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日出ずる国のエラーコラム

【 第六十一回 ~ 第七十回】

 邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。

日出ずる国のエラーコラム
第七十回 茨城県(常陸国)の古墳名から王朝交代を探る!
 

 今回は、旧常陸国である茨城県の古墳名を縄文語解釈します。これまで、関東の古墳王国である群馬県の古墳を縄文語解釈するにあたり、それに付随していくつかの茨城県の古墳もすでに調べていますが、そこから漏れていた古墳を追加させていただきます。

 常陸国風土記を縄文語解釈する前に、その比較対象として常陸国の古墳名の縄文語解釈があった方が、上代日本語との切り替わりのタイミングや、風土記記載内容の信憑性の有無をより適切に判断することができます。

 邪馬台国滅亡後の4世紀以降、房総半島の東京湾沿いから常陸国にかけて出現期の前方後円墳が北上します。これは、ヤマトの勢力が東国支配に乗り出した足跡と考えられています。とすれば、上古常陸国で使われていた言葉は、それはすなわち当時のヤマトの言葉でもあった可能性が高いということになります。
 これまでの縄文語解釈により、筆者は、邪馬台国時代のヤマトでは疑いなく縄文語(アイヌ語)が使用されていたと考えていますが、結果次第では、常陸国の古墳名はその傍証としてかなり貴重な存在になりえます。

 最初からタネ明かししますが、茨城県では少なくとも7世紀代までは縄文語の使用の可能性が高いという結果が出ました。ヤマトの古墳では6世紀、群馬県でも7世紀の結果が出ているのでまったく不思議ではありません。
 常陸国風土記の編纂が8世紀初頭ですから、必然的に縄文語と上代日本語の二重構造だった疑いが強くなります。

 これは、国司周辺や書記官だけが上代日本語を使用したということでしょうか。それとも、話し言葉と書き言葉が異なったのでしょうか。
 大宝律令(701年)以降には、各地方に国学(地方大学)が設置されますが、これはもしかすると、現在の日本人が英語を学んでいるような状況だったのかもしれません。

 まだまだ真実は闇の中です。
 では、常陸国の古墳の縄文語解釈を見ていきます。


【今回取り上げる内容】
千年塚古墳/お伊勢山古墳/夫婦塚古墳/小町塚古墳/中野冨士山古墳/梵天山古墳/星神社古墳/琵琶墓古墳/十王前横穴墓群(かんぶり穴)/虎塚古墳/愛宕山古墳/馬塚古墳/宝塚古墳/日下ヶ塚古墳/羽黒古墳/玉里舟塚古墳/雷電山古墳(亀塚古墳)/大井戸古墳/妙見山古墳/滝台古墳/勅使塚古墳(沖洲古墳群)/三昧塚古墳/大日塚古墳/愛宕塚古墳/矢尻北古墳/秋葉山古墳/高山古墳/八龍神塚古墳/毘沙門塚古墳/鷲塚古墳・おたま塚古墳/駒塚古墳/穴薬師古墳/舟塚山古墳/府中愛宕山古墳/茨城古墳/佐自塚古墳/丸山古墳/富士見塚古墳/牛渡牛塚古墳/牛渡銚子塚古墳/沼田八幡塚古墳/佐都ヶ岩屋古墳/鹿見塚古墳/白幡八幡塚古墳

※茨城の古墳巡りは下記のバーチャルツアーが面白いのでぜひ訪れてみてください。
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茨城VRツアートップページ


■■■ 千年塚古墳(鶴来古墳群) ■■■
(鹿嶋市/6世紀/長方墳)⇒google map  ⇒ストリートビュー

●千年塚=「サン・ネ・テュ」=「棚・のような・小山」
●鶴来=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ
⇒google ストリートビュー


 千年塚の縄文語解釈「棚のような小山」は、長方墳を表したとすれば、この上ない的確な表現です。

 また、この古墳のある丘は古来「鶴来の丘」と呼ばれていて、縄文語解釈ではその丘陵の形状を表したものと言えます。⇒ストリートビューを見ていただくと一目瞭然ですが、弓を横にした形(真ん中が窪んだ峰)を表しています。
 この「カッ・ク=形が・弓」はこれまでも何度か登場していて、いずれもまったく同様の地勢を表しています。

・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー

 また、愛宕山に祀られるカグツチは縄文語解釈では香久山とまったく同じ意味で、京都愛宕山の地勢を指しています。右奥の愛宕山と左手前の小倉山の連なりがちょうど弓の形に見えます。もちろん、漢字語呂合わせの火の神ではありません。

●カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)

  これらは極めて確度の高い縄文語解釈で、鶴来の丘周辺地域での縄文語使用も確実と言えます。その意味するところは漢字表記とはまったく異なります。もちろん、鶴も鹿も来ていません。


 千年塚には次の伝承が残っていて、一般的には、それが古墳群、古墳名になったとされています。

<伝承>
 昔、鹿島神宮に卜部活麿(うらべのいくまろ)とうい神官がいて、彼は非常に鶴をかわいがっていました。あるとき彼は鶴の背に乗って北方に飛び去っていきました。3年経って鶴の背に乗って帰ってきた活麿を、人は天人とか鶴の化生と言って尊敬しました。
 皆が驚くほど長生きした活麿の死後、彼の霊を祭った塚は「千年塚」と呼ばれ、鶴と遊んだ丘は「鶴来(かくらい)の丘」と呼ぶようになったと伝えられています。(出典:現地案内看板)

 漢字表記にこじつけた由来は、記紀、風土記、伝承、ほぼすべてデタラメです。このような伝承は、例外なく別の場所に本当の由来が隠されていることを示しています。


■■■ お伊勢山古墳(宮中野古墳群) ■■■
(鹿嶋市/4世紀/前方後円墳)⇒google map
⇒ストリートビュー

●「オ・エン・シ(山)」=「尻が・尖っている・山」


 宮中野古墳群の中では最も古い古墳です。

 近隣の古墳が、形状由来の命名と解釈できるので、この古墳も同様に疑ってみました。「伊勢山」の前に「お」が付くのがなんとも怪しいです。

 言うまでもなく、この名称は墳頂部にお伊勢様の祠があることを由来とするのが一般的ですが、これは、縄文語の似た音を機縁として後世に勧請されただけではないでしょうか。

 他の例として、八幡神社は「ペッチャ=川端」、愛宕神社は「アッ・タ=片割れの・ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」、稲荷神社は「イナゥ・リ」=「幣の・高台=高台の祭場」とそれぞれ縄文語解釈でき、後世に神社がこじつけられたと判断できるものが数多く見受けられます。
 全国の八幡の地名はほぼ川端にあり、愛宕山は例外なくぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)です。是非調べてみてください。(※第三十七回コラム「八幡塚古墳」の項、第三十六回コラム「愛宕山古墳」の項参照)


■■■ 夫婦塚古墳(宮中野古墳群) ■■■
(鹿嶋市/6世紀中~後半/前方後円墳)⇒google map

●「ムィェ・エン・テュ・テュ」=「頂が・尖った・岬の・小山」

 全長107.5m、想定される周堀を含めると150m。宮中野古墳群中最大規模の前方後円墳。北浦を望む台地の端に築かれた古墳。

 この古墳で最も特徴的なのは、前方部と後円部に平坦面がなく、尖った形をしていることです。縄文語解釈そのままの形状です。
 北浦対岸の鹿見塚古墳も後円部が尖った形状をしていますが、こちらも「シ・カッ・ムィェ=真の・形の・頂=円錐形」と解釈できます(※第七十回コラム参照)。

