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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百一回~第三百十回】

第三百一回第三百二回第三百三回第三百四回第三百五回第三百七回第三百八回第三百九回第三百十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[福井県]振媛・坂中井(さかない)・高向郷・丸岡町高田・古堂様[福岡県]香春神社・韓国息長大姫[滋賀県]高島郡・三尾/三重生神社・彦主人王・安曇川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「彦主人王・振媛・稲荷山古墳」について(『丸岡町史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【今から千四百年の昔、近江国高島郡三尾彦主人王(ひこぬしおう)がいた。応神天皇より四代目にあたる。その頃、三国の坂中井振媛という美しい女のいることを知り、迎えて妃とした。その後、彦主人王は三子を残してなくなった。振媛は悲しみの中にも幼い王子をつれ、実家である高向郷にかえって、ひたすら王子の養育にあたった。
 近江の三尾に、式内社三重生神社がある。社伝に、彦主人王の死後、振媛は二子をつれて越前に帰った。長男の彦人王は三尾に残り、振媛がなくなった時、その霊を祀ってたてたのがこの神社だと記している。また、この近くに稲荷山古墳がある。五〇メートル余りの前方後円墳で、ここからも石棺を発掘した。古調をおびた家形石棺で、金銅製の冠と沓、金の耳飾りや玉、環頭太刀、土師器など多くの副葬品も出てきた。高島郡内でこんなすばらしい宝器の所有者を他に求めることは困難で、彦主人王の古墳説をたてるのはもっともなことだ。】

○「鴨稲荷山古墳」について(『近江路~人と歴史~』原田伴彦 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【高島郡の鴨稲荷山古墳からは、鏡や金銅製大刀のほかに、南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具などが発掘されている。これらの品々は朝鮮では第一級のもので、あるいは帰化系の有力な豪族の墓ではないかといわれている。】

×「継体天皇・息長氏」について(『継体天皇とその出自』岡田精司 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。その出自は『古事記』の所伝どおり、近江にあり、近江を中心とする畿外東北方の豪族勢力基盤として権力を握った。<中略>
 継体の出身氏族は息長氏であり、息長系の系譜・伝承・天皇の諡号等はこの立場からでなければ説明できない。】

×「息長氏」について(『坂田郡史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【新羅王子天日槍の阿那邑に暫住の後、其の跡に息長の地名は称えられたり。是を豊前国香春神社に祀る韓(から)国息長大姫大目命に考え合すれば、息長は新羅語なるべし。】

×「安曇族」について(『近江路~人と歴史~』原田伴彦 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【古代日本の黎明期に、北九州の玄界灘を本拠に活躍した安曇族海人といわれる一グループがあった。彼らは各地に発展し、その足跡は南は淡路から、東は北信州の安曇郡一帯にまで及ぶが、その一隊は、敦賀、小浜をへて湖西の地まで進出したとみられる。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「振(媛)」=「フ」=「丘」
◎縄文語:「坂中井(さかない)」=「サン・カ・ナィ」=「平山・のほとりの・川」
◎縄文語:「高向(たかむこ)(郷)」=「トコ・ケ」=「小山・のところ」


 振媛が育てた王子の一人がのちの継体天皇であり、現在の高向神社の周辺が「高向の宮跡」に比定されています。住所は丸岡町高田です。高向神社は別名「古堂様」と呼ばれ、振媛一族の氏神でした。

◎縄文語:「丸岡(町)」=「マ・オロ・オカ」=「谷川・のところの・跡」※全国の「丸」を冠する地名は川辺。
◎縄文語:「高田」=「ト・タ」=「突起・の方」
◎縄文語:「古堂(様)」=「フ・テュー」=「丘の・峰」

 すべて辻褄が合います。


■高向神社 ※東方に丘陵地帯。



 「息長」が新羅語ではないかということですが、おそらく朝鮮半島南部の新羅の言語は「縄文語(アイヌ語)」ですから、あながち間違ってはいません。
 息長氏の名は拠点とした米原市の地勢を指していると考えられますが、広範囲すぎてその関係性が分かりません。そこで豊前国香春神社に祀られる「韓(から)国息長大姫大目命」を調べてみます。
 「韓」や「唐」の「カラ」は、朝鮮半島を指す訳ではなく、縄文語の「カ=まわる、巻く」の意で、多くは「曲がっている川」を指します。奈良の「軽」も同様です。

◎縄文語:「息長」=「オ・ナィ・カ」=「うなじのように窪んだ・川の・ほとり」
◎縄文語:「香春」 =「カパ」=「水中の平岩」※金辺川。
◎縄文語:「韓国」=「カ・コッネイ」=「まわる、巻く・谷のところ」 ※曲がっている谷。


■金辺川 ※水中の平岩。


■鏡山大神社 ※うなじのように窪んだ川のほとり。曲がっている谷。



 「彦主人王」の名前は拠点とした「高島郡三尾」とほぼ同義で、縄文語を使う南方系の人物だったことが分かります。

◎縄文語:「高島(郡)」=「ト・カ・スマ」=「湖沼・のほとりの・石、岩」
◎縄文語:「三尾/三重生(神社)」=「メ・オ」=「泉の・尻(はずれ)」
◎縄文語:「彦主人王」=「ピ・コッ・ウシ」=「石の・窪地・のところ」

 南方系とは、縄文人、弥生人、大規模古墳人のことで、東夷南蛮、朝鮮半島南部を含みます。言語を共有している以上、この地域一帯は往来が頻繁な同系同族とも言え、明確な区別は困難です。帰化人、渡来人の概念も当てはまりません。高島郡の鴨稲荷山古墳から朝鮮半島南部と同一の副葬品が発見されるのも至極当然です。

