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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百二十一回~第三百三十回】

第三百二十一回第三百二十二回第三百二十三回第三百二十四回第三百二十五回第三百二十六回第三百二十七回第三百二十八回第三百二十九回第三百三十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]籠神社・真名井神社・元伊勢・豊受・与謝(余社)郡・天橋立・阿蘇海~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「籠神社」について(『元伊勢宮丹後国一之宮籠神社御由来記』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【大化改新の後、与佐宮を籠宮と改め彦火火出見尊を祭っていたが、元正天皇の御代養老三年に、御本宮を奥宮真名井神社の地から、現今の御本宮の地へ遷し奉り、彦火明命を主祭神とし、天照、豊受両大神を相殿にお祭りし、その後、海神、天水分神も併せ祭られたのである。爾来、千二百数十年、伊勢根本の宮と云い、又別称を与佐宮とも申し、元伊勢の社として朝野の崇敬が篤い。】

×「豊受」について(『伊勢神宮』公式HP)
豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所のみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。】

×「天橋立」について(『風土記』中村啓信 角川ソフィア文庫)
【与謝の郡。郡の役所の東北の隅の方に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。初めの名を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の名を久志の浜と名づけた。そう名付けたわけは、国土をお生みになった大神の伊射奈芸(いざなぎ)命が天に通おうとして梯子を作ってお立てになった。それで、天の椅立と名付けた。伊射奈芸命がおやすみになっている間にその椅が倒れてしまった。それで、伊射奈芸命は霊妙な働きが表れたことを不思議に思われた。それで久志備の浜と名付けた。これを中古の時代には久志といっていた。】

×「阿蘇、与謝の海」について
(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【 阿蘇も与謝ももとはおなじことばで、与謝はまた余社、吉佐、与佐とも書かれたものだった。伊勢や宇佐もそうだが、阿蘇の阿とか余社の余というのは、新井白石も書いているように発語、接頭語であって、これもさきにみた伊都の伊蘇とおなじく、もとはみな天日槍族、すなわち、出石人・出石族がそこから渡来した新羅の元号ソということであった。】

×「余社郡」について(『日鮮同祖論』金沢庄三郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【 余社は和名抄丹後ノ国与謝ノ郡の地で、雄略天皇二十二年紀には丹波の国余社ノ郡とある。丹波国の五郡を割いて始めて丹後国を置いたのは和銅六年で、それより以前は丹波国であった。丹後ノ国与謝ノ郡の天梯立は伊射奈芸ノ命が天に通わんために作り立てたまいしものの仆れたので、その東ノ海を与謝、西ノ海を阿蘇というと、風土記に見え、又、天照大神を但波吉佐宮に四年間斎き奉ったこともあり(倭姫世紀)、往古は由ある土地と見えて、ヨサ・アソの名はまた民族名ソと通ずるところがある。
 以上、阿蘇・伊蘇・伊勢・宇佐・余佐などはいずれも我民族移動史の上に重要なる地位を占めている土地であって、しかも民族名ソ及び其類語を名としていることは、最も注目に価する事実といわねばならぬ。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 記紀、風土記、神社仏閣由緒などで語られる日本の黎明期の歴史はデタラメオンパレードです。それもこれも、それらが六~七世紀にヤマト王権を簒奪した北方系渡来人の出自を正当化するために語られている創作物語だからです。
 天橋立、元伊勢である籠神社周辺の物語も例外ではありません。南方系先住民、倭人の言語である縄文語(アイヌ語)解釈と地勢の一致を見れば一目瞭然です。


■籠神社、天橋立周辺地名の縄文語解釈 ※同色は類似解釈または対比関係。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 まず、豊受神は決して穀物神ではありません。「ウケ≠食物」です。

◎縄文語:「豊受」 =「トヤ・ウカゥェ」=「海岸の・石が折り重なったところ」

 豊受が伊勢に移った物語が創作されたのは、伊勢と与謝郡が同じ地勢、同じ地名でこじつけられたからです。

◎縄文語:「与謝/余佐」 =「イェ・チャ(orサ)」=「石、岩の・岸(or浜)」
◎縄文語:「元伊勢/伊蘇」=「モ・オタ・イソ」=「小さな・砂浜の・水中の水かぶり岩」


 伊勢神宮に習合される太一信仰も北極星とは何ら関係ありません。「石の岬」の意です。伊勢志摩の「志摩」も同様です。

◎縄文語:「太一」=「タ・エテュ」=「石の・岬」
◎縄文語:「志摩」=「スマ」=「石、岩」


 wikipedia記載の「与謝郡」の命名由来も漢字表記こじつけ説で信用なりません。

【地名としてのよさは雄略天皇22年に「餘社郡」で初見される。入江の見られる郡域において、湾での「よせあみ」(寄網)漁法が「よさみ」、そして「よさ」へ転訛したものである。】 (wikipedia)


■京都府与謝郡(天橋立北部の海岸) ※石の岸。石の浜。



■伊勢 ※水中の水かぶり岩。「太一信仰」は「タ・エテュ=石の・岬」。



 周辺地名を見ると、豊受以外にも類似解釈、対比表現が豊富に見られます。
 まずは類似解釈。
 籠神社周辺は「(小さな)川の岬」の意で一致しています。

◎縄文語:「籠(神社)」=「コッ・ノッ」=「谷の・岬」
◎縄文語:「真名井(神社)」=「モ・ナィ」=「小さな川」
◎縄文語:「難波野」=「ナィポ・ノッ」=「小さな川の・岬」
◎縄文語:「中野」=「ナィ・カ・ノッ」=「川・岸の・岬」

 籠神社西方の「小松」「溝尻」は「窪地、泉の岸」で一致しています。

◎縄文語:「小松」=「コッ・マーテュ」=「窪地、谷の・波打ち際」
◎縄文語:「溝尻」=「メ・チャ・シリ」=「泉の・岸の・山」

 また、風土記の神話に登場する天橋立は「久志」と呼ばれていますが、これは「阿蘇海」とまったくの同義で、よくある言い換え表現となっています。

◎縄文語:「阿蘇(海)」=「アッチャ」=「対岸、向こう岸」
◎縄文語:「久志」=「ク」=「対岸、向こう岸」

 野田川の扇状地、あるいは阿蘇海や宮津湾から見て対岸を指したものと思われます。決して風土記にあるような「霊妙な働き」を指している訳ではありません。


■阿蘇海 ※対岸、向こう岸。



 風土記にある天橋立の「イザナギ云々」も言うまでもなくデタラメです。

◎縄文語:「天橋立」=「ア・ノッ・ペチャ・タ・タィ」=「横たわっている・岬・波打ち際・にある・林」


■天橋立 ※横たわっている岬の波打ち際にある林。



 次に対比表現を見てみます。
 まずは、 阿蘇海北岸の東西の山。

◎縄文語:「江尻」=「エ・シリ」=「頭の・山」
◎縄文語:「男山」=「オントケ・ヤマ」=「尻の・山」


 海側を「頭」、内陸を「尻」と表現しています。

 次に宮津湾の東西の山。アイヌ語に現れる典型的な対比表現です。

◎縄文語:「文珠」=「モ・シ」=「小さな・山」
◎縄文語:「獅子」=「シ・シ」=「大きな・山」

 いずれも、漢字表記こじつけ説がまったくのデタラメであることが分かります。新羅の民族名ソも天日槍も出石人も地名由来には関係ありません。
 他、宇佐も同様です。阿蘇海と同名の熊本阿蘇山は別の解釈です。

◎縄文語:「宇佐」=「ウ・ヤ」=「湾の・陸岸」
◎縄文語:「阿蘇(山)」 =「アソ」=「切り立った崖」


■宇佐八幡宮 ※湾の岸辺。「八幡」は「ペッチャ=川端」の意。つまり「宇佐八幡」とは「湾の岸辺の川端」にある神社。 宇佐に八幡大神がいるとすれば、「湾の岸辺の川端」の自然崇拝です。決して応神天皇ではありません。


■阿蘇山(熊本県) ※切り立った崖。カルデラ。「肥国」の「ピ=石ころ」は、阿蘇山のカルデラ周辺に散らばる石や岩のことです。 ⇒google 検索(阿蘇山 石岩)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]天日槍・城崎温泉・四所神社・但馬・出石・熊野・新羅大明神・竹野・天日槍の神宝(羽太の玉/足高の玉/鵜鹿鹿の赤石の玉/出石の小刀/出石の桙/日鏡/熊の神籬)・天日槍を祀る神社(出石神社/御出石神社/諸杉神社/日出神社/須義神社/中島神社/比遅神社/多麻良伎神社/葦田神社/鷹貫神社/耳井神社/伊伎佐神社/須流神社/大与比神社/杜内神社)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「いずしびと 出石人」について(『神話伝説辞典』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
新羅の王子とされる天之日矛(天日槍)を始祖とし、但馬、播磨、淡路(いずれも兵庫県)、近江(滋賀県)、若狭(福井県)、摂津(大阪府)、筑前(福岡県)、豊前(大分県)、肥前(長崎県)等にわたり、広大な分布を持っていた大陸系の種族。記紀や風土記には、天の日矛ないしその妻の女神(アカルヒメ)の巡歴伝説ないし鎮座伝説として語られる。この族人に田道間守(たじまもり)、清彦、神功皇后の母君などがある。したがってそれらの話は、彼らの伝えたものと考えられる。】

