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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百六十一回~第二百七十回】

第二百六十一回第二百六十二回第二百六十三回第二百六十四回第二百六十五回第二百六十六回第二百六十七回第二百六十八回第二百六十九回第二百七十回 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]奈良~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「奈良」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【松岡静夫氏は「日本古語大辞典」に、
 ナラは大和の地名旧都として有名である。崇神紀に軍兵屯聚して、草木を踏みならした山を、那良山と号づけたとあるのは信じるに足らぬ。ナラは韓後のナラで、国家という意であるから、上古此地を占拠したものが負わせた名であろう。此語は我国でも用いられたのが、夙に廃語となったのか。或は大陸系移住民のみが用いて居たのであろう。
 と述べ、奈良、朝鮮語説を提供したのであった。私自身としても、夙にこの説を採っていたのである。
 朝鮮語 Nara 国、平野、宮殿、王
 の四義を有するもの。今日では「国」及び「野」の義だけで、「宮殿」「王」の義は、全く朝鮮人からは忘れられている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「奈良」=「ナ」=「山中の平地」

 縄文語(アイヌ語)にも「ナ」の痕跡があります。「ニナ=高台の平地」で原義は「リー・ナ=高い・平地」です。

 これは、おそらく縄文語でもあり、朝鮮語でもあります。つまり、朝鮮半島南部が倭人と同系の縄文語圏だった名残です。今の国家観で朝鮮半島由来だとすると認識がちょっとズレます。

 国家が存在する前から東夷南蛮、朝鮮半島南部、倭人は言語を共有する南方系の民族でした。それらの人々が日本に移住したのであれば、筆者から見ればいずれも先住民です。国家成立以前において南方系朝鮮人と日本人はその文化を共有している以上、区別がはっきりしません。単に現代の定義の違いで「日本に渡来人がいた」とも、「朝鮮半島南部に日本人がいた」とも言える訳です。そう言った意味で「ナ」は先住民系の単語だということです。

 著しく異なるのは朝鮮半島北部、大陸北部由来の遊牧民系である上代日本語の使用を主導した人々です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]漢國神社・春日率川坂岡神社・韓国神社(辛国神社)・春日大社・興福寺・東大寺~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「漢國(かんごう)神社」について(wikipedia)
【推古天皇元年(五九三年)二月三日、勅命により大神君白堤が園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(七一七年)十一月二十八日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社(かすがいさがわさかおかじんじゃ) あるいは園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。】

×「韓国神社(辛国神社)」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【わが奈良に、皇都を始めて設けられたのは、元明天皇の和銅年間であるが、それ以前平城の地には朝鮮人部落があったものの如く、現に奈良市内に、東大寺の地主神ということで、韓国神社というのが存している位である。 】

×「春日」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【私はこの「かすが」を「大部落」の意に解せんとするものである。「か」は大の義で、ウラル・アルタイ語族では、「大」を可(か)といった。成吉思可汗の可汗は大帝の意である。日本語「か弱し」「か黒し」接頭語「か」も大の義と考えていい。「かすが」の「か」もそれと見ていい。「すが」は古朝鮮語「村主(スグリ)」「村主(スグニリム)」の「村(スグ)」で村、即ち部落のことである。故に私はこの「かすが」を大部落、即ち大村、大邑の義と考えたいのである。勿論、私は春日山下に夙に朝鮮人部落の存したことを想定するのである。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「漢國(神社)」=「カン・コッ」=「上にある・窪地」
◎縄文語:「春日率川坂岡(神社)
(かすがいさがわさかおかじんじゃ) 」=「カケ・エサン・カ・ワ・アン・サッコッ・オカ」=「その上の所・岬の・ほとり・に・ある・乾いた窪地の・跡」
◎縄文語:「韓国(辛国)(神社)」=「カ・ラ・コッネイ」=「岸の・低いところの・くぼんだところ」(岸辺の低地)

 縄文語解釈では「漢國神社」と別称の「春日率川坂岡神社」は、よくある言い換え表現です。 「韓国(辛国)神社」は所在地名の「雑司町=チー=窪んでいるところ」の解釈と完全に一致します。

 この周辺一帯は、「春日大社から興福寺に下る峰」とその西麓にある「水辺」で解釈が一致しています。 近隣の東大寺も「登大路町」の地名として解釈します。

◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」

 もしかすると、寺名や神社名の多くは、「高麗=コ・マ=湾曲する・谷川」 or「高麗=コ=丸山」、「新羅=シロケ=山裾」、「百済=クッチャ=湖沼や湾の入口」 などと同様、縄文語の地名が由来となっているかもしれません。
 他の由緒が長々と語られるのは、古代人に縄文語を上書きする意図が働いていたからです。

 また、筆者から見ると、日本語とウラル・アルタイ語族に共通点が見いだせるのは至極当然です。なぜなら、六~七世紀にヤマト王権を簒奪して、南方系先住民による縄文語の歴史文化を上代日本語でことごとく上書きしたのが北方系渡来人だったからです。

