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日出ずる国のエラーコラム

【 第五十一回 ~ 第六十回 】

 邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。

日出ずる国のエラーコラム
第六十回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(五)~揖保郡編(1)~觜崎は「石がたくさんある山」の意、大国主は橋をかけていない!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回から揖保郡。数回に分けてお届けします。

【今回取り上げる内容】
香山里/家内谷/佐々村/阿豆村/飯盛山/大鳥山/栗栖里/廻川/金箭川/阿為山/越部里/鷁住山/棚坐山/御橋山/狭野村/神阜/上岡里/殿岡/日下部里/立野

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


□□□「伊刀嶋」命名由来 □□□

※多くの検証を要するので、後段でコラムを独立させて、浦上里の他の島々(家島、神島、韓荷嶋、高嶋)とともに、まとめてご紹介します。


■■■「香山里(かぐやま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「本の名は、鹿来墓(かぐはか)である。<中略>伊和大神が国占めした時、鹿が来て山の峰に立った。山の峰も墓に似ていた。だから、鹿来墓と名づけた。その後、道守臣(ちもりのおみ)が宰(みこともち)だった時になって、名を改めて香山とした」

◎縄文語:
・香山=「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」
・鹿来墓=「カッ・ク・パ・カ」=「形が・弓の・岬の・ほとり」
⇒google map
⇒googleストリートビュー


 これは、奈良の香久山と同語源です。いずれもとても弓に似ている形状です。⇒googleストリートビュー(奈良の香久山)

  是非見比べてみてください。


□□□「家内谷(やぬちだに)」命名由来 □□□

×風土記
:「これは香山の谷である。形は、垣が取り囲んでいるようであった。だから家内谷と名づけた」

◎縄文語:「ヤ・ノッチ・ウン・ティネイ」=「岸辺の・岬・にある・湿地」⇒google map


 比定地は家氏(いよじ)地区で、「皇祖神社」があります。ちょうど皇祖神社の付近から見たのが前項の香山のストリートビューです。

 「香山」の山の形状も、「家内谷」の場所も一致しています。あとは「湿地」の地勢ですが、揖保川対岸の宍粟市宇原が、

●宇原(うわら)=「ウェン・ラ」=「難所の・低いところ」

 と解釈できるところから、治水技術が発達していない時代には、水気の多い難所だったのかもしれません。ちょうど揖保川が蛇行し、両岸から山が迫っているところです。


□□□「佐々村」命名由来 □□□

×風土記
:「応神天皇が巡行した時、サルが笹の葉をくわえているのに遭った。だから佐々村という」

◎縄文語:「サン・チャ」=「前にある・岸」
or「サン・サ」=「前にある・浜」
⇒google map


 ちょっと自信がありません。ほかにも解釈がありそうです。


□□□「阿豆村」命名由来 □□□

×風土記
:「伊和大神が巡行していた時、『ああ、心の中が熱い』と告げて、衣の紐を引きちぎった。だから、阿豆と名づけた。別の伝えでは、昔、天に二つの星があった。地に落ちて石となった。それで、人々が集まってきて議論した。だから、阿豆と名づけたと言っている」

◎縄文語:「アゥ・チャ」=「枝分かれた・岸」
⇒google map


 揖保川と栗栖川の分岐点。縄文語解釈そのままです。


□□□「飯盛山」命名由来 □□□

×風土記
:「讃伎国の宇達(うたり)郡の、飯の神の妻は、名を飯盛の大刀自(おおとじ)という。この神が渡って来て、この山を占有していた。だから、飯盛山と名づけた」

◎縄文語:「エエン・モ・ル」=「尖った・小さな・岬」

⇒google map
⇒googleストリートビュー

  市立新宮中学校西側の天神山が比定地です。ストリートビュー右が中学校、正面が天神山です。縄文語解釈そのままのきれいな三角形の山です。うまく命名するものだと感心させられます。


□□□「大鳥山」命名由来 □□□

×風土記
:「鵝(おおかり)がこの山にいた。だから、大鳥山といった。」

◎縄文語:「オント・ル」=「尻の(ふもとの)・山」

⇒google map


 大きな鳥は関係ありません。地勢そのままです。末端の山。


■■■「栗栖里」命名由来 ■■■

×風土記:「仁徳天皇が勅(みことのり)して、削った栗の実を若倭部連池子(わかやまとべのむらじいけこ)に賜った。それを持ち帰り、この村に植え生やした。だから、来栖と名づけた。この栗の実は本から皮を削ってあるので、その後も渋がない」

◎縄文語:「キレテュ」=「岬」⇒google map


 これはおそらく新宮町柴田に突き出た岬とするのが相応しく思えます。次の「廻川」の解釈とも整合性がとれています。


□□□「廻川(めぐりがわ)」命名由来 □□□

×風土記
:由来記載なし

◎縄文語:「マクン・ル」=「奥の・岬」⇒google map

 栗栖の地名由来を参考にすると、「栗栖の後ろの岬」に流れる川という意味ととれます。荒神社のある峰です。

 川がいわゆる川の意味ではなく、

●「カ・ワ」=「ほとりの・岸」=岸辺

 の可能性もあります。川のない糸魚川の「川」と同じ用法です。

 ちなみに、糸魚川は

●糸魚川=「エテュ・エ・カ・ワ」=「岬の・頭の・ほとりの・岸」

 で、「親不知・子不知の岬のほとりの岸」という意味だと思います。糸魚川を姫川のこととするのが通説ですが、それも否定はできません。
 ただ、姫川も

●姫川=「シ・ムィ・カ・ワ」=「大きな・頂の・ほとりの・岸」

 と解釈すれば、糸魚川の解釈とも整合性がつくことになります。


□□□「金箭川(かなやがわ)」命名由来 □□□

×風土記
:「応神天皇が巡行した時、御狩猟用の金箭(かなや)をこの川に落とした。だから金箭と名づけた」

◎縄文語:「カンナ・ヤ(川)」=「上の方の・岸」
or「カンナ・ヤケ・ワ」=「上の方の・岸の・ふち」
⇒google map

  栗栖、廻川の縄文語解釈からすれば、これは、荒神社の谷を流れる栗栖川支流の小河川を指したのではないでしょうか。小河川がふたつありますので、それぞれ廻川と金箭川なのかもしれません。


□□□「阿為山(あいやま)」命名由来 □□□

×風土記
:「応神天皇の世に紅草(くれのあい)がこの山に生えていた。だから、阿為山と名づけた。名のわからない鳥が住んでいる。正月から四月に到るまで見え、五月より後は見えない。形は鳩に似ていて、色は紺のようである」

◎縄文語:「ア・ヤマ」=「一方の・山」
⇒google map


 これが、廻川の由来となった「奥の岬」のことではないでしょうか。荒神社が裾にある山です。

 荒神社は一般的に「コウジンジャ」と読み、「台所の神」とされる「荒神」を祀っているようですが、その出所ははっきりしないようです。荒神社の数は全国で西日本中心に700カ所以上あります。

 これは前述した「荒川」と同じ縄文語解釈で、高確率で、

●荒=「ア」=「一方の、隣の」

 という意味を表し、近くに同じ地形がある場合が多いです。日本各地の荒川のほとんどが本流に対する支流を表し、関東の荒川も利根川の対比と考えられます。

 今回の荒神社も、縄文語の「ア」に「荒」という漢字を充てた結果、日本各地に無数に「荒」を冠する地名が生まれ、その一部に「荒神」を祀る「荒神社」が建てられたということではないでしょうか。

 この新宮町の栗栖川周辺には少なくとも三つの荒神社がありますが、すべて、川の分岐点となっていて「一方の川」あるいは「一方の川岸」を指していることが分かります。

 荒神社をこのように解釈すれば、阿為山も「栗栖の岬」の対比として「ア・ヤマ=一方の山」と捉えることができ、整合性がとれることになります。


■■■「越部里(こしべ)」命名由来 ■■■

×風土記:「旧名は皇子代里(みこしろのさと)である。<中略>安閑天皇の世に、沖にいい利だった但馬の君小津が寵愛を受け、姓を賜って、皇子代の君として、三宅をこの村に造って奉仕させられた。だから、子代といった。その後、上野大夫に至り、三十戸を結んだ時、改めて越部の里と名づけた。別伝では、但馬国三宅から越して来た。それで越部の村と名づけたとある」

◎縄文語:「コッチャ・ウン・ペ」=「沢の入口・にある・ところ」
⇒google map


 沢の入口ですから、リンク先にある越部八幡神社付近の小河川のことか、揖保川と栗栖川の分岐のことだと思われます。

 ちなみに、全国の八幡神社はほぼ川沿いにあります。なぜなら、

●八幡=「ペッチャ」=「川端」

 の意だからです。「ペッチャ」の発音に「八幡」の漢字が充てられ、八幡大神が勧請されたにすぎません。
 ほかに、同語源と思われる川沿いを指す地名には「人見」「富士見」「二間」「八前」などがあります。詳しくは第三十七回コラムの八幡塚古墳、荒砥富士山古墳をご参照ください。


□□□「鷁住山(さぎすみやま)」命名由来 □□□

×風土記:「昔、鷁が多くこの山に住んでいた。だから、それによって名とした」

◎縄文語:鷁住山=「サ・ケ・スミ」=「浜の・ところの・西」⇒google map


 鷁住山の比定地ははっきりとしませんが、縄文語解釈から探ってみます。
 新龍アルプス北端の祇園岳の北に、栗栖川西岸の柴田地区に向かって西から伸びる尾根があります。その先端の山を柳森山と呼ぶらしいのですが、これを縄文語解釈すると、

●柳森山=「ヤ・ナ・キムィ・オロ」=「陸岸の・方の・頭(岬)の・ところ」⇒google map


 と解釈できるので、鷁住山の解釈とも一致します。
 風土記の鷁が住んでいたというのは、詐欺の間違いではないでしょうか。風土記は本当に嘘つきです。


□□□「棚坐山(たなくらやま)」命名由来 □□□
※木へんに閣

×風土記:「石が棚に似ていた。だから、棚坐山と名づけた」

◎縄文語:鷁住山=「タン・ノッケ・オロ」=「こちらの・岬の・ところ」⇒google map


 祇園嶽に比定されています。鷁住山の対比としての命名ではないでしょうか。柳森山の解釈とそっくりです。


□□□「御橋山(みはしやま)」命名由来 □□□

×風土記:「大汝命(おおなむちのみこと:オオクニヌシ)が俵を積んで橋を立てた。山の石が橋に似ていた。だから、御橋山と名づけた」

◎縄文語:御橋山=「ムィ・ピィェ・アッ・シ」=「山頂の・石が・たくさんある・山」⇒google map
⇒googleストリートビュー


 たつの市新宮町觜崎(はしさき)にある屏風岩に比定されています。觜崎も「ピィェ・アッ・シ」を語源としているのではないでしょうか。
オオクニヌシも橋も関係ありません。


□□□「狭野村」命名由来 □□□

×風土記:「別君玉手(わけのきみたまて)たちの遠い祖先はもともと、川内国の泉郡に住んでいた。その地が不便だったので、移ってこの地にやってきた。そこで『この野は狭いが、やはり、住むのによい』と言った。だから狭野と名づけた」

◎縄文語:「サン・ヌ」=「前にある・野」⇒google map


 地勢とは合致していますが、特徴のない解釈なので、残念ながら確度に自信はありません。


□□□「神阜(かみおか)」命名由来 □□□

×風土記:「出雲国の阿菩大神(あぼのおおかみ)が大倭(やまと)国の畝火、香山、耳梨の三山が闘い合っていると聞いた。そこで諫め止めようと思い、上ってきた時、ここに到り、闘いが止んだと聞いて、乗っていた船を覆(ふ)せて鎮座した。だから、神阜と名づけた。丘の形は船が覆ったのに似ている」

◎縄文語:「カィ・ムィ・オ・カ」=「折れ波のように曲がっている・頂の・ふもとの・ほとり」
⇒google map
⇒googleストリートビュー(狭野村、揖保川西岸から)


 通説では、風土記の記載順が乱れていて、神阜の記述は直後の上岡里に属するというのが一般的なようですが、縄文語解釈では狭野村西部の山並み(新龍アルプス)としてもまったく辻褄が合います。

 上岡里の比定地は、揖保川対岸の神岡町なので、ここも「折れ波のような山並み」のふもとと判断できます。 ⇒googleストリートビュー(上岡里、揖保川東岸から)

 風土記の記載順は本当に乱れているのでしょうか。この条を書いた人も元資料を見聞いて混乱していたのかもしれません。


■■■「上岡里(菅生)」命名由来 ■■■

×風土記:「本は林田里である。土は中の下。菅が山のあたりに生える。だから菅生といった。別伝では、応神天皇が巡幸した時、井をこの岡に作ったところ、水がとても清らかで冷たかった。そこで言ったことは、『水が清くて冷たいので、私の心もすがすがしい』と言った。それで宗我冨といったとある」

◎縄文語:「シ・カ・オ」=「山の・ほとりの・川口」=山裾の川の合流地点
⇒google map


 縄文語解釈は、これ以上的確な表現はないというぐらい地勢に合致しています。

 菅生に関しては、すでに第五十八回コラムの菅生里の項で全国の「菅生」の地名を検証しています。ほぼ「山裾の川の合流地点」の意で間違いありません。

 応神天皇は関係ありません。


□□□「殿岡」命名由来 □□□

×風土記:「殿をこの岡に造った。だから殿岡という。岡に柏が生えている」

◎縄文語:「タン・ノッ・オ・カ」=「こちらの・岬の・尻の・ほとり」
⇒google map


 「タン=こちらの」がつくので、対比とする地名が付近にあるかもしれません。


■■■「日下部里」命名由来 ■■■

×風土記
:「人の姓によって名とする」

◎縄文語:「クッチャ・カ・ウン・ペ」=「川口の(川の合流点)・ほとり・にある・ところ」
⇒google map


 比定地は不明です。
 縄文語解釈では「揖保川と栗栖川の合流点のほとり」という意味で場所は明らかです。人名の「日下部」自体が、「河口」「川の合流点」の地名から命名したものと思います。

 解釈確度を上げるために、他地域の日下部、草壁、草ヶ部等も調べて見ます。ほぼ、「河口のほとり」「川の合流点のほとり」で間違いありません。

◎山梨県東山梨郡日下部町(現山梨市中心部北半分、山梨市役所周辺)⇒google map
 ※笛吹川と支流の合流点のほとり。
◎愛知県長久手市草掛⇒google map
 ※香流川と支流の合流点のほとり。
◎愛知県豊田市日下部町⇒google map
  ※小河川の合流点のほとり。
◎大阪府東大阪市日下町⇒google map
 ※小河川の合流点のほとり。
◎兵庫県神戸市北区日下部⇒google map
  ※八多川と有馬川の合流点のほとり。
◎兵庫県淡路市草香⇒google map
  ※河口のほとり。
◎岡山県岡山市東区草ケ部⇒google map
  ※大池から水が流れ出る口。または、小河川の合流点のほとり。
◎岡山県真庭市草加部⇒google map
  ※旭川と支流の合流点のほとり。
◎鳥取県米子市日下⇒google map
  ※川の合流点のほとり。
◎鳥取県八頭郡智頭町(旧草部:くさかべ)⇒google map
  ※千代川と支流の合流点のほとり。
◎鳥取県八頭郡八頭町日下部⇒google map
  ※八東川と小河川の合流点のほとり。
◎島根県出雲市日下町⇒google map
  ※小河川の合流点のほとり。
◎香川県小豆郡小豆島町草壁本町⇒google map
  ※別当川河口のほとり。
◎熊本県阿蘇郡高森町草部⇒google map
  ※小河川の合流点のほとり。

