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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百四十一回~第三百五十回】

第三百四十一回第三百四十二回第三百四十三回第三百四十四回第三百四十五回第三百四十六回第三百四十七回第三百四十八回第三百四十九回第三百五十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]万燈山古墳・タタラ製鉄~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「万燈山古墳」について(『津山瓦版 い~津山どっと・こむ』より引用)
【万燈山古墳は直径24m、高さ4mの円墳と指定されています。昭和46年11月から12月にかけて発掘調査が行われ次のことがわかりました。
 南に開口する横穴式石室であり全長約11m、玄室長6.5m、幅2.2m~2.4m、高さ2.8mで、現在わかっているものでは、県北最大の石室です。子の石室の中に組合わせ式の石棺1、陶棺1、木棺7があり、20体以上の埋葬者がたしかめられ、また羨道入口において大がめなどを破砕した葬送儀式あとが見つかりました。
 石室内からは次のような遺物が出土しました。金環21、勾玉7、管玉6、切子玉6、大玉・小玉類130、小金環2、空玉20、直刀9、刀子(短い刀)14、鉄鏃(鉄のやじり)10、馬具2組(鉄地金銅張飾具付)、馬鈴2、鉄滓及び土師器多数、須恵器の高坏5、坏21、まり(水や酒を盛った器)2、提瓶5、平瓶3、壺2、坩2、台付鉢1、大がめ1、他破片多数。(出土品の一部は加茂町歴史民俗資料館に展示しています。)
 この遺物のうち鉄地金銅張の馬具類や馬鈴は、石室の規模とともに、この古墳に葬られた人が当時の社会階層の上位にあることを示し、鉄滓は、鉄生産又は加工を行ったことを示しています。
 この古墳は6世紀後半(約1400年前)に築造され、7世紀始めまで追葬が行われたものです。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「万燈山(古墳)」 =「マーテュ・ヤマ」=「波打ち際の・山」

 「倉見川河畔の山」の意です。この古墳は六世紀後半~七世紀初頭ということですから、この地域での縄文語使用の好資料となります。

 所在地の住所は「加茂町塔中」です。

◎縄文語:「(加茂町)塔中」 =「タン・チゥ」=「こちらの・水脈、水流」

 「タン=こちらの」はよくある対比表現です。「塔中」の場合は、加茂川と倉見川の分岐点なので、河川の対比であることが分かります。
 倉見川沿いの隣接地区は「小中原」「中原」で、加茂川の対岸は「小渕」です。

◎縄文語:「中原」 =「ナィ・カ・ハ・ラ」=「川・岸の・水が引いた・低地」
◎縄文語:「小渕」 =「オプッ」=「川口」※加茂川と倉見川の合流点。


■万燈山古墳周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 余談ですが、「中原」地区に「サムハラ神社」という変わった名称の神社があります。「サムハラ」が日本語ではないことは明らかです。
 サムハラ神社公式HPには以下のようにあります。

●『サムハラ神社沿革』
【美作国東北条郡中原村(現・津山市加茂町中原)日詰山山中の城郭址に古祠在り、 『サムハラ』を伝えると謂れあるも年紀不詳、恐らくは中世の日詰城の域内に斯様の守護祠の在ったものかと推測される。】

 これも縄文語で解釈すれば簡単に解読できます。

◎縄文語:「サムハラ」 =「サ・ハ・ラ」=「となりの・水が引いた・低地」

 やはり、この地域も縄文語地名なので、上代日本語を話す北方系渡来人がいたとするよりも、縄文語を話す南方系先住民あるいは南方系渡来人がいたとする方が自然です。つまり、万燈山古墳から出土した宝物がたとえ朝鮮半島由来のものであっても、それをもたらした人々は朝鮮半島南部の倭人と縄文語を共有する南方系の人々であった可能性が高いということになります。基本的に縄文語を共有する朝鮮半島南部の人々と倭人を区別するのは困難です。

 ほか、蛇足で周辺地名。

◎縄文語:「齋野(谷)」 =「サ・ウン・ノッ」=「前・にある・岬」
◎縄文語:「百々(どうどう)」 =「テューテュ」=「岬」



 「万燈山」という名の山は他地域にもあります。縄文語の解釈は二種。

◎縄文語:「万燈山」
=「マーテュ・ヤマ」=「波打ち際の・山」
or「メトッ・ヤマ」=「山奥の、深山の・山」



■万灯山(愛知県西尾市貝吹町) ※川沿いの山。
■万燈山(愛知県新城市) ※山奥、深山の山。


■万燈山(和歌山県紀の川市西三谷) ※池沼のある山。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「タタラ遺跡」について(『街道をゆく』司馬遼太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(加茂町黒木のタタラ遺跡が)いっそ、六世紀、七世紀のものであるとすれば、万灯山古墳に眠っていたこの加茂谷の大豪族の経営していたタタラであるかもしれず、とすれば――と想像の上に想像を積みあげるようだが――このカシと松の山を、多数のムラゲ技術長以下の製鉄作業員や、炭焼き、炭運びなどを指揮しつつ山の小径を歩いている古代の盆地の王者までが目にうかんでくるようである。
 かれが使っていた製鉄の技術用語は、おそらく新羅語かなんかであっただろう。朝鮮半島の技術が伝わってきた以上、技術用語は当然ながらかの地の言葉なのである。ひょっとすると、後世まで残存かとも想像したりするが、それが立証されるには、言語学にあたらしい方法が開発されて、しかも日本と朝鮮においてそれがよほど発達しなければ、どうにもならないことかとも思える。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「タタラ(製鉄)」 =「タッタ」=「踊り踊り」(※「タ=踊り」×2)

 この「タッタ=踊り踊り」は「鞴を踏む様子」を表現したのではないでしょうか。通説のように「タタラ=鞴」ではなく、あくまで「鞴を踏む様子」です。

 また、おそらくは高確率で「新羅語=縄文語」です。この時代、日本先住民の倭人にとって異質なのは決して「新羅語」ではなく、「上代日本語」の方なのです。百済、高句麗語、上代日本語の特徴は母音で終わる開音節、新羅語と縄文語は子音で終わる閉音節が含まれます。wikipedia百済語→