 周辺地名も含めてその分布をご覧下さい。


■東大寺、春日大社、興福寺周辺 ※すべて興福寺の「峰と西麓の湖沼跡」の縄文語解釈で一致。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■周辺地区の地名
◎縄文語:「魚屋」=「ウォ・ヤ」=「水の・岸」(岸辺)
◎縄文語:「半田」=「パン・チャ」=「下手の・岸」
◎縄文語:「鍋屋」=「ナペ・ヤ」=「泉の・岸」
◎縄文語:「花芝町」=「パナ・シ・パ」=「下手の・大きな・岬」 (大きな岬の下手)
◎縄文語:「東向」=「ペンケ・シ・ムィ・ケ」=「上手の・大きな・頂・のところ」(大きな岬の上手)
◎縄文語:「高天市町(たかまいちちょう)」=「トコ・エテュ」=「小山の・岬」
◎縄文語:「中筋町」=「ナィカ・テューテュ」=「川岸の・岬」
◎縄文語:「小西町」=「コッ・ニセィ」=「窪地の・水辺の崖」
◎縄文語:「林小路町」=「パン・ヤチ・コッチャ」=「下手の・泥の・窪地の入口」
◎縄文語:「橋本町」=「ハー・チゥ・ムンテュ」=「水が引いた・水脈の・草むら」
◎縄文語:「餅飯殿町(もちいどの)」=「ムンテュ・エテュノッ」=「草むらの・岬」
◎縄文語:「椿井町」=「テュー・パ・エ」=「岬の・頭の・先」
◎縄文語:「雑司町」=「チー」=「中くぼみ」(窪んでいるところ)
◎縄文語:「春日野」=「カ・カンナ」=「その上の・上の方」
◎縄文語:「高畑町」=「テュー・カ・ハッタ」=「峰の・ほとりの・淵」


 また、サンプルで全国の「魚屋(うおや)=ウォ・ヤ=水の・岸=岸辺」を冠する地名を調べてみました。「岸辺」の解釈で間違いありません。

■魚屋 京都府舞鶴市


■魚屋 兵庫県豊岡市出石町


■魚屋 京都府宮津市


■魚屋町 岐阜県岐阜市


■魚屋町 岐阜県岐阜市


■魚屋町 岐阜県大垣市


■魚屋町 熊本県熊本市中央区


■魚屋町 大阪府岸和田市


■魚屋町 兵庫県丹波篠山市


■魚屋町 佐賀県唐津市


■魚屋町 香川県丸亀市


■魚屋町 滋賀県近江八幡市


■魚屋町 福岡県柳川市



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]軽の境原宮軽ノ曲峡ノ宮・軽ノ曲殿橿原唐古法隆寺・斑鳩・法輪寺[三重県]伊賀留我(いかるが)神社[兵庫県]揖保郡鵤(いかるが)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「軽の境原宮」について(『大和の祖先』松本清張 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【記紀によると孝元天皇は「軽の境原宮」にいたという。軽の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子や軽太子、軽太郎皇女の名がある。「軽」は「韓」である。 】

○「軽ノ曲峡ノ宮・軽ノ曲殿」について(白い道のうえに」神西清 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【上代に軽と呼ばれているのは、畝傍山の東南につらなる平地から現在の大軽の丘陵へかけて、更に石川、五条野のあたりまでも含めた土地の、総称であるという。 軽ノ曲峡ノ宮(かるのまがりおのみや)とか、軽ノ曲殿とかという宮殿や別荘の名が古い本に残っているのは、いかにもこの辺りの丘の尾が、うねうねと曲がりくねったような地形を、さながらに写し止めていて面白い。】

×「橿原・槵触」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「かしはら(橿原)」というそのことからして、これは朝鮮・新羅のソウル(徐伐=都京の意)からきたものだそうで、言語学者の金沢庄三郎氏は、「それ故、橿原槵触、槵触=大添(くそほり)、添(そほり、所夫里/そふり)、徐伐=新羅となり」と、日本側からみた一つの公式をみちびきだしている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「軽の境原(宮)」=「カ/サン・カ・エ・ハ・ラ」=「回る、巻く/出崎の・上・そこで・水が引いた・低地」(曲がった川の出崎の上の低地)
◎縄文語:「橿原」=「カ・ハ・ラ」=「その上・水が引いた・低地」

 欠史八代、第八代孝元天皇の「軽の境原宮」の比定地は奈良県橿原市見瀬町の牟佐坐神社境内です。「カ=回る」は高取川の曲がりを指します。 所在地名の「橿原」は、よくある縄文語の言い換え表現と解釈できます。

 「軽曲峡宮」は第四代懿徳天皇の宮、「軽曲殿」蘇我稲目の居館です。

◎縄文語:「軽/曲峡(宮)」=「カ/マ・カリ・オ」=「回る、巻く/谷川を・巻く・川尻」(曲がった谷川の川口)
◎縄文語:「軽/曲(殿)」=「カ/マ・カリ」=「回る、巻く/谷川を・巻く」(曲がった谷川)

 これは「曲がった川」の地勢と「カ=回る、巻く」の縄文語解釈と「曲」の漢字表記が一致している面白い例です。まれにこういう例があります。 書記官周辺に縄文語が理解できる人物がいた証拠になります。

