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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百六十一回~第三百七十回】

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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[山梨県]都留・大幡・加畑・勝山城・谷村(やむら)・高畑・白髭神社・多良郷・奈良~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大幡・加畑・高畑・田原」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
大幡の幡や加畑高畑の畑が新羅・加耶系渡来人である氏族の秦、さらにいうならば、かれらがそこを渡って来た朝鮮語のバタ(海)からきたものであることはいうまでもなかったが、田原にしても高山寺本に太波良、『和名抄』に多良(たら)郷とあるそれだった。その多良が田原となったわけで、それものち新羅となった古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のなかの一国だった多羅からきたものにちがいなかった。
<中略>
 「ああ、奈良ね」と私はうなずいた。
 妙なもので、それもまた朝鮮語のナラ(国)ということからきたものだった。
<中略>
 私はなぜその「原野」にこだわったかというと、中島利一郎氏の『日本地名学研究』をみると、ツルは朝鮮語の「原野」だとあって、「要するに弦巻も鶴巻も 野牧(つるまき)』の意の仮借字であろう」「弦巻は古語に原野のことを『つる』といい、又朝鮮語でもそうであるから、これは野牧の意で・・・・・・」とあったからである。
 都留にそういう牧場があったかどうかはわからないが、さらにまた、丹羽基二氏の『地名』をみるとこうなっている。
「つる 鶴、津留、都留等に当てる。(一)鶴の飛来地に因む。鶴見、鶴岡、鶴巣。朝鮮語で鶴をツルミという。(二)野原のこと。朝鮮語でも野をツルという。朝鮮渡来人の居住地。山梨県の都留郡など。」<中略>
 山梨日日新聞の切り抜きにある白髭神社機(はた)神社をみたいと話し、ついで『和名抄』に多良郷とある田原はどういうところだったのかとたずねた。】

×「大幡・加畑・高畑・田原」について(『郷土資料辞典/都留市』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
谷村(多良郷比定地)の重要性は、甲斐絹を中心とする郡内機業の発祥地・中心地であったことである。桓武天皇の延暦一三年(七九四)この地に 織部司おかれ、中世の鎌倉・室町時代には市場取引が行われ、近世に入って羽織裏地として全国に独占的地位を占めた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 もう、上記はデタラメオンパレードです。まず、何度も登場している秦氏。

◎縄文語:「秦(氏)/機(神社)/機織り」 =「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 秦氏が活躍するのは日本全国の「水辺」です。そもそも朝鮮半島南部も縄文語圏なので朝鮮語の「バタ」が縄文語の「ハッタ」由来である可能性すらあります。

 この周辺では「ハッタ」と「機織り」のこじつけから機業が興され、ご丁寧に「機神社」も設けられています。それだけ徹底して先住民文化の上書きが行われたということです。

 日本全国の神社もこれと同様で、創作した由緒で先住民文化を徹底して上書きしています。高句麗系渡来人の活躍で名高い神奈川県大磯町の 「高来神社」、埼玉県日高市の「高麗神社」さえもその類いです。

 これらはいずれも「コ=湾曲する地勢」を指しています。前者は「湾曲する山=丸山(高麗山)」の意、後者は「湾曲する川(高麗川)」の意です。高麗人が移住、活躍したという由来で縄文語地名が上書きされています。

 日本全国の「高麗/蒲生/駒/狛」等の地勢のほとんどはこの二種の解釈のいずれかです。


■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。

■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



 再掲になりますが、以下、その他神社の例です。

◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。


 「白鬚神社」についてもこれまで幾度となく取り上げました。「白=山裾」です。日本全国に無数にあるありきたりな地勢で、新羅国は関係ありません。これらを安易に結んでしまうと新羅系渡来人が大活躍してしまいます。広範囲にわたって点在する新羅神社や天日槍の足跡がそれを如実に物語っています。

 琵琶湖の白鬚神社は琵琶湖が「ピ・ワ=石の・岸」の意なので「山裾の石」の意ですが、都留市の場合は周辺地名の解釈を考慮すると「山裾の水のところ」と解釈した方が辻褄が合います。とすれば、近隣地名の「高畑」とほぼ同義です。

◎縄文語:「高畑」 =「テュ・カ・ハッタ」=「峰、岬の・ほとりの・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「白鬚(神社)」「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
or「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」

 縄文語と漢字は一意で結びつけられてはいません。縄文語と似ている発音であればルール無用で結びつけられています。よって周辺地名の解釈が重要となるのです。


■都留市周辺地名の縄文語解釈  ※同色は類似解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「勝山城」と近隣地名の「加畑」も言い換え表現となっています。

◎縄文語:「勝山(城)」 =「カン・チゥ・ヤマ」=「上にある・水流、水脈の・山」
◎縄文語:「加畑」 =「カン・ハッタ」=「上にある・淵、水が深くよどんでいるところ」

  「多良郷」の比定地は現在の「谷村(やむら)」ですが、これも類似解釈が可能です。

◎縄文語:「多良(郷)」 =「タン・ラ」=「こちらの・低地」
◎縄文語:「谷村」 =「ヤン・モ・ラ」=「陸岸にある・小さな・低地」


 ほか、「大幡」も「都留」も「水辺」の意です。富士山の麓ですから、湧水、水辺が多いのは当然です。

◎縄文語:「大幡」 =「オオ・ハッタ」=「大きな・淵、水が深くよどんでいるところ」
 ※大幡川上流、三ツ峠登山道には千段の滝と呼ばれる多くの滝があります。(→都留市公式サイト/三ツ峠〈北口登山道〉)
◎縄文語:「都留」 =「チ」=「水のしたたり」

 言うまでもなく、「鶴」も「原野」も関係ありません。地勢ともまったく一致しません。

 山梨県とは関係ありませんが、「鶴見」「鶴岡」「鶴巣」「奈良」も解釈してみます。

◎縄文語:「鶴見」 =「チ・メ」=「水のしたたりの・泉」
◎縄文語:「鶴岡」 =「チ・オカ」=「水のしたたりの・跡」
◎縄文語:「鶴巣」 =「チ・ウシ」=「水のしたたり・のところ」

◎縄文語:「奈良」 =「ナラ」=「山中の平地」


 縄文語解釈すれば考えるまでもないのです。漢字表記にこじつけて無理矢理解釈しようとするので、トンチンカンな辻褄の合わない結果になるのです。つまり、記紀風土記からしてトンチンカンだということです。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[山梨県]駒居当麻戸神社~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「駒井」について(『山梨百科事典』山梨日日新聞社編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
駒井(こまい) 山梨県韮崎市藤井町。佐久甲州海道に沿う。村名は聖徳太子、驪駒(くろこま)に水を飲ませられた清泉が村の西にあると伝え、また上古、高麗人の居所で高麗居(こまい)だという。河間、川間(こま)には関係ないだろうか。延喜式内社当麻戸神社あり、境内の大杉は県の天然記念物である。】

×「駒城村」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【駒城・熊木・高来などが、元は高麗来であったという例もたくさんある。<中略>甲斐にもその駒城村があった。<中略>
 一九五五年の昭和三十年まで、ここには「駒城村」があったわけであるが、ここにみられる「甲斐駒ヶ岳」の駒も北巨摩郡の巨摩、すなわち高句麗の高麗からきたものであることはいうまでもないであろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「駒井」 =「コ・エ」=「持ち手の曲がりのような湾曲したものの・頭」=新府城の丘、丸山。
◎縄文語:「当麻戸(神社)」 =「テュー・マーテュ」=「岬、峰の・波打ち際」
◎縄文語:「駒城(村)」 =「コ・ケ」=「持ち手の曲がりのような湾曲したもの・のところ」 =中山。丸山。

 決して「駒井」「駒城」は「高麗人が居た」ことを指している訳ではありません。 もちろん、馬(駒)由来でもありません。
 「駒」も「高麗」同様、 縄文語の「コ=湾曲した様」に充てられることが多く、「湾曲した川」あるいは「湾曲した山=丸山」を表現しています。


