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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百四十一回~第二百五十回】

第二百四十一回第二百四十二回第二百四十三回第二百四十四回第二百四十五回第二百四十六回第二百四十七回第二百四十八回第二百四十九回第二百五十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]湖南/瀬田の唐橋・矢橋・草津・唐崎・大津・錦・錦織・粟津・近江(淡海)・琵琶湖~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「瀬田の唐橋・唐崎」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【今村鞆氏の「朝鮮の国名に因める名詞考」というのを手に入れたが、瀬田の唐橋について、「東海道名所図会」などを引き、こう書かれているのがみえる。
「或記に曰う唐人此橋を通るとき、外国にも亦比類無し、小国には過分なりと賞して、広興記にも書記しけるといい伝う」─ここにいう「唐人」とはどこの国の人間をさしたものかわからないが、また、こうも書かれている。「此名のユワレに付ては韓国様(からくによう)の架橋なり、又からみ橋の略なりとの説あるも、何れも信憑すべからず。唐崎の如く半島関係の縁由なるべし」
 すなわち、瀬田の唐橋は、ただ単に「唐国様」といったものではなくて、<中略>近くの「唐崎」とおなじように、「半島」つまり朝鮮との関係によってできたものだ、というのである。】

■■■ 縄文語解説 ■■■
◎縄文語:「瀬田」=「セ・チャ」=「広い・岸」

◎縄文語:「唐橋」 =「カリ・パ・ウシ」=「通う・岬・のところ」 (瀬田川の中州)※琵琶湖の渡し場。

 瀬田の唐橋は半島系渡来人が造ったことが由来ではありません。そもそも「橋」ではありません。この周辺の地名はほぼ縄文語解釈可能なので、唐橋だけが半島由来という訳にはいきません。
 付近には「琵琶湖の渡し場」がありました。

◎縄文語:「草津」=「クサ・チャ」=「対岸へ舟で運ぶ・岸」(琵琶湖の渡し場)
◎縄文語:「矢橋」=「ヤン・パ・ウシ」=「陸に上がる・岬・ところ」(琵琶湖の渡し場)

 そして、「瀬田」「大津」「滋賀郡/志賀の里」はまったく同じ意味です。

◎縄文語:「大津」=「オオ・チャ」=「大きな・岸」
◎縄文語:「瀬田」=「セ・チャ」=「広い・岸」
◎縄文語:「滋賀郡/志賀の里」=「シ・カ」=「大きな・岸」
(現大津市)

 アイヌ語の「カ」は、地勢の名詞について「~のほとり、岸、上」などを表すのですが、各地の地名を見ると「カ」単体で「岸/ほとり」の意で使われている可能性があります。とすれば「カ・ラ=岸の・低いところ」 「カ・ヤ=カ・ワ=ほとりの・岸、縁」「(~ヶ浦)カ・ウン・ラ=岸・にある・低いところ」の解釈が可能になります。
 糸魚川など、川がない「川」のつく地名も「カ・ワ=ほとりの・岸」と解釈すれば辻褄が合います。日本語の「側(かわ/がわ)」の語源かもしれません。朝鮮半島南部の「加耶」「加羅」の地名の解釈も簡単になります。日本と同じ縄文語文化圏だったということです。

 とすれば、近隣の「唐崎」は地勢由来と考えられるのですが、日吉神社のお旅所ともなっていることから、「折り返し地点」の意も含まれる可能性があります。

◎縄文語:「唐崎」 =「カ・サ・ケ」=「曲がっている・浜の・ところ」
or「カリ・サケ」=「通うorまわる・折り返し」※折り返し地点。日吉神社のお旅所。

 ついでに、国名の「近江/淡海」、「琵琶湖」、近隣の「錦」「錦織」「粟津」も調べてみます。「錦」は機織りに結びつけて語られる説が多いですが、どこまで真実か不明です。

◎縄文語:「琵琶(湖)」=「ピ・ワ」=「石ころの・岸」 (琵琶湖の岸辺)
◎縄文語:「近江/淡海」=「アゥ・メ」=「枝分かれた・泉」
(琵琶湖)
◎(おまけ)縄文語:「遠江(遠淡海)」=「テューテュ・モィ」=「出崎の・入り江」
(浜名湖)
※「近い/遠い淡水湖」を由来とするような漢字こじつけ説はまったくのデタラメです。
◎縄文語:「錦」=「ニセィ・ケ」=「川岸の崖・のところ」
(琵琶湖の岸辺の崖)
◎縄文語:「錦織」=「ニセィカ・オロ」=「川岸の崖の上・のところ」 (琵琶湖に注ぐ河川の岸辺の崖)
◎縄文語:「粟津」=「アゥ・チャ」=「隣の・岸」 (琵琶湖の岸辺)


■琵琶湖周辺(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]白鬚神社・猿田彦・比良明神・琵琶湖・猿女君・天鈿女・大田命~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白鬚神社・猿田彦・比良明神」について(『石山寺』近江文化研究会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【良弁は百済系の帰化人の末であり、近江国内の帰化人の経済的文化的基盤とも無関係ではなかったのではなかろうか。
 (良弁に石山寺の地が霊地であることを告げた)伝説中の比良明神は、現在湖の中の大鳥居で観光客に親しまれている白鬚明神であり、本来此の神は帰化人の神であったと考証し、又(東大寺大仏建立時に)黄金を献上した陸奥の国守も帰化族百済王敬福で、これらの間に関連を認める学者もある。】

