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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百五十一回~第二百六十回】

第二百五十一回第二百五十二回第二百五十三回第二百五十四回第二百五十五回第二百五十七回第二百五十八回第二百五十九回第二百六十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]唐川・唐国・虎姫・虎御前・小谷城・高月町・父塚古墳・姫塚古墳・みち塚古墳~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐川・唐国」について(『日本神話と近江』橋本犀之助 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【是等の地方を其の郷里の地名そのまま韓郷と呼び為し、或は新羅と呼び為していたのではなかろうか。今も尚北陸本線柳ヶ瀬トンネル付近に「カラコ山」があり、近江路に入って(旧)東浅井郡に唐川唐国等の地名も残っている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「唐川」=「カン・ラ・カ・ワ」=「上にある・低地の・岸の・ふち」(湿地の岸)
◎縄文語:「唐国」=「カ・ラ・コッネイ」=「岸の・低いところの・くぼんだところ」(岸辺の低地)

 この一帯は「低地」「湿地」の解釈で一致しています。


■長浜市高月町唐川
■長浜市唐国町


 「唐国」の東方には「虎姫」という地名があります。これも縄文語解釈してみます。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「虎姫」の由来(ナガジンHP ※滋賀県長浜市の「!」が見つかるWebマガジン)
【むかし、長尾山のふもと、桃酢谷の井筒という泉のほとりに虎御前という美女が住んでいました。
 ある日、道に迷って助けられたのが縁で、土地の水利に力を尽くした長者世々開(せせらぎ)と一緒に暮らすようになりました。やがて15人の子どもをもうけますが、生まれてきたのは顔以外すべてウロコにおおわれた子蛇でした。虎御前は嘆き悲しみ女性ヶ淵(みせがふち)に身を投げてしまいます。
 その後、子どもたちは立派に育ち成人する頃には、人間と同じ容姿になり近辺の村を治めることになるのです。このころから長尾山を虎御前姫にちなんで虎御前山と呼びようになり、町の名「虎姫」もこれに由来しています。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「虎御前」=「トラィ・コッチャ」=「湿地の水たまりの・谷の入口」

◎縄文語:「虎姫」=「トラィ・シ・メ」=「湿地の水たまりの・大きな・泉」

 「トラィ」の原義は「ト・ラィ・イ=湖沼が・死んだ・もの」です。
 虎御前山の北方には浅井氏の小谷城があります。

◎縄文語:「小谷(城)」 =「オン・ティネィ」=「古い・湿地」

 これも「トラィ」とまったくの同義となります。


■小谷城


 小谷城西麓には「高月町」があります。

◎縄文語:「高月(町)」 =「ト・カ・テュ」=「湖沼の・岸の・小山」

 「高月町」は高月町にある古墳を表現しています。

◎縄文語:「父塚(古墳)」 =「チゥ・チャ・テュ」=「水流、水脈の・岸の・小山」
◎縄文語:「姫塚(古墳)」 =「シ・メ・テュ」=「大きな・泉の・小山」
◎縄文語:「みち塚(古墳)」 =「メ・チャ・テュ」=「泉の・岸の・小山」

 父塚古墳が古墳時代前期、姫塚古墳が五世紀、みち塚古墳は姫塚古墳の陪冢ですから、この地が少なくとも五世紀までは縄文語を使う南方系先住民の居住地だったことが分かります。南方系とは縄文語(アイヌ語)を共有する縄文人、弥生人、大規模古墳人です。
 日本先住民の歴史をことごとく上代日本語で上書きしたのは、六~七世紀以降、ヤマト中枢の権力を握った百済王族周辺の北方系渡来人です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]鉛練比古(エレヒコ)神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鉛練比古神社 」について(滋賀県神社庁HP)
【社伝によれば創祀は崇神天皇の御代日槍族この地に存在し、開発等に貢献した租神の祖先を祀り、江が連なりし処に宮居あり、称して江連之宮と云う古名発祥の由緒と伝う、当地は延暦寺領に属していた為、日吉大神を祀り山王宮と称していた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「鉛練比古(神社)」=「エンル・ピ・ケ」=「岬の・石・のところ」(岩崎山の大岩)

 縄文語解釈では余呉湖に突き出た「岩崎山の大岩」を指していると捉えられます。

■「岩崎山の大岩 」(現地案内看板)
【岩崎山は湖岸に大岩が突出し、賤ヶ岳合戦には高山重友の砦があった。古代は近くに智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇敬されていたが道路拡張で取除かれた。この岩は当時を偲ぶなごりである。】


