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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百三回 ~ 第二百十回】

 記紀風土記の編纂以降、日本先住民である南方系の倭人の足跡の多くは北方系渡来人の文化で上書きされています。地名、人名、神社仏閣の由来など、真偽不明の通説、俗説が全国に流布し、現在に至るまで日本の文化や歴史を構成する一部として確固たる地位を築いています。
 しかしながら、筆者が見るところ、これらは高確率で渡来人による漢字表記からのこじつけ創作物語が起源です。

 なぜこのようなことが起こったのか。
 日本は古来、縄文、弥生、大規模古墳の時代に至るまで、日本全国で縄文語(アイヌ語)が使われていました。それは全国の地名や各地に散在する大規模古墳名が如実に物語っています。(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)

 現在、日本人は縄文語と文法も発音も似ても似つかぬ日本語を話しています。この日本語の前身は、言うまでもなく、記紀風土記などに記される上代日本語ですが、だからと言って、これですぐに「日本が渡来人に侵略されて先住民が全滅した」ということにはなりません。

 古墳時代の北方系渡来勢力は、徐々に伸長して六~七世紀にヤマト王権を簒奪するに至り、自らの存在の正当性を主張するために記紀風土記を編纂しました。彼らは日本先住民の言語である縄文語に漢字を充て、日本の歴史を上代日本語で記し、自らの出自を日本の歴史に結び付けています。各国風土記を見るに、日本先住民になりすますその態度は徹底的です。

 例えば「新羅」「百済」「高麗」。言うまでもなく、日本の地名や歴史に頻繁に登場する朝鮮半島の国です。これらの文字が登場すると必ずと言っていいほど「半島系の渡来人が・・・」という由来が付加されます。しかし、これらを縄文語解釈すると、

◎縄文語:「新羅=シロケ=山裾」/「百済=クッチャ=湾や湖沼の入口」/「高麗=コ・マ=湾曲した・谷川」

 となり、日本のどこにでもある地勢の表現となります。
 「新羅」や「百済」などは、そのまま朝鮮半島南部の地勢とも一致し、それはすなわち倭人が朝鮮半島南部にも勢力を持っていた可能性を示すことにもなります。
 漢代の県名(上古音)さえも縄文語解釈可能なので、中国先住民の四夷(特に東夷南蛮)や倭人と言語を共有する民族が、日本への経由地である朝鮮半島南部に根を張っていたとしてもまったく自然なことなのです。同系同族であれば、それは隣村と変わりありません。朝鮮人が渡来したとも、倭人が朝鮮半島にいたとも言える訳です。

 つまり、朝鮮半島であれ、日本国内であれ、同一地勢に同一地名が与えられるのは至極自然なことで、「新羅」「百済」「高麗」という共通の漢字が充てられているという理由だけで渡来人との因果関係が語られ、日本の歴史や文化を上書きしてもらっては大変困るのです。初めからその意図を持って漢字が充てられた可能性すらあります。

 残念ながらこのような例はほかにも無数に存在し、千年以上にわたって縷々と続けられている例も多数あります。他国の文献、あるいは考古学の裏付け等がないのであれば、これらの漢字表記からのこじつけ説はまったく信用するに値しません。言うまでもなく、諸悪の根元は記紀風土記です。
(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」「日没する国のエラーコラム」参照)

 しかし、こうして縄文語を上代日本語で上書きし、日本の歴史の改竄を続けてきた北方系渡来勢力ですが、地名、人名、神社仏閣の由来譚の捏造はできても、さすがに周辺の地勢まで変えることはできなかったようです。そこに南方系先住民文化を呼び覚ます糸口となるほころびがあります。
 
 日本先住民は、日本全国の地勢を見事に縄文語(アイヌ語)で表現しています。そして現在はインターネットの時代。全国の地勢をコンピュータ上で見ることが可能です。この文明の進化が古代人、渡来人のウソをはっきりと浮かび上がらせます。時代は少し後ろにズレましたが騎馬民族は実際に来ていたのです。

 今回の「騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム」では日本全国に散らばる、渡来系、主に朝鮮半島由来と語られる通説、俗説のウソを徹底的に暴いてみようと思います。日本建国黎明期の歴史や日本の伝統文化と呼ばれているものの多くは再検証が必要です。