×「城崎温泉四所神社」について(『城崎語りぐさ/但馬五社と四所神社の縁起』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【奈良時代、元明天皇元年(七〇七年)この地、大谿に住んでいた日生下(ひうげ)権守という者がありました。
 ある日のこと、霊夢に、四人の衣冠束帯の白髪の老人が現れて、権守につげて言いますには、「私は、出石明神の眷属である。この地にとどまり永く人々を利し、守って上げよう」と言って姿が消えました。
 権守は目覚めるやこの不思議を人々に告げ、里人と相談して社祠を建ててまつり、「四所大明神」と称して崇め奉りました。<中略>
 ある説では、湯所明神で、「四所」は湯所の転訛ともいわれる。
 日生下氏古文書の冒頭に、「日生下は、新羅、天日槍太子の後なり。太子、渤海を越えて此の大谿に入る・・・・・・」とある。新羅とは、今の韓国。渤海とは、日本海。大谿とは、今の湯島区。
 眷属神とは、出石神社という大きい神格の一族の神々をさす。】

×「伊都国」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【『三国志・魏志・東夷伝』「倭人」状で有名な筑前(福岡県)の伊都国が新羅の元号から出た伊蘇国、すなわちソの国であり、その伊都県主が天日槍の子孫である<後略>】

×「熊野郡」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【但馬に直接続いている熊野郡(現京丹後市久美浜町)の熊野ということにしても、これは天日槍が新羅のそこからもたらしたものといわれる「熊神籬(くまのひもろぎ)」から出たものではなかったかと思う。
 それはともかくとしても、出石人・出石族ともいわれる天日槍族が熊野から竹野地方にまでひろがっていたであろうことは、いまなおその弥栄町の溝谷に、彼らがそこから渡来した新羅の新羅大明神が祭られていることからでも明らかである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map
◎縄文語:「城崎(温泉)」=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」
◎縄文語:「四所(神社)」 =「シ・チゥ」=「大きな・水脈」 =城崎温泉

 天日槍が活躍する垂仁天皇のあたりは、記紀が邪馬台国の卑弥呼を継いだ台与の事績を隠蔽している時期にあたります。その周辺には六~七世紀にヤマト王権を簒奪した北方系渡来人や、その取り巻きである渡来人の出自を飾るための創作物語がふんだんに盛り込まれています。

 ほぼすべての神社の由緒も同じ目的で語られているので、祀られている神もまったくのデタラメです。上記四所神社の由緒も、漢字表記にこじつけた適当な神が捏造されているだけで、縄文語解釈のかけらも見当たりません。繰り返しになりますが、日本の黎明期の歴史に無数に存在する漢字表記にこじつけた説はすべてデタラメです。

 言うまでもなく、天日槍の物語もそれに該当し、それら語られる物語が史実かどうかはまったく不明です。各国風土記の地名由来潭などを見るに、ことごとくデタラメであっても不思議ではありません。

 「但馬国」は「天日槍」と相性のよい縄文語解釈が可能です。但馬国は温泉が豊富です。

◎縄文語:「但馬」=「タン・チー・マ」=「こちらの・煮えている・谷水、谷川」=城崎温泉?

 そして、これまで何度も登場していますが、「新羅」は「シロケ(orシ・オ・ケ」)=山裾(or山・裾・のところ)」の意で、日本全国に存在するありきたりな地勢です。「出石」が「山裾」であるのはもちろん、新羅大明神を祭る「弥栄町の溝谷神社」も「山裾」にあります。これら日本全国の「山裾」の地勢を「新羅」と結びつけて日本の歴史を捏造されてはたまったものではありません。「山裾」の地名由来に新羅系渡来人はまったく関係ありません。

 天日槍の場合もしかり。縄文語解釈によると、天日槍の出身地の「新羅国」は単に「但馬の山裾」だった可能性が高いと言えます。その名前からも城崎温泉の地勢しか読み取ることができません。日本書紀の一書にあるスサノオの出身地の「新羅」も同様です。


■溝谷神社(’京都府京丹後市弥栄町溝谷)※山裾。



 但馬国にはほかにも天日槍を祀る神社があります。それらもすべて山裾にあります。但馬国は山峡なので当然なのですが、だからこそ「山裾」の地勢が結びつけられて天日槍が広範囲に活躍する訳です。


■天日槍を祀る神社(伊豆志坐神社八座/出石神社/御出石神社/諸杉神社/日出神社/須義神社/中島神社/比遅神社/多麻良伎神社/葦田神社/鷹貫神社/耳井神社/伊伎佐神社/須流神社/大与比神社/杜内神社)※すべて山裾の地勢。 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




 天日槍は伊都国とも結びつけられています。「出石」と「伊都国」の発音が似ているからでしょうか。伊都国も山裾です。

◎縄文語:「出石」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」
◎縄文語:「伊都(国)」=「エテュ」=「岬」

 「出石」と「伊都国」はともに「岬」を指しています。「伊豆」も同様です。「越」の語源も「コシ」ではなく、「エテュ=岬(能登半島)」と捉える方が地勢との辻褄が合います。「六甲山」と「武庫」も通説と本来の地勢の由来が逆順になっています。

◎縄文語:「六甲(山)」=「ルッケイ」=「崩れているところ」※六甲山の地勢


 「熊神籬」と結びつけられている但馬の「熊野」地方ですが、これも縄文語解釈すると、その謎は簡単に解けます。

◎縄文語:「熊野」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」
◎縄文語:「熊神籬」=「クマ・ノッ・フ・オケ」=「横に平べったい・岬の・断片の・ところ」


 「横に平べったい岬」などという地勢はどこにでもあるので、いたるところに「熊野」という地名があるはずです。熊野本宮大社の熊野川対岸にも「横に平べったい山」があります。


■旧熊野郡(現京丹後市久美浜町)※横に平べったい山。


■熊野本宮大社前の山 ※横に平べったい山。



 熊野地方の地勢とも一致する熊神籬の解釈ですが、総合的に考えるとこれは円山川の玄武洞のある赤石地区の地勢を表しているとするのが妥当です。

 以下、天日槍の神宝の縄文語解釈です。玄武洞周辺出石の地勢で完結します。

◎縄文語:「羽太(玉)」 =「パン・ピ・テュ」=「川下の・石の・岬」 =玄武洞
◎縄文語:「足高(玉)」 =「ア・タ・カ」=「立っている・石・のほとり」
=玄武洞のほとり。
◎縄文語:「鵜鹿鹿赤石(玉)」 =「ウカゥ・カ/アカ・ウシ」=「石が折り重なっているところ・のほとり/なだらかな尾根・のところ」=玄武洞のほとり/玄武洞のある赤石地区の山。
◎縄文語:「日鏡」 =「ピ・ノッ/カッ・ク・ムィェ」=「石の・岬/形が・弓の・頂」=玄武洞/玄武洞のある赤石地区の山。
◎縄文語:「熊神籬」=「クマ・ノッ・フ・オケ」=「横に平べったい・岬の・断片の・ところ」=玄武洞のある赤石地区の山。
◎縄文語:「胆狭浅(大刀)」=「エテュ・サ」=「岬の・浜」=玄武洞のある赤石地区の浜。縄文時代、豊岡盆地は湖沼だった。

◎縄文語:「出石(小刀)」 =「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」
◎縄文語:「出石(桙)」 =「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」

 「羽太の玉」「足高の玉」「鵜鹿鹿の赤石の玉」「日鏡」「熊の神籬」「胆狭浅大刀」はいずれも丸山川沿いの玄武洞周辺の地勢を表現しています。
 「胆狭浅大刀」が気比神宮に祀られる「伊奢沙別命」と発音が似ているので関連があるかのような説がありますが、単に地勢が似ているだけです。「岬の浜」。両地方に共通する地勢です。こういうものを短絡的に結びつけるとデタラメ歴史が出来上がります。

 出石の「岬のところ」は山に囲まれた盆地ですから、説明の必要はありません。


■玄武洞 ※川下の石の岬。立っている石。石が折り重なっているところ。


■玄武洞のある赤石地区の峰 ※なだらかな尾根の山。横に平べったい岬の断片。弓の形の山。岬の浜。



 神宝の日鏡の解釈にみられる「カッ・ク=形が・弓」の山は日本全国で見られます。天日槍が遍歴した地の一つとされる近江国の吾名邑にも天日槍を奉斎する「鏡神社」「鏡山」があります。もちろんこれも山裾です。


