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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百七十一回~第三百八十回】

第三百七十一回第三百七十二回第三百七十三回第三百七十四回第三百七十五回第三百七十六回第三百七十七回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十一回「[長野県]諏訪大社由緒の大ウソを暴く!出雲神タケミナカタは諏訪に来ていない!諏訪と奈良葛城の同一地名を結びつけた創作だ!~御柱・お船祭り~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「諏訪大社」について(『下諏訪の歴史』今井広亀 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【わが国で一番古い書とされている古事記は伝説の書であり、大和朝廷の系譜である。その巻頭に出雲の国ゆずり伝説がある。出雲に大国主命がりっぱな国造りをしていることから、高天原の天照大神がその国土を献上させようと、一度二度使いをつかわされたが、大国主命の家来になってしまって帰って来ない。そこで次には、武勇のすぐれた経津主命武甕槌命をおつかわしになった。大国主命も長子の事代主命もすぐに承知したが、次子の建御名方命は力くらべをしてきめようと言い、それに負けて諏訪湖のほとりまで逃げてきたというのである。これはもちろん史実ではあるまい。が、出雲国が大和朝廷の勢力範囲におさめられた経過を童話のようにまとめたもので、これから後、出雲族の勢力が日本海に沿って越中・越後の方へのびたことを示している。建御名方命はそこに栄えた弥生文化をもって、なお山間の信濃国の方に開拓をすすめられたわけで、本州の中央山脈の頂点の諏訪までたどりつくには何代かかかったであろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 諏訪大社の祭神は周知のとおり「建御名方」で、「大国主」の次子とされています。「大国主」は出雲の神の扱いですが、その出雲の血筋の神がなぜ諏訪に祭られているのか、神話をもとに方々でさまざまな説が語られているのは周知のとおりです。
 しかし、そもそも出雲の「国譲り神話」自体が”史実を隠蔽”するための創作物語なので、正攻法の解釈では容易に史実にたどり着けません。

 これまで何度か書いたことがありますが、古代人は、風土記編纂などの目的で収集した全国の縄文語の同一地名をルール無用で結びつけて物語を創作しています。

 縄文語においては同一地勢であれば、同一地名が頻繁に登場するのは当然なのですが、古代人は、例えば「シ・オ・ケ(orシロケ)=山・裾・のところ(or山裾)」などの日本のどこにでもあるありきたりな地名を「新羅国」と結びつけ、”新羅系渡来人”の活躍物語を創作しています。

 新羅系渡来人の代表である「天日槍」の場合は「ア・ヌピ・ポッケ・イ=横たわっている・野原・湧いている・ところ」で単に城崎温泉「ケナ・ケ=川端の木原・のところ」を指していて、「出石=エテュ・ウシ=岬・の者」の解釈を考慮すれば、単に「出石の山裾(=新羅)」が出身だった可能性が高いと言えます。「天日槍」が献上したとされる神宝もすべて出石周辺の縄文語地名にこじつけられたものです(※三百二十二回コラム参照)。さらに「天日槍」を祭る全国の「新羅神社」は必ず「山裾」の地勢にあります。

 また、同じく新羅系渡来人で名高い「秦氏」の場合は「ハタ」のつく地名と結びつけられ、その活躍が語られることが多いですが、それらはほぼ例外なく「水辺」の地勢で、出所となる縄文語は「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」です。「秦氏」が得意とされる「機織り」や支族の「服部」も同語源です。つまり、「機織り」が得意という由緒自体が信用できないということです。

 同様にスサノオの故地とされる「新羅」も単に日本国内の「山裾」である可能性が高いので、必然的に出雲の神々が新羅系だということも言えなくなります。私見ではスサノオの故地の「山裾」は大分の国東半島です(※詳しくは第二四回コラム参照)。

 筆者が考えるに、「大国主」は確かにスサノオの流れをくんでいるので出雲系となりますが、その実態は、邪馬台国前夜の倭国大乱を”大和”で演じた主役です。「大国主」が相続争いで兄たちにいじめられて出雲に逃げるあたりが大乱の内容を反映していると考えます。

 余談ですが、大国主の神話で描かれる「因幡の白兎」もまったくの創作物語で、その出所は鳥取県の「白兎海岸」の縄文語地名です。

◎縄文語:「白兎」 =「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜・のところ」

 「山裾」の縄文語には「新羅」のほか「白」「塩」「親王」「新王」などが充てられます。必然的に日本全国の「白浜」は「山裾の浜」となります。決して「白い浜」の意ではありません。「親王塚」に親王が眠っていない訳もここにあります。

 話を戻します。
 筆者は日本神話が欠史八代の事績を基に創作された物語であると考えています。「大国主」は第三代「安寧天皇」、その子の「事代主」は第五代「孝昭天皇」、「建御名方」は第六代「孝安天皇」に比定しています。

 「大国主」を縄文語解釈すると、

◎縄文語:「大国主」 =「オオ・コッネ・ウシ」=「大きな・窪んでいる・ところ」

 になり、それはかつて奈良盆地中央にあった奈良湖跡と捉えることができます。「磯城」の解釈とも一致します。

◎縄文語:「磯城」 =「シ・コッ」=「大きな・窪地」

 そして、この「大国主」に国譲りを迫ったのが「経津主」と「武甕槌」になります。これは第七代「孝霊天皇」と「倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)」の親子です。なぜなら、「孝霊天皇」の諱の「大日本根子彦太瓊」は「経津主」、「倭迹迹日百襲姫」は「卑弥呼」「武甕槌」の縄文語解釈と完全に一致するからです。

◎縄文語:「(大日本根子彦)太瓊(孝霊天皇)」 =「ピテュ・ニェ」=「岩崎の・林」
◎縄文語:「経津主」 =「ピテュ・ニェ・ウシ」=「岩崎の・林・のもの」

◎縄文語:「(倭)迹迹日百襲(姫)」 =「タッタ・ヘ・モ・メ・ソ」=「踊り踊り・光る・小さな・泉の・表面」=鏡の巫女=卑弥呼
◎縄文語:「卑弥呼」 =「ヘ・メ・カ」=「光る・泉の・表面」=鏡姫=卑弥呼
◎縄文語:「箸墓」 =「フチ・フカ」=「老婆の・高台」=卑弥呼の墓
◎縄文語:「(武)甕槌」 =「メ・カ・フチ」=「泉の・表面の・老婆」=鏡の老婆=卑弥呼

 つまり、スサノオが先住民(先行渡来人)であるニギハヤヒ率いる物部族とせめぎあいながら大和の基礎を築き、後継の「大国主」がさらに少彦名とともに国造りを進めましたが、そこに国譲りを迫ったのが、のちの邪馬台国の「経津主(孝霊天皇)」と「武甕槌(倭迹迹日百襲姫/卑弥呼)」だったということになる訳です。
 ”国譲り”の際、「大国主」は死に追いやられていますが、その息子たちは葛城地方に落ち着いたようです。「孝昭天皇」も「孝安天皇」も、その皇居と陵墓は御所市にあります。