 渡来人の漢字表記こじつけ創作物語と日本先住民の縄文語(アイヌ語)解釈。どちらに信憑性があるか、じっくりと比較していただければと思います。


※参考文献「日本の中の朝鮮文化1~12」(金達寿 講談社)ほか
 1983年~の古い本ですが、朝鮮半島由来の説がまとめて記されているので参考としました。

※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。

騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[神奈川県]秦野~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「秦野」地名由来(秦野市HP)
【秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もそのひとつですが、現在のところ文献や考古資料から古代に秦氏がこの地を開拓したという証拠はみつかっていません。平安時代に書かれた『倭名類聚抄』に秦野の古名は「幡多」だったとの記載がはじめて文献にあらわれます。鎌倉時代に入ると『吾妻鏡』や『保元物語』などの軍記物語に、平安末期にこの地の地名を名乗った「波多野氏」が登場します。しかし、「はたの」と「はだの」のどちらで発音されていたのかはわかりません。過去において「はだの」と呼ばれていたことが確実にわかる史料は、江戸時代に入ってからの振り仮名の記載がある『東鏡』や『香雲寺文書』、『新編相模国風土記稿』などです。】

×「秦野」の地名由来について(『新撰姓氏録』秦野市HPより引用)
【新撰姓氏録山城国諸藩(シンセンショウジロクヤマシロノクニショハン)の秦忌寸(ハタノイミキ)の条に「仁徳天皇の御世に、姓を賜わりて波陀(はだ)という。今の秦の字の訓なり。」また、古語拾遺の太秦(うずまさ)の説話を述べた箇所に、「貢る所の絹、綿、肌虜に軟かし、故に秦の字を訓みてこれを波陀という」とあるからでしょう。この古語拾遺の記述について宣長は、「若しこれらの義ならば温或は軟の言を取りてこそ名くべけれ、肌という言を取るべき由なり 新井氏(白石)もこの説を信じて波陀は韓国の語なりといえり」と言っています。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:秦野=「ハッタ・ノッ」=「淵の・岬」

 縄文語解釈は、水無川の秦野戸川公園とすれば地勢と完全に一致します。

■秦野戸川公園


 由来の一説ともなっている「秦氏」、拠点となった京都の「太秦」も解釈します。

◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「淵」(桂川)
◎縄文語:「太秦」=「ウテュ
・マサ」=「間の・水辺の草原」(桂川と支流、または鴨川の間の草原)

 「淵のある川(桂川)とその支流(または鴨川)に挟まれた草原」という意味です。地勢と完全に一致しています。

 「秦氏」とその同族の「服部」、得意とされる「機織り」は同語源の「ハッタ=淵」です。秦氏が活躍する場所は「水辺」と決まっています。
 「機織りが得意」だとするのは、渡来人の出自を飾るための後世の創作物語にすぎません。渡来人がいかに優れていて、日本の歴史にいかに貢献したかを語るためです。

 「桂川」と秦氏の氏神を祀る松尾大社も解釈してみます。

◎縄文語:「桂(川)」 =「コッチャ」=「谷の入口」(保津峡の入口)
◎縄文語:「松尾」 =「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」(桂川の岸辺)




 大体、秦氏の祖である秦伊呂具が建てたといわれる伏見稲荷大社の由来も明らかにデタラメなので、人名も地名も疑わざるを得ません。(※「第八十回コラム」参照
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「稲荷大社」由来(山城国風土記逸文『延喜式』神名帳頭註)
【風土記にいう。伊奈利というのは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等の遠祖、伊侶具の秦公が穀物を多く収穫し、裕福になった。それで、餅を的としたが、白い鳥に変って飛び去った。そして、山の峯にいて、そこに稲が生えた。よって社の名とした。その子孫は、先祖の過ちを悔い、社の木を引き抜き、家に植えて祭った。今、その木を植えて育てば幸福を得、枯れれば幸福にはならない】
■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「稲荷」=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=高台の祭場=稲荷山山頂の祭場⇒google map

◎縄文語:伏見稲荷大社の主祭神「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」
=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」
=磐座⇒写真(google画像検索)