■鉛練比古神社


 「エレヒコ」が「新羅の官職名」だとする説もありますが、いずれにしても違います。天日槍が新羅から来たという話もどこまで史実を反映しているか不明です。「天日槍」は出身地の「城崎温泉」のことです。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」(城崎温泉)

 記紀風土記の漢字こじつけ内容はことごとくデタラメです。必然的に、この周辺が日槍族(新羅系渡来人)によって開拓されたという話も疑わざるを得ません。

 余呉湖の西岸にあった「新羅崎神社」も新羅と関係があるとは限りません。日本全国の「シラキ/シラギ」の地名は「山裾」の意です。ことごとく新羅系渡来人の活躍物語で上書きされています。

◎縄文語:「新羅崎(神社)」 =「シ・オ・サン・ケ」=「山・裾の・出崎・のところ」
◎縄文語:「シラキ/シラギ」 =「シロケ」=「山裾」
or「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」


 筆者は、記紀風土記編纂の頃から、「渡来人物語で先住民文化を上書きする」このような作業が徹底して行われた可能性があると考えています。その代表例が各国風土記そのものです。


■新羅崎神社跡地 ※「山裾」の神社。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]米原町・多良・安羅・阿那・気長足姫(息長帯比売)・辛国・日撫神社・箕浦~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「米原町・気長町・安羅・阿那・多良」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
米原町には、いまも多良というところがある。米原町や息長村のあった近江町のここは坂田郡(現米原市)で、かつてここにはまた多羅とおなじ古代南部朝鮮の小国、安羅(那)からきた阿那郷のあったところだった。そして宇野茂樹氏の「近江の帰化氏族」によると、この阿那がどう転じてそうなったのか、のち息長となり、さらに息長村となったのだった。<中略>
 坂田郡に阿那郷を開いて息長を称した宿禰王も、天日槍とともにやって来た一族であったことにまちがいはない。息長村のあった近江町には、朝鮮関係のそれとみられている『延喜式』内の古い日撫神社がある。】

×「辛国息長大姫大目命」について(『坂田郡史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【新羅王子天日槍の阿那邑に暫住の後、其の跡に息長の地名は称えられたり。是を豊前国香春神社(田川郡)に祭る辛国息長大姫大目命に考え合すれば、息長は新羅語なるべし】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「米原(町)」 =「モィェ・ハ・ラ」=「入り江の・水が引いた・ところ」
◎縄文語:「多良」 =「タン・ラ」=「こちらの・低地」
◎縄文語:「安羅」 =「アゥ・ラ」=「枝分かれた、隣の・低いところ」
◎縄文語:「安那」 =「アゥ・ナ」=「枝分かれた、隣・の方」
◎縄文語:「辛国」 =「カ・ラ・コッネイ」=「岸の・低いところの・窪地」
◎縄文語:「息長」 =「オ・ナィ・カ」=「窪んだ・川・岸」
◎縄文語:「日撫(神社)」 =「ピンナィ・チャ」=「細い川の・岸」

 この周辺も「低地」の解釈で一致しています。朝鮮南部に日本と同音の地名が豊富にあるのは、朝鮮南部も南方系の縄文語(アイヌ語)圏で、日本と同じ地勢の場所がたくさんあるからです。地名が同じだからといって物語を結びつけるとデタラメ歴史となります。その諸悪の根元は記紀風土記です。
 「息長」と「辛国」は「岸辺の低地」を指します。たとえ、新羅語だとしても、それは新羅語が縄文語(アイヌ語)だった可能性を示すことになります。

■米原市上多良 ※周辺は「低地」の解釈で一致。



 朝鮮系とされる日撫神社の近隣の地名に「箕浦」がありますが、「箕浦=息長+日撫」の意です。

◎縄文語:「箕浦」 =「メナ・ウン・ラ」=「上流の細い枝川・にある・低地」
◎縄文語:「息長」 =「オ・ナィ・カ」=「窪んだ・川・岸」
◎縄文語:「日撫(神社)」 =「ピンナィ・チャ」=「細い川の・岸」