 ここで、スサノオとニギハヤヒを渡来人のような扱いで書きましたが、弥生時代の出土物や邪馬台国の南方系の風習を鑑みるに、彼らは少なくとも南方系渡来人にルーツの一部を持つ可能性が非常に高いと言えます。
 筆者が進めた中国漢代の県名(上古音)の縄文語解釈は、中国先住民、特に東夷南蛮と倭人が縄文語(アイヌ語)を共有していたことを示しています。中国大陸や朝鮮半島南部にはもともと日本先住民(縄文人)と同系の南方系の人々がいて、互いに交流を持っていたということです。有史以前、国のような大きな支配体制が確立する前は特に人種や民族の境界線は極めて曖昧だったのではないでしょうか。

 スサノオやニギハヤヒの場合も、たとえその祖先が海を渡ってきたとしても、日本先住民と言語を共有する以上、数百年も経てば混血があるのは当然で、もはや渡来人と先住民の切り分けが難しくなっていたのだと考えられます。
 そして後世、その南方系渡来人が北方系渡来人を日本に招き入れたと考えられますから、まさに”軒を貸して母屋を取られる”を実践された訳です。
 北方系渡来人が大和王権を簒奪するのは六~七世紀のことです。聖徳太子のあたりから日本建国の動きが激しくなるのはそういう理由です。

 「諏訪大社」を語るにあたり、前段が長くなってしまいましたが、これらを把握しておくと、「諏訪大社」周辺の創作物語が簡単に解釈可能となります。後世の人々がいかに神社というものに騙されているかが如実に分かります。日本の八百万の神は本当に大ウソつきです。「ウソつきはドロボウ(国家簒奪)の始まり」を地でいっています。

 なぜ、諏訪大社に「大国主」の息子の「建御名方」が祭られているのか。結論から言うと、奈良の葛城と諏訪に同じ地勢があり、それが同じ縄文語の地名で呼ばれていたからです。これは、前述の日本全国の「山裾=新羅」の公式とまったく同類のものです。地名が同じという理由だけで結びつけられて物語が創作されたということです。

 まず、「諏訪大社」に祭られる「建御名方」と、土着神である「ミシャグジ」を解釈してみます。

◎縄文語:「(建)御名方」 =「メ・ナ・クッチャ」=「泉の・方の・入口」
◎縄文語:「ミシャグジ」 =「メ・シャン・クッチャ」=「泉の・大きな・入口」

 となり、ほぼ同義となります。言わずもがな「諏訪湖」周辺を指しています。

◎縄文語:「諏訪湖」 =「シャン(orシ)・ワ」=「大きな・岸」


■諏訪湖



 また、諏訪大社の”神長官”を務めた「守矢氏」は、国津神である「洩矢神」の後裔で、「洩矢神」は「建御名方」と争ったということですが、こんな物語も当然眉唾ものです。そもそも”出雲”の「建御名方」は諏訪に来ていないのですから。

 もし、争ったのが史実であるとするならば、それは先住民の「守矢氏」といかがわしい「神物語」を語る新参渡来人の争いです。漢字表記にこじつけた創作由緒から察するに、神社は北方系渡来人の方針によって七世紀以降に設けられたと考えられますから、その争いはちょうど北方系渡来人が大和を掌握し、地方支配に乗り出す頃の出来事になります。

◎縄文語:「洩矢」 =「モィレ・ヤ」=「入り江のような静かな・陸岸

 「洩矢神」は単に、諏訪湖の岸辺の意です。
 

 そして、上記「建御名方=泉の方の入口」と同類の地勢は、奈良の葛城地方、御所市にも見られます。

◎縄文語:「葛城」 =「コッチャ・ケ」=「窪地の入口・のところ
◎縄文語:「御所」 =「コッチャ」=「窪地の入口
or「コッ・チャ」=「窪地の・岸

 周辺地名も「泉」「湿地」の解釈が可能です。

◎縄文語:「三室」 =「メ・オロ」=「泉・のところ」
◎縄文語:「蛇穴(さらぎ)」 =「サ・ケ」=「湿地・のところ」
◎縄文語:「室」 =「モィ・オロ」=「入り江・のところ」 ※孝安天皇皇居。
◎縄文語:「松本」 =「マーテュ・モ・ト」=「波打ち際の・小さな・湖沼」
◎縄文語:「元町」 =「モ・ト・マーテュ」=「小さな・湖沼の・波打ち際」

 この周辺が第五代「孝昭天皇」、第六代「孝安天皇」の拠点となっています。それぞれ、筆者が比定している「大国主」の息子の「事代主」と「建御名方」です。

  また、「建御名方」に比定した「孝安天皇」の諱は「日本足彦国押人(紀)」です。

◎縄文語:「孝安(天皇)」 =「コッ・アゥ」=「窪地の・枝分かれたもの」
◎縄文語:「(日本)足彦/国押人」 =「トラィ・ウシ・シク/コッネ・オソ・ペト」=「水たまり・のところの・大夫/窪んだ・尻(下)の・川口」

 「建御名方/ミシャグジ(=泉の入口)」や周辺地勢の縄文語解釈と一致します。

 漢風諡号は後世淡海三船がまとめて命名したというのが通説ですが、まったく信用できません。彼らが”自らの都合に合わせて歴史を改竄している側の人物”であることを忘れてはいけません。諡号のもととなる縄文語を想定するのは他の例を鑑みても妥当です。

 つまり、これらのことから奈良の御所市と長野の諏訪にたまたま同一地勢、同一地名があり、奈良にいたはずの「建御名方」が同一地名をたどって諏訪に姿を現した可能性が高いということが言えます。
 これは「天日槍」や「秦氏」などに見られる記紀風土記の典型的な物語と同じ創作方法です。日本神話や渡来人の活躍物語の多くはこうして生み出されています。

 ほぼすべての神社は渡来系であり、その役割は”渡来文化の敷衍”、”先住民文化の上書き”にあります。それは諏訪大社も例外ではありません。


■御所市周辺の縄文語解釈  ※泉、湿地、窪地の入口。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「ミシャクジ信仰」が関東にまで及んでいるというような説がありますが、当然です。「新羅」の「山裾」同様、「泉の大きな入口の川」など、どこにでもある地勢なので、全部つなげば「日本全国ミシャクジ信仰が~」といった大げさな話になるのです。東京豊島区の「石神井」も同類の解釈で「三宝寺池」から流れ出る「三宝寺川」を指しています。

 また、埼玉県の「氷川神社」が「大国主」を祭っていますが、これが出雲の「斐伊川」由来だとするのも全くの間違いです。「ピ(川)=石ころ(の川)」の意です。氷川神社の原始信仰とされる「アラハバキ」神も単に「ア・パンパケ=一方の・川下」の意です。
 白山信仰も「浅い平山」の意なので、それが結びつけられ、ご丁寧に渡来系とされる白山神社も建てられて「広範囲に白山信仰が~」となっているだけです。もともと朝鮮半島とは関係ありません。 (※白山神社については第二百九十回コラム参照