 ちなみに、北海道の恵庭岳は「エ・エン・イワ=頭が・尖った・山」の意ですから、類似表現と言えます。

 一般的には、前方部と後円部を夫婦に見立てて命名されたとされていますが、その割には、他の前方後円墳の名称にあまり見受けられないのは不自然です。

 例えば「銚子塚=チー・テュ=中窪みの・小山=前方後円墳」などは、同名の古墳がたくさん存在します。(※決して酒器の銚子に似ているから前方後円墳の名となったのではありません。詳しくは第三十六回コラム参照)


■■■ 小町塚古墳(宮中野古墳群) ■■■
(鹿嶋市/6世紀中~後半/帆立貝形古墳)⇒google map

●「ケ・チャ・テュ」=「足を・切った・小山」

 全長92mの帆立貝形古墳。
 縄文語の「足を切った」というのは、前方後円墳に比べて前方部が短いものと解釈しました。



■■■ 中野冨士山古墳 ■■■

(常陸太田市/前方後円墳)⇒google map

●「ナィカ・ウン・ノッ/ペッチャ・ヤマ」=「川岸・にある・岬/川岸の・山」

 前方部が短小な前方後円墳です。古墳の主体部は不明で、未発掘とみられています。
 所在地名の「中野」と古墳名の「富士」は、縄文語解釈ではまったく同じ意味となります。「富士」は決して「富士山が見える」という意味ではありません。各地の「富士見」の地名も「ペッチャ=川端」の意で、八幡、人見などと同じ語源、同じ地勢です。

 また、東方に星神社古墳がありますが、こちらも「川岸」と縄文語解釈でき、辻褄が合います。星神社古墳については、後段をご参照ください。


■■■ 梵天山古墳 ■■■
(常陸太田市/4世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ポン・タン・ヤマ」=「小さな・こちらの・山」

 全長160mの茨城県で二番目に大きい前方後円墳。久慈川流域を治めていた久自国造舟瀬足尼の墓との伝承があります。(※参考:茨城VRツアー)

 墳丘上には梵天大権現が祀られていますが由緒は不明です。
「梵天」は仏教伝来以降の名称ではなく、ただ単に縄文語に「梵天」という漢字が充てられただけかもしれません。群馬県にも宝塔山古墳という一般的には仏教の影響による命名とされる古墳がありますが、こちらも「湿地の山の古墳」という縄文語解釈が可能です。

 縄文語解釈すれば、「小さなこちらの山」という表現ですから、比較対象として近くに必ず「あちらの山」があります。これは西方の「中野冨士山古墳」あるいは「星神社古墳」が相応しいと思われます。


■■■ 星神社古墳 ■■■
(常陸太田市/4世紀/前方後円墳)⇒google map

●「ペッチャ・ヤ」=「川端の・陸岸の方」

 久慈川流域では梵天山古墳とともに最古の前方後円墳。別名拝領山諏訪山古墳。墳頂には星宮神社があります。

 古墳名の星神社とは星宮神社のことですから、「星宮」を縄文語解釈しました。川端を意味する「ペッチャ」に「陸岸の方」を意味する「ヤ」がついていますから、川端でも、少し内陸の方を指したのかもしれません。

 この星宮神社は、栃木県に多い神社です。以下に数十か所の星宮神社がありますが、その多くが川端から離れた少し内陸の方に立地しているのが分かります。

【参考】星宮神社の立地
・栃木県東部の星宮神社⇒google map
・栃木県西部の星宮神社⇒google map

 また、星神社(「宮」がつかない)の縄文語解釈には、以下の選択肢があります。漢字語呂合わせの北極星の神ではないと思います。

●星=「ペッチャ」=「川岸」
 or
=「ペッチャ」=「川端」
 or=「ポッチェ・イ」=「ぬかるんでいる・ところ」

 一般的に、妙見山、妙見神社などの北辰(北極星)信仰に星神社も含まれるとされますが、以下の参考例を見ると、「川端などの水辺の神社」とする方が圧倒的に説得力があります。

 ちなみに、「妙見」は古墳名を除き、水辺とはほぼ関係ないようです。こちらは北極星信仰が妥当かもしれません。


【参考】星神社の立地
・関東地方の星神社⇒google map
・中部地方の星神社⇒google map
・中国地方の星神社⇒google map
・四国地方の星神社⇒google map
・九州地方の星神社⇒google map ※星神社以外もたくさん表示されます。


■■■ 琵琶墓古墳 ■■■
(高萩市/6世紀後半~7世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「ピ・ワ・パ・カ」=「石の・岸の・岬の・ほとり(or上)」
or
「ピ・ワ・パケ」=「石の・岸の・岬」

 琵琶墓古墳は、赤浜海岸の台地に築かれた、全長43mの高萩市最大の古墳です。赤浜海岸は海蝕崖の浜です。
赤浜海岸(高萩市観光協会HP)

 確度の高い縄文語解釈です。この地域の権力者の墓で、しかも終末期の築造ですから、上代日本語で書かれた常陸国風土記(721年)への接続の仕方が気にかかります。その間、約100年です。

 庶民の言語が短期間のうちに切り替わったり、人々が完全に入れ替わったりしたとも思えません。庶民の使う縄文語と国衙周辺で使用される上代日本語が二重構造だった可能性があります。それとも、表記する時だけ上代日本語だったのでしょうか。

 ちょうど律令制度が地方に波及する段階ですから、国衙の設置、国司の派遣の実態は、ただ単に地方の把握、管理だけを目的とするような生やさしいものではなかったのかもしれません。風土記もその延長で、従来の地方文化の抹殺を目的としているとすれば、時期的にも、記載内容的にも辻褄が合います。

 余談ですが、琵琶湖、甲斐の琵琶城、越後の琵琶島城なども、おそらくは「ピ・ワ=石の・岸(orふち)」の意です。「琵琶の形に似ているから」などという漢字表記にこじつけられた通説は、高確率でデタラメです。


■■■ 十王前横穴墓群(かんぶり穴) ■■■
(日立市/6世紀~7世紀/横穴墓群)⇒google map

●かんぶり(穴)
=「カムィ・ポル」=「あの世の・岩窟」
or
「カムィ・プィ」=「あの世の・穴」
=横穴墓

 十王前横穴墓群は「かんぶり穴」とも呼ばれています。「かんぶり」が日本語ではないことは明らかで、縄文語解釈もピタリと一致しています。築造時期は古墳時代終末期にさしかかっています。
 アイヌ語の「カムィ・スィ(=プィ)=神(クマ)の・穴」という言葉と同義です。

 地名の「十王」は命名時期不明なので、縄文語解釈しても仕方ありませんが、

●十王=「シ・オ」=「山・裾」

 だと思われます。
 古墳名によく登場する「親王塚」「新皇塚」「塩塚」と同語源です。

 ちなみに「因幡の白兎」も「シ・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜・のところ=白兎海岸」の意味で、同語源が含まれます。これは発音も地勢も完全に一致しているので、極めて確度の高い縄文語解釈と言えます。ウサギの物語はもちろん古代人のデタラメ創作です。
⇒google map(白兎海岸)


■■■ 虎塚古墳 ■■■
(ひたちなか市/7世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「トラィ・テュ」=「湿地の水たまりの・小山」

 彩色壁画が発見された終末期の古墳。虎が関係しているとも思えません。

 現在は水田に囲まれていますが、湿地の雰囲気は十分に感じられます。⇒google ストリートビュー


■■■ 愛宕山古墳 ■■■
(水戸市/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「アッ・タ・ヤマ」=「片割れの・ぽつんと離れている(or尾根の先がたんこぶのように高くなっているところの)・山」