 区別しなければならないのは、言語を共有しない北方系と南方系です。上代日本語は百済、高句麗の北方系の言語の特徴を有しています。
 筆者は、たとえ第二十六代継体天皇が簒奪者だとしても、諡号などの縄文語解釈から、継体天皇とその皇子らまでは南方系の民族だったと考えています。日本書紀には百済本紀を引用して「継体天皇と皇子ら全員が死亡した」との記載がありますが、その後、蘇我氏の支えを背景に第三十代敏達天皇から北方系民族に入れ替わります。第二十九代欽明天皇は継体天皇系の安閑天皇・宣化天皇と系譜をつなぐために創作されたものと考えます(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]参照)。


■高島市安曇川河口付近。




 高島郡と安曇族を結びつけているのは安曇川でしょうか。「安曇川」は「あどがわ」と読みます。

◎縄文語:「安曇(川)」=「アッ・ト」=「片割れの、一方の・湖沼」

 「高島郡=湖沼のほとりの石、岩」「三尾/三重生=泉のはずれ」 「彦主人王=石の窪地のところ」の解釈とも辻褄が合います。

 「安曇」「鴨稲荷山古墳」については、第二百四十八回コラムですでにご紹介しましたが、再掲します。


▼▼▼第二百四十八回コラム再掲▼▼▼
 安曇川の谷の入口には「古賀」の地名があります。

◎縄文語:「古賀」=「コッ・カ」=「窪地の・ほとり」

 南に接する岬の麓に白鬚神社があります。白鬚の由来は新羅とは関係ありません。

◎縄文語:「白鬚神社」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」

 日本全国には「安曇族」由来とされる地名がたくさんあります。「安積」「渥美」「厚見」などですが、「発音が同じ、漢字表記が同じというだけの理由でそれぞれの地に関係性を持たせることには説得力がない」ということはこれまで繰り返し書いてきました。同じ地勢同じ地名が与えられることは当然のことです。
 たとえ「アズミ/アヅミ」という地名でも、決して「安曇族が活躍した」ことにはなりません。日本の歴史は「古文献」を筆頭にこのようなこじつけ創作を繰り返し行っていて、必然的にデタラメ物語が満載となっています。

 「アズミ/アヅミ/アツミ」に関して言えば、次の解釈が可能です。縄文語と漢字表記は厳密に一意で結び付けられている訳ではないので、複数の解釈があります。古代人はもっといい加減にルール無用で仮借の漢字を当てはめています。

◎縄文語:「アズミ/アヅミ/アツミ」
=「アッ・チャ・モィ」=「一方の・岸の・入り江」

or「アッ・チャ・メ」=「一方の・岸の・泉」
or「アッ・テュ・モィ」=「一方の・峰、岬の・入り江」
or「アッ・テュ・ムィ」=「一方の・峰、岬の・頂」
or「アッ・テュ・メ」=「一方の・峰、岬の・泉」
or「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

 「モィ(=ムィ)=入り江」は内陸の同様の地形にも使われます。例えば長野県の「安曇野」などは、長野盆地、上田盆地などの対比として「一方の峰の入り江」と呼ばれた可能性があります。
 愛知県の「渥美半島」は、伊勢湾の対比として「一方の岬の入り江」と表現したと捉えられます。

 次に、六世紀前半築造の鴨稲荷山古墳について。あたまについている「鴨」は地名によくある「高麗」の縄文語解釈と同じで「湾曲する川」を指しています。すなわち高島市を流れる「鴨川」です。ちょうど稲荷山古墳周辺が湾曲しています。

◎縄文語:「鴨/稲荷山(古墳)」=「コ・マ/イナゥ・リ」=「湾曲する・谷川/幣の・高台」

 「稲荷」は伏見稲荷の稲荷山と同様、「幣の高台=高台の祭場」を指します。周辺にはほかに高台がないので、「古墳の上で祭祀が行われた」とするのが妥当です。

 鴨稲荷山古墳からは朝鮮南部と同じ副葬品が出土したとのことですが、朝鮮半島南部は倭人と縄文語を共有する同系の民族なので、まったく不思議なことではありません。この古墳の埋葬者は第二十六代継体天皇と深い関係があったとされていますが、ヤマトの中枢が北方系勢力にとってかわられるのは、まさに継体天皇とその皇子たち全員が死んだ直後からです。


■鴨稲荷山古墳 ※湾曲する鴨川沿いの高台の祭場。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]かほく市/高麗野・加茂神社・亀田神社・高松~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「高麗野」について(『加能郷土辞彙』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【コマノ 高麗野 石川県木津の地内にある。享和の頃里人此の野を開墾して古刀を得た。この地を『続日本紀』宝亀七年四月丙午の条に見える、越前国江沼・加賀二郡に漂着した高麗人を埋葬した地であろうという説は、全く牽強であろう。】

×「高麗野」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【素直に解するならば、「江沼・加賀二郡に漂着した高麗人」うんぬんという「牽強」な説があることからして、その高麗野は高麗といった高句麗からの自発的な渡来人が住んだところ、とみてよいのではないだろうか。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗野」=「コ・マ・ノッ」=「湾曲する・谷川の・岬」

 「高麗野」に「高麗系渡来人」を結びつけるのは牽強付会ですが、日本の歴史の黎明期は間違いなく六~七世紀に覇権を握った北方系渡来人により改竄されていて、そもそも彼らが自らの出自を正当化するために記紀風土記、神社仏閣の由緒等で牽強付会を行っているのです。ですから、彼らにとって「高麗野」と「高麗系渡来人」を結びつけるのは必然ですが、当然デタラメの可能性が高くなります。

