>
 朝鮮・高句麗のことを日本ではコマ(高麗・狛)といったのもこれからきたもののようである。
 すると、この場合の熊野の野とはいったいどういうことであったろうか。この野は、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば朝鮮語ナラ(野=国)ということでもあるから、したがって熊野とはコムナラ(熊の国)、すなわち朝鮮から渡来した彼らのナラ、その国土であったのだろうか。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「熊野(本宮大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」
◎縄文語:「(熊野)速/玉(大社)」=「パン・ヤ/タン・パ」=「川下の・岸/こちら・岸」
◎縄文語:「(熊野)那智(大社)」=「ナィ・チャ」=「川・岸」
◎縄文語:「阿須賀(神社)」=「アッチャ・カ」=「一方の岸の・ほとり」
※=飛鳥、明日香など

 「熊野」は本宮大社の熊野川対岸の「平べったい峰」を指します。

■和歌山熊野本宮大社周辺。 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。 横に平べったい岬 。


 阿須賀、飛鳥、明日香などは「一方の岸のほとり」という意味で、近隣に対比となる「支流の岸」や「対岸」があります。
 「熊野速玉大社」と「阿須賀神社」の場合もそのまま対比表現となっていて、新宮城の丘陵を挟んで「こちら岸」「一方の岸」としています。

■熊野速玉大社と阿須賀神社 ※新宮山を挟んで「こちら岸」と「一方の岸」で対比関係。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「熊野=横に平べったい岬」は本宮大社の「熊野川対岸の峰」とすれば地勢と完全に一致しますが、熊野速玉大社と熊野那智大社は地勢と一致しません。 もしかすると後者二社の「熊」は「高麗」「狛」などと同様に、熊野川下流、那智川の「湾曲する谷川」の様子を表現したのかもしれません。言うまでもなく、朝鮮建国神話の「檀君が熊から生まれた」話と「熊野」の地名はまったく関係ありません。

 また「熊(動物)=神聖」という思想はなにも朝鮮半島の専売特許ではなく、アイヌにもあるので、倭人も同じ文化を共有していた可能性があります。朝鮮半島南部も縄文語(アイヌ語)圏で同系民族である可能性が高いので、何らかつながりがあったとしても不思議ではありません。

◎縄文語:「熊野」=「コ・ナィ」=「湾曲した・川」
◎縄文語:「高麗/狛」=「コ・マ」=「湾曲した・谷川」

 全国の「高麗」や「狛」の地名は「湾曲した谷川」あるいは「丸山」の地勢で一致しているので、各地で語られる渡来人の活躍物語は地名の発音に便乗して創作されたか、あるいは地名を機縁として移住政策がとられたかのいずれかです。

◎縄文語:「高麗山」=「コ・ヤマ」=「(持ち手の曲がりのような)湾曲した・山」(丸山)

「百済(=湖沼や湾の入口)」や「新羅(=山裾)」の地名も含め、記紀や続日本紀などに記される「渡来人を移住させた」物語がどの程度史実かまったく不明です。


■熊野三山 ※「熊」は「高麗」や「狛」同様に「湾曲した川」の意か。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■神奈川県大磯町 高麗山 ※縄文語:「コ・ヤマ=湾曲した・山(丸山)」


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※縄文語:「コ・マ=湾曲した・谷川」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]伊賀国・敢國神社・阿拝郡・阿部・安倍・高倉神社・小宮神社・呉服比賣・服部・四十九院~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「伊賀国」について(『伊賀国風土記逸文』中村啓信)
【伊賀という名は、もともと伊賀津姫が治めていた郡の名であった。だから郡名とし、また、国名とした。】
【また、この神(吾娥津媛命)の領有した国であったため、吾娥郡という。その後、清見原の天皇(天武天皇)の御代に、吾娥郡を独立させて国の名とした。】

×「伊賀國一之宮 敢國神社」について(敢國神社公式HP)
【当神社は今から千三百年以上前に創建されました。くわしくは、七世紀の中期六五八年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命・少彦名命の二神で敢國神社が創建されました。 <中略>
 伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
 又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。 】

×「伊賀國二之宮 小宮神社」について(観光三重HP)
【小宮(おみや)神社は、伊賀国阿拝郡府中村大字服部字中之坊1158番地(現、伊賀市服部町)に鎮座する延喜式内社で、服部氏の祖、呉服比賣命(くれはとりひめのみこと)を主神として奉斎し古来伊賀の国二ノ宮と称される。 】