 全長136.5mの茨城県最大級の前方後円墳。仲国(那珂川流域)を支配した仲国造の墓との説があります。

 全国の「愛宕山」については、第三十六回コラムの愛宕山古墳の項で解説しています。縄文語解釈としては非常に確度が高く、この愛宕山古墳も河岸段丘の端に立地しています。墳丘上の愛宕神社は、地名繋がりで勧請されたのではないでしょうか。
 愛宕総本社のある京都の愛宕山も「ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」です。⇒wikipedia(京都愛宕山)

  仲国造が建借馬命だとする説がありますが、時代がまったく合いません。建借馬命は常陸国風土記によると第十代崇神朝、先代旧事本紀では第十三代成務朝の人物です。崇神天皇は邪馬台国を攻め滅ぼしていますから、3世紀中頃の人物です。

 崇神天皇から続く数代は、卑弥呼の後を継いだ台与の事績を隠蔽している可能性が高く、武内宿禰が第十二代景行天皇~第十六代仁徳天皇に仕えていることから、記紀が物語を創作していることは明らかで、風土記や先代旧事本紀の話もどこまで本当か分かりません。(※第三十回コラム参照)


■■■ 馬塚古墳 ■■■
(水戸市/円墳)⇒google map

●「マーテュ・カ」=「波打ち際の・ほとり」

 前項の愛宕山古墳の南100mに位置する古墳。縄文語解釈では、那珂川沿いの古墳という意味です。

 以下、再掲となりますが、「マーテュ」のつく古墳です。ことごとく水辺であることが分かります。(※第五十七回コラム参照)

【参考】「マーテュ」の解釈が可能な各地の古墳 ※第五十七回コラムより引用
◎枡塚古墳(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map
  =「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」
 ※日本海を望む段丘に築造。
◎マンジュウ古墳(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
 =「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
  ※ため池の際に築造。
◎爺ヶ松古墳(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
  =「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」
 ※峰に挟まれた池畔。
◎相作馬塚古墳(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map
  ※池畔。
◎万塚古墳(香川県高松市/6世紀)⇒google map
  =「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」
 ※平池の南岸に築造。
◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map
  ※池畔。


■■■ 宝塚古墳 ■■■
(茨城町/4世紀末~5世紀初頭/前方後方墳)⇒google map

●「ト・カラ・テュ」=「湖の・岸の低いところの・小山」

 池畔の古墳。他地域の宝塚古墳については、第四十七回コラムをご参照ください。ほぼすべて湖沼のほとりに築かれています。


■■■ 日下ヶ塚(ひさげづか)古墳 ■■■
(茨城町/4世紀/前方後円墳)⇒google map
⇒google ストリートビュー

●日下ヶ塚=「ピ・サ・ケ・テュ」=「石の・浜の・ところの・小山」

 大洗海岸のそばの古墳という意味です。ストリートビューを見ていただくと一目瞭然です。まさに「石の浜」。



■■■ 羽黒古墳 ■■■
(小美玉市/5~6世紀/前方後円墳)⇒google map

●「パケ・オロ」=「岬の・ところ(or中)」

 岬の先端に築かれた古墳。「パケ」は岬の突端を指すことが多いようです。縄文語解釈そのままです。

 以下、「羽黒」のつく古墳、地名、神社を挙げます。いくつかの例外を除き、ほぼすべて「岬の突端」「岬の先端の平地」「河岸段丘上」にあります。


【参考】各地の「羽黒」のつく古墳、地名、神社
羽黒古墳(栃木県足利市板倉町/古墳時代後期/円墳)⇒google map
 ※岬の突端
羽黒神社古墳(埼玉県児玉郡美里町)⇒google map
 ※岬のところ
羽黒古墳群(千葉県印西市吉高)⇒google map
 ※岬の突端
・東北地方の羽黒⇒google map
 ※ほぼ岬の突端
・愛知県犬山市羽黒⇒google map
 ※岬のところ
・東北地方の羽黒神社⇒google map
 ※ほぼすべて岬の突端、あるいは岬の先端の平地。
・上越周辺の羽黒神社⇒google map
 ※一部例外を除き、ほとんど岬の突端、あるいは岬の先端の平地。
・関東地方の羽黒神社⇒google map
 ※岬の突端が多いが、南部は不明、あるいは例外あり。
・西国の羽黒神社⇒google map
 ※ほぼ岬の突端、岬のところ。


■■■ 玉里舟塚古墳 ■■■
(小美玉市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「プッ・ナ・テュ」=「川口の・方の・小山」

 恋瀬川あるいは園部川の川口の古墳という意味です。古墳時代は霞ヶ浦の入り江がもっと奥まで入り込んでいたので、今より河口が近くにありました。

 「舟」「船」は、古墳名や地名のいたるところに使われています。繰り返しになりますが、「フネ」は「プッ・ナ=川口の・方」または、「ペ・ナ=上流の・方」の意で多く用いられます。


■■■ 雷電山古墳(亀塚古墳) ■■■
(小美玉市/帆立貝形古墳)⇒google map

●亀塚=「コ・テュ」=「持ち手の曲がりのような・小山」

 形状から言えば、「亀の甲羅(亀塚)」とも言えますが、縄文語では「持ち手の曲がり」となります。「高麗川=湾曲した川」と同語源と捉えることができます。


■■■ 大井戸古墳 ■■■
(小美玉市/前方後円墳)⇒google map

●「オオ・エテュ」=「大きな・岬」

 全長100m級の大規模古墳だったようですが、土取りで破壊されています。縄文語解釈には齟齬はありません。「大きな岬である古墳」あるいは「大きな岬にある古墳」です。


■■■ 妙見山古墳 ■■■
(小美玉市/6世紀/前方後円墳、帆立貝形古墳)⇒google map

●妙見山=「ムィ・オ・ケ・ウン・サン(ヤマ)」=「入り江の・尻の・ところ・にある・平山(山)」
or「メ・オ・ケ・ウン・サン(ヤマ)」=「泉(or古い小川)の・尻の・ところ・にある・平山(山)」


 一般的に「妙見」と言えば、妙見菩薩で北極星を神格化したものですが、ここでは、縄文語に漢字が充てられたと仮定してみます。

 伊勢の太一信仰も北極星信仰ではなく、縄文語で解釈すれば、伊勢志摩の岩礁を指している疑いがあります。

●太一=「タ・エテュ」=「石の・岬」
●伊勢志摩=「イソ・スマ」=「磯の・岩」

 このような漢字こじつけ由来の例は、稲荷、愛宕、八幡など、神社関連でも枚挙に暇がないので、妙見も同様に疑ってみるということです。

 小美玉市の妙見山古墳は、霞ヶ浦のほとりです。以下の【参考1】で各地の「妙見」を冠する古墳を見ると、ことごとく「泉のほとり」にあることが分かります。

 しかし、【参考2】の「妙見」のつく地名、神社仏閣等では、その整合性が若干崩れることになります。
 さらに、全国の「妙見山」を調べてみると、水辺とは関係のない地勢が多くなるので、山の場合は、後世の北極星信仰の影響を受けている可能性が高いと言えます。

 縄文語と北極星信仰が入り混じっている気配があるので、残念ながら小美玉市の妙見山古墳も縄文語使用の根拠とするのは少々危険です。

【参考1「妙見」を冠する古墳
・妙見塚古墳(兵庫県小野市/古墳時代中期/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔
・妙見山古墳(京都府向日市/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔(第6向陽小学校西側にかつて存在)
・妙見山古墳(愛媛県今治市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔
・酒津妙見山古墳群⇒google map
 ※高梨川中洲
・妙見山古墳群(滋賀県高島市/弥生末~古墳時代前期)⇒google map
 ※琵琶湖畔

【参考2「妙見」のつく地名、神社仏閣等
・関東の「妙見」⇒google map
・関西の「妙見」⇒google map
・四国九州の「妙見」⇒google map