 この「曲がった川」を「カリ=巻く」で表現するのは、曽我川沿いの「勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)(安閑天皇皇居)」とも同じ用法です(※第二百六十四回コラム参照)。

 近隣には最後の大規模前方後円墳(六世紀後半築造)である「五条野丸山古墳」があります。

◎縄文語:「五条野丸山(古墳)」=「コッチャ・ノッ/マ・オロ・ヤマ」=「谷の入口の・岬/谷川・のところの・山」

 まだ縄文語解釈可能です。六世紀前半~中頃、継体天皇とその皇子らが死んだ後、百済系勢力が勃興しましたが、後ろ盾となっていたのは蘇我氏です。天皇諡号で判断すると、蘇我氏本宗家が滅んだ乙巳の変(六四五年)を境に、縄文語から上代日本語に切り替わっています。

 西方には「白橿町」があります。

◎縄文語:「白橿(町)」=「シロケ」=「山裾」

 頻繁に登場する「新羅」地名と同語源です。繰り返しになりますが「新羅=山裾」の意で、どこにでもある地勢です。いちいち渡来人を登場させる必要はありません。


■「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)




 縄文語では「橿原」と「槵触」の意味はまったく異なります。天孫降臨神話に登場する「槵觸之峯(くじふるのたけ)」の一般的な比定地は宮崎県の「槵觸神社」と「霧島山」ですが、私見では伊都国です。(※第三十回コラム参照

◎縄文語:「槵触」=「ク・フル」=「対岸のor山向こうの・丘」

 いずれにせよ「ク・フル=対岸のor山向こうの・丘」などという地勢はどこにでもあるので、地名だけを頼りに特定することはできません。


■槵觸神社 ※天孫降臨神話でニニギが降り立ったとされる「槵觸之峯」の比定地。縄文語の「ク・フル=対岸のor山向こうの・丘」と地勢が一致するので、もともとの地名だったのかもしれません。
(国土地理院電子地形図)


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐古」
について(『大和の祖先』松本清張 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「軽」は「韓」である。この近くの弥生遺跡で有名な「唐古」も唐ではなく韓からきていると思う。 】

×「韓人池」について(『日本書紀』宇治谷孟 講談社学術文庫)
【<応神紀>七年秋九月、高麗人・百済人・任那人・新羅人唐が来朝した。武内宿禰に命ぜられ、諸々の韓人らを率いて池を造らせられた。そこでその池を韓人池(からひとのいけ)という。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「唐古」=「カラ・コッ」=「岸の低地の・窪地」(唐古池周辺の低地)
◎縄文語:「韓人(池)」=「カラ・ペト」=「岸の低地の・川口」(唐古池周辺の低地)

 「唐古」「韓人池」は「唐古池周辺の低地」を指していて、「軽の境原宮」と語源は異なります。


■唐古池 ※岸辺の窪地。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「法隆寺・斑鳩」について
(『大和の祖先』松本清張 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
「軽」は「韓」である。<中略>法隆寺のあたりを斑鳩の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語がついたのであろうか。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」
◎縄文語:「斑鳩」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」


 法隆寺は松尾山の麓の小さな峰の間の地勢を指しています。「斑鳩」は地勢と発音が完全に一致しています。「韓」とは関係ありません。

 法隆寺を建立したとされる聖徳太子は敏達天皇の甥にあたります。私見では敏達天皇から北方系百済王族周辺の民族となっていますので、必然的に聖徳太子百済系の渡来人となります。法隆寺も縄文語の地名に漢字を充てて建立したものと判断できます。しかし、伝承や由緒には縄文語解釈の一片も見当たりません。

 縄文語解釈可能な周辺古墳の「藤ノ木古墳」が六世紀後半の円墳、「仏塚古墳」が六世紀末の方墳で、いずれも聖徳太子の時代と一致しています。これらも縄文語解釈可能なので、やはり蘇我本宗家が滅亡する乙巳の変(大化改新)までは縄文語解釈が通用するようです。

 周辺の地名、寺名、古墳名とことごとく縄文語解釈が一致しますので、ご覧下さい。

 また、イカルガという地名はほかにも三重県四日市市の旧鵤(いかるが)町伊賀留我神社所在地)、兵庫県揖保郡の鵤町があります。こちらも例外なく「岬のほとり」の意です。


■法隆寺、斑鳩周辺 (国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■周辺地区の地名
◎縄文語:「国見台」=「コッネ・ムィ」=「窪んでいる・頂」(松尾湿原の頂)
◎縄文語:「松尾山」=「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」(松尾湿原のはずれ)
◎縄文語:「法輪寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」
◎縄文語:「中宮寺」=「テュ」=「小山」
◎縄文語:「仏塚古墳」=「ポン・テュカ・テュ」=「小さな・峰の上の・小山」
◎縄文語:「龍田神社」=「タン・テュ・タ」=「こちらの・岬の・方」
◎縄文語:「椿井」=「テュー・パ・エ」=「岬の・頭の・先」
◎縄文語:「白石畑」=「シエテュ・パ・タ」=「岬の・頭の・方」
◎縄文語:「藤ノ木古墳」=「ペチャ・ノッケ」=「水際の・岬」
◎縄文語:「桜池」=「サン・ケ・ラ」=「出崎の・ところの・低地」
◎縄文語:「幸前神社」=「コッチャ」=「谷の入口」
◎縄文語:「片野池」=「コッチャ・ノッ」=「谷の入口の・岬」
◎縄文語:「天満池」=「タン・マ」=「こちらの・谷水」
◎縄文語:「阿摩池」=「ア・マ」=「一方の・谷水」
◎縄文語:「三本松池」=「サン・ポン・マーテュ」=「前にある・小さな・水際」