 タタラ製鉄という縄文語の名称を使っていたのであれば、朝鮮半島南部の倭人と同系の人々です。日本の真実の歴史を探るにはパラダイムシフトが必須です。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[広島県]漢弁郷・可部町・白木町~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「可部町・白木町」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
可部町の可部とはさきの斉藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」でみた漢弁(からべ)郷の漢弁がそれとなったものだった。だったから、そこにも行ってみたかったが、しかし私は白木町の白木のほうをえらんだ。
 なぜかというと、漢弁郷の漢(から)ももとは韓、あるいは加羅から出たものかもしれなかったが、白木とは、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』や竹中行夫氏の『北九州の古代を探る』ももあるように、これは「新羅来の転で、すなわち『新羅から来た人々の居所』と考えられている」からである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「(安芸郡)漢弁(郷)」 =「カン・ペ」=「上にある・水」

 『日本の中の朝鮮文化』では「からべ」となっていますが、一般的には「かべごう」です。
 「漢弁郷」について、日本歴史地名大系に以下の解説があります。

×「漢弁郷」について(『日本歴史地名大系』 ※コトバンクより引用)
【「和名抄」高山寺本・東急本ともに「漢弁」と記し、前者が「加倍」と訓を付す。「芸藩通志」は可部(かべ)町(現広島市安佐北区)の項に「此地なるべし、按に漢弁はもと綾部の義にてあるべきか、今も近村小綾谷村ありてが党といふ地名もあり、考ふべし」とする。】

 「綾」は、

◎縄文語:「綾」 =「アゥ・ヤ」=「枝分かれた・陸岸」

 の意で、発音が違えば意味も異なります。現在「可部町綾ケ谷」という地名がありますが、太田川支流が枝分かれた山塊の谷です。


■可部駅(安佐北区) ※高いところにある水。




◎縄文語:「白木」
=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
or「シロケ」 =「山裾」


 白木は各地に登場します。『日本の中の朝鮮文化』では「新羅国」と結びつけられて大騒ぎになっていますが、まったく関係ありません。日本全国に無数にある「山裾」の地勢を「新羅国」と結びつけてみてください。日本の国土がほとんどなくなってしまいます。「新羅来?」そんな訳ありません。まったく馬鹿げています。


■白木町(広島市安佐北区) ※山裾。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[広島県]亀山神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「亀山神社」について(『亀山神社御由緒略記』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【縁起に曰く。初め筑紫宇佐島より豊後姫島に御遷座、人皇四十代天武帝の御宇白鳳八年、姫島より安芸国安芸郡栃原村甲手山に天降り給い、夫れより年経て四十二代文武帝の御宇大宝三年秋八月中旬、呉宮原村亀山に鎮座(元入船山という。御遷座の時改めて亀山となづく)、社号皇城宮又は大屋津比売神社、又は大帯(おおたらし)比売神社、又は比売志麻神社、又は鈴音宮又は八幡宮という。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「皇城(宮)」 =「コッ・チャ」=「窪地の・ほとり」
◎縄文語:「大屋津/比売(神社)」 =「オオ・ヤチ/シ・メ」=「大きな・泥/大きな・泉」
◎縄文語:「大帯/比売(神社)」 =「オオ・トラィ・ウシ/シ・メ」=「大きな・水たまり・のところ/大きな・泉」
◎縄文語:「比売/志麻(神社)」 =「シ・メ/シ・マ」=「大きな・泉/大きな・谷水」
◎縄文語:「鈴音(宮)」 =「シ・チゥ・オ・ト」=「大きな・水流、水脈が・たくさんある・湖沼」
◎縄文語:「八幡(宮)」 =「ペッチャ」=「川端」

 亀山神社は多くの異称を持っていますが、縄文語解釈では、すべて湖沼端、川端で一致しています。すなわち、亀山神社とは「川端の大きな湖沼」に建つ神社ということになります。

 また、亀山神社の異称の一つに登場する「八幡宮」ですが、日本全国の「八幡神社」は「川端」にあります。八幡大神がいるとすれば、川端の自然崇拝で、応神天皇はまったく関係ありません。

 「比売=シ・メ=大きな・泉」と解釈しましたが、後述する比売許曾神社は

◎縄文語:「比売許曾(神社)」 =「シプィ・コッ」=「湧き水の・窪地」

 と解釈しています。大分県姫島の比売語曽神社が拍子水温泉のほとりにあるからです。一連の亀山神社の「比売」も「シプィ=湧き水」の可能性も考えられます。


 西に隣接するのは「宝町」地区です。

◎縄文語:「宝(町)」 =「ト・カ・ラ」=「湖沼の・ほとりの・低地」

 そのほか、各地の宝塚古墳は「池沼端にある古墳」の意です。決して「宝物」の意ではありません。立地と築造年代に注目して見てみて下さい(※下部参照)。


■入船山(亀山神社の旧所在地) ※川端の大きな湖沼の岸。



 そして、「亀山」と呼ばれるようになった理由ですが、決して「亀の甲羅に似ているから」ではありません。偶然似ていますが違います。「亀」は「高麗(こま)」や「賀茂/加茂/鴨」と同様に、縄文語の「コ(・マ)=湾曲した(・谷川)」に充てられます。
 「亀山」の場合は「亀」後ろに「山」がついていますから、

◎縄文語:「亀山」 =「コ・ヤマ」=「湾曲した・山」=丸山

 という意味になります。神奈川県大磯町の「高麗山」と同義です。つまり、「高麗人が~」という由来がほぼ間違いなく眉唾物ということです。埼玉県の高麗川も単に「湾曲する谷川」の意です。