■■■ 滝台古墳 ■■■
(小美玉市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「タ・チャィ」=「石の・岸」

 全長100m級の大規模古墳だったようですが、土取りで破壊されています。


■■■ 勅使塚古墳(沖洲古墳群) ■■■
(茨城県行方市/次項「三昧塚古墳」前/前方後方墳)⇒google map

 第四十回コラムでも取り上げていますが、再掲します。

<第四十回コラム引用>
●「テュ・ウシ」=「小山・のところ」

 勅使塚古墳は、下記参考例のように同名古墳が複数ありますが、地勢、形状、築造年代、すべてに統一性がありません。それだけに解釈の確度が高いとは言えませんが、石川県の院内勅使塚古墳などは周辺地名と解釈が一致します。

●「徳田」=「テュ・タ」 =「小山・の方」

【参考】「勅使」を冠する古墳
◎院内勅使塚古墳(石川県七尾市/7世紀前半/方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(富山県富山市/3世紀末/前方後方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(茨城県行方市/5世紀後半/前方後方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(茨城県小美玉市/円墳)⇒google map


■■■ 三昧塚古墳(沖洲古墳群) ■■■
(行方市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「サン・マーテュ・カ」=「浜に出る・波打ち際の・ほとり」

 全長85mの、沖洲古墳群中最大の古墳。

 縄文語解釈は、この辺りが霞ヶ浦の岸辺だったことを示しているのではないでしょうか。 「マーテュ・カ=波打ち際の・ほとり」は、水戸市の馬塚古墳ほか、香川県や兵庫県などの西国でも多く使用されています。
 確度の高い縄文語解釈です。


■■■ 大日塚古墳(沖洲古墳群) ■■■
(行方市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●「タンネ・テューテュ」=「長い・出崎」

 通常「大日」は、真言密教の教主である遍照王如来(摩訶毘盧遮那)のことです。
 ここでは、縄文語に適当な漢字が充てられたものと仮定してみましたが、一般的な地勢すぎて解釈確度は残念ながら高いとは言えません。


■■■ 愛宕塚古墳 ■■■
(小美玉市/6世紀/前方後円墳、帆立貝形古墳)⇒google map

●「アッ・タ・テュ」=「片割れの・尾根の先端の突起の・小山」

 愛宕神社が墳丘上にあり、火の神とされるカグツチを祀っています。これを古墳の命名由来としていますが、かなり疑わしく思えます。

 たびたび書いているように、愛宕権現の大元である、京都の愛宕山もただの「アッ・タ・ヤマ=片割れの・離れてぽつんとしている・山(or峰の端の突起部)」の自然崇拝です。愛宕神社に主に祀られているカグツチも、名前の表記に「火」が含まれることから「火の神」とされているだけで、まったく信じるに値しません。これらは、記紀のデタラメ由来の代表的な例です。

 アイヌ語の「タ」は、「ぽつんと離れている山」以外に、「尾根の先端の突起(たんこぶ)」の意味があります。小美玉市の愛宕塚古墳の地勢とピタリと一致します。

 墳丘上の愛宕神社は、同じ発音の地名(古墳)を機縁として、後世に勧請されただけではないでしょうか。

 また、カグツチは、

・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」
⇒google ストリートビュー
(※京都愛宕山を嵐山渡月橋から望む。中央右奥)

 の意です。岐阜の各務原、京都の香久山、播磨国の香山里、常陸国の鶴来の丘。すべて「形が弓の山」です。


・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ライイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー


■■■ 矢尻北古墳 ■■■
(八千代町/古墳時代後期/円墳)⇒google map

●「ヤ・シリ」=「岸の・山」

 「矢尻」は字地名でもあります。入沼排水路沿いの古墳です。この入沼排水路と西の飯沼川周辺は、享保年間の干拓前までは飯沼という沼でした。矢尻はまさに飯沼の入り江の北岸にあたります。

 極めて確度の高い縄文語解釈です。古墳時代後期ですから、6世紀の築造です。

 また、周辺地名も飯沼と関係すると思われる縄文語解釈が可能です。

・諸川=「モィ・オロ・カワ」=「入り江の・ところの・岸辺」
・尾崎=「オ・チャ・ケ」=「川尻(or沼尻)の・岸・ところ」
・江口=「エ・クッチャ」=「(沼)頭の・入口」
・三和=「サン・ワ」=「山から浜に出る・岸」
・逆井=「サ・コ・サン・イ」=「浜・そこで・前に出る・ところ」
・蕗田=「プッ・ケ・チャ」=「川口の・ところの・岸」※小河川が流れ込んでいたか。
・尾崎=「オ・チャ・ケ」=「川尻の・岸・ところ」※「蕗田」と同義
・芦ヶ谷=「アサ・カヤ」=「入り江の奥の・岸辺」
・崎房=「サン・キ・チャ」=「前に出る・頭の・岸」
・鴻野(山)=「コッ・ウン・ノッ」=「谷・にある・岬」
・大生郷=「オ・ウン・エンコ」=「沼尻・にある・岬」
・沓掛=「クッチャ・カ・ケ」=「(沼の)入口の・ほとりの・ところ」
・内野(山)=「ウテュ・ノッ」=「間の・岬」
or=「ウテュ・ヌ」=「間の・野原」
・馬立=「マーテュ・チャ」=「波打ち際の・岸」
・幸田=「コッ・ウン・チャ」=「窪地・にある・岸」
・猫実=「ナィ・コッチャ・ネ・イ」=「川の・窪地の入口・の・ところ」
・大口=「オオ・クッチャ」=「大きな・(沼の)入口」


■■■ 秋葉山古墳 ■■■
(八千代町/古墳時代後期/円墳)⇒google map

●秋葉=「アケ・パ」=「片割れ、半分の(or一方の)・岬」

 旧入沼入江西岸の台地の突端に位置しています。縄文語解釈としては、「飯沼に突き出た岬(崖上)に築かれた古墳」という意味だと思われます。極めて確度の高い縄文語解釈です。

 古墳の北側には秋葉神社がありますが、もともと縄文語の発音に似た神が勧請されただけではないでしょうか。


 この秋葉山古墳に関連して、秋葉神社について少々書かせていただきます。これまで、日本の神社、神様の由来のほとんどは、「縄文語に充てられた漢字を、後世の人々がその表記から解釈し、デタラメに物語を創作した」と何度か書かせていただきました。
この秋葉神社も例外ではありません。

 全国には、約400社の秋葉神社があるようですが、祀られているのは火伏の神、秋葉大権現です(静岡県の秋葉山本宮秋葉神社、あるいは、新潟県長岡市の秋葉三尺坊大権現別当常安寺が起源)です。

 「秋葉」の縄文語解釈の頭に「ア=片割れ(or一方の)」がついていますが、これがつくと、多くの場合、近隣にもっと大きな同様の地勢が見られます。
 「ア」には「荒」の漢字が充てられることが多いようです。例えば「荒川」などですが、「荒川」の近くには、高確率でより大きな川があります。決して「暴れ川」の意味ではありません。

 「秋葉=アケ・パ=片割れの、半分の(or一方の)・岬」の場合は、近くに「より大きな岬」があるか、あるいは「山を半分に割ったような崖の岬」を指したと考えられます。

 秋葉山本宮秋葉神社、秋葉三尺坊大権現別当常安寺周辺の地勢を見てみると、いずれの場合も、川向かいに「より大きな峰」があると捉えられます。また、秋葉山本宮秋葉神社の場合は、天竜川沿いの峻険な峰の端の「断崖の山」でもあります。
⇒google map(秋葉山本宮秋葉神社)
⇒google map(常安寺)