■旧鵤(いかるが)町(三重県四日市市伊賀留我神社所在地)※岬のほとり。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■鵤(いかるが)町(兵庫県揖保郡)※岬のほとり。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]蘇我満智・蘇我韓子・蘇我高麗・蘇我稲目・曽我町・真菅・勾金橋宮(安閑天皇皇居)・橿原~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「蘇我氏の拠点、蘇我里」について(wikipedia)
【(蘇我氏の)具体的な活動が記述されるのは六世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていないが、河内の石川および葛城県(後の大和国高市郡)蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪族であったとされる。 <中略>
 蘇我氏は、葛城を拠点としていた尾張氏を経由することで安閑天皇・宣化天皇と接近することができたとし、実際に、安閑の勾金橋宮が蘇我の地の付近に存在しており、安閑期には大臣になっていないとはいえ、既に有力豪族の一派となっていたとする説も存在する。】

×「蘇我満智」について
(wikipedia)
蘇我満智(そがのまち)は、古墳時代の豪族。蘇我石川宿禰の子で、武内宿禰の孫にあたる。蘇我韓子の父、蘇我稲目の曾祖父。名は麻智、満知とも。蘇我満智宿禰。
 「満智(マチ)」は、「和名類聚抄」に「町<和名末知>田区也」とあることから、「田の区画」を表す単語であったと考えられる。 】

×「蘇我韓子」について
(wikipedia)
【「日本書紀」によると、蘇我韓子は、雄略天皇九年(四六五年)三月、雄略天皇の命で紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰と共に大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害し始めたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。】
 ※のち、仲間内のいさかいにより、小弓の子、紀大磐に殺される。

×「蘇我高麗」について
(wikipedia)
蘇我高麗(そがのこま)は、古墳時代の豪族。蘇我韓子の子。蘇我稲目の父。別名は蘇我馬背。蘇我氏が高麗系の渡来人だったから高麗と呼ばれたという説がある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「蘇我/曽我」=「サ・カ」=「湿原の・ほとり」(曽我川の岸)
◎縄文語:「真菅(ますが)」=「マサカ」=「浜の草原の上」
(曽我町周辺、曽我川の岸)
◎縄文語:「真菅(ますげ)」=「マサ・ケ」=「浜の草原・のところ」(曽我町周辺、曽我川の岸)
◎縄文語:「(蘇我)満智」=「マ・チャ」=「谷川の・岸」(曽我川の岸)
◎縄文語:「(蘇我)韓子」=「カ・コッ」=「回る、巻く・沢、谷」(曲がる曽我川)
◎縄文語:「(蘇我)高麗」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」 (曲がる曽我川)
◎縄文語:「(蘇我)馬背」=「マサ」=「浜の草原」(曽我川の岸)※蘇我高麗の別名
◎縄文語:「勾/金橋(宮)」=「マ・カリ/カンナ・ハ・ウシ」=「谷川を・巻く/上にある・水が引いた・ところ」(曲がる曽我川/橿原) ※安閑天皇皇居
◎縄文語:「橿原」=「カ・ハ・ラ」=「その上・水が引いた・低地」

 蘇我氏の拠点の比定地である橿原市曽我町は、「曲がっている曽我川」の岸辺です。この時代の蘇我氏の名前は、周辺の地勢と密接に関係していることが分かります。朝鮮半島とは関係ありません。

■蘇我石川宿禰─満智─韓子─高麗(馬背)─稲目

 石川宿禰は古事記で建内宿禰(武内宿禰)の子とされていますが、これは蘇我系石川氏による後世の創作と考えられています。
 私見では、欠史八代や武内宿禰は邪馬台国と後継の台与の事績を隠蔽している時代にあたり、記紀編纂時の有力豪族、渡来系氏族の出自を飾ることを目的とする多くの創作が盛り込まれていると考えています。

 「真菅」には「ますが」と「ますげ」の読みがありますが、縄文語にも「カ=ほとりor上」と「ケ=ところ」の違いがあります。

 また、勾金橋宮の「マ・カリ=谷川を・巻く(曲がる川)」は、「軽曲峡宮(第四代懿徳天皇の皇居)」「軽曲殿(蘇我稲目の居館)」でも同じ用法が見られるので、既出ですが挙げておきます。(※第二百六十三回コラム参照