【例外】
◎新潟県村上市日下⇒google map
  ※川の合流点とは少々離れているか。
◎愛知県稲沢市日下部⇒google map
  ※後世の開発で地勢が把握できません。他にもこの辺一帯に日下部のつく地名があり。
◎岡山県津山市草加部⇒google map
  ※川口ではない。別の由来か。


□□□「立野(現竜野、龍野、たつの)」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、土師弩美宿禰(はにしのみのすくね)が出雲の国に行き通い、日下部の野で宿り、病気を患って死んだ。その時、出雲の国の人がやってきて並び立ち、人々は川の礫石を取り上げて運び渡し、墓の山を作った。だから、立野と名づけた。その墓屋を名づけて出雲の墓屋とした」

◎縄文語:「テューテュ・ノッ」=「出崎の・あご(岬)」※峰の突端 ⇒google map


 相撲で有名な土師氏祖の野見宿禰(日本書紀)のことで、ここで亡くなったということです。本当かどうか分かりませんが。特に第十一代垂仁天皇の頃は、邪馬台国の台与の事績を隠蔽している頃なので、かなり疑わしさが漂います。埴輪を考案したというのも考古学上からウソだと判明しています。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか


日出ずる国のエラーコラム
第五十九回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(四)~飾磨郡編(2)~伊刀嶋は島ではない!「岬の入り江」の意だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。飾磨郡後編。賀野里から。

【今回取り上げる内容】
賀野里/韓室里/巨智里/安相里/枚野里/大野里/栗栖里/少川里/高瀬村/豊国村/英馬野/射目前/壇坂/御立丘/伊刀嶋(飾磨郡)/英保里/美濃里/因達里/安師里/多志野(漢部里)/阿比野(漢部里)/手沼川(漢部里)/馬墓池(胎和里)/飾磨の御宅

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■「賀野里(かや)」命名由来 ■■■

×風土記
:「応神天皇が巡行した時、ここに殿を造って、蚊屋を張った。だから加野と名づけた。山と川の名も里と同じである」

◎縄文語:「カヤ」=「岸辺」⇒google map


 賀野里の領域は定かではないのですが、夢前川中流域に比定されることが多いようです。(参考:姫路市教育委員会 文化財見学シリーズ65)


■■■「韓室里(からむろ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「韓室首宝等(からむろのおびとたからら)の祖先の家がたいへん富み栄えて韓室を造った。だから韓室と名づけた」

◎縄文語:「カ・ラ・ムィ(=モィ)・オロ」=「岸の・低いところの・入り江の・中」⇒google map


 「ムィ(=モィ)=入り江」は、海際だけでなく、山中の同様の地形にも使われますので、「川岸の入り江のような地形」という意味になります。

 因みに、比定地の現在の地名は「安室(やすむろ)」ですが、これも縄文語解釈すると、

●安室=「ヤン・シ・ムィ・オロ」=「陸岸にある(or陸に上がる)・大きな・入り江の・中」

 となり、「韓室」と意味が一致します。

 また、前掲の南に接する「漢部里(あやべのさと)」は

◎縄文語:「ア・ヤン・ペ」=「一方の・陸岸にある(or陸に上がる)・ところ」
or「アゥェ・ヤン・ぺ」=「枝分かれた・陸岸にある(or陸に上がる)・ところ」⇒google map

 の意味で、「安室=大きい岸」が「漢部=一方の岸」の対比となっている可能性があります。


■■■「巨智里(こち)」命名由来 ■■■

×風土記
:「草上の村・大立の丘。<中略>巨智たちがはじめてこの村に住まいした。それによって名とした。
草上という理由は、韓人山村たちの先祖、柞(なら)の巨智賀那(こちのかな)がこの地を願い出て、田を開墾した時、一かたまりの草があって、その根がとてもくさかった。それで草上と名づけた。
 大立の丘という理由は、応神天皇がこの丘に経って、地形ごご覧になった。だから大立の丘と名づけた」

◎縄文語
・巨智=「コッチャ」=「谷の入口」

・草上=「コッチャ・カ・ウン・ムィ」=「谷の入口の・ほとり・にある・入り江」
・大立=「オント・チャ」=「山裾の・岸」
⇒google map


 まず、風土記の「巨智」が住んだから「巨智」という由来は高確率でウソです。
 縄文語解釈が妥当であれば、地名よりも人の名前、しかも渡来人とされる人物の名が古いなどいうことは決してありません。可能性があるとすれば、「コッチャ=谷の入口」に住んだから「巨智」という名前にしたということでしょうか。もちろん、まったくの創作かもしれません。

 一連の縄文語解釈を見ると、「巨智里」は、夢前川が山峡に入る手前の地域を指しているように思えます。現在の安室地区の上手の方でしょうか。


■■■「安相里(あさぐ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「応神天皇が但馬から巡行した時、道中、天皇に御翳を差し掛けることを怠った。それで陰山の前と名づけた。
そこで国造豊忍別命が除名の罰を受けた。その時、但馬国造阿胡尼命が『どうかこれによって罪をお赦しください』と申し上げ、塩を作るための塩田二万代を奉って除名の罪を許された。
 塩代の田飼、但馬の朝来(あさぐ)の人がやってきてここに住んでいた。だから安相の里と名づけた。
 本の名は沙部(いさごべ)という。その後、里の名の字を改めて二字で注(しる)すことになったので、安相の里とした。
 長畝川と名づけた理由は、昔、この川に蔣(まこも)が生えていた。その時に賀毛郡長畝村(ながうねむら)の村人がやって来て蔣を苅った。その時、此処の石作連たち奪おうとして闘い、その長畝村の村人を殺し、川に投げ捨てた。だから長畝川と名づけた。<後略>」

◎縄文語:
・陰山=「コケ・ヤマ」=「曲がっている・山」
・安相里=「アサ・ケ」=「入り江の奥・のところ」
・沙部=「エサンケ」=「岬」
・長畝=「ノッケゥ・ウン・ナィ」=「岬・にある・川」
⇒google map


  この安相里の縄文語解釈は非常に確度が高いです。
 まず、「沙部=エサンケ=岬」ですが、単語と発音がほぼ完全一致しています。
 そして、「陰山=曲がっている山」の「安相里=入り江の奥」の縄文語解釈から、比定地としては、湾曲した峰の間にある現在の田寺地区あたりが相応しく見えます。

 田寺を縄文語解釈すると、

●田寺=「テューウテュ」=「二つの山の走り根の間」

 となり、すべての縄文語解釈の辻褄が合います。
 長畝川も縄文語解釈が合致することから、ここに流れていた小河川とするのが妥当かと思います。

 ということは、同時に風土記の応神天皇の地名由来譚が大枠でウソだということになります。どこまで真実が含まれているのかは分かりません。


■■■「枚野里(ひらの)」命名由来 ■■■

×風土記
:「昔、少野(おの)であった。だから、枚野と名づけた。
新良訓(しらくに)と名づけた理由は、昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿泊した。それで、新羅訓(しらくに)と名づけた。山の名も同じ。
筥丘という理由は、大汝(おおなむち:オオクニヌシ)・少日子根命(スクナヒコナ)が日女道丘(ひめじおか)の神と約束して会った時、日女道丘は丘に食べ物、また、筥器などの器物を準備した。それで筥丘と名づけた」

◎縄文語:
・少野=「オ・ウン・ノッ」=「山尻・にある・岬」

・枚野=「ピラ・ウン・ノッ」=「崖・にある・岬」
・新良訓=「シオ・ケ・ウン・ノッ」=「山尻・のところ・にある・岬」
・筥丘=「パケ」=「出崎の突端の崖」
⇒google map


 縄文語解釈では、ほぼすべて同じ地勢を表現しています。現在の白国地区です。

 各地の「新羅」とつく地名もすべて「山尻(山裾)」の意です。新羅人が本当に住んだかどうかは定かではありません(※第四十三回コラム「新羅、伽耶、百済、高麗のデタラメ地名由来について」の項参照)。

 本当に、嫌になるほどデタラメばかり書かれています。


■■■「大野里」命名由来 ■■■

×風土記
:「もと、荒野(あらの)であった。だから、大野と名づけた。欽明天皇の世に、村上足嶋(むらかみのたるしま)たちの祖先である恵多がこの野を得たいと願い出て住んでいた。これによって里の名とした。
 砥堀(とぼり)という理由は、応神天皇の世に神前郡と飾磨郡の境界に、大川の岸の道を造った。この時、砥を掘り出した。それで砥堀と名づけた」

◎縄文語:
・荒野=「ア・ノッ」=「対岸の・岬」
・大野=「アゥ・ノッ」=「隣(対岸)の・岬」
・砥堀=「タンパ・オロ」=「こちら岸(or岬)の・ところ」
⇒google map


 これは、完全に市川対岸の山並みの対比としての増位山を表しています。⇒googleストリートビュー


 ちなみに市川は、

●市川=「エテュ(川)」=「岬の(川)」

 です。「飾磨国府の市から命名」との説は信じられません。


■■■「少川里(おがわ)/高瀬村/豊国村/英馬野/射目前/壇坂/御立丘/伊刀嶋」命名由来 ■■■

×風土記
:「<前略>本の名は私(きさき)の里。<中略>欽明天皇の世に私部弓束(きさきべゆづか)たちの祖先である田又利(たたり)の君花留(ひる)が、ここを願い出て住んでいた。だから、私の里と名づけた。
その後、庚寅の年(690年)、上丈夫(かみのまえつきみ)が宰(くにのみこともち)であった時、改めて小川の里とした。別の伝えによると、小川が大野からここに流れてきている。だから、小川といった」

◎縄文語:
・私=「キサ・ケ」=「耳のように突き出た・ところ」
・小川=「オ・カ・ワ」=「山尻(or川尻or沼尻)の・ふもとの・岸」

⇒google map


 アイヌ語で「キサ=耳」の意で、「耳の形に似ている」地形を指します。千葉県の木更津市などが分かりやすいです。「木更津=キサ・テュ(orチャ)=耳のように突き出ている・岬(岸)」⇒google map

 ちょうど、耳のように丸みを帯びて突き出しているような地勢です。

比定地の一である花田町に当てはめると、市川の湾曲した岸(高木地区)が該当します。山のふもとでもあります。⇒google map

 少川里は、後段の各村の縄文語解釈を考慮すると、「内陸部の入り江の内側で、湖があるところ」となります。

 耳の形をした高木地区も、

●(花田町)高木=「トンケ・ケ」=「湖の末端・のところ」

 とすれば、後述する高瀬村ともほぼ同語源となり、花田地区に湖があったことを伺わせます。豊国村の縄文語解釈も湖のほとりであったことを表しています。


 ほかにも、現在の地名から、湖の証拠を探ってみます。まずは市川東岸。

▼市川東岸花田町周辺の現在の地名 ※上流から下流に向かって
・(飾東町)佐良和=「サ・オ」=「湿原、沼地、葦原の・はずれ」※花田町北に隣接
・(飾東町)=「シ・オ」=「山の・ふもと」※花田町北に隣接
・(花田町)小川=「オ・カ・ワ」=「山尻(or川尻or沼尻)の・ふもとの・岸」
・(花田町)勅使=「チャ・ケ」=「岸の・末端」
・(花田町)原田=「パラ・チャ」=「広い・岸」
・(花田町)一本松=「エンパ・ウン・マーテュ」=「突き出た岬・にある・波打ち際」※いわゆる「一本松」由来でなければ。
・(四郷町)山脇=「ヤマ・ワ・ケ」=「山の・ふちの・ところ」※花田町南に隣接
・(御国野町)御着=「コッチャ・ケ」=「沢の入口の・ところ」※花田町東に隣接
・(御国野町)深志野=「プッ・カ・ウン・シンノ」=「川口の・ほとり・にある・岬」※花田町東に隣接
別所町=「ペッ・チャ」=「川・岸」※花田町東方
・(別所町)佐土=「サ・タ・アン・チャ=「前・に・ある・岸」」


 市川東岸には湖のはっきりとした痕跡はないようなので、西岸を調べてみます。すると、すぐに見つかりました。市川沿いを北から南に向かって挙げてみます。


▼市川西岸の現在の地名 ※上流から下流に向かって
砥堀=「タンパ・オロ」=「こちら岸(or岬)の・ところ」
保城=「ホ・ウン・シ」=「山裾(or川口or沼尻)・にある・山(or土地)」
増位=「マーテュ・エ」=「波打ち際の・頭」
野里=「ノッ・サ・ウン・ト」=「岬の・そば・にある・湖」
睦町=「モィ・サ」=「入り江の・ほとり」
東郷=「ト-・カ・オ」=「湖の・岸の・末端」


 さらに、市川東岸の上流には「豊富」の地名があります。

▼市川東岸花田町の上流
豊富町=「ト・ヤ・ウン・テュ・モィ」=「湖・岸・にある・岬の・入り江」


 現在の姫路市の水害ハザードマップを見ると、上流の豊富から、砥堀、野里、高木にかけて、低地となっていることがわかります。そして、かつての市川下流の流路は、今の船場川をなぞるように流れていたので、JR野里駅付近から姫路城の西側に向かうことになります。
 現市川の砥堀付近は「湖沼のような川」だったのかもしれません。


 肝心の花田の地名由来ですが、姫路市公式サイトには次のようにあります。

<通説:花田町命名由来>「花田の語源は、市川のほとりにある用水口の「花田井堰」からきており、青く澄んだ水面の色を昔は「はなだ色」と云ったところからついたものと考えられている」(出典:姫路市公式HP)

 「はなだ色云々」は違うと思います。

●花田=「パナ・チャ」=「川下の・岸辺」

 の意です。

 対比として、「上流の岸」の意の地名がある可能性が高いので、市川を上流に遡ると、前述の「豊富」地区の北に接して「船津」の地名を見つけることができます。

●船津=「ペナ・チャ」=「川上の・岸辺」

 「船」は「ペナ=川上」や「プッ・ナ=川口の・方」に充てられること多いようです。いずれかは、地勢を見て判断するしかありません。


 以下に、少川里の各村の解釈を続けます。「湖沿いの入り江」だったことがはっきりとしてきます。対比として、現在の地名も並べます。

◎縄文語:高瀬村=「トンケ」=「湖の末端」
⇒(花田町)高木=「トンケ・ケ」=「湖の末端・のところ」

◎縄文語:豊国村=「ト・ヤ・ウン・コッネ・イ」=「湖の・岸・にある・窪んでいる・ところ」
※北が高木地区、南が四郷町とすると、豊国村はその間の原田地区が相応しい。
⇒(花田町)原田=「パラ・チャ」=「広い・岸」