■近江国吾名邑の鏡山 ※弓の形の山。 山裾。


 以下、各地の「カッ・ク=形が・弓」の山。風土記のデタラメ内容も併せてご覧ください。

■香久山/香具山(大和国)※弓の形の山。
<伊予国風土記逸文>(『日本書紀纂疏』) 「風土記によると、天上に山があったという。分かれて地に落ち、一つは伊予国の天山となり、もう一つは大和国の香具山となった。」
<阿波国風土記逸文>(『万葉集註釈』) 「阿波国風土記の場合は、空から天降ってきた山の大きな方は、阿波国に降ったアマノモト山という。その山が砕けて、大和国に降り着いた山を天香具山というと書いてある。」


■香山(かぐやま)里(播磨国)(兵庫県たつの市新宮町香山)※弓の形の山。
<播磨国風土記>「本の名は、鹿来墓(かぐはか)である。<中略>伊和大神が国占めした時、鹿が来て山の峰に立った。山の峰も墓に似ていた。だから、鹿来墓と名づけた。その後、道守臣(ちもりのおみ)が宰(みこともち)だった時になって、名を改めて香山とした。」

■鏡山(豊前国)(香春岳/福岡県田川郡香春町)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
<豊前国風土記逸文>(『万葉集註釈』)「豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)が この山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。【天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え】と仰った。すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という。」

■鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・サン・ケ」=「形が・弓の・頂の・出崎の・ところ」
<豊後国風土記>「景行天皇が、この坂の上に上り、国の形をご覧になり、【この国の形は鏡の面に似ている】と言った。よって鏡坂という。」
■鏡渡(鏡山)(肥前国)(佐賀県唐津市鏡山)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ・ウン・ワッタ」=「形が・弓の・頂・が(orに)ある・淵」
<肥前国風土記>「昔、宣化天皇の世、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)連を遣わして、任那国を鎮め、また、百済国を救った。大伴狭手彦は命を受けてやって来て、この村に到った。篠原村の弟日女子(おとひめこ)と妻問婚した。日下部君らの祖である。弟日女子はとても容貌が美しい女性であった。狭手彦は別れる日に弟日女子に鏡を与えた。弟日女子は悲しみ泣きながら栗川を渡ったが、そのとき、鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。よって鏡渡と名付けられた。」
■隠れ里の稲荷(鎌倉)(神奈川県鎌倉市佐助)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ネ・テューテュ」=「形が・弓・である・岬」
<佐助稲荷神社由緒>「伊豆の北条政子のもとで病に臥していた源頼朝の夢枕に【かくれ里の稲荷】という翁が立ち、平家討伐の挙兵を促した」

■各務(原)(岐阜県)※弓の形の山。
◎縄文語: 「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」

・鏡山(広島県東広島市)※鏡山には大内氏の鏡山城跡があります。 ⇒google ストリートビュー
・加賀美(旧加々美荘/山梨県) ⇒google ストリートビュー
・鶴来ヶ丘(常陸国)(茨城県鹿嶋市緑ヶ丘)=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
鏡坂(豊後国)(大分県日田市上野)※弓の形の山。 ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
・鏡塚古墳(石清尾山古墳群)(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳) ※弓の形の山に築かれた古墳。⇒googleストリートビュー
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)※弓の形の山に築かれた古墳。 ⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)⇒googleストリートビュー


 「竹野」も解釈してみます。岩の岬の地勢と完全に一致しています。

◎縄文語:「竹野」=「タ・ノッ」=「石の・岬」


■竹野町竹野(庫県豊岡市) ※石の岬。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]韓国神社・飯谷・楽々浦~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「韓国神社」について(『城崎のいしぶみ(碑)をたずねて/韓国神社の縁起』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
韓国神社の祭神は外来神ではないが、日韓交通によって武烈天皇(五〇〇年頃)の御代、物部真鳥命が天皇の勅を奉じて韓国に使し、その任務を終えて帰航の途次、この多遅麻国三島水門戸島楽々浦(ささうら)付近の呼称)に着し、後に都に上り使命を復奏し、天皇はその功を賞して姓として韓国連を賜い物部韓国連命という。
 その子渚鳥命は欽明天皇(五四〇年頃)の御代、城崎郡司となり、大いに土工を起し、墾谷を開墾して、その名を墾磨命と改名し、墾谷といい、飯谷の地名の起りをなす。<韓国神社は>飯谷開拓の祖神として鎮祭されたのである。】

×「韓国神社・飯谷」について(『帰化人と社寺』今井啓一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【いまは城崎町(現豊岡市)に入っている旧内川村大字飯谷に・・・・・・鎮座する旧村社韓国神社は物部韓国連真鳥命・同墾磨命を祀り、また物部神社・宸旦国明神とも称し、天武白鳳三年、前記した城崎郡司物部韓国連久久比がその祖神を祀ったものという。飯谷の地名はもと針谷ともしるし、その祖が韓国に使いし帰途この地に立寄って開墾したので墾谷といったのが転訛したという。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■


◎縄文語:「楽々浦」 =「サ・サン・ウン・ラ」=「浜の・出崎・にある・低地」
◎縄文語:「水門」 =「メナ・ト」=「たまり水の・湖沼」
◎縄文語:「三島」 =「メ・スマ」=「泉の・石、岩」
◎縄文語:「戸島」 =「ト・スマ」=「湖沼の・石、岩」

◎縄文語:「韓国(神社)」 =「カ・コッネイ」=「曲がっている・窪地」
◎縄文語:「宸旦国(明神)」 =「シアン・タン・コッネイ」=「大きな・こちらの・窪地」
◎縄文語:「飯谷」 =「パン・ティネイ」=「川下の・湿地」

◎縄文語:「墾磨」 =「パラ・マ」=「広い・谷水」
◎縄文語:「墾谷/針谷」 =「パラ・ティネイ」=「広い・湿地」

 すべて「楽々浦」周辺の言い換え表現です。すべて「楽々浦」を指したのかもしれません。地勢を見れば一目瞭然。日本の歴史が徹底的にデタラメで上書きされているのが分かります。


■楽々浦周辺の地名 ※すべて楽々浦(周辺)の地勢の言い換え表現。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



●浮島弁天(現地案内看板)
【楽々浦湾中央部の楽々浦岩に松のこんもりと茂る小島があります。湖面に大きな石鳥居が立っているのでお社である事がわかります。村人の話では、どんな大水でもこの島が浸ったという事がないそうです。そのことから「浮島弁天」と呼ばれています。】


■楽々浦の東岸の岩の岸




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]中嶋神社・安美(穴美)郷・安良・三宅・天日槍・出石神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「中嶋神社」について(wikipedia)
【田道間守命を主祭神とし、天湯河棚神を配祀する。
 田道間守命は天日槍命の5世の子孫で、『日本書紀』に記される垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のこと)を持ち返ったとされる人物である。橘(みかん等 柑橘類の原種)は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として、また柑橘の祖神としても崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされる。<中略>
 『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。<後略>】

×「安美・穴美郷」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(穴太とは)のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家であった安羅、安耶・安那(阿那)ともいったことからきたものであるが、さきにもいったように、これは新羅系渡来人のいたところによくみられるそれである。
 たとえばさきにみた但馬でも、私はめんどくさいのでいちいちふれなかったが、「菓祖」中嶋神社のあるところはかつての安美(あみ)、穴美(あなみ)郷であった。この安美、穴美にしても同様で、それは近くに安良(あら)というところがあったことからもわかる。】

×「但馬三宅連」について(『天日槍/但馬国における天日槍族の奉斎者をめぐって』今井啓一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【但馬国出石郡のこの地に帝室の屯倉が置かれたという記録は見えないけれども、すでに田道間守系に三宅連があり、奈良県大和国磯城郡(旧式下郡)には三宅村の遺称あり、その大字に上但馬・東但馬・西但馬が現にあって、その地域は万葉集十三に三宅原・三宅路、和名抄に三宅郷とする辺とすべく、仁徳即位前紀によると倭屯田及び屯倉は垂仁御宇に定められたと見える。恐らく田道間守系の者が大和国へ移り、天皇直轄領である倭屯倉のことを掌ったので屯倉連の称があり、然もその本貫地は但馬国であったので、いまに大和国の三宅村に但馬の遺称があるとすべきか。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「中嶋(神社)」 =「ナィ・カ・マ」=「川・上の・谷水」
◎縄文語:「三宅」 =「メ・ヤケ」=「泉の・岸辺」

◎縄文語:「穴見(川)/穴美(郷)」 =「アゥ・ナ・メ」=「枝分かれた・方の・泉」
◎縄文語:「安美」 =「アゥ・メ」=「枝分かれた・泉」
◎縄文語:「安良」 =「アゥ・ラ」=「枝分かれた・低地」