■新府城 ※丸山。

■新府城と当麻戸神社 ※駒井の地名は新府城の丸山を指す。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■駒城橋から中山を望む ※丸山。


 残念ですが、「駒ヶ岳」も高麗由来ではありません。

◎縄文語:「駒ヶ岳」
=「コケ・タ・ケ」=「曲がっている・石・のところ」

or「コケ・ト・ケ」=「曲がっている・突起物・のところ」

 の意で、もちろん駒ヶ岳の地勢を表しています。

 駒ヶ岳はほかにも多数あります。「コ=湾曲したもの=丸山」の意が強く出ている駒ヶ岳もありますが、「折れ曲がっている頂」を指す方が少々優勢です。(駒ヶ岳一覧 wikipedia→


■甲斐駒ヶ岳 ※曲がっている石、突起物。(Sakaori, CC BY-SA 3.0>, via Wikimedia Commons)
Mt Kaikomagatake looked up from the Kamanashigawa bridge


 聖徳太子云々はまったくお話になりません。大和は聖徳太子の伯父の第三十代敏達天皇から北方系渡来人に権力が移っています。
 聖徳太子が建てたとされる四天王寺、法隆寺(斑鳩寺)の名称も、もともとは先住民による所在地の縄文語地名ですが、それらが由緒で語られることは決してありません。彼らは徹底して先住民の文化をウソ物語で上書きしています。八百万の神、神社の由緒も同様です。

◎縄文語:「四天王(寺)」 =「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」 ※上町台地の突端。
◎縄文語:「法隆(寺)」 =「ポン・レ」=「小さな・山陰」 ※松尾山の麓の丘陵地帯。
◎縄文語:「斑鳩(寺)」 =「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」 ※松尾山の麓。

 彼らが日本の基礎を築きました。高松塚古墳壁画の高句麗の衣裳がそのものズバリです。平城京も平安京も国衙も国分寺もその延長線上にあります。それら周辺に朝鮮由来の古墳、朝鮮式山城、渡来人の活躍を語る神社仏閣があるのは当然です。それらは決して先住民による日本の伝統文化ではありません。

 上代日本語と百済王族と高句麗の言語は、開音節で終わる特徴を共有しています。新羅語は閉音節で終わると言われていますので、倭人と同系、縄文語を共有する南方系先住民と思われます。

 『日本の中の朝鮮文化』の中で、甲斐源氏の祖の新羅三郎義光が「新羅系渡来人」の末裔だとの記載がありますが、否定はできません。日本の貴種と呼ばれる人に近ければ近いほど、あべこべに日本先住民ではなく渡来人の可能性が高いからです。
 北方系の特徴を持つ上代日本語を使う大和中枢は言うまでも無く北方系ですが、どこかで新羅系の血が入っているのかもしれません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]駒形神社、小諸、高良社、八幡神社~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「駒形神社」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【佐久市下塚原の室町末期の一間社流造りの本殿をもつ駒形神社、望月町牧布施・北御牧村藤沢・小諸城南方駒形坂の書く駒形神社は望月牧の境に祀ったものともいわれている。また、”駒形”は浅科村の室町時代の三間社流造りの本殿がある八幡社境内神社高良社の”高良”とともに、”高麗”の転訛したものといわれる。佐久市の三河田大塚古墳のような大円墳のほか、八幡・望月・佐久市平根・小諸市加増などに積石塚を含んだ小円墳群が蓼科山麓から入山峠に至る東山道にそって、分布することから、七・八世紀には帰化人を部民とした牧場が盛んに営まれたものであろう。】

×「八幡神社・高良社」について(『長野県の地名』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【八幡神 古代より東信地方に反映していた望月氏が土豪的武人に成長し、祖先神たる高良社に、鎌倉時代より武家に尊崇された八幡神を併祀したものと考えられている(北佐久郡志)。
 高良社 高良富命を祭神としているが、本来は高麗社で、この辺りに定着して牧畜の先がけをした渡来人の社と推定されている(北佐久郡志)。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「駒形神社」 =「コ・マ・カ・タ」=「湾曲した・谷川・のほとり・の方」

 「駒形神社」は高麗由来ではありません。「湾曲する千曲川」由来です。それに渡来人が漢字を充て、神社を建て、本来の意味とは異なる祭神を祀り、由緒を創作したということです。

 繰り返しになりますが、日本全国の「高麗」のつく地名は「湾曲した谷川」あるいは「湾曲した山=丸山」の地勢です。「駒」「蒲生」「鴨」などが充てられることもあります。

◎縄文語:「千曲(川)」 =「チゥ・コ」=「水流、水脈の・湾曲」

 小諸市も千曲川を指しています。

◎縄文語:「小諸」 =「コ・マ・オロ」=「湾曲した・谷川・のところ」

 望月氏も縄文語解釈可能です。

◎縄文語:「望月」 =「モ・テューテュ」=「小さな・出崎」

 日本の苗字が無数に存在するのは、縄文語地名に仮借の漢字を充てているからです。日本の苗字の多くは縄文語(アイヌ語)由来です。


■小諸 ※湾曲した谷川のところ。千曲川。

■駒形神社 ※湾曲した谷川のほとり。千曲川のほとり。


■佐久市望月地区 ※小さな出崎。


 高良社の祭神、「高良富命」は「窪地、低地」を指した可能性がありますが、今一つ裏付けが弱く、断定はできません。 高麗由来と言われても否定はできません。

◎縄文語:「高良富(命)」 =「コッ・ラ・トモ」=「窪地の・低地・の中」 
 
 「八幡」は「川端」です。こちらは間違いありません。 日本全国、ほとんどの八幡神社は川端にあります。

◎縄文語:「八幡」 =「ペッチャ」=「川端」


■高良社(八幡神社境内) ※川端。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]川柳将軍塚古墳・森将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・越将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・土口将軍塚古墳~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「森将軍塚古墳」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【屋代駅のプラットホームにおり立ち北川をみると、山肌が削平され掘割になっている丘陵に気づく。一重山(ひとえやま)である。その頂は戦国時代の村上氏に関係する山城(屋代城跡)であり、空壕と郭が今も部分的に残存している。ここから雑木林の細い道をたどってしばらく行くと、森将軍塚古墳の前方部に出る。
 本古墳は有明山から北に張り出した標高四七〇メートルの尾根上にあり、丘陵切断利用の全長一〇〇メートルを呈する前方後円墳である。墳丘には三重の埴輪列がめぐり、後円部中央に石垣積み墓壙がみられ、その中央部に竪穴式石室が構築され、内部は全面塗朱されていた。古墳はすでに盗掘にあっていたが、舶載三角縁神獣鏡片・硬玉製勾玉・碧玉製管玉および鉄剣・鉄鏃などが若干出土し、本墳の被葬者が大和朝廷と強力な政治的関係を有していたことが理解されたのである。この結果、森将軍塚古墳は四世紀末頃(※現在は四世紀中頃)に築造された県下最大の前方後円墳として注目されるに至った。】

○「川柳将軍塚古墳」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【本古墳(森将軍塚)に匹敵する古墳は、千曲川を隔てた対岸の長野市篠ノ井石川にある。四世紀末(※現在は四世紀前半)に比定される川柳将軍塚古墳がそれで、千曲川左岸一帯の主座としてその威容を誇っている。】

○「川柳将軍塚古墳出土品」について(『長野市の文化財』長野市教育委員会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【川柳将軍塚は、寛政一二年(一八〇〇)に下石川の農民によって、天井石を川の橋に利用するためとの理由で発掘され、おびただしい出土品を見たとの記録が『信濃奇勝録』にある。それによると鏡二七面、銅鏃一七本、筒型銅器二個、金銀環七個、車輪石一個、櫛形石製品二個、小玉(臼)五合、小玉三合、玉類一合、勾玉三個であるという。<後略>】