◎縄文語:我馬野=「アケ・モ・ノッ」=「半分の(半月の?)・小さな・岬」
※英馬野村に登場する地名を縄文語解釈すると、我馬野里は集中して四郷町の宮山古墳のある仁寿山から分離した半月状の岬周辺を表現しているということになります。⇒google map

・射目前=「エン・ムィ・サン・ケ」=「突き出た・頂の・平山の・ところ」
・壇丘=「マーテュ・ウン・ムィ・オ・カ」=「波打ち際・にある・頂の・尻の・ほとり」
・御立丘=「マーテュ・ウン・テュ・オ・カ」=「波打ち際・にある・岬の・尻の・ほとり」
⇒(花田町)一本松=「エンパ・ウン・マーテュ」=「突き出た岬・の・波打ち際」
⇒(四郷町)山脇=「ヤマ・ワ・ケ」=「山の・ふちの・ところ」

伊刀嶋=「エテュ・ウン・シ・ムィ(モィ)」=「岬・にある・大きな・入り江」
or「エテュ・サ」=「岬・のそば(隣)」

 少川里は海沿いではないので、伊刀嶋が研究者の間で謎のようですが、「嶋」を日本語のいわゆる「海にある嶋」とばかり捉えていては迷宮入りとなります。

 比定地の地名にある四郷(糸引地区の北に隣接)を

●四郷=「シ・コッ」=「大きな・窪地」

 と、解釈すれば、辻褄が合います。

 以下に風土記掲載の由来をまとめて記載します。

■「高瀬村」
×風土記
:「応神天皇が夢前丘に登って国を望み見たところ、北の方に白い色の物があった。天皇は『あれはなんだ』と言った。天皇は舎人である上野国の麻奈毗古(まなびこ)を遣わして視察させた。麻奈毗古は『高いところから流れ落ちる水、まさにこれでした』と申し上げた。だから高瀬の村と名づけた」

■「豊国村」
×風土記
:「筑紫の豊国の神がここに鎮座していた。だから、豊国の村と名づけた」
※ 「豊=ト・ヤ」は海沿いであれば、「海岸」の意。島国日本には、無数に存在する地勢です。同じ漢字が充てられているからと言って、すべて九州の豊国の神様にされても困ります。

■「英馬野(あがまの)」
×風土記
:「応神天皇が、この野で狩をした時、ある馬が走って逃げた。天皇は『誰の馬だ』と言った。侍従たちが答えて、『朕(あがきみ)の御馬です』と言ったので我馬野と名づけた。
 この時、射目を立てた所は目前(いめさき)と名づけ、弓が折れた所は壇丘(まゆみおか)と名づけ、御立(みたち)した所は御立丘と名づけた。この時、大きな牝鹿が海を泳いで嶋に到り着いた。だから伊刀嶋(いとしま)と名づけた」

 前述のとおり、風土記記載内容はウソです。伊刀嶋を「嶋」としているのも、鹿が泳ぎ着いたのも、まったくのデタラメです。


■■■「英保里(あぽ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「伊予国英保の村の人がやって来てここに住んでいた。だから、英保と名づけた。

◎縄文語:英保=「アゥ・ホ」=「隣の(対岸の)・山裾」⇒google map


 比定地の阿呆地区は、市川下流域の両岸です。東岸は「東阿呆」となっているので、もとは西岸の「阿呆」を指したのかもしれません。
 「アゥ=枝分かれた(隣の)」「ア=一方の」という場合は、対比として「近隣に大きな同様の地勢があることが多い」というのは、前にも述べましたが、ここでも、東岸の東阿呆をメインの「山裾」とすれば辻褄が合います。


■■■「美濃里/継の潮」命名由来 ■■■

×風土記:「美濃と名づけたのは、讃岐国弥濃(みの)郡の人がやって来て住んでいた。だから、美濃と名づけた。
継の潮(つぎのみなと)という理由は、昔、この国である女が死んだ。その時、筑紫国火の君たちの祖 名はわからない がやって来ると生き返った。そこでトツギ(結婚)をした。だから継の潮と名づけた」

◎縄文語:
・美濃=「ムィ・ウン・ノッ」=「入り江・にある・岬」
・継の潮=「テュ・ノッ・ウン・モナィ・チャ」=「小山の・岬・にある・小さな・川の・岸」

⇒google map


 縄文語解釈そのままの地勢です。小山の岬の間を流れる小河川の川口。これ以上的確な表現もありません。


■■■「因達里(いだて)」命名由来 ■■■

×風土記:「神功皇后が韓国を平定しおうと思い、渡った時、船の舳先にいた伊太代(いだて)の神が、ここに鎮座している。だから、神の名によって里の名とした」

◎縄文語:因達=「エン・テューテュ」=「突き出た・岬」
⇒google map


 平凡な縄文語解釈なのですが、相応しい解釈はこれ以外ありません。

 八丈岩山は山頂にある「八畳の岩」が命名由来ではないかと言われていますが、とても信じられません。畳が発明される前はなんと呼ばれていたのでしょうか。

◎縄文語:八丈岩山=「ハッタ・シ・オ・ケ・ウン・サン」=「淵の(ある)・山の・尻(ふもと)の・ところ・にある・平山」⇒google ストリートビュー

  これは、「池がたくさんある峰の外れの山」を指しているようです。

 福山市神辺町の八丈岩も同じ由来と思われます。こちらも八畳の岩を由来としていて、神話もあるようですが、残念ながら命名には関係ありません。
「池がある山」を指すようです。

●八丈岩=「ハッタ・シ・イワ」=「淵の(ある)・山の・岩山」⇒google map



■■■「安師里(あなし)」命名由来 ■■■

×風土記:「倭(やまと)の穴无神(あなしのかみ)の神戸(かんべ)となって奉仕していた。だから、穴師と名づけた」

◎縄文語:安師=「ア・ナィ・チャ(orチャ)」=「一方の・川の・岸(or川口)」
or「アゥ・ナィ・チャ(orチャ)」=「枝・川の・岸(or川口)」

⇒google map


 奈良の穴師坐兵主神社も枝川の岸にあります。穴師の場合は、川口であっても不自然ではありません。

 比定地にある早川神社は、

●早川=「ハ・ヤケ・ワ」=「水の引いた・岸辺の・ふち」

 と解釈できます。
 特段特徴のある地勢ではないので、それほど縄文語の確度は高くありませんが、早川は決して「速い川」という意味ではありません。各地の河川の早川や、地名の早川には、小河川、緩流河川もたくさんあります。


□□□「多志野(漢部里)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が巡行した時、鞭でこの野を指し、『あの野は住居を造り、さらに田を開墾するのがよい』と言った。だから、佐志野(さしの)と名づけた。今、改めて多志野と名づけている」

◎縄文語:
・多志野「タセ・ノッ」=「巨石の・岬」
 or「タン・シンノッ」=「こちらの・岬」
・佐志野「サン・シンノッ」=「前にある・岬」
⇒google map(とんがり山、峰相山)
⇒googleストリートビュー(とんがり山)


 「巨石の岬」や「こちらの岬」としても、また、「前にある岬」としても、山頂に巨石を持つとんがり山(峰相山)のことになります。ほかにも大黒岩などの奇岩が多く存在するようです。

 縄文語で「こちらの」と言った場合は、対比となる同様の地勢が近隣にある場合が多いです。この場合は、次の項で登場する「阿比野=アゥ・ノッ=一方の岬」のことです。


 ついでに、峰相山のふもとにあった鶏足寺の由緒も探ってみます。

<峰相山鶏足寺十一面観世音菩薩の案内看板要約
「<前略>鶏足寺と言うは、釈迦十大弟子の迦葉が入定したインドの伽耶城の鶏足山に似ている処からで、西峰の主峰は250mにして風早嶺と称し、やや下に神岩大黒岩と名づくる奇岩等多く現出す。<中略>
神功皇后が三韓への派兵の砌、新羅の王子を伴い帰朝す。帰洛の途次、当国播磨に王子を留め給う。王子この山に草庵を結び、十一面観世音菩薩を祭祀し給う。これすなわち峰相山鶏足寺の起こりなり<後略>」


 「釈迦の弟子」云々のような物語はほぼウソなので、縄文語で他の由来を探ります。香川県の金刀比羅宮でも同じような由来がありましたが、まったくのデタラメです(※第四十六回コラム参照)。
 また、神功皇后周辺の話も、邪馬台国の台与の事績を隠蔽しているような時代ですので、どこまで本当か分かりません(※第三十回コラム参照)。

●鶏足=「ケ・ケ」=「末端の、しものはずれの・ところ」(山の端、山の麓)⇒google map(鶏足寺跡)

  他の鶏足寺も山裾にあります。釈迦の弟子はおそらく関係ありません。


□□□「阿比野(あひの)(漢部里)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が山の方から行幸した時、従臣たちが海の方から参上するのに出会った。だから、会野と名づけた。」

◎縄文語:「アゥ・ノッ」=「一方の・岬」⇒google map(白鳥山か)


 何度か解説していますが、縄文語で「アゥ=一方の」「アル=片割れの(枝分かれた)」「タン=こちらの」と言った場合は、対比となる地勢、地名が近隣にある場合が多いです。

 阿比野は、北西に隣接する多志野(とんがり山)との対比からの命名だと思われます。


□□□「手沼川(てぬがわ)(漢部里)」命名由来 □□□

×風土記
:「応神天皇がこの川で御手を洗った。だから、手沼川と名づけた」

◎縄文語:「タン・ノッ・カワ」=「こちらの・岬の・ほとりの岸」⇒google map


 応神天皇云々はもちろんウソです。

 たびたび登場しますが、今回も「タン=こちらの」が出ました。「こちらの岬」の対比は、比定地の一である下手野の夢前川対岸の「青山」です。

●青山=「アゥ・ヤマ」=「隣の(枝分かれた)・山」

 「アゥ」はもともと「鹿角」や「木の枝」のことですが、地勢では「枝状に分かれた」or「隣」の意となります。対比として、近隣にメインの似た地勢があることが多いです。「淡路島」「阿波」「安房」など、「対岸」の意でも使用されているように思えます。


□□□「馬墓池(胎和里)」命名由来 □□□

×風土記:「昔、雄略天皇の世に尾治連(おわりのむらじ)たちの祖先である長日子が、優秀な侍女と馬とを持っていた。どちらも長日子の心に通っていた。

 さて、長日子は臨終の時、その子に『私が死んだ後は、侍女も馬も葬儀は私と同様にせよ』と言った。
 このため墓を作、第一は長日子の墓、第二は侍女の墓とし、第三は馬の墓とした。併せて三つある。その後、上生石(かみのおうし)の大夫が国司であった時、墓のそばの池を造った。それによって名を馬墓の池とした」

◎縄文語:「パンパケ・ウン・イカ・イ」=「川下・の・またぐ(超す)・ところ」⇒google map


川下というのは、「川の口」付近のことで、「川の口」は「川の合流地点」も表します。
比定地の岩端町の南に「船丘町」「船橋町」という地名がありますが、これは、

●船=「プッ・ナ」=「川口・の方」

という意味で、これも「川の合流地点」を表したものと思われます。

縄文語解釈の「イカ・イ=またぐところ」ですが、これは岩端町の両端に小山があるので、「その間を通過するところ」の意だと思われます。

「イカ」の語源として「カス=上を越す、渡渉する」がありますが、これは山であれば「峰の間を縫って越えるようなところ」、川であれば「川を渡るところ」を表します(※第四十回コラム「クワンス塚古墳」参照)。

ということで、風土記の長々とした由来は、漢字表記にこじつけた物語を創造力豊かに創作しただけだと思います。


□□□「飾磨の御宅(みやけ)」命名由来 □□□

×風土記:「仁徳天皇の世に人を遣わして、意伎(おき)、出雲、伯耆、因幡、但馬の誤認の国造たちを呼び寄せた。この時、誤認の国造は召し役の使者たちを水手として京に向かった。これをもって罪だとして、播磨の国に追いやって、田を作らせた。この時作った田は、意伎田、出雲田、伯耆田、因幡田、但馬田と名づけた。その田の稲を納めた御宅を飾磨の御宅と名づけた。また、賀和良久(かわらく)の三宅といった」

◎縄文語:
・飾磨の御宅=「シ・カマ/ムィ・ヤ・ケ」=「大きな・岩/入り江の・岸・のところ」
・賀和良久=「カィ・ワ・ラ・ケ」=「波打ち際の・岸の・低い・ところ」
⇒google map


 比定地の飾磨区三宅あたりは、入り江の岸辺だったということになります。

 北に隣接する「手柄」は、

●手柄=「テ・カラ」=「浦の手・のほとりの低いところ」

 南に隣接する「都倉」も

●都倉=「ト・カラ」=「海・のほとりの低いところ」

 と解釈でき、周辺の地名とも整合性が取れます。


 周辺地区の地勢は岬の入り江を表しています。詳細は第五十八回コラム「十四丘命名由来」の項をご参照ください。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか


 次回は揖保郡。


日出ずる国のエラーコラム
第五十八回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(三)飾磨に鹿は関係ない!飾磨は「大岩」の意だ!十四丘でオオクニヌシとホアカリは喧嘩していない!~飾磨郡編(1)~
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回から飾磨郡。飾磨郡は長いので、回を分けてご紹介します。

【今回取り上げる内容】
飾磨郡/漢部里/菅生里/麻跡里/英賀里/伊和里/手苅丘/十四丘

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「飾磨郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「飾磨と名づけた利用は、大三間津日子命(おおみまつひこ)が、ここに屋形を造っていた時、大きい鹿が鳴いた。その時、王(おおきみ)が『鹿が鳴いているなぁ』と言った。だから飾磨郡と名づけた」

◎縄文語:「シ・カマ」=「大きな・岩、平岩」⇒google map


 飾磨郡はほぼ現在の姫路市を郡域としています。言うまでもなく、命名に鹿は関係ありません。

 縄文語の「大きな・岩、平岩」がどこを指したのかを探るまでもありませんでした。姫路市は巨石、巨岩の宝庫です。是非リンク先をご覧ください。

⇒google 画像検索(姫路市のたくさんの巨石、巨岩)
※ 注)姫路市以外の写真もヒットしています。

 これぐらいたくさんあると、どの岩を指して「大きな岩」と言ったのか不明です。

 巨岩は縄文の頃から自然崇拝の対象でした。巨岩を磐座として祀る各地の神社も、太古の昔から祭場だったのかもしれません。

 以下姫路市の磐座。

【参考】姫路市の巨岩、巨石のある神社代表例
◎破岩神社⇒google map
◎高岳神社⇒google map
◎岩大神社⇒google map
◎岩神社⇒google map
◎木庭神社⇒google map
◎白山神社(飾東町)⇒google map


■■■「漢部里(あやべ)」命名由来 ■■■

△風土記
:「讃岐の国の漢人(あやひと)たちがやってきてここに住んだ。だから、漢部と名づけた」

◎縄文語:「ア・ヤン・ペ」=「一方の・陸岸にある(or陸に上がる)・ところ」
or「アゥェ・ヤン・ぺ」=「枝分かれた・陸岸にある(or陸に上がる)・ところ」
⇒google map