 また、旧所在地の「入船山」は

◎縄文語:「入船山」 =「イウォ・プ・ネ・ヤマ」=「神を祀る・倉(三角屋根)・のような・山」=丸山

 となり、「亀山」とほぼ同義となります。亀山神社由緒には入船山に鎮座した時に「亀山となづく」とありますが、それが事実であれば、西暦七〇〇年前後までこの地域で縄文語が使用されていたことになりますが、もともと先住民による自然崇拝が行われた場所であったとする方がしっくりきます。

 『日本の中の朝鮮文化』では、亀山神社が渡来系の神社ということで取り上げられていますが、そもそも神社に渡来系ではない神社はありません。神社とは渡来系の権力者周辺の出自を正当化、装飾するために設けられたものです。漢字表記にこじつけられたデタラメな由緒や神々が如実にそのことを物語っています。そこには縄文語解釈のかけらも見当たりません。


■入船山(亀山神社の旧所在地) ※丸山。

■高麗山(神奈川県大磯町)  ※丸山。


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



【参考例】他地域の宝塚古墳
◎宝塚古墳(茨城県茨城郡茨城町/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔に立地。
◎木崎宝塚古墳(茨城県桜川市)⇒google mapストリートビュー
 ※水田際の古墳の意味か。
 ※木崎=「キサ・ケ」=「耳のように突き出た・ところ」⇒google map
◎宝塚古墳(岐阜県可児郡御嵩町/円墳)⇒google map
 ※溜め池のそばの古墳。
◎宝塚1号墳、2号墳(三重県松阪市宝塚町/5世紀初頭、前半/前方後円墳)⇒google map
  ※周辺に複数の池。
◎佐味田宝塚古墳(馬見古墳群)(奈良県北葛城郡河合町/4世紀後半~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔の小山。
◎宝塚古墳(広島県福山市/6世紀後半/円墳)⇒google map
  ※池畔の小山。
◎兵庫県宝塚市⇒google map
 ※宝塚市にはたくさんの池沼があります。その際の小山の意。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~高祖神社・香春神社・比売語曽神社・比売許曾神社・赤留比売命神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「比売許曾神社」について(『比売許曾の社について』滝川政次郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【伊都国には天之日矛(天日槍)、比売許曾を祀った社が存在したに相違ありません<中略>
 比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土郡の高祖神社、豊前国田川郡の香春神社、豊後国国前(東)郡の比売許曾神社、摂津国東生(成)郡の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売命神社ということになります。私はこれらの比売許曾の社を次々につないで行った線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、近畿の各地に移っていった行程を示すものではないかと考えます。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記の例が日本の歴史の致命的欠陥を生み出す典型的なものです。同一地勢に与えられた同一地名を結んで、ありもしない物語を創作しています。決してこの著者だけをつるし上げている訳ではありません。玄人素人含め、日本の歴史の多くがこうして創作されています。

 神社名とその祭神を縄文語解釈していきます。

 まずは糸島市の高祖神社。高祖神社の所在地は「高祖」です。「高祖」は川原川支流の深い谷です。
 『比売許曾の社について』では「高祖」と比売許曾の「許曾」を結びつけて、比売許曾神社の類いとしたのでしょうか。しかし、これは「たかすじんじゃ」と読みます。

◎縄文語:「高祖(神社)」 =「テュ・カス」=「峰を・越える」※日向峠。

 高祖地区の谷を登れば日向峠です。地勢とは一致しますが、少々根拠が希薄です。


■高祖神社 ※峠。




 次に福岡県田川郡香春町の「香春神社」。「かわらじんじゃ」と読みます。

◎縄文語:「香春」 =「カパ」=「水中の平岩」※金辺川。

■金辺川 ※水中の平岩。


 祭神に「辛国息長大姫大目命」がいます。神功皇后(気長足姫)との関係が議論されていますが、明らかに縄文語地名から名づけられているので、発音で安易に結びつけるのは危険です。
 また、「辛国=韓国」だという説が聞こえてきそうなので、これもきっちり否定しておきます。

◎縄文語:「辛国」=「カ・コッネイ」=「まわる、巻く・谷のところ」 ※曲がっている谷。金辺川。
◎縄文語:「息長」=「オ・ナィ・カ」=「窪んだ・川の・ほとり」

 金辺川は彦山川の支流ですが、彦山川とは逆方向に向きを変えて流れています。つまり、「曲がっている谷」です 。


■香春神社前を流れる金辺川 ※曲がっている谷。




 その金辺川(きべがわ)も縄文語解釈します。

◎縄文語:「金辺(川)」 =「キピ」=「水際にそそりたつ崖」※香春岳。

 これは香春岳を表現しています。岐阜、吉備と同語源です。岐阜は稲葉山、吉備は王子が岳を指したとすれば地勢と完全に一致します。

 ちなみに神功皇后は、

◎縄文語:「気長足(姫)」 =「オ・ナィ・カ・トラィ・ウシ」=「窪んだ・川・のほとりの・湿地・のもの」

 となります。

 また、豊前国風土記には鹿春郷に神功皇后が鏡で祈ったという「鏡山」が登場しますが、筆者はこの「鏡山」を香春岳に比定しています。三ノ岳の別名は「天香山」です。

◎縄文語:「鏡山」 =「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」
◎縄文語:「香久山」=「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」


 いずれも「弓の形の山」の意で、二ノ岳、三ノ岳の山容を表現しています。神功皇后の話は当然デタラメです。もちろん、大和の「天香久山」も、播磨の「香山里」も「弓の形の山」です。各国風土記のウソは徹底していて、編纂者の強いポリシーを感じます。


■鏡山大神社より香春岳二ノ岳、三ノ岳を望む  ※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。


■大和の天香久山 ※弓の形の山。


■播磨国香山里 ※弓の形の山。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「比売許曾神社」について(wikipedia)
【祭神の比売語曽神について、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国の王子の都怒我阿羅斯等が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。このうち、姫島の比売語曽社が当社であり、摂津の比売語曽社は大阪府東成区の比売許曽神社であるとされる。】