×「猿田彦」について(白鬚神社公式HPより抜粋)
【御祭神の猿田彦命は、天孫瓊瓊杵尊 降臨の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開きの神として知られている。当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。】

■■■ 縄文語解説 ■■■
◎縄文語:「比良(明神)」=「ピラ」=「土崖」
(石山寺と白鬚神社背後のそれぞれの山)
◎縄文語:「白鬚明神」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
(琵琶湖の岸辺の石ころ)
◎縄文語:「猿田彦(白鬚明神)」 =「サ・タ・ピケゥ」=「沼地・そこにある・石ころ」 (琵琶湖の岸辺の石ころ)
◎縄文語:「琵琶湖」=「ピ・ワ」=「石ころの・岸」 (琵琶湖の石ころの岸辺)

 縄文語解釈を見ると、比良明神は石山寺と白鬚神社背後の山を指しているものと思われます。「ピラ=土崖」などという地勢はどこにでもあるので、同じ地名があるたびに物語を結びつける必要はありません。

 「白鬚神社」、その主祭神である「白鬚明神」、別名「猿田彦」は、いずれも「琵琶湖の岸辺の石ころ」を表現しています。「琵琶湖」自体も同義です。琵琶の形が由来ではありません。

 つまり、もともと白鬚神社の場所に何かしらの信仰があったとすれば、それは先住民による「琵琶湖の岸辺の自然崇拝」です。
 記紀には「国津神の猿田彦が、天津神のニニギを葦原中国に先導した」という神話がありますが、単なる「琵琶湖の岸辺の石」にそんな力はありません。万一、あり得るとすれば、この地を拠点としていた者が「猿田彦」「白鬚」を名乗り、天津神を芦原中国に導いたということでしょうか。白髪や白い鬚は漢字表記に引きずられた結果で、創作です。


■白鬚神社前の琵琶湖の岸 ※「白鬚」「猿田彦」「琵琶湖」は「石の岸辺」の意。この周辺の岸辺には石がごろごろしています。


■石山寺 ※比良明神は単なる「崖」の意。



 また、埼玉県の高麗神社にも白鬚明神が祀られていますが、これも「山裾の石ころ」の意です。所在地の日高市を縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「日高」=「ピタ・カ」=「小石河原の・ほとり」

 となり、白鬚明神の解釈と一致します。この周辺一帯には白鬚神社が点在していますが、これらは「小石河原」に勧請された神様だったということです。高麗神社の場合は「高麗川(コ・マ=湾曲する・谷川)」の岸辺を指していて、こちらももともと渡来人とは関係ありません。周知の通り、後世たくさんの渡来人物語が付加されてしまいました。


■高麗神社 ※湾曲する高麗川のほとり。


■高麗川の小石河原(高麗神社付近) ※小石河原。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「猿女君・天鈿女命・大田命」について
(『白鬚明神と猿田彦命』是沢恭三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
猿田彦命の性格を考える上に、天鈿女命を祖先とする猿女君は、男女を問わず猿女君と云ってその祖先は大田命であると云っている。大田と猿女が猿田彦命の名となったのだとの説もあるが、この大田命は伊勢の地主神として知られ、神話の猿田彦命の裔孫であると云われている。
 (日本各地に多い大田ほか、太田、多田、意富陀など)大田の名の付く都邑は共通してその近くにかなり有名な鉱区の存在する事である。而して更に大田のもつ伝承をたどってゆくと風土記などにも見える通り、多くは渡来の人たちの開発した所の多い事である。<中略>白鬚明神・猿田彦などと深い関連のある大田命、それらを併せて遠く日本の古代に渡来した人々によって開発せられたこの国の歴史を考えて見度いと思っている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「猿女(君)」=「サ・メ」=「湿地の・古い川」
◎縄文語:「(天)鈿女(命)」=「ウッ」=「湿地の古い川」

◎縄文語:「大田(命)」=「オタ」=「砂浜」

  「猿女君」と「天鈿女命」「湿地の古い川」の意で、まったくの同義です。猿田彦と結び付けられてしまったのはその名に「猿=サ=湿地」が共通して含まれているからで、同じ漢字ということもあって物語が創作しやすかったからだと思います。