 「漢人」が本当に住んだかどうか普通は判断がつきません。 ただ、日本の各地にある高麗と新羅の地名が、

●高麗=「コ・マ」=「湾曲した川」
●新羅=「シロケ」=「山裾」


 を指しているだけで、「必ずしも高麗人、新羅人が住んだ訳ではない」、ということを考慮すると、この「漢部」も漢字表記にこじつけて由来を創作しただけではないかと疑ってみたくなります。 (※第三十四回『本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!』第四十三回『天日槍は新羅から来ていない!楯縫は楯を作っていない!』参照)

 これまでの縄文語では、「ア=一方の」「アゥ=枝分かれ、隣」「タン=こちらの」を含む地名は、「対比のもととなる同じ地勢の場所が近隣に存在」する例が数多く見受けられます。

 今回の場合は、「一方の陸岸にあるところ」or「枝分かれた陸岸にあるところ」の意ですから、対比のもととなる(メインの)「陸岸にあるところ」が近隣にあればいい訳です。

 地図を探すと、簡単に見つかりました。候補地は二カ所です。
 一つは、夢前川から分岐する菅生川の「余部」。そして、もう一つは夢前川上流の韓室里(現安室地区)です。韓室里については、別項で詳説します。

 まずは、「余部」について。

 漢部里の比定地はかなり広いのですが、名称由来となったのは、「上手野」地区あたりではないでしょうか。というのも、当該の場所は夢前川と菅生川が分岐するあたりで、「上手野」は分岐してすぐの夢前川の方の岸辺になります。

 そして、南北の軸で線対称となる菅生川の岸辺には「余部」の地名が残ります。これはかつて存在した余部村の名残です。

●余部=「ヤン・ぺ」=「陸岸にある(or陸に上がる)・ところ」(※JR余部駅周辺)⇒google map

  とすれば、「漢部」と地勢も意味もきれいに対称の関係になります。

 さらに、この夢前川左岸の「上手野」、その南方の「下手野」地区。これを縄文語解釈すると、

●手野=「タン・ノッ」=「こちらの・岬」

 の意となり、これも対比のもととなる同様の地勢がある可能性があります。近隣を探せば、やはり夢前川対岸の余部周辺にあります。

●青山=「アゥ・ヤマ」=「隣の・山」

 青山は余部の南に接しています。⇒google map

  「アゥ」は、対岸の意味で使われる場合が多く感じられます。「阿波」「淡路島」「安房」。いずれも、海を挟んだ対岸の地勢です。この「青山」地区も、「手野」から見た「川を挟んだ対岸」を示したのかもしれません。


■■■「菅生里(すがふ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「ここに菅原があった。だから菅生と名づけた」

◎縄文語:「シ・カ・オ」=「山の・ほとりの・川口」⇒google map


 これは、「山裾の川の合流地点」を指したものと思われます。「シ=山」は「シュ」、「シオ=山裾」は「ショ(ウ)」の発音の文字に変化することが多いです。「菅生」の場合は、「シュカオ」⇒「シュゴー」の変化が考えられます。アイヌ語は濁音の区別が曖昧です。

 解釈確度を上げるために、各地の「菅生」の地勢を調べました。ほぼ、「山裾の川の合流地点」の意で間違いありません。


【参考】各地の「菅生」の地勢
◎宮城県柴田郡村田町菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎茨城県常総市菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎千葉県木更津市菅生⇒google map
  ※山裾の小河川の合流地点。
◎東京都あきる野市菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎神奈川県川崎市宮前区菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎愛知県豊田市菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎福井県今立郡池田町菅生⇒google map
 ※山裾の川の合流地点。
◎大阪府堺市美原区菅生⇒google map
  ※丘陵裾の川の合流地点。
◎奈良県山辺郡山添村菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎岡山県倉敷市旧菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎岡山県新見市菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生⇒google map
  ※山裾の川の合流地点。
◎大分県竹田市菅生⇒google map
  ※川の合流点は山裾だが、菅生地区は台地上。

【例外】近県なので、語義に地域性があった可能性あり。いずれも似たような地勢。
◎愛知県岡崎市菅生⇒google map
 ※丘陵裾だが、川の合流点からは少々遠い。
◎三重県松阪市菅生⇒google map
  ※川の合流地点だが、山裾とは言えない。
◎岐阜県岐阜市菅生⇒google map
  ※川の合流地点だが、山裾とは言えない。


■■■「麻跡里(まさき)」命名由来 ■■■

×風土記
:「応神天皇が巡行した時に、『この二つを見ると、山は人の目を割き下げているものによく似ている』と言った。だから目割(めさき)と名づけた」

◎縄文語:「マサ・ケ」=「水辺の草原・のところ」⇒google map


 比定地には、飾磨区山崎や広畑区西蒲田があるようですが、いずれも川沿いで縄文語解釈も決定打にはなりません。「水辺の草原」などという地勢は、各地に無数にあります。

 しかし、「目を割き下げる」などという由来はありえず、応神天皇が関係ないことだけは明らかです。


■■■「英賀里(あが)」命名由来 ■■■

△風土記
:「伊和大神の子の阿賀比古、阿賀比売の二神がここに鎮座していた。だから、神の名によって里の名にした」

◎縄文語:「エンコ」=「岬」⇒google map


 ここに神がいるということは、太古より自然崇拝で「岬」を祀っていたのかもしれません。 現在の「英賀保」地区は、

●英賀保=「エンコ・ホ」=「岬の・裾」⇒google map

 だと思われます。地勢そのままです。 群馬県の伊香保も同語源かもしれません。


 また、余談ですが、「英賀保」地区の北東に隣接して「荒川」地区がありますが、荒川は通説のように、決して「荒れる川」ではありません

●荒川=「ア(川)」=「一方(の川)」
or「ア・カワ」=「一方の・岸辺」


 の意と思われ、多くは対比として別の大きな「川」or「岸辺」があり、それの「一方の川」or「一方の岸辺」という意味になります。

 日本各地の荒川を調べてみてください。近くに荒川より大きな川があるはずです。 Wikipediaで荒川の一覧を見ると、そのほとんどが「○○水系」となっていて、「本流に対しての支流」であることが分かります。

 関東の荒川の近くには、言うまでもなく利根川があります。かつては中流域から東京湾の下流までほぼ平行して流れていました。

 もう一度言います。「荒れる川だから荒川」という解釈は間違いです。
⇒Wikipedia(荒川一覧)


■■■「伊和里」命名由来 ■■■

×風土記
:「積幡(しきわ)の郡の伊和の君たちの一族がやってきてここに住んだ。だから、伊和部と名づけた」

◎縄文語:「エン・ワ」=「突き出た・岸」


 「突き出た岸」が不明なので、この一帯のヒントになりそうな地名を縄文語解釈してみます。縄文語は一カ所の土地を複数の名で呼ぶことがあり、その場合、別の言葉で同じ意味を表すことが多く見受けられます。

 近隣の地名の中で、伊和里のヒントになりそうな地名は、飯田です。

●飯田=「エエン・チャ」=「尖っている・岸」

 この辺りは手柄山(風土記:手苅)が

●手柄=「テ・カラ」=「浦の出崎の・ほとりの低いところ(浦)」※次項参照

 で、「浦の岬」を表現しているので、海、あるいは湾に突き出た岸だったのかもしれません。

※周辺の地名解釈については、後段の十四丘で解説しています。


□□□「手苅丘(てがりおか)」命名由来 □□□

×風土記
:「近くの国の神がここに到り、手で草を苅って食薦(すごも)としていた。だから、手苅と名づけた。別伝では、韓人たちがはじめて来た時、鎌を使うことを知らなかった。ただ、手で稲を苅るだけだった。だから、手苅の村といった」

◎縄文語:「テ・カラ」=「浦の出崎の・ほとりの低いところ(浦)」⇒google map

 風土記由来では「手苅丘(てがり)」ですが、現在の地名は「手柄(てがら)」です。現在の呼称の方がもとの発音に近いのではないでしょうか。

 「テ=手」の意味ですが、「モィ・テ=入り江・の手=浦の・出崎」という意味になります。

 「カラ」は、「カ=~のほとり、岸」、「ラ=低いところ」です。

 「カ・ラ=岸の・低いところ=浦」「カ・ワ=ほとりの・岸=岸辺」「カ・ヤ=ほとりの・岸=岸辺」が、○○ヶ浦、川などに変化していると思われる地名が無数にあります。

 霞ヶ浦、袖ケ浦、屏風ケ浦、鱚ヶ浦、行方、直方、喜多方、枚方、三方原、渋川、糸魚川。 ※○○ヶ浦は「カ・ウン・ラ=岸・にある・低いところ」かもしれません。

 これは、糸魚川などが、「川がないのになぜ『川』がつくのか」という疑問に答えています。 

 「○○潟」の地名も「潟湖」や「干潟」を由来とするのが通説になりますが、縄文語でも解釈できます。

 「新潟」は阿賀野川と信濃川の河口の町名由来とされていますが、「ナィ・カチャ=川の・岸辺」としても非常に分かりやすい。
 秋田の「八郎潟」は「八郎太郎という名の龍が住み処とした」などという由来よりは、「ハッタ・カチャ=淵の・ほとりの岸」の方が、よほど説得力があります。

 「潟」がもともとの太古からの言葉として、いわゆる「干潟」や「潟湖」の意味で使われていたことを否定することもできませんが、そもそも「潟」自体が「カチャ=岸辺」由来である可能性も否定はできません。


□□□「十四丘」命名由来 □□□

×風土記:昔、大汝命(おおなむち:オオクニヌシ)の御子・火明命(ホアカリ)は、心も行いもとても頑なで恐ろしかった。こういう訳で、父神が悩んで、火明命を逃げ捨てようと思った。そこで、因達(いだて)神山に到って、火明命を水汲みに行かせ、戻ってくる前に船で出発して逃げ去った。さて、火明命が水を汲んで戻ってきて、船が出発して去る様子を発見した。するとにわかに火明命は大いに怒った。そこで風波を起こし、その船を追い攻めた。ここに、父神の船は進み行くことが出来ず、ついに打ち破られた。
 そういうわけで、そこを船丘波丘と名付け、琴が落ちた処は琴神丘と名付け、箱が落ちた処は箱丘、梳匣(くしげ)の落ちた処は匣丘、箕(み)が落ちた処は箕方丘、甕(みか)が落ちた処は甕丘、稲が落ちた処は稲牟礼(いなむれ)丘、冑が落ちた処は冑丘、沈石(いかり)の落ちた処は沈石丘、網が落ちた処は藤丘、鹿が落ちた処は鹿丘、犬が落ちた処は犬丘、蚕子(ひめこ)が落ちた処は日女道(ひめじ)丘と名付けた。
 その時、大汝神が妻の弩都比売(のつひめ)に『悪い子から逃れようとしてかえって波風に遇い、ひどくつらく苦しい目に遭ったなぁ』と言った。だから名づけて瞋塩(いかしお)といい、告(のり)の斉(わたり)といった」


◎縄文語:※( )内は比定地 Wikipediaより

・因達神山=「エン・テューテュ」=「尖った・岬」
 (八丈岩山=「パン・テューテュ・サン」=「川下の・岬の・平山」⇒google map ⇒google画像検索 ※平山であり、尖り山でもあります)

・船丘=「プッ・ナ」=「川口の・方」※川の合流地点か
 (景福寺山⇒google map

・波丘=「ナィ・ムィェ」=「川の・入り江」

 (名古山=「ナィ・カ」=「川・岸」⇒google map

・琴神丘=「コッチャ・コ」=「沢の入口の・湾曲しているところ」
 (薬師山=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」⇒google map

・箱丘=「パン・コッ」=「川下の・窪地」

 (男山=「オント・ケ(山)」=「山のふもと(の山)」⇒google map

・匣丘=「ク・ケ」=「川向こう・のところ」

 (船越山=「ペン・ナ・コッチャ」=「川上の・方の・沢の入口」※船丘の川口との対比か⇒google map
 or鬢櫛山=「ペン・ケ」=「川上の・末端」⇒google map

・箕方丘=「メ・カチャ」=「泉の・岸辺」
 (秩父山=「テューテュ・ペ」=「岬の・水」⇒google map

・甕丘=「メ・カ」=「泉の・ほとり」
 (神子岡山=「コ・マ・カ」=「湾曲した川の・ほとり」
 &「オ・カ(山)」=「ふもとの・ほとり(の山)」⇒google map

・稲牟礼丘=「イナゥ・オカ」=「祭場の・跡」
 (稲岡山⇒google map

・冑丘
(冑山)=「カィポ・チャ」=「波打ち際の・岸」
 (冑山⇒google map

・沈石丘(不明)=「エンコ」=「岬」

・藤丘=「プッ・チャ」=「川口の・岸」

 (二階町=「プッ・カ」=「川口の・岸辺」※後世の命名でなければ。⇒google map

・鹿丘(不明)=「シ・カ」=「山の・ほとり」

・犬丘
(不明)=「エン・ノッ」=「尖った・岬」

・日女道丘
(姫山)=「プッ・ムィ・チャ」=「川口の・頭の・岸」


 風土記の内容は記紀の神話に登場する地名譚の構成にそっくりです。つまりデタラメです。
 このような神話は、ただ漢字表記にこじつけて創作された空想物語なので、まじめに解読を試みようとするだけ無駄です。それだけならまだしも、古代人のウソの罠にはめられて、解釈の方向性が狂わされることになります。なにせ、多分にそれが目的で創作されたのでしょうから。そしてまんまと千年以上にも渡って人々は騙され続けています。

 以下、登場する周辺地名を縄文語解釈してみましたが、当時の地形が不明で検証出来る要素が少ないため、残念ながら確度はそれほど高くありませんが、なんとなく海岸線が見えるような気がします。

 各丘と、下記の周辺地名の縄文語解釈を考慮すると、次のような地形が想定できます。

1)姫山(姫路城)の南西地区に、川の合流地点があった。
2)姫山の南麓から、岬がいくつか伸びていた。
3)手柄、都倉、亀山あたりが入り江になっていた。
4)津田あたりが、海辺だった。


 当時、市川の本流は手柄山の際を流れる船場川だったようなので、その河口が入り江を作ながら大きく開いていたということになります。


【参考】手柄山周辺地区の縄文語解釈 ⇒google map
▼姫路城から海方面へ
◎船岡=「プッ・ナ・ウン・オ・カ」=「川口・の方・にある・山尻の・ほとり」※「川口」=「川の合流点」か
◎船橋=「プッ・ナ・ウン・ホア」=「川口の・方・にある・出崎」
◎福中=「プッ・ケ・ウン・ナィ・カ」=「川口の・ところ・にある・川・岸」
◎博労=「パンケ・オロ」=「川下・のところ」
◎福沢=「プッ・ケ・ウン・サ・ワ」=川口の・ところ・にある・浜の・岸」
◎塩=「シ・オ」=「山・裾の・岸」
◎高尾=「テ・オ」=「浦の手の・尻」
◎延末=「ノッ・プツ・エ」=「岬の・川口の・頭」
◎手柄=「テ・カラ」=「浦の手の・ほとりの低いところ(浦)」
◎庄田=「シ・オ・チャ」=「山・裾の・岸」
◎佃(町)=「テ・チャ」=「浦の手の・岸」
◎中地=「ナィ・コチ」=「川の・窪地」
◎飯田=「エエン・チャ」=「突き出た・岸」
◎亀山=「コ・ヤ・ムィェ」=「湾曲した・岸の・入り江」
◎野田(町)=「ヌタ」=「川(入り江?)の湾曲地内の土地」
◎構=「コ・ムィェ」=「湾曲した・入り江」
◎都倉=「テ・ラ」=「浦の手の・低いところ」
◎津田=「テュ・チャ」=「岬の・岸」