◎縄文語:稲荷神の眷属「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」=稲荷山⇒写真(google画像検索)

 伏見稲荷同様、 「秦氏」の出自も極めて怪しいと言わざるを得ません。『新撰姓氏録』によれば、

「応神十四年(二八三)に百済から日本に帰化した氏族であり、秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物とされる」(wikipedia)

 とありますが、第十五代応神天皇の頃は、邪馬台国の台与の事績を隠蔽している頃にあたります。武内宿禰が仕えた第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇までの事績の多くは信用できません。武内宿禰は物語を創作したために神がかり的な長寿となっています。「秦」を「ハタ」の読みと一致させる根拠が不明なので、始皇帝云々は別として、秦国由来の可能性はあるかもしれません。

 まとめます。秦氏について簡潔に言えば、以下のようになります。

「先住民の”ハッタ(淵)”と呼ばれている地を拠点としたので、”秦”という漢字を充てて氏の名”ハタ”とした。そして、その発音から “機織りで財をなした”という物語と、その表記から“秦の始皇帝の末裔”という出自を創作した」

 記紀、風土記ほか、通説俗説すべてにおいて、ほとんどがこの流れで説明がつきます。考古学、他文献の裏付け等がなければ、漢字表記こじつけ説はほぼすべてデタラメです。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[神奈川県]高座郡・鎌倉・渋谷~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高座郡」地名由来(『箱根山の開発と高麗文化』中野敬次郎 ※『日本の中の朝鮮文化』から引用)
【相模国には古代に高麗人が各所に住んでいたが、大磯は最も世に知られたところである。また、相模国の中央にある高座郡も、今は「こうざ郡」と読むが、はじめは「たかくら郡」と呼んだのであって、高座郡とも書き、高麗人が住んでいたので郡名が起きたのだといわれている。奈良時代に聖武天皇に仕えて当時の高麗人としては最高の位置であった従三位に叙せられて公卿の列に入った高麗福信という人が、後に高倉福信と名乗っているが、「たかくら」と言うのは、何か上代高麗人に深い関係のある名称であるらしい。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高座(こうざ)」=「コッチャ」=「谷の入口」(相模川の入口(河口))

 高座郡の位置は相模川東岸の流域です。下流は相模湾沿いの茅ケ崎、藤沢あたりの河口から、上流は相模原市あたりまでです。
 通説の「こうざ」と「たかくら」の読みの発生の順番を逆にするとすんなりと理解できます。地勢とも完全に一致します。高麗人はまったく関係ありません。

■高座郡


 古文献が信用できないので、このように解釈があべこべになる例はたまに見受けられます。
 例えば岩の嶺が突兀とそびえる「六甲山」。通説では、「六児/無古/武庫/務古/牟古」等が転訛して「六甲山」となったとされていますが、縄文語ではまったく逆です。

◎縄文語:「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」
◎縄文語:「向津(峰)」(六甲山の別名)=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」

 「六甲山」と「向津峰」は縄文語による言い換え表現で、いずれの呼名ももともとあったとする方が理解がスムーズです。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鎌倉」地名由来(鎌倉市HP)
【神奈川県の中央部に、高座郡(こうざぐん)という地名があります。高座は、昔「たかくら」と読んでいたところから「高倉」「高麗」(こま)に通じ、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったといわれています。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「鎌倉」=「コケ・ラ」=「湾曲している・低いところ」(由比ヶ浜の岸辺=鎌倉)

 鎌倉の由来は由比ヶ浜の地勢です。「湾曲する浜の低地」の意で、地勢と完全に一致しています。こちらも「高麗」はまったく関係ありません。

■鎌倉


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「渋谷」地名由来
(『地名風土記』東京新聞1969/11/13 ※『日本の中の朝鮮文化』から引用)
【渋谷の地名については、古くからこのあたりまで海がはいりこんでいて、塩谷(しおや)の里とよばれていたのが、渋谷に変わったという。しかし、相模国高座郡渋谷庄に、治承(1177ー1181)のころ、渋谷国重という領主がいて、その一族がここに移り住み、ここも渋谷とよばれるようになったともいう】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「渋谷」=「シぺッ・ヤ」=「本流の・岸」