■日撫神社 ※周辺は「細い川沿いの低地」の解釈で一致。



 豊前国香春神社に辛国息長大姫大目命が祀られているとのことですが、ここももちろん縄文語圏です。

◎縄文語:「香春」 =「カパ」=「水中の平岩」

■金辺川 ※水中の平岩。



 香春岳の別名は「鏡山」、また三ノ岳別名「天香山」です。 豊前国風土記に神功皇后の物語がありますが、風土記がいかにデタラメを書いているかが分かります。
 天日槍も神功皇后も大ウソつきの前提で歴史を見なければなりません。

◎縄文語:「鏡山」 =「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」
◎縄文語:「(天)香山」 =「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」

■鏡山(香春岳/福岡県田川郡香春町)※弓の形の山。
×豊前国風土記逸文(『万葉集註釈』)【豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。「天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え」と仰った。すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という。】



 息長宿禰王に関連して「山津照神社」も調べてみます。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「山津照神社」について(『滋賀県官幣社及県社要覧』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【境内ニ息長宿禰王ノ古墳アリテ深き縁由ヲ有ス】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「山津照(神社)」 =「ヤマ・テューウテュ」=「山の・峰の間」

 地勢そのままです。この地域での縄文語の使用は確実ですが、いつまでなのかは不明です。
 境内にある山津照神社古墳は六世紀中葉の築造なので、気長足姫(神功皇后)の父の息長宿禰王の墳墓との説は否定されています。





騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]百済(ひゃくさい)寺・天智天皇(中大兄皇子)・鬼室集斯(きしつしゅうし)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「百済(ひゃくさい)寺」について(wikipedia)
【百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。】

○「湖東の廃寺」について(『近江の帰化氏族』宇野茂樹 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【近江国内の七・八世紀の廃寺跡関係を眺めると矢張り湖南、湖東にs集中している。<中略>このことは帰化氏族の分布と軌を一にするものであって、湖南地方の廃寺は天智天皇大津京に関連するもの、官寺的なもの、地方豪族の氏寺とされるものも内在するが、湖東は帰化氏族の氏寺と見做すものが大多数を占めるものとしてよいと思う。
 そしてその瓦には百済の都扶余出土の鬼板に類する鬼板とか、高句麗様式に類する軒丸瓦等を出土していることは注目すべきであろう。】

○「鬼室集斯」について(wikipedia)
天智天皇二年(六六三年)の白村江の戦いの後に一族とともに日本へ亡命。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇四年(六六五年)二月に小錦下の位に叙せられた。<中略>
 集斯の百済での位は達率であった。書紀はこれに続けて百済の男女400余人が近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされたと記すので、集斯も同じと推定できる。三月に神前郡の百済人に田が与えられた。 天智天皇八年(六六九)に、佐平余自信と佐平鬼室集斯ら男女700余人が近江国蒲生郡に遷された。 天智天皇十年一月(六七一年)に、鬼室集斯は小錦下の冠位を与えられた。理由は不明であるが、以前(六六五年)に与えられた位と同じである。このとき集斯は学職頭であった。学識頭は律令制における大学頭の前身であると考えられている。久木幸男は集斯が蒲生郡に移されてから、この時の叙任までの約一年余りのうちに日本の大学寮の原型が成立して、集斯がその長になったとする説を唱えている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「百済(ひゃくさい)寺」 =不明

 百済寺は通説どおり、「百済国」由来と考えます。
 筆者は、百済王族系の第三十代敏達天皇の勢力が蘇我氏に担がれてヤマト王権中枢に入り込み(継体天皇とその皇子らを殺害)、のちの乙巳の変で蘇我氏本宗家を滅ぼすことにより、ヤマトを完全掌握したものと考えています。蘇我本宗家とともに多くの歴史書が焼失しました。使用言語が縄文語(アイヌ語)から上代日本語に代わったのは乙巳の変(大化改新)以降です。そのことは天皇諡号、皇居、陵墓等の縄文語解釈から導き出せます(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)。

 乙巳の変の首謀者は中大兄皇子(天智天皇)ですが、その折、異母弟の古人大兄皇子は言っています。

韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。私は心が痛い」(『日本書紀』)

 古墳時代後期(六~七世紀)には、琵琶湖西岸南部に横穴式石室を持った群集墳が築かれます。これが北方系渡来人の足跡だと考えます。
 由緒によると百済寺が建立されるのはこの頃です。読みも「ひゃくさいじ」で、他の「百済」の地名に見られる縄文語の「クッチャ=湖沼や湾、川の入口」の解釈とも一致しません。開基は敏達天皇の甥の聖徳太子とされていますが、聖徳太子が実在するならば、どういう人物であったかは明らかです。