■「曽我」周辺 ※曽我川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「軽の境原(宮)」=「カ/サン・カ・エ・ハ・ラ」=「回る、巻く/出崎の・上・そこで・水が引いた・低地」(曲がった川の出崎の上の低地)※第八代孝元天皇の皇居
◎縄文語:「軽/曲峡(宮)」=「カ/マ・カリ・オ」=「回る、巻く/谷川を・巻く・川尻」(曲がった谷川の川口) ※第四代懿徳天皇の皇居
◎縄文語:「軽/曲(殿)」=「カ/マ・カリ」=「回る、巻く/谷川を・巻く」(曲がった谷川)※蘇我稲目の居館



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]檜前・飛鳥・倭漢直・阿知使主・都加使主・明日香(飛鳥)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「檜前」について(『飛鳥』青山茂解説 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【天武・持統陵が檜前大内陵と名づけられているように、このあたり一帯を檜前という。檜前にはこの陵のほかに、欽明天皇檜前坂合陵、文武天皇檜前安古岡陵、吉備姫王檜前墓などの陵墓があり、皇室とも深い関係の土地であったことを示している。
 檜前という土地は、その地名の由来からヒノキが生い茂っていて、色濃い影を落としていた土地というわけで、飛鳥の西南の比較的広い丘陵地一帯をよんだらしい。<中略>
 檜前の地名は、帰化人の移住地として有名である。応神天皇二十年の秋九月に渡来した倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖先にあたる阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)らの一行がこの地に定住したらしく、檜前にある於美阿志(おみあし)神社は阿知使主を祭神とし、その名も使主阿知から転じたものであろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「檜前」=「ペナ・クマ」=「上流の・横山」(上流の平べったい山)
◎縄文語:「倭/漢(直)」=「ヤ・ムンテュ/アゥ・ヤ」=「陸岸の・草むら/枝分かれたor隣の・岸」
◎縄文語:「阿知(使主)」
=「アゥ・チャ」=「枝分かれたor隣の・岸」

or「アッ・チャ」=「一方の・岸」
◎縄文語:「都加(使主)」=「テュ・カ」=「岬、峰の・ほとり」

 「倭漢直」とその先祖とされる「阿知使主」は縄文語によくある言い換え表現となっています。同一人物だとしても不思議はありません。周辺地名を名乗った一人の人物を分割して経歴を創作したとも考えられます。

 阿知使主を祀る「於美阿志神社」の地勢は、高取川支流の「枝川の岸」であり、檜前に伸びる「丘陵のほとり」の地勢です。これはそのまま「阿知使主」「都加使主」親子の縄文語解釈と完全に一致します。

■檜前地区(於美阿志神社北方の見晴らしの丘) ※高取川支流の平べったい山。


 また、所在地の「飛鳥(明日香)」は

◎縄文語:「飛鳥(明日香)」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」

 で、これも「阿知使主」「倭漢直」と解釈が一致します。
 大阪の羽曳野市にも「飛鳥」の地名がありますが、こちらは「石川」から見て、”枝分かれた川”である「飛鳥川」の岸辺です。

  さらに、大阪府池田市の「穴織神社」「呉服神社」にもそれぞれ「阿知使主」「都加使主」親子が祭られていますが、こちらも「枝分かれた岸」「岬のほとり」縄文語解釈の地勢と完全に一致しています。

 つまり、日本には「アゥ・ヤ=枝分かれたor隣の・岸」「アゥ・チャ=枝分かれたor隣の・岸」「テュ・カ=岬、峰の・ほとり」などという地勢は、渡来人と無関係に無数に存在するということです。いちいち「倭漢直」「阿知使主」「都加使主」などが祀られて、渡来人物語と結びつけられては困るのです。

 日本の歴史は、どこまでが史実で、どこからが創作なのか、非常に分かりにくいです。それもこれも、渡来人による後世の創作物語が諸悪の根源です。


■穴織神社 ※「枝分かれた、隣の湖沼の岸辺」に立地。 ■呉服神社 ※「五月丘の麓の小河川の岸辺」に立地。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]栗原~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「栗原」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【檜前の近くに、いま栗原というところがある。ここはかつては、呉原(くれはら)といったものだった。『日本書紀』雄略十四年条に、「即ち呉人を檜前野に安置らしむ。因りて呉原と名づく」とあるそれである。
 では、この呉人、呉原のくれ(呉)とはどういうものであったろうか。呉などという字があてられているものだから、中国のかつての呉国とまちがえられたりしているが、これももとは高句麗からきたものであった。高句麗は朝鮮語でコクレというのであるが、高は美称であるから、それをとるとクレ(句麗)となるのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「栗原」 =「カリ・ハ・ラ」=「回る・水が引いた・低いところ」 (蛇行する川の岸辺の低地)

 「栗原」は、縄文語で「蛇行する川の岸辺の低地」を指します。少々発音がズレていますが、全国の他の「栗原」も同様の地勢です。

 呉国でも高句麗由来でもありません。従って、日本書紀の「呉人を住まわせた」という内容も信用できません。


■栗原(奈良県明日香村) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(栃木県日光市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(茨城県つくば市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(埼玉県久喜市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(埼玉県新座市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(東京都足立区) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(神奈川県座間市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(静岡県静岡市駿河区) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(新潟県妙高市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(三重県度会郡度会町) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(岐阜県関市) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(岐阜県不破郡垂井町) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(兵庫県赤穂郡上郡町) ※蛇行する川の岸辺の低地。