×「高倉神社」について(観光三重HP)
【天正二年(1574年)建立。本殿、八幡社、春日社は、三棟とも彩色され、蟇股内の彫刻等桃山時代の特色をよく示していて、国の重要文化財に指定されている。 倉庫の神様だけあって、倉暉祭(毎年7月13日)は全国から物流などの倉庫に関わる会社の人が多く集まり、倉庫運輸業界の発展を祈る神事が行われます。 】

×「服部・呉織」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【すなわち服部とは、漢織(あやはとり)・穴織(あなはとり)にたいする呉織(くれはとり)ということから出たものなのである。そして「はとり」とは、機織ということからきたものといわれるが、では、呉織の呉とはどこからきたものであたか。<中略>
 呉とはクレ、すなわち高句麗の句麗ということであった。日本ではこれを高麗(こま)といった高句麗は、朝鮮語でコクレという。しかしコ(高)は美称で高句麗の国姓であるから、その高をとるとクレ(句麗)となるのである。
 したがって、いまみてきた高倉にしてもこちらの服部、すなわち呉服のクレ(呉)、高句麗と関係があった地名ではなかったかと私は思う。】

×「服部氏の居住地」について(『秘蔵の国~伊賀路の歴史地理~』福永正三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【六世紀から七世紀にかけて、百済を主とする多数の帰化人が入植した。そのおもなものは、服部連、竹原連、長田村主、夏身忌寸、佐奈具氏である。彼らは灌漑技術に長じ、それまでの未開地を大規模に開いていった。<中略>
 伊乱記によれば、服部氏一族の居住村落は、本拠服部をはじめ、羽根、高畠、荒木、寺田、千歳、佐那具、西明寺、西村、上友生、中友生、下友生、四十九、佐奈具、市部、沖、才良、猪田、郡、古那、神戸、比土古山七郷、阿保、別府、柏尾、岡田、寺脇、川上、諸木、槙山、内保、上友田、中友田となっている。大部分が旧阿拝、伊賀両郡の国葬地帯であることがわかる。これらの集落のすべてが、帰化人のみによって開拓されたとはいえないであろうが、先住民と融合して、農耕はもちろん、機織、酒造などの技術的進歩に貢献したものと思われる。】

×「四十九院(現九品寺)」について(『伊賀百寺』※伊賀上野観光協会HPより引用)
【『三国地誌』によれば「按 旧(も)ト四十九院ト云 行基建ル處先君大亭廟ノ寄セ玉フ文殊縄目ト云フ畫像アリ又空海筆ノ阿字石アリ」とある。寺伝では、奈良天平年間、聖武天皇の詔命により、行基菩薩がこの地に四十九院を建立したのが当寺の由歴で、その後、大同二年(八〇七年)に、巖如(げんにょ)上人が、その本坊跡地に弘法大師の霊場のひとつを建立して中央山蓮台寺と名付けたとされている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「伊賀」=「エンコ」=「岬」
◎縄文語:「敢國(神社)」=「アゥ・コッネイ」=「枝分かれた・窪地」
◎縄文語:「阿拝(郡)」=「アゥ」=「枝分かれ」
◎縄文語:「阿部・安倍」=「アゥ・ペ」=「枝分かれた・水」
◎縄文語:「高倉(神社)」=「ト・カ・キ」=「湖沼・のほとりの・山」
◎縄文語:「小宮(神社)」=「オ・ウン・メ・ヤ」=「川尻(川の合流点)・にある・泉の・岸」
◎縄文語:「呉服(比賣)」=「キ・ハッタ」=「山の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「服部」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「四十九(院)」=「シ・チゥ・ケ」=「大きな・水流、水脈・のところ」

  風土記で語られる伊賀津姫、吾娥津媛命の出所は「伊賀」の縄文語解釈の「エンコ=岬」です。つまり、「盆地に突き出た岬のような地形」ということです。奈良の生駒、和歌山県西牟婁郡の生馬などもこの「エンコ=岬」に「マ=谷水」が付加された地名です。
 また、「伊賀」は伊賀市の「柘植町」とまったくの同義です。

◎縄文語:「柘植(町)」=「テュ・ケ」=「岬・のところ」

 服部氏が拠点とした伊賀盆地中心部は「山のふもとの湖沼、水辺、窪地」 の解釈で一致しています。 地名由来に呉服、機織、高句麗などはまったく関係ありません。秦氏がどこまで関係しているかも不明です。秦氏が活躍する物語は必ず「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」の周辺で語られます。