 「高麗野」は「湾曲する谷川の岬」の解釈が可能で、それは木津地区の東方を南流する宇ノ木川を指していると考えられます。
 全国の「高麗」は「湾曲する川」あるいは「丸山(湾曲する山)」の解釈が可能です。高麗系渡来人の拠点で有名な埼玉県の高麗川(湾曲する川)や神奈川県の高麗山(丸山)さえもです(※第二百八回コラム参照)。

 宇ノ木川の岸辺には賀茂神社と亀田神社があります。

◎縄文語:「賀茂(神社)」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」
◎縄文語:「亀田(神社)」
=「コ・マ・テュ」=「湾曲する・谷川の・岬」

or「コ・マ・チャ」=「湾曲する・谷川の・岸」

 また、木津地区の北方には宇ノ木川の支流、大谷川が流れていて、川沿いに「高松」という地名があります。

◎縄文語:「高松」
=「タン・コ・マ・テュ」=「こちらの・湾曲する・谷川の・岬」

or「タン・コ・マ・チャ」=「こちらの・湾曲する・谷川の・岸」

 「タン=こちらの」はよくある対比表現です。この場合、言うまでもなく宇ノ木川の本流と支流の対比です。いずれにしても川が湾曲している地勢を表しています。


■木津(高麗野)周辺 ※湾曲する川と岬。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]羽咋市・気多大社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「気多大社」について(『石川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【気多大社は大己貴命を祀る延喜式内社。県下ではただ一つの名神大社で、古代から神格が高かった。祭神は、大己貴命とよばれるまえは、おそらく気多の神だったのだろう。気多の神には、日本海とのつながりがとりわけ深い。出雲の気多の嶋→因幡の気多の神→但馬の気多郡→加賀の気多の御子神→能登と越中の気多の神をつなぐと、対馬海峡にのって日本海沿岸にのびる神々のあしあとがうかびあがり、出雲と能登の密接なつながりも推測できる。だが、気多の神の本来の姿は、やはり、地元の豪族に支えられた土着の神だったにちがいない。】

×「羽咋市の語源」について(※『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【能坂利雄氏の『日本史の原像』によると朝鮮語ハング(港口)の転じたものではないかとある】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「気多(大社)」=「ケィ・タ」=「頭(岬)・の方」

 
大己貴命(大国主)はもちろん神話に都合良く結びつけたウソですが、そもそも「適当な神様をあてがい、北方系渡来人勢力に都合の良い由緒を創作して七世紀以降に設けられたのが多くの神社の正体」なのです。それ以前のものは南方系先住民による自然崇拝です。神社の由緒には南方系先住民の縄文語解釈がかけらも見当たりません。風土記の編纂態度と同様、先住民文化を徹底して上書きする意図が感じられます。

 後世の流行による勧請を除けば、神社名は所在地の地勢にほぼ一致します。八幡神社「ペッチャ=川端」、稲荷大社「イナゥ・リ=幣の・高台(高台の祭場)」、愛宕神社「アッ・タ=ぽつんと離れた山、尾根の先端の山」、薬師神社「ヤ・ケ=岸の・末端」、白山神社「浅い・出崎or平山」、熊野大社「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」、金刀比羅宮「コッチャ・ピラ=谷の入口の崖」など、挙げればきりがありません。

 気多大社の場合は、「ケィ」が「頭」の意なので、「岬」を指したものと思われます。敦賀の気比神宮も同源です。気多大社と気比神宮の共通点は「岬」です。

 『石川県の歴史散歩』に「出雲の気多の嶋」「因幡の気多の神(気多岬)」「但馬の気多郡」「加賀の気多の御子神」「能登の気多の神」「越中の気多の神」が登場します。出雲以外は比定地がほぼはっきりしていますので、それらの地勢を見てみると、いずれも岬であることが分かります。

 内陸部にも「気多神社」があるのは、「ケィ」のもともとの意味が「頭」で、内陸部の同様の地勢も指すからです。 岬を結べば、海沿いにラインが出来るのは当然です。ありきたりな地勢につけられた共通の地名を結んで物語を創作するとデタラメ歴史になります。朝鮮半島南部と同じ地名が多いのは朝鮮半島南部も日本同様縄文語圏だったからです。安易に結びつけて渡来人物語を創作する必要はありません。

 ちなみに『日本の中の朝鮮文化』には「羽咋市」の名称由来が朝鮮語の「ハング(港口)」ではないかとの記述がありますが、これも違います。

◎縄文語:「羽咋」=「ハ・イ」=「浅い・ところ」=低地

 の意です。


■因幡の気多の神(気多岬)※岬。


■但馬の気多郡(氣多神社)※内陸部の岬。

■加賀の気多の御子神(気多御子神社) ※かつて柴山潟に突き出た岬。


■能登の気多の神(能登國一宮 氣多大社)※岬。


■越中の気多の神(越中國一宮 氣多神社) ※岬。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]高麗剣(環頭大刀)・散田金谷古墳・白山神社・院内勅使塚古墳・徳田・小田中親王塚古墳・須曽蝦夷穴古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗剣(環頭大刀)」について(『考古学から見た能登半島』橋本澄夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(曽禰古墳出土の)須恵器(台付長頸壺・杯・蓋・高坏・埦・𤭯(はぞう))、環頭大刀・金環・鉄斧頭等ですが、特に環頭大刀は長径約九糎(センチ)、短径約六糎の楕円形の環に相い対する二匹の流が一コの玉を喰んでいる様子を図案化したもので、銅製で表室は鍍金されています。この環頭の柄頭を付した大刀を環刀ともいいますが、古くは高麗剣(こまつるぎ)といっているように、元来大陸や朝鮮半島で発達したものです。】