 この秋葉山本宮秋葉神社は、上古の昔は、岐陛保神ノ社(キヘノホノカミノヤシロ)と呼ばれていたようですが、これも縄文語解釈すると、

●キヘノホノカミノヤシロ=「キピ・ノッ・ホ」=「水際の断崖の・岬の・尻(端)」

 となり、「キヘノホノカミノヤシロ」の縄文語解釈そのままの地勢です。「秋葉」の縄文語解釈とも完全に一致します。
 岐阜や吉備も「水際の断崖」の地勢で、「キピ」が語源だと思われます。

 このように、秋葉は決して「火の神」ではなく、もともとは「片割れの山or水際の崖山の自然崇拝」です。

 さらに、秋葉神社に祀られているカグツチも「火の神」ではありません。漢字表記にたまたま「火」が含まれるので、後世にこじつけ物語が創作されただけです。記紀に記されるイザナミの陰部を焼いたという物語ももちろんデタラメです。

 カグツチは、明らかに以下の解釈が妥当です。

●カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・岬」=京都愛宕山の地勢
⇒google ストリートビュー(※嵐山渡月橋から中央右奥)

 奈良の香久山も、 播磨国の香山里(かぐやま)も「形が弓の山」です。

・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー

  全国の秋葉神社については、江戸期以降に火伏の神として広まったものが多いので、縄文語解釈と地勢が一致しない場合が多いようです。


■■■ 高山古墳 ■■■
(岩井市/7世紀/円墳)⇒google map

●「トケ・ヤマ」=「沼尻の・山」

 飯沼の入江の岸に築かれた古墳。墳丘は土取りによって破壊され、石室のみ残ります。

 近隣地名に「馬立=マーテュ・チャ=波打ち際の・岸」がありますが、これだけでは根拠が希薄なので、解釈確度については何とも言えません。

 ちなみに、後述する毘沙門塚古墳の近隣に「(古河市)高野」地区がありますが、これも

●「トケ・ノッ」=「沼尻の・岬」

 と解釈でき、旧長井戸沼の際の毘沙門塚を指したとも考えられます。「高=トケシ=沼尻」の意味で使用されているかもしれません。


■■■ 八龍神塚古墳 ■■■
(猿島郡境町/6世紀末~7世紀)⇒google map

●「ペッチャ・ルエサン・テュ」=「川端の・浜(or前)に出る道の・小山」=川に出る道にある古墳

 旧一ノ谷沼を望む舌状台地上に立地。明治期の開墾で破壊され、横穴式石室の一部のみ残存しています。

 まさか八人の龍神様の意味ではないでしょうから、これ以外ないというような確度の高い縄文語解釈です。築造時期も終末期にあたり、この時期まで縄文語が使用されていた可能性が高くなってきました。


■■■ 毘沙門塚古墳 ■■■
(猿島郡境町/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ペッチャ・モィ・テュ」=「川端の・入江の・小山」

 旧長井戸沼西岸の台地上に立地。全長約60m。横塚古墳群最大の前方後円墳。

 長井戸沼は干拓されて消滅していますが、かつては宮戸川、大川が流れ込む沼であり、毘沙門塚古墳は宮戸川下流域の入江の西岸に位置しています。まさに、「川端の入江」です。

 また、現在の地名は「(境町)横塚」ですが、これを縄文語解釈すれば、

●横塚=「ヤケ・テュ」=「岸辺の・小山」=毘沙門塚古墳

 と捉えることができます。
 西隣の「高野」地区も、

●高野=「トケ・ノッ」=「沼尻の・岬」

 と解釈すれば、すべての辻褄が合います。


 古墳名から「毘沙門天」を想像することができますが、「龍神」「宝塔」「梵天」「権現」「愛宕」など、すべて縄文語で辻褄の合う解釈ができることから、これらは、縄文語の音に似ていることから漢字が充てられたと解釈するのが妥当です。
 神道、仏教関連の古墳名は、それらが実際に関係していないもの、あるいは、後世に神社仏閣が後付けされたものの方が圧倒的に多そうです。


■■■ 鷲塚古墳/おたま塚古墳(桜山古墳群) ■■■
(猿島郡境町/3世紀末~5世紀/円墳)⇒google map

●鷲塚=「ワ・サ・テュ」=「岸の・浜の・小山」
●おたま塚=「オタ・モィ・テュ」=「砂浜の・入り江の・小山」

 旧常陸川(現利根川)の岸辺。桜山古墳群の多くは利根川の築堤の影響で消滅していて、この二つの古墳が残存するのみです。

 おたま塚古墳の縄文語解釈の「砂浜の入江の小山」ですが、摂津国(兵庫県)の古墳でまったく同じ解釈ができる古墳があります。それは、

●処女塚古墳=「オタ・モィ・テュ」=「砂浜の・入り江の・小山」
●求女塚古墳=「モ・オタ・モィ・テュ」=「小さな・砂浜の・入り江の・小山」

 です。
 これらの古墳について漢字表記にこじつけた悲恋物語の伝承がありますが、築造年代も合わず、デタラメなのは言うまでもありません。詳しくは第三十九回コラムをご参照ください。


■■■ 駒塚古墳 ■■■
(古河市/6世紀以降)⇒google map

●「コ・マ」=「湾曲した・谷川」

 墳丘は長径16.2m、短径11.2 m、高さ3.2 mで、あまり残っていません。

 駒は、いわゆる「馬」を指すとは限りません。縄文語では、「湾曲した川」と解釈しました。
 この古墳が築かれた利根川との合流点付近の渡良瀬川の流路は、かつて大きく湾曲していました。付近の地名には「駒場」「駒ヶ崎」の地名もあります。

●駒場=「コ・マ・パ」=「湾曲した・川の・頭」
●駒ヶ崎=「コ・マ・カ・サンケ」=「湾曲した・川の・ほとりの・岬のところ」


 また、「駒」と同じ発音である「高麗」も「湾曲した川」を表し、必ずしも「高麗から渡来した人々」が関係している訳ではありません。

 全国の「高麗」「狛」のつく地名は第三十四回コラムで検証しています。これに加えて「駒」の文字も極めて疑わしいです。

 つまり、「高麗人」も「馬」も関係なく、ただ「湾曲した川」に漢字が充てられただけだということです。「高麗人が住んだ、移住させた」などの物語もデタラメの可能性があります。


■■■ 穴薬師古墳 ■■■
(猿島郡五霞町/奈良時代(8世紀)/円墳)⇒google map

●穴薬師=「アゥ・ナ・ヤ・ケシ」=「枝分かれた(or隣の)・方の・岸の・はずれ」

 この古墳は、なんと奈良時代の築造と考えられています。江戸の利根川東遷事業以前は、利根川と渡良瀬川は平行して東京湾に注いでいたので、「枝分かれた(or隣の)川の岸辺」というのは権現堂川(旧渡良瀬川)沿いの古墳を指したと考えられます。
 薬師像を安置したことから穴薬師と呼ばれているという伝承がありますが、この手の話の多くが信用できないということは、これまで何度も書いています。

 実際は、「八幡」や「愛宕」の例と同様に、話の順番は逆で、「アゥ・ナ・ヤ・ケ」と呼ばれている場所に、「薬師像」を安置したということです。陰暦月の「仲睦まじいので睦月」のこじつけ解釈と同類です。

 さらに、この古墳には、「隠れ膳椀伝説(椀貸伝説)」があります。「村人が膳椀を貸してくれるように頼むと、翌朝に古墳の前に置いてある」という伝説です。そんな訳ありません。縄文語の漢字表記に後づけで物語が付加されただけです。

