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古代人のの嘘にはもう騙されない!日本書紀甚大の不可解な人名地名解釈と戦います。

【 ~ 第三十回 】

第二十七回第二十八回第二十九回/ 第三十回】
日本書紀のエラーコラム[増補版]
第三十回 ニニギはヤマトから一大率に派遣された!
 言わずと知れた天孫降臨神話。天照大神の孫にあたるニニギが日向の高千穂に降り立った神話です。以下要約。

<日本書紀本文※一書では異同あり>
 天照大神の子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘、幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)が生まれた。高皇産霊尊はニニギを葦原中国の君主にしたいと思った。 高皇産霊尊は、天穂日を葦原中国に遣わしたが、大己貴神(大国主)におもねり、三年経っても帰らなかった。また、天穂日の子の大背飯三熊之大人(武夷鳥)を遣わしたが、父と同じく何の報告もなかった。次に天稚彦を遣わしたが、これも大己貴神の娘の下照姫を娶り、復命しなかった。
(大国主の国譲り 中略)
 葦原中国平定後、高皇産霊尊はニニギを降臨させた。ニニギは日向の襲の高千穗の峯に天降った。
 よい国を求めて吾田国長屋の笠狭の岬に着いた時、事勝国勝長狭(塩土老翁)がいて、ニニギに国を譲った。
 その後、ニニギは、大山津見の娘である神吾田津姫(木花開耶姫)を娶り、三人の子供をもうけた。すなわち火闌降命・彦火火出見尊・火明命。
 ニニギは亡くなり、筑紫の日向の可愛之山の陵に埋葬された。
(海幸彦・山幸彦/神武東征 後略)


 天孫降臨周辺の神話は非常に難解で、現実に起こった出来事として捉えるには、まるで見当のつかないことがたくさんあります。筆者も何かしらのヒントがないか探っていましたが、ほんのわずかですが、新しい発見がありましたのでご紹介させていただきます。

 上記、天孫降臨の要約の中でヒントとなるのは、まず、天孫ニニギの父である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の名前です。
 以下縄文語(アイヌ語)解釈。

●正哉吾勝勝(速日天忍穂)耳(まさかあかつかち[はやひあめのおしほ]みみ)=
「マサカ・アッ・クチャコッチセ/(速日天忍穂)/メ・メ
=「海岸の草原・がある・小屋/(速日天忍穂)/きらめく・泉(鏡)」


 「速日天忍穂」は、難解かつ、あまりヒントにもなりそうもないので省略しました。重要なのは、それ以外の名前の装飾部にあたるところです。
 名前の最後部に付加される「耳」は「鏡」を配って与えた役職名だと考えます。そして、前半部の「海岸の草原・がある・小屋」。この解釈で思い浮かぶ館が一カ所あります。
 それは、魏志倭人伝記載の

●一大率=「エテュ・タ・アン・サ・チャ」=「岬・そこに・ある・浜の・館」

 です。「エテュ」の「岬」はもちろん糸島半島付近の「伊都国」を指します。つまり、「一大率」に駐在していたことを示しているのではないかということです。

 天忍穂耳は天照大神の子です。当時は、帥升に比定したスサノオがヤマトの大王となった時期にあたります(※第二十四回コラム参照)。天忍穂耳はヤマトから伊都国に派遣されていたのではないでしょうか。その後を継いだと思われる子のニニギの名も魏志倭人伝記載の伊都国の役職名である「爾支(にき)」に似ています。

 さらに、伊都国の遺跡で有名な平原遺跡。1号墓は女王墓との考察があり、日本最大の内行花文鏡ほか、大量の鏡が出土しています。鳥居と柱穴を結ぶ延長線上には日向峠があり、鏡の祭祀が行われていたことを伺わせます。
 日向を縄文語解釈すれば、

●日向(ヒムカ)=「ヘ・メ・カ」=「光る・泉の・表面」=鏡
※現在の読みは「ひなた」ですが、後世に読み方が変えられたという前提です。

 です。鏡姫である、卑弥呼の解釈とも一致します(※第十六回コラム参照)。
 つまり、ニニギが降り立ったところは、宮崎の日向ではなく、

●<日本書紀>日向の吾田国 = 日向峠のある伊都国

 ではないかということです。日向峠説は周辺の遺跡などから古田武彦氏によってすでに提唱されています。
 また、ニニギに国を譲った塩土老翁(事勝国勝長狭)の縄文語解釈を、

●塩土老翁=「シ・オ・テューテュ・オッ・チャ」=「山・尻の・出崎・がある・館」=岬の館

 とすれば、そのまま一大率の意味と一致します。おそらくは、漢字語呂合わせの「おじさん」ではありませんし、潮や塩の神を示している訳でもありません。塩土老翁は、伊都国あるいは一大率をニニギに譲ったのではないでしょうか。