×「川柳将軍塚古墳出土品」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【更埴市教育委員会編『長野県 森将軍塚古墳』に何枚ものせられているその写真をみても明らかなように、これは典型的な高句麗様式の積石塚古墳である、ということである。篠ノ井の川柳将軍塚古墳も、それとまったく同じものなのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 この周辺には上記、森将軍塚古墳、川柳将軍塚古墳以外にも、その名に「将軍」を冠する古墳があります。築造年代順に並べると以下のようになります。

・川柳将軍塚古墳(四世紀前半/前方後円墳/墳丘長91m)
・森将軍塚古墳(四世紀中頃/前方後円墳/墳丘長約100m)
・有明山将軍塚古墳(四世紀末~五世紀/墳丘長37m)
・越将軍塚古墳(五世紀/円墳/径約32m)
・倉科将軍塚古墳(五世紀/前方後円墳/墳丘長83m)
・土口将軍塚古墳(五世紀/前方後円墳/墳丘長67m)

 「将軍塚」を縄文語解釈すれば、

◎縄文語:「将軍塚」=「シ・オ・ケ・テュ」=「山の・外れ、端・のところの・小山」   

 となります。いずれも「山の外れ」に築かれた古墳です。
 「シ・オ」は「山・裾」の地勢の表現に用いられることが多いのですが、上記将軍塚古墳のように「山の・外れ、端」の意の場合もあります。というのも「オ」はもともと人体の「尻」の意だからです。つまり、「山の尻」で「山の麓」「山の外れ、端」の意となります。

 全国に点在する「親王塚」「新皇塚」なども「山裾の塚/山の外れ、端の塚」の意です。被葬者が不分明な場合はほぼ確実です。「将軍塚」も含め、多くの場合、決して「将軍」や「親王」が埋葬されている訳ではありません。


■長野の将軍塚 ※すべて山の外れ、端。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 『日本の中の朝鮮文化』では「森将軍塚古墳」が「大穴山」にあるということが強調されている雰囲気がありますが、言われる前に否定しておきます。これは言うまでも無く朝鮮半島南部の小国家である「安那(安羅)」とは全く関係ありません。
 「大穴山」は後背の「有明山」と同義で、言い換え表現になっています。

◎縄文語:「有明山」=「ア・アゥ・ケ・ヤマ」=「一方の・枝分かれた・ところの・山」  
◎縄文語:「大穴山」=「オオ・アゥ・ナ・ヤマ」=「大きな・枝分かれた・方の・山」

 川柳(せんりゅう)将軍塚古墳の北方二〇〇メートルの地点には「姫塚古墳(前方後墳/墳丘長31m)」がありますが、これは「川柳(せんりゅう)将軍塚古墳」と同類の解釈が可能です。

◎縄文語:「川柳将軍塚」 =「シアン・リー・シ・オ・ケ・テュ」=「大きな・高い・山の・外れ・のところの・小山」 
◎縄文語:「姫塚」 =「シ・ムィ・テュ」=「大きな・頂の・小山」 

 これら二つの古墳は”断崖の上”に築かれた古墳です。これももちろん将軍やお姫様が埋葬されている訳ではありません。

 『日本の中の朝鮮文化』では「川柳将軍塚古墳」と「森将軍塚古墳」が高句麗の積石塚であるとの見解が示されていますが、縄文語で解釈出来る以上、南方系先住民の墳墓である可能性が高いと言えます。

 「川柳将軍塚」の山の麓には「聖川」が流れ、「森将軍塚」の目の前には「一重山」があります。これらを縄文語解釈すると、

◎縄文語:「聖(川)」 =「ピ・シ」=「石の・山」
◎縄文語:「一重山」 =「ピ・テュ・エ・ヤマ」=「石の・峰の・頭の・山」 

 となります。 単に近隣の石を素材として築造したとも捉えられます。

 これらの古墳の北東には高句麗との関係が取り沙汰される積石塚の群集墳で有名な大室古墳群がありますが、これは五世紀前半~八世紀の築造なので、四世紀築造の「川柳将軍塚古墳」「森将軍塚古墳」とは時期が少々ズレています。
 ただ、突然北方系渡来人が大挙して押し寄せることも想定できませんから、やはり先に渡来して土着していた朝鮮半島南部系の人々の導きがあったと考えるのが自然です。
 大和が完全に北方系に取って代られた大化改新以降は、この地域の北方系の人々もさぞかし勢いづいたことでしょう。


 また、これまで縄文語の「シ・オ=山裾(外れ)」には「新羅」以外に、「白」や「塩」の漢字も充てられることがあると何度か書いていますが、この地域にも「白」と「塩」が登場します。

 まず、「越将軍塚古墳」の近隣に「塩塚」があります。決して”塩の道”や、”塩の採取”を示している訳ではありません。これは「越将軍塚古墳」の「越」と非常に相性のよい縄文語解釈が可能です。

◎縄文語:「塩塚」 =「シ・オ・テュ」=「山・裾(外れ)の・小山」
◎縄文語:「越将軍塚」 =「エテュ・シ・オ・ケ・テュ」=「岬の・山・裾(外れ)・のところの・小山」

 同じ地勢の言い換え表現ともとれます。

 ちなみに長野県には「塩尻」の地名が二カ所ほどありますが、これは少々異なる解釈です。

◎縄文語:「塩尻」=「シ・ウテュル」 =「山の・間

 の意で、”両側から山が迫っている地勢”を表しています。

 次に「白」を冠する「白鳥神社」。これももちろん「山裾」で、「白鳥神社」の場合は、周辺地名も勘案すると「山裾の湖沼」と解釈が可能です。周辺地名もまとめてご紹介します。

◎縄文語:「白鳥(神社)」 =「シ・オ・ト・オロ」=「山・裾の・湖沼・のところ」
◎縄文語:「東条」 =「トー・シ」=「湖沼の・山」
◎縄文語:「松代」 =「マーテュ・シ」=「波打ち際の・山」
◎縄文語:「象山」 =「チゥ・サン」=「水流、水脈の・出崎」
◎縄文語:「土口」 =「ト・クッチャ」=「湖沼の・入口」
◎縄文語:「屋代」 =「ヤン・シ」=「陸岸の・山」

 他の地域「白鳥」は

◎縄文語:「白鳥」=「シ(・オ)・タオリ」=「山の(・裾の)・川岸の高所」

 の解釈も考えられます。周辺地勢、地名との整合性を見ながら判断しなければなりません。縄文語と漢字は一意の関係ではありません。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]波多神社・島々・治田神社・安曇~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「波多神社・治田神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(松本市の波多神社のある)波田町はもともと波多村であり、治田神社のある更埴市(現千曲市)のそこも、「神祇全書」『神名帳考證』には「治田神社 山崎村二里、治田村に有り」とあるように、ここも元は治田村であった。どちらも、新羅・加耶系渡来人である秦氏族が居住したところで、二つの神社はそれぞれ、その地にいた首長を祭ったものであることはいうまでもないであろう。
 治田神社は、さきにみた『長野県の歴史散歩』にもみられるように、いまでは「治田(はるた)神社」と書かれたり、またそうよばれているようであるが、『延喜式』には】「治田神社(はたのかみやしろ)」とあって、これも元はハタ(秦)だったのである。なおまた、神社本庁編『神社名鑑』をみると、その主祭神は治田大神となっている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「治田/波多(神社)」 =「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」


 まず、松本市の波田神社は梓川が山峡から松本平に流れ出る谷の出口にあります。繰り返しになりますが、秦氏の活躍が語られる場所は、日本全国の「水辺」です。


■波田神社 ※梓川の岸辺。


 波田神社の上流には「前淵」地区があります。これが漢字表記どおり「淵」の意ならそのままズバリなのですが、周辺地名も縄文語解釈可能なので、これだけ漢字表記から解釈する訳にはいきません。

◎縄文語:「前淵」 =「マー・プチ」=「谷水の・口」※梓川の谷の出口。

 となります。この周辺は「島々(しましま)」と呼ばれている地域です。珍しい地名ですが、これも簡単に縄文語解釈可能です。まずは通説。


×「島々(しましま)」について(『ふるさと情報館』HP)
【(松本)市内では他にも島内(しまうち)、島立(しまだち)などの地名が見られます。川沿いの小さな集落や耕地を「島」と呼ぶことがあるそうで、中でも2本の川の合流点に位置する「島々」は、平地が散在する様子からこのような名前が付いたようです。 】