 百済勢力が盤踞する大津に同系の天智天皇が遷都するのは妥当です。 百済滅亡後、勢力基盤を安定させるために亡命者を大量に受け入れるのも、鬼室集斯がすぐさま学職頭に出世するのも当然のことです。このあたりから先住民文化を渡来文化で上書きする作業が始められたのではないでしょうか。日本の神社仏閣は、おしなべてその作業を補助する役割を担っています。神社仏閣の由緒がデタラメなのはそういう理由です。


■百済寺(ひゃくさいじ) ※縄文語で解釈できない。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]愛知郡秦荘・依智秦氏(えちはたし)・松尾~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「金剛輪寺」について(『金剛輪寺略縁起』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【松峯山金剛輪寺は聖武天皇の勅願により行基菩薩が天平十三年(七四一)にい開山された千古の名刹であります。天皇は「金剛輪寺」の勅願と寺領三千石、それに境内山林を御下賜になりました。本尊聖観音菩薩は、行基菩薩による一刀三礼の御作物であり、感応ことにあらたかな霊仏であります。】

×「愛知郡秦荘・依智秦氏(えちはたし)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(近隣にある) 寺院の名は百済寺であるけれども、これはもとこの辺一帯に繁衍していた新羅系氏族、すなわち秦氏族の氏寺であったからである。近江の秦氏族は依智秦氏といったもので、ここを愛知郡といったのも、秦氏族の依智からきたものであったにちがいない。<中略>
 百済寺のある愛知郡にはいま秦荘町があって、ここの松尾にある金剛輪寺もおなじ秦氏によって建立されたものではなかったかというのであるが、松尾といえば、これもまた京都にある秦氏族の氏神社であった松尾大社が思い出される。金剛輪寺は別名を松尾寺といったもので、それがいまの地名ともなっているのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「依智秦(氏)」 =「エテュ・ハッタ」=「岬の・淵」(秦荘東方の池沼が点在する山)
◎縄文語:「秦荘」 =「ハッタ・シ」=「淵の・山」 (秦荘東方の池沼が点在する山)
◎縄文語:「松尾」 =「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」 (宇曽川の岸辺)

 縄文語で「依智秦」と「秦荘」はともに「淵がある山」の意です。「宇曽川岸辺の松尾」は京都の「桂川岸辺の松尾大社」とまったく同じ地勢です。いずれの場合も「オ=尻」は「山裾」を指したのかも知れません。

 この一帯は湖沼にちなむ地名が近隣にあるので湿地帯だった可能性があります。

◎縄文語:「八木」 =「ヤケ」=「岸辺」 (秦荘西、南に隣接)
◎縄文語:「目加田」 =「メ・カ・タ」=「泉の・岸の・方」 (秦荘西北に隣接)
◎縄文語:「甲良町」 =「カン・ラ」=「上の方の・低地」 (秦荘北に隣接)

 依智秦氏が京都の秦氏と本当に関係があったかどうかは不明です。同じ地勢の縄文語に同じ漢字を充て、出自を創作した可能性があります。秦氏はその出自にいろいろと説がありますが、依智秦氏の場合は、

・百済出自の説がある行基が開基の金剛輪寺
・「百済」の地名の縄文語解釈に該当する「クッチャ=湖沼などの入口」の地勢とは無関係の、百済系の聖徳太子が開基の百済寺(ひゃくさいじ)
・近隣地域からの百済、高句麗系の瓦の出土
・百済系の天智天皇の大津京

 これらを考慮すると百済系かもしれません。


■秦荘 ※東方に湖沼のある山。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]石塔~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「石塔」について(wikipedia)
【石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。伝承によれば、聖徳太子は近江に四十八か寺を建立し、石塔寺は四十八番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。<中略>
 石塔は、実際には奈良時代前期(七世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇八年(六六九年)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人七百名余を近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「石塔」 =「エサン・トー」=「岬の・湖沼」 (石塔に接して山上の池沼)

 通説にはスキがありません。この石塔はここに移住した百済系渡来人によって建てられたのは史実かもしれません。

 しかし、この石塔や石塔寺の建立は縄文語の「エサン・トー=岬の・湖沼」という先住民による地名を上書きすることを目的に行われた作業だった可能性があります。そうだとするならば、非常に悪質ですが、それは縄文語の地名由来を跡形も無く消し去ろうとした風土記の編纂態度と完全に一致します。(※「日出ずる国のエラーコラム」参照)