×「拍子水温泉」について(wikipedia)
【比売語曽神がお歯黒をつけた後、口をゆすごうとしたが水がなかったので、手拍子を打って祈ったところ、岩の間から湧き出した水が拍子水であると伝えられる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■
 こういったバカバカしい物語を由緒として堂々と読ませられるのが日本の歴史です。しかも、「比売許曾神社」については正史とされる『日本書紀』の内容です。

◎縄文語:「比売語曽(神社)」 =「シプィ・コッ」=「湧き水の・窪地」※大分県姫島。

  隣接の「拍子水温泉」も同類の解釈が可能です。

◎縄文語:「拍子水(温泉)」 =「ピ・メ・チゥェ」=「浜の・泉の・水脈」


■比売語曽神社 ※浜の泉、拍子水温泉のほとり。




 大阪の比売許曾神社は第二百八十六回コラムで取り上げましたが、再掲します。

◎縄文語:「比売許曾(神社)」 =「シプィ・コッ」=「湧き水の・窪地」

 上町台地は湧水が豊富です。

〇「上町台地の湧水」について(天王寺区公式HPより引用)
【上町台地は、生駒山からの伏流水が地下を通り、良質な井戸水に恵まれた地です。大坂の町がたびたび飲料水不足に悩まされていた時代も、豊富な水が人々の生活を救いました。】

 また、比売許曾神社の最寄り駅、隣接地区は「鶴橋」です。

◎縄文語:「鶴橋」 =「チ・パ・ウシ」=「水がしたたる・岬・のところ」 =上町台地

  「赤留比売命神社」も上町台地の湧水を指したものと思われます。

◎縄文語:「赤留比売(命神社)」 =「アカ・ル・シプィ」=「なだらかな尾根の・岬の・湧水」


 結論。似た名称の神社を結びつけて、歴史を解釈するのは、まったく見当違いです。同じ地勢であれば、同じ地名になるのは当然です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[広島県]高諸神社(剣大明神)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高諸神社(剣大明神)」について(『続・瀬戸内の伝説』山陽新聞 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【昔この付近は海だった。ある日、異国の船が浜に流れ着き、庄屋の田盛庄司保邦が船に乗っていた三人の異国人を助けた。この異国人は朝鮮半島での戦いを逃れてきた新羅王たちだった。田盛は近くの高台に王たちの御殿を建てて手厚くもてなした。そのうち王は他界し、この地に葬られた。それから数年して、田盛は王の”まぼろしの声”を聞いた。
「素戔嗚尊は自分のことである。以前、出雲国で大蛇を退治したむくいを受け、異国で生まれかわることになってしまった。というのは、退治した大蛇は新羅王だったからである。しかし日本を忘れることが出来ず、かろうじて日本に帰ってきたところを助けてもらった。お礼に宝剣を授ける。これをまつれば庶民に幸福がこよう」
 その後、田盛は王らが流れ着いたところに剣の形をした珍しい石が光っているのを発見、それをまつるために高諸神社をつくった。】

×「高諸神社(剣大明神)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【私はこれは、「新羅王たち」を助けて「近くの高台に王たちの御殿を建てて」うんぬんとある田盛庄司保邦なるものの祖先伝承から出たものではなかったかと思うが、そこで考えられるのは、さきにみた同じ瀬戸内海沿岸であった呉の亀山神社である。その亀山神社と同じように、高諸神社が福山のこの地に祭られるようになったのも、『古事記』や『日本書紀』などには「新羅の王子」となっている天日槍がその象徴であった新羅系渡来人集団のひろがって来たあとをものがたるものではないか。
 この高諸神社がかつては「剣大明神」といわれ、いまなお「お剣さん」といわれているのは、それら新羅系渡来人の象徴が天日槍という名であることからしてわかるように、かれらが製鉄の技術をもっていたことからきたものだったにちがいない。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■


 また、神社のデタラメ由緒に付き合わされます。上記由緒も、新羅王子天日槍のこじつけ説もまったくの見当違いです。縄文語で解釈すれば即座に解決します。

◎縄文語:「高諸(神社)」 =「トコ・オロ」=「小山・のところ」
◎縄文語:「剣(大明神)」 =「チケ」=「水流、水脈のところ」

「高諸神社」の「小山のところ」は後背の小山、「剣大明神」の「水流、水脈のところ」は境内の池を指します。長々と由緒を創作する必要もありません。

 繰り返しになりますが、神社自体が縄文語の先住民文化を上書きするために渡来系の勢力によって設けられているので、「渡来系神社を発見した」などと言って喧伝するのは、単なるマッチポンプです。当然すべて渡来系の神社です。

 呉の亀山神社については第三百四十三回コラム参照


■本郷川対岸から高諸神社方面を望む ※高諸神社後背に小山。



■高諸神社(東側から) ※境内の池。水流、水脈のところ。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県倉敷市]阿智神社・阿知使主・東漢氏~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「阿智神社」について(『備中のなかの朝鮮』野村増一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【倉敷駅に降り立つと、眼の前が中心繁華街の阿知町である。商店街を曲がりくねっていくと鶴形山にである。山上に阿知神社があって、宗像三神を祭っているが、なかなか立派なお宮である。この神さまははるか西海のかなたから渡ってこられた神さまである。このあたり一帯はむかし阿知郷で、町名神社名郷名もみな渡来人の阿知使主に由来する。
 朝鮮の黄海道あたりからたくさんの技術者をともなって渡来した阿知使主の、その末裔たちがこのあたりの地域開発をおこない、産業をおこし、文化を育てた。そしてこの山上に祖先を祀り、氏神としたのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■
 日本の歴史は根拠のない渡来人物語のオンパレードです。『日本の中の朝鮮文化』では阿智神社の由緒に祭神として「阿知使主」が見当たらないとして、「抹殺された祭神」のタイトルで不可解だという内容のことが書かれていますが、当然です。地名、神社名に「阿知使主」はまったく関係ありません。珍しく神社が正しい。