○「散田金谷古墳」について(宝達志水町観光サイトより引用)
【散田金谷古墳は、能登半島の基部、子浦川と向瀬川の合流点の低台地上にあり、長径21メートル、短径18.5メートル、高さ4.7メートルの墳丘を有する円墳です。本古墳の築造年代は、武具、馬具、須恵器等の出土品から6世紀後半代と考えられています。全長10メートルという北陸地方では最大級に属する「横穴式石室」と、屋根に千木を載せた様な形状を持つ特異な形態の「家形石棺」を有している点で極めて重要な遺跡です。 】

○「院内勅使塚古墳」について(石川県公式HPより引用)
【JR七尾線徳田駅の南東約130m、邑知地溝帯の東麓に近く築かれた代表的な横穴式石室墳。墳丘は長辺23m、短辺21.8m、高さ3.7mの二段築成の方墳で、墳丘には入念な版築工法がみられる。墳裾に沿って幅約6.0m、深さ約1.8mの周濠がめぐる。
 横穴式石室は径1mを超える大型石材をもって構築するが、天井石を完存する石室としては県内でも数少ない事例である。石室規模は玄室長4.62m、同幅2.5~2m、羨道長7.22m、同幅平均約2mを測り、その様式は蘇我馬子の墳墓とされる石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)に近似し、その縮小版ともいえる。6世紀後葉ごろから、天皇陵墓などでも前方後円墳に替わって方墳が採用されることが多い。7世紀後半ごろに築かれた勅使塚古墳は、能登国造能登臣氏一族の墳墓であった可能性は濃い。】

×「小田中親王塚古墳」について(wikipedia)
【実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大入杵命墓」として第10代崇神天皇皇子で能等国造の祖である大入杵命の墓に治定されている。】

○「須曽蝦夷穴古墳」について(能登島観光協会オフィシャルサイトより引用)
【能登島の南岸に臨む字須曽の背後丘陵に所在し、標高約80メートル。一辺が20m程度、高さ約4.5メートルで、古墳時代後期に属する横穴式の方墳ですが、石室が2つあること、横穴が石室の長辺に接続していること、石室の天井部は隅三角持送技法によりドーム状になっていることなど、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特長があります。2基の石室とも長い羨道部をもち、全長約7メートル前後にあり、雄室と呼ばれる東側の石室は平面形はT字形で、雌室の方は逆L字形に造られています。石室用材は能登島に産出する安山岩室板石です。 構築されたのは古墳が殆ど作られなくなった7世紀中頃とされ、被葬者は判っていません。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗(剣)(環頭大刀)」 =「コ」=「持ち手の曲がり、湾曲したもの」(湾曲した頭の剣)
⇒文化遺産オンラインHP(金銅荘環頭大刀)

 高麗剣は「湾曲した頭の剣」という意味です。百済や新羅でも多く出土していますが、「高麗」を冠している理由はこれで解けます。万葉集では「こまつるぎ」は「わ」の枕詞です。

 環頭大刀が出土した曽禰古墳(鹿島郡)の周辺にはほかにもいくつかの古墳があります。


 まずは散田金谷古墳。所在地は「散田」。周辺には白山神社がたくさんあります。

◎縄文語:「金谷(古墳)」 =「カンナ・ヤ」=「上にある・陸岸」
◎縄文語:「散田」 =「サン・タ」=「平山・の方」
◎縄文語:「白山(神社)」 =「ハ・サン」=「浅い・平山 or 出崎」※全国の白山神社は「浅い平山 or 浅い出崎」の地勢。

 「子浦川と向瀬川の合流点の低台地上」にあるということですから、縄文語解釈とこれ以上ない一致の仕方をしています。築造時期は6世紀後半代です。この地域はまだ南方系の勢力が支配していたということです。
 全国の白山神社は「浅い平山 or 浅い出崎」の地勢、あるいはそれを望む場所にあります。


■散田金谷古墳がある山 ※浅い平山。周辺に多数の白山神社。



 院内勅使塚古墳。近隣地名に「徳田」があります。周辺は丘陵地帯です。築造時期は7世紀後半ですが、縄文語が使われていた可能性があります。

◎縄文語:「(院内)勅使塚(古墳)」 =「テュ・ウシ・テュ」=「小山の・ところの・小山」(丘陵地の古墳)
◎縄文語:「徳田」 =「テュ・タ」=「小山・の方」(丘陵地)


■院内勅使塚古墳 ※丘陵地の古墳。


 次に、小田中親王塚古墳。全国の「親王塚」「新皇塚」等は「山裾」の古墳の意です。親王が埋葬されている訳ではありません。築造時期が 4世紀後半~末頃ですから、少なくともこの時期まで縄文語が使用されていたのは確実です。

◎縄文語:「(小田中)親王(古墳)」 =「シ・オ・テュ」=「山・裾の・小山」


■小田中親王古墳 ※山裾の古墳。



 最後に須曽蝦夷穴古墳は能登島にある高句麗色の濃い古墳です。上代日本語由来かもしれませんが、縄文語解釈しても地勢と一致します。

◎縄文語:「(須曽)蝦夷穴(古墳)」 =「エテュ・アゥ・ナ」=「岬の・枝分かれ・の方」 (能登島)

 この地域は縄文語解釈が難しい地名も散見されるので、縄文、弥生人、朝鮮半島南部の南方系民族の文化に、百済王族や高句麗の北方系文化が入り込んでいるのかもしれません。


■須曽蝦夷穴古墳 ※枝分かれた岬。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]田鶴浜・白浜・白比古神社・金崎~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「田鶴浜・白浜・白比古神社・金崎」について(『朝鮮の国名に因める名詞考』今村鞆 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【白浜(能登・石川県)
 能登国鹿島郡田鶴浜の西に隣る。『延喜式』白比古神社此の地に在り。『神祇志料』白比古は新羅の謂にや。白浜、今金崎村(現田鶴浜町)と改称す。】