■石塔と山上の湖沼。



 同じような例は他にも見られます。
 たとえば、神奈川県大磯の「高麗山」。明らかに「コ・ヤマ=湾曲した・山(丸山)」の意ですが、ここにも高来神社(高麗寺)が建てられ、渡来人物語が付加されています。
 埼玉の「高麗川」「湾曲した川」の意ですが、ここにも「高麗神社」が建てられ、高麗人が移住したとされています。
 全国の「高麗」を冠する地名は、「湾曲した川」あるいは「丸山」の地勢です(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)。

 渡来人の活躍物語はことごとく疑わなければなりません。なぜなら、先住民文化を徹底的に上書きする意図をもって物語が創作された可能性があるからです。


■高麗山 ※縄文語:「コ・ヤマ=湾曲した・山(丸山)」


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※縄文語:「コ・マ=湾曲した・谷川」




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]安羅神社・新堂町・笠町・穴村・野村・上寺~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「安羅神社」について(『安羅神社由緒記』※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【安羅神社は一名安良明神と申し、その創建年代つまびらかではないが、古事記の研究者三品(彰英)博士は「御祭神は朝鮮新羅の王子(天日槍命)」であると伝えている。
 天日槍命は、・・・・・・一族郎党を引きつれて来朝された。<中略>宇治川をさかのぼって近江の吾名邑(あなむら)に止まられた。<中略>(天日槍命は但馬国出石に居を定めたが)一族中のある者は吾名邑の地に止まり、この地に部落を造り、専ら農耕を業としていたその子孫が天日槍命の遺徳をしのび、一社を建てて奉祀したのが安羅神社であると称されている。<注釈>
  当社の社名は安羅はアンラの転訛であって、南朝鮮地方に同種の地名が存在する事実よりして、古代吾名邑に居住した我らの先祖が天日槍命を尊崇すると共に、故郷の地名に執着して社名としたことは当然のことと思われるのである。<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「安羅(やすら神社)」 =「ヤチ・ラ」=「泥の・低いところ」
◎縄文語:「安羅(あんら)」 =「アン・ラ」=「一方の・低いところ」
or
「アゥ・ラ」=「枝分かれた(隣の)・低いところ」

 この一帯には湖沼があったようです。安羅神社の間には「新堂町」、西方には「上笠町」「下笠町」という地名があります。

◎縄文語:「新堂(町)」 =「シアン・トー」=「大きな・湖沼」
◎縄文語:「笠(町)」 =「コッ・チャ」=「窪地の・岸」

■安羅神社(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 北の安羅神社の所在地名は「穴村」、南の安羅神社の所在地名は「野村」です。

◎縄文語:「穴村」 =「アン・ノミ・ラ」=「一方の・祭る・低いところ」
◎縄文語:「野村」 =「ノミ・ラ」=「祭る・低いところ」

 そして、北の安羅神社の東は「上寺町」です。

◎縄文語:「上寺(町)」 =「カムィトー・ラ」=「神の湖沼の・低いところ」

 もともとの先住民の祭場を北方系渡来人が神社で上書きしたか、あるいは縄文語を使う朝鮮半島南部の南方系渡来人が拠点としたかのいずれかと解釈できます。いずれにしても地名は朝鮮半島由来ではありません。朝鮮半島南部に同じ地名があるのは、倭人と同じ縄文語圏だったからです。

 何度も言いますが、縄文語では同じ地勢に同じ地名が与えられることは無数にあるので、同じ地名を安易に結びつけるとデタラメ歴史ができあがります。その最たるものは記紀風土記です。

 天日槍の名は出石北方の城崎温泉を指しています。垂仁天皇の時に来朝したということですが、邪馬台国の台与を隠蔽している時代にあたるので、渡来人の出自を飾るために生み出された人物とするのが妥当です。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」(城崎温泉)