 「太田命」「砂浜」のことで、日本全国に「オオタ」「オオダ」の地名があるのは、川や海の岸辺に「砂浜」の地勢があるからで、まったく不思議なことではありません。いちいち渡来人を活躍させる必要はなく、大田を名乗る人々を過度に結びつける必要もありません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]湖西/穴太(あのう)・漢人│朝鮮半島/伽耶・加羅・安耶・安羅・安那~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穴太(あのう)・漢人・伽耶・加羅・安耶・安羅・安那」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(滋賀郡の大友郷、錦部郷、古市郷に見られる「漢人(あやびと)」は)のち百済や新羅に併された加耶・加羅系の小国、安耶(安羅・安那)からきたもので、「日本書紀」などではこれを「漢(あや)」「穴(あな)」とも表記したものであった。
 上田正昭氏の「帰化人」にも指摘されている、「応神記」に「穴織」となっているものが「雄略記」には「漢織」となっているそれであるが、この「穴」はいまみた滋賀郡の大友郷にも地名、人名としてみえている。「穴太」「穴太村主」などがそれで、穴太の地名はいまもなおのこっているばかりか、あとでみるように近江にはまだほかにもある。ついでに、ここでちょっとはなしはとぶが、のち長門(山口県)となった中国地方のそれもはじめは「穴門(あなと)」といったもので、これも安耶(安羅・安那)という古代朝鮮国名を負ったものだった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「漢(人)」=「アゥ・ヤ」=「隣の・陸岸」
◎縄文語:「穴」=「アゥ・ナ」=「隣・の方」
◎縄文語:「穴太」=「アゥ・ナ・ホ」=「隣・の方の・尻(岸辺)」
◎縄文語:「伽耶」 =「カ・ヤ」=「ほとりの・岸」
◎縄文語:「加羅」 =「カ・ラ」=「岸の・低いところ」

◎縄文語:「安耶」 =「アゥ・ヤ」=「隣の・陸岸」
◎縄文語:「安羅」 =「アゥ・ラ」=「隣の・低いところ」
◎縄文語:「安那」 =「アゥ・ナ」=「隣・の方」
◎縄文語:「穴門」 =「アゥ・ナ・ト」=「枝分かれた・方の・海」 (瀬戸内海)
※日本海との対比。関門海峡のことではありません。

 縄文語解釈を見て分かるとおり、いずれも世界中どこにでもある地勢です。日本、朝鮮半島南部、中国東夷南蛮は縄文語の共通言語圏です。朝鮮半島南部に同じ地勢、同じ地名があっても何ら不思議はありません。同じ地名だからといってこじつけ物語を創作するとデタラメ歴史ができあがります。日本最古のその記録は言うまでもなく記紀風土記です。

 私見では、「穴太」は「漢」や「安耶」とは関係ありません。「穴太」は、隣接する「坂本」地区、「唐崎」地区の同様、琵琶湖の岸辺を指しています。

◎縄文語:「坂本」 =「サン・カ・モ・オタ」=「出崎の・ほとりの・小さな・砂浜」
◎縄文語:「唐崎」 =「カ・サ・ケ」=「曲がっている・浜の・ところ」
◎縄文語:「穴太」=「アゥ・ナ・ホ」=「隣・の方の・尻(岸辺)」



■穴太地区




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]園城寺(三井寺)・三尾神社・新羅明神[奈良県]東漢氏・阿知使主・飛鳥~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「園城寺(三井寺)」について(wikipedia)
【大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする寺をようやく建立した。壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与える。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。】

×「三尾神社」について(三井寺公式HP)
【太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、 神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが 三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。】

×「新羅善神堂」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【善神堂にある新羅明神は、その寺をのち天台別院として今日のような園城寺とした智証大師円珍が、八五八年の天安二年、中国・唐の留学から帰る途次その船中に出現し、彼の仏法を守るために垂迹したものだと伝えられている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「園城(寺)」=「オン・チゥ」=「古い・水脈」
◎縄文語:「三井寺」=「ミンタ」=「祭場」=「泉」

◎縄文語:「三尾(神社)」=「メ・オ」=「泉の・尻(端)」
◎縄文語:「新羅(明神)」=「シロケ」=「山裾」 ( 長等山のふもと)

 縄文語解釈では、園城寺付近に「古い泉」があったことが分かります。荘園城邑を投げ打ったという創建物語も、霊泉の産湯物語も創作です。

 繰り返しになりますが、「新羅」は「山裾」の意で、園城寺は「山裾の寺」です。「新羅明神」は、この土地の地勢を表す縄文語にこじつけられたものです。「円珍の船中に~」のような物語ももちろんウソです。


■園城寺(三井寺) ※山裾の寺。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「滋賀郡の漢」について(『帰化人の墳墓─滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって─」水野正好 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【滋賀郡の帰化系氏族はいずれも、その出自をひとしく「漢」に求めているのは興味深いことである。大友、錦部村主は坂上氏系図によれば、応神朝に阿智使主に従って来た漢人村主とされ、東漢氏に属するが、同時に同系図に漢人村主とされている高宮、忍海、三味、桑原村主が、神功紀には「新羅草羅城を攻む。時の俘人などは上記四邑の漢人などの始祖」とみえ、新羅よりの帰化人をも漢人とする場合もあるので、系譜上、後漢諸帝に出自を求めてはいても、実際には半島に故地をもつ場合も考えられるのである。かつて、宮地直一博士は大友村主の奉祀する新羅明神を通じて、同氏を新羅系帰化人族と想定されたが、傾聴すべき所説と思われるのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅(明神)」=「シロケ」=「山裾」( 長等山のふもと)
◎縄文語:「漢」=「アゥ・ヤ」=「枝分かれた(隣の)・陸岸」
◎縄文語:「阿智」=「アッチャ」=「一方の・岸」
◎縄文語:「飛鳥」 =「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」

 前述のとおり、三井寺の新羅明神は「山裾」の意で、実際に大友氏が新羅系だったかどうかは不明です。
 縄文語では東漢氏の「漢」と阿智使主の「阿智」は同義で、拠点とした奈良の「飛鳥」も同義で地勢も一致します。