○「白浜・金崎」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【白浜の「白(しら)」とは新羅の斯羅(しら)であり、金崎村の「金」は新羅の国姓「金」であったからである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「田鶴(浜)」 =「タン・チ」=「こちらの・水のしたたり」
◎縄文語:「白(浜)/白(比古神社)」 =「シ・オ」=「山・裾」 ※全国の白浜は山裾の浜。
◎縄文語:「金崎」 =「カンナ・サン・ケ」=「上にある・平山・のところ」

 日本全国の白浜は「山裾の浜」です。南紀白浜、白兎海岸もです。白比古神社も山裾にあります。いずれも新羅は関係ありません。

◎縄文語:「白兎」 =「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜・のところ」
 
 田鶴浜の「タン=こちらの」はよくある対比表現で、近隣に同様(より大きな場合が多い)の地勢があります。東に七尾港があります。
「金(かな)」は「カンナ=上にある」の縄文語に充てられる漢字です。


■白比古神社(白浜町)※山裾の神社、山裾の浜。

■金崎周辺(現白浜町) ※上にある平山のところ。山裾。



 そもそも新羅も縄文語圏ですから、国名も姓も縄文語解釈可能です。これらも地勢と完全に一致します。

◎縄文語:「斯羅」 =「シ・オ」=「山・裾」 ※太白山脈のふもと。
◎縄文語:「新羅」 =「シロケ(or シ・オ・ケ)」=「山裾(or 山・裾・のところ)」 ※太白山脈のふもと。
◎縄文語:「金」 =「キ」=「山」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]熊来・久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)・熊淵・荒熊・小牧白山神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「熊来・久麻加夫都阿良加志比古神社」について(『石川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【万葉集で有名な熊来の入り江に面した中島の町から、熊木川を二〇分ほどバスでさかのぼると、道ばたに一六五〇(慶安三)年に建てられた両部鳥居が見える。ここが『延喜式』に見える久麻加夫都阿良加志比古神社。えらく長い社号だが、久麻はコマ、つまり高句麗に通ずる。古代の渡来人の足跡を物語るやしろとみてよい。】

×「久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神」について(『久麻加夫都阿良加志比古神社由緒』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【熊甲、詳しくは久麻加夫都阿良加志比古神社と称して、ご祭神は阿良加志比古神、都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の二柱をお祀りしてあります。】

×「熊淵」について(『石川県鹿島郡誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【往古此辺に荒熊栖み居て人を害す。即ち阿良加志比古神、少彦名神協力して退治し給えりとて、かく名付けたりと。説に曰く、熊淵「高麗ブチ」の転訛せしものならんか。按ずるに鎮守祭神阿良加志比古なる語源は抑も高麗語に出ず。】

×「久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【都奴加阿良斯止とは、さきの越前でみた都怒我阿羅斯等とおなじものであることはいうまでもない。阿良加志比古にしてもそれで、これはいずれものち新羅や百済に九州された古代南部朝鮮の小国家安羅(阿羅・阿良)から来たものだということをその名に残したものなのである。<中略>
 この神社は高句麗と新羅とのそれが重なり合ったものなのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「熊来」 =「クマ・ケ」=「横山・のところ」
◎縄文語:「久麻加夫都/阿良加志」 =「クマ・カ・プツ/アケ・ウシ」=「横山・のほとりの・川口/一方の・ところ」
◎縄文語:「熊淵」 =「クマ・プチ」=「横山の・川口」
◎縄文語:「荒熊」 =「ア・クマ」=「一方の・横山」

 「熊来」「久麻加夫都阿良加志比古神社」「荒熊」「熊淵」は熊木川河口の地勢を表したものです。新羅も高句麗も関係ありません。阿良加志比古と少彦名に荒熊が退治される物語は、渡来人と先住民を象徴しているのかもしれません。
 熊野本宮大社も「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」の意で、熊野川対岸の峰を指しています。


■熊木川河口 ※横に平べったい峰の川口。

■熊野本宮大社対岸の峰 ※横に平べったい山。



 朝鮮半島南部の意富加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(別名:于斯岐阿利叱智干岐)。渡来は第十一代垂仁天皇の時ですが、この時代は記紀が邪馬台国の台与の事績を隠蔽している頃にあたります。この周辺の時代に渡来人の出自を装飾する創作物語が詰め込まれています。

 たびたび繰り返して申し訳ありません。都怒我阿羅斯等と于斯岐阿利叱智干岐は敦賀半島の言い換え表現です。

◎縄文語:「都怒我阿羅斯等/都奴加阿良斯止」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」= 立石岬/敦賀半島
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」=敦賀半島/立石岬

 久麻加夫都阿良加志比古神社と高句麗は関係ありませんが、末社に「小牧白山神社」、後ろに「加茂社」があります。これは「高麗」と非常に相性がよい神社ですが、朝鮮半島の「高麗」ではありません。縄文語の「コ・マ」=「湾曲する・谷川」つながりです。

◎縄文語:「小牧/白山」=「コ・マ・ケ/ハ・サン」=「湾曲する・谷川/浅い・平山」
◎縄文語:「加茂/高麗」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」

 全国の高麗、カモ神社の多くは「湾曲する川」の地勢を指しています。
 また、「白山(はくさん)=浅い・平山」と「熊(クマ)=横に平べったい山」も非常に相性がよく、白山神社と熊野神社が重なるように存在する地域が多数あります。
 このように神社はその創作された由緒で南方系の先住民文化を北方系渡来文化で上書きする役割を担っています。