▼西側の海辺
◎町坪=「マーテュ・チュ」=「波打ち際の・西」
◎高(町)=「トンケ」=「海の外れ」

▼東側の海辺
◎阿成=「アゥ・ナ・チャ」=「枝分かれた・方の・岸」

※後世の命名だったらすみません。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか


次回は賀野里から。


日出ずる国のエラーコラム
第五十七回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(二)印南に仲哀天皇は関係ない!~印南郡編~
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は印南郡。

【今回取り上げる内容】
印南郡/大国里/伊保山/六継里/益気里/含藝里

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「印南郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「ある人が言うには、印南と名づけた理由は、仲哀天皇が、皇后とともに筑紫の久麻曾(くまそ)の国を平らげようと思い、下って行った時、舟が印南の海岸に停泊した。この時、青い海が平らかで、風も波も和らいで静かだった。だから、名づけて入浪(いりなみ)の印南郡という」

◎縄文語:「エン・ノッ・ムィェ」=「突き出た・岬の・入り江」⇒google map


 言うまでもなく、命名に仲哀天皇は関係ありません。
 縄文語解釈にある「突き出た岬」とは河口に向かって細く伸びる「日笠山」あたりを指したのではないでしょうか。

 ちなみにこの入り江内にある「大塩」の地名ですが、日本各地にある「塩」のつく地名、古墳と同様に「山裾」と解釈できます。(※別の意の場合もあります。例)「塩尻=シ・ウチュル=山の間」など)

●大塩=「オオ・シ・オ」=「大きな・山の・ふもと」

 の意で、地勢とも完全に一致しています。

 「山裾」を表す縄文語には、「塩」以外に、「白」「将」「親王」「新皇」が充てられている場合が多いです。
 また、同じ意味の「シロケ(=シ・オ・ケ)orシ・オ・ケ=山裾」には「駿河」「将軍」「日置」などが充てられています。
 これら縄文語と漢字の対照表は、データがある程度まとまった段階で作成しようと思います。

 話を戻します。大塩の隣の「的形」地区は、

●的形=「マーテュ・カ・タ」=「波打ち際の・ほとりの・方」

 となり、このあたりまで海の入り江だったことが分かります。

 ちなみに後述する益気里(やけのさと)に登場する加古川と平荘湖に挟まれた「枡形(山)」も同語源と思われます。

 高砂市は、

●高砂=「タ・サン・カ」=「石の・棚山の・ほとり」

 が相応しく思われます。石の宝殿や竜山石で有名な竜山、伊保山のふもとという意味です。⇒googleストリートビュー

※「石の宝殿」については、第四十一回コラムの「竜山の石の宝殿」の項をご参照ください。


■■■「大国里」命名由来 ■■■

×風土記
:「農の民の家が多くここにあった。だから大国という」

◎縄文語:「オオ・コッネ・イ」=「大きく・窪んでいる・ところ」⇒google map
or:「オオ・クッ・ネ・イ」=「大きな・崖・の・ところ」=竜山、伊保山⇒google map


 確かに農家はたまたまたくさんあったのかもしれませんが、他の例も勘案すると高確率で命名とは関係ありません。

 このような明らかに「漢字表記にこじつけたウソ」と分かる風土記の地名由来譚は、逆に他の解釈の可能性を高めることにもなります。記紀も風土記も証拠だけ隠滅して黙っていればバレずに済んだものを、歴史の体裁を整えるために語ったことが千年の時を超えて仇となります。

 「大国里」は、加古川市の「大国」から高砂市の「伊保」辺りに比定されています。

 縄文語解釈で「窪んでいるところ」の意とすれば、「法華山谷川と加古川に挟まれた地勢」を指します。この地域は点在する丘陵地に囲まれた大きな低地です。

 また、「大きな崖のところ」の意とすれば、竜山石を産出する、「伊保山」「竜山」を指します。


□□□「伊保山」「作石(つくりいし)」命名由来 □□□

×風土記
:「この里に山がある。名は伊保山という。その理由は、仲哀天皇を神として安置して、神功皇后が石作の連来(いしづくりのむらじおおく)を連れてきて、讃岐の国の羽若の石を探し求められた。そこから渡られて、狩りの安置所を定めていない時に、大来がそれにふさわしい場所を発見して、そこを美保山といった。
 山の西に原がある。名は池の原という。原の中に池がある。だから、池の原という。
原の南に作石がある。その形は家のようである。長さは二丈、広さ一丈五尺、高さも同じくらいである。名づけて大石という。伝えて言うには、『聖徳王の御世に弓削大連が造った石だ』ということである」

◎縄文語:伊保山=「エン・ホ(山)」=「尖った・尻(の山)」=竜山の後ろの山を指したか?
⇒google map ⇒googleストリートビュー
◎縄文語:竜山=「タ・テュ(山)」=「石の・岬(の山)」⇒googleストリートビュー
◎縄文語:作石=「チケレ・イソ」=「削れている・平たい岩」⇒googleストリートビュー


 風土記にある『聖徳王』(聖徳太子574~622)、『弓削大連』(物部守屋~587)ですが、『聖徳の御世』を聖徳太子が摂政であった頃とすれば、593年以降となります。
 こういう矛盾を指摘するまでもなく、風土記のこの手の物語は真面目に検討すればするほど、徒労が多くなります。

 また、「池の原」ですが、どこを指したのか定かではありませんが、同様に考えると、いわゆる水がたまっているところの「池」が命名由来ではありません。

●「エンコ・ウン・ハ・ラ」=「岬・にある・水のひいた・低いところ」

 とすれば、「伊保山のそばの湿原」のような意味となります。

※「石の宝殿」については、第四十一回コラムの「竜山の石の宝殿」の項をご参照ください。


■■■「六継里(むつぎ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「六継の里と名づけた理由は、すでに上に見える。この里に、松原がある。甘菆が生えている。色は菆花に似ていて、形は鶯菆のようである。十月の上旬に生え、下旬になくなる。その味はとても甘い」

◎縄文語:「ムィ・チャ・ケ)」=「入り江の・岸の・ところ」
or「ムィ・テュ・ケ)」=「入り江の・岬の・ところ」
⇒google map


 六継の里は河口付近で、比定地はあいまいな状態です。縄文語解釈の「入り江」という解釈が妥当であれば、伊保山、日笠山が入り江を作って、付近まで海が迫っていたのでしょうから、この二つの山の近辺ということになります。
 「入り江」の地形を考慮すると、西の日笠山、東の伊保山に挟まれた間の土地あたりが、よりふさわしく思われます。


■■■「益気里(やけ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「宅(やけ)と名付けた理由は、景行天皇が御宅(みやけ)をこの村に造った。だから、宅の村という。
 この里に山がある。名は斗形山(ますがたやま)という。石で枡(ます)と桶を作った。だから斗形山という。
 石の橋がある。伝えて言うには、上古の時、この橋は天まで至り、たくさんの人たちが上り下りして往来していたということである。だから、八十橋という」

◎縄文語:益気=「ヤ・ケ)」=「岸の・ところ」
or「イェ・ケ)」=「岩の・ところ」
⇒google map
◎縄文語:斗形(山)=「マーテュ・カ・タ(山)」=「波打ち際の・ほとりの・にある(山)」⇒google map
◎縄文語:八十橋=「ヤ・ソ・パ・ウシ」=「岸の・岩の・頭の・ところ」⇒google map(岩の写真)


 いずれも、加古川右岸の平荘湖周辺です。平荘湖は人造湖なので、加古川沿いの山という意味にとれます。これらの縄文語解釈は極めて確度が高いと言えます。地勢そのままを表現しています。
 これらは風土記のウソをはっきりと証明しています。

 また、斗形山の解釈に登場した「マーテュ=波打ち際」は、古墳名としても、地名としても多数登場しています。


【参考1】「マーテュ」の解釈が可能な各地の古墳
◎枡塚古墳(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map
  =「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」
 ※日本海を望む段丘に築造。
◎マンジュウ古墳(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
 =「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
  ※ため池の際に築造。
◎爺ヶ松古墳(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
  =「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」
 ※峰に挟まれた池畔。
◎相作馬塚古墳(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map
  ※池畔。
◎万塚古墳(香川県高松市/6世紀)⇒google map
  =「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」
 ※平池の南岸に築造。
◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map
  ※池畔。
◎馬塚古墳(熊本県山鹿市/6世紀中頃)⇒google map
  ※川辺。

【参考2】各地の枡形のつく地名 ※いずれも川沿い、海沿い
◎神奈川県川崎市多摩区枡形 ※多摩川支流沿い⇒google map
◎愛知県名古屋市北区1丁目桝形町 ※庄内川支流沿い⇒google map
◎京都府京都市伏見区桝形町 ※濠川沿い⇒google map
 ※秀吉が伏見城の外堀として開削したが、それ以前も川沿いではなかったか。
◎愛媛県宇和島市桝形町 ※宇和島港沿い⇒google map

【参考3】戦国期の枡形城
 戦国期の山城にも多数の枡形城がありますが、ほぼすべて川沿いとなっています。ただし、山城は谷に挟まれた山に築城されることが多いので必然です。傍証として採用はできません。
 あくまで参考までに地形図をご紹介します。⇒google map


■■■「含藝里(かむき)」命名由来 ■■■

×風土記
:「本の名は、瓶落(みかおち)である。瓶落と名づけた理由は、仁徳天皇の世、私部弓取(きさきべのゆみとり)等の遠祖である他田熊千(をさだのくまち)が、瓶(みか)の酒を馬の尻に着けて、住む所を求めて行ったところ、その瓶がこの村に落ちた。だから、瓶落といった。
 また、酒山(さかやま)がある。景行天皇の世に、酒の泉が湧き出した。だから、酒山といった。農の民が飲むと、酔っ払ってけんかになり、乱闘になった。それで埋め塞がれた。その後、庚午の年(670年)に、思うところがある人がいて堀り出した。今になってもまだ酒の気がある。
 この郡の海ノ中に小島がある。名は南批都麻という。成務天皇の世に、丸部(わにべ)臣等の始祖である比古汝茅(ひこなむち)を遣わして、国の境界を定めさせた。吉備比古、吉備比売(きびひめ)の二人が、迎えに参上した。そこで比古汝茅が吉備比売と結婚して生んだ子が、印南の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)である。この女性の容姿端麗であることは、当時随一であった。<後略>」

◎縄文語:含藝=「カマ・ケ」=「平岩の・ところ」=八十の岩橋(やそのいわはし)⇒google map 写真
◎縄文語:瓶落=「メカ・オ・チャ」=「沢と沢の間に細く伸びている山が・たくさんある・岸」
◎縄文語:酒山=「サン・ケ(山)」=「平山の・ところ(の山)」

⇒google map
⇒googleストリートビュー


 含藝里も益気里同様に「八十の岩橋」がキーワードになっています。「沢と沢の間に細く伸びている山がたくさんある」というのは、「平荘湖周辺の山々」を表したのではないでしょうか。平荘湖は人造湖ですが、周囲の地勢を見ると、湖が造られる前から沢や池があったことが推察できます。

※南批都麻については、第五十六回コラム参照。

※比定地参考:播磨広域連携協議会HP

 次回は飾磨郡。



日出ずる国のエラーコラム
第五十六回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(一)加古川に鹿の子はいない!褶墓にヒレはない!~賀古郡編~
 今回から、播磨国風土記の縄文語解釈始めます。

 対比として、兵庫県の古墳の縄文語解釈もご参照ください。5、6世紀頃まで辻褄の合う縄文語解釈が可能なので、この地域で同時期まで縄文語が使用されていた可能性は極めて高いと判断できます。

『第三十九回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(一)処女塚は乙女ではない!』
『第四十回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)行者塚に行者はいない!』
『第四十一回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(三)「石の宝殿」の謎を解く!』

 では播磨風土記縄文語解釈、賀古郡。

【今回取り上げる内容】
賀古郡/褶墓/望理里/鴨波里/舟引原/長田里

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「賀古郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「四方を遠く見渡して『この国土は、丘と原と野がとても広大で、この丘を見るとまるで鹿の子のようだ』と言った。それで名づけて賀古郷という。狩りの時、鹿がこの丘に走り登って鳴いた。その声は『ヒヒー(ピー)』と聞こえた。だから日岡と名づけた」

◎縄文語:賀古=「カッ・ク」=「形が・弓(の山)」=日岡山
◎縄文語:日岡=「ピ・オカ」=「石の・跡」⇒google map


 賀古郷で最も有名な丘は、風土記の当時から日岡でしょうから、「賀古」は日岡陵古墳のある日岡山を指したのではないでしょうか。風土記の後続する日岡の内容との接続もスムーズです。

 また、日岡陵古墳の前方後円墳を形容したものともとれます。この用法は九州の古墳にも類例があります。

●角房古墳(宇佐市/5世紀/前方後円墳)
=「カッ・ク・ポ・テュ」=「形が・弓の・小さい物の・小山」=前方後円墳

●欠塚(かげつか)古墳(筑後市/5世紀末/前方後円墳)
=「カッ・ク・テュ」=「形が・弓の・小山」=前方後円墳


 日岡は次の褶墓の項で詳説します。

 その他、「カッ・ク=形が・弓」は、ほとんどの場合、山の形の形容に用いられます。以下、その例です。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュク」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)
※カグツチは決して漢字語呂合わせの「火の神」ではありません。京都愛宕山の自然崇拝です。
・小熊山古墳
(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー 


□□□「褶墓(ひれはか)」命名由来 □□□

×風土記
:「<前略>景行天皇が印南別嬢に求婚して<中略>赤石郡の廝の御井(かしわでのみい)に着き、食事を土地の神に奉った。そこで廝の御井という。
 その時、印南別嬢は、聞き驚き畏れ多く思って、南批都麻(なびつま)島に逃げた。天皇は賀古の松原にやってきて探し求めた。すると白い犬が海に向かって長鳴きをした。天皇が問うて『これは誰の犬か』と言われた。須受武良(すずむら)の首が答えて『これは別嬢が飼っているものです』と申した。<中略>
 天皇はこの島にいるのを知り、渡りたいと思われ、アヘ津に至り、食事を神に奉った。そこでアヘ村と名づけた。また、入江の魚を捕まえて、御杯物(みつきもの)とされた。そこで、御杯江と名づけた。<中略>
 やっと渡って別嬢と会い、『この島は隠愛妻(なびつま)だ』と言った。だから南批都麻と名づけた。<中略>
 印南の六継村に帰り着き、始めてひそかな語らいをした。それで六継村という。天皇は『ここは浪の音、鳥の声がとてもやかましい』と言って、南の高宮に移った。だから高宮村という。<中略>
 時が過ぎ、別嬢はこの宮で薨去した。墓を日岡に作って葬った。その屍を掲げ持って印南川(加古川)を渡る時、強いつむじ風が川下から起こって、その屍を川中に巻き込み、探したけれども見つからなかった。ただ、そこで、匣(くしげ)と褶(ひれ:首にかける布)だけが見つかった。この二つを墓に葬った。それで、褶墓と名づけた<後略>」