■城崎温泉 ◎縄文語:城崎(温泉)=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]金勝寺(こんしょうじ)・金勝山・狛坂寺跡~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「金勝寺・狛坂寺跡」について(『朝鮮の国名に因める名詞考』今村鞆 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【滋賀県栗太郡金勝村(現 滋賀県栗東市荒張)金勝寺西方の山上に其旧址を存す。「近江国輿地志略」によれば、此寺の縁起は近江蒲生郡の狛長者(こまのちょうじゃ)がもと所蔵の尊容たる閻浮檀金(えんぶだごん)の観音像一尺許(ばかり)のものが嵯峨天皇の皇妃檀林皇后に伝わりしを、金勝寺の願安が之を得て金勝寺(現存)に安置せしが同寺は女人結界にして結縁普からざるより、別に狛坂に寺を建立し此尊像を安置したれど、回禄の災(火事)の後金勝寺に移置せりとあるも、今此像は存在せず狛坂寺の建創は弘仁七年(八一六年)なりと伝えられる。】

×「狛坂寺」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【狛長者というのはおそらく、<中略>七世紀のころまたこの蒲生野にたくさんはいってくることになった、百済系渡来人中の一つの長者ではなかったかと思われる。
 狛坂寺の狛とは高麗、すなわち高句麗からきたものであるが、日本では百済を混同してそういったこともあるから、これは別に問題とならない。するとその観音像は、<中略>百済渡来のもので、もとは狛長者といわれたものの持仏だったのかもしれない】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「金勝(寺)」 =「コ・シ」=「湾曲した・山」 (湾曲した金勝山の峰)
◎縄文語:「狛坂(寺)」 =「コ・サン・カ」=「湾曲した・出崎の・上」 (湾曲した金勝山の峰の上)

 地名由来に百済も高句麗も関係ありません。金勝寺の建つ「金勝山」の地勢を表しています。まさに「湾曲した山」です。

 繰り返しになりますが、全国の「高麗」を冠する地名は、「湾曲した川」あるいは「丸山」の地勢です(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)。今回は新たに「湾曲した峰」の解釈が登場しました。よくある 「高麗=コ・マ=湾曲した川」と同じ形状をしています。


■金勝山周辺 ※湾曲した峰。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百五十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]紫香楽宮・信楽~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「紫香楽宮・信楽焼」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【紫香楽宮とはいうまでもなく、奈良時代、聖武帝のいわゆる紫香楽宮のあったところである。<中略>
 その引っ越し地の一つが紫香楽(信楽)、すなわち新羅だったということはおもしろいことで、あの奈良・東大寺の大仏造営のことなども最初はここではじめられている。】

○「信楽焼」について(『京都の旅』松本清張・樋口清之 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ここがかつて帰化人の開いたところ、そして短期間ながら皇居があったところとしての高い文化は、名物信楽焼を遺産として残した。<中略>古い信楽焼はいわゆる須恵(祝部)と呼ばれる古墳時代の陶器からはじまっている】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「紫香楽宮・信楽」 =「シ・カン・ラケ」=「大きな・上にある・低いところ」(紫香楽宮のある山中の盆地)
◎縄文語:「陶器(須恵器)」 =「スィ・ケ」=「穴の・ところ」(半地下式の登り窯)

 紫香楽宮、信楽の縄文語解釈は、大戸川沿いの南北に長い「山中の盆地」を指したものと思われます。

 須恵器は特に朝鮮半島の南部の加耶由来で、半地下式の登り窯(窖窯あながま)で焼かれます。朝鮮半島南部由来ということは、倭人と同じ縄文語圏ですから、陶器の名称も縄文語となります。

 少なくとも古墳時代あたりまでは、倭人と朝鮮半島南部は縄文語を共有していた可能性が高いので、当時の歴史や地名を漢字表記に結びつけて解釈するのは危険です。


■紫香楽宮跡 ※山中の盆地。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[滋賀県]鏡山(鏡神社)・苗村神社・吾名邑・川守・雪野山・野寺・天神山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鏡神社」由緒(滋賀県神社庁)
【創祀年代不詳。社伝によると新羅国より天日槍来朝し捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し其の山裾に於て従者に陶器を造らしめるとあり。天日槍を産土神として崇めたのが当社の起源である。社殿奉建は寛平年間に火災にあうと伝えあり現在の本殿(重文)は室町時代に再建されたものとされている。皇室との関係は大正6年11月特別大演習統監の砌り天皇が当神社境内宮山に行幸その際親拝される。宮山を御幸山と称し記念公園とする。】

×「天日槍」について(『日本書紀』宇治谷孟 講談社)
【天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居処を定めた。それで近江国の鏡邑の谷の陶人(すえびと)は、天日槍に従っていた者である。】

×「苗村神社」由緒(苗村神社公式HP)
【当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。<中略>
 現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀三年三月新羅王子・天日槍の條に曰う吾那邑でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「鏡(山)」 =「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」(弓の形の鏡山)