◎縄文語:「三開山」 =「メ・ラケ・サン」=「泉の・低地の・出崎」
◎縄文語:「鉢山」 =「ポッチェ・ヤマ」=「ぬかるんだ・山」

◎縄文語:「香住」 =「カ・メ」=「上の・泉」
◎縄文語:「神美」 =「カン・メ・ヤチ」=「上にある・泉の・泥」

 中嶋神社がなぜ「菓子」の神様かの答えが縄文語解釈にあります。神社名に「カ=上」の意が含まれているからです。中嶋神社一帯は「低地」「湿地」「泉」の解釈で一致しているので、かつては湿地帯だったことが分かります。
 もちろん、地名由来に朝鮮半島南部の国はまったく関係ありません。朝鮮半島南部と日本に同じ地名があるのは、朝鮮半島南部も倭人と言語を共有する同系同族の南方系民族だったからです。同じ地勢を同じ地名で呼んだだけです。

 近くにある「安良」とは南方数百メートルにある「出石町安良」のことでしょうか。こちらは「あら」ではなく「やすら」と読みます。ついでに近隣地名も縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「安良」 =「ヤチ・ラ」=「泥の・低地」
◎縄文語:「長谷」 =「ポッチェ・イ」=「ぬかるんだ・ところ」
◎縄文語:「倉見」 =「キ・メ」=「山の・泉」

 これも周辺の地勢を表しています。 地名由来に朝鮮半島は関係ありません。


■中嶋神社周辺の地名 ※「低地」「湿地」「泉」の解釈で一致。同色は類似解釈。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 奈良の「但馬」はおそらく

◎縄文語:「但馬」 =「タンチャ・パ」=「こちら岸の・岬」

 の意かと思われます。なぜなら、曽我川を挟んで西に接する地区に「的場」「大場」があり、

◎縄文語:「的場」 =「マーテュ・パ」=「波打ち際の・岬」
◎縄文語:「大場」 =「オオ・パ」=「大きな・岬」

 と解釈できるからです。
 奈良の「三宅」は疑いなく「池沼」があるからで、三宅町の中央部には「伴堂(ともんど)」の地名があります。

◎縄文語:「伴堂」=「トマ・ト」=「湿地の・湖沼」

 さらに三宅町の南に接して「富本(とんもと)」「松本」の地名があります。

◎縄文語:「富本」=「ト・ウン・モ・オタ」=「湖沼・にある・小さな・砂浜」
◎縄文語:「松本」=「マーテュ・モ・オタ」=「波打ち際の・小さな・砂浜」

 「三宅」は但馬国と同じ解釈です。


■奈良県磯城郡三宅町但馬周辺地名 ※奈良の「但馬」は「こちら岸の岬」の意。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 いわゆる「但馬国」の場合は、温泉が多い地勢を考慮すると、

◎縄文語:「但馬」 =「タン・チー・マ」=「こちらの・煮えている・谷水」

 とするのが妥当です。

 このように、縄文語に似ている音を持つ漢字を無分別に充てているので、同じ地名であってもその解釈に整合性がとれない場合が多々見受けられます。やはり、地勢と周辺地名で整合性がとれる解釈を採用すべきだと考えます。このような状態なので、なおさら、点在する同じ地名を結びつけて歴史を語るのは極めてリスクの大きい行為だと思われます。

 今回の場合は、大和の但馬と但馬国は高確率で関係はありません。

 天日槍も

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map

 の意で、

◎縄文語:「出石」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」
◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 の地勢を表現しているだけで、おそらくは朝鮮半島の新羅国とは何ら関係ありません。

 記紀風土記、神社の由緒はこうした表記の一致を利用して渡来人の活躍を大げさに喧伝しています。天日槍が方々で活躍するのは「新羅=山裾」の地勢が日本に無数にあり、それらを結びつけて物語を創作しているからです。

 高麗も「コ・マ=湾曲する・谷川」または「コ=丸山」、百済は「クッチャ=湾や湖沼の入口」の意で、これらも渡来人との関係をことごとく疑わなければなりません。それだけ徹底して先住民の文化が上書きされているということです。

 繰り返しで恐縮ですが、朝鮮半島南部は、おそらくは新羅も含め、倭人と縄文語を共有する同系、同族です。日本の先住民でもあり、朝鮮半島の先住民でもあるのです。現代の日本と韓国のどちらかが主導権を握るという話ではありません。日本も朝鮮半島も、そして中国も、南方系先住民が北方系遊牧民の侵略を受けたので歴史の解釈がややこしくなっているのです。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]穴太、穴村ほか、アナオ・アナホ~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「穴太」について(『地名からみた尼崎地域』落合重信 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【旧園田村穴太(あのう)集落も、また古代氏族に関係するものではないかということについて述べてみたい。
 一般に、穴太の名は、近世における築城にさいしての石垣づくりの穴太衆が知られている。しかし、旧園田村穴太集落は、猪名川と藻川の間の中州地帯にあって、その付近から石を産するというようなところではない。あるいは、石の切出しをするものと、石を細工する石工とは別だというから、猪名川の上流に石の産地があって、そこから運ばれていたということも考えられるが、そういうことも聞かないのである。近世築城に当たった近江国穴太を本拠とする穴太衆(役)は、多くの藩で侍分として抱えられてはいるが、それらが穴太集落をつくった例というものはかつてない(城の石垣の研究家北川氏による)。
 また、旧園田村穴太集落は、慶長六年(一六〇一)すでに旗本柘植氏の支配地としてあらわれているから、いわゆる穴太衆の流れではないようである。しかし、「穴太」と記されている以上、穴太氏との何等かの関係を考えないわけにはいかない。起源はもう少し古いようである。現在知られている穴太という名の集落に、次のようなものがあるが、いずれも古い伝承を持っている。
(1)滋賀県蒲生郡穴村(現 草津市穴村町
(2)京都府桑田郡亀岡町穴太(現 亀岡市曽我部町穴太
(3)奈良県宇智郡穴生(現 五條市南阿太町
(4)三重県員弁郡東員町穴太
(5)大阪府若江郡穴太村(現 八尾市穴太
 (1)は説話として天日槍が難波から近江に入ったときはじめてとどまったといわれる村であり、(2)はその地にある穴太寺は聖武天皇勅願の寺伝を持っており、(3)は太平記に出てくる賀名生(あのう)がこの地のことであり、(4)は伊勢国壱師の祖が穴太足尼だといわれていることに関係がありそうである。旧園田村穴太集落もそういう系列の部と考えられる。
 穴太を安康天皇の名代である穴穂部から出たものとする説がある(大田亮『姓氏家系大辞典』等)。その間多少通ずるものがあるにしても、穴穂、孔王が名代であるのに対して、穴太は多少ちがって考えなければならないのではないかと思われる。安康天皇が穴穂皇子といわれたのは、名代以前に穴穂なる名称があったことを示すものであって、私はそれを皇子がアナホ・アナオの氏人によって養育されたから名付けられたものと解する。そのアナホ・アナオ氏とはいかなる氏族であったかというときに、近江国滋賀郡・蒲生郡・坂田郡等々に繁栄した穴太氏があげられる。これらは新羅の五畿停の一つ安羅停(任那から新羅に貴族)からの帰化人のすえだとされているものである(天日槍が最初にとどまったと伝えられる滋賀県蒲生郡穴村には、安羅神社があり、丸い石十数個を神体としている)。アラがどうしてアナオアナホになるのかよくわからないが、穴と穴太・穴穂とは通ずるもののようである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「アナ」=「アゥ・ナ」=「枝分かれた(隣)の・方」
◎縄文語:「アナオ」=「アゥ・ナ・オ」=「枝分かれた(隣)の・方の・尻(山裾)」
◎縄文語:「アナ・ホ」=「アゥ・ナ・ホ」=「枝分かれた(隣)の・方の・尻(岸辺)」
◎縄文語:「アラ」
=「ア」=「一方の、片割れの」
or「アゥ・ラ」=「枝分かれた(隣)の・低地」


 真偽不明の古文献を頼りにするよりも、縄文語解釈と地勢を見れば問題は簡単に解決します。 朝鮮半島南部のアラも縄文語地名です。
 「アナオ」「アナホ」に含まれる「オ」も「ホ」も「尻」の意ですが、「オ」は「山裾」、「ホ」は「岸辺」を指すことが多いようです。厳密な区別はないかもしれません。


■旧園田村(尼崎市) ※枝分かれた川岸。


 この園田村は藻川と猪名川の大きな中州です。 藻川の南部、両岸には白井神社があります。

◎縄文語:「園田」=「シアン・オタ」=「大きな・砂浜」
◎縄文語:「白井」=「シ・エ」=「大地の・頭」 
※藻川と猪名川の中州(園田)の頭。

 縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。
 『日本の中の朝鮮文化』には「白井」が「新羅国」由来だとの記載がありますが、そんなことはありません。ただし、白井神社は渡来系です。なぜなら、ほぼすべての神社が渡来人の出自を正当化するために創作した神を祀り、その由緒を語っているからです。神社は先住民文化を上書きするために生まれています。


■近江国穴太 ※隣の岸辺(琵琶湖の岸辺)。



 他地域の「アナオ」「アナホ」も見てみます。
 「(5)大阪府若江郡穴太村(現 八尾市穴太)」は開発で地勢が不明なので捕捉します。まず、所在地の「八尾市」からして、