 もっともらしく書かれていますが、日本の地名が漢字表記から解釈されている場合、その多くがデタラメです。もともとは先住民の縄文語地名ですが、ほぼすべて渡来系の漢字表記解釈で上書きされています。

◎縄文語:「島々」 =「スマ・スマ」=「石、岩・石、岩」

 の意です。「スマ=石、岩」×2で”石、岩がごろごろしている様子”を指します。


■松本市島々地区(八景山橋)※梓川の石の河原。



 通説の中に登場する「島内(しまうち)」「島立(しまだち)」も縄文語解釈してみます。これらは島々地区の梓川の川下、奈良井川との合流点なので、「石、岩」以外に「シ・マ=大きな・谷川」の可能性もあります。

◎縄文語:「島内」
=「スマ・ウテュ」=「石、岩の・間」 
※梓川と奈良井川の石の河原に挟まれた土地。
or「シ・マ・ウテュ」=「大きな・谷川の・間」  ※梓川と奈良井川に挟まれた土地。
◎縄文語:「島立」
=「スマ・タンチャ」=「石、岩の・こちら岸」 
※奈良井川の石の河原。
or「シ・マ・タンチャ」=「大きな・谷川の・こちら岸」※奈良井川の岸辺。


■松本市島内地区(アルプス大橋)※梓川の石の河原。
■松本市島内地区 ※梓川と奈良井川の間。 ■松本市島立地区(島立橋) ※奈良井川の石の河原。


 また、梓川は安曇と類似解釈が可能です。

◎縄文語:「梓(川)」 =「アッ・テュ・サ」=「一方の・峰の・浜」
◎縄文語:「安曇」 =「アッ・テュ・モィ」=「一方の・岬の・入り江」

 これらは松本平を指したとすれば地勢と完全に一致します。「安曇」の解釈に含まれる「テュ・モィ」は「エテュ・モィ」と同義で、「出雲」の解釈と一致します。筆者は「出雲」を「投馬国」に比定しています。
 北九州のアズミの場合は、

◎縄文語:「安曇」 =「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

 とも考えられます。
 いずれにしてもありきたりな地勢の解釈が可能なので、「アズミ」という地名を短絡的に結びつけて海洋族である「アズミ族の足跡」だとするのは間違いです。
 筆者が書いた「坂東の雲」中にもそのような解釈が登場するので大変恐縮です。あくまで創作物の内容です。


 次に千曲市の「治田神社」ですが、これは考えるまでもありません。もともとの「治田神社」は「下の宮」です。池畔です。縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」そのままの地勢です。「秦氏の活躍」を由来とするのがいかにデタラメかが分かります。

 「はるた」の読みであれば、

◎縄文語:「治田」 =「ハ・ラ・タ」=「水が引いた・低地・の方」

 の解釈も考えられます。


■治田神社 ※池畔。「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]麻績村~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「麻績村」について(『旅の手帳増刊/さわやか信州』(一九八〇年)※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【青柳宿のつぎは麻績宿。飛鳥時代、高麗からの帰化人がこの地に定住し、麻をつむぐ技術を伝えたところから、この地名が生れたという。】

×「麻績」について(『新しなの地名考』信濃町日新聞編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『延喜式』『和名抄』等の中の信濃の郷名中にも、麻績は伊那郡と更級郡にあり、ともに「乎美(おみ)」と訓じている。なお、ここは麻績の駅の置かれたところで、古代東山道の要路に当たっていた。また、伊勢皇大神宮内宮の御厨が置かれたりして、古代文献の上で、しばしば歴史上に出てくる。保元四年の『兵範記』によれば、平正弘領になっていたこともわかり、筑摩郡の郷村中では最も古くから正史にのっている郷村名である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「麻績」 =「アゥ・モィ」=「枝分かれた、隣の・入り江」


 縄文語の「入り江」は山中の同様の地形も指します。よって麻績の地勢と完全に一致します。松本盆地や長野盆地、上田盆地から「枝分かれた盆地」の意です。


■麻績村 ※枝分かれた、隣の入り江。



 西方の松本盆地の「安曇野」も同類の解釈が可能です。

◎縄文語:「安曇」 =「アッ・テュ・モィ」=「一方の・岬の・入り江」

 これも、長野盆地や上田盆地の対比表現ととらえられます。
 前項で書いた通り、「アズミ」の地名を結んで”アズミ族”の活動範囲とする説は非常に危ういと言わざるを得ません。同じ地勢であれば、同じ地名となり、また、似た発音であれば、その意味は異なっても同じ漢字表記となります。
 例えば、

◎縄文語:「アズミ」
=「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

or「アッ・チャ・モィ」=「一方の・岸の・入り江」
or「アッ・チャ・メ」=「一方の・岸の・泉」

 といった具合です。縄文語と漢字表記は一意で結び付けられていませんので、周辺地名と地勢に合わせて判断する以外にありません。

 滋賀県の旧名である「近江」「淡海」も「麻積」と同類の解釈が可能です。

◎縄文語:「近江/淡海」
=「アゥ・メ」=「枝分かれた、隣の・泉」

or「アゥ・モィ」=「枝分かれた、隣の・入り江」

 縄文語の「アゥ=枝分かれ・隣」には日本語の「アワ」が当てられることが多く、「淡海」のほか、「阿波」「安房」「淡路島」などが挙げられます。いずれも「枝分かれた、隣のところ」の意です。

 「近江(近つ淡海)」の対比としてあげられる「遠江」も決して「遠い淡海」の意ではありません。まず「近江」を「近つ淡海」と解釈するところからトンチンカンです。このようなバカげた説を通説として採用し続けるのはナンセンス極まりありません。古代人のデマにまんまと引っかかっています。

 「遠江」は、

◎縄文語:「遠江」
=「テューテュ」=「出崎の・泉」
or「テューテュ・モィ」=「出崎の・入り江」


 の意で、かつて砂州で区切られていた汽水湖の浜名湖を指しています。


 話を長野に戻します。
 この「麻績」という地名ですが、読みは「おみ」です。通説では「高麗人が麻をつむぐ技術を伝えた」ことがその表記の由来とのことですが、他地域の例も勘案するとこれは高確率でデタラメです。

 「麻績」を解読してみます。まず「麻」の呉音、漢音は、それぞれ「メ」「バ」です。同様に「績」は「シャク」「セキ」です。つまり

「麻績」(呉音)=「メシャク」
「麻績」(漢音)=「バセキ」

 となります。「おみ」の読みとはかけ離れています。これがなぜ「おみ」になり、そしてまた、なぜ「高麗人の麻つむぎ」になったのか。それは、

◎縄文語:「麻績(あさつみ)」
「アゥ・サッ・」=「枝分かれた・涸れた・
or 「アゥ・サッ・モィ」=「枝分かれた・涸れた・入り江」


◎縄文語:「麻績(おみ)」 =「アゥ・モィ」=「枝分かれた、隣の・入り江」


 で、「おみ」と「あさつみ」が縄文語で同じ地勢を指した、言い換え表現だったからです。


 そして「あさつみ」が「高麗人の麻つむぎ」にこじつけられ、渡来人活躍物語が創作されたということです。記紀風土記にみられる典型的なデタラメ物語の類型です。これまで同じ類の漢字表記こじつけ説を数え切れないほど取り上げてきましたが、本当の由来はことごとく先住民による縄文語地名でした。

 そもそも前提として考えなければならないのは、地名由来潭を漢字表記して文献に書き記すのは専ら渡来人が取り仕切っていたということです。各国風土記を見るに、先住民の縄文語地名を伝える意思はまったく感じられません。”先住民文化を抹殺し、渡来人の活躍を語る”のが古文献の大事な役割の一つなのです。