◎縄文語:「阿智(神社)/阿知(使主)」
=「アゥ・チャ」=「枝分かれたor隣の・岸」
or「アッ・チャ」=「一方の・岸」

 阿知使主は「東漢氏(やまとのあやうじ)」の祖として知られています。また、子は「都加使主」です。阿知使主を祭神とする「於美阿志神社」は「明日香村檜前」にあります。

◎縄文語:「(東)漢氏」 = 「アゥ・ヤ・ウシ」=「枝分かれた・岸・のもの」
◎縄文語:「明日香」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流、水脈の・ほとり」
◎縄文語:「於美阿志(神社)」=「オマン・アッ・チャ」=「奥にある・一方の・岸」
◎縄文語:「檜前」=「ペナ・クマ」=「川上の・横に平べったい山」
◎縄文語:「都加(使主)」=「テュ・カ」=「峰の・ほとり」

 「阿知使主」と「東漢氏」「明日香」はほぼ同義です。つまり、「阿知使主」は「東漢氏」の祖ではなく、実際は同一人物(同一集団)で、一人の人物(集団)を分割して「祖先」を創作した可能性があるということです。日本神話が欠史八代を下敷きにして神々、神祖を生み出したのと同じ方法です。「崇神天皇=神武天皇」です。

 また、複数の名を縄文語解釈できるということは、南方系の人物(集団)である可能性があります。単純に地名から名前をとったという判断ができにくくなります。

  話を岡山に戻します。阿智神社の建つ「鶴形山」は、

◎縄文語:「鶴形(山)」 =「チ・カ・タ」=「水流、水脈・のほとり・の方」

 「鶴形山」の東の麓は「美和」地区。

◎縄文語:「美和」 =「メ・ワ」=「泉の・岸」

 神社の所在地の住所は「本町(ほんまち)」

◎縄文語:「本町」 =「ポン・マーテュ」=「小さな・波打ち際」

 いずれも、「水辺」の地勢となります。つまり、日本中に「水辺」はあるので、「アッチャ=一方の岸」を結びつけて歴史を解釈するのは、見当違いです。


■阿智神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]牛窓・師楽(志楽)・邑久浦~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「牛窓・師楽(志楽)」について(『吉備群書集成』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
師楽(牛窓村)。是、新羅の文字なるべし。古え新羅の人多くおきけるよし、古き書に見えたり。新羅をしらきと訓せし故、しらくと転せしにや。東片岡村に有し義経状に、しらこすしと有も、此所なるべし。みな通韻也。】

×「新羅邑久浦」について(『朝鮮の国名に因める名詞考』今村鞆 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【備前国邑久郡。今の牛窓付近。『続日本紀』天平十五年備前国言う、邑久郡新羅邑久浦に大魚五十二・・・・・・。】

×「牛窓・師楽」について(『牛窓風土物語』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【牛窓の古称は牛転(うしまろび)という。即ち神武天皇が天下を平定して、大和の橿原の宮で即位し給うてより、八百六十年の後、第十四代仲哀天皇の御后、神功皇后が、三韓親征の御時に、この地名が誕生したと伝えられている。<中略>
 師楽は牛窓半島の中部、阿弥陀山東北の麓で、錦海湾に臨む一集落であって、上古新羅人が土着開墾した土地と伝えられている。
 新羅人は欽明天皇の二十三年、持統天皇の元年並に四年、次いで天平五年、天平宝字二年及び四年、貞観十二年及び十五年、霊亀元年及び天平神護二年等、相次いで彼らの移住が行われた。その為に牛窓付近は是等新羅人の根拠地として、開拓経営せられたらしく、古師楽(古新羅)・新羅浦・邑久浦等の地名を遺したのみで、文献の徴すべきものはないが、只ひとつ彼らが土着した証跡として、朝鮮の古代土器と同室の師楽式土器と、その窯跡が発見せられた事は、これを証明する唯一の資料として貴重なものである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「牛窓」 =「ウテュ・マーテュ」=「間の・波打ち際」
◎縄文語:「師楽(志楽)」 =「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「新羅/邑久(浦)」 =「シ・オ(・ケ)/オ」=「山・裾(・のところ)/窪地」
◎縄文語:「しらこすし」 =「シ・オ・コチ・ウシ」=「山・裾の・窪地・のところ」
◎縄文語:「古師楽(古新羅)」 =「コッ・シ・オ・ケ」=「窪地の・山・裾・のところ」


 当然「牛窓」「師楽(志楽)」「邑久浦」の地名と新羅国は無関係です。『日本書紀』『続日本紀』等に書かれる新羅人の移住についても、「山裾」に「新羅」の漢字を充てて物語を創作した可能性があり、鵜呑みにはできません。「高麗=コ・マ=湾曲する谷川 or コ=湾曲する山(丸山)」についても同様です。各地に渡来人物語を扶植するのが古文献の隠された目的でもあります。

 当然「牛転(うしまろび)」などの転訛のはずはなく、神武天皇も神功皇后も無関係です。

 周辺地名に「朝鮮半島」と結びつけられそうな地名があるので、それも縄文語解釈から否定します。

◎縄文語:「幡」 =「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「綾(浦)」 =「アゥ・ヤ」=「隣の・陸岸」