◎縄文語:「八尾(市)」=「ヤ・オ」=「陸岸の・尻」

 の意です。さらに隣接する「宮町」「佐堂町」「美園町」を解釈します。

◎縄文語:「宮(町)」=「メ・ヤ」=「泉の・陸岸」
◎縄文語:「佐堂(町)」=「サン・トー」=「前にある・湖沼」
◎縄文語:「美園(町)」=「メ・サン・オ」=「泉の・出崎の・尻」

 いずれも湖沼の岸辺を指しています。「アゥ・ナ・ホ=枝分かれた(隣)の・方の・末端(岸辺)」の解釈と完全に一致します。
 そして、この地は聖徳太子の生母、用明天皇皇后穴穂部間人の生地です。

◎縄文語:「間人」=「ハ・ペト」=「枝(川)の・川口」

 これも非常に相性のよい解釈です。
 ちなみに天皇諡号の縄文語解釈が不可能になるのは、蘇我氏本家が滅んだ乙巳の変以降です(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]参照)。


(5)大阪府若江郡穴太村(現八尾市穴太)※開発で不明だが「岸辺」の可能性が高い。




 また、草津市穴村町は「アナ」単独です。

◎縄文語:「穴(村)」=「アゥ・ナィ」=「枝分かれた(隣の)・川」

 の意ともとれます。
 他はいずれも「山裾」の地勢です。


(1)滋賀県蒲生郡穴村(現草津市穴村町) ※琵琶湖東岸の低地。周辺から見て「隣の方(or枝分かれた川)」と呼ばれた。


(2)京都府桑田郡亀岡町穴太(現亀岡市曽我部町穴太(あなお)) ※隣の山裾。


(3)奈良県宇智郡穴生(現五條市南阿太町)※隣の山裾。


(4)三重県員弁郡東員町穴太(あのう) ※隣の山裾。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]呉服の里・服部・猪名野・秦の上・秦の下・秦郷・勝部・佐伯村・佐伯山・猪名郷・猪名川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「猪名氏」について(『金楽寺貝塚発掘調査概報』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【附近の地名に呉服の里・服部・猪名野・秦の上・秦の下・秦郷・勝部・佐伯村・佐伯山・猪名郷・猪名川など帰化人居住の伝承や遺跡を伝えるものが多く、猪名氏・佐伯部・秦氏・海人部・漢氏・呉氏などの帰化人出身の氏族が西摂平野一帯に居住していたことも事実である。・・・・・・猪名氏の開発の記事は豊富である。このようにみてくると、当貝塚の住人は猪名氏といった帰化人系統の氏族かまたは、その支配をうけていた人々であったかもしれない。】

○「猪名部」について(『兵庫県史/朝鮮系渡来者とその部』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【新羅系渡来者と伝えられるものの一つに猪名部がある。猪名部は『日本書紀』雄略紀にみえる説話などによってよく知られているように、木工のすぐれた技術をもつ部である。その起源については、応神紀三十一年八月の条につぎのように伝えられている。新羅の調の使の船が武庫水門にやどったとき火を失し、水門に集まっていた多くの船が類焼した。新羅王はこれを聞いて大いに驚き、「能匠の者」を貢した。これが猪名部の祖である、と。
 古代における武庫のみなとの位置はかならずしも明確ではないが、武庫川・猪名川の河口域と考えてよかろう。現存の資料からは武庫のみなとや、武庫・猪名両河川の流域に猪名部の居住したことを立証することはでいないが、猪名川や猪名県(『日本書紀』仁徳紀)・猪名の湊(『万葉集』)などの地名があるほか、『姓氏録』の摂津国諸事および未定雑姓摂津国の条に「為奈部首」がみえることからいって、摂津西部を流れる猪名川周辺の地に猪名部が、猪名部を管理する猪名部首とともに住んでいたことは、認めてよいと思われる。
 しかし、ほんとうに新羅王の貢上した部であるかどうかは問題であろう。また猪名部御田が宮中ではじめて楼閣をつくったという雄略紀の伝えなども、そのまま信ずることはできない。けれどもこの部が進んだ技術をもった朝鮮から渡来した人びとを祖とし、朝廷に上番して腕をふるったことは事実であろう。


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「呉服」=「キ・ハッタ」=「山の・淵」(五月丘の麓の淵)
◎縄文語:「秦上/秦下/服部」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」


 秦氏の活躍が語られるのは、決まって水辺です。つまり、縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」の地勢にこじつけて物語が創作されているだけです。秦氏の名も拠点とした京都の太秦の地勢を表しているものと考えます。
 各地で語られる秦氏の伝承は一通り疑わなければなりません。縄文語「ハッタ」の発音にこじつけた「機織り」が得意などというものはその最たる例です。
 摂津国の「秦上郷/秦下郷」「穴織社」「呉服社」の”機織り”、”呉服”に関する通説のデタラメは第二百二十六回で詳しく解説しています。

 豊中市の「勝部」は「かつべ」と読みます。「すぐりべ」ではありません。

◎縄文語:「勝部」=「コッ・ペ」=「窪地、谷の・水」

■豊中市勝部 ※千里川沿い。



 ついでに「村主(すぐり)」も、

◎縄文語:「村主」=「シ」=「山」

 で、単に似た音の漢字を充てた可能性が高いと言えます。姓を与えられた者よりも与えた者の側が新羅国の役職である「村主」を知っていたとした方が無理なく理解できます。


 猪名川町は猪名川の最上流にあります。

◎縄文語:「猪名」=「エ・ナ」=「上(上流)・の方」


■猪名川町 ※猪名川の最上流。




 「佐伯山」は現在の「五月山」のことです。

◎縄文語:「佐伯(山)」=「サン・エ・ケ」=「平山の・頭・のところ」
◎縄文語:「五月(山)」=「サン・テュ・ケ」=「平山の・峰・のところ」


■五月山(佐伯山)

 


 金楽寺(きんらくじ)という地名はありますが、お寺は存在しません。吉備真備が建てた「錦楽寺」を由来とするのが通説のようですが、これも違います。

◎縄文語:「金楽寺」=「キー・ラケ・チゥェ」=「茅の・低地の・水脈、水流」


■金楽寺 ※開発で当時の地勢は不明。



 猪名部に関しては、引用した「兵庫県史」の後半部分が、筆者にも妥当な解釈だと思われます。

【ほんとうに(応神天皇に)新羅王の貢上した部であるかどうかは問題であろう。また猪名部御田が宮中ではじめて楼閣をつくったという雄略紀の伝えなども、そのまま信ずることはできない。けれどもこの部が進んだ技術をもった朝鮮から渡来した人びとを祖とし、朝廷に上番して腕をふるったことは事実であろう。】

 欠史八代から応神天皇あたりまでは邪馬台国の卑弥呼と台与の事績を隠蔽している時代にあたり、ここぞとばかりに渡来系氏族の出自を装飾する物語が詰め込まれています。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]芦屋・芦屋倉人・漢人浜~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「芦屋倉人・蔵人」について(『新修芦屋市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【芦屋地方の氏族として最も早く史料にあらわれるのは「芦屋倉人」という人物である。<中略>
 弘仁六年(八一五)に撰せられた『新撰姓氏録』の記載中、当地方を本貫とする氏族についてみると、第二七巻の「摂津国諸藩」の条に、
 蔵人 石占忌寸同祖 阿智王之後也
 とみえている。この蔵人というのは、さきの倉人と同族であり、東漢氏の祖となった阿智使主に従って中国から渡来した帰化人系の氏族であったと考えられている。】

×「芦屋倉人・蔵人」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【漢氏のアヤとは古代南部朝鮮の小国家だった加羅(加那、加耶ともいう)諸国の一つを安羅・安那・安耶ともいったことからきたものであった。だからその漢(あや)を『万葉集』では漢(から)(韓・加羅)ともよみ、さらには細川春草氏の『芦屋郷土誌』では「漢人(あやひと)の浜」となっているものが、『新修芦屋市史』では「漢人(からひと)浜」ともなっているのである】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「芦屋」=「アゥ・シ・ヤ」=「枝分かれた・山の・陸岸」
◎縄文語:「(芦屋)倉人」=「キ・ペチャ」=「山の・水辺」
◎縄文語:「漢人(あやひとの浜)」=「アゥ・ヤ・ペチャ」=「枝分かれた・陸岸の・水辺」

◎縄文語:「漢人(からひとの浜)」=「カン・ラ」=「上にある・低地」

 万葉集の頃の大和は完全に北方系渡来人勢力によって支配されている頃ですから、上代日本語で書かれるその内容が縄文語(アイヌ語)の先住民文化から乖離しているのは言うまでもありません。

 「漢」との発音の一致だけで朝鮮半島南部の「加羅諸国」と関連づけるのは、まったく筋違いです。朝鮮半島南部も倭人と同系、同族の南方系民族で、縄文語を共有していたので、同じ地勢に同じ地名があるのは当然です。安易に結びつけてはいけません。