 日本の神社というものは、主に”南方系先住民の文化を北方系渡来人の文化で上書きする目的で生まれた”もので、漢字表記にこじつけた由来はまったくのデタラメです。それは各国風土記の編纂態度と完全に一致しています。それに引きずられて漢字から解釈した通説、俗説もまったく信憑性のないものです。


■伊賀盆地周辺 ※伊賀盆地は「山のふもとの湖沼、水辺、窪地」の解釈で一致。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 六~七世紀に百済系の渡来人が伊賀に大量に入植したということですが、確かに大和王権が北方系の百済勢力に簒奪された時期(敏達天皇から大化改新)とピタリと一致しています。大和の中枢に入り込んで実権を握るには、近隣に百済系の支援者が大量に必要なはずで、伊賀や大津周辺の群集墳がそれを示しているのかもしれません。

 ちなみに、伊賀周辺の古墳は、七世紀代まで周辺の地勢、地名と整合性のとれる縄文語解釈が可能です。全国的に前方後円墳の時代までは縄文語を共有する南方系の民族が主導権を握っていたので不思議はありませんが、大和に近い伊賀は次第に南方系と北方系が入り乱れた状態になっていったのかもしれません。当然、伊賀国風土記は上代日本語で書かれていますから、そこにいたるまでに激しい権力闘争があったことが想定できます。

■伊賀市の主要古墳
◎縄文語:「車塚(古墳)」=「ケゥ・ル・テュ」=「死体の・岬の・山」(四世紀後半築造/前方後円墳)
◎縄文語:「御墓山(古墳)」=「メ・パケ・ヤマ」=「泉の・岬の・山」(五世紀中葉築造/前方後円墳)
◎縄文語:「寺音寺(古墳)」=「チゥ・オ・テュ」=「水流、水脈・がある・峰、岬」(五世紀中葉築造/前方後円墳)※周濠あり
◎縄文語:「馬塚(古墳)」=「マーテュ・テュ」=「波打ち際の・小山」(五世紀後半/前方後円墳)
◎縄文語:「鳴塚(古墳)」=「ナ・テュ」=「山中の平地の・小山」(六世紀中葉築造/前方後円墳)
◎縄文語:「勘定塚(古墳)」=「カン・チゥ・テュ」=「上にある・水流、水脈の・出崎」(七世紀築造/墳丘消失)

■名張市美旗の主要古墳
◎縄文語:「殿塚(古墳)」=「ト・ノッ・テュ」=「湖沼の・岬の・小山」(四世紀後半/前方後円墳)
◎縄文語:「毘沙門塚(古墳)」=「ペ・サマ・テュ」=「水の・ほとりの・小山」(四世紀後半/前方後円墳)
◎縄文語:「女良塚(古墳)」=「チゥェ・ラィ・テュ」=「水流、水脈が・死んでいる・小山」(五世紀前半/帆立貝式古墳)
◎縄文語:「馬塚(古墳)」=「マーテュ・テュ」=「波打ち際の・小山」(五世紀後半/前方後円墳) ※全国の「馬塚古墳」は水辺。ほかに「松」の表記がよく見られる。
◎縄文語:「貴人塚(古墳)」=「キ・チゥェ・テュ」=「山の・水流、水脈の・小山」(六世紀初頭/前方後円墳)


■伊賀市の主要古墳(国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■名張市美旗の主要古墳(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 伊賀とは関係ありませんが、俗説に漢織穴織が登場していますので、こちらも解釈します。後に機織りが盛んになったとしても、先住民文化を上書きした可能性があります。

◎縄文語:「漢織」=「アゥ・ヤ・ハッタ」=「枝分かれた・岸の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「穴織」=「アゥ・ナ・ハッタ」=「枝分かれた・方の・淵、水が深くよどんでいるところ」

 こちらも朝鮮半島南部の安耶、安那などとは関係ありません。朝鮮半島南部も縄文語圏で倭人と同じ南方系民族なので同じ地勢に同じ地名が与えられていても不思議はないのです。いちいち結びつけて物語を創作してはいけません。