 この塩土老翁はイザナギの子とされていますが、その活躍は不自然なほど長期にわたります。天孫降臨神話ではニニギに国を譲り、海幸山幸神話では、山幸彦を海神の館に導き、さらに、神武東征神話では、神武天皇に東征を促しています。
 これらをイザナギの子孫の系譜に重ねてみます。

・イザナギ
 ↓
・天照大神 ←同じ父から生まれた
 ↓
・天忍穂耳
 ↓
・ニニギ ←国を譲る
 ↓
・山幸彦(火折尊/火遠理命/彦火火出見) ←海神の館に導く
 ↓
・ウガヤフキアエズ
 ↓
・神武天皇 ←東征を促す

 ものすごい長命です。非常に違和感を覚えます。日本書紀には、このように何世代にもわたって生きている人物がほかにもいます。

 まず、磯城県主葉江(ハエ)。葉江は、第三代安寧天皇、第五代孝昭天皇、第六代孝安天皇それぞれに娘を嫁がせています。その間、四代で、娘の父ですから、自分の代も含めれば五代にわたって生きています。
 それから、三百歳前後の長寿で有名な武内宿禰。第十二~十六代の五代、景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇に仕えています。当然、現実味のない話なので、実際はまったくの空想人物であるか、同名の別人が複数人いたなどと解釈されています。
 塩土老翁も六代にわたって生きていますから、武内宿禰と同じような存在です。

 筆者は、この長命な人物たちが、実際にも一人の人物だったと考えています。もちろん、神がかり的な長寿だったと捉えている訳ではなく、その実、古代人が系譜を引き延ばして物語を創作したために、一人の人物の一生がそれに応じて長くなってしまったのではないかと考える訳です。

 磯城県主葉江を例にとって見てみます。日本神話は欠史八代の事績を基に創作された物語ですから、欠史八代の天皇には、それぞれ神話上の人物を当てはめることができます(※第十六回、第二十四回コラム参照)。以下が葉江に関係する系譜です。

 

 神話上の人物を当てはめて復元された系図を見ると、葉江は大国主とその息子たちに娘を嫁がせているに過ぎません。たった二代なので、まったく現実的です。
 日本書紀では、兄弟や同世代の他人をすべて一系で繋げて系譜を創作したために、実際は二~三世代の期間が、実に八世代前後に間延びしてしまっています。

 塩土老翁も同じように考えれば、天忍穂耳から神武天皇に至るまで、同一人物を複数人に分割したり、あるいは同世代の人物を親子として縦列に並べたりして系譜が間延びしているか、あるいは、逆に複数世代にわたった東征の事績が神武東征神話に集約されている等の加工が施されている可能性があります。
 また、神武天皇は第十代崇神天皇と同一人物で、その祖先も同じです。崇神天皇は邪馬台国の流れを一系で引き継がせるために、第十代天皇に据えられているに過ぎません。すなわち、神武天皇の父のウガヤフキアエズは、実際は崇神天皇の父であったと考えます。

 そして、天孫降臨神話、海幸山幸の神話、神武東征神話。これらはすべて邪馬台国周辺の時代に起こった出来事です。古代人は、記録として後世に残すことが憚られる事績を神話として空想の物語に昇華させてしまいました。
 ようするに、

●天孫降臨神話 = 天照大神あるいはスサノオから、天忍穂耳が渡海の要地である伊都国の一大率を任され、その子のニニギが後を継いだ物語。

●海幸山幸神話 = 神武東征の前段階。天忍穂耳の子孫が、伊都国とヤマト、あるいは出雲と往復した物語。親ヤマト、反ヤマトで伊都国に内部分裂があったか。

●神武東征神話 = スサノオが出雲からヤマトに侵攻する事績(※第二十四回コラム参照)と、天忍穂耳の子孫が伊都国からヤマトに侵攻する事績を合成して創作した物語。

 ということが想定できるということです。このあたりの神話は難解すぎて、残念ながら実際の事績に当てはめることができていない箇所がたくさんあります。

 同様に、武内宿禰の場合も、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇の系譜に加工が施されている可能性が高いと考えます。武内宿禰の時代は、卑弥呼を継いだ台与の時代です。

 また、塩土老翁がイザナギの子で、伊都国の一大率の人物であれば、イザナギが伊都国出身である可能性が出てきます。イザナギがイザナミの墓を訪れた神話(古事記)の縄文語解釈では、イザナギはイザナミに婿入りしています(※第五回コラム参照)。