 神社などこの程度のものです。そこには”大ウソつき”がいるだけで”神”はいません。もし神がいるとするならば、それは先住民の自然崇拝によるものです。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「フネ古墳」について(『諏訪市の文化財』諏訪市文化財専門審議会議編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【フネ古墳は湖南大熊フネ地籍に築造された古墳で、諏訪大社上社の鎮座する宮山の一丘陵上にある。<中略>
 墳丘は低平であったが、流失した可能性もあって、埴輪・葺石は認められない。
 主体部は長軸を南北に向け、二基の並列する粘土床が設けられ、その床はU字形で狭く長居が、割竹木棺の上下面に粘土を被覆した形式であった。<中略>
 副葬品の蛇行剣は全国的にも例が少ないし、また素環頭刀太刀は大陸系の要素が考えられる。県内古墳で発見された例はない。
 この古墳の時期は、その立地・墳形・槨形式、そして素環頭刀太刀の全国的な古墳副葬例・鉄釧路・銅釧路・鹿角柄小刀子・鉄鎌などの古式要素からみて、五世紀後半としている。南信濃では最古式古墳に属するが、諏訪神社や諏訪国成立また畿内政権との関係で問題をもつ古墳である。】

×「お船祭り」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【フネとはいうまでもなく、「船」ということで、諏訪大社下社の春宮・秋宮には「お船祭り」という遷座祭りがある。この「お船祭り」は「祭神が諏訪湖上で船遊びをしたのを」うんぬんといされているが、もちろん元はそういうことからきたものではなかったはずである。もしそうだとすると、<中略>諏訪湖のような湖のない松本市薄町の 須々岐水神社や、南安曇郡穂高町にある穂高神社などの「お船祭り」はどうしてか、説明がつかなくなるのである。
 それはやはり、さきにも書いたように、その神社を祭った者たちが、その祭神と共にはるばる海を渡って来たという、そのことを忘れてはならぬということの神事であったに違いない。】

○「御柱」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【諏訪大社といえば、いわゆる「御柱祭り」が有名であるが、これとほとんど同じ「御柱祭り」は朝鮮各地でもおこなわれている。これについては、「韓国の御柱祭」とうい副題をもった金井典美氏の「扶余郊外(恩山)の別神祭」という紀行論文があって、金井氏はそのさいごの「むすび」でこう書いている。
 「以上のような扶余を中心とした韓国と、諏訪に共通してみられる類似した風習は、古代の日本においてかなり一般的であり、とくに因習の強い諏訪によく残ったものか、百済はじめ韓国系の帰化人などと諏訪がとくに関係が深かったのか、あるいは内陸的な風土の類似から生じた信仰の同質性なのか、いずれもわからぬが、ひとつの事実として紹介し、大方の考察にまかせたいとおもう。」】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 神社で朝鮮半島系の祭りが行われるのは当然のことです。神社自体が渡来系の人々の出自の正当化、活躍を語るために設けられているものだからです。神社はほぼすべて渡来系です。

 フネ古墳の「フネ」はもちろん「船」ではありません。

◎縄文語:「フネ」 =「ペナ」=「川上」

 の意です。日本全国「船」のつく地名がありますが、その多くは「川上」の意です。まれに「パナ=川下」「プッ・ナ=川口・の方」「ポィナ=石」に充てられることもあります。

 『日本の中の朝鮮文化』では、松本市薄町の「須々岐水神社」や南安曇郡穂高町の「穂高神社」の「お船祭り」が湖沼などが存在しない地域のものなので説明がつかないとして”海を船で渡って来た渡来人”と結びつけていますが、残念ながら簡単に説明がつきます。

 「須々岐水神社」は薄川の「川上」、穂高神社の奥宮は梓川の「川上」の明神池のほとりです。つまり「お船祭り」とは「ペナ=川上」という縄文語地名に、後から来た渡来人が自らの言語の「船」を充て、由来を創作してお祭りを始めたということです。
 「お船祭り」が「船」や「渡来人」と関係があるのは当然です。初めからそのように物語を創作したのですから。しかし、あくまでも大元の由来は縄文語地名にあります。

 同様に「御柱」が朝鮮半島と諏訪で共通して見られることに驚く必要はありません。そのような由来を持つ人々が後世、諏訪に土着したということです。
 もし、それが北方扶余系(百済王族、高句麗系)であるとするならば、諏訪大社の由緒が出雲神話の「建御名方」を語るのも頷けます。七世紀以降、北方系が強くなった大和が地方支配に乗り出し、上代日本語で記紀風土記の編纂を始めたからです。そこには南方系日本先住民の言語である縄文語の意味のかけらも見当たりません。

 北方系である百済王族・高句麗の言語、上代日本語は開音節で終わる特徴を共有しています。南方系の新羅語、縄文語(アイヌ語)は閉音節で終わる特徴があります。

 多くの人が大きな勘違いをしていますが、飛鳥、藤原京、平城京、長岡京、平安京、国衙、神社仏閣、これらはすべて渡来系です。これら周辺に渡来人の足跡が見られるのは当然のことなのです。

 歴史上、南方系先住民が再び活躍を始めるのは、武士の時代、源平に取り込まれた地方の土豪たちあたりからではないでしょうか。


■フネ古墳 ※川上の古墳。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]座光寺・善光寺・麻績郷・畦地・白髭神社・韓郷(からくに)神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「麻績郷・畦地・白髭神社・韓郷(からくに)神社」について(『古代信濃と朝鮮をめぐって(座談会)』長野県史編纂委員 桐原健 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【昭和三〇年(一九五五)の時点で、信州には三〇五〇の古墳がありますが、そのうち馬具が出たのは一四六基です。<中略>一四六のうち七〇基が下伊那で、しかもその馬具たるや実用的な質朴なものじゃなくて、金銅張りのきらびやかな杏葉・鏡板・胸繋・雲珠(うず)・また馬鈴や馬鐸、鈴杏葉なども出ています。これと一緒に環頭太刀もありまして、時期的にみて六世紀でしょう。
 そういう下伊那のなかの、飯田市座光寺麻績郷に比定されるところに、畦地一号古墳という直径二〇メートルくらいの円墳がありまして、そこからは新羅の慶州のと瓜二つの銀製長鎖式垂飾付耳飾が出ています。これを豊富な馬具と結びつけての考察が、これから必要になってきます。それからここには延喜式内社の麻績神社があるし、同じ麻績郷にはいる高森町に白髭神社もある。また天竜川川東の喬木村に韓郷神社があります。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「座光寺/善光寺」=「シャン・コッ・チャ」=「大きな・谷(窪地)の・岸」※天竜川の岸辺。
◎縄文語:「麻績(郷)」=「アゥ・モィ」=「枝分かれた・入り江」
◎縄文語:「畦地」=「アゥ・テューテュ」=「枝分かれた・出崎」