 「近江」の旧称である「淡海(琵琶湖)」も

◎縄文語:「淡海」=「アゥ・メ」=「枝分かれた(隣の)・メ

 です。「漢」「阿智」「飛鳥」と一部意味が重なります。
 もし、この周辺一帯が「琵琶湖の岸辺」という意味で「アゥ・ヤ=枝分かれた(隣の)・陸岸」と呼ばれていたのであれば、「東漢氏」に結びつけて出自を飾るのも頷けます。しかし、推論に推論を重ねたので確証はありません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]湖西/小野・真野・和邇・伊香立・栗原・小松・比良・志賀・蓬莱・八屋戸・堅田・金刀比羅宮・雄琴・仰木・苗鹿~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「小野・真野」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 「古墳時代にはいって、志賀の地は大きく発展したようである。元来、湖西の南半旧滋賀郡一帯では、古代の有力豪族であった小野氏や真野氏の勢力が大きかった。彼らは和邇・真野両川の流域を本拠としていた。近淡海国造もこの一族であったのだろう。現在、滋賀学区内でこれら有力者の古墳を指摘することはむつかしいが、赤塚古墳はあるいはこのような有力者の古墳であるかもしれない。」(『帰化人の墳墓─滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって─』水野正好)<中略>
 ここにいう小野氏や真野氏というのは、さきにみたように、真野郷にいた和邇氏の支族である。和邇氏とは、「古事記」応神段にみえる「和邇吉師」の一族で、「日本書紀」などには「王仁」となっている百済系のそれである。彼らは四、五世紀あたりの古墳時代に渡来したものたちであった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「和邇(川)」 =「オンネ」=「親の、大きな(川)」
◎縄文語:「真野(川)」=「モ・ナィ」=「子の・川」


 近接する和邇川と真野川はアイヌ語でよく見られる対比表現になっています。地勢上大きい方を「オンネ」、小さい方を「モ」をつけて呼びます。「和邇」と「オンネ」の発音が少々ズレていますが、「王仁」や近隣地名の「小野」を見ると整合性がとれます。

 奈良盆地北東部を拠点とした和邇氏(和珥氏)は欠史八代の天皇に娘を嫁がせていますので、応神天皇の時代に渡来したとされる百済の「王仁」とは時代が合いません。 王仁がもたらしたとされる千字文は六世紀の編纂なので、これも応神天皇とは時代が合いません。六~七世紀以降、ヤマト王権の中枢は北方系渡来勢力にとって代わられています。

 「王仁」など北方系渡来人の出自を飾るための物語は、邪馬台国と台与を隠蔽するために創作された欠史八代から応神天皇あたりまでの物語の中に積極的に盛り込まれたのではないでしょうか。

 奈良市の和珥は「山裾の丘陵」ですが、その麓に「櫟本(いちのもと)」「森本」の地名があり、こちらも「和珥=オンネ=親の、大きな」と対比表現になっていることが分かります。

◎縄文語:「和珥」=「オンネ」=「親の、大きな(岬)」
◎縄文語:「櫟本」=「エテュノッ/モ・テュ」=「岬/小さな・岬」
◎縄文語:「森本」=「モ・ル/モ・テュ」=「小さな・岬/小さな・岬」


■奈良県「和邇町」周辺 ※西方に「森本町」と「櫟本町」(※国土地理院電子地形図)


 琵琶湖西岸の和邇氏とその支族である小野氏、真野氏の場合は 、時代から言って南方系で、朝鮮半島由来だとしても倭人と縄文語を共有する半島南部の人々です。 古墳時代後期(六~七世紀)、琵琶湖西岸南部には横穴式石室を持った群集墳が築かれますが、これが北方系渡来人の足跡だと考えます。

 この周辺一帯の地名は簡単に縄文語解釈できます。ことごとく地勢と一致しますので、是非地図でご確認ください。北からご紹介します。

■和邇川周辺(※国土地理院電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「小松」 =「コッ・マーテュ」=「窪地の・波打ち際」 ※琵琶湖の岸辺。
◎縄文語:「比良」 =「ピラ」=「土崖」
◎縄文語:「志賀」 =「シ・カ」=「大きな・岸辺」 ※南に接する「蓬莱」との対比表現。
◎縄文語:「蓬莱」 =「ポン・ラー」=「小さな・低いところ」
◎縄文語:「八屋戸」 =「ペッチャ・ヤチ」=「川岸の・泥」※「蓬莱」 と同地。 ほぼ同義。
◎縄文語:「栗原」 =「カリ・ハ・ラ」=「回る・水が引いた・低いところ」 ※蛇行する川の岸辺の低地。
◎縄文語:「伊香立」 =「エンコ・テューテュ」=「岬・出崎」 ※和邇川上流の岬
◎縄文語:「堅田」 =「コッチャ・チャ」=「谷の入口の・岸」 ※琵琶湖が狭くなる瀬田川の入口。
◎縄文語:「金刀比羅宮」 =「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」
 ※縄文語地名「コッチャ(堅田)」を機縁に勧請。金刀比羅宮はもともと香川の象頭山の地勢。大物主、大国主の国作り、クンピーラなどの由来はこじつけ創作物語です。
◎縄文語:「春日山」 =「カケ」=「その上のところ」
◎縄文語:「雄琴」 =「オコッ」=「沢」 ※雄琴川。
◎縄文語:「仰木」 =「オホケ」=「麓」 ※山の麓。
◎縄文語:「苗鹿」 =「ノッ・カ」=「岬の・ほとり」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]琴御館宇志丸・唐崎神社・唐崎の松・琴の御館・女別当命(わけすきひめのみこと)・大友~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐崎神社」由緒(日枝神社公式HP)
【日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である、琴御館宇志丸という方がこの地に居住され、「唐崎」と名付けられました。 この頃、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。ご祭神女別当命(わけすきひめのみこと)は琴御館宇志の御妻君であり、持統天皇の御代六九七年に創建されたと伝えられています。】