第二十七回第二十八回/ 第二十九回/ 第三十回
日本書紀のエラーコラム[増補版]
第二十九回 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)のウソを暴く!
 「都怒我阿羅斯等」は日本書紀の敦賀の地名譚に登場する大加羅の王子です。これは、古代人がねつ造した分かりやすいデタラメ物語なので、縄文語でそのウソを暴きたいと思います。(※第十一回コラムにも書きましたが、人名解釈が不足していたので、追加させてください。)

 まず、日本書紀記載内容。

■日本書紀「都怒我阿羅斯等」=「崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が笥飯の浦に着いた。その場所を名づけて角鹿(つぬが)という」

 当然、ウソです。「都怒我阿羅斯等」を縄文語解釈すると、

■「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」= 立石岬/敦賀半島

 となります。日本書紀には都怒我阿羅斯等の別名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とあります。これもついでに縄文語解釈します。

■「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」= 敦賀半島

 都怒我阿羅斯等の言い換えです。
 このように、縄文人が「岬が崩れているところ」と言っていたものを後世の人々が解釈すると「角がある人」に化け、たくさんの物語が付加されます。言うまでもなく、敦賀以外にも、このような地名譚は日本各地で数多く語り継がれています。

 ただし、大加羅から本当に人が来て「都怒我阿羅斯等」と名乗った可能性もあります。他の地名譚の例も参考にすると、かなり確率は低いとは思いますが。。


 
第二十七回/ 第二十八回/ 第二十九回第三十回
日本書紀のエラーコラム[増補版]
第二十八回 「倭面土国」は「ヤマト」です。
 日本書紀から外れたコラムが二回続いてすみません。
 今回は、西暦107年に後漢に朝貢した、倭国王帥升について述べたいと思います。第二十四回コラムで触れたとおり、「帥升」は後漢書に登場する倭国王です。筆者は「帥升」をスサノオに比定しています。

◇後漢書東夷伝:安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。

 そして、この朝貢の内容は、北宋版「通典(つてん)」にも記されています。

◇北宋版「通典」: 安帝永初元年 倭面土国王師升等が生口を献じた。

 しかし、この「通典」では、「倭国王」ではなく、「倭面土国王」と記載されているため、「倭の面土国の王」であるという解釈があります。この「面土国」がいったいどこなのか。ヤマト、伊都国、末盧国の説がありますが、筆者の私見では、これは「ヤマト」です。
 なぜなら、ヤマトを縄文語(アイヌ語)解釈すると、

■ヤマト=「ヤ・ムンテュ」=「陸岸の・草むら」

 だからです。「陸岸」を意味する「ヤ」が省略されたと考えれば、

■面土国=「ムンテュ国」=「草むらの国」

 となります。さらに、ちょっと気になるのは、縄文語で「ワ」と「ヤ」はともに、「岸」を表します。つまり、

■ヤマト=「ヤ・ムンテュ」=「岸の・草むら」
=倭面土国=「ワ・ムンテュ」=「岸の・草むら」


 で、まったく同じ意味となります。辻褄が合いすぎていて、逆に気味が悪いです。この時代、人名も地名も複数の名で呼ばれるのは、決して珍しいことではありませんでした。 ともに、奈良盆地にあった湖の湖畔の草むらを意味しているのではないでしょうか。「ワ・ムンテュ」は「ヤマト」の別名であったのかもしれません。

 ちなみに、面土国説にある末盧国は、日本書紀には松浦県として登場します。

<日本書紀>神功皇后が鮎が釣れて珍しいと言ったのでめづら国と名づけられ、訛って松浦になった

 とありますが、もちろんウソです。

■末盧(松浦)国=「モィ・チャ」国=「入り江の・入口」の国

 だと思います。
 また、天孫降臨に登場する筑紫は、

■筑紫=「チクシ」=「海岸の難所」

 の意味なので、玄界灘に面した荒々しい地形を表したのではないでしょうか。



第二十七回/ 第二十八回第二十九回第三十回
日本書紀のエラーコラム[増補版]
第二十七回 投馬国は出雲だ!倭人の舟は舳先を南に向けて海流に乗る!
 魏志倭人伝における対馬海峡を渡ってからの邪馬台国への道程の解釈は、未だ定説として確定していない要素が多く、その中でも投馬国は、邪馬台国所在地論争の決定打となるだけに、激しい議論が戦わされていることは周知のとおりです。今更、筆者程度の浅学の者が参入するのは気後れがしますが、少々私見がありますので、述べさせていただこうと思います。

 筆者は、投馬国を出雲に比定しています。出雲はスサノオが奇稲田姫を娶り、ヤマタノオロチを退治した場所でもあり、ヤマトから追放されて隠居した場所でもあります(※第二十四回コラム参照)。出雲と投馬を縄文語解釈すれば、次のようになります。

●出雲=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
●投馬=「テュ(―)・モィ」=「岬の・入り江」