 現代の私たちはこれまでそれらデタラメを参考にして日本の歴史を学ぶ以外ありませんでした。 まずは、古文献による洗脳を解かなければ、日本の真実の歴史は見えてきません。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]修那羅峠(安坂峠)~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「修那羅峠(安坂峠」について(『古代信濃と朝鮮をめぐって(座談会)』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【飯島(一彦) 上田市と松本市を結ぶ線上に、石仏群で有名な修那羅峠があります。古くは須那羅とも書かれました。早稲田大学古美術研究会の報告では、『日本書紀』中の素那羅の人々が定着した地だといい、石田肇氏はこの説をさらに進めて、”須那羅は(朝鮮語)Soi=nara””金の国”つまり金官国のことで、現在の朝鮮半島南部の地にあった国だとしています。その金官国の人々が継体朝から推古朝頃に渡来して、信濃のこの地に定着し故国の名を伝承したのが、修那羅峠の起源だといっているようです。】

×「安坂将軍塚古墳群」について(『長野県の地名』一志茂樹ほか ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【麻績盆地東部の坂井村の中で、南の修那羅峠(安坂峠)へ至る谷口の安坂中村から東山の南斜面中腹にかけ、かつて十数基の積石塚古墳群が存在していた。現在知られているものは四基である。
 一号墳・二号墳は麓から一五〇メートルの高所にある山腹に築かれた積石方墳で、昭和三七年の調査では竪穴式石室を内蔵し、一号墳では二室が並列してあった。石室は既に開口してあったが、一号墳の第二石室から剣二、鉾一、直刀一、金工具のささげ二、砥石一を発見した。四号墳は山麓にある一片一五メートルの古墳で、横穴石室をもつ。明治三〇年代に発掘された四号方墳からは直刀・玉類・金環・馬具・須恵器が出土している。築造年代については一号墳が五世紀中葉、四号墳が七世紀代と推定されている。<中略> 
 殊にこの地は日本後紀桓武天皇延暦十六年の条に、高句麗からの帰化人に賜姓された安坂氏の居住地とせられており、更に彼らは推古・舒明両期の頃に渡来帰化した人々であると記載されているから、その人々の居住地において、高句麗特有の積石塚が行われたとするならば、文献と考古学資料とが吻合して、頗る明快に解決されたといって差し支えあるまい。しかしこの問題については更に信濃国全体、否日本の全体に亘って積石塚の性格を再検討する必要がある。ある学者は積石塚と帰化人(高句麗人)との関連に疑問を持っており、積石塚の発生を別の方面から説こうとしている。その一つの半焼として、高句麗人が積石塚を盛んに営造したのは通溝居住時代で、後の平壌に移った頃は衰微した土塚盛行期に入っており、信濃国の積石塚の築造が、古墳時代後期が主で、平壌時代に入ってからであるから、そこに齟齬があるとするのである。自分もその点について一応の疑問をもっていた。然るに前記の須坂市鎧塚や、今回の将軍塚が発掘調査の結果、共に五世紀にまで遡ることが判明して、彼らの通溝占居時代と年代的に一致を示したことは、この反証に対する反証ともなるであろう。】

○「安坂将軍塚古墳群」について(現地案内看板)
【安坂積石塚は、ここ安坂中村地籍東山中腹一五〇メートルの高所にある第一号古墳、第二号古墳の二基を指し、現在地より六〇〇メートルの場所にあります。
 この古墳は、通称将軍塚と呼ばれ、山腹採取の砂岩で積みあげた、竪穴式石室、平板石の小口積となっています。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「修那羅(峠)」 =「シノ・ラ」=「本当によい・低いところ」


 これは 「修那羅峠」が「越えやすい低い峠」であることを指しているのではないかと考えます。「修那羅峠」は標高914mで、大きな蛇行もありません。周辺の上田盆地に抜ける峠の中ではもっとも低い峠です。

 これと同程度の標高の峠では北方に東山道支道説の古峠越がありますが、こちらは勾配も急で、崩落箇所も多いようです。


■修那羅峠 ※低くて越えやすいよい峠。


 「修那羅峠」についてウィキペディアの通説を見てみます。

●「修那羅峠」(wikipedia)
【「修那羅」(しゅなら)は梵語で石を意味する「アシュナ」 (ashu-na) の略音「シュナ」と、チベット語で峠を意味する「ラ」との合成語であり、「石峠」を意味する。<中略>
 旧称である「安坂峠」の「安坂」(あざかは、同地から小県郡方面へ通じるなだらかな坂道に由来するものだという。】

 「梵語で~」などと書かれていて、一見説得力があるように見えますが、筆者には初期寺社の由緒によくみられるデタラメ外来説と同類のものに見えてしまいます。初期寺社の名称はことごとく縄文語地名の仮借漢字表記で、新たに外来仏の由緒を作成して先住民の縄文語の意味を徹底的に上書きしています。

 法隆寺や興福寺、東大寺などは所在地の地勢はもちろんのこと、周辺の地名の縄文語解釈ともことごとく一致しています。繰り返しになりますが、再掲します。

◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師(寺)」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆(寺)」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩(寺)」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山の高台。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。


 「安坂」が「なだらかな坂道」が由来であるという説についてもまったく説得力がありません。

◎縄文語:「安坂」 =「アッチャ・カ」=「一方の岸・のほとり」

 これは麻績川から分岐した安坂川の岸辺を指したものと思われます。おそらくは奈良の明日香、飛鳥と同語源です。

 気になるのはこれらの古墳が「将軍塚」と呼ばれていることです。「将軍塚」は前述のとおり、縄文語で

◎縄文語:「将軍塚」=「シ・オ・ケ・テュ」=「山の・外れ、端・のところの・小山」

 の意です。他の「将軍」を冠する古墳の地勢を見ても、「山の外れ」「山裾」は間違いありません。「シ・オ・テュ=山・裾、外れの・小山」に充てられる「親王塚」や「新王塚」についても同様です。


■安坂将軍塚古墳所在地 ※山の外れ、端。

■安坂将軍塚古墳案内看板


 この「将軍塚」の名称が縄文語由来だとすると、それはたとえ渡来人であっても朝鮮半島南部の倭人と同系の民族の影響が強いということになります。縄文語(アイヌ語)は閉音節で終わる南方系言語、記紀風土記の上代日本語は開音節で終わる百済、高句麗系言語です。
 第三百六十四回コラムで取り上げた長野盆地の複数の「将軍塚」も五世紀までの築造で、全国的に見ても大規模古墳の名称は少なくとも七世紀まで縄文語解釈可能です。

 一方、長野盆地の将軍塚の近隣には積石塚で有名な大室古墳群があります。これらは五世紀前半~八世紀の築造で、全五〇五基のうち、実に四〇〇基が積石塚です。馬具や馬骨も出土しているので、北方系渡来人が六~七世紀に大和王権を簒奪する以前からこの地に北方系勢力があったということになります。

 大室古墳群は三〇〇年以上にわたって築造されているので、一年に一~二基の割合の築造で、その規模はほとんどが直径十メートル程度です。それほど大勢力という訳ではありませんが、『延喜式』には「大室牧」の記載もあり、大和の権力が北方系に握られてから伸張したことは容易に推察できます。上代日本語で風土記を編纂したであろう上田の国衙周辺ももちろん北方系となります。


 『古代信濃と朝鮮をめぐって(座談会)』に

”須那羅は(朝鮮語)Soi=nara””金の国”つまり金官国

 とありますが、朝鮮半島南部も縄文語(アイヌ語)圏なので、「須那羅」と「金官国」が「金の国」という縄文語と漢字のいずれにも都合のよい解釈を媒介としてイコールで結ばれる可能性は極めて低いと言えます。「須那羅」や「金官国」は縄文語に似た音の仮借の漢字表記と考えるのが妥当です。「ナラ」はアイヌ語にも「山中の平地」の意の言葉として存在します。