 この地名由来潭は、典型的な漢字表記こじつけ創作物語の可能性が高く見えます。同じ地勢であれば、同じ地名であっても何ら不思議はありません。「本流の岸」などという地勢はどこにでもあるものです。

 似たような地名由来潭に、甲斐の加賀美があります。

「美濃各務氏が甲斐国中巨摩郡に移住したため、”各務”や“鏡”という地名が発生し、のちに加賀美と書かれるようになった」(wikipedia要約)

 これも、各務原と加賀美に同様の地形があるからで、「各務氏が移り住んだから」などという説がどこまで真実なのか不明です。

◎縄文語:「各務(原)/加賀美」=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」

■各務原

■加賀美


 また、トヨウケ神にも似たような由来潭があります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
「トヨウケ神が天照大神の食事の世話をするために丹波から伊勢に移った」(伊勢神宮外宮社伝『止由気宮儀式帳』要約)
■■■ 縄文語解釈 ■■■

 これはまったくのデタラメです。そもそもトヨウケは穀物神ではありません。

◎縄文語:「トヨウケ」=「トヤ・ウカウェ」=「海岸の・石が折り重なったところ」=丹後半島、伊勢志摩の岩礁

 丹波と伊勢に共通する地勢である「岩礁」を表したと捉えられます。何かの神様だとすれば、先住民による「岩礁の自然崇拝」です。
 他の八百万の神々の多くも、縄文語の漢字表記にこじつけた創作物語から生み出されています。日本の神様は残念ながら大嘘つきです。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[神奈川県]丹沢・箱根・駒岳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「丹沢」地名由来(『箱根山の開発と高麗文化』中野敬次郎 ※『日本の中の朝鮮文化』から引用)
【地名について言えば、古代から名山として知られた箱根山も、往昔の大修験道場で今は登山界で知られる丹沢山塊も、その山名は古代韓国語で名づけられたものであると考えられている。
 丹沢山のたん(丹)は、古代韓語の深い谷間の意味で、さわ(沢)も深谷の渓流のことを指すもので、後にこれが普通の大和言葉になったのだと言われておって、丹沢山は谷深く沢清き義であるらしい。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「丹沢」=「タン・チゥ・ワ」=「こちらの・水脈、水流の・岸」
※丹沢の北に隣接する「道志(村、川)」=「タン・チゥ」=「こちらの・水脈、水流」


 どんな説であろうとも、その地勢より説得力のあるものはありません。だいたい大和言葉などどいうものの多くが渡来人の言葉です。

 丹沢の縄文語に含まれる「タン=こちらの」は地名によく登場する表現で、対比となる同様の地勢が近隣にある場合に使用されます(※より規模が大きなことが多い)。丹沢の北に接して道志村、道志川があり、丹沢と類似の解釈が可能なので、道志川を指して「タン・チゥ=こちらの・水脈、水流」、その岸辺ということで「丹沢=こちらの水脈、水流の岸」と表現したのかもしれません。
 とすれば、「タン・チゥ」の対比となる川は北方の谷を東流する桂川(相模川)がふさわしく見えます。道志川の本流です。縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。

■丹沢山地


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「箱根・駒岳」地名由来
(『箱根山の開発と高麗文化』中野敬次郎 ※『日本の中の朝鮮文化』から引用)
【箱根山は万葉集の中にある歌の中には波古称などと書かれ、中古の頃は筥荷、あるいは筥根と記され、平安時代の末頃から、今のように箱根と書かれるようになったが、あるいは函嶺と書く場合もある。要するに、「はこね」と称する発音や、筥、箱などを持ちうる文字から来る感じなどと、三重式カルデラ式火山などからして、語源は箱の形をした山という意味だろうと考えられる向きが多いようであるが、実は聖山又は神仙の山の意から出たものである。北中国や韓国の古語では、「はこ」は神仙の意味で、「ね」は山嶺の義であって、山頂に神仙の住む聖山だという意味から起きた山名である。
 <中略>今芦ノ湖畔にある箱根神社は、奈良朝以前には駒岳の山頂にあったもので、駒形権現と言われた。この駒形権現は大磯の高麗山の山頂に祀られていた高麗権現を勧請したものであって、箱根山の歴史が高麗権現の勧請から出発しているのは、言うまでもなく、高麗人によって箱根に最初の開発の鍬が下されたものであることを示している。
 奈良時代になって、万巻上人という奈良の高僧が箱根山に来って、天平宝字元年に霊夢によって、駒形権現を駒岳の山頂から麓に下して、箱根三社権現と名づけ湖畔に祀ったのが、今の箱根神社である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「箱根」=「パン・コッネ・イ」=「川下の・窪んでいる・ところ」(※おそらくは富士山周辺から見て川下)
◎縄文語:「駒形」=「コケ・チャ」=「湾曲している・岸」(芦ノ湖の湾曲している岸)