 「エテュ」と「テュ」はともに「岬」を意味しますので、出雲と投馬はまったく同じ意味となります。出雲の地形そのままです。

 魏志倭人伝記載の邪馬台国への道程をおさらいしてみます。

◇帯方郡
↓南し乍ら東し乍ら、七千余里
◇狗邪韓国 
↓一海をわたり、千余里
◇対馬国
に一海をわたること千余里
◇一支国
↓一海をわたり、千余里
◇末盧国
東南に陸行すること五百里
◇伊都国
東南百里
◇奴国
行百里
◇不弥国
水行二十日
◇投馬国
水行十日、陸行一月
◇邪馬台国

 この邪馬台国に至る道程を解釈するにあたり、方位が45°ほど、反時計回りに回転しているというのが通説となっています。

 実際の地図を見てみます。地図には自然要素である海流や風を加えています。魏志倭人伝の末盧国の描写には、「草木が繁茂して、前方の人影を見失うほどだ」とありますから、季節は夏に設定しています。つまり、西から東に流れる対馬海流と、南東から吹く夏の季節風を考慮するということです。

 

 言わずもがなですが、この海流と季節風は「陸行」の方角にはまったく影響を与えません。問題は、「水行」です。舟は、海流にも風にも流されます。この条件下で、舟の舳先をどこに向けて進めば、目的地にたどり着くか考えてみます。

 まず、「対馬国」から「一支国」。
 対馬海流が最も狭くなるこの海域は、潮の流れが最も速くなると考えられます。対馬と朝鮮半島の間では、およそ6km/hになる箇所もあるようです。「対馬国」と「一支国」の間もそれに倣って考えれば、東に流されないように進行方向を西側に傾けて必死に舟を漕がなければなりません。距離にしておよそ50kmです。「対馬国」から見て「一支国」は南東方向ですが、舟の舳先はほぼ南に向いていたのではないでしょうか。

 次に、「不弥国」から「投馬国」、「投馬国」から「邪馬台国」の「水行」。
 「投馬国」を「出雲」に仮定し、シミュレーションしてみます。「出雲」は弥生遺跡を考慮して安来市、「不弥国」は遠賀川流域の直方市、飯塚市あたりに設定します。両者の距離を測ると、約400km弱あります。これを水行20日かけていますから、約20km/日です。対馬海峡を抜けた対馬海流のスピードが日本海では約2km/hとなっていますから、10時間で20km進むことになります。夜はどこかの港で休むにしても、日の長い夏期は1日で十分進めます。20日経てば、400kmです。

 つまり、「投馬国」を「出雲」と設定した場合、この舟は、海流に乗っているだけで、ほとんど漕いでいないということになるのではないでしょうか。さらに、海流の向き、夏の季節風を考慮し、陸から離れないように方角だけ気をつけるとすれば、舟の舳先はどこに向ければいいでしょう。
 答えは南です。海流を南西から舟の胴体の側面に受ければ、舟を陸側に押す力が働きます。この場合、方位を反時計回りに回転させなくてもいいくらいです。また、陸から離れすぎれば、舳先を南に向けて漕ぐこともあったかもしれません。
 同様に、投馬国から邪馬台国への「水行十日」も、南向きで東に約200km進めば、弥生時代の鉄器工房で有名な丹後半島の付け根に上陸することができます。 あとは「陸行一月」で、邪馬台国に至ります。
 そしてこれは、正確な地図もGPSもない時代のこと。人々はどうやって移動した方角を確認したのでしょうか。しかも、ここでの主人公は、海に慣れていないであろう魏の使者です。
 実際には、出雲は九州北部から見て北東ですが、それは、頭の中に正確な地図が描かれている人だけが判断できることです。出雲の位置情報や、海流や風の知識もない魏の使者の場合、陸を遠望する大海原の中で、舟の舳先の向きと太陽や星の位置関係だけを頼りに方角を判断しなければならなかったのかもしれません。

 つまり、「南至投馬国水行二十日」というのは、厳密に言うと、「不弥国の南に位置する投馬国に水行二十日で至る」のではなく、「不弥国から南向きに二十日水行すると投馬国に至る」という意味で、必ずしも、正確な方角を示している訳ではないということです。しかし、それは魏の使者の主観に立ってみるならば、極めて正確な表現だとも言えます。むしろ、草木が繁茂する陽光疎らな曲がりくねった山中の道の方が、正確な方角を導き出すのは難しかったのではないでしょうか。風と海流を考慮するならば、「陸行」と「水行」の方角は、異なる条件設定で検討する必要があるかもしれません。
 魏志倭人伝の「会稽東冶之東」も本州を南に向ける後世の中国の古地図も、舳先の向きによる方位の誤解がそのまま表現されているのではないでしょうか。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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