■栗原(岡山県真庭市) ※蛇行する川の岸辺の低地。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]飛鳥坐神社・賀夜奈流美・甘樫丘~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「飛鳥坐神社・賀夜奈流美」について(wikipedia)
【創建年代とその由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。】

×「神奈備」について(日本国語大辞典 )
【「かん」は「神」、「な」は「の」の意、「び」は「辺」と同じく「あたり」の意か) 神のいらっしゃる場所。古代信仰では神は山や森に天降(あまくだ)るとされたので、降神、祭祀の場所である神聖な山や森をいう。特に、龍田、飛鳥、三輪などのそれが有名。かみなび。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「賀夜奈流美」 =「カヤ・ナ・ル」=「岸辺の・方の・岬」 (飛鳥川のほとりの岬)
◎縄文語:「飛鳥(明日香)」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」(飛鳥川のほとり)
◎縄文語:「神奈備」=「カンナ・ピ」=「上にある・石」(山上の磐座、三輪山など)

 縄文語で解釈すれば、不思議な名前の神様も簡単に当該地の地勢であることが分かります。「賀夜奈流美」が日本各地に祀られている理由も分かります。朝鮮半島の加耶由来ではありません。
 飛鳥坐神社祭神の「賀夜奈流美」は、もともと西方の「甘樫丘」に祀られていたようです(『日本の中の朝鮮文化』)。

◎縄文語:「甘樫(丘)」=「ア・カ」=「寝そべっている・その上」(平べったい山の上=甘樫丘)


■甘樫丘(正面)と飛鳥坐神社(右の森) ※平べったい山。

■飛鳥坐神社




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]今木神・甲神社[京都府]平野神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「今木神・甲神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【今木(来)とはなにかといえば、上田正昭氏も言っているように、これは「新しく渡来した地」ということを意味したものだった。もちろん古代朝鮮から渡来したもので、それの集中していたところが、こんど発見された高松塚壁画古墳のある檜前であったとされている。<中略>
 したがって今来神とは、この今来郡(のちの高市郡)にいた渡来人の祖神のことで、伴信友や金沢庄三郎氏などによると、それは百済の聖明王であったことになっている。
 京都の平野神社(平野とは朝鮮語ではナラの、すなわち国の、という意味でもある)はもと奈良の平城京にあったものだったが、それが平安京への遷都にともなって、京都にうつされたものであった。<中略>
 甲神社は、(吉野郡)大淀町の今木というところにあった。またの名称を今木神社ともいっているとのことだったが、神社そのものは小さなものだった。しかしそこは、今木すなわち今来というところであり、それが今来神を祭った神社であったことに大きな意味があった。】

○「平野神社・今来神」について(wikipedia)
【京都市北部、平安京大内裏(平安宮)から北方の平野の地に鎮座する神社である。<中略>祭神のうち主神の今木神は、元々は高野新笠(桓武天皇生母)の祖神として大和国において祀られた神と見られ、延暦元年(七八二年)時点では平城京の田村後宮で祀られていたことが知られる。桓武天皇による平安京遷都に伴って、この今木神が大内裏近くに移し祀られたのが平野神社の創建になるとされる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「今木(神)」 =「エコ」=「水源」 (奈良平城京、高市郡、吉野郡大淀町今木、京都平野)
◎縄文語:「甲(神社)」=「カ・ト」=「平べったい・湖沼」(浅い湖沼)
◎縄文語:「平野」=「ペ・ナ」=「泉の・平地」 (京都平野、奈良平城京)

 縄文語解釈では、今木神は「水源」、甲と平野は「湖沼地帯」という意味です。いずれも所在地の地勢を表しています。
 もし、「今木神」なるものがあるのであれば、それはもともと水源を祀る先住民による自然崇拝です。朝鮮半島由来の渡来人が関係していたとしても、それは半島南部の倭人と同系の、言語を共有する南方系の民族となります。
 漢字表記から意味をこじつける北方系、百済王族周辺、高句麗の人々ではありません。

 京都の平野神社は秦氏の拠点、太秦の北東です。こちらも辻褄の合う縄文語解釈が可能です。

◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「太秦」=「ウテュ・マサ」=「間の・水辺の草原」


■田村第(藤原仲麻呂邸)推定地 ※平城京周辺の池沼地帯。

■高市郡 ※奈良盆地南部の谷。川の上流、水源。

■吉野郡大淀町今木 ※川の上流。

■平野神社(京都)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百六十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[奈良県]巨勢廃寺・御所市・葛城[大阪府]比売許曽神社[和歌山県]伊太祁曽神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「巨勢廃寺」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【飛鳥寺とおなじく、この巨勢寺も蘇我氏族の氏寺だったものであるが、巨勢というのは、金沢庄三郎氏によると朝鮮語の居世(コセ)(治世という意味の尊称)からきたものではないかという。そうだとすると、現在の御所市御所もそれから出たものであろう。
 朝鮮語居世が比売許曽神社の許曽(こそ)、伊太祁曽神社の(きそ)となり、それがまたさらに巨勢、御所となっているのがおもしろい。】