 日本の地名において、”縄文語の意味を漢字で表現する”という命名の方法を見かけることはほぼ皆無です。なぜなら、記紀風土記などを見るに、”漢字表記にこじつけて物語を創作し、先住民文化を徹底的に上書きする”のが北方系渡来勢力の揺るがぬ方針であるのは明らかですから、その方針に反して、わざわざ先住民の縄文語の意味をくみ取り、親切にも本当の地名由来を漢字表記することなどあり得ないのです。「須那羅≠金の国」です。

 「金官国」の上古音をカタカナで表記すれば、「金官=キャムクアン(上古音)」となります。これは縄文語で

◎縄文語:「金官(上古音:キャムクアン)」=「キ・カ」=「山・のほとり」

 となります。比定地の慶尚南道金海付近の地勢を表しています。


■金官国比定地の金海市 ※山のほとり。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]桜ヶ丘古墳・浅間温泉・辛犬・犬飼・犬甘・針塚古墳・薄町(須々岐水神社/鈴木)~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「桜ヶ丘古墳」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(浅間)温泉街東南には、金銅製天冠の出土をみた桜ヶ丘古墳がある。五世紀末期の帰化人系古墳と推定され、その頃、大和朝廷と結ぶ有力豪族の存在が考えられる。円墳の墳丘は現在あらかた破壊されているが、出土品は松本市役所本郷支所に所蔵されている。】

○「桜ヶ丘古墳被葬者」について(『信濃浅間古墳/被葬者の問題』大場磐雄 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【然らば、本郷村および松本地区のそれはどうであろうか。この問題については既に一志(茂樹)氏が触れておられ、和名鈔にいう辛犬郷の位置と三代実録にみえる辛犬甘(からいぬかい)氏の記事を勘案して、本郷村の積石地域が旧辛犬郷に相当し、これを残した人は辛犬甘氏一族であろうとせられたのである。 】

×「辛犬郷」について(『信濃上代の一有力氏族』一志茂樹 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ここで問題としたいのはそれらのなかの辛犬郷の存在であるが、この郷は云うまでもなく、帰化人である(恐らく高麗人) 辛犬甘氏の定着蕃衍によって建郷された郷である。<中略>

×「犬飼氏」について(『松本市史上巻』昭和八年十月 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【浅間温泉一名犬養の湯と云う。武家時代、信濃源氏中、犬甘氏あり。小笠原氏重臣に犬養氏あり。島内村は古来犬養八ヶ村と云う。いずれも上代の犬養に発源せるものならん。
 辛犬加羅の犬養の略称にて、帰化人たることはすでに之を述べたり。島内村は古来犬養八ヶ村と称されたれば、辛犬の本郷ならん。】

×「辛犬郷」について(『長野県の地名』一志茂樹ほか ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「和名抄」高山寺本・流布本ともに「辛犬」と印、「加良以奴」と訓じているので、「からいぬ」といっていたことは動かない。ただし、実際には「辛犬甘」郷であったと考えられている。犬甘は、犬養、犬飼とも書き、辛がついているので渡来人の人々を擁していた犬甘氏によって成立した郷と推定される。】

○「犬甘氏のその後」について(『信濃上代の一有力氏族』一志茂樹 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【犬甘氏はその後土着の国衙の要人として勢を張り、村井氏を南に、細萱氏を北に、その他多くの分系により、中世前期を津氏て、松本平における比翼な水田地帯を占有し、牧場の利益を確保し、信州における有力な氏人として栄えるに至ったのであるが、小笠原氏が信濃守護ごして松本に入るようになってから、漸次勢力を失ってこれに使うるに至り、ついに元和三年小笠原氏に従って信濃を去った。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 相変わらず、通説、俗説、デタラメオンパレードです。それもこれも記紀風土記に倣って漢字表記に縛られているからです。先住民の言語が縄文語(アイヌ語)であることを受け入れれば、多くのことが簡単に解釈可能です。

◎縄文語:「犬飼/犬甘」=「エエニ・エ・カィ・イ」 =「頭を突き出している山・そこで・折れている・ところ」
◎縄文語:「辛犬」=「カ・エエニ」
=「曲がっている・頭を突き出している山」

「犬飼/犬甘」と「辛犬」は同じ地勢の言い換え表現になっていて、松本市の「蟻ケ崎」を指しています。突端には「犬甘城」跡があります。

◎縄文語:「蟻ケ崎」=「アケ・サン・ケ」 =「片割れの・出崎・のところ」

 「辛犬」「加羅の犬養」な訳がありません。何度も言いますが、記紀風土記等古文献含め、このような漢字表記こじつけ説はほぼすべてデタラメです。

 犬養氏が「加羅系渡来人」だという説には根拠がありません。日本列島から朝鮮半島南部、東夷南蛮は縄文語を共有する文化の融合地帯です。特に朝鮮半島南部は、小さな海峡を隔てて隣接する地理関係から日本先住民との区別は非常に難しく、それは隣村の人々を別民族として定義するようなものです。言語を共有している以上、同じ地勢であれば、同じ地名が見られるのは当然のことです。それらを安易に結びつけて歴史を創作すれば、当然デタラメ物語となります。

 たとえば、東北の「仙台」と鹿児島の「川内(せんだい)」は歴史的なつながりがあるでしょうか。そういったことを堂々としているのが日本の歴史です。ちなみに「センダイ」は「シャン・タィ=大きな・森」の地勢を指した思われます。このようなありきたりな地勢はどこにでもあるので、それらを結ぶことは至極簡単です。それだけ安易に歴史が創作されてきたということです。「川内」の由来にある「ニニギが千の台を~」のようなものも典型的なデタラメ物語です。

 つまり、たとえ名前に「カラ」がついても、古墳から朝鮮半島南部と同じ副葬品が出土しても、その被葬者が先住民か朝鮮半島南部出身であるかは、まったく判断する材料がないということです。確実に言えるのは、朝鮮半島南部の影響があったかどうかぐらいです。

 ただ、この犬甘氏の場合は、八世紀以降「国衙の要人」となったということですから、先住民か渡来人かは別として北方系大和勢力に取り込まれたことは確かなようです。
 のち犬甘氏がその配下となった小笠原氏は新羅三郎義光から分岐した甲斐源氏ですが、これも大元は桓武平氏ですから明らかに北方系渡来人の流れです。日本の貴種と呼ばれる人ほど、北方系にルーツを持っています。


■松本市浅間温泉、桜ヶ丘古墳周辺地名の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 桜ヶ丘古墳の場合は五世紀後半の築造ですから、大和王権がまだ北方系民族に取って代わられる前で、全国的にも大規模古墳名が縄文語解釈可能な時代です。そのことはたとえ北方系民族が入り始めていたとしても、南方系民族が各地で主導権を握っていたということを端的に示しています。

 当時は日本各地で同じ南方系の先住民と渡来人が区別無く入り交じった環境であったと考えるのが自然です。生物学的特徴は違っても、言語を共有している以上、その実態は文化も共有していて、混血のグラデーションがあったということです。それはもちろん、縄文人と弥生人から続いているものです。

 区別が可能なのは、古墳時代後期あたりから活躍を始める上代日本語の北方系と、縄文弥生の系統を引く縄文語の南方系です。上代日本語は開音節で終わる特徴を有し、それは百済王族言語、高句麗言語とも一致しています。百済王族の出自は高句麗にあります。

 桜ヶ丘古墳の南方には、積石塚で有名な「針塚古墳」があります。これも五世紀後半の築造ですが、積石塚ですから高句麗系の被葬者であるとの説があります。ただ、これも、

◎縄文語:「針塚(古墳)」=「ハー・ルー・テュ」 =「水が引いた・跡の・小山」

 と解釈が可能です。針塚古墳は「荒町」「小松」「薄町(須々岐水神社所在地)」地区に囲まれています。

◎縄文語:「荒町」=「ア・マーテュ」 =「一方の・波打ち際」
◎縄文語:「小松」=「コッ・マーテュ」 =「窪地の・波打ち際」
◎縄文語:「薄町(須々岐/鈴木)」=「シテュ・ケ・マーテュ」 =「大きな峰・のところの・波打ち際」