 『日本の中の朝鮮文化』に、芦屋の「朝鮮寺」の記載がありますが、これも朝鮮由来とは限りません。

◎縄文語:「朝鮮」=「チゥ・サン」=「水脈、水流の・出崎」

 とすれば、前述の「芦屋」「倉人」「漢人」の縄文語解釈と一致するからです。

 また、芦屋の丘陵の裾には阿保親王塚古墳があります。

◎縄文語:「阿保親王塚(古墳)」
= 「ア・ポン・シ・オ・テュ」=「片割れの・小さな・山・裾の・小山」
or 「アゥ・ポン・シ・オ・テュ」=「枝分かれた・小さな・山・裾の・小山」


 これも芦屋の地勢と完全に一致します。三角縁神獣鏡が出土し、四世紀築造と推定されるので、平城天皇第一皇子の「阿保親王」が眠っている訳ではありません。

 日本の黎明期の歴史は、先住民の縄文語に漢字を充て、渡来人に都合の良い創作物語を語るので、どこまでが真実なのか非常に分かりにくい状態になっています。


■芦屋の阿保親王塚古墳 ※丘陵裾の古墳。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]唐子・唐崎・有馬温泉・鏑射山(甘楽山)・唐櫃・金鶏伝説・布土の森~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「”唐”のつく地名」について(『有馬郡誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【名塩より道場村の東部にかけて、地名に唐という字を附したる地多く唐子の池・唐子谷・唐子塚・唐子の滝・唐崎などは、名塩より生野に通ずる旧道の辺より、生野桑原の地に多し。而して此の辺に古墳群頗る多く、其の古墳よりは土器の埋蔵頗る多量なり。嘗て阪鶴鉄道の工事中、生野に煉瓦窯を築きし時古墳を破壊せるもの多く、其の際出土せる土器の数頗る多きは一種特異の例とすべく、此の土器埋蔵の多量なるは、南韓に於ける古墳の状態に頗る相類似せり。】

×「有馬温泉」について
(『神戸の史跡』神戸市教育委員会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【有馬温泉は神代の昔、大己貴命少彦名命の二神がつくられたという伝説があるほどに、日本最古の温泉といわれている。この地に大己貴命を祀る温泉神社がある。『日本書紀』によると千三百年ほど以前、舒明天皇が三年九月~十二月までと、十年十月、十一年一月の二回有馬温泉に来られ、また孝徳天皇は、三年十月~十二月までこの温泉に来られている。そのときは、大臣や重臣もつれて来ておられる。この付近には行宮の跡と伝えるところがある。】

○「韓神(大己貴命、少彦名命)」について(『選版 日本国語大辞典』 ※『コトバンク』より引用)
【(朝鮮から渡来した神の意) 昔、守護神として宮内省の中にまつられていた神。「古事記」には大年神(おおとしのかみ)と伊怒比売(いぬひめ)との間の子とし、「大倭神社註進状所引旧記」には大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の両神とする。平安時代には、園神(そのかみ)とともにまつり、韓神祭(からかみのまつり)が盛大に行なわれた。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「唐子」=「カ・コッ」=「曲がっている・谷」
◎縄文語:「唐崎」
=「カ・サン・ケ」=「曲がっている・出崎・のところ」

or「カ・サ・ケ」=「曲がっている・浜・のところ」
◎縄文語:「有馬(温泉)」=「ア・マ」=「一方の・谷川」

 名塩から道場東部にかけて「唐」という字を冠する地名が多いのは、単に武庫川が蛇行を繰り返しているからです。朝鮮半島と武庫川の蛇行はまったく関係ありません。


■武田尾駅(武庫川の名塩から道場東部の中間)※曲がっている谷。武庫川。



 「有馬」はよくある「荒川」と同義です。近隣の大きな川、あるいは本流との対比表現です。有間川の場合も武庫川支流ですから本流との対比表現となります。
 この有馬川上流にある有馬温泉の温泉神社に「韓神」が祀られたのは有馬川が蛇行しているからです。


■温泉神社 ※蛇行する有間川のほとり




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鏑射山(甘楽山)」について(『有馬郡誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【鏑射山は道場駅の北に聳ゆる山なり。土俗「カグラ」山と呼ぶは・甘楽山といいし古名のまま呼びたる正しき呼び方ならん。山頂平夷にして、古代の祭壇の遺址たることは、羅列せる墳状の盛り土に多くの斎瓮を埋蔵せる点より推して知るべく、山上の石祠は甘楽権現を祀る。此の神、を好ませらるると称し、詣ずるもの皆酒壺を献ず。】

×「甘楽郡・甘楽山・唐櫃」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【関東の上野に甘楽郡があって、そこを鏑川が流れている。こちらのほうは群馬大学の尾崎喜左雄氏ほかもそう書いているようにどちらも、すなわち甘楽郡の甘楽も、鏑川の鏑も、古代朝鮮をさした韓・加羅からきているものなのである。
 だから、とはいえないかもしれないが、唐櫃の唐が韓であり、またその唐のつく地名が周辺にたくさんあることからして、道場駅の北に聳えて鏑射山となっている甘楽山の甘楽や、甘楽権現の甘楽も、もとはやはり韓、加羅からきたものではなかったであろうか。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「鏑射(山)」=「カパ・エ」=「薄っぺらな・頭」
◎縄文語:「甘楽(山)」=「カッ・ク・ラ」=「形が・弓の・低いところ」 =弓の形の低い山

 いずれの解釈も「鏑射山」の地勢そのままです。有馬郡誌に「山頂平夷」とあるとおりです。
 「カッ・ク=形が・弓」の山は日本全国に数多く見られます。詳しくは第三百二十二回コラムの後半部をご覧下さい。一目瞭然です。

 なぜ、この”薄っぺらな山”の「鏑射山(甘楽山)」が「酒好き」との物語が創作されたのか。それは

◎縄文語:「酒」=「サン・ケ」=「平山・のところ」=鏑射山(甘楽山)

 の意だからです。「鏑射山」の言い換え表現です。古代人がどのように物語を創作しているかが如実に分かります。


■鏑射山 ※薄っぺらな頭の山。 弓の形の低い山。「酒」は「平山」の意。



 上野、群馬県の甘楽郡の地名由来も朝鮮半島とはまったく関係ありません。このような漢字表記にこじつけた通説はことごとく見直すべきです。
 甘楽郡は東から「大胡」「甘楽郡」「富岡」「下仁田」と並んでいて、いずれも「湿地」「低地」の解釈で一致しています。そこを貫流する「鏑川」も「浅い低地」の意です。

◎縄文語:「多胡郡」=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」
◎縄文語:「甘良(甘楽)」=「カン・ラ」=「上にある・低いところ」
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタッ」=「西の・湿地」(※「上仁田」は存在しません)
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地


■群馬県甘楽町周辺 ※低地、湿地の解釈で一致。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐櫃」について(『布土(ののんど)の森石碑』神戸市 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この森の中に、神功皇后をまつるという石造りの祠がある。
 大和時代神功皇后が三韓から持ちかえった武器甲冑と雌雄一対の黄金造りの鶏を唐櫃にいれて埋められたと伝えられ、それが唐櫃の地名の起こりであると言われている。】

×「金鶏」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【そのような伝説はいったいどこからきたものが、どうしてできたものであるかということについては、われわれはできるだけ史実に即して考えてみる必要がある。「雌雄一対の黄金造りの鶏」とは新羅が一時は国号を「鶏林」と称したことがあって、鶏を神聖視したことからきたものではなかったかと私は思う。
 そのことは、さきにみた近くの道場にある鏑射山が甘楽山、すなわち韓・加羅山であったことからもいえるように思うが、なによりもこの「布土の森」からその地名が起こったという唐櫃が、韓櫃であったということからもわかるように思う。そしてその韓櫃の韓がのちに変じて、「神功皇后が三韓から」ということになったにちがいない。
 つまりこの唐櫃には、そのような韓櫃をつくることのできる朝鮮からの渡来人がかなり古くから来て住んでいたことから、その唐櫃という地名も起こったものと思う。「黄金造りの鶏」という金鶏伝説は新羅系渡来人の居住したところに多く、たとえば伊勢(三重県)の白山町にもそれがある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「布土(の森)」=「ノッ・ヌタ」=「岬の・湾曲している川の内側」 =奥山川の蛇行に沿った高台
◎縄文語:「唐櫃(からと)(台)」=「カ・テュ」=「曲がっている・峰」=奥山川の蛇行に沿った高台

 「布土の森」は唐櫃台の神戸北高校周辺にあります。「唐櫃台」は奥山川の蛇行に沿った高台です。縄文語解釈そのままの地勢です。

 「金の鶏が埋まっている」「金の鶏が鳴く」などの「金鶏伝説」は日本各地にありますが、これももちろんまったくのデタラメです。朝鮮半島の新羅国も関係ありません。

◎縄文語:「金鶏」=「キケ」=「山のところ」

 の縄文語にこじつけて物語を創作しただけです。「近畿」の語源とも考えられます。「近畿」の呼び名が大規模古墳時代にすでに存在したのであれば、漢字こじつけの「都に近い」という意味ではありません。