◎縄文語:褶墓=「ピラ・フカ」=「崖の・高台」
or「フレ・フカ」=「崩れて赤い地肌が露出した・高台」⇒google map


 褶墓古墳(日岡陵古墳)は、4世紀の前方後円墳。墳丘長80m。
 第十代崇神天皇(=神武天皇)が卑弥呼と同時期の3世紀半ばの人物なので、第十二代景行天皇の妃の墓が4世紀の築造であっても齟齬はありません。ただし、この辺の時代の記述は、卑弥呼を継いだ台与の事績を隠蔽しているので、記紀風土記ともに信用できない部分が多々あります(※第三十回コラム参照)。

 褶墓の縄文語解釈は、「日岡=石の跡」に通じます。褶が葬られていないことは確かです。
 また、近接する狐塚古墳も同様の解釈が可能です。

●狐塚古墳(兵庫県加古川市/築造時期不明/円墳)
=「クテュニン・テュ」=「岩の段々のある崖の・小山」 

 それ以外の地名、人名は、比較対象がないので確度はそれほど高いとは言えませんが、日岡山周辺の地勢を想定して解釈してみました。

●廝の御井=「カス・ワ・タ・メ」=「渡渉する・岸・の方にある・泉」
●須受武良=「シテュ・モィ・ラ」=「沢と沢の間の山の走り根の・入り江の・低いところ」
●アヘ津=「アゥ・ペッ・チャ」=「枝分かれた・川の・岸」
●御杯江=「マーテュ・ケ」=「波打ち際・のところ」
●南批都麻=「ナィプッ・チャ・モィェ」=「川口の・岸の・入り江」
●六継村=「モィ・チャ・ケ」=「入り江の・岸の・ところ」
●高宮村=「トンケ・モィ・ヤ」=「湖の端の・入り江の・岸」


※他の近隣古墳の詳細はこちら⇒
 『第四十回コラム 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)』



■■■「望理里(まがり)」命名由来 ■■■

△風土記
:「景行天皇が巡行した時、この村の川の曲がりを見て『この川の曲がり具合は見事だなあ』と言った。だから望理という」

◎縄文語:望理=「マクン・ル」=「奥にある・岬」google map


 これはgoogle mapリンク先のJR神野駅の東にある「愛宕神社のある小山」のことを指したのではないか思います。「奥にある(山手にある)=日岡の奥」ではないでしょうか。

 さらに、

●神野=「コ・ナィ」=「湾曲した・川」

 「神野」の意味も一致します。この辺りの加古川も支流も曲がっています。

 「コ」はもともと「持ち手の曲がり」の意です。「コ・マ(高麗)=湾曲した・谷川」の解釈が各地で多数見られます(※高麗の解釈については、第三十四回コラム「本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!」で詳説しています)。

 縄文語のこのような解釈が、景行天皇の「曲がった川云々」に派生しているのかもしれません。

 また、再掲になりますが、「愛宕神社」は、

●愛宕=「アッ・タ」=「一方の・ぽつんと離れた山」

 という意味なので、これも地勢と完全に一致しています。


【参考】近隣古墳の縄文語解釈
●行者塚古墳(兵庫県加古川市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
=「キ・オ・チャ・テュ」=「足が・たくさんある・館の・小山」 =造出がたくさんある古墳
or「ケゥ・オ・チャ・テュ」=「死体が・たくさんある・館の・小山」 =死体をたくさん埋葬した古墳
●車塚古墳(兵庫県加古川市/4世紀/円墳) ⇒google map
=「ケゥ・ル・テュ」=「死体の・岬(頭)の・小山」
●人塚古墳(兵庫県加古川市/5世紀前半/円墳)⇒google map
=「ピタ・テュ」=「河原の小石の・小山」=葺石の古墳

※他の近隣古墳の詳細はこちら⇒
 『第四十回コラム 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)』



■■■「鴨波里(あわわ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「昔、大部造(おおとものみやつこ)の始祖である古理売(こりめ)が、この野を耕して、たくさん粟を種(ま)いた。だから粟々(あわわ)の郷という」

◎縄文語:「アゥ・ワ」=「枝分かれた・岸」⇒google map


 川によって分割された岸辺を指したのではないでしょうか。当時加古川下流は多くの砂州、砂堆が形成され、複数の河口を持っていました。解釈と地勢がピタリと一致します。
 対比として「大きな岸」があるかもしれません。

 と、思ったら、風土記のつづきにあります。


□□□「舟引原」命名由来 □□□

×風土記
:「この里(鴨波里)に舟引原がある。昔、神前(かむさき)の村に荒くれた神がいた。いつも行く船の半数を留められた。往来の船はみんな印南の大津江に留まって、川上に上り、賀意理多(かおりた)の谷から引き出して、赤石の郡林の港に出し通わせた。だから舟引原という」

◎縄文語:舟引原=「プッ・ナ・フンキ・エ・ハ・ラ」=「川口・の方・砂丘が・そこで・水の引いた・低いところ」⇒google map
 ※天満神社からJR土山駅周辺の湖沼地帯。
◎縄文語:大津江=「オオ・チャ・エ」=「大きな・岸の・頭」⇒google map
◎縄文語:賀意理多=「コッ・オロ(=オ・オ)・チャ」=「谷・の中にある・岸」⇒google map


 「舟引原」の縄文語解釈が妥当であれば、風土記記載の物語は高確率で創作と言えます。 しかし、縄文語解釈の根拠も乏しいので、残念ながら断定はできません。


【参考】近隣古墳の縄文語解釈
●幣塚古墳(兵庫県明石市/4世紀後半~5世紀初頭/円墳)⇒google map
=「ヌッ・サン」=「ゆっくり流れている川の・棚山」
●愛宕塚古墳 (兵庫県加古郡播磨町/4世紀後半~5世紀初頭/円墳)⇒google map
=「アッ・タ」=「一方の・ぽつんと離れた山」

※他の近隣古墳の詳細はこちら⇒
 『第四十回コラム 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)』



■■■「長田里」命名由来 ■■■

×風土記
:「景行天皇が別嬢に会いに行った時、道のそばに長い田があった。天皇は『長い田だなぁ』と言った。だから長田里という」

◎縄文語:「ナィ・カ・タ」=「川の・ほとりの・方」⇒google map


 風土記は明らかにウソです。「長田」は加古川下流の岸を指しています。
※比定地参考:播磨広域連携協議会HP

 次回は印南郡。


日出ずる国のエラーコラム
第五十五回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(八)出雲は初期大和王権の生みの親だ!~大原郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈最終回です。今回は大原郡です。

 出雲国風土記を可能な限り縄文語解釈しましたが、やはり記載の地名由来譚はほぼすべてデタラメです。これらは、ただ単に地名の発音や漢字に都合のよい神様をこじつけて空想の由来を創作しただけです。
 「風土記記載の伝承が各地に残っていた」とするのが通説として一般的ですが、そこに信憑性はいかほどあるのでしょうか。筆者にはとうてい信じられません。

 出雲国は、イザナギ、イザナミ、そして天照大神(=奇稲田姫)、スサノオ(=帥升)の出身地です。スサノオの娘婿として大国主もいます。彼らは、物部氏とせめぎ合いながら、ヤマト(倭、大倭、大和)王権黎明期の礎を築いた人々です。

 大国主の国譲りの後は、ヤマトに邪馬台国が繁栄しますが、結局、狗奴国との争いに敗れ、滅亡の道を辿ります。筆者は、狗奴国が紀伊国で、スサノオら出雲出身者の一大拠点があったと考えています(※第二十四回コラム参照)。

 ヤマトの権力は、その後、卑弥呼の後を継いだ台与を経て、欠史八代後の天皇に移ります。第十一代垂仁天皇から数代は、台与の事績を隠蔽していますから、十代半ばぐらいから始まっているかもしれません。

 銅鐸祭祀の物部氏(ニギハヤヒか?)の後を継いだであろうスサノオ、天照大神、大国主は出雲系です。そして、邪馬台国時代に一旦権力を手放すも、邪馬台国を攻め滅ぼしたのもスサノオ、天照大神子孫の神武天皇(=第十代崇神天皇)と大国主の子の事代主を代表とする狗奴国出雲系の勢力です。
 これら一連のヤマトの勢力争いの前半は、いわゆる後漢書記載の「倭国大乱」と呼ばれる出来事です。

 さて、邪馬台国の後に権力を握った初期ヤマト王権。崇神天皇の血を引いているとすれば、出雲系となります。時代は古墳時代に突入し、各地で大規模古墳が築造されるようになります。
 そして、その古墳の名称は、関東では7世紀、関西では6世紀、出雲地域でも6世紀までは、縄文語で整合性の取れる解釈が可能でした。

 しかし、官命から20年を経て733年に提出された出雲国風土記上代日本語で書かれています。

 この出雲国風土記の編纂を指示した上代日本語を操るヤマトの人々は、果たして出雲系だったのでしょうか。もし、出雲系でなければ、邪馬台国の後、どこかで王朝交代が起こっていたことが想定され、それは、縄文語と上代日本語の境界線である可能性が高くなります。

 であれば、前王権の出身母体である出雲国が提出してくる「解」(出雲国風土記)の内容には、細心の注意が払われるのは当然のことです。もちろん、反逆の意思を示したものは許されません。

 官名から20年という月日は、それだけヤマトの検閲が慎重に行われ、ヤマト王権が創作した物語(神話)や系譜との辻褄合わせのために多くの修正が施されたということを示しているのかもしれません。出雲国側の抵抗も可能性として考えられます。

 神話に記される「大国主を出雲の地に閉じ込める」という内容は本当に神話時代の出来事だったのでしょうか。もし、「大国主神を奉戴する前王権の母体となっていた人々を出雲に閉じ込める」という意味であれば、7世紀あたりに起こった出来事を象徴する物語として創作された可能性が出てくることにもなります。

 記紀風土記以前の歴史は、未だ謎だらけです。そして、記紀風土記はウソだらけです。そこに編纂を指示した者たちの意図がない訳がありません。記載内容を正面から解釈しているだけでは、その罠にまんまと嵌まってしまいます。

 真実の歴史を求めて、風土記の縄文語解釈は続きます。
 次回からは播磨国風土記です。播磨国の古墳名は、6世紀までかなり確度の高い縄文語解釈ができたので、どんな結果が出るか大変楽しみにしています。

 さて、出雲国風土記最終回。以下、大原編です。


【今回取り上げる内容】
大原郡/神原郷/屋代郷/屋裏郷/佐世郷/阿用郷/海潮郷/木次郷/斐伊郷/城名樋山/高麻山/船岡山/三室山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


▼▼▼「大原郡」命名由来 ▼▼▼

△風土記
:「郡家の真西十里百六十歩のところの田が、十町ほどの平らな田である。だから名づけて大原という。昔はここに郡家があった。今も大原と呼んでいる。今、郡家のあるところは、名づけて斐伊郷という」

◎縄文語:「オオ・ハ・ラ」=「大きな・水の引いた・低いところ」
⇒google map


 google mapのリンク先は、郡家のあった斐伊郷の斐伊神社ですが、旧郡家は別のところにあり、その場所が今でも議論の対象になっています。

 斐伊川は堆積作用が大きく、天井川となって赤川を逆流し、その流域に湿地帯をつくったようです。縄文語解釈を加味すると、旧郡家の場所は赤川流域が相応しく見えます。

 関和彦氏は、意宇郡と吉備を結ぶ最短ルートを理由に比定地を屋裏郷(大東町西北部)としていますが、縄文語解釈はそれを裏付けるような結果となっています。

 有力候補地には仁和寺の郡垣遺跡があります。⇒google map(郡垣遺跡)

  近隣の地名には「幡屋」がありますが、これは縄文語で、

●幡屋=「ハッタ・ヤ」=「淵(水が深くよどんでいるところ)の・岸」

 と思われ、赤川流域の地勢とも辻褄が合っています。

 また、佐世郷阿用郷海潮郷が、いずれもこことの対比として「隣の土地」の意を含んでいるので、この地が「大きくて平らな中心の土地」であったことが分かります。

 縄文語解釈では、郡垣遺跡周辺を旧大原郡家として間違いなさそうです。


■■■「神原郷(かむはら)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神が神宝を置いたところである。だから神財の郷と言うべきところ、今の人は誤って神原の郷と言っているだけである」

◎縄文語:「コ・エ・ハ・ラ」=「湾曲が・そこで・水の引いた・低いところ」⇒google map


 これは、赤川が斐伊川と合流する手前の川が湾曲したところを指しているのではないでしょうか。

 「高麗=コ・マ=湾曲した・谷川」「湿地」の要素が追加された地勢。


■■■「屋代郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神が的を置く盛り土を立てて射たところである。だから矢代といった。神亀三年、屋代と改めた」

◎縄文語:「ヤ・ウン・シ・オ」=「岸・の・山・裾」⇒google map


 斐伊川沿いの山の意。そのままの地勢です。


■■■「屋裏郷(やうち)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神が矢を射立てさせたところである。だから矢内といった。神亀三年、屋裏と改めた」

◎縄文語:「ヤ・ウチュル」=「陸岸の・間」⇒google map


  周辺の佐世郷、阿用郷、海潮郷がいずれも「隣の土地」の意味を含んでいるのを考慮すると、「真ん中の土地」の意が強く感じられます。西は加茂地区、東は大東地区で、赤川沿いの中心地を意味したのかもしれません。

 また、「ウチュル=間」の解釈例として、ほかに「塩尻」があります。

●塩尻=「シ・ウチュル」=「山の・間」

 「山と山に挟まれた間の土地」を指します。決して「塩の道の終点」ではありません。


■■■「佐世郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命(スサノオ)が佐世の木の葉を頭に挿して踊ったときに、挿した佐世の木の葉が地面に落ちた。だから佐世という」

◎縄文語: 「サ・シ」=「隣の・土地」 ⇒google map


 「屋裏郷の隣の土地」の意。
 佐世神社は佐世川上流ですが、佐世神社から北方の赤川沿いの岸から佐世郷だったようです。


■■■「阿用郷(あよう)」命名由来 ■■■

×風土記
:「一つ目の鬼が来て、田作り人の息子を食った。男の父母は竹藪に隠れていたが、その時、竹が揺れた。食われている息子が『あよあよ(揺れている、揺れている)』と言った。だから阿欲といった。亀神三年、阿用に改めた」

◎縄文語:「アゥ・ヤー」=「枝分かれた(隣の)・岸」⇒google map


 これも分岐した岸の意。屋裏郷、あるいは佐世郷との対比として「枝分かれた岸」。


■■■「海潮郷(うしお)」命名由来 ■■■

×風土記
:「宇能治比古命(うのちひこ)が、親の須義祢命(すがね)を恨んで、北の出雲の海水を押し上げ、親の神を漂流させたが、その海水がここまで遡ってきた。だから、得潮といった。神亀三年、海潮と改めた。ここの東北の須我の小川の湯淵の村の川の中に温泉がある。同じ川の上流の毛間の村の川の中にも温泉がある」