×「琴の御館」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ(万葉集/柿本人麻呂)
 ところで、「唐崎の松」と神社のある唐崎というのは、<中略>今村鞆氏の「朝鮮の国名に因める名詞考」によると、「辛崎」のほかにも「輿地志略」「類従国史」などには「韓崎」「可楽崎」と表記されたもので、「縁由不明なれど、近江は三韓関係の深き地なれば、これに関れるものなるべし」とある。<中略>
 ここはそのころ「琴の御館」のあったところだった。琴の御館という「琴の」とは何であるかわからない。<中略>ここには「国府の庁(御館)」があったことになるが、もしそうだとすれば、それはこの地一帯を支配した大友氏族によるものであったに違いない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「(琴御館)宇志丸」 =「ウ・マ・オロ」=「湾の・谷水・のところ」 ※湾沿いの湿地。
◎縄文語:「琴の御館」 =「コッ・ノミ・タンチャ」=「窪地を・祭る・こちらの岸」 ※窪地を祭る岸辺。
◎縄文語:「女別当(わけすきひめ)」 =「ワッカエテュキ」=「水が湧くところ」※湿地 。
◎縄文語:「唐崎の松」 =「カ・サ・ケ/マーテュ」=「曲がっている・浜の・ところ/波打ち際」※湿地の浜辺。
◎縄文語:「大友」 =「オオ・トマ」=「大きな・湿地」

 縄文語解釈はすべて「湿地、低地の浜辺」で一致しています。つまり、「唐崎神社」は「湿地を祭る自然崇拝」が起源だったということになります。
 漢字表記にこじつけて唐崎に「松を植えた」のも、縄文語の「マーテュ=波打ち際」の解釈を意図的に消すためだったのかもしれません。風土記を見るに、先住民文化を上書きするためにこの類いのことが日本各地で徹底して行われた可能性があります。

1)縄文語の人名地名
2)縄文語の漢字表記、漢字表記からの解釈、物語創作
3)渡来人の移住、神社仏閣の建立など実績づくり

 まだ仮説ですが、「琴御館宇志丸」「女別当」「大友」などの人名が辻褄の合う縄文語解釈できるということは、実在を前提とするならば、彼らは縄文語を使う南方系渡来人、あるいは日本先住民だったのかもしれません。
 風土記編纂時には、それら縄文語の人名や地名の漢字表記から無数のこじつけ物語が創作されています。 つまり、
当時の日本には大きく分けて、

・日本先住民(倭人=縄文、弥生、大規模古墳人)=縄文語
南方系渡来人(中国東夷南蛮系、朝鮮半島南部、百済庶民)=縄文語
北方系渡来人(百済王族周辺、大和朝廷中枢)=上代日本語

 がいたということになります。前二者は縄文語を共有する南方系の近しい民族で、後者は高句麗を出自とする大陸北部の遊牧民由来です。百済は「北方系の王族周辺」「南方系の庶民」の二種があり、南方系は倭人と縄文語を共有しています。

 柿本人麻呂が詠んだ歌などには縄文語のかけらも見当たりません。これが大和朝廷中枢の言葉です。そして、時を経るにつれ、大和朝廷の権勢が大きくなるほど縄文語は消えていくことになります。


■唐崎神社 ※浜辺の湿地。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]日吉大社・比叡山・八王子山・牛尾山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「日吉大社・比叡山・八王子山・牛尾山」について(『近江路─史蹟と古美術の旅─」景山春樹 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【坂本には日吉大社がある。比叡の山ふところに鎮座している日吉大社の起こりは東本宮からはじまる。「古事記」には、この神社の創立について「大山咋神、またの名は山末之大主神、この神は近淡海国日枝の山にます・・・・・・」と書いている。これは日本上代における民族信仰の時期に、東本宮の濫觴をなす原始的な祭祀、神体山たる牛尾山(八王子山、小比叡峰)を中心を置いて発生をみたことを述べたものである。その実態の時期は、一般的にみて古墳時代の半ばころであったと考えてよかろう。
 三七八メートルの標高をもつ神体山(牛尾山)は、遠望すると美しく整った山容をもち、その山麓一帯には横穴式の後期古墳が群在している。山頂近くには祭祀遺跡と思える磐境(金大巌こがねおおいわ)があり、これを取りまいて牛尾宮と三宮の奥宮社殿が建っている。<中略>
 山頂にある磐境の地は、祭神の奥津城(陵墓)からはじめるもので、その「荒魂」をまつる奥宮がまず墓のかたわらに生まれたが、やがてその神霊を山麓にうつして、「和魂」と称し、神道的な祭祀を行うようになったのが、いまの東本宮や樹下宮の起源だというのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「八王子(山)」=「ハッタ・オ・ウシ」=「淵・尻・のところ(の山)」
(琵琶湖の奥の山)
◎縄文語:「牛尾(山)」=「ウ・オ」=「湾の・尻(の山)」
(琵琶湖の奥の山)
◎縄文語:「比叡(山)/日吉(大社)」=「ピ・エ」=「石の・頭(岬)」
(比叡山/牛尾山の磐座)
◎縄文語:「(近)淡海」=「アゥ・メ」=「枝分かれた・泉」(琵琶湖)
◎(おまけ)縄文語:「遠江(遠淡海)」=「テューテュ・モィ」=「出崎の・入り江」(浜名湖)
※「近い/遠い淡水湖」を由来とするような漢字こじつけ説はまったくのデタラメです。