 下伊那と長野に「善光寺」があるのは”大河が流れる盆地”という共通の地勢があり、同一地名で呼ばれていたからです。それが結びつけられて二つの「善光寺」が誕生した可能性が高いと言えます。長野盆地は”千曲川の岸辺”、下伊那は”天竜川の岸辺”です。
 アイヌ語には清音濁音の区別がないので、より「座光寺」「善光寺」の発音に近かったのかもしれません。

 これは同一縄文語地名「シ・オ=山・裾」に結びつけられた「新羅神社」「白髭神社」が広範囲に存在するのと同じロジックです。

 「麻績郷=枝分かれた入り江」の名は、天竜川の河岸段丘につくられた小河川の入り江を指したとすれば、これも地勢と完全に一致します。「畦地」古墳も地名由来の名称で、類似解釈(「枝分かれた出崎」)が可能です。


■麻績郷比定地の飯田市座光寺、元善光寺、麻績神社周辺
 ※大きな谷の岸(天竜川の岸辺)。枝分かれた入り江。



 下伊那の「元善光寺」の縁起をご紹介します。
 現在、神社仏閣に携わっている方々にはなんの罪もないのは言うまでもないのですが、残念ながら、これら縁起、由緒はすべてデタラメ創作物語です。古代人のウソが千年後の現代人にまでウソを語らせています。


×「元善光寺縁起」(元善光寺HPより引用)
【元善光寺は、今から約千四百年前 推古天皇十年に、本多善光公によって開かれました。

 御本尊の一光(いっこう)三尊(さんぞん)阿弥陀如来様は、お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現せられ、欽明天皇の御代に百済国からわが国へ渡ってこられましたが、蘇我氏と物部氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。 本多善光公は信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時 難波の堀江で宿命により一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里にお連れし 清めた臼の上に御尊像を安置し奉ったのが当山の起源です。

 臼からは光明がさして光り輝き「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっております。当地を座光寺と称するのもこの縁に因るものといわれております。 その後四十一年間を過ぎ、皇極天皇二年に仏勅によって一光三尊阿弥陀如来様の御尊像が芋井の里(現在の長野市)に遷られる際に「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来りて衆生を化益(けやく)せん」との御誓願を御本尊様が残され、この時に授かった霊木をもとにして善光公自ら一刀三礼にて 御本尊様と同じ大きさの一光三尊仏の御尊像を彫られた上で この地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになりました。

 そもそも元善光寺の名は本多善光公の名に基づき、元善光寺の元は本元の意を表し、御詠歌の「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来より元善光寺と長野市善光寺の両方お詣りしなければ片詣りと云われております。】


 「白髭神社」はこれまで何度も取り上げています。繰り返しになりますが、日本全国「白」の多くは「シ・オ=山・裾」 の意です。下伊那の「白髭神社」、総本宮の琵琶湖の「白鬚神社/白鬚神社」も例外ではありません。

◎縄文語:「白髭(神社)」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石河原」
or「シ・オ・ペ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」


 「塩」「親王」「新皇」もほとんど「山裾」の意です。「塩尻」は「シ・ウテュ=山の・間」です。

 余談ですが、「琵琶湖」は「ピ・ワ=石の・岸」の意です。「ビワに似ているから」などとこじつけてはいけません。

 白髭神社の西側に”蛇行する小川”があり、その西側が「駒場」の地名となっています。これも何度も登場している地名です。”馬”は関係ありません。

◎縄文語:「駒場」=「コ・マ・パ」=「湾曲する・谷川の・岸」

 地勢と完全に一致しています。


■白髭神社(長野県下伊那郡高森町山吹)  ※山裾の神社。



 飯田市喬木村の「韓郷神社」の名も朝鮮半島由来ではありません。縄文語地名由来です。ただ、朝鮮半島由来の人々によってこじつけ命名されたということは容易に推察できます。

◎縄文語:「韓郷(神社)」=「カ・コッネ・イ」=「曲がっている・谷である・ところ」

 「韓郷神社」前を流れる小川川の地勢です。上流が蛇行を繰り返す川です。この用法は奈良の「軽」の地のほか、各地で見られます。


■韓郷神社(飯田市喬木村) ※目の前を蛇行する小川川が流れる。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[愛知県]設楽・旗頭山古墳群・籰繰神社・久麻久神社・唐土神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新城・設楽」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【新城はもと、三河国設楽郡だったところである。
 設楽とは相当むつかしい読みの地名であるが、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみると、この設楽または志楽(したら、シラク)という地は丹後(京都府)の加佐郡や、それからまた武蔵(埼玉県)の新羅郡だったところにもあったものだった。もちろん、『朝鮮の国名に因める名詞考』にのっているのは、それが古代朝鮮三国の一国であった新羅の転訛したものであるから、ということはいうまでもない。
 そのことからまた、三河の設楽神・志多良神ということも出ているが、そうしてみると、三河の設楽郡とは、もと新羅系渡来人が住んだことからおこったものだったにちがいない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「設楽」=「シテュ・オロ」=「大きな峰・のところ」
◎縄文語:「新羅/志楽」=「シ・オ・ケ(orシロケ)」=「山・裾・のところ(山裾)」

 地勢の見地から「設楽=大きな峰のところ」が「新羅=山裾」なのは当然です。山峡の三河国設楽郡、丹後国加佐郡は言うに及ばず、武蔵の新羅郡も武蔵野台地の突端です。

 基本的に日本の地名で「朝鮮の国名に因める」地名由来はありません。なぜなら、朝鮮半島南部も日本と同じ縄文語(アイヌ語)圏で、同一地勢であれば、同一地名があるのは当然だからです。

 厳密に言えば、朝鮮半島に関係あるのは、地名の「漢字表記」です。つまり、”朝鮮半島系渡来人が朝鮮半島にこじつけた漢字を縄文語地名に充てた”ということです。記紀風土記を見るに、予め日本の歴史の改竄を目論んで漢字を充てた地名が多分に含まれる可能性が大いにあります。

 日本の歴史は往々にしてこのような解釈が跋扈していますが、完全に間違いです。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「旗頭山古墳群」について(『毎日新聞』(1971/2/4)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【旗頭山古墳群は、旗頭山の尾根伝いに、石ばかりで築いた積石古墳と石と土の半積石塚古墳が三十一基、南・北の山ろくに普通の円墳が十七基ある。ほとんどが直径約一〇メートル、高さ約七五センチの小さな古墳だが、同じ様式の古墳は朝鮮半島に多いことから、朝鮮からの帰化人のものと推定されている。
 昭和二十七年四月、明治大学考古学研究室が頂上付近の三基を発掘調査し、うち一基から朝鮮特有の双墓が、また各古墳から玉類、鉄やじり、土器が発見された。出土品などから飛鳥・白鳳時代(六世紀末~八世紀初頭)の墓と推定したが、積石古墳の群集は日本では珍しく、三〇年八月、新城市は遺跡に指定した。】

○「旗頭山古墳群」について(『毎日新聞』(1971/2/4)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この形式は、その後の調べで朝鮮(高句麗時代)から大陸において発達した一つの墓制で、ソウル東北一〇〇キロの江原道春川付近に多いものであることもはっきりした。】