 いずれも「水辺」の解釈で一致していて「針塚古墳」の解釈とも辻褄が合います。
 さらに「薄町」は薄川を挟んだ南岸の「林」地区とほぼ同義です。

◎縄文語:「林」=「パ・ヤ・ウシ」 =「岬の・岸・のところ」

 そして、薄川の北岸には猫塚古墳があります。

◎縄文語:「猫塚」=「ナィ・カ・テュ」 =「川・岸の・小山」

 『日本の中の朝鮮文化』では、”「薄/須々岐」地区の「鈴木」氏がこの地から日本全国津々浦々にまでひろがった”のような記述がありますが、そんなはずはありません。「シテュ・ケ=大きな峰・のところ=鈴木」という地勢が、日本全国津々浦々に存在するというだけです。


■松本市針塚古墳周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)
 


 これらの縄文語地名は、南方系先住民の足跡と捉えることが可能で、それはたとえ北方系渡来人がいたとしても、南北混合勢力だった可能性が高いということを示しています。 素直に考えれば、南方系渡来人の手引きで北方系渡来人が入りこんだと考えるのが自然です。実際に針塚古墳のある里山辺地区周辺で確認されている古墳の半数は積石塚ではないようです。

 要するに、当時の日本には大きく分けて、縄文南方系先住民、弥生・大規模古墳南方系渡来人、百済王族・高句麗北方系渡来人の三種が存在していたということです。そのうち言語や文化を共有する南方系の前者二種は切り分けが非常に難しく、自ずと歴史の真実を追求するためには”南北の対立軸”で考える必要性が生じてきます。 

 南北の対立軸が見られるのは日本や朝鮮半島だけではありません。中国大陸においてもそれは同じです。中国先住民(特に東夷南蛮)も、朝鮮半島南部、日本先住民と縄文語(アイヌ語)を共有する南方系民族で、黄河中流域で伸張した甲骨文字の殷が北方系となります。
 縄文の温暖化、ヒプシサーマル期以後の寒冷化による北方系遊牧民の南下が東アジアの歴史に大きく影響を与えています。


 話を桜ヶ丘古墳周辺に戻します。
 「浅間温泉」を縄文語解釈します。これは所在地の地勢を表現していることが分かります。

◎縄文語:「浅間(温泉)」=「アサ」=「湾、入り江などの奥」※「入り江」は山中の同様の地形も指す。

 そして周辺地名。

◎縄文語:「桜ヶ(丘丘陵)」=「サン・カ・ラ・ケ」 =「平山・のほとりの・低地・のところ」
◎縄文語:「水汲(みずくま)」=「メ・チャ・クマ」 =「泉の・岸の・横に平べったい山」


■水汲地区から桜ヶ丘丘陵方面を望む ※横に平べったい山、平山。



 「松本市」と市中の「元町」 はまったくの同義で、言い換え表現になっています。

◎縄文語:「松本」=「マーテュ・モ・オタ」 =「波打ち際の・小さな・砂浜」
◎縄文語:「元町」=「モ・オタ・マーテュ」=「小さな・砂浜の・波打ち際」


  また、松本市は旧「深志郷」「捧庄(ささげのしょう)」です。

◎縄文語:「深志(郷)」
=「プッ・カ・ウシ」=「川口(川の合流点)・のほとり・のところ」

or「プッ・カシ」=「川口(川の合流点)・の上」

 ※奈良井川とその支流が合流するところ。
◎縄文語:「捧(庄)」=「サン・サ・ケ」=「平山or出崎の・浜・のところ」※蟻ヶ崎のほとりの浜。


 ちょっと余談ですが、蟻ヶ崎の北方に「芥子望主山(けしぼうずやま)」という変わった名前の山がありますが、これも典型的なアイヌ語です。中腹に「田溝池」があります。

◎縄文語:「芥子望主山」=「ケ・ポッチェ・ヤマ」=「外れの・ぬかるんでいる・山」
◎縄文語:「田溝(池)」=「タン・メ・チャ」=「こちらの・泉の・岸」


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]錦織郷・生坂・日置神社~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「錦織郷」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【東山道ぞいに麻績郷南に接する錦織郷は、帰化人系製織工人部の集落と推定され、東山道の分岐点でもある。麻績郷と同様に弥生時代の遺構が非常に少なく、須恵器窯が突如出現したりする。<中略>
 宮本神明宮は麻績御厨八ヶ条(村)の鎮護社として嘉永年間(1848~1855)に設置された。御厨の範囲は鎌倉初期では、犀川辺の生坂村式内社日置(ひき)神社一帯に及ぶとされる。】

○「錦服・錦織郷」について(『松本市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【錦服は錦織駅と同地たるは勿論にて、且松本が古来錦織郷たる事、不確実ながら所々の文書にあり<中略>
 生坂地方は、古の日置なり、日置は百済族なり】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「錦織」=「ニセィカ・オロ」=「川岸の崖の上・のところ」
◎縄文語:「生坂」 =「エカィ・サン・カ」=「頭がもぎ取られたように平らになっている・平山・のほとり」
◎縄文語:「日置(神社)」=「ピケゥ」=「石河原」



 「錦織」は決して「帰化人系製織工人部」ではありません。これも古代人による漢字表記こじつけ創作物語の一つです。
 「錦織郷」の一部はのち「錦部村」となりました。

◎縄文語:「錦部」=「ニセィ・キピ」=「川岸の崖・水際の崖」

 「ニセィ」「キピ」は類語です。 「錦織郷」も「錦部」も当該地の地勢を指しています。

 「キピ=水際の崖」は岐阜、吉備の語源でもあります。岐阜城の金華山、児島半島の王子が岳とすればピッタリです。吉備は吉備津神社、吉備津彦神社の地勢を指したのかも知れません。

 その他、解説するよりも写真を見ていただいた方が早そうです。


■錦織郷(左手の山に錦織神社)※川岸の崖の上のところ。


■犀川対岸から生坂地区を望む ※頭がもぎ取られたように平らになっている平山のほとり。


■生坂地区日置神社前の犀川の河原 ※石河原。

■日岐城跡の山裾の犀川の河原 ※石河原。



 生坂の日置は「ヒキ」と読みますが、他の地方では「ヒオキ」の読みもあります。
 日置の地名が”砂鉄の産地”にあることが多いので日置氏が”製鉄”と関係があるとの説がありますが、地名と製鉄の間に因果関係はありません。

◎縄文語:「日置」
=「シロケ」=「山裾」
or「シ・オ・ケ」=「山(or大地)・裾・のところ」
=山裾or(大河川の)岸辺

 西日本、特に中国地方では山砂鉄が採掘されたので、必然的に”山裾”が多くなります。つまり、”砂鉄”と”日置”の地名を結びつけるのは根拠がないということです。詳しくは『日出ずる国のエラーコラム』参照


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百七十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[長野県]穂高岳/穂高神社(穂高見命・宇都志日金拆命)・明神岳(明神池)・綿津見命・安曇族~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穂高神社」について(『長野県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【<穂高>駅前右手の森に、古代海人安曇族の祖神穂高見命綿津見命などを祭る式内社穂高神社があり、奥社は上高地明神池のほとりにある。長野県は安曇族の全国分布の北限で、天平宝宇八(七六四)年銘の調布(正倉院蔵)に安曇郡前科(さきしな)郷戸主安曇真羊・郡司安曇百鳥とあって、他氏族をまじえず安曇族がこの大郡の開発者であったことがわかる。】

×「安曇族」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ここにいう「古代海人安曇族」というのは、全国いたるところに分布しているそれである。たとえばこれは三河では渥美郡、渥美郷となり、また美濃では厚見郡、厚見となったりしているが、安曇郷、阿雲郷は伯耆や筑前にもある。】