 伊勢の白山町も、

◎縄文語:「白山(町)」=「ハ・サン」=「浅い・平山」

 の意です。下のストリートビューの場所は「津市白山町古市」ですが、この「古市」も「白山」の言い換え表現となっています。

◎縄文語:「古市」=「フ・エテュ」=「丘の・岬」

 全国の「白山神社」「白山」の地名は「浅い平山」、あるいは「浅い平山を望む」場所にあります(※第二百九十回コラム参照)。いずれにしても「金鶏」も「白山」も「山」なので、「新羅=シロケ(orシ・オ・ケ」)=山裾(or山・裾・のところ)」と相性がいいのは当然です。いちいち新羅系渡来人を登場させてはいけません。

 他地域の金鶏伝説については「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」をご覧下さい。


■唐櫃台 ※湾曲する奥山川沿いの高台。


■津市白山町古市 ※浅い平山。 丘の岬。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]許曾社・御坂社・屯倉・三木市・美嚢郡・みなぎ・志染・韓鍛首広富・韓鍛冶百依・忍海漢人麻呂・弘計(顕宗天皇)・億計(仁賢天皇)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「許曾社・御坂社・屯倉」について(『古代の日本5(近畿/播磨の屯倉)』八木充 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【帰化人においても、漢人が社を建てて敬祭し(揖保郡林田里)、枚方のミヤケに近い佐比岡では、出雲人の紛争を河内から到来の漢人が神を祭ることによって和鎮させたことが示すように(ほかに赤穂市坂越の大避神社、姫路市本町の射楯兵主神社、多可郡黒田庄町の兵主神社)、土着化の過程で、将来の宗教と固有信仰との習合がみられたのであった。
 縮見(しじみ)<三木市志染におなじ>屯倉の一隅に許曾社御坂社)が坐し、忍海部造(おすぬべのみやつこ)を首長とするミヤケ人のあらゆる共同体的諸関係の根元がそこに凝集されていたのである。】

×「御坂社・許曾社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【御坂社=御坂神社とは許曾社だったわけであるが、許曾社の許曾とはなにか。これが朝鮮・新羅の赫居世(ヒャクコセ)の居世(尊称)からきているものであること、そしてこの居世が日本における神社・神宮の形成と密接な関係にある<中略>
 神社というもののほとんどは、その地を占めた氏族が人間として生きていた自分らの先祖を祖神として祭って、氏神としたものであった。したがって、その氏族からさらにまた支族がわかれ出たので、御坂神社のようにそれが八社にもわかれることになったのである。】

×「美嚢郡」について(wikipedia)
【地名の由来は履中天皇が志深(志染)を訪れた際に「川の流れ(水流=みながれ)が大変美しい」と言ったことから「みなぎ」と名付けられた(『播磨国風土記』)とも、神功皇后が君が峰で休憩した際、地元から壺に入れた酒を献上したことから美壺(みつぼ)が変じて美囊(みのう)となったとも伝えられている。近世までは「みなぎ」と呼ばれた。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「御坂(社)」= 「メ・サン・カ」=「泉の・出崎の・ほとり」
◎縄文語:「許曾(社)」 =「コッ・チャ」=「谷、窪地の・岸」
or「コッチャ」=「谷の入口」

or「コッ」=「窪地、谷」
◎縄文語:「屯倉」=「メ・ヤケ」=「泉の・岸辺」


 「許曾社」「屯倉」は、縄文語解釈では「泉、窪地の岸辺」の意でほぼ同義です。隣接地名とも一致しています。

◎縄文語:「(志染町)三津田」=「メ・チャ・タ」=「泉の・岸の・方」
◎縄文語:「(志染町)戸田」=「ト・チャ」=「湖沼の・岸」

 三木市も泉が多い地勢を表現しています。

◎縄文語:「三木(市)」=「メ・ケ」=「泉・のところ」

 「御坂社」は「泉」の解釈に「出崎」の意が付加されています。所在地の旧「美嚢郡」は「御坂社」とほぼ同義です。 wikipediaにあるような履中天皇や神功皇后の物語は言うまでもなくデタラメです。

◎縄文語:「美嚢(郡)」=「メ・ノッ」=「泉の・岬」
◎縄文語:「みなぎ」=「メ・ノッケ」=「泉の・岬」

 「志染(縮見)」も、その他現在の地名も同義で、周辺地名にも類似解釈が見られます。

◎縄文語:「志染(縮見)」=「シテュ・メ」=「大きな峰の・泉」
◎縄文語:「高男(寺)」=「コッ・ノッ」=「窪地、谷の・岬」
◎縄文語:「丹生山/明要(寺)」=「タン・チゥ・サン/・ヤー」=「こちらの・水脈の・出崎/泉の・陸岸」


■御坂周辺の地名の縄文語解釈 ※多くが「窪地」「泉」「泉の岬」の解釈で一致。同色は類似解釈。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 神社の成り立ちが「土着化の過程で、将来の宗教と固有信仰との習合がみられた」「その地を占めた氏族が人間として生きていた自分らの先祖を祖神として祭って、氏神とした」 とありますが、いずれも違います。

 私見を述べさせていただくと、
 「神社とは大和王権を簒奪した北方系渡来人とその取り巻きである朝鮮半島系渡来人の出自を正当化、装飾する」
 
ことを目的に、そのほとんどは七世紀以降に設けられたものです。神社の歴史、起源が朝鮮半島系の人々と関係があるのは当然です。

 それら由緒では、漢字表記にこじつけて生みだされた神々の創作物語だけが語られ、実際の地名由来である縄文語解釈が語られることは決してありません。その態度は記紀風土記と完全に一致、連携しています。上記履中天皇や神功皇后のウソ物語の例を見ても容易に推察できます。
 しかし、縄文語(アイヌ語)こそは、六世紀代まで実権を握っていた日本先住民である南方系倭人の言語なのです。それは全国の大規模古墳名が如実に示しています。

 渡来系の人々が好む天日槍や都怒我阿羅斯等などはデタラメ由緒のいい例です。「天日槍」や持参した「宝物」は単に「円山川沿いの野原に湧く城崎温泉」「峨々たる玄武洞」「山裾の出石」周辺の地勢(※第三百二十二回コラム参照)を指していて、「都怒我阿羅斯等」や別名である「于斯岐阿利叱智干岐」も「大きな岬が崩れている」敦賀半島の地勢を表現しています。
 それらの縄文語解釈からは「渡来人」であることを読み取ることはできません。「槍」を宝物としていたり、「角が生えたり」するのは単に漢字表記にこじつけられているからです。

 彼らの朝鮮半島の出自を縄文語解釈すると「新羅=山裾」「加羅=岸辺の低地」の意となり、日本にどこにでもある地勢となります。それはもちろん、天日槍や都怒我阿羅斯等と関わりの深い「出石」や「敦賀」の地勢ともそれぞれ完全に一致します。彼らは単に「出石」と「敦賀」から来ただけなのかもしれません。朝鮮半島の地名と一致したのが縁となり、渡来人代表にさせられてしまいました。 朝鮮半島南部にも同じ地名があるのは、朝鮮半島南部も南方系の倭人と同系民族で縄文語を共有していたからです。

 ほか、代表的な神社も例外ではありません。「八幡神社=川沿い」「春日大社=高台」「白山神社=浅い出崎」「熊野神社=横に平べったい岬」「薬師神社=岸の末端」「稲荷神社=高台の祭場」「金刀比羅宮=谷の入口の崖」「新羅神社=山裾」「高麗神社=湾曲した川」(※『日出ずる国のエラーコラム[総集編]』参照)。

 驚くことに「法隆寺」や「東大寺」「四天王寺」「薬師寺」なども、所在地の縄文語地名から名前をとっています。もちろん命名の本当の由来が語られることはまったくありません(※第二百七十三回コラム参照、※第二百六十二回コラム参照)。

◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師寺」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。

 
 ちょうど渡来人の出自を飾るための一説が三木市にもありますのでご紹介します。 新旧問わず、記紀風土記以来、日本の歴史はこうして漢字表記から解釈されていますが、日本黎明期の歴史については、完全にミスリードになります。日本黎明期の歴史、先住民の歴史については縄文語(アイヌ語)で解釈すべきです。日本語で解釈可能なのは、王権周辺、地方は国衙周辺だけです。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「韓鍛首広富」について(『三木市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【桓武天皇の延暦八年(七八九)頃、美嚢郡大領で正六位下という官位をもつ韓鍛首広富という男がいた。<中略>
 さて、大領が韓鍛首という氏姓をもって呼ばれていることが注目される。韓鍛というからには、朝鮮半島を経由してわが国に伝えられた鍛冶の新しい技術をもつ集団であったろうことは容易に考えられる。<中略>
 しかし後で詳しくみるように、三木の金物工業は近世中期以後に新しく形成されたもので、韓鍛首広富がそのまま、三木の鍛冶工業に連なるものではない。】