 「箱根」は富士五湖等の富士山周辺の湖沼との対比表現に捉えられます。「駒形」は芦ノ湖の岸辺の地形を表しています。いずれも地勢と完全に一致しています。

■箱根元宮



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[神奈川県]高麗山・釜口古墳・平塚・唐ケ浜~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗山」地名由来(『高麗山』リーフレット 旧神奈川県林業指導所 ※『日本の中の朝鮮文化』から引用)
高麗という地名のおこり 奈良時代に高麗王若光の一族が海路この地に移住してきました。彼らは花水、相模両川の下流原野の開拓を行いながら、大陸の先進文化をひろめました。その後、高麗人は霊亀二年(716)に武蔵国(埼玉県日高市/旧高麗村)に移ったといわれます。現在でも高麗寺、高麗山唐ケ浜、唐ケ原などの地名がのこっており、その当時がしのばれます。
 高来神社(高麗神社) うっそうと樹木のおい茂った高麗山南面の山麓に高来神社、高麗神社、権現さんなどの名でよばれている由緒ある神社があります。
 この神社の創建については明らかではありませんが、神皇産霊神、瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后の四柱が祭神として祀られています。
 奈良時代に本地垂迹説が唱えられるようになると神仏を一つに考え、神社の境内にお寺を建てるようになりました。高麗神社の境内にも養老年間に法相宗の僧が千手観音像を本地仏として鶏足山雲上院高麗寺を創建し、高来神社の別当としました。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗山」=「コ・ヤマ」=「持ち手の曲がりのような・山」(丸山)

 下の「高麗山」のストリートビューをご覧下さい。縄文語解釈の「持ち手の曲がりのような山」以上の表現があるでしょうか。
 「高麗人が~」という説がかなり怪しく見えてきます。「高麗山」の場合、先住民の「コ・ヤマ」の地名に北方系渡来人が「高麗」の漢字を充て、ご丁寧に寺も建てて朝鮮半島由来の物語を創作したのではないでしょうか。  
 そう考えれば、風土記の漢字表記こじつけ創作物語の態度に矛盾なくつながります。
 つまり、

「日本全国に散らばった北方系渡来人が、先住民の縄文語地名に漢字を充て、新たに由来を作成し、先住民の文化や歴史を上書きした」

 ということです。
 そうでなければ、大規模古墳の名称や風土記記載内容において、地勢と完全に一致するような縄文語解釈が無数に発見できるはずはありません。

■高麗山 ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


 高麗山の南麓にこの地域の盟主墓である釜口古墳があります。
 この釜口古墳を縄文語解釈すると、

◎縄文語:「釜口(古墳)」=「コ・クチ」=「丸山(高麗山)の・崖」

 となり、「高麗山の崖に築かれた古墳」ということになります。地勢と完全に一致しています。縄文語解釈できるとすれば、渡来人ではなく、日本先住民の墓ということになり、同時に「この地域を高麗人が開拓した」という説が眉唾物であることを示すことにもなります。

 現地案内看板では「釜の口に似ている」という由来です。ただし、この名称は平塚市の縄文語解釈と完全に一致しています。平塚市HPには「桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が逝去し、築いた塚の上が平らになった」との地名由来がありますが、この類の漢字表記こじつけ説がすべてデタラメなのは他の例を見ても明らかです。

◎縄文語:「平塚」=「ピラ・テュ」=「崖の・小山」(釜口古墳or高麗山)