 八王子山と牛尾山はいずれも「琵琶湖の奥の山」の意です。日本全国の「八王子」の地名は「湖沼、河川の淵のはずれ」あるいは「河川が山から平地に出るところ」の地勢です。一般的に八王子の由来とされる牛頭天王の八人の王子は漢字表記にこじつけて創作されただけです。午頭天皇も新羅の牛頭山とは関係なく、京都八坂神社周辺の地勢を表しています。

◎縄文語:「牛頭」
=「コッチャ」=「谷の入口」=白川と鴨川の合流地点
or「コッ・チャ」=「窪地の・岸」=八坂神社本殿下の池の岸
(※第二百十二回コラム参照

 大比叡(比叡山)、小比叡(牛尾山)はともに「石の頂の山」を表現しています。牛尾山には山頂付近に磐座があり、比叡山はホルンフェルスの岩山です。

 つまり、「牛尾山(八王子山)」は「琵琶湖の奥の山の磐座」「比叡山」は「ホルンフェルスの岩山」を祀る先住民の祭場だったということです。「大山咋神」や「山末之大主神」は山の神のこじつけでそれらに乗せられただけです。


■牛尾山(八王子山) ※琵琶湖の奥の山。


■比叡山(四明岳)の将門岩




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]湖西/安曇川・高島・水尾・鴨稲荷山古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「安曇川・高島・水尾」について(『近江路─史蹟と古美術の旅─』景山春樹 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【湖西で一番大きな平野は安曇川(あどがわ)の形成するデルタ地帯であるが、安曇族の活躍した地盤もやはりこの平野である。彼らは朝鮮系の民族とされているが、おそらく北陸方面から入ってきて土着したものであろう。その中心にあるのが高島郡三尾(みお)の稲荷山古墳である。】

×「鴨稲荷山古墳」について(『近江路─人と歴史─』原田伴彦 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【高島郡の鴨稲荷山古墳からは、鏡や金銅製大刀のほかに、南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具などが発掘されている。これらの品々は朝鮮では第一級のもので、あるいは帰化系の有力な豪族の墓ではないかといわれている】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「安曇(川)」=「アッ・ト」=「片割れの・湖沼」
◎縄文語:「三尾」=「メ・オ」=「泉の・尻」
◎縄文語:「高島」=「ト・カ・スマ」=「湖沼・のほとりの・石」


 「安曇川」は「あどがわ」と読みます。「安曇」と「三尾」、「高島」で辻褄が合っています。安曇川の谷の入口には「古賀」の地名があります。

◎縄文語:「古賀」=「コッ・カ」=「窪地の・ほとり」

 この地を拠点とした人物に応神天皇の四世、継体天皇の父である彦主人王(ひこぬしおう)がいます。

◎縄文語:「彦主人王」=「ピ・コッ・ウシ」=「石の・窪地・のところ」

 南に接する岬の麓に白鬚神社があります。白鬚の由来は新羅とは関係ありません。

◎縄文語:「白鬚神社」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」


■安曇川河口付近。



 日本全国には「安曇族」由来とされる地名がたくさんあります。「安積」「渥美」「厚見」などですが、「発音が同じ、漢字表記が同じというだけの理由でそれぞれの地に関係性を持たせることには説得力がない」ということはこれまで繰り返し書いてきました。同じ地勢同じ地名が与えられることは当然のことです。
 たとえ「アズミ/アヅミ」という地名でも、決して「安曇族が活躍した」ことにはなりません。日本の歴史は「古文献」を筆頭にこのようなこじつけ創作を繰り返し行っていて、必然的にデタラメ物語が満載となっています。

 「アズミ/アヅミ/アツミ」に関して言えば、次の解釈が可能です。縄文語と漢字表記は厳密に一意で結び付けられている訳ではないので、複数の解釈があります。古代人はもっといい加減にルール無用で仮借の漢字を当てはめています。

◎縄文語:「アズミ/アヅミ/アツミ」
=「アッ・チャ・モィ」=「一方の・岸の・入り江」

or「アッ・チャ・メ」=「一方の・岸の・泉」
or「アッ・テュ・モィ」=「一方の・峰、岬の・入り江」
or「アッ・テュ・ムィ」=「一方の・峰、岬の・頂」
or「アッ・テュ・メ」=「一方の・峰、岬の・泉」
or「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