×「韓鍛首広富・忍海漢人」について(『兵庫県史/朝鮮系渡来者とその部』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『続日本紀』養老六年(七二二)三月の条によると、播磨国には鍛冶の技術者として、忍海漢人韓鍛冶百依とがいたことが知られる。居住の郡名は不明であるが、延暦八年(七八九)における美嚢郡大領に韓鍛首広富がいた(『続日本紀』)ことからして、おそらくこの両名の居住地も美嚢郡ないしその付近とみてよかろう。顕宗・仁賢天皇が即位以前、身をかくしていた縮見(しじみ)ミヤケの首は、忍海部造細目という人物であるが、この屯倉の所在地が美嚢郡であることも、忍海漢人や韓鍛冶の居住地を推定する手がかりとなる。おそらくこのあたりに、朝鮮系の製鉄技術をもつ忍海漢人や韓鍛冶が分布していたのであろう。】

○「忍海漢人麻呂・韓鍛冶百依」について(『続日本紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)
【(養老六年)三月十日 伊賀国の金作部東人・伊勢国の金作部牟良・忍海漢人安得・近江国の飽波漢人伊太須・韓鍛冶百嶋・忍海部乎太須・丹波国の韓鍛冶首法麻呂・弓削部名麻呂・播磨国の忍海漢人麻呂韓鍛冶百依・紀伊国の韓鍛冶杭田・鎧作名床ら合せて七十一戸は、姓が雑工にかかわっているが、本源を調べると元来は雑工とかかわりのないことがわかった。そこで雑工とまぎらわしい称号を除き、公戸(良民)に入れた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「韓鍛(首)/広富(からかぬちおびとひろとみ)」=「カ・カ・ノチ/ぺ・トモ」=「曲がった川・のほとりの・岬/泉の・中」
◎縄文語:「韓鍛冶/百依(からかぬちももより)」=「カ・カ・ノチ/モ・モヨ」=「曲がった川・のほとりの・岬/小さな・入り江」※「入り江」は内陸の同様の地形も指す。

 「韓鍛」は「曲がった川のほとりの岬」、つまり管掌地である美嚢郡の地勢を表しています。そこからは朝鮮半島や鍛冶はまったく読み取れません。『続日本紀』にも「雑工とかかわりない」と書かれています。
 縄文語に「韓」と「鍛」という漢字が充てられた結果、「朝鮮半島の鍛冶職人」という説が生まれた可能性が高いということです。


■「韓鍛」は志染町の地勢 ※曲がった川のほとりの岬。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 鍛冶職人とされた「忍海漢人麻呂」、顕宗・仁賢天皇の時の縮見屯倉首「忍海部造細目」も縄文語解釈します。

◎縄文語:「忍海/漢人(おしぬみのあやひと)/麻呂」=「オスッ・ヌピ/アゥ・ヤ・ペト/マ・オロ」=「山裾の・野原/枝分かれた、隣の・陸岸の・川口/谷水・のところ」=山裾の野原にある、隣の岸の川の合流点
◎縄文語:「忍海(部造)細目」=「オスッ・ヌピ/ポッチェ・メ」=「山裾の・野原/どろどろした・泉」

 「細目」は「志染町細目」として現在地名に残っています。つまり、「山裾の湿地」を表現していて、「志染(縮見)=大きな峰の泉」「美嚢郡=泉の岬」の解釈と非常に相性がいいことが分かります。

 これら人物名がすでに存在した地名からとられたのか、それとも生存した当時に名付けられたのかで評価がまったく違ってきます。後者であれば、「韓鍛冶百依」「韓鍛首広富」「忍海漢人麻呂」などの例から縄文語を使う南方系先住民の文化が少なくとも八世紀までは残っていたということになります。言語がそれほど簡単に切り替わらないのは、教育機関が整備されていない時代であれば当然と言えます。

 ちなみに、「顕宗天皇」「仁賢天皇」と「忍海部造細目」はおそらくは五世紀の人物ですが、この頃はまだ大和王権においても縄文語(アイヌ語)が使われていました。それは天皇諡号の縄文語解釈から導き出せます。大和王権中枢の言語の切り替わりのタイミングは、私見では大化改新です(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)。

 よって「顕宗天皇」「仁賢天皇」の幼名も縄文語解釈可能と言えます。「顕宗天皇」「仁賢天皇」の幼名は、それぞれ「弘計(ヲケ)」「億計(オケ)」です。

◎縄文語:「弘計(ヲケ)」=「ウォ・ケ」=「水・のところ」
◎縄文語:「億計(オケ)」=「オ・ケ」=「川下・のところ」※川の合流点

 「顕宗天皇」「仁賢天皇」の幼名もその地勢や周辺地名と一致します。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]神戸・生田神社・六甲山・住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)・兵庫・天目一神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「神戸」について(wikipedia)
【「神戸」という地名は、現在の中心市街地である三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かむべ」)であったことに由来し、そのウ音便(かうべ。旧仮名遣いで「かう」は「コー」と発音)である。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わった。】

×「生田神社・稚日女尊」について(生田神社公式HP)
【神功皇后元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、 稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)という者を神主として祀られた。 】

×「神功皇后・住吉三神」について(『日本書紀』)
【(要約)神功皇后は忍熊王が待ち構えているのを聞いて、<中略>難波に向かったが、船がぐるぐる回って進まなかった。務古水門(武庫の港)に還って占った。<中略>表筒男、中筒男、底筒男の和魂を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀ると、無事海を渡ることができた。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「神戸」= 「カン・ペ」=「上にある・水」※六甲山の池沼
◎縄文語:「生田(神社)」= 「エンコ・タ」=「岬・の方」※六甲山の方
◎縄文語:「稚日女(尊)」= 「ワッカ・ピ・ル」=「水の・石の・岬」※六甲山

 これまで繰り返し書いてきたように、記紀風土記や神社の由緒で語られる神々の出所のほとんどは縄文語(アイヌ語)の漢字表記にこじつけた創作物語です。

 「神戸」の命名由来も平安時代までたどれます。奈良、平安の頃は、北方系渡来人勢力が実権を握っていた頃なので、彼らが編纂した文献は眉に唾をつけながら読まなければなりません。
 記紀に登場する住吉三神も以下の通り「六甲山の自然崇拝」で決して漢字語呂合わせから生まれた「海の神様」ではありません。必然的に住吉三神を祀る神社としてふさわしいのは大阪の住吉大社ではなく、神戸市の本住吉神社となります。
 「兵庫」も「六甲山」の言い換え表現で、「武器庫」とはまったく関係ありません。

◎縄文語:「底筒男」=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」=六甲山のふもと
◎縄文語:「中筒男」=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」=六甲山のふもと
◎縄文語:「表筒男」=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」=六甲山のふもと

◎縄文語:「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」
◎縄文語:「向津(峰)」(六甲山の別名)
=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」


◎縄文語:「兵庫」=「ピ・オコッ」=「石の・沢」=六甲山  



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「天目一神社」について
(西脇市観光物産協会HP)
【鍛冶の元祖、鞴(ふいご)の祖神である天目一箇命を祀る古社。
 天目一箇命は「播磨国風土記」託賀郡の条にも関連記事があり、この地域が古代から鍛冶に関する高度な技術を持っていたことが考えられます。平安時代の書物「延喜式」には、全国で重要とされた神社「延喜式内社」が記載されていますが、その中に天目一神社が含まれており、極めて古い時期に成立した神社と考えられます。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「(天)目一箇」= 「メ・テューテュ」=「泉の・出崎」

 この「天目一箇命」も、鍛冶で片目が潰れるという理由で鍛冶の神様とされていますが、他の神々同様、縄文語で地勢と一致する解釈が可能です。
 「天目一箇命」を祀る「天目一神社」は西脇市の池沼が点在する峰のほとりにあります。

 前回の美濃郡から、この周辺には「泉がある峰、山、岬」の解釈可能な地名が頻繁に登場します。先住民がその地勢を印象深く捉えていたことを示しています。

◎縄文語:「美嚢(郡)」=「メ・ノッ」=「泉の・岬」
◎縄文語:「みなぎ」=「メ・ノッケ」=「泉の・岬」
◎縄文語:「志染(縮見)」=「シテュ・メ」=「大きな峰の・泉」
◎縄文語:「高男(寺)」=「コッ・ノッ」=「窪地、谷の・岬」
◎縄文語:「丹生山/明要(寺)」=「タン・チゥ・サン/・ヤー」=「こちらの・水脈の・出崎/泉の・陸岸」



■天目一神社 ※泉の出崎。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成) 



第三百二十一回第三百二十二回第三百二十三回第三百二十四回第三百二十五回第三百二十六回第三百二十七回第三百二十八回第三百二十九回第三百三十回/ 】
◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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