●椀貸
=「ワ・カシ」=「岸の・上(表面)」

or「ワ・ケシ」=「岸の・はずれ」(=薬師=「ヤ・ケシ」=「岸の・はずれ」)
=川・湖沼・海の岸辺

 「薬師」の縄文語解釈ともピタリと一致します。全国の椀貸伝説については第四十六回コラムで取り上げています。

 また、「薬師」を冠する古墳は、群馬県を中心に関東地方に多く、ほとんどが川岸に位置しています。極めて確度が高い縄文語解釈と言えます。
⇒google map(群馬県の薬師塚古墳)
※詳しくは第三十七回コラム参照

 あまりにも築造年代が下るので、他の例が見つからなければ、もしかすると地名から命名されたのかもしれません。


■■■ 舟塚山古墳 ■■■
(石岡市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「プッ・ナ・ウン・テュ・ヤマ」=「川口の・方・にある・小山の・山」

 「恋瀬川河口」に築かれた、全長186m、茨城県最大、東日本第二位の大きさの前方後円墳。大仙古墳(仁徳天皇陵)との類似が認められ、茨城国造の筑紫刀禰尊の墓との説があります。

 「舟」「船」は、縄文語の「プッ・ナ=川口の・方」あるいは、「ペンナ=川上」のに充てられることが多いので、解釈が簡単です。極めて解釈確度が高いと言えます。


■■■ 府中愛宕山古墳 ■■■
(石岡市/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「プッ・テュ・ウン・アッ・タ・ヤマ」=「川口の・峰・にある・一方の・ぽつんと離れた・山」

 全長96m、舟塚山古墳群で、二番目の規模。舟塚山古墳の北、約300mの旨の上に築かれています。

 舟塚山古墳とその陪塚との位置関係で命名されたのではないでしょうか。まさに「ぽつんと離れた古墳」です。


■■■ 茨城古墳 ■■■
(石岡市)⇒google map

●「エペラ・アン・キ」=「上流に・ある・山」

 詳細は不明ですが、立地としては面白いです。舟塚山古墳群との位置関係で命名されたのではないでしょうか。
 茨城県の命名由来と同源と思われます。


■■■ 佐自塚古墳 ■■■
(石岡市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

●佐自塚=「サン・テュ・テュ」=「前にある(or平山の)・岬の・小山」

 縄文語解釈どおりの地勢です。所在地名の「佐久」は

●佐久=「サン・ケ」=「平山の・ところ」

 で、佐自塚の解釈とも一致します。


■■■ 丸山古墳 ■■■
(石岡市/4世紀後半~5世紀初頭/前方後方墳)⇒google map

●「マ・オロ・ヤマ」=「谷水の・中(orところ)の・山」

 恋瀬川とその支流にコの字に囲まれた丘に築かれています。第十代崇神天皇皇子、東国遠征した豊城入彦の奥津城との伝承があります。

 第十代崇神天皇は神武天皇と同一人物で、邪馬台国を攻め滅ぼしていますので、3世紀前半~中頃の人物です。その皇子で、崇神天皇存命時の東国遠征ですから、3世紀中頃~後半の人物となるのが妥当です。
 石岡の丸山古墳の築造年代は4世紀後半~5世紀初頭とされていますから、その間100年以上あります。築造年代に誤りがなければ、この伝承の信憑性は薄いと言わざるを得ません。

 また、豊城入彦は上下毛野氏の祖とされていますが、その話もどこまで本当か分かりません。陵墓伝承のある群馬県の総社二子山古墳も6世紀築造ですから、こちらももちろん誤りです。


 この「丸山古墳」の名称について、いわゆる日本語の「丸い山」とすると解釈するのが一般的だと思いますが、縄文語では「川(谷水)のところに築かれた古墳」あるいは「川辺(水辺)の山に築かれた古墳」という解釈ができます。あるいは「川」が「濠」を指している場合もあるかもしれません。

 全国の丸山古墳を調べてみると、ほとんどが該当する地勢であることが分かります。ただ、漢字表記どおり「丸い山(円墳)」の意も否定できないので、前方後円墳の名として用いられている場合を注視した方が確度が高くなりそうです。その場合、九州地方の「丸山」が前方後円墳の比率が高く、いずれも水辺に立地していることから、例証としての価値が高いと言えます。
 これら丸山の築造年代は古墳時代後期まで下っていますので、少なくとも6世紀代までは、関東から九州まで縄文語(アイヌ語)が使われていた可能性が非常に高いということになります。北海道、東北は言わずもがなですから、日本全国です。

【参考】他地域の丸山古墳
・関東地方の丸山古墳⇒google map
・中部地方の丸山古墳⇒google map
・関西、中国四国地方の丸山古墳⇒google map
・九州地方の丸山古墳⇒google map


■■■ 富士見塚古墳(富士見塚古墳群1号墳) ■■■
(かすみがうら市/5世紀末~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」

 全長80.2m。かすみがうら市最大の古墳。菱木川と恋瀬川河口に挟まれた峰上に築造。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。これまで何度となく登場した「富士見=ペッチャ=川端」です。「八幡」「人見」「二間」「八前」などが同語源と思われます。

 全国の「八幡」「富士見」については第三十七回コラム 「八幡塚古墳」「荒砥富士山古墳」の項をご参照ください。

■■■ 折越十日塚(おっこしとおかづか)古墳 ■■■
(かすみがうら市/7世紀前半/前方後円墳)

●「トー・カ・テュ」=「湖沼の・ほとりの・小山」⇒google map

 全長60mの前方後円墳。横穴式石室。折越は地名。

 縄文語解釈では、「湖の際」の意ですから、霞ヶ浦が一の瀬川に沿って、上流まで入り込んでいたということでしょうか。


■■■ 牛渡牛塚古墳 ■■■
(かすみがうら市/5世紀/円墳)⇒google map

●牛渡「ウテュ・ワ・チャ」=「間を・渡る・岸」
●牛塚「ウテュ・テュ」=「間の・小山」

 常陸国府に下向途中に勅使がここで亡くなり、勅使を慕って泳いできた牛がここで亡くなって葬られたそうです。

 このような漢字表記にこじつけられたデタラメな伝承があるということは、他に本当の由来があるということです。
 縄文語解釈では「霞ヶ浦を横断するための岸」と捉えることができます。


■■■ 牛渡銚子塚古墳 ■■■
(かすみがうら市/5世紀/前方後円墳)⇒google map

●「チー・テュ」=「中窪みの・小山」=前方後円墳

 常陸国府に下向途中に亡くなった勅使はこの古墳に葬られたようです。「勅使塚⇒銚子塚」の伝承があるそうですが、これもまた漢字表記にこじつけたデタラメ創作です。他の銚子塚古墳で「酒器の銚子に似ていることから前方後円墳の別名となった」という通説もありますが、これも極めて疑わしいです。

 全国の「銚子塚」、全国の「銚子」を冠する地名を見ると、「チーシ=中窪み」に充てられた漢字であることが分かります。つまり、古墳の場合は「中窪み山=前方後円墳」を意味します。詳しくは、第三十六回コラムの「銚子山・銚子塚古墳」の項をご参照ください。


■■■ 沼田八幡塚古墳 ■■■
(つくば市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」

 全長約90m。筑波地方最大の前方後円墳。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。これまで何度も登場した「八幡=川端」です。桜川左岸に築かれた古墳です。
※第三十七回コラム「八幡塚古墳」の項参照


■■■ 佐都ヶ岩屋古墳 ■■■
(つくば市/7世紀中~後半/方墳)⇒google map

●佐都ヶ岩屋=「サン・テューカ・ウン・イウォ・イェ」=「平山の・峰の上・にある・神聖な祭場(あの世)の・岩」
●三十六岩屋=「サン・タ・ロ・イウォ・イェ」=「平山・に・(二人以上のものが群をなして)坐る・神聖な祭場(あの世)の・岩」