 これも「秦氏」も朝鮮半島南部の「安耶」も関係ありません。

 秦氏が活躍するのは全国の「水辺」、新羅系渡来人が活躍するのは全国の「山裾」、「高麗人」が活躍するのは、全国の「湾曲する川」あるいは「丸山」です。


■牛窓周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 その他。
◎縄文語:「蕪崎」 =「カパ・サン・ケ」=「薄っぺらな・出崎・のところ」
◎縄文語:「沖」 =「オ」=「窪地」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]大廻・小廻・谷尻・熊山・弓削・畑・長船・湯次神社(高家八幡宮)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大廻小廻山城(朝鮮式山城)」について(『毎日新聞/岡山版』1975/8/6~ ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大廻・小廻の山頂と、それらをつなぐ主尾根と西側の観音寺に通じる谷を取り囲んで、一線状にめぐる土塁。最大のところで、高さ三メートル、上面幅二.五メートル、底部幅六メートル。長さは約三.八キロ続く。この土塁に囲まれた山頂、尾根、突端などながめのきく地点では、土塁が二重にされ、望楼や倉庫などが造られていたらしい。・・・・・・
 周囲の遺跡、地形がわかるとともに、その位置のもつ意味の重さが徐々にはっきりしてきた。
 鬼ノ城の場合、眼下一帯に広がる平野に、全長三百五十メートルと日本で四番目に大きい前方後円墳の造山古墳、二百七十メートルで十二番目の作山古墳をはじめ、大小の古墳群がちらばり、備中国府跡、備中国分寺国分尼寺など多くの寺社、遺跡がある。つまり、古代吉備地方の中心地と思われる後背地に、鬼ノ城が造られたわけだ。
 大小の古墳群に囲まれた地、という意味では、小廻山も同じである。近くには、最近、発掘調査の行われた備前国分寺跡があり、北には備前国府跡と伝えられるところもある。二百メートル足らずの山だが山頂からのながめはよく、周囲の動静は手にとるようにわかる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「大廻」 =「オオ・メカ・リ」=「大きな・尾根の・高いところ」
◎縄文語:「小廻」 =「コッ・メカ・リ」=「窪みの・尾根の・高いところ」

 朝鮮式山城の近くに国府や国分寺があってもまったく不思議なことではありません。国府国分寺は六~七世紀に大和王権の実権を握った北方系渡来人による侵略政策の一環です。国府で編纂されたであろう風土記は南方系先住民文化を上書きするためのデタラメが満載です。
 この朝鮮式山城も、その実、先住民対策だった可能性があります。

 造山、作山の両古墳はそれぞれ五世紀前半、五世紀中頃ですが、大規模古墳の時代までは南方系先住民が大和でも地方でも実権を握っていました。それは天皇の諡号、各地の大規模古墳名から読み取れます。

◎縄文語:「造山/作山(古墳)」 =「チケレ・ヤマ」=「削れている・山」 ※山の自然地形を削って造られた古墳。

 全国の大規模古墳は少なくとも六~七世紀まで、つまり大規模古墳の時代を通して縄文語解釈可能です。 地方は国府周辺とその他地域で言語が二重構造(縄文語と上代日本語)だった可能性が高いと言えます。


■大廻山(中央右)と小廻山(中央左) ※大きな尾根の高所、窪みの高所。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「谷尻」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【能登をたずねたとき、そこに谷崎(たんざき)というところがあったが、それを谷崎(たにざき)といわず、地元の人たちはいまなお谷崎(たんざき)といっているのは、古代朝鮮語で谷のことをタン(丹)といったことの名残りではないかと書いたところ、野村さんは自分の住んでいる備前の瀬戸町の近くにも「谷尻(たんじり)というところがある」と教えてくれたものだった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「谷尻」=「タン・シ」=「こちらの・山」
◎縄文語:「谷崎」=「タン・サン・ケ」=「こちらの・出崎・のところ」

 古代朝鮮語由来ではありません。縄文語由来です。「タン」は近隣に同様の地勢があり、かつ小さな方を指して「タン=こちらの」と呼ぶことが多いようです。

 「谷尻」は、上ノ山周辺です。後背の大廻山、小廻山との対比表現となっています。
 珠洲市「谷崎」は、周囲の峰から離れた独立した出崎です。


■谷尻地区の上ノ山と後背の大廻山、小廻山 ※対比表現。


■珠洲市「谷崎」 ※周囲の峰から独立した出崎。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「熊山」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【この熊山のなかにはまだ廃墟とはなっていない熊山神社や、大滝山福生寺などものこっているばかりか、なによりもここには日本では珍しい熊山遺跡といわれる国指定文化財の「石積遺構」がある。いわばこの地方の「聖山」「聖なる山」、それが熊山であった。
 なにも、この山には動物の熊がいたからというので、その名が熊山となったのではない。熊、すなわちコム(熊)とはいわゆる檀君神話以来、朝鮮では「聖なるもの」ということを意味したもので、そのために古代日本では古代朝鮮三国の一国であった高句麗のことをコマ(高麗)といったものであり、あるばあいはそれが朝鮮全体をさす呼称ともなったものであった。】

×「熊山の石積遺構」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「いずれにせよ、これが新羅系のものであることは、だいたいまちがいないじゃないですか」とこんどは、野村さんが横から言った。「というのは、この熊山の麓に弓削というところがあって、そこには(はた)という地名がのこっているんですよ。新羅系の秦氏族がいたということです」
「ああ、そうですか。なるほどね」
「それからまた、この熊山の向こう麓は備前市や長船町となっているところですが、ここにそのものずばり新羅古墳というのがあるそうで、近くわたちたちはそれをみに行くことになっているんですよ」
「そうですか。なるほど」とまた、私は同じことばをくり返した。長船町のその向こうどなりは牛窓町で、さきにたずねたそこも師楽、すなわち新羅だったところであった」】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「熊山」=「クマ・ヤマ」=「横に平べったい・山」

 熊山の地勢を表しています。いわずもがな、朝鮮の檀君神話の「聖なるもの」の意ではありません。熊野神社の「熊野」とほぼ同義です。

◎縄文語:「熊野」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」

 これは、熊野本宮大社、熊野川対岸の地勢を指しています。

 また「熊(動物)=神聖」という思想はなにも朝鮮半島の専売特許ではなく、アイヌにもあるので、倭人も同じ文化を共有していた可能性があります。朝鮮半島南部も縄文語(アイヌ語)圏で同系民族である可能性が高いので、何らかつながりがあったとしても不思議ではありません。


■熊山(吉井川対岸から望む) ※横山。横に平べったい山。


■熊野本宮大社前の山 ※横に平べったい山。



 また、「弓削」も「畑」も秦氏、朝鮮半島の新羅とはまったく関係ありません。秦氏が活躍するところは全国の「水辺」、「新羅」は単に「山裾」の意です。

◎縄文語:「畑」=「ハッタ」=「淵、深く水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「弓削」=「ヤケ」=「岸辺」