○「旗頭山古墳群」について(『尾張・三河の古代文化』(座談会:伊藤秋男)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【旗頭山古墳の分布ですが、尾根に一線をなしてずっと続いていますね。あれば間違いなく朝鮮系です。・・・・・
 高句麗の問題で発言しましたのは、いわゆる高句麗の古墳の分布のあり方が、尾根にはあまりないんです。つまり、河岸段丘に平面的に分布するわけです。かえって新羅とか加耶の古墳の方が尾根に一線をなして連なっているのですが、旗頭山はまさにそれです。】

×「旗頭山古墳群」について(『尾張・三河の古代文化』(座談会:中西光夫)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【現時点では、高句麗形式の積石の墓制といわれながらも、その渡来集団ないし、その末裔の墓域とする論証史料・文献はありませんけれども、旗頭山と呼ばれるのは、古く秦氏、服部氏等渡来人系の地名ではないかという地名考証と、それからすぐ山の下から見えるところに、籰繰(わくぐり)神社というのが豊川の右岸にありますが、これは機織と関連のある神様と言われています。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「旗頭(山)」=「ハッタ・カ・シリ」=「淵の・ほとりの・山」
=水辺の山
◎縄文語:「籰繰(神社)」=「ワッカ・キリ」=「水の・山」=水辺の山

 漢字表記にこじつけた地名考証はまったくのデタラメなので一切参考になりません。「旗頭山」と「籰繰(神社)」は同義で、「水辺の山=豊川、あるいはその支流の岸辺の山」の意です。

 繰り返しになりますが「秦氏」「服部」の語源は縄文語地名の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」です。彼らが活躍するのは”水辺”と決まっています。

 「機織り」の語源も同様に「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」で、これが「籰繰神社=水辺の山」と「機織りの神様」を結びつけています。いずれも「籰繰神社」所在地の地勢を表現したもので、実際は「機織り」とはまったく関係ありません。

◎「ハタのつく地名」≠「秦氏/服部氏」≠「新羅系渡来人」≠「機織り」

 です。これらをイコールで結ぶと、もれなく歴史の捏造につながります。

 旗頭山古墳群が北方系と南方系の両方の特徴を備えているのは、百済王族、高句麗などの北方系の人々が朝鮮半島南部を経て日本にたどり着いているからで、なんら不思議なことではありません。日本と朝鮮半島南部は縄文語を共有する同一文化圏で、太古から日常的に交流があったと考えるのが自然です。その南方系の民族が北方系の民族を日本に引き入れたのですから、日本に土着してからも南北が入り交じることになるのです。

 ただし、大和の中枢は六~七世紀にかけて北方系に取って代られていて、それはちょうど旗頭山古墳の築造時期とも重なります。旗頭山古墳は大和からなんらかの影響を受けたのかもしれません。大和の地方支配が積極的になるのはその頃からです。


 余談ですが、この地域に流れる「豊川」はもともと下流の地名です。「豊=豊かな土地」の意だとよく聞きますが、まったく違います。

◎縄文語:「豊」=「ト・ヤ」=「海(or湖沼)の・岸」

 これが日本全国「豊」を冠する地名の地勢です。


■旗頭山、籰繰神社 ※いずれも「水辺の山」。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐土神社」について(『毎日新聞』(1971/2/4)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
小畑の畑といい、私はそこに甲斐でみたのと同じ新羅系のもののはずである、唐土神社があるのが何となく奇異にも思われておもしろかった。
 というのは、いま高句麗系といわれる典型的な積石塚古墳(旗頭山古墳群)をみたばかりだったからである。】

×「熊来郷・久麻久神社」について(『尾張・三河の古代文化』(座談会:上田正昭)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『和名抄』を見ておりましたら、幡豆郷に「能束」郷と書いている写本がある。ところが別の伝えでは「熊来」郷とかいてある。<中略>
 『延喜式』にははっきり久麻久神社二座と書いてあるわけで、「能束」郷と書いている写本はあきらかに誤写だと思います。やはり「熊来」郷でしょう。史料にも「熊来明神」とあります。これは能登の調査の体験から言っても、高句麗系熊来と関係あるかもしれないという見当をつけて、調査におもむきました。

×「熊来郷」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【熊来とは高麗来ということで、久麻久神社の久麻久というのもそれからきたものだ。というわけなのである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「久麻久(神社)」=「クマ・ケ」=「横に平べったい山・のところ」

 「”久麻久神社””熊来””高麗来”の意だ!」 と自信満々に書かれると本当にガックリきます。そんな訳ありません。
 石川県の「熊木」も、紀伊の「熊野本宮大社」も「横に平べったい山」の意です。決して「高麗来」という意ではありません!
 

■久麻久神社(正面の山裾)※横に平べったい山のところ。
■熊木川河口(石川県) ※横に平べったい峰の川口。

■熊野本宮大社対岸の峰 ※横に平べったい山。



 「小畑」も「唐土神社」も地名由来は縄文語です。「新羅国」は関係ありません。

◎縄文語:「小畑」=「オン・ハッタ」=「年老いた・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「唐土(神社)」=「カ・テューテュ」=「曲がっている、巻いている・出崎」


 「小畑」の「年老いた淵」というのは「古くて消えかかっている水辺」という意です。「唐土神社」は「峰が折れ曲がっている様」を指します。


■唐土神社 ※曲がっている、巻いている出崎。


 甲斐の「唐土神社」は「とうど/とうと」と読みます。いずれも川沿いにあり、いくつかは山裾です。地勢から察するに以下の解釈が可能です。

◎縄文語:「唐土(とうと/とうど神社)」
=「テューテュ」=「出崎」

or「タンチャ」=「こちら岸」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十四回 漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~縄文語で「ヤワタ=ヤハタ」「ハチマン」はすべて「水辺」の表現!八幡神などいない!【愛知県】秦氏族・幡太・服部・和太・和田~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三河の秦氏族」について(『静岡県史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【上国の文化が西より来たとすれば、我が秦氏族の事についても先ず西隣を一顧すべきであろう。三河国渥美郡には幡太・和太の両郷がある。幡太は今の豊橋市西南部花田で、羽田本郷という地が存在する。〈いまの〉和地は和太の誤で、伊良湖半島の西部、今の泉村・福江町・伊良湖岬村であろうという。
 次に同国八名郡に和太・服部の両郷がある。和太は今の石巻村和田を中心とする一郷の地で、ここは本坂峠の西口姫街道に沿うている。服部は今の大野村・山吉田村・舟着村吉川・乗本等の地で、三ヶ日町岡本織殿と関係がある。前の両郷は旧浜名郡の南部と交通し、後の両郷の一は本坂峠より一は宇利峠より、旧浜名郡の北部即ち現引佐郡三ヶ日町方面と交通したであろうが、時代の順よりいわば北の交通路の一たる後の姫街道が先ず通じたと考えられる。】