 筑波山の麓の峰上に築かれた古墳時代終末期の古墳。

 「三十六岩屋」の伝承があり、かつてはたくさんの古墳があったと推測されていますが、これも「三十六」の漢字表記に引きずられた結果に見えます。このような伝承があるということは、逆に、この説がウソだということを自ら証明しているようなものです。現在では、四基のみ現存していますが、そもそもこの程度の数だったのかもしれません。

 縄文語解釈では、「三十六岩屋」は「佐都ヶ岩屋」の言い換えと捉えることができます。

 かなり解釈確度が高く見えます。7世紀代の他の確度の高い解釈例も見られるので、この時期の縄文語使用の確率はかなり高いと言えます。

 ちなみに、群馬県でも7世紀代まで確度の高い縄文語解釈が見つかっていますので、常陸国において縄文語が使用されていても不自然ではありません。群馬県の古墳名については第三十七回コラムをご参照ください。


■■■ 鹿見塚古墳 ■■■
(潮来市/古墳時代中期/片耳式前方後円墳)⇒google map

●「シ・カッ・ムィェ・テュ」=「真の・形の・頂の・小山」

 全長58m。大生古墳群の盟主的な古墳です。墳丘の西に低い造出しがあります。

 この古墳は後円部が円錐形で平坦部がありません。縄文語の「真の形」とは「円錐形」を表したのではないでしょうか。北浦対岸の夫婦塚古墳(宮中野古墳群)も同様の形状で、こちらもその形状を表した縄文語解釈が可能です。

 また、余談ですが、播磨国の琴坂(兵庫県たつの市)でかつて産出したとされる立方体の石も「飼牙石(銅牙石)=シ・カッ(石)=真の・形(の石)」とすれば、同類の解釈が可能です(※第六十二回コラム「琴坂」の項参照)。正方形や、二等辺三角形などは、「シ=真の(本当の)」を使って表現したのかもしれません。

 この大生地区には、ヤマトから常陸に移住した飯富族(多氏)が建立したという大生神社があります。大生古墳群はその飯富族の墓と言われています。

 飯富は縄文語解釈すると、

●飯富=「オプッ」=「川口」

 という意味です。日本全国にある地勢なので、名前が同じとはいえ、同じ地域の出自とは限りません。

 筆者は、鹿島神(タケミカヅチ)が邪馬台国残党の祀った神(正体は卑弥呼)だと考えています(※第二十五回コラム参照)。多氏は崇神天皇に邪馬台国が攻め滅ぼされて以降、東国支配を担わされた邪馬台国残党の一派だったのかもしれません。
 ちなみに、近隣の香取神宮が祀る経津主は、タケミカヅチ(卑弥呼)とともに大国主に国譲りを迫りましたが、経津主は、卑弥呼の父の第七代孝霊天皇です。孝霊天皇の諱であるフトニに縄文語の「ウシ(~の者)」を付加すれば、めでたくフツヌシとなります。


■■■ 白幡八幡塚古墳 ■■■
(潮来市/古墳時代中期)⇒google map


●「シ・パ・タ・ペッチャ・テュ」=「山の・頂・にある・川端の・小山」

 大生古墳群の一。八幡塚なのに珍しく川端ではないと思ったのですが、すぐそばには「大生の清水」「大生の七ツ井戸」があり、かつては水量も豊富だったようです。

 古墳時代中期ですから、疑いなく縄文語が使用されていた時期です。



日出ずる国のエラーコラム
第六十九回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(十四:最終回)~美囊郡編~
  いよいよ播磨国風土記縄文語解釈の最終回です。ラストは美囊郡。

 播磨国風土記はなかなかの長編でしたが、確度の高い縄文語解釈がたくさんできました。この地域での縄文語使用はまず間違いなく、逆に、いかに播磨国風土記がデタラメを書いているかが浮き彫りになりました。

 風土記がデタラメを書いた理由は以下の2つが考えられます。複合の可能性もあります。

1)先住民の文化を新しい文化で故意に上書きし、自らに都合の良い歴史を作ることを目的とした。
2
)先住民の言葉がほとんど理解できなかったため、漢字表記にこじつけて無理矢理物語を創作するしかなかった。

 最終的には、ヤマトの検閲を通るのでしょうから、風土記に書かれている内容が権力側の意思に沿ったものだったということになります。
  初期ヤマト王権の礎を築いたと思われる出雲国の風土記が完成までに二十年の歳月を要した理由もこの辺にあるかもしれません。

 出雲国、播磨国とも、古墳の縄文語解釈から、5~6世紀までは縄文語が使用されていたことは確実ですから、この縄文語と上代日本語の切り替わりのタイミングで、国造や国司がどういう役割をしたのかも気になるところです。急進的な革命だったのか、それとも徐々に変化していったのか。縄文語と上代日本語が長期間二重構造だったということも考えられます。

 次は常陸国風土記を縄文語解釈しますが、西国の風土記でさえ、この有様ですから、作業する前から結果は見えています。


【今回取り上げる内容】
美囊郡/志深里/意奚・袁奚・御宅・御倉尾/高野里・祝田/三坂/吉川里/枚野里

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「美囊郡(みなぎ)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、履中天皇が国の境を定めた時、志深(しじみ)里の許曽(こそ)の杜に到り、『この血は、水が流れてたいへん美しいなあ』と言った。だから、美囊郡と名づけた」

◎縄文語:「メナ・ケ」=「上流の細い枝川の・ところ」⇒google map


 遺称地は三木市吉川町みなぎ台です。志染町も吉川町も上流の細い枝川流域です。


■■■「志深里(しじみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「履中天皇がこの井で御食事をした時、信深貝(しじみ)が御飯の箱の縁にかさこそと上ってきた。その時、『この貝は、阿波国和那散(わなさ)で私が食べた貝かなあ』と言った。だから、志深里と名づけた」

◎縄文語:「シテュ・ムィ(=モィ)」=「(沢に挟まれた)山の走り根の・入り江」⇒google map


 比定地は三木市志染町です。説明の必要もありません。「沢に挟まれた山の走り根の入り江」です。


□□□「意奚(オケ:仁賢天皇)、袁奚(ヲケ:顕宗)/御宅/御倉尾」命名由来 □□□

×風土記:「意奚(オケ:仁賢天皇)、袁奚(ヲケ:顕宗)両天皇が志深(しじみ)の里にいた理由は、その父の市辺天皇命が近江の国の催綿野(くたわたの)で(雄略天皇に)殺されたとき、日下部連意美(くさかべむらじおみ)を連れて逃げてきて、この村の石室に隠れていた。
 そしてその後、日下部連意美は自ら重い罪であると悟り、載っている馬たちの腱を切り断って追い放った。また、盛っていた物や鞍などは、すっかり焼き捨てた。そしてすぐに首をくくって死んでしまった。それで二人の子たちはあちこちに隠れ、東に西に迷った。
結局、志深の村の首である伊等尾(いとみ)の家に使用人として雇われた。
 伊等尾の新室祝いの宴をするために、二人の子たちに火をともさせ、それから、誅辞(ながめごと:祝歌)を歌わせた。ここで兄弟が互いに譲りあって、結局は弟が立って声を引いて歌った。その言葉に言うには、
 『吉備の鉄でできた 鍬を持ち 田を打つように 手を拍(う)てみんな 私は舞いをしよう』
 また声を引いて歌った。その言葉に言うには、
『近江は 水の湛える国。大和は 青垣 青垣の 大和におられた 市辺の 天皇の 御子孫である 奴の私たちは』
 すべての人たちが皆、畏れ敬って走り出た。ここに、針間国の山門領(みこともち)に派遣していた山部連少楯(おたて)が互いに聞き互いに見て、しみじみ語って、『この子のために、あなたの母である手白髪(たしらか)命は、昼は食事もせず、夜は眠らず、死にそうな思いで、泣きながら恋うている子たちですよ』と言った。
 それによって(少楯が)朝廷に参上して(手白髪命に)申し上げることには、右のいきさつ通りだった。母は歓びいとしみ泣いて、少楯を送り還して(兄弟を)呼び寄せた。そして、互いに見、互いに語って愛おしんだ。
 これより後、再び播磨に帰ってきて、宮をこの地に造って住んだ。だから、高野宮、少野(おの)宮、川村宮、池野宮がある。また、屯倉を造ったところを御宅と名づけ、御倉を造った所を、御倉尾と名づけた」