 「モィ(=ムィ)=入り江」は内陸の同様の地形にも使われます。例えば長野県の「安曇野」などは、長野盆地、上田盆地などの対比として「一方の峰の入り江」と呼ばれた可能性があります。
 愛知県の「渥美半島」は、伊勢湾の対比として「一方の岬の入り江」と表現したと捉えられます。

 次に、六世紀前半築造の鴨稲荷山古墳について。あたまについている「鴨」は地名によくある「高麗」の縄文語解釈と同じで「湾曲する川」を指しています。すなわち高島市を流れる「鴨川」です。ちょうど稲荷山古墳周辺が湾曲しています。


◎縄文語:「鴨/稲荷山(古墳)」=「コ・マ/イナゥ・リ」=「湾曲する・谷川/幣の・高台」

 「稲荷」は伏見稲荷の稲荷山と同様、「幣の高台=高台の祭場」を指します。周辺にはほかに高台がないので、「古墳の上で祭祀が行われた」とするのが妥当です。

 鴨稲荷山古墳からは朝鮮南部と同じ副葬品が出土したとのことですが、朝鮮半島南部は倭人と縄文語を共有する同系の民族なので、まったく不思議なことではありません。この古墳の埋葬者は第二十六代継体天皇と深い関係があったとされていますが、ヤマトの中枢が北方系勢力にとってかわられるのは、まさに継体天皇とその皇子たち全員が死んだ直後からです。


■鴨稲荷山古墳 ※湾曲する鴨川沿いの高台の祭場。


 余談ですが、高島市には明らかに縄文語由来と判断できる地名が豊富にあります。

◎縄文語:「(安曇川町)北船木/南船木」=「パナケ」=「川下のところ」
◎縄文語:「(安曇川町)青柳」=「アゥ・ヤケ」=「隣の・岸辺」
◎縄文語:「(新旭町)太田」=「オタ」=「砂浜」
◎縄文語:「松ノ木(内湖)」=「マーテュ・ノッケ」=「波打ち際の・岬」 


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~【近畿圏】[福井県]ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)・天日槍・伊奢沙別命(いざさわけ)・御食津大神・熊野神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)・天日槍」について(『近江路─人と歴史─』原田伴彦 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【日本書紀によると─第十代の崇神天皇のときに、ヒタイにツノのある人が越の国の笥飯(けひ)の浦にやってきた。そこで角鹿という地名が生まれた。いまの敦賀である。彼は大加羅の王子で、ツヌガアラシト、一名をウシキアリシチカンキといい、日本に聖王がいるときいて帰化しにきた。<中略>
 また、垂仁天皇のとき、新羅の王子天日槍が帰化し、播磨から、近江に入り、やがて若狭をへて但馬に土着したという記述もある。】

×「天日槍」について(『古代日韓交渉史断片考』中田薫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【此「アマノヒホコ」の「アマ」(天)と云う語は、一般的には我天孫民族の故郷を指したものであるが、事実は朝鮮半島所謂「韓郷島」、殊に「新羅」を指していたことは疑いない。されば「アメノヒホコ」は「新羅から来た日槍」と云う意味に外ならない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」
=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」
(立石岬/敦賀半島)
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」
=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」
(立石岬/敦賀半島)
◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」(城崎温泉)

 代表的な渡来人物語ですが、この二人が実在するのであれば、「敦賀出身」「城崎温泉出身」と言っているだけで、朝鮮半島由来だということはまったく読み取れません。このような漢字表記こじつけ物語や説は基本的にデタラメです。


■立石岬 ※岬が崩れているところ。

■城崎温泉 ◎縄文語:城崎(温泉)=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」



 また、天日槍がもたらした宝物の中に「熊の神籬(ひもろぎ)」がありますが、『日本の中の朝鮮文化』には次のような内容の記述があります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「熊の神籬・熊野神社について」(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【<要約>朝鮮建国の「檀君神話」において、始祖の檀君が「熊」から生まれていることにより、朝鮮語の「コム(熊)」が「聖なる」意味をもち、「王」を指すことにもなった。天日槍がもたらした「熊の神籬」というのは「聖なるコマの神籬」ということであり、「神籬」とは神宮、神社である。天日槍は新羅の第一代王赫居世の始祖廟の様式を日本にもたらし、それがのちに神宮、神社となったのかもしれない。三種の神器も天日槍がもたらした宝に含まれている。
 日本全国の熊野、熊野神社もこの「コム(熊、高麗)」からきたものとみなければならない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「熊野」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」


 「横に平べったい岬」などという地勢はどこにでもあるので、いちいち渡来人物語を挿む必要はありません。大元は先住民による自然崇拝です。
 ただし、神社のもとが渡来文化にあるというのは否定できません。その由来を見れば分かるとおり、漢字表記にこじつけた神様だらけです。日本の八百万の神は本当に嘘つきです。

 ちなみに、「熊(動物)=尊い」という思想はアイヌにもあるので、朝鮮半島と文化を共有する部分があったということになります。筆者は朝鮮半島南部と倭人が言語を共有する同系同族だったと考えているので、そこに何らかの連絡があったとしてもまったく不思議なことではありません。