×「宇佐八幡」について(『鍛冶の神と秦氏集団』大野健太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【豊前国 八幡神とはいわゆる宇佐八幡宮である。八幡神はヤハタの神である。ヤは多いという意味をもつ集合体を表現する言葉である。ハタは秦族の族称を示すものであって、秦族が共通して信仰する神、すなわち秦族のすべてが信仰する神である。秦族は明らかなように、古代大陸から渡来した氏族である。いわば〈宇佐八幡宮は〉秦氏の総氏神である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「幡太/秦氏/服部」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「和太/和田」=「ワッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 「ハッタ」=「ワッタ」です。つまり「幡太/秦氏/服部」=「和太/和田」です。

 これが「ハタ」と「ワダ」の関係で、縄文語地名由来です。渡来人は関係ありません。「秦」「波田」「波多」「畑」「畠」「幡」「服部」「和田」「和太」等、その発音から日本全国の「水辺」と「秦氏」をつなげば、「秦氏」が大活躍するのは当然です。ただし、それは明らかな歴史の捏造です。

 日本の神々も概して大嘘つきですが、八幡神はその筆頭です。もちろん秦氏の神ではありません。

◎縄文語:「ヤハタ」=「ヤン・ハッタ」=「陸岸の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「ヤワタ」=「ヤン・ワッタ」=「陸岸の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「ハチマン」=「ペッチャ」=「川端」

 これが「八幡」が「ヤハタ/ヤワタ/ハチマン」と読まれる理由です。
 「宇佐八幡」は「内陸の淵」「川端」です。日本全国の「八幡神社」は川端にあります。(※詳しくは『日出ずる国のエラーコラム[総集編]』参照)

 「幡太郷」の比定地は、豊橋市西南部「花田」「羽田本郷」とあります。豊川河口付近ですから、当然「水辺」です。

◎縄文語:「花田」=「パナ・チャ」=「川下の・岸」
◎縄文語:「(羽田)本郷」=「ポン・コッ」=「小さな・窪地、谷」

 「和太郷」の比定地は、旧「石巻村和田」です。現在「石巻本町」という地名があります。

◎縄文語:「石巻/本町」=「エテュノッ・マ・ケ/ポン・マーテュ」=「岬の・谷水・のところ/小さな・波打ち際」

 「石巻本町」の和田城跡の所在地は「嵯峨」で、小河川沿いです。南に隣接して「御所」「的場」の地名があります。そして浜名湖と結ぶ峠は「本坂峠」です。

◎縄文語:「本坂(峠)」=「モ・ト・サ・カ」=「小さな・湖沼の・浜・のほとり」
◎縄文語:「嵯峨」=「サ・カ」=「浜・のほとり」
◎縄文語:「御所」=「コッ・チャ」=「窪地の・岸」
◎縄文語:「的場」=「マーテュ・パ」=「波打ち際の・外れ」


■和田郷比定地の石巻本町 ※和田城周辺が水辺の解釈で一致。



 「服部郷」は広範囲にわたるので、地勢との一致を探るのは難しいのですが、地名に「水辺」と関係する解釈が見られます。いずれも豊川、宇連川支流沿いです。「服部郷」の比定地の地名に、「山吉田村」「舟着村吉川」「乗本」があります。 「乗本」には「乗本上林(のりもとかんばやし)」の地名があります。

◎縄文語:「山吉田」=「ヤマ・ヤチ・タ」=「山の・湿地・の方」
◎縄文語:「舟着(村)吉(川)」=「ペナ・チャ・ケ(村)ヤチ(川」=「川上の・岸・のところ(村)湿地(川
◎縄文語:「乗本/上林」=「ノ・リー・モ・オタ/カン・パ・ヤ・ウシ」=「よい・高い・小さな・砂浜/上にある・岬の・岸・のところ」※「乗本」=「上林」


 『日本の中の朝鮮文化』に、三河の「幡太郷」「和太郷」に関連して、常陸国那珂郡「幡田郷」の「虎塚壁画古墳」が紹介されて「秦氏の墓」認定されていますが、残念ながら信憑性はありません。

◎縄文語:「虎塚(古墳)」=「トラィ・テュ」=「湿地の水たまりの・小山」

 です。これが「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」とも呼ばれていて、秦氏と結びつけられているのです。


■虎塚古墳 ※湿地の水たまりの小山。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十五回 漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛知県】唐池・空池・唐土神社・駒場町~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三河の秦氏族」について(『静岡県史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【豊田市駒場町に住む地方史研究家<中略>からの手紙によると、八名郡や碧海郡には秦氏族が築いたはずの「韓池」ということにほかならない「唐池(からいけ)」や「空池(からいけ)」があるとのことだった<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「唐池/空池」=「カ・エンコ」=「曲がっている・岬」

 これは、当該地の「丘陵」の地勢を指していて、決して秦氏が築いた「池」のことではありません。


■唐池(豊田市西岡町)※曲がっている岬。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■空池(豊田市若林西町)※曲がっている岬。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、既出ですが、新城市の「唐土(からつち)神社」も同じ地勢です。

◎縄文語:「唐土(神社)」=「カ・テューテュ」=「曲がっている・出崎」


■唐土神社(新城市小畑)※曲がっている出崎。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 こじつけられそうなので、言われる前に否定しておきますが、豊田市の「駒場町」は朝鮮半島の「高麗」とはまったく関係ありません。

◎縄文語:「駒場」=「コ・マ・パ」=「湾曲する・谷川の・岸」

 地勢を見れば、一目瞭然です。日本全国「駒」「狛」「高麗」は「湾曲する谷川」あるいは「湾曲する山(丸山)」の意です。ほか、「鴨」「蒲生」なども同解釈が可能な場合があります。


■駒場町(豊田市)※湾曲する谷川の岸。





騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十六回 漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛知県】渥美郡・阿志神社和太郷・畠神社・福江・和地~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「渥美郡」について(『大草史』渥美郡田原町大草史編集委員会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【渥美郡とよばれるようになったのは、古代この地方の豪族であった渥美氏の先祖の姓阿曇から出ていると思われる。渥美氏の先祖は阿曇連であって、大化改新以前から、際しを司る中臣部、紙への供物を司る忌部、武事を司る大久米部・物部らと並んで、海事を司る海部であった。・・・・・・
 三河における阿曇氏は古くから渥美郡の豪族として栄えてきたもので、山田の泉福寺を建立したといわれる渥美重国が、天平年間(七四二)には国造級であったと考えられる。】

×「阿志神社」について(『阿志神社と帰化氏族の開発』那賀山乙巳文 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(愛知県田原町大字に)阿志神社という古社があります。<中略>
 この神社は、一千年前の延喜時代(九〇一~九二二)に、渥美郡唯一の式内社として知られていた神社であります。<中略>
 浜松の先学内だ旭氏が私の調査に関連して、阿志神社について意見を述べられました。<中略>氏は、この神社は帰化系の氏族の使主阿智の系統が、奉斎したものであろうといわれました。
「それは大和国高市郡檜前にある於美阿志神社である。この神社は延喜式に列し、於美阿志は使主阿智というに当り、檜前忌寸の祖神である。使主阿智は朝鮮の百済よりわが国に移住した集団の長であり、大和の檜前に地をもらい、ここに居住した。これによって、その子孫が檜前忌寸となった。<中略>」】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 「アズミ」については、長野県の安曇野のところで取り上げましたが、軽くおさらいします。