 釜口古墳は七世紀末~八世紀初頭の築造です。関東の大規模古墳の名称は少なくとも七世紀代まで縄文語解釈できる例が散見されます。(※「日出ずる国のエラーコラム」参照)
 

■釜口古墳(※右崖上)



 高麗山の東には花水川が南流し、相模湾に注いでいます。その河口の西岸が「唐ケ原」と呼ばれています。

◎縄文語:「唐ケ(原)」=「トー・カ」=「海の・ほとり、岸」

 「唐」という漢字が充てられただけで、めでたく渡来人の活躍物語が生まれています。縄文語では単に「海岸」という意味です。

■唐ケ原

 

騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[神奈川県]相模・大磯・寒川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「相模」地名由来(『日本の中の朝鮮文化1」金達寿 講談社 )
【相模国というその相模からして、これは中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、朝鮮語の「サングモ」が訛ってサガミとなってものであるといわれている】

×「寒川」「相模」地名由来(『地名」丹羽基二 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもとは寒河(さが)で当て字。
 相模。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河)からきている。朝鮮人の居所。相模には朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその氏神。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「相模」=「ソカ・ムィ(=モィ)」=「岩の多い岸の・入り江」(相模湾の岸辺)

 縄文語では相模湾の岸辺の表現です。朝鮮語は関係ありません。「大磯」の解釈とも辻褄が合います。

◎縄文語:「大磯」=「オオ・イソ」=「大きな・海中の波かぶり岩」


■稲村ヶ崎周辺


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「寒(川)」=「サ」=「隣(の川)」 (相模川に合流する隣の川「目久尻川」)

 寒川神社は「目久尻川」の河畔です。こちらも朝鮮半島由来の物語は関係ありません。
 「目久尻川」は、

◎縄文語:「目久尻(川)」=「メ・クッチャ」=「泉の・入口」 (目久尻川流域の低湿地への入口)

 の意で、蟹ヶ谷公園等の目久尻川流域の低湿地への入口ととらえられます。wikipediaの名称由来に「寒川神社の御厨(みくりや)から転じた」という漢字表記こじつけ説がありますが、縄文語で解釈すれば、地勢そのままズバリなので、物語をわざわざ創作する必要はありません。


■寒川神社 ※相模川の隣の目久尻川河畔。

■目久尻川と流域の蟹ヶ谷公園
 

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「目久尻川」名称の由来(wikipedia)
【この川の名の由来はいくつかの説がある。 一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。 一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる伊勢下村橋には河童の像があしらわれている。 】


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]高麗郡・新堀・毛呂~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗」地名由来(『続日本紀』)
【天正天皇霊亀二年(716)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野国の7国在住の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を置く。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」

 埼玉県の高麗神社は高句麗王若光が大磯から移ったことで有名ですが(※第二百六回参照)、縄文語では単に「湾曲する高麗川」の様子を表現していると解釈できます。高麗郡は縄文語の「コ・マ」と呼ばれていた場所に漢字を充てて設置されただけではないでしょうか。
 「高麗人を移住させた」という続日本書紀の内容がたとえ事実だとしても、地名由来は縄文語だとも考えられます。それにこじつけて移住させられたということです。
 「高句麗王若光が大磯から移った」という説もどこまで真実か不明です。 そもそも大磯の高麗山は「コ(山)=持ち手の曲がり(のような山=丸山)」の意なので、高麗人がいたかどうかも定かではありません。(※第二百六回参照

 全国の「高麗」の地名は大磯の高麗山などの例外を除いて、すべて「湾曲する川」の地勢と一致しています。「高麗」の文字以外に「巨摩/駒/狛/鴨/加茂/賀茂/蒲生」が充てられる例がみられます。(※「日出ずる国のエラーコラム」No.12,No.13参照)

■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。

■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新堀」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』)
【新堀大宮の新堀というのは、「新しい堀」などといった意味ではなく、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば、これも東京都内にある日暮里などとおなじく、朝鮮語のプル(都京)からきたもので、すなわち村の中心ということであった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新堀」=「シアン・ペル」=「大きな・泉」
◎縄文語:「日暮里」=「ニン・ペル」=「しみこんだ・泉」