■加茂社と熊木川 ※湾曲する川。


■小牧白山神社裏の山 ※浅い平山。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]穴水町・富来町・美麻奈比古神社・白山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穴水町・富来町」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(穴水町)これも古代南部朝鮮の小国家であった安羅が安那・安耶、または阿羅・阿那・阿耶であったことからきたものにちがいなかった。
 ついでにいえば、能登には中島町の西方に羽咋郡富来町というのがある。九州の渡来人にいまもその姓を渡来(とらい)としているものがある例からすると、これなども富来(とらい、渡来)ともよめなくはない。この富来もさきに一人で来たとき行ってみたけれども、ここはもと荒木郷だったところで、いまも字名に荒木があり、荒木浦、荒木隧道というのもあった。
 この荒木にしても穴水や熊木(高麗来)とおなじで、安羅、すなわち安羅来(あらき)ということからきたものではなかったかと思う。しかしさきにも書いたように、そんなことまでいちいち詮索していてはきりがないのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「穴水(町)」 =「アゥナ・モィ・チャ」=「隣の・入り江の・岸」
◎縄文語:「富来(町)」 =「テュ・ケ」=「峰、岬・のところ」
◎縄文語:「荒木(郷)」 =「アケ」=「一方のところ」

◎縄文語:「安羅/阿羅」 =「アゥ・ラ」=「隣の・低地」
◎縄文語:「安那/阿那」 =「アゥ・ナ」=「隣の・方」
◎縄文語:「安耶/阿耶」 =「アゥ・ヤ」=「隣の・陸岸」

 穴水町、富来町、荒木郷とも、朝鮮半島からの渡来人を指している訳ではありません。いずれも当該地の地勢を表現した縄文語です。朝鮮半島南部と同じ地勢に同じ地名が与えられているだけです。

 九州の渡来という姓もおそらくは縄文語由来でしょう。渡来人の姓で有名な「村主」でさえ、縄文語由来の可能性があります。日本の苗字が無数にあるのは、各地の地勢を表現した縄文語に漢字を充てているからです。

◎縄文語:「渡来」 =「トラィ」=「湿地の水たまり」
◎縄文語:「村主」 =「シ」=「山」


■穴水町 ※隣の入り江の岸。


■旧富来町周辺 ※峰、岬のところ



 穴水町には美麻奈比古神社があり、美麻奈比古神、美麻奈比咩神、白山神を祀っています。所在地名は「白山(しらやま)」です。『日本の中の朝鮮文化』ではこれらが朝鮮の神様だとありますが、これも縄文語由来です。白山は「はくさん」でも解釈します。

◎縄文語:「美麻奈」 =「メマン・ナィ」=「冷たい・川」
◎縄文語:「白山」 =「シ・オ・ヤマ」=「山の・ふもとの・山」
◎縄文語:「白山」 =「ハ・サン」=「浅い・平山」※全国のハクサンは加賀の白山も含め、「浅い平山」の地勢。


■美麻奈比古神社 ※山裾の神社。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]高屋浦・薬師・馬緤浦・春日神社・本光寺・秦氏~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高屋浦・薬師」について(『石川県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
高屋浦は、西に大きな岩島があって外浦海岸には珍しく、アイの風のかげにかくれる古くからの船だまりである。<中略>
 この村(現高屋町)のはずれの高台の薬師寺には、平安後期の木造薬師如来坐像が海を見おろす。一木彫成のおだやかな地方作。この仏のことを”刀禰の薬師”とよぶ。<中略>
 高屋浦から四キロほど西の海辺に、「砂取節」で知られる馬緤浦(まつなぎうら)がある。鎮守の春日神社の古い随神像には、大永八(一五二八)年馬緤浦恒利名の名主秦恒利の銘が残り、またこの一族に支えられた本光寺(曹洞宗)にも秦一族の寄進状が何通か残っている。秦氏はまぎれもない渡来人の姓だ。若狭と同じように、奥能登の浦の刀禰に秦姓が多いのは、古代の奥能登が、朝鮮半島と交流が多かったことの証拠である。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高屋(浦)」 =「ト・ヤ」=「突起した・陸岸」
◎縄文語:「薬師(寺)」 =「ヤ・ケ」=「陸岸の・末端」(海岸、川岸) ※高屋日吉神社。全国の薬師寺、薬師神社は岸辺。
◎縄文語:「馬緤(浦)」 =「マーテュ・ノッケ」=「屈曲した波打ち際の・岬」
◎縄文語:「春日(神社)」 =「カケ」=「その上のところ」(高台) ※奈良の春日大社も春日山の裾野の高台。
◎縄文語:「本光(寺)」 =「ポン・コッ」=「小さな・窪地」
◎縄文語:「秦(氏)」 =「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」 ※秦氏の活躍が語られるところは水辺。

 縄文語解釈と地勢がすべて一致しています。

 秦氏は水辺を拠点とした者が「秦」氏を名乗っただけの可能性があります。とすれば、秦氏というのは血縁の一族ではないことになります。京都以外の秦氏が渡来人かどうかも定かではありません。
 ただし、神社や寺社は都合の良い由緒を創作して先住民文化を上書きしていますから、確実に北方系渡来人に与していると考えられます。


■高屋日吉神社(刀禰薬師) ※突起した陸岸。岸の末端。全国の薬師神社、薬師寺は岸辺。


■馬緤城、本光寺 ※屈曲した波打ち際の岬。小さな窪地。


■馬緤城、本光寺前の岬 ※水がよどんでいるところ。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[石川県]須須神社・高倉彦・古麻志比古神社・加志波良比古神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「須須神社・高倉彦・加志波良比古神社・古麻志比古神社」について(『珠洲市十年誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【 半島の先端部に位置する獄信仰に基づく須須神社、帰化人系と考えられる古麻志比古神社、同じく渡来神の伝承をもつ加志波良比古神社がそれである。特に須須神社の祭神高倉彦神は、既に貞観十五年(八七三)従五位下から従五位上に神階が進められていることからみて、特に中央からその存在が認められていたのであろう。】