 「畑」の隣接地区は「吉原」です。

◎縄文語:「吉原」=「ヤチ・エ・ハー・ラ」=「泥・そこで・水がひいた・低地」

 「長船(おさふね)町」の「新羅古墳」の縄文語解釈は面白いです。「新羅」「長船」ともに「山裾」の意です。

◎縄文語:「新羅」=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「長船」=「オスッ・ぺナ」=「山のふもとの・川上」

 その川下には長船町「土師」の地名。「長船=川上」「土師=川下」で対比表現になっています。

◎縄文語:「土師」=「パン・チャ」=「川下の・岸」

 「長船」と「土師」の間には「服部」の地名も見えます。もちろん「機織り」も「秦氏」も関係ありません。となりの「新庄」も解釈します。

◎縄文語:「服部」=「ハッタ」=「淵、深く水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「新庄」=「シアン・チゥ」=「大きな・水流、水脈」

 縄文語解釈すると、なぜ「秦氏が機織りが得意」という物語が創作されたかが容易に分かります。それはいずれも「ハッタが語源だからです。

 長船町近隣の牛窓町の師楽も単に「山裾」です。『日本の中の朝鮮文化』ではすべて渡来人物語にされています。


■熊山周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「湯次神社」について(『備前のなかの朝鮮』野村増一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【現在は岡山市に入っているが、旧上道郡の幡多村可知村の名は、秦勝部から出ているといわれる。
 神社でいえば、邑久郡長船町(旧国府村)磯上の家高山にある湯次神社は、百済の融通王(弓月の君)を祀る。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「湯次(神社)」=「ヤチ・ケ」=「泥・のところ」

 「湯次神社」の旧名は「家高八幡宮」です。

◎縄文語:「家高/八幡(宮)」=「ヤチ・ケ/ペッチャ」=「泥・のところ/川端」

 上の地図に載せています。もちろん、百済の融通王は関係ありません。日本全国の八幡神社は「川端」にあります。

 日本の歴史の非常に多くの部分で再検証が必要です。なぜなら、下敷きにしている古文献がデタラメの温床、諸悪の根元だからです。通説、俗説含め、神話や渡来人の活躍、移住など、地名人名の漢字表記にこじつけて語られる物語はすべて疑わなければなりません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]韓人・幡多郷・沢田村・円山村・関村・高屋村・藤原村・清水村・赤田村・阿智・漢部・綾部・英田(あいた)・英多・呉服部・錦織・西郡~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「韓人」について(『岡山市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【岡山市域で韓系の帰化人の居たのは、高島地区の賞田である。賞田字茶臼山に横穴式の古墳があって南面に口を開き、その石室内に蓋を失った石棺が残っている。今ではこの石棺が有名になって古墳ごと「石棺」と呼んでいるが、土地の者はこれを韓人(からうと)とよびならわし、あたかもこの古墳の代名詞のようになっている。・・・・・・
 韓人というのは石棺のあるこの横穴古墳だけでなく、おそらくその付近の地名をこのように呼んだのであろう。この地が百済系の帰化人の遺跡であることは、この古墳を韓人と呼び事によっても証拠だてられるし、石棺の制作技術が極めて精巧であることによっても知られる。
 これらの百済人は、おそらく優秀な土木技術の持ち主であったらしい。南方一帯の平野は旭川の沖積によってできた沃野であって、早くから農地がひらけ、大化改新以後条里制が行われたところである。】

×「幡多村・可知村」について
(『備前のなかの朝鮮』野村増一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【現在は岡山市に入っているが、旧上道郡の幡多村可知村の名は、秦勝部から出ているといわれる。】

×「岡山市の秦氏」について
(『岡山市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【岡山市域で秦氏ゆかりの地は旧幡多村である。この地は和名抄にある上道郡幡多郷で、備前地名考に幡多をハタと訓し、古くからこの地名を伝えている。慶長十年備前国高物成帳には「幡多郷沢田村・円山村・関村・高屋村・藤原村・清水村・赤田村」と載っている。幡多郷の範囲はおよそこれらの村々にわたるもので、丸山村を含むから一部操山山塊の南面にまたがるが、大部分は操山山塊の北面にひらけた農業地帯で、沢田と円山村の一部をのぞくほか、古い平野の上にある村々だ。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「韓人(からうと)」 =「カ・ウッ」=「曲がっている・枝川」

 「賞田」は旭川の枝川が屈曲している周辺です。解釈確度を上げるために、周辺地名も縄文語解釈します。

◎縄文語:「賞田」 =「シ・オ・タ」=「山・裾・の方」
◎縄文語:「祇園」 =「キ・オ」=「山・裾」

 「シ・オ=山・裾」には「新羅」「白」「将」「塩」などが充てられます。国府の北方は、「山裾」と呼ばれていることが分かります。

 一方、国府の南には秦氏が活躍したとされる幡多郷の村々があります。比定地操山周辺、主に北方です。

◎縄文語:「幡多(郷)/秦」=「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「可知(村)/勝(部)」=「コッ・チャ」=「窪地の・岸」
◎縄文語:「関(村)」=「サ・ケ」=「浜・のところ」
◎縄文語:「高屋(村)」=「ト・カ・ヤ」=「湖沼・のほとりの・岸」
◎縄文語:「藤原(村)」=「プチ・ハ・ラ」=「川口の・水の引いた・低地」
◎縄文語:「清水(村)」=「シ・メ・チャ」=「大きな・泉の・岸」
◎縄文語:「赤田(村)」=「アケ・チャ」=「一方の・岸」
◎縄文語:「沢田(村)」=「サ・ワ・タ」=「浜の・岸・の方」
◎縄文語:「円山(村)」=「マ・オロ・ヤマ」=「谷水・のところの・山」

 すべて「水辺」の解釈で一致しています。つまり「ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」で、「秦氏」が結びつけられて物語が創作されている可能性があるということです。日本全国に「水辺」があることが、秦氏が全国で活躍する理由です。決して「機織り」でもありません。