「新堀」は高麗神社の東方、高麗川が大きく湾曲しているところです。この地勢では大きな泉があったとしても不思議はありません。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「毛呂」地名由来(『日本の中の朝鮮文化』)
毛呂郷毛呂氏族のことについては、河田楨氏の『武蔵野の歴史』に次のように書かれている。
「ムラという言葉は、古朝鮮語のムレから転訛したもので、さらにムロにかわり、牟礼、牟婁の地名は各地にあるといわれる。そうすると、モロもまたムレの転訛と考えられる。霊亀二年(716)高麗郡の設置より早いか遅いか不明だが、この地もまた帰化人の手によって、飛鳥朝から奈良初期に開かれた土地であろう】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「毛呂」=「モ・ラ」=「小さな・低地」

 毛呂は南北の丘陵(毛呂山丘陵、岩殿丘陵)と西部の小高い山地(外秩父山地東縁)に囲まれた小さな低地です。JR毛呂駅の東側、町役場周辺が小さな低地になっています。毛呂山町には縄文中期には人々が生活していました。
 
「(毛呂山町)縄文中期頃にはすでに人々が生活をしていた痕跡があり、これまでに約120ヶ所の遺跡が確認されている」(wikipedia)

 古墳時代前期の集落、方形周溝墓も豊富にあり、古墳時代後期にも前方後円墳が複数築造されているので、飛鳥朝から奈良初期に帰化人が開いたということはありません。

■毛呂山町役場周辺



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]新座郡~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新座郡」地名由来(『続日本紀』)
【天平宝字二年(758)、帰化の新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移す。是に於て、始めて新羅郡を置く。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅郡」=「シロケ(シ・オケ) 」=「山(大地)裾」

武蔵野台地北端。現在の新座市周辺。
※武蔵国「新羅郡」はのちに「新座郡」と表記が改められ、「にいくら」と読まれるようになったというのが通説。縄文語で「ニークとすれば、単に「林」の意。

 基本的にこの通説のような物語は、由来のすべてが創作か、あるいは漢字表記にこじつけて渡来人を移住させたかの可能性が高いと言えます。なぜなら、周辺の地名がことごとく地勢と完全に一致する縄文語で解釈可能だからです。

 風土記を見るに、先住民による縄文語の地名由来を完全に消し去るのが編纂者側の目的であることははっきりとしているので、記紀や続日本紀についても同じ視点で見るのが妥当です。

 関東の大規模古墳の名称は七世紀まで縄文語で解釈可能で、のちに設けられる国衙周辺とそれ以外の地域の言語が異なる二重構造だった可能性を示しています。

 近隣にアラハバキを祀る氷川神社がありますので、それを解読してみます。

◎縄文語:「アラハバキ」=「ア・パンパケ 」=「一方の・川下」
◎縄文語:「氷川」=「ピー(川) 」=「小石(川)」

 縄文時代は大宮台地を挟むように東京湾、入間湾が入り込んでいて、利根川、荒川、入間川が東京湾に注いでいました。

◎縄文語:「荒川」=「ア(川)」=「一方(の川)」
◎縄文語:「利根川」=「ト・ナィ(川) 」=「海のような(大きな)・川」

 日本全国に「荒川」という川がありますが、決して荒れる川ではありません。「本流に対する支流」あるいは「近隣の大きな川に対する一方の川」の意で使用されています。埼玉県を流れる荒川は利根川の対比と捉えられます。(※wikipedia「荒川」 ほぼすべて支流)

 氷川神社の由来を出雲の「斐川」に結びつけ、出雲氏族が開拓したという説がありますが、「小石の川」など日本全国に無数にあるので、発音が同じだけで由来を結びつけるのは危険です。

 利根川の由来に似た地名に瀬戸内海があります。

◎縄文語:「瀬戸内(海)」=「シアン・ト・ナィ 」=「実に・海のような(大きな)・川」

■新羅郡の位置と縄文海進 ※武蔵野台地北端




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[群馬県]多胡郡・甘楽郡・下仁田・富岡・鏑川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「甘楽郡」「多胡郡」地名由来(wikipedia)
【古代には「甘良郡」として『続日本紀』和銅4年(711)に登場する。からの渡来人が多く住んだことから、「から」が変化して「かんら」となったと考えられる。同年3月6日 - 一部の郡域から多胡郡が設置された。】