◎縄文語:「ウッ・シ・オ」=「枝分かれた・山の・ふもと」⇒google map


 屋裏郷、あるいは佐世郷との対比として「枝分かれた山のふもと」。


■■■「木次郷(きすき)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神が『八十神は、青垣山のうちには絶対に住まわせない』と言って追い払った時に、ここできすき(追いつき)なさった。だから来次といった」

◎縄文語:「キサ・ケ」=「耳のように突き出た・ところ」⇒google map


  もともとは「キサル=耳」の意で、地形では「耳のように突き出た」場所を表します。きすき健康の森がある山の形状が耳のようです。


■■■「斐伊郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「斐速日子命がここに鎮座している。だから、斐といった。神亀三年、斐伊と改めた」

◎縄文語:「ピ」=「石、小石」⇒google map


  「石ころの多い場所」だったのか、あるいは「石ころの川」の「斐伊川」由来だと思われます。斐伊川の石ころとは鬼の舌震を指したのかもしれません。


■■■「城名樋山(きなひやま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神、大穴持命が八十神を討とうとして城をつくった。だから城名樋という」

◎縄文語:「キヌ(山)」=「葦原、湿原(の山)」⇒google map


  木次地区の山。おそらくは、縄文語そのままの意の地形です。天井川の斐伊川がたびたび氾濫して湿原をつくっていたのではないでしょうか。
 木次地区では、かつて蓄財すると、水害を避けるために宅地を盛り上げる「一文上り(いちもんあがり)の家」が建てられました。


■■■「高麻山(たかあさやま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命(スサノオ)の子の青幡佐草日古命がこの山の上に麻を蒔いた。だから高麻山という。この山に鎮座しているのは、その神の御魂である」

◎縄文語:「タ・オッ・サン(山)」=「たんこぶが・たくさんある・平山(の山)」
google ストリートビュー


 木次地区の斐伊川と三刀屋川の合流地点にある山。縄文語解釈そのままです。たんこぶのような凹凸の頂がたくさんある平山。


■■■「船岡山」命名由来 ■■■

×風土記
:「阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへいなさひこ)が曳いてきてとどめ置いた船がこの山。だから船岡という」

◎縄文語:「ペナ・オ・カ(山)」=「川上の・川口(川の合流点)の・ほとり(の山)」⇒google map


  赤川上流の川の合流点の小山。縄文語解釈そのままです。


■■■「三室山(みむろやま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「神須佐乃乎命(スサノオ)が御室をつくって宿ったところである。だから御室という」

◎縄文語:「ムィ・オロ」=「山頂の・中の(の山)」
or「メ・オロ」=「古い川の・中の(の山)」
⇒google map
⇒google ストリートビュー


 「山頂の中の山」の解釈であれば、「小さな山の頂に囲まれている山」の意。
 「古い川の中の山」の解釈であれば、「佐世川や久野川支流、斐伊川支流に囲まれた山」の意。



 次回から播磨国風土記に突入です。



日出ずる国のエラーコラム
第五十四回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(七)鬼の舌震は「大きな石が崩れているところ」の意だ!~仁多郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は仁多郡です。

【今回取り上げる内容】
仁多郡/三處郷/布勢郷/三津(澤)郷/横田郷/御坂山/玉峰山/戀山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


▼▼▼「仁多郡」命名由来 ▼▼▼

△風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)、大穴持命が『この国は大きくも小さくもない。川上は木の枝が梢を交差させ、川下は葦の根が地を這っている。この地はにたしき(湿気の多い)小さな国だ』と言った。だから仁多という」

◎縄文語:「ニタッ」=「湿地」⇒google map


 「仁多」は、縄文語でも「湿地」を表します。斐伊川が蛇行する上流の湿地帯を指したと思われます。


■■■「三處郷(みところ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「大穴持命が『この土地の田は良い。だから、私のみところ(御地)として占有しよう』と言った。だから三處という」

◎縄文語:「メトッ・コッ・オロ」=「山奥の・窪地の・ところ」⇒google map


  仁多郡の山が凹んでいる谷のことです。


■■■「布勢郷(ふせ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「大神命がふせり(お泊り)になったところだ。だから、布世といった。神亀三年、布勢と改めた」

◎縄文語:「プセ・イ」=「ぬかっている・ところ」⇒google map


 仁多郡は「湿地」、三處は「窪地」、そして布勢郷は「ぬかっているところ」とすれば、辻褄があいます。
 山間の地勢なので、湿地のイメージはないのですが、雪解け水のようなものでしょうか。


■■■「三津(澤)郷」命名由来 ■■■

×風土記:
「大穴持命の子、阿遅須枳高日子命は髭が八握ほど伸びるまで、昼夜泣くばかりで話すことができなかった。大穴持命が夢のお告げで子が口をきくようになったさまを見た。目覚めて子に問うと、『御津(澤)』と言った。『どこをそう言うのか』と聞くと、石川を渡り、坂の上まで行って『ここだよ』と言った。その時、津(澤)の水が湧き出して、その水で体を浄められた。それで国造が朝廷に出仕する時には、その水を浄めの水として用い始めた。<中略>だから、三津(澤)という」

◎縄文語:「メ・チウェ」=「古い小川の・水流」⇒google map


 「津」は「澤」で写本の誤記とされています。縄文語解釈そのままです。
 三津であれば、

●「メム・チャ」=「古い小川の・岸」

 で、こちらでも意味は通じます。


■■■「横田郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「郷の中に横長の田があった。だから横田という」

◎縄文語:「ヤ・コチ」=「岸辺の・窪地」
or「ヤ・ウン・コタン」=「岸辺・にある・村」
⇒google map


  縄文語解釈そのままの地勢です。川辺の窪地。


■■■「御坂山(猿政山)」命名由来 ■■■

×風土記
:「この山に神の御門(みと)がある。だから御坂(みさか)という」

◎縄文語:「ムィ・サンケ・イ」=「山頂を・前に出す・ところ」⇒google map


  御坂山の山頂の出っ張りを表現したのではないでしょうか。また「ムィ・サンケ・イ」日本語の「岬」の語源にも思えます。⇒google画像検索


■■■「玉峰山」命名由来 ■■■

×風土記
:「山の峰に玉状の神が鎮座している。だから玉峰山という」

◎縄文語:「タ・ムィ・ウン・メナ」=「石の・山頂・にある・上流の川」⇒google map


 巨岩と滝が点在する斐伊川上流の山です。


■■■「戀山(したいやま)(舌震山、鬼の舌振)」命名由来 ■■■

×風土記
:「サメが阿伊の村の神、玉日女命(たまひめ)を慕って川を上ってやってきた。その時、玉日女命が石で川を塞いだので愛しく思っていた。だから戀山という」

◎縄文語:戀山=「シ・タ(山)」=「大きな・石(の山)」⇒google map
⇒ストリートビュー1
⇒ストリートビュー2

 鬼の舌振は、渓流に巨岩がごろごろしている侵食地形の特異な景観。

●舌振=「シテュ・エ・フレ・イ」
=「大きな峰が・そこで・崩れて(赤い地肌が見えて)いる・ところ」


 再掲ですが「十六島」も似た語源です。風土記では「於豆振」と書かれています。

◎於豆振=「オ・テュ・エ・フレ・イ」=「尻の・岬が・そこで・崩れている・ところ」=岬が崩れているところ

◎十六島=「ウシ・フレ・イ」=「その湾・崩れている・ところ」
or「ウチ・フレ・イ」=「その肋骨(枝分かれた岬?)が・崩れている・ところ」

⇒google画像検索

 次回は出雲国風土記最終回。大原郡です。



日出ずる国のエラーコラム
第五十三回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(六)須佐郷にスサノオはいない!~飯石郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は飯石郡です。

【今回取り上げる内容】
飯石郡/熊谷郷/三屋郷/飯石郷/多禰郷/須佐郷/波多郷/来島郷/琴引山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「飯石郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「飯石の郷の中に伊毘志都幣命(いひしつべ)が鎮座している。だから飯石という」

◎縄文語: 「エエン・シ」=「頭が尖った・山」
or「エエン・ウシ」=「頭が尖った・ところ」
⇒google map


 「尖った山」がどこを指すのか不明ですが、山が重畳としている場所であることは確かです。ほかにふさわしい解釈も見当たりません。
 上のgoogle mapのリンク先は、飯石郷付近。

 こちらが郷家のあった多禰郷付近。⇒google map


■■■「熊谷郷(くまたに)」命名由来 ■■■

×風土記
:「久志伊奈大美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が、妊娠して産もうとする時になって、産むにふさわしい場所を求めた。その時、ここに来て、『はなはだくまくましき(奥深い)谷だ』と言った。だから熊谷という」

◎縄文語:「クマ・テュ・ウン・ナィ」=「横山の・峰・にある・川」⇒google map
⇒ストリートビュー


  「なだらかな低い山にはさまれた川」という意味です。ストリートビューを見れば一目瞭然です。斐伊川中流域の雲南市の景色です。


■■■「三屋郷(みとや)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)の御門があった。だから三刀矢という。神亀三年、三屋に改めた」

◎縄文語:「メトッ・ヤ」=「山奥の・岸」⇒google map


  これ以外ないというような非常に確度の高い縄文語解釈です。地勢も発音も完全に一致しています。


■■■「飯石郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「伊毘志都幣命(いひしつべ)が天上界から降りたところである。だから伊鼻志といった。神亀三年、飯石に改めた」

◎縄文語:
・飯石= 「エエン・シ」=「頭が尖った・山」
or「エエン・ウシ」=「頭が尖った・ところ」
・伊鼻志=「エン・ピ・シ」=「尖った・石の・山」
⇒google map


 郡名の由来となった郷です。


■■■「多禰郷(たね)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)、大穴持命と、須久奈比古命が国土を巡った時に、稲の種がここに落ちた。だから、種といった。神亀三年、多禰に改めた」

◎縄文語:「テュンナィ」=「谷川」⇒google map


  三刀屋川のことです。稲の種は落ちていません。


■■■「須佐郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命(スサノオ)が『この国は小さいとはいえ、国としては手頃なよいところである。だから、私の名は木や石にはつけまい』と言って、すぐに自分の御魂を鎮め置かれた。そして大須佐田、小須佐田を定めた。だから須佐という」

◎縄文語:「シ・サ」=「山の・前(or浜)」⇒google map


  これは須佐神社の立地とするのがふさわしい。山の前の川岸です。
 アイヌ語の「サ」は、「奥」に対しての「前」を表し、奥を「山」とした場合は対比として「浜」の意になります。


■■■「波多郷(はた)」命名由来 ■■■

×風土記
:「波多都美命(はたつみ)が天上界から降りた場所である。だから波多という」

◎縄文語:「ペタゥ」=「枝川が出ているところ」⇒google map


 地勢そのままです。波多から支流が分岐している場所です。


■■■「来島郷(きじま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「伎自麻都美命(​きじまつみ)が鎮座している。だから伎自麻といった。神亀三年、来島と改めた」

◎縄文語:「クッチャ・マ」=「入口(出口)の・谷川」⇒google map


  来島付近で、神戸川が複数の支流に分岐しています。
 アイヌ語では「河口」は「川が出るところ(出口)」ではなく、「川が入るところ(入口)」と表現します。


■■■「琴引山」命名由来 ■■■

×風土記
:「この山の峰に岩屋がある。内部に所造天下大神の琴がある。(中略)だから琴引山という」

◎縄文語:「コッチャ・ピ・ケィ」=「谷の入口の・石の・頭」⇒google map
⇒ストリートビュー(山頂付近、琴弾山神社)


  縄文語の地勢そのままです。谷の入口にそびえる石の頂の山。琴は関係ありません。

 次回は、仁多郡。




日出ずる国のエラーコラム
第五十二回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(五)「日置」は「山裾」の意、日置部はいない!~神門郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は神門郡です。

【今回取り上げる内容】
神門郡/朝山郷/日置郷/塩冶郷/八野郷/高岸郷/古志郷/滑狭郷/多伎郷/狭結駅

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「神門郡(かむど)」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「神門の臣、伊加曽然(いかそね)の時に、神門を奉った。だから神門という。そして神門の臣たちが、昔からずっとここに住んでいる。だから神門という」

◎縄文語:「コ・ト」=「湾曲した・水海」=神門水海⇒google画像検索


 「コ」はもともと「鍋のつるの両端の曲がり」の意です。神門郷の場合は、神門水海の岸、あるいは湖自体の形状が湾曲している様を表したのだと思われます。ちょうど浜山公園のある峰(湖の北岸の岬)が湖に突き出て、湾曲した形状を作っています。⇒google map

 「コ・マ=湾曲した川=高麗」「シ・コ・ケ=大地が・湾曲している・ところ=四国の海岸線」も同じような地勢を表現しています。

 「高麗」地区に「高麗人が住んだ」という漢字表記にこじつけた解釈は、そもそも古代人の解釈、説明からして非常に疑わしい。高麗の地名については、第三十四回コラムで多数の地名解釈例を挙げて解説しています。また、第四十三回コラムでは「新羅、加羅、百済、高麗のデタラメ地名由来について」解説しています。


■■■「朝山郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「神魂命の子、真玉着玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)が鎮座していた。その時、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)、大穴持命が娶って毎朝通った」

◎縄文語:「アサ・ヤマ」=「湖の奥の・山」⇒google map


 縄文語解釈そのままです。神門水海の奥の山。神戸川の谷の入口から、支流の稗原川の上流にいたる山並みです。

 この神戸川の谷の出口の複数の地名や古墳名、「半分」「塩冶」「放レ山古墳」「宝塚古墳」「地蔵山古墳」が、縄文語で「川口」「川下」を表現しているので、この山並みの近くまで湖の岸が迫っていたと思われます(※第四十七回コラム参照)。


■■■「日置郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「欽明天皇の世に、日置の伴部らが遣わされて住み着き、政務をしたところである。だから日置という」

◎縄文語:「シロケ」=「山裾」
or「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
⇒google map


 神戸川の谷からの出口。朝山郷の北の山裾です。
この「山裾」の意の縄文語には、「塩」「新羅」「将軍」「新皇」「親皇」等が充てられている地名、古墳名の例が多数あります。「駿河」も「富士山のふもと」の意で同語源です。

 風土記記載の欽明天皇の在位は539年~571年です。一方、日置郷周辺にある同時期に築造された古墳の名前はことごとく整合性の取れる縄文語解釈が可能です。

 風土記の地名由来は「上代日本語」で書かれ、周辺古墳名は「縄文語解釈」できる。これは何を示しているのでしょうか。

<縄文語解釈可能な日置郷近隣古墳名>
・放レ山古墳(古墳時代後期)=「川下の・山陰(の山)」
・宝塚古墳(古墳時代後期)=「湖(神門水海)の・岸の低いところの・小山」
・上塩冶築山古墳(6世紀後半)=「(神門水海に)突き出た・岸」
・上塩冶地蔵山古墳(6世紀後半~7世紀)=「同上」
・小坂古墳(6世紀末)=「山尻の・平山の・ほとり」
 