◎縄文語:「アズミ」
=「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

or「アッ・テュ・モィ」=「一方の・岬の・入り江」
or「アッ・チャ・モィ」=「一方の・岸の・入り江」
or「アッ・チャ・メ」=「一方の・岸の・泉」

 まず、縄文語と漢字表記は一意で結びつけられていませんので、各地の地勢や周辺地名との整合性を見ながら解釈を選択しなければなりません。
 渥美半島を考慮すると、伊勢湾、知多半島もありますから、やはり「一方の岬の入り江」と解釈するのがふさわしく思えます。
 長野の安曇野も「一方の岬の入り江」の意で、隣接する盆地との対比表現となっています。アイヌ語の「入り江」は内陸の同様の地勢を指します。

 このありきたりな縄文語地名を結んで、阿曇氏の活躍が語られるのですから、誇大表現になっていることは確実です。渥美氏と阿曇氏の出自が本当に重なるかどうかも疑わなければなりません。

 百済系渡来人とされる阿智使主が祭られるのは決まって「岸辺」です。

◎縄文語:「阿志(神社)/阿智(使主)」=「アッ・チャ」=「一方の・岸(対・岸)」

 渥美半島の場合は「アッ・テュ=一方の・岬」とも考えられます。これもありきたりな地勢を結んで渡来人を活躍させています。古文献が語らなくても、後世の人々が古文献に倣って漢字表記にこじつけた説を解いています。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「和地・和太」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(渥美氏の)先祖が新羅・加耶系渡来人である秦氏族の一派であったことはまちがいなさそうである。それはかれらの「着陸した」ところがほかならぬ「渥美半島の和地」であった、ということからも容易に推しはかることができる。
 ここにいう「和地」とは、さきにみた『静岡県史』にもあるように「和太の誤で」、『和名抄』にある渥美郡「幡多郷」とならぶ「和太郷」のことなのである。それがどうして「和地」と誤ったのかはよくわからないが、多分、国内神名帳にある「和知明神」からそうなったのではないかと思われる。なお和太は、日本語では和太(わた)であるが、朝鮮語では和太(はた[ち])である。
 渥美半島の和太郷はもと福江町、いまは渥美町となっているところがその中心であった。同町の福江には、いま畠(はた)神社がある。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「和地」=「ウォ・チャ」=「水の・岸」
◎縄文語:「和太」=「ワッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 「和地」が「和太」の誤表記だとありますが、そうも言い切れません。いずれも縄文語の「水辺」の解釈が可能です。和太郷の中心地が福江だとすれば、現在の和地地域とは異なります。福江は三河湾の渥美湾、和地は太平洋側です。

 縄文語では「ワッタ=ハッタですから、「和太」地域であったところに「畠神社」があるのは不自然ではありません。ただし、あくまで縄文語地名由来なので秦氏と結びつけるのは根拠がありません。

◎縄文語:「畠(神社)」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 「福江」地域を貫流するのは「免々田(めめだ) 川」です。

◎縄文語:「福江」=「フンキ・エ」=「浜の一段高くなっているところの・頭」
◎縄文語:「免々田(川)」
=「メ・メ・チャ」=「泉・泉・の岸」
=たくさんの泉の岸
or「メ・メ・タ」=「泉・泉・の方」=たくさんの泉の方

 一帯は免々田川の河口付近の低地ですから、湿地が多いのは当然です。

 現在の「和地町」には「三島神社」があります。所在地名は「上大道」です。隣接して「北屋敷」「地蔵田」「瀬戸山」地区があります。

◎縄文語:「三島(神社)」=「メ・サマ」=「泉・のほとり」
◎縄文語:「(上)大道」=「オオ・メ・チャ」=「大きな・泉の・岸」
◎縄文語:「(北)屋敷」=「ヤチ・ケ」=「湿地・のところ」
◎縄文語:「地蔵田」=「チゥ・サ・タ」=「水流、水脈・のほとり・の方」
◎縄文語:「瀬戸山」=「シアン・ト・ヤマ」=「大きな・湖沼の・山」

 つまり、「和太」も「和地」も池沼のある湿地帯だったということです。

 日本の歴史を漢字表記だけで解釈すると必ず間違った答えが導き出されます。それが古代人がしかけた罠です。


■「和太/和地郷」比定地の田原市福江、和地周辺(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

 


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十七回 漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【愛知県】熱田神宮・草薙剣~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「熱田神宮/草薙剣」について(『愛知県の歴史』塚本学、新井喜久夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【まず、この剣が史上に姿をあらわすのは、ぐっとあたらしく、天智七年(六六八)、道行という僧が草薙剣をぬすんで新羅へ逃げようとしたけれども、風雨にまよって帰ったという記事が最初である(『日本書紀』)。つぎは朱鳥元年(六八六)、天武天皇が病気をうらなったところ、草薙剣のたたりとわかったので、いそぎ尾張の熱田社に送ったとあるものである(『日本書紀』)。
 いずれも、草薙剣がもと熱田社にあったということを証明してはいないが、当時、草薙剣がかなり著名な剣であったことはまちがいない。それは尾張氏の女が継体天皇と婚をむすんだこと、その腹から生まれた安閑・宣化天皇があいついで即位したことなど、尾張氏にたいへん有利な情勢が六~七世紀の大和朝廷の内部におこっており、その尾張氏の奉祀する神剣もまた、それにつれて著名なものとして知られるようになっていったのである。
 倭建命伝説は六世紀に一度まとめられ、『旧辞』のうちにふくまれることはさきにのべた。その後、『古事記』・『日本書紀』の編さんのはじまった天武朝以降に、『旧辞』の原型にさまざまな修飾がつけくわえられ、このとき倭建命伝説も総仕上げがおこなわれた。伊勢神宮の剣をあたえられることによって活躍し、その剣を手放すことによって破滅するという構想は、伊勢神宮のがわからくわえられた装飾であるという。当時、著名であった草薙の剣も一役かわされて、もと伊勢神宮の剣であったというようにつくりかえられているのである。いずれにせよ、古くから尾張氏のまつる熱田社の剣が倭建命伝説に組みこまれたのはそう古いことではない。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「熱田(神宮)」=「アッ・テュ・タ」=「一方の・岬・の方」
◎縄文語:「草薙(剣)」=「ク・ノッケ」=「対岸の・岬」

 「熱田神宮」と「草薙剣」は同義で、縄文語によくみられる同じ地勢の言い換え表現となっています。ここでも風土記編纂等のために収集された縄文語地名にこじつけて物語が創作された気配が見て取れます 。

 日本全国の神社の由緒は例外なく上代日本語の流れをくむ日本語で書かれているので、北方系渡来人の影響下でもうけられたことは明らかです。そこには先住民が話していたであろう縄文語の解釈はかけらも見当たりません。とすれば、熱田神宮の由緒が創作されたのも、大和が北方系勢力の手に落ちた六~七世紀以降である可能性が高いということになります。