×「甘楽郡」「多胡郡」地名由来(『雲の流れ」富岡市観光案内 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用 )
【甘楽郡の名は、古くは多胡碑に甘楽郡と刻まれておりますように、甘楽は韓であって、仏教がつたえられてからは帰化人が沢山この地に移り住み、開拓されたと見る向きが多いようです。これはごく最近下仁田附近で、韓の古銭が沢山発掘されたことによっても窺い知ることができます。従って、甘楽の谷津は、文化も農業も帰化人の影響を受けて発展したと申されましょう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「多胡郡」=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」
◎縄文語:「甘良(甘楽)」=「カン・ラ」=「上にある・低いところ」
◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタッ」=「西の・湿地」(※「上仁田」は存在しません)
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地

 鏑川の上流、西側から下仁田、甘楽郡、多胡郡と並んでいます。この三地域で対比表現となっています。また、甘楽郡と下仁田の間の「富岡」も同類の解釈が可能です。 つまり鏑川沿いは一様に低湿地だったということです。鏑川も「浅い低地」を流れる川の意です。
 『日本の中の朝鮮文化』には、「鏑川は韓から転じた」と書かれていますが、まったくそんなことはありません。

 これらのように地名が完全に辻褄の合う縄文語解釈できるということは、少なくとも地名が漢字表記される時点では先住民が住んでいたということになります。先住民の言葉を聞いて漢字表記したのですから、もともとの地名由来に渡来人は関係ありません。可能性としてあるのは漢字表記との関係だけです。

 ここで言う先住民とは、縄文語を共有する縄文人、弥生人、大規模古墳人(倭人、大陸南部、朝鮮半島南部由来)です。多胡郡を設置し、上代日本語の多胡碑を設けた北方系渡来人(朝鮮半島北部、主に百済、高句麗系)の勢力は、記紀風土記で先住民の歴史文化をことごとく上書きしています。後世の人々は、北方系渡来人の思惑通り、上記のような漢字こじつけ伝承を連綿と言い伝えています。


■多胡碑(鏑川沿いを西に向かって、甘楽町、富岡市、下仁田と並ぶ。いずれも、湿地、低地の意)


 逆に言うと、「唐」や「韓」の表記に結びつけられることの多い朝鮮半島南部の「加羅」「加耶」が、縄文語の「カン・ラ=上にある・低いところ」「カン・ヤ=上にある・岸」or「カ・ラ=岸の・低いところ」「カ・ヤ=ほとりの・岸」を表していて、倭人と言語を共有する同系の民族が住していた可能性があります。
 朝鮮半島由来と言っても、大きく分けて南北二種があります。現朝鮮民族の遺伝子が北方系エヴェンキ(ツングース系)と南方系先住民の混血を示しているのはまさにそういうことです。

□ エヴェンキ(北方ツングース系民族)と朝鮮民族の関係(wikipedia)
【エヴェンキと朝鮮民族とは言葉・文化が酷似しており、朝鮮民族の祖先という研究がある。2005年に韓国のイ・ホンギュ(ソウル大学医学部)は「韓 - ロシア ユーラシア文化フォーラム」において、エヴェンキと韓国人の人種的類似性と関連して「韓国人は北方モンゴロイドのエヴェンキと南方原住民の血が混ざって形成された民族」という見解を唱えた。イ・ホンギュ(ソウル大学医学部)は、「何年か前にDNA検査のためにエヴェンキの頭髪をソウル大学に渡したことがあるが、まだ研究結果は聞けなかった。エヴェンキも私たち(韓国人)のように蒙古斑があり、顔付きも似ている」と指摘しており、また、エヴェンキは現在も「アリラン」「スリラン」という単語を使用しており、シベリア先住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型を分析した結果、約70%が典型的なモンゴロイドの遺伝型であり、父系祖先のY染色体の場合、シベリア原住民は主にO型、南アジア原住民はC・D型であり、韓国人はO型とC・D型が混ざっている。さらに、「朝鮮語の起源がツングース語だという学説を後押しできる実体的証拠が発見された、さらなる研究が必要だ」と説明した。】



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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