×「弥勒菩薩半跏像・安曇郷」について(『韓国仏教美術の旅』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【いままで法隆寺に伝来した小金銅仏の朝鮮渡来仏について述べてきたが、朝鮮渡来仏は法隆寺だけに伝来したのではなく、日本各地に三躯伝来してきている。
 その一は、長野県の松本市と大町市の間の大町寄りの北アルプスの麓の北安曇郡松川村町屋の観松院に伝わっている菩薩半跏像である。<中略>
 この半跏像を伝えている北安曇郡は朝鮮系の安曇族が移り住んだという。琵琶湖の西岸にも安曇川という地名が残っているが、こちらの地名は安曇アドという。この二つの読みかたのどちらがナマッたのだろうか、知りたいとおもう。安曇と古代朝鮮とのかかわり合いは、今後の研究が進めば明らかになるだろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「穂高見(命)」 =「ポン・ト・ムィェ」=「小さな・突起の・頂」

 穂高神社の祭神である「穂高見命」、その別名である「宇都志日金拆(命)」は、穂高神社奥宮のある明神池から眺めた「明神岳」を表現したものと思われます。

◎縄文語:「宇都志日金拆(命)」=「ウッ・シ・ピェ・カンナ・サン・ケ」=「肋骨のように枝分かれた・大きな・石が・上にある・出崎・のところ」
◎縄文語:「明神岳」 =「ムィ・チン/タ・ケ」=「頂の・崖/石の・ところ」



■穂高神社奥宮手前、明神橋から明神岳を望む
※小さな突起の頂。頂の崖。肋骨のように枝分かれた大きな石が上にある出崎のところ。


 また、穂高神社の祭神の一柱である「綿津見命」は、古事記では「穂高見命」の親とされています。「綿津見命」も明神岳、明神池を指したのかもしれません。

◎縄文語:「綿津見」
=「ウェン・タ・テュ・モィ」=「険しい・石の・峰、岬の・入り江」

or「ウェン・タ・テュ・メ」=「険しい・石の・峰、岬の・泉」

 「大綿津見」と言えば、スサノオの存在と重なるのですが、筆者はスサノオが国東半島の麓の豊国出身だと考えています。こちらも長野と同類の解釈が可能です。

※「大綿津見」の解釈。「国東半島の入り江」と解釈が可能。
◎縄文語:「大綿津見」=「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「大きな・険しい・石の・岬の・入り江」
◎縄文語:「大分」=「オオ・ウェン・タ」=「大きな・険しい・石」
◎縄文語:「碩田」=「オオ・ケィ・タ」=「大きな・頭の・石」
◎縄文語:「国東(半島)」=「クッ・ネ・サン・ケィ」=「崖・の・出崎の・頭」

 記紀の神話などは縄文語の仮借の漢字表記を結びつけて創作したデタラメ物語なので、これらの物語をまともに分析しすぎると、逆に真実から乖離していきます。


 「アズミ」はこれまでも何度か登場しました。この地名を結んで「アズミ族」の足跡だとする説は非常に危ういということもすでに述べたとおりです。
 「アズミ/アヅミ/アツミ」の地名が各地にあるのは、同じ地勢が各地にあるからです。以下解釈例です。縄文語と漢字表記は厳密に一意で結び付けられている訳ではないので、複数の解釈があります。古代人はもっといい加減にルール無用で仮借の漢字を当てはめているので、各地の周辺地名との整合性を見ながら解釈する必要があります。

◎縄文語:「アズミ/アヅミ/アツミ」
=「アッ・チャ・モィ」=「一方の・岸の・入り江」

or「アッ・チャ・メ」=「一方の・岸の・泉」
or「アッ・テュ・モィ」=「一方の・峰、岬の・入り江」
or「アッ・テュ・ムィ」=「一方の・峰、岬の・頂」
or「アッ・テュ・メ」=「一方の・峰、岬の・泉」
or「アテュィ・モィ」=「海の・入り江」

 長野の安曇氏も、その実態は、他の地域の「アズミ/アヅミ/アツミ」族と関係があったとする根拠はありません。万一古文献にそういった内容があったとしても、古文献自体が率先して同一地名を結んで物語を創作しているのでそれも根拠になりえません。記紀風土記はこの類いの創作物語が満載です。

 各地の「アズミ/アヅミ/アツミ」を上記縄文語解釈に当てはめてみます。「入り江」は内陸の同様の地勢も指します。

・長野「安曇郷」=「一方の峰の入り江」※松本平。
・三河「渥美郷」=「一方の岬の入り江」※三河湾。
・美濃「厚見郡」=「一方の峰の頂」※岐阜城の金華山周辺。
・伯耆「安曇郷」=「一方の岬の入り江」※伯耆西部、出雲「エテュ・モィ=岬の・入り江」(宍道湖)の対比。
・筑前「安曇郷」=「海の入り江」or「一方の岬の入り江」

 海沿いであれば、船を操るのは当然です。それらを同一地名だからといって血縁で結ぶのは根拠がないということです。「内陸の長野に海洋族の安曇族がいる!」などといって悩む必要もまったくないのです。ですから、長野が北限という根拠も不明です。大げさに言えば、北海道は言うに及ばず、千島列島、樺太にもあるかもしれません。

 琵琶湖西岸の安曇(アド)は、

◎縄文語:「安曇(アド)」=「アッ・ト」=「片割れの・湖沼」

 の意で、琵琶湖から分離した湖沼があったということを示しています。たまたま同じ「安曇」という仮借の漢字を充てられて混乱をきたしているだけです。どちらかが訛ったとかいう問題ではありません。
 地名に古代朝鮮との関わりもありません。その漢字表記とそれらを結びつけた創作物語だけが朝鮮系渡来人と関係があります。


 『日本の中の朝鮮文化』では、法隆寺や安曇郡の観松院などにある「朝鮮半島由来の仏像は三体だけではなく、ほかにまだいくらでもある」という内容の記述がありますが、これは妥当な見解です。日本の仏像はすべて渡来系です。北方系渡来人が大和の中枢の権力を握り、先住民文化を上書きする意図も含めてそれらを取り入れたのですから、当然渡来系なのです。今更、それが朝鮮半島由来だからといって驚くには値しません。

 仏教は言うに及ばず、神道もそれら由緒からは日本古来の宗教であることがまったく窺えません。そこにあるのも漢字表記にこじつけた北方系渡来人に都合の良い八百万の神様が活躍する創作物語だからです。
 仏教と神道については、蘇我氏と物部氏の対立がありますが、ニギハヤヒを祖に持つ南方系先住民である物部氏が神道を擁護していたということが史実であるとするならば、それは後世の神社とはまったく別物だった可能性が高いと言えます。物部氏が南方系先住民であれば、そこで語られる神々の由緒は縄文語由来の自然崇拝でしかるべきだからです。
 少なくとも神社という建物が建てられる時代になって以降は、自然崇拝とはかけ離れた漢字表記にこじつけた創作物語が語られるだけになっています。北方系渡来人が大和の中枢を掌握するのは、乙巳の変で蘇我氏本家を滅ぼした後ですから、恐らくはそれ以降のことです。

 ちなみに筆者は 蘇我氏も南方系日本先住民と捉えています。

 蘇我氏の出自について『日出ずる国のエラーコラム』に記載したものを再掲します。
【蘇我稲目の父は蘇我高麗、祖父は蘇我韓子なので、蘇我氏が朝鮮半島系の渡来人だとする説がありますが、こういった漢字表記にこじつけた説ほど危ういものもありません。縄文語解釈では「高麗/狛=コ・マ=湾曲した川」の意です。この解釈を採用すると、蘇我高麗とは、単に「湾曲した川沿いに住んでいた者」ということになります。「韓子」も「カ・コッ=回る、巻く・谷(曲がる川)」の意で、いずれも奈良県橿原市の「曽我町」の地勢を表しています。「曽我(蘇我)」は「サ・カ=湿地の・ほとり」、周辺の「真菅」は「マサカ=浜の草原の上」です。 】

 以下、初期神社仏閣の縄文語解釈です。すべて周辺の地勢と辻褄が合っています。

■主な神社の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。

■主な寺社の縄文語解釈
◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師(寺)」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆(寺)」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩(寺)」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山の高台。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。



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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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