 『愛知県の歴史』にヤマトタケルの物語が六世紀以降の創作とありますが、妥当な見解です。
 ただ、”継体天皇に尾張氏の女が嫁ぎ、その子の安閑、宣化天皇が即位したことにより、尾張氏に有利な情勢が続いた”というのは筆者の見解とは異なります。『日本書紀』には、『百済本紀』を引用して「継体天皇二十五年、日本の天皇とその皇子ら全員が死んだと聞いた」とあり、これは「他の本と崩御の年の辻褄が合わない」との記述があります。ここで継体系の血筋が途絶えているのであれば、尾張氏の影響は途絶えたことになります。

 筆者は、この周辺で史実の隠蔽があり、継体天皇の皇子らに接続する第三十代敏達天皇あたりで、大和中枢が北方系民族に取って代わられていると考えています。後ろ盾となったのは天皇家と血縁を結んだ蘇我氏ですが、蘇我氏と天皇家の立場が逆だった可能性もあります。いずれにせよ、敏達天皇の甥御である聖徳太子あたりから日本の支配体制が急に整えられていくのはそういった理由です。高松塚古墳壁画の高句麗系の衣裳が如実に示しています。
 
 「草薙の剣」は、神話の中ではスサノオが退治した八岐大蛇の尾から出てきていますが、この剣の別名は「天叢雲剣」です。この剣と同名の「天村雲」と言えば、物部氏、尾張氏の祖であるニギハヤヒの孫です。筆者は、八岐大蛇が大和から出雲に出張った大和の役職者であったと考えていますが、それを斬った後に「天叢雲剣(天村雲)」が出てきたということで、スサノオを大和に手引きしたのはこの「天村雲」ではないかと疑っています。そしてスサノオが物部氏の大和を制圧し、日本初の記録に残る大王「帥升」となる訳です。この辺りは第二十四回コラムに詳しく書いています。

 スサノオに比定した「帥升」が後漢に朝貢するのは西暦一〇七年ですから、北方系渡来人が実権を握るまでは四~五百年の隔たりがあることになります。現代に当てはめれば、戦国時代になるくらい昔のことです。

 筆者は、神話から欠史八代、三百歳を越える武内宿禰が仕えたという仁徳天皇あたりまでは、主に邪馬台国を隠蔽するために物語が創作された時代と考えていますが、この周辺には”天皇の神格化”やそのとりまきである”渡来人の出自を装飾”するための内容もふんだんに盛り込まれています。
 これは北方系渡来人の方針に従って創作されたものです。彼らが大和王権の中枢を握るのは、蘇我氏本家を滅ぼした乙巳の変(大化改新)以降ですから、これらの物語が創作されたのも七世紀であると考えるのが妥当です。

 ヤマトタケルの地方遠征も地方支配を正当化するための創作物語と考えられます。漢字表記にこじつけて「草を払ったから草薙剣」「賊を焼き殺したから焼津」などとバカなことを言っているような物語を真に受けてはいけません。

 「草薙剣」を縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「草薙(剣)」=「ケ・ナゥケ」=「ピカピカ光る・木かぎ」

 これは銅剣や銅戈を指したのではないでしょうか。
 そして、大昔の記録に残っていたこの「草薙剣」と、後世風土記編纂のために収集した「ク・ノッケ=対岸の・岬」という熱田台地の地名の発音がたまたま似ていたので、これが結びつけられて物語が創作された。あくまで想像の域は出ないのですが、他の記紀風土記の神話、渡来人活躍物語も同様の手法で創作されています。

  「熱田神宮」の西方の「白鳥古墳(六世紀初頭)」にはヤマトタケルの陵墓伝説がありますが、築造時期の辻褄がまったく合いません。「白鳥陵」の伝承が方々にあるのも縄文語地名にこじつけた結果です。解釈は下記いずれかです。

◎縄文語:「白鳥」
=「シ・オ・タオリ」=「大地の・端の・川岸の高所」
or「シ・オ・ト・オロ」=「山・裾の・湖沼・のところ」

 アイヌ語の「シ」には「山」「大地」いずれの意味もあります。熱田の「白鳥古墳」は「熱田台地の裾の古墳」の意です。
 他地域の陵墓伝承も含めて見てみます。

■能褒野王塚古墳(三重県亀山市能褒野町)四世紀末築造 ※大地の端の川岸の高所。


■大和国琴弾原白鳥陵(奈良県御所市冨田)※山裾の湖沼のところ。所在地の富田は「トマ・タ=湿地の・方」。


■河内国旧市邑白鳥陵古墳(大阪府羽曳野市軽里)※羽曳野丘陵の端。石川支流沿いの高台。


■熱田神宮周辺地名の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 いずれも、縄文語と地勢が完全に一致しています。

 また、「熱田神宮」の北西には断夫山古墳(五世紀末~六世紀前半)があり、ヤマトタケルの妃となった宮簀媛命の陵墓伝承があります。これも縄文語解釈可能で、周辺地名の解釈や地勢とも一致します。

◎縄文語:「断夫山(古墳)」=「タン・プッ・サン」=「こちらの・川口の・出崎」
◎縄文語:「尾頭(町)」=「ペト」=「川口」
◎縄文語:「花(町)」=「パナ」=「川下」

 白鳥古墳と断夫山古墳の間には「旗屋」の地名があります。「秦氏」にこじつけられる前に否定しておきます。

◎縄文語:「旗屋」=「ハッタ・ヤ」=「淵、水が深くよどんでいるところの・陸岸」

 古墳名や周辺地名から、この地域での”縄文語”使用は、少なくとも六世紀前半までは可能性がありそうです。しかし、ヤマトタケル伝承は言うまでも無く”上代日本語”で書かれています。伝承の創作が七世紀だとしても、百年の間に言語が完全に切り替わるのは考えられませんから、必然的に南方系先住民の縄文語と北方系渡来人の上代日本語の二つの言語が並立していた可能性が高くなります。

 熱田神社の由緒やヤマトタケル伝承は、縄文語解釈を露も反映していません。  
 このように各地の神社や、記紀風土記の神話、渡来人物語は、渡来人の出自の正当化、活躍を語ると同時に、縄文語地名の本来の意味の抹殺を目的としている可能性が大きいと言えます。それは北方系渡来勢力の徹底した日本支配政策の一環です。

 以下、参考までに神社仏閣、渡来人の代表的な縄文語解釈です。

【参考】神社の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社、寺)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「新羅神社」=「シ・オ・ケ=山・裾・のところ」
◎縄文語:「高麗神社」=「コ・マ」=「湾曲した・谷川」

【参考】初期寺社の縄文語解釈
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。

【参考】主な渡来人の縄文語解釈
◎縄文語:「秦氏/服部/機織り」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=「ケナシ・ケ(城崎温泉)」=「川端の木原・のところ」
◎縄文語:「阿知使主」=「アッチャ=対岸」
◎縄文語:「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」
=「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」= 立石岬/敦賀半島



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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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