■韓人周辺地名と幡多郷旧地名 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、国府周辺で百済系渡来人が活躍するのは当然です。

●「国府」とは、六~七世紀に大和の権力を握った北方系渡来人による日本侵略政策の一環

 だからです。国分寺も同様。背後に朝鮮式山城があっても何も驚く必要はありません。

 記紀風土記は百済王族、高句麗と同じ開音節の特徴を持つ上代日本語で書かれています。新羅、百済庶民を含む、朝鮮半島南部の言語は、閉音節の特徴を持つ縄文語の可能性が高いと言えます。中国漢代の県名(上古音)も縄文語解釈可能で、東夷南蛮、朝鮮半島南部、日本先住民は、縄文語を共有する南方系の同系同族と見做した方が辻褄が合います。これで中国雲南地方の少数民族であるイ族が日本語の一部を理解できるということも納得できます。

 日本、中国、朝鮮半島、いずれも「南方系先住民 VS 北方系侵略者」の対立構図を考慮しなければなりません。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「岡山市の秦人」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【『吉備郡史』によると「秦人の土着地、例えば」として、「秦・葉田・土田(はた)・幡多・半田・畑谷・八鳥・勝部・勝部田・勝間田・勝田(かつまた)・勝田(かつた)・可知・加治・加地」等々があげられ、ついでまた、百済系渡来人とみられている「漢人に因める」ものとしては次のようなところがあげられている。「阿智・上阿智・下阿智・東阿智・西阿智・漢部・綾部・綾部田・英田(あいた)・英多・呉職・呉服部・錦織・西郡」等々。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上記が漢字地名こじつけデタラメ説の典型例です。これが郡史に記載されている通説です。こういった説が日本の歴史をくまなく覆い尽くしています。

 上記、秦氏由来の地名は、縄文語の「秦=ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」「カチ=コッ・チャ=窪地の・岸」で説明がつきます。

 「漢人」の関連地名は以下です。

◎縄文語:「漢(人)」=「アゥ・ヤ」=「枝分かれた、隣の・陸岸」
◎縄文語:「阿智」=「アッ・チャ」=「一方の・岸」
◎縄文語:「英田(あいた)・英多」=「アゥ・タ」=「枝分かれた、隣・の方」
◎縄文語:「呉服部」=「キ・ハッタ」=「山の・淵、水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「錦織/西郡」=「ニセィカ・オロ」=「川岸の崖の上・のところ」

 これらを安易に「秦氏」「漢人」由来としているうちは、真実の歴史には到底たどり着くことができません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]安仁神社・阿知~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「安仁神社」について(『備前のなかの朝鮮』野村増一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【吉備地方の神社で、いちばん古い記録として『続日本紀』承和八年の項に、「備前国邑久郡安仁神、名神を頂く」とあり、延喜式神名帳で名神大に列せられているほど古くから知られ、ひろく住民の尊崇をうけている。
 祭神は五瀬命、相殿神は稲水命、御毛沼命となっており、そのほかにも三十六座の捕神を祭っている。神社名「あに」は、五瀬命が神武天皇の兄であるところから、つけられたものとされている。・・・・・・
 ところがここに、安仁神社は阿知使主を祭るにあらずや、という説がある(吉田東伍『大日本地名辞書』)。そうなると信憑性がでてくる。
 阿知使主は応神朝に、十七県の党類をつれて朝鮮の帯方郡から渡来したといわれ、・・・・・・吉備の地方に土木、水利、紡織、製陶などの技術をたずさえて移り住み、吉備開発の主動力となった多くの渡来氏族の祖ともいうべき人物である。
 したがって、彼らがその祖である阿知使主を祭ったであろうことは、とうぜんうなずけることである。現在の安仁神社のすぐ北に上阿知、下阿知があるが、説によれば、もともとこの阿知郷の氏神として阿知神社があり、それが安仁に転訛したのであろうという。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 安仁神社の祭神は五瀬命、阿知使主のいずれでもありません。

◎縄文語:「安仁/阿知」=「アッ・チャ」=「一方の・岸」

 「阿知」地域と「安仁神社」は、硫黄山によって南北に分けられた谷になっています。つまり、「一方の岸」な訳です。日本国中、川が分岐しているところにはことごとく阿知使主を祭ればいいのではないでしょうか。
 こういう荒唐無稽な説を真顔で通説として語るのが日本の歴史です。


■安仁神社、阿知地区周辺地名の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 以下、縄文語解釈の信憑性を高めるために周辺地名の解釈もご紹介します。いずれも地勢と一致しています。

◎縄文語:「松江/伊津岐(神社)」=「マーテュ・エ/エテュ・ケ」=「波打ち際の・頭/岬・のところ」
◎縄文語:「(東)幸崎」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口・のところ」
◎縄文語:「幸地崎」=「コッチャ・サン・ケ」=「谷の入口の・出崎・のところ」
◎縄文語:「宿毛」=「テュ・モィ」=「小山の・入り江」
◎縄文語:「花屋」=「パナ・ヤ」=「川下の・陸岸」
◎縄文語:「春日(神社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」※高台
◎縄文語:「片岡」=「コッチャ・オ」=「谷の入口の・窪み」
◎縄文語:「妹岡/八幡(宮)」=「シ・オ/ペッチャ」=「山の・窪み/川端」
◎縄文語:「遍明(院〉」=「ペン・メ」=「川上の・泉」
◎縄文語:「(牛窓町)千手」=「(ウテュ・マーテュ)シアン・チゥ」=「(間の・波打ち際)大きな・水流、水脈」
◎縄文語:「辻堂」=「テューテュ・トー」=「出崎の・湖沼」
◎縄文語:「蓮花(寺)」=「レ・ケ」=「山陰・のところ」
◎縄文語:「池田」=「エンコ・タ」=「岬・の方」


第三百四十一回第三百四十二回第三百四十三回第三百四十四回第三百四十五回第三百四十六回第三百四十七回第三百四十八回第三百四十九回第三百五十回/ 】

◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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