×「須須神社・高倉彦・加志波良比古神社・古麻志比古神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 「帰化人系と考えられる古麻志比古神社」の古麻志とはもちろん「高麗(こま)の(志は”の”という助詞)」ということであろうが、「須須神社の祭神高倉彦神」にしても、こうくら(高倉)こうくり(高句麗)とつうじるもので、これも高麗、すなわち高句麗のそれではなかったかと思う。奈良時代に造宮卿だった高麗福信が、のち高倉福信となったことからもそれはわかる。
 こうしてみると、いまみた刀禰の秦氏といい、この珠洲にも新羅系の渡来人と、高句麗系のそれとが重なり合っていたのである。つまり能登はどこもかしこも、ほとんどがそれであった。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「須須(神社)」 =「シテュ」=「大きな峰の走り根」
◎縄文語:「高倉(彦)」 =「ト・カ・キ」=「湖沼、海・のほとりの・山」
◎縄文語:「古麻志(比古神社)」 =「コ・マ・ウシ」=「湾曲した・谷川・のところ」
◎縄文語:「加志波良(比古神社)」 =「カ・ハ・ラ」=「その上・水が引いた・低いところ」

 繰り返しになりますが、神社というものはそもそも南方系先住民のものではありません。南方系とは縄文語を共有する倭人、朝鮮半島南部(百済庶民、新羅、加羅諸国)、東夷南蛮の人々です。神社というものは、六~七世紀以降、日本の覇権を握った北方系、百済王族、高句麗の扶余系民族を日本の歴史に結び付け、その権力を正当化するために設けられているものです。
 その証拠に、神社名の多くは地勢と一致する縄文語解釈が可能ですが、それら由緒にはまったくその内容が見られません。由緒で語られるのは意味不明な漢字こじつけ神様の創作物語です。それは記紀風土記の内容と密接に連携しています。

 この周辺の神社も例外ではありません。
 古麻志比古神社は高麗とは無関係です。何度も言うように、日本全国の高麗(こま)は「湾曲した谷川」あるいは「湾曲した山(丸山)」の地勢です。
 また、加志波良比古神社も渡来神とされている理由が分かりません。これなどは完全に縄文語(アイヌ語)の発音と地勢が完全一致しています。奈良の橿原も「上の方の低地」で同じ地勢を指しています。


■古麻志比古神社 ※湾曲した谷川。


■加志波良比古神社 ※上の方の水が引いたところ。



 須須神社に祀られる高倉彦神も、もちろん高句麗とは関係ありません。石川県の「高倉」の場合は「海のほとりの山」の意です。
 高倉福信(高麗朝臣)の名を出して高句麗系だいうことですが、これも違います。高倉福信の出身地である武蔵国高麗郷「湾曲する川」に渡来系物語が結びつけられていて、たとえ『続日本紀』にある高句麗系の人々の移住が史実だとしても、先住民文化を上書きするために大げさに伝えられている可能性が大です。


■須須神社、高倉彦神 ※大きな峰の走り根。海のほとりの山。


■武蔵国高麗神社 ※湾曲する高麗川。



 高倉福信の「高倉」が「湖沼、海のほとりの山」を指す例がほかにもあります。
 高倉福信が「高麗」から「高倉」に姓を変えるきっかけとなったのが、高倉福信が手がけた光仁朝の楊梅宮完成ですが、これは平城京の東方の「湖沼岸の丘陵」にあります。
 また、伊勢の豊受大神宮の背後には「高倉山」がありますが、これも「湖沼のほとりの山」です。

 いずれも地勢と完全に一致する縄文語解釈が可能ですが、それら由緒にはまったく現れません。先住民文化が徹底して避けられています。


■高倉福信が手がけた楊梅宮(比定地:宇奈多理坐高御魂神社) ※湖沼のほとりの山。


■豊受大神宮背後の高座山 ※湖沼のほとりの山。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[富山県]高瀬神社・秦人部・飛鳥戸・呉羽丘陵・~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高瀬神社・高瀬神」について(『小矢部市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【砺波の文化を考えるとき、まず異国の文化が入りこんでいたと思われる節がある。まず越中一ノ宮といわれた高瀬神社の伝承が『越中神社志料』に見える。
 「式内砺波郡七社の第一也 往古は越中一ノ宮なりという、古来里人伝えて云、此御神は往古、高麗より御渡り、此地へ御著の日は七月十四日なりと」
 高瀬の大神が高麗から渡来されたとしているが、これを『越中国式内旧社記』によると、
「一、高瀬神社式内一座、高瀬郷高瀬村鎮座、祭神五十猛命、称高瀬明神、或云高瀬権現 蓋高麗高瀬の誤カ」】