×「御所市由来」について(御所市公式HP)
【御所市は、昭和33年3月31日に御所(ごせ)町を中心に(くず)村、葛上(かつじょう)村、大正村の4ヶ町村が合併して市制を施行しました。名前の由来は、市内を流れる葛城(かつらぎ)川に五つの瀬があったとする説や、孝昭天皇の御諸(みむろ)が「御所」に変わったとする説があります。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「御所/巨勢(寺)/葛上」 =「コッチャ」=「谷の入口」
◎縄文語:「葛城」 =「コッチャ・ケ」=「谷の入口・のところ」
◎縄文語:「葛」 =「クッチャ」=「湖沼や湾の入口」

◎縄文語:「比売許曽(神社)」 =「シ・メ・コッ」=「大きな・泉の・窪地」 (河内湖)
◎縄文語:「伊太祁曽(神社)」 =「エテュ・キサ」=「岬の・耳」(耳のように出っ張った岬。伊太祁曽神社背後の山)

 「御所」「巨勢」「葛上」「葛城」「葛」はいずれも、葛城市、御所市周辺の「谷地形」を表現しています。漢字こじつけ説は、日本語、朝鮮語、いずれにしても間違いです。

 比売許曽神社と伊太祁曽神社の解釈は異なります。比売許曽神社は「河内湖の岸辺」で、伊太祁曽神社は背後の「出っ張った山」の地形を指します。伊太祁曽神社は千葉県の木更津の解釈に似ています。

◎縄文語:「木更津」
=「キサ・テュ」=「耳の・岬」
(耳のように出っ張った岬)
or「キサ・チャ」=「耳の・岸」(耳のように出っ張った岸)


■葛城市、御所市周辺 ※谷地形。


■比売許曽神社 ※河内湖のほとり。


■伊太祁曽神社 ※耳のように出っ張った岬。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百七十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~豊浦宮・小墾田宮・飛鳥岡本宮・田中宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・難波長柄豊碕宮・近江大津宮・飛鳥浄御原宮・新益京(藤原宮)・平城京・長岡京・平安京~」
 今回は代々の皇居、都を縄文語解釈します。地名由来がはっきりしているものは、すべて地勢と一致する縄文語解釈可能です。また、平城京や平安京も縄文語由来の可能性があります。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「豊浦宮」について(『日本書紀』)(奈良県高市郡明日香村豊浦)
【(崇峻天皇五年)皇位の印の鏡、剣などをたてまつって、冬十二月八日、皇后(額田部皇女/推古天皇)は豊浦宮において即位された。】

◎縄文語:「豊浦(宮)」 =「ト・ヤ・ウン・ラ」=「湖沼の・岸辺・にある・低地」(和田池の岸辺の低地)
◎縄文語:「和田(池)」 =「ウェン・チャ」=「通行困難な難所の・岸辺」


■推古天皇豊浦宮跡


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「小墾田宮」について(『日本書紀』)(奈良県明日香村の雷丘周辺)
【(推古天皇十一年)冬十月四日、天皇は小墾田宮に移られた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「小墾田(宮)」 =「オ・ウォロ・チャ」=「尻を・水につけている・岸」(雷丘のふもとの飛鳥川の岸辺)
◎縄文語:「雷(丘)」 =「エカィ・テューテュ」=「山頂が平らな・岬」(雷丘)


■小墾田宮推定地



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「飛鳥岡本宮」について(『日本書紀』)(奈良県明日香村岡の飛鳥京跡)
【(舒明天皇二年)天皇は飛鳥岡のほとりにお移りになった。これを岡本宮という。この年改めて難波の大郡と三韓の館を修理した。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「岡本(宮)」 =「オ・モ・テュ」=「窪地の・小さな・峰」(周辺の丘陵)


■飛鳥宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「田中宮」について(『日本書紀』)(奈良県橿原市田中町)
【(舒明天皇八年)岡本宮が火災で焼けた。天皇は臨時の田中宮に移られた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「田中(宮)」 =「タン・ナィ・カ」=「こちらの・川の・ほとり」(飛鳥川のほとり)
◎縄文語:「飛鳥(川)」 =「アッ・チャ・カ」=「一方の・岸の・ほとり」(飛鳥川のほとり)

 縄文語では「田中」と「飛鳥」は同義です。


■ 田中宮跡・田中廃寺跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「飛鳥板蓋宮」について(『日本書紀』)(奈良県明日香村岡の飛鳥京跡)
【(皇極天皇元年)天皇は大臣(蘇我蝦夷)に、「今年から十二月までの間に、宮殿(板蓋宮)を造りたいと思う。国々に用材を採らせるように。また東は遠江まで、西は安芸までの国々から、造営の人夫を集めるように」と言われた。二十一日、越の辺境の蝦夷が数千人帰服した。】
【(皇極天皇二年)(四月)二十八日、仮の宮殿から移って、飛鳥の板蓋の新宮にお越しになった。】
×「飛鳥板蓋宮」について(wikipedia)
【名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。実際にも檜皮葺や茅葺きの建築物は現代に至るも遺っているものが多いが、板葺きの建築物が遺っている例は少ない。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「板蓋(宮)」 =「エテュ・ペンケ」=「岬の・川上」(甘樫丘の上手)