 鏡山は日本全国いたるところにありますが、すべて「弓の形の山」です。風土記などに鏡神社由緒と同類の由来があるものもありますが、それは同時に記載されている内容がいかにデタラメかを示しています。下部にその他の例も挙げています。


■鏡山 ※弓の形の山。

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「吾名邑」 =「アン・ナィ・ムッ・ル」=「枝分かれた、隣の・川を・身につけている・岬」(川沿いの岬 ※鏡山の峰との対比)
◎縄文語:「苗村」 =「ナィ・ムッ・ル」=「川を・身につけている・岬」(川沿いの岬)
◎縄文語:「川守」 =「カワ・ムッ・ル」=「岸辺を・身につけている・岬」
◎縄文語:「雪野山」 =「ヤケ・ノッ」=「岸辺の・岬」
◎縄文語:「野寺」 =「ノッ・タオロ」=「岬の・川岸の高所」
◎縄文語:「天神(山)」 =「タン・シ」=「こちらの・山」 (※鏡山の峰との対比)

 「吾那邑」「苗村」はいずれも苗村神社東方、日野川沿いの「雪野山」を指したものと思われます。周辺地名も「雪野山」を指しています。
 鏡神社、苗村神社のいずれの由緒にもある天日槍も渡来人の出自を飾る目的で登場していて、まったく信用できません。

■苗村神社周辺 ※鏡山とその対比となる東方の雪野山(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


 一般的に「アヤ/アナ/アラ/カラ/カヤ」などの読みの漢字を朝鮮半島南部の加羅諸国に結びつけて解釈しがちですが、すべて「隣の岸/隣の方/隣の低地/岸の低いところ/ほとりの岸」で、どこにでもある地勢です。朝鮮半島南部とは縄文語(アイヌ語)を共有しているので、同地勢同地名があってもなんら不思議はありません。「新羅/百済/高句麗」も同様です。


【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
■香久山/香具山(大和国)※弓の形の山。
<伊予国風土記逸文>(『日本書紀纂疏』) 「風土記によると、天上に山があったという。分かれて地に落ち、一つは伊予国の天山となり、もう一つは大和国の香具山となった。」
<阿波国風土記逸文>(『万葉集註釈』) 「阿波国風土記の場合は、空から天降ってきた山の大きな方は、阿波国に降ったアマノモト山という。その山が砕けて、大和国に降り着いた山を天香具山というと書いてある。」

■香山(かぐやま)里(播磨国)(兵庫県たつの市新宮町香山)※弓の形の山。
<播磨国風土記>「本の名は、鹿来墓(かぐはか)である。<中略>伊和大神が国占めした時、鹿が来て山の峰に立った。山の峰も墓に似ていた。だから、鹿来墓と名づけた。その後、道守臣(ちもりのおみ)が宰(みこともち)だった時になって、名を改めて香山とした。」

■鏡山(豊前国)
(香春岳/福岡県田川郡香春町)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
<豊前国風土記逸文>(『万葉集註釈』)「豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)が この山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。【天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え】と仰った。すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という。」
■鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・サン・ケ」=「形が・弓の・頂の・出崎の・ところ」
<豊後国風土記>「景行天皇が、この坂の上に上り、国の形をご覧になり、【この国の形は鏡の面に似ている】と言った。よって鏡坂という。」 ■鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・ウン・ワッタ」=「形が・弓の・頂・が(orに)ある・淵」
<肥前国風土記>「昔、宣化天皇の世、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)連を遣わして、任那国を鎮め、また、百済国を救った。大伴狭手彦は命を受けてやって来て、この村に到った。篠原村の弟日女子(おとひめこ)と妻問婚した。日下部君らの祖である。弟日女子はとても容貌が美しい女性であった。狭手彦は別れる日に弟日女子に鏡を与えた。弟日女子は悲しみ泣きながら栗川を渡ったが、そのとき、鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。よって鏡渡と名付けられた。」 ■隠れ里の稲荷(鎌倉)(神奈川県鎌倉市佐助)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ネ・テューテュ」=「形が・弓・である・岬」
<佐助稲荷神社由緒>「伊豆の北条政子のもとで病に臥していた源頼朝の夢枕に【かくれ里の稲荷】という翁が立ち、平家討伐の挙兵を促した」
■各務(原)(岐阜県)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」

・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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