■伊賀地名の縄文語解釈
◎縄文語:「佐那具」=「サン・アケ」=「出崎の・片割れ」
◎縄文語:「土橋」=「トーパ・ウシ」=「沼頭・のところ」
◎縄文語:「野間」=「ノッ・マ」=「岬の・谷水」
◎縄文語:「三田」=「メ・タ」=「泉・の方」
◎縄文語:「千歳」=「チゥ・トセイ」=「水流、水脈の・小山」
◎縄文語:「羽根」=「パンナ」=「川下の方」
◎縄文語:「高畠(高畑)」=「テュ・カ・ハッタ」=「岬の・ほとりの・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「長田」=「ナィ・カ・タ」=「川・岸・の方」
◎縄文語:「小田(町)」=「オタ」=「砂浜」
◎縄文語:「上野」=「ウェン・ノッ」=「難所の・岬」
◎縄文語:「寺田」=「タオ・チャ」=「川岸の高所の・ほとり」
◎縄文語:「荒木」=「アケ」=「一方のところ」※久米川の対岸。
◎縄文語:「朝屋」=「アゥ・サ・ヤ」=「隣の・浜の・岸」

■伊賀市の主要古墳と周辺地名の縄文語解釈
◎縄文語:「御墓山(古墳)」=「メ・パケ・ヤマ」=「泉の・岬の・山」(五世紀築造/前方後円墳)
└縄文語:「佐那具」=「サン・アケ」=「出崎の・片割れ」
◎縄文語:「寺音寺(古墳)」=「チゥ・オ・テュ」=「水流、水脈・がある・峰、岬」(五世紀中葉築造/前方後円墳)
└縄文語:「炊(村)」=「カケ」=「その上のところ」 ※寺音寺古墳の所在地。
└縄文語:「畑(村)」=「ハッタ・ケ」=「淵、水が深くよどんだ・ところ」 ※寺音寺古墳の西に隣接。
└縄文語:「真泥(みどろ) 」=「メトッ・ラ」=「山奥の・低地」 ※寺音寺古墳の西、服部川対岸。
└縄文語:「千戸(せんど) 」=「シアン・ト」=「大きな・湖沼」 ※寺音寺古墳の北方。
└縄文語:「富岡 」=「トマム・オカ」=「湿地の・跡」 ※寺音寺古墳の南方。
◎縄文語:「鳴塚(古墳)」=「ナ・テュ」=「山中の平地の・小山」(六世紀中葉築造/前方後円墳)
└縄文語:「鳳凰寺」=「ポン・オン・チゥ」=「小さな・古い・水脈、水流」※鳴塚の所在地。古代の寺院名は縄文語の地名から名づけられることが多い。法隆寺、法興寺、東大寺など。
◎縄文語:「勘定塚(古墳)」=「カン・チゥ・テュ」=「上にある・水流、水脈の・出崎」(七世紀築造/墳丘消失)
└縄文語:「外山」=「ト・ヤマ」=「湖沼の・山」※勘定塚古墳の所在地。
└縄文語:「円徳院」=「エト」=「水源」※勘定塚古墳東方。

■名張市美旗の主要古墳と周辺地名の縄文語解釈
◎縄文語:「殿塚(古墳)」=「ト・ノッ・テュ」=「湖沼の・岬の・小山」(四世紀後半/前方後円墳)
◎縄文語:「毘沙門塚(古墳)」=「ペ・サマ・テュ」=「水の・ほとりの・小山」(四世紀後半/前方後円墳)
◎縄文語:「女良塚(古墳)」=「チゥェ・ラィ・テュ」=「水流、水脈が・死んでいる・小山」(五世紀前半/帆立貝式古墳)
◎縄文語:「馬塚(古墳)」=「マーテュ・テュ」=「波打ち際の・小山」(五世紀後半/前方後円墳) ※全国の「馬塚古墳」は水辺。ほかに「松」の表記がよく見られる。
└縄文語:「新田」=「シアン・チゥ」=「大きな・水流、水脈」 ※殿塚古墳、毘沙門塚古墳、女郎塚古墳、馬塚古墳の所在地。
└縄文語:「美旗」=「メ・ハッタ」=「泉の・淵」※殿塚古墳、毘沙門塚古墳、女郎塚古墳、馬塚古墳の所在地。
└縄文語:「(美旗)中」=「ナィ・カ」=「川・岸」※馬塚古墳の所在地。

◎縄文語:「貴人塚(古墳)」=「キ・チゥェ・テュ」=「山の・水流、水脈の・小山」(六世紀初頭/前方後円墳)
└縄文語:「小波田」=「オン・ハッタ」=「古い・淵」 ※貴人塚古墳の所在地。
└縄文語:「(美旗)中村」=「ナィ・カ(・モ・ラ)」=「川・岸(・小さな・低地)」※貴人塚古墳、馬塚古墳周辺の所在地。

◎縄文語:「八幡」=「ペッチャ」=「川端」※美旗古墳群近隣地名。全国の「八幡神社」、「八幡」を冠する地名は「川端」の地勢。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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