※詳細は第四十七回コラム参照

 そして、以下、世間一般に流布している日置部の通説。

<日置部通説>・・・この職掌は拡大され,この聖火をもって製鉄や土器生産に従事することにもなるのである。このことは《日本書紀》垂仁39年条で五十瓊敷(いにしき)皇子が千口の大刀を鍛造したとき,十箇品部の中に日置部が含まれていたことからもうかがえよう。また日置一族は砂鉄の生産地に多く分布し(肥後菊池川,出雲国飯石郡),さらに土器生産にも当たったと考えられ,また日置氏は土師氏系とされ菅原朝臣を賜姓されている(《三代実録》)。(※出典:株式会社平凡社世界大百科事典)

 「日置一族は~考えられ」は多くの場合は違うと考えます。
 縄文語解釈では、「日置」はただの「山裾」の意です。「日置」の地名は「各地の日置」と 「大和国の日置」の地勢や縄文語の発音が一致しているのを機縁として、たまたま「日置」の文字が充てられたとも考えられます。
 であれば、各地の地名由来譚は、出雲国風土記同様、必然的に地名の漢字表記にこじつけて創作されたウソ物語である可能性が高くなります。

 また、垂仁天皇紀についても、どこまで本当かわかりません。この時期は、ちょうど邪馬台国の台与の事績を隠蔽している可能性が高い頃です(※第三十回コラム参照)。

 記紀や風土記には、このようなウソが無数に散りばめられています。

 以下、「日置」のつく地名です。ほぼ「山裾」であることが分かります。極めて確度の高い縄文語解釈です。

【参考】「日置」のつく地名
◆石川県珠洲市日置⇒google map
 ※山のふもと。
◆愛知県名古屋市中川区西日置⇒google map
 ※熱田台地のふもと。
◆伊勢国壱志郡日置郷⇒google map
  ※丘陵のふもと。
◆大和国葛上郡日置郷⇒google map
  ※馬見丘陵のふもと。
◆和泉国大鳥郡日置荘⇒google map
  ※河泉丘陵のふもと。
◆和歌山県西牟婁郡紀伊日置⇒google map
  ※山のふもと。
◆京都府与謝郡日置⇒google map
  ※山のふもと。
◆福井県大飯郡高浜町日置⇒google map
  ※山のふもと。
◆兵庫県多紀郡日置⇒google map
  ※山のふもと。
◆兵庫県城崎郡日置⇒google map
  ※山のふもと。
◆鳥取県気高郡日置⇒google map
 ※山のふもと
◆山口県大津郡日置村⇒google map
  ※山のふもと。
◆熊本県玉名郡日置(日置部公墓碑)⇒google map
  ※周辺部が日置氏の治めた地域。山のふもと。
◆熊本県八代市日置⇒google map
  ※山のふもと
◆熊本県山鹿市方保田日置⇒google map
  ※丘陵のふもと
◆鹿児島県日置市日吉町日置⇒google map
  ※丘陵のふもと。

【例外】
◆愛知県海部郡日置⇒google map
 ※山、丘陵がない。「ペッ・オ・ケ=川の・尻・のところ」の意か。
◆富山県中新川郡立山町日置⇒google map
  ※山、丘陵が遠い。「シ=大地」の意もあるので、「大地の端」の地勢か。


■■■「塩冶郷(えんや)」命名由来 ■■■

×風土記
:「阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)の子、塩冶毘古能命(やむやひこ)が鎮座している。だから塩冶という」

◎縄文語:「エン・ヤ」=「突き出た・岸」⇒google map


  前段の日置郷の項で書いたように、周辺の地名(半分/放レ山/宝塚)から、当時、塩冶地区は神戸川の河口だったと判断できます。神戸水海に突き出た岸辺の地勢だったと思われます。


■■■「八野郷(やぬ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命の子、八野若日女命が鎮座している。所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)、大穴持命が娶ろうとして家を造らせた。だから八野という」

◎縄文語:「ヤ・ウン・ノッ」=「岸・の・岬」⇒google map


  当時神門水海に注いでいた斐伊川と神門水海の岸辺の地勢。


■■■「高岸郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神の子、阿遅須枳高日子命が昼も夜もきつく泣いた。そこで、高床の建物を造って、住まわせた。高い梯子を立て、登り降りさせてお世話した。だから高崖といった。神亀三年、高岸に改めた」

◎縄文語:「トンケ」=「湖の尻」⇒google map


  「塩冶郷=尖った岸」「高岸郷=湖の尻」「八野郷=岸の岬」。
そして古墳名は東から「地蔵山古墳=川口の古墳」「放レ山古墳=川下の岬山の古墳」「宝塚古墳=湖岸の低いところの古墳」。
 これで神海水海の東岸の地形がほぼ描けそうです。


■■■「古志郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「伊弉弥命(イザナミ)の時に日淵川の水を引いて池を築いた。その時、古志の人たちが来て堤を造った。その人たちが宿っていたところである。だから古志という」

◎縄文語:「コ・シ」=「曲がった・山」⇒google map


 この縄文語解釈はちょっと自信ありません。
風土記の古志(越国)も曲がった能登半島の地形を指したと言えば、辻褄が合いますが、越は「エテュ=岬」由来かもしれません。
 それでも、風土記の「イザナミ云々」は信用できません。


■■■「滑狭郷(なめさ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命の子、和加須世理比売命(わかすせりひめ)が鎮座していた。所造天下大神が娶って妻問いに行った時に、その社に石があった。その表面はつるつるして滑らかだった。そこで「滑らかな岩だなあ」と言った。だから南佐といった。神亀三年、滑狭に改めた」

◎縄文語:「ナ・サ」=「冷たい・浜」⇒google map


 当時神門水海の浜。しかし、残念ながら地勢から縄文語解釈の正誤の判断することはできません。


■■■「多伎郷(たき)」命名由来 ■■■

×風土記:「所造天下大神の子、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命(あだかやぬしたききひめ)が鎮座している。だから多吉という。神亀三年、高岸に改めた」

◎縄文語:「タオケ」=「水際の高所」⇒google map


 山並みが海際まで迫った地勢です。


■■■「狭結駅(さゆう)」命名由来 ■■■

×風土記:「古志の国の佐与布という人が来て住んだ。だから最邑といった。神亀三年、狭結郷と改めた。来た事情は古志郷の説明と同じである」

◎縄文語:「サン・ヤー」=「前にある・岸」⇒google map


  古志と同じ場所ですから、神戸川の左岸となります。「前にある岸」とは、「前に突き出ている岸」という意味ですから、右岸の「塩冶=突き出ている岸」とほぼ同義となります。つまり、「神戸川の河口の両岸は神門水海に向かって突き出ていた」ということになります。

 出雲国風土記の縄文語解釈はつづく。次回は飯石郡。


日出ずる国のエラーコラム
第五十一回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(四)ヤマトタケルは出雲とは関係ない!~出雲郡編~

 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は出雲郡です。

【今回取り上げる内容】
出雲郡/健部郷/漆治郷/河内郷/杵築郷/伊努郷/美談郷/宇賀郷

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


▼▼▼「出雲郡」命名由来 ▼▼▼

◎縄文語:「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」
⇒google map

 現在の出雲市北部。国名と同じ由来ですが、もしかすると宍道湖や神門水海などの入り江を指したのかもしれません。「岬の入り江」は大小問わず、どこにあってもいい地勢です。


■■■「健部郷(たけるべ)」命名由来 ■■■

×風土記:「宇夜津弁命が天上界からその山の峰に降りた。その場所に神の社があり、今でも鎮座している。だから、宇夜の里といった。その後、改めて健部といったのは、景行天皇が『私の息子、倭健命(ヤマトタケル)の御名を決して忘れまい』と言って、健部を定めた。その時、神門の臣呼称を健部として定めた。その健部臣が昔からずっと住んでいる。だから健部という」

◎縄文語:宇夜の里=「ウッ・ヤ」=「枝状の・岸」
◎縄文語:健部=「テュカリ・ウン・ペ」=「こっちに・ある・ところ」
⇒google map


  これは神門水海に注ぐ斐伊川と神戸川、あるいは対岸の島根半島のふもととの対比で、宍道湖に枝状に分かれて注ぐ川の岸辺、を指したのではないでしょうか。

 風土記の「ヤマトタケル云々~」は、かなり信憑性に欠けます。ヤマトタケルの東国遠征譚などは、そもそも創作物語の可能性が強く、その実在性すら危ぶまれます。下に縄文語解釈例をいくつか挙げます。

 かつ、第十二代景行天皇は、ちょうど邪馬台国の台与の時代で、その事績を消すために物語をねつ造している可能性が高いです。
 武内宿禰が景行天皇から、第十六代仁徳天皇まで仕えるほどの長命なのは、一、二代の事績を引き延ばして物語を創作したためで、それは日本神話のベースとなった欠史八代の天皇が一列縦隊で並べられているのと同じからくりです(※第三十回コラム参照)。

 以下、ヤマトタケルの東国遠征に関する縄文語解釈。とても真実が語られているとは思えません。


■焼津の由来
×日本書紀:「ヤマトタケルと先住民の賊との激しい攻防があった。ヤマトタケルが草薙剣で草を薙ぎ払い、賊が放った炎を防ぎ、逆に焼き殺した」

◎縄文語:焼津=「イェー・チャ」=「石の・岸」=大崩海岸
◎縄文語:草薙剣=「ケル・ナウケ」=「ぴかぴか光る・木かぎ」=銅剣or鉄剣


■房総の港の由来
×伝承:
木更津、君津=「弟橘媛の死を悼んだヤマトタケルが詠んだ歌に「君さらず」とあるのが転じて木更津、君津になった。(伝承)」
×伝承:袖ケ浦=「入水した弟橘媛の袖が後日流れ着いたので袖ケ浦」

◎縄文語:木更津=「キサ・テュ」=「耳のように突き出た・岬」
◎縄文語:君津=「キムィ・テュ」=「頭の・岬」
縄文語:富津=「ホ・テュ」=「尻の・岬」
◎縄文語:袖ケ浦=「ソ・テ・カ・ラ」=「磯の・出崎の・ほとりの・低いところ」


■吾妻の由来

×日本書紀:「振り返って身投げした弟橘媛を「吾妻は、ああ」と嘆いた。それ以来、碓井峠より東を「あずま」と呼ぶ」

◎縄文語:吾妻=「アケ・テュ・マ」=「片割れの・峰の・谷川」


■■■「漆治郷(しつじ)」命名由来 ■■■

×風土記:「天津枳比佐可美高日子命(あまつきひさかみたかひこ)の別名を薦枕志都治値(こもまくらしつぢち)といった。この神が郷の中に鎮座している。だから志丑治という。神亀三年、漆治と改めた」

◎縄文語:「シテュ・チャ」=「沢と沢に挟まれた山の走り根の・岸」⇒google map


  縄文語解釈そのままの地勢です。後背地にそびえる仏教山のことでしょうか。


■■■「河内郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「斐伊の大河がこの郷の中を北に流れる」

◎縄文語:「カィ・ワ・テュ」=「折れ曲がった・岸の・峰」
or「カィ・ワ・チャ」=「折れ曲がった・岸の・ふち」
⇒google map


 以下にあげた他地域の参考例も考慮すると、蛇行する斐伊川支流のことを指した可能性が高いと思われます。河内神社の前を流れる川です。

 解釈確度を上げるために他地域の河内も調べてみました。ほぼすべてが蛇行する川沿いの地勢です。河内、川内は「川の内側」の意ではなく、「蛇行する岸の峰」or「蛇行する岸辺」の意です。

【参考】他地域の河内の地勢
◆河内国(現:大阪府東部)⇒google map
  ※旧河内湾沿いの地勢。上町台地の岬を指したか。リンク先の地図は古代物部氏の河内の拠点。

▼他地域は多数ありすぎてきりがないので、google mapでまとめてご覧ください。
◆東北上越地方の河内⇒google map
◆関東地方の河内⇒google map
◆中部関西地方の河内⇒google map
◆中国四国地方の河内⇒google map
◆九州地方の河内⇒google map


■■■「杵築郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)の宮を造営しようとして、多くの皇神たちが宮殿の場所に集まって、地面をきづき(土を固め)なさった。だから寸付という。神亀三年、字を杵築に改めた」

◎縄文語:「キトィ・ケ」=「茅原の・ところ」
or「ケィ・テュ・ケ」=「頭の・岬の・ところ」
⇒google map


 杵築という地名は、大分の国東半島のふもとにもありますが、半島の先で同じ地勢になっているので、「頭の岬」の方がふさわしいかもしれません。


■■■「伊努郷(いぬ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「意美豆野命(おみずぬ)の子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけ)の社が郷の中に鎮座している。だから、伊農といった。神亀三年、伊努と改めた」

◎縄文語:「エン・ノッ」=「尖った・岬」⇒ストリートビュー


 ストリートビューの道路の左右の山が尖り山です。右手の山頂には戦国期の鳶ヶ巣城址があります。そのふもとに伊努郷の伊怒神社があります。⇒google map

 以下、鳶ヶ巣城解説。

<鳶ヶ巣城>二方を深い谷に囲まれた尾根筋に築かれた城郭で、宍道氏が拠った。大内氏の出雲侵攻後一時期宍道氏は追われたが、後の毛利氏の侵攻に従い再び入城した。その後、関ヶ原の戦いにより毛利氏が周防・長門二国に減封され、宍道氏もこれ従い廃城となった(引用:Wikipedia)。

 前回のコラムに登場した秋鹿郡伊農郷も同じ命名由来です。伊努郷と同じ地勢の尖り山、十膳山があります。⇒google 画像検索



■■■「美談郷(みたみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)の子、和加布都努志命(フツヌシ神)が天上界の御領田の長として奉仕した。その神が鎮座している。だから三太三(みたみ)といった。神亀三年、美談と改めた」

◎縄文語:「ムンテュ」=「草むら」⇒google map


 風土記にあるような、そんな大げさなものではありません。ただの「草むら」という意味です。似たような単語もなく、発音もほぼ完全一致しているので、極めて確度の高い縄文語解釈と言えます。

 ちなみに、フツヌシはオオクニヌシの子ではありません。日本神話は欠史八代を基に創作されています。フツヌシの人物比定は第七代孝霊天皇(ネコヒコ/フトニ)で、卑弥呼(ヤマトトトヒモモソヒメ)の父です。国譲りを迫り、オオクニヌシを死に追いやった張本人です。その後が邪馬台国です(※第二十五回コラム参照)。


■■■「宇賀郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)が、神魂命の子、綾門日女に求婚した。その時、女神が承諾しないで逃げた時に大神が尋ね求めたところが、この郷である。だから宇加という」

◎縄文語:「ウカゥ」=「石が重なり合っているところ」⇒google 画像検索


 綾門日女が隠れたところには黄泉の入口があり、夜見神社の祠があります。石や岩がごろごろしているところのようです。

 宇賀郷は風土記の国引き神話に登場する「去豆の折絶」の地で、宍道湖から日本海に抜ける山塊の切れ目が走っています。夜見神社付近以外にも、同じような地勢の場所があるのではないでしょうか。

⇒google map 黄泉の穴付近
⇒ストリートビュー 黄泉の穴入口

 出雲風土記の縄文語解釈はつづく。次回は神門郡です。




◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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