■和歌山熊野本宮大社周辺。 ※熊野本宮大社から見て熊野川対岸。 横に平べったい岬 。


 ついでに、越前国一宮の氣比神宮について少々。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「氣比神宮祭神」について(氣比神宮HP)
【主祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。神功皇后、応神天皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて篤い。神功皇后は安産の神として霊験あらたかである。仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「伊奢沙別」=「エテュ・サ・ワ・ケ」=「岬の・浜の・岸・のところ」
(敦賀の浜)
◎縄文語:「御食津(大神)」 =「メカ・チャ」=「尾根の・岸」

 「伊奢沙別」「御食津大神」は「敦賀の浜」を指します。いずれも「食物神」でも「天日槍」でもありません。あり得るとすれば先住民による自然崇拝です。気比神宮関連の縄文語解釈の詳細については、第二百九十八回コラム参照

 いうまでもなく、このような漢字こじつけ物語や説の例は枚挙に暇がありません。
 筆者は、記紀風土記の時代から「全国の縄文語地名に、似た音の漢字が充てられ、徹底的に渡来人物語が創作された」可能性があると考えています。そうでなければ、日本全国で各地勢と完全一致する縄文語解釈可能な地名が無数に見つかるにもかかわらず、その本当の由来がことごとく消滅している理由がまったく説明できません。
 中国漢代の県名を縄文語解釈しても、少なくとも東夷南蛮は縄文語を使っていた可能性が高いと判断できます。必然的に中国から日本への経由地となる朝鮮半島南部も縄文語圏になります。

 記紀風土記に書かれている物語はすべて上代日本語です。決して縄文語(アイヌ語)ではありません。そして、六~七世紀の築造時期まで全国の大規模古墳名は縄文語解釈可能です。ここに大きな闇を感じざるを得ません。

 
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~滋賀県・福井県/[滋賀県]新羅崎神社[福井県]白木(立石半島)・信露貴彦神社・新羅神社(今庄)・白鬚神社(今庄)・今庄・白鬼女川(しろきじょがわ)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新羅崎神社・白木」について(『日本神話と近江』橋本犀之助 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【是等の地方を其の郷里の地名そのまま韓郷と呼び為し、或は新羅と呼び為していたのではなかろうか。<中略>伊香郡余呉湖の畔に新羅崎神社あり、尚敦賀湾を扼している半島(立石半島)の先端にも白木なる地名が残っていて(福井県敦賀市松原)<中略>、自分達(地域の人々)の先祖は朝鮮の王家のもので、此の地に渡来して土着するに至ったものであると、口伝えに伝えている】

×「信露貴彦神社・新羅神社(今庄)・白鬚神社(今庄)・白鬼女橋」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ほかにも敦賀には信露貴(新羅)彦神社があり、北陸トンネルを越えた向こうの今庄にも新羅神社白鬚神社がある。そしてまた、「日野川は古くは信露貴川、叔羅川と書き、のちには白鬼女川と書いたらしい。シラギガワと発音するのが正しいようだ。”新羅”とも語源の上で関連があるらしい。いまでも白鬼女橋がかかっていて、昔の名残りを止めている」(『よみもの福井史』青園謙三郎)などどいうのもある。】

×「今庄・今城」について(『南条郡誌』『日本の中の朝鮮文化』より引用
【今庄町も古くは今城と書けり。此れ白城の誤転する乎。此の町の東に川あり、日野川と云う。此れ即ち古の叔羅(しくら)川なり。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅崎(神社)」 =「シ・オ・サン・ケ」=「山・裾の・出崎・のところ」
◎縄文語:「白木/信露貴(神社)/新羅(神社)」
=「シロケ」=「山裾」
or「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「白鬚(神社)」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
◎縄文語:「白鬼女(川)」 =「シ・オ・ケ・チゥェ」=「山・裾・のところ・その水流、水脈」
(日野川)

 縄文語解釈はすべて地勢と一致しています。地図でご確認ください。
 しつこくて申し訳ありませんが、「シラキ/シラギ/シロキ=山裾」です。どこにでもある日本の山裾の地勢に漢字を充て朝鮮半島由来としています。考古学等の裏付けがない限り、「新羅由来の渡来人が活躍した」というのは眉唾物語です。

 「日野川」の旧名の「白鬼女川」は単に「山裾を流れる川」の意で、日野川を縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「日野(川)」=「ピ・ナィ」=「石ころの・川」

 となります。
 つまり「白鬼女川+日野川=山裾の石ころの川」の意で、「白鬚明神=山裾の石ころ」と同義です。岸辺に白鬚明神が祀られるのも不思議はありません。


■敦賀周辺「シラキ/シラギ」関連地名(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「今庄」がかつて「今城」と書かれたのが「白城」の誤写であるというのはにわかには信じられません。

◎縄文語:「今庄/今城」
=「エン・マーテュ」=「突き出た・波打ち際」
or「エン・ムィ・テュ」=「突き出た・頂の・峰」
(日野川の岸が突き出ているところ)

 の意で、白城とはまったく無関係だからです。「シロキ」は「山裾」の意です。つまり、縄文語解釈をまとめると、この周辺は「山裾を流れる川が屈曲しているところ」という地勢だったということです。


■今庄 ※山裾を流れる川が屈曲しているところ。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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