×「蕃神と帰化人」について(『小矢部市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【 単に寺院や神社の開基を異国人とするだけではなく、古代の砺波地方には帰化人がいた実証があり、彼らは当然異国の神を祀ったことであろう。『越中国官倉納穀交替記』に<中略>見えるが、秦人部は大化改新以前には秦氏の部民であった。そのころ、すでに漢氏と並び称された、秦氏の部民が於かれたと推測されるが、<中略>
 (同書に見られる)飛鳥戸は最近の学説では飛鳥部とは別で、帰化人の特定の集団に限って名づけられたといわれる。さすれば、この百済系帰化人(おそらく河内国安宿(あすかべ)郡からの移住であろう)飛鳥戸氏が相当強固に砺波地方に根を張っていたのであろう。 今日では、砺波郡内にある神社の祭神はすべて古事記・日本書紀に見える神になっており、本来のすがたはあらわされていない。しかし、古い伝承を吟味して祭祀の風習などを調査すれば、自らあきらかになるものがあろう。ともかく郡内では、まず最初に異国の神々の存在をわすれてはならない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高瀬(神社)」 =「タン・コッ・チャ」=「こちらの・窪地、谷の・岸」
◎縄文語:「秦人(部)」 =「ハッタ・ピタ」=「淵、水がよどんだところの・小石河原」
◎縄文語:「飛鳥(戸)」 =「アッ・チャ・カ」=「一方の・岸の・ほとり」

 神社に百済、高句麗の渡来人が関わっていることは日本全国共通です。北陸に限ったことではありません。日本全土に異国文化が根を張っています。平城京、平安京、国衙、神社、寺社がその代表なので当然です。

 六~七世紀に覇権を握った北方系渡来人(百済王族系、高句麗系)は、先住民が呼んでた地名に漢字を充て、適当な神様と由緒を創作しています。彼らが神社で神を祀りはじめた動機は、南方系先住民文化の上書きにあります。その証拠に、神社名のほぼすべては地勢と一致する縄文語解釈が可能であるにもかかわらず、それらの由緒には縄文語解釈のかけらも見当たりません。

 しかし「高瀬神社が異国の神を祀っている」という伝承が地元の人に残っているのは、大変興味深いことです。逆に考えれば、地元の人々は北方系ではなく、南方系の先住民だったということになります。

 「高瀬神社」の場合は、この地域で活躍した「秦人部」、「飛鳥戸」とも辻褄の合う縄文語解釈が可能です。秦氏の「秦」は「ハッタ=淵、水がよどんだところ」の意で、「飛鳥」は「一方の岸」の意です。全国の秦氏の活躍が語られる土地は水辺です。機織りは関係ありません。飛鳥の「一方の岸のほとり」の解釈は河内や大和にも当てはまります。
 つまり、高瀬神社周辺は低湿地だったということです。砺波市も縄文語解釈すると、

◎縄文語:「砺波(市)」 =「ト・ノミ・イ」=「湖沼を・祀る・ところ」

 と解釈できます。 これが妥当だとすれば、高瀬神社はもともと「湖沼を祀る」先住民の自然崇拝だったということになります。そこに北方系渡来人が神様を創作して由緒を上書きしたということです。

 若干根拠が貧弱なので、高瀬神社周辺の地名も縄文語解釈してみます。 丘陵と水辺があったことが分かります。


■砺波市高瀬神社周辺 ※「水辺と岬」の解釈で一致。 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「飛騨屋」 =「ピタ・ヤ」=「小石河原の・岸」※高瀬神社の北方。 秦人部の解釈と符合。
◎縄文語:「焼野」 =「ヤケ・ノッ」=「岸辺の・岬」※高瀬神社の西北。
◎縄文語:「野原」 =「ノ・ハ・ラ」=「よく・水が引いた・低地」※高瀬神社の西方。
◎縄文語:「八塚」 =「ヤン・テュ」=「陸岸にある・小山」 ※高瀬神社の西方。
◎縄文語:「三清」 =「サン・ケ・ヤ」=「出崎・のところの・陸岸」 ※高瀬神社の西南方。
◎縄文語:「森清」 =「モ・リ・ヤ」=「小さな・高台の・陸岸」 ※高瀬神社の西南方。
◎縄文語:「北市」 =「キタィ・エテュ」=「上流の・岬」 ※高瀬神社の南方。
◎縄文語:「戸板」 =「ト・エテュ」=「湖沼の・岬」 ※高瀬神社の南東方。
◎縄文語:「山見」 =「ヤマ・メ」=「山の・泉」 ※高瀬神社の南東方。
◎縄文語:「坪野」 =「トパ・ノッ」=「沼頭の・岬」 ※高瀬神社の東方。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「呉羽丘陵」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 越中一の宮となっている高瀬神社の高瀬が高麗であり、それが高句麗からの渡来人によって祭られたものであったとすると、呉羽丘陵の呉というのも、その高句麗の句麗からきた公算が大きくなる。<中略>
 呉羽丘陵の杉谷台地で発見された四隅突出型古墳のナゾは、案外こういうところに秘められているのではないかとも思われる。】

×「栗原(呉原)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 朝鮮語では高句麗というその句麗が呉となっている例は、たとえば大和(奈良県)飛鳥の栗原にみられる。
 ここはいま栗原となっているが、もとは『日本書紀』雄略十四年条に、「即ち呉人を日隈野におらしむ。よりと呉原と名づく」とあるその呉原であった。ここにいう「呉人」とは、かつての中国にあった呉国人ということではない。これは句麗人、すなわち高句麗人ということで、栗原にはいまもその祖神を祭った呉津彦神社があり、呉原寺跡もあって礎石を残している。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「呉羽(丘陵)」 =「キ・パ」=「山の・頭(先端)」
◎縄文語:「栗原(呉原)」 =「キリ・ハ・ラ」=「山の・水が引いた・低地」
◎縄文語:「呉津(彦神社)」 =「キ・チャ」=「山の・ほとり」

 富山平野の真ん中を南北に走る呉羽丘陵は、牛岳から北方にのびた峰の先端にあります。高句麗は地名に関係ありません。
 奈良の栗原の「栗」、呉津彦神社の「呉」も「山」の意です。

■呉羽丘陵  ※山の先端。

■奈良県栗原地区 ※山のほとりの低地。




◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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