■飛鳥宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「飛鳥川原宮」について(『日本書紀』)(奈良県明日香村川原の川原寺跡)
【(斉明天皇元年)この冬、飛鳥板蓋宮に出火があった。それで飛鳥川原宮に遷られた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「川原(宮)」 =「カワ・エ・ハ・ラ」=「岸辺が・そこで・水が引いた・低地」
※解釈確度は高くありません。


■川原寺跡 弘福寺



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「難波長柄豊碕宮」について(『日本書紀』)(大阪市中央区)
【(大化元年)冬十二月九日、(孝徳)天皇は都を難波の長柄豊碕に移された。老人たちは語り合い、「春から夏にかけて、鼠が難波の方に向かったのは、都遷りの前兆だった」といった。】
【(白雉三年)秋九月、豊碕宮の造営は終った。その宮殿の有様は、譬えよういもない程のものであった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「長柄/豊碕(宮)」 =「ノッケ・ラ/トヤ・サ(orサン)・ケ」=「岬の・低いところ/海岸の・浜(or岬)の・ところ」


■難波長柄豊碕宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「近江大津宮」について(『日本書紀』)(滋賀県錦織説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説)
【(天智天皇六年)三月十九日、都を近江に移した。このとき転訛の人民は遷都を喜ばず、諷諫するものが多かった。童謡(わざうた)も多く、夜昼となく出火するところが多かった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「近江/大津(宮)」 =「アゥ・メ/オオ・チャ」=「枝分かれた・泉(琵琶湖)/大きな・岸」(琵琶湖南部の岸辺)

◎縄文語:「志賀」 =「シ・カ」=「大きな・岸」
(琵琶湖南部の岸辺)
◎縄文語:「瀬田」 =「セ・チャ」=「大きな・岸」
(琵琶湖南部の岸辺)


■近江大津宮錦織遺跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「飛鳥浄御原宮」について(『日本書紀』)(奈良県明日香村岡の飛鳥京跡)
【(天武天皇元年)この年、宮殿を岡本宮の南に造り、その冬に、移り住まわれた。これを飛鳥浄御原宮という】
【(朱鳥元年)(七月)二十日、改元して朱鳥元年とした。宮を名づけて飛鳥浄御原宮といった。】
○「飛鳥浄御原宮」について(wikipedia)
【飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「浄御原(宮)」 =不明


■飛鳥宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「新益京(藤原宮)」について(『日本書紀』)(奈良県橿原市および明日香村)
【(持統天皇四年)(十月)二十七日、使者を遣わして新益京(新たに増された藤原宮)に、地鎮の祭をさせられた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「藤原(宮)」 =「ペチ・ハ・ラ」=「その川・水が引いた・低いところ」
◎縄文語:「新益(京)」 =「ア・マ・チャ」=「一方の・谷川の・岸辺」(飛鳥川のほとり)

◎縄文語:「飛鳥(川)」=「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」(飛鳥川のほとり)
◎縄文語:「田中(宮)」 =「タン・ナィ・カ」=「こちらの・川の・ほとり」(飛鳥川の対岸)


■藤原宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「平城京」について(wikipedia)(奈良県奈良市および大和郡山市)
【奈良時代の日本の首都。七一〇年に藤原京から遷都するにあたり、唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「平城(京)」 =「ペン・チゥ」=「川上の・水流、水脈」(奈良盆地北部の湖沼地帯)


■平城宮跡歴史公園



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「長岡京」について(wikipedia)(京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)
【延暦三年(七八四年)十一月十一日、第五十代桓武天皇により平城京から遷都され、延暦一三年(七九四年)十月二十二日に平安京に遷都されるまで機能した。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「長岡(京)」 =「ナィコッ・オカ」=「水が涸れた沢の・跡」(奈良盆地北部の湖沼地帯)


■長岡宮跡



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「平安京」について(wikipedia)
【桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の洛陽城や長安城を模して七九三年(延暦一二年)から建設された。翌七九四年(延暦一三年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。】
×「平安京」について(『日本後紀』wikipedia)
【また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「平安(京)」 =「ペン・アゥ」=「上流の・枝分かれ」(鴨川上流の分岐、賀茂川と高野川)

◎縄文語:「花名(町)(ハナナチョウ)」 =「パン・アゥ・ナ」=「下流の・枝分かれ・の方」(鴨川下流の桂川からの分岐)


 京都市南区上鳥羽北花名町、上鳥羽南花名町は鴨川下流の桂川の分岐点にあたります。「鳥羽」は「トーパ=沼頭」の意なので、周辺が湖沼だったことが分かります。東には「竹田」地区がありますが、これも「トンケ・チャ=沼はずれの・岸」の意でつじつまが合います。


■京都御所 ※賀茂川と高野川の分岐点。上流の枝分かれ。


■上鳥羽南花名町 ※桂川と鴨川の分岐点。下流の枝分かれ。





◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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