◎縄文語:
・御宅=「メナ・ケ」=「枝川の上流の・ところ」
・御倉尾=「メカ・ラ・オ」=「沢と沢の間に低く伸びている山の・低いところの・尻(裾)」
⇒google map
⇒google ストリートビュー


 御宅、御倉尾の比定地は不明ですが、それぞれ、「御宅」は「美囊(郡)」と同語源、「御倉尾」は「志深(里)」の言い換えと捉えることができます。

 このオケ、ヲケ皇子らの話は、どこまで真実か筆者にはまったく分かりません。この二人の皇子の名前を縄文語解釈してみます。

◎オケ=「オ・ケ」=「川尻(川の合流点)・のところ」
◎ヲケ=「ウォ・ケ」=「水の・ところ」

 志染町は志染川と淡河川の分岐点ですから、実際の地勢とも一致します。しかし、他の比較要素がないので、解釈確度についてはなんとも言えません。


■■■「高野里/祝田」命名由来 ■■■

△風土記:「高野里の祝田(はふりた)の社に鎮座する神は、玉帯志(たまたらし)比古大稲女と玉帯志比売豊稲女である」

◎縄文語:
・高野=「タ・ウン・ノッ」=「石が・ある・岬」
・祝田=「ホ・ウン・チャ」=「川尻(川の分岐点)・にある・岸」
⇒google map


 高野は祝田を含むので、比定地は三木市別所町這田地区周辺です。這田は川の分岐点の岸辺です。前項のオケ、ヲケ皇子の縄文語解釈とも一致します。

 這田地区に隣接して別所町高木地区がありますが、高木は

●高木=「タ・ケ」=「石の・ところ」

 とすれば、「高野」の縄文語解釈と一致します。オケ、ヲケ皇子が隠れた志染の石室でしょうか。

 別所も縄文語解釈してみます。

●別所=「ペッチャ」=「川岸」
or
「プッ・チャ」=「川口(川の合流点)の・岸」

 「別所」は俘囚を住まわせた土地との説がありますが、縄文語解釈すれば、「別所」は単に「川岸」または「川口の岸」の意味となります。川沿いでなければ「ペ・チャ=水の・岸=海や湖沼の岸」かもしれません。

 参考までに、Wikipediaに掲載されている「別所のつく地名」を調べて見ます。すべて、「川、川口の岸辺」であることが分かります。

【参考】「別所」のつく地名
▼関東
・埼玉県さいたま市南区別所 ※川岸 ⇒google map
・埼玉県さいたま市西区指扇領別所 ※川岸 ⇒google map
・埼玉県秩父市別所 ※川岸 ⇒google map
・埼玉県比企郡ときがわ町別所 ※川岸 ⇒google map
・千葉県印西市別所 ※川岸 ⇒google map
・東京都八王子市別所 ※川岸 ⇒google map
・神奈川県横浜市南区別所 ※川岸 ⇒google map
・神奈川県横浜市鶴見区別所 ※川岸 ⇒google map
▼甲信越
・新潟県糸魚川市別所 ※川岸 ⇒google map
・新潟県五泉市別所 ※川岸 ⇒google map
・新潟県上越市板倉区別所 ※川岸 ⇒google map
・長野県上田市別所温泉 ※川岸 ⇒google map
▼北陸
・富山県黒部市別所 ※川岸 ⇒google map
・石川県河北郡津幡町別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
▼近畿
・滋賀県蒲生郡日野町別所 ※川岸 ⇒google map
・京都府相楽郡和束町別所 ※川岸 ⇒google map
・京都府舞鶴市別所 ※川岸 ⇒google map
・大阪府堺市南区別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
・大阪府泉南市別所 ※川岸 ⇒google map
・大阪府松原市別所 ※川岸 ⇒google map
・兵庫県姫路市別所町別所 ※川岸 ⇒google map
・兵庫県三木市別所町 ※川岸 ⇒google map
・奈良県香芝市別所 ※川岸 ⇒google map
・和歌山県有田郡湯浅町別所 ※川岸 ⇒google map
・和歌山県海南市別所 ※川岸 ⇒google map
・和歌山県紀の川市別所 ※川岸 ⇒google map
▼中国地方
・鳥取県倉吉市別所 ※川岸 ⇒google map
・鳥取県東伯郡琴浦町別所 ※川岸、海岸 ⇒google map
・鳥取県東伯郡湯梨浜町別所 ※川岸 ⇒google map
・鳥取県日野郡日野町別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
・鳥取県米子市別所 ※川岸 ⇒google map
・岡山県真庭市別所  ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
・岡山県真庭市蒜山別所  ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
▼四国
・徳島県美馬市脇町別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
・高知県安芸郡安田町別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map
▼九州
・福岡県那珂川市別所 ※川岸、川の分岐点 ⇒google map


□□□「三坂(志深里)」命名由来 □□□

△風土記:「志深里の三坂に鎮座する神は、八戸挂須御諸(やとかけすみもろ)命である。大物主葦原志許が国を堅めた後に、天上界から三坂の岑に下った」

◎縄文語:「メ・サン・カ」=「泉の・平山の・ほとり」⇒google map


 比定地は三木市志染町御坂です。志染川の南岸、北岸ともに「泉のある平山」です。⇒google ストリートビュー


■■■「吉川里(えがわ)」命名由来 ■■■

×風土記:「吉川大刀自(おおとじ)神がここに鎮座している。だから、吉川里といった」

◎縄文語:「エ・カィ・ワ」=「頭が・折れ曲がっている・岸」=上流が折れ曲がっている川(美襄川)⇒google map


 比定地は三木市細川から吉川(よかわ)の美襄川流域です。まさに上流が折れ曲がっています。

 似た語源としては、以下があります。

●香川=「カィカィ・ワ」=「たくさん折れ曲がった・岸」
●河内=「カィ・ワ・テュ」=「折れ曲がった・岸の・岬」=上町台地


■■■「枚野里(ひらの)」命名由来 ■■■

×風土記
:「地形によって名とした」

◎縄文語:「ピラ・ノッ」=「土崖の・岬」


 比定地は不明です。縄文語解釈でもどこにでもありそうな地勢なので、場所の特定は残念ながらできません。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか




日出ずる国のエラーコラム
第六十八回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(十三)~賀毛郡編~玉丘古墳は玉で飾られていない!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は賀毛郡。

 かなり確度の高い縄文語解釈ができました。風土記のデタラメが浮き彫りになります。

【今回取り上げる内容】
賀毛郡・上鴨里・下鴨里/條布里/鹿咋山/品遅部村/三重里/楢原里/伎須美野/飯盛嵩/糠岡/玉野村/起勢里/臭江/山田里/猪飼野/端鹿里/穂積里・塩野/小目野/雲潤里/河内里/川合里/腹辟沼

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「賀毛郡/上鴨里/下鴨里」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「応神天皇の世、鴨の村に、ひとつがいの鴨が巣を作って卵を産んだ。だから、賀毛郡といった。<中略>
 その後に分割して二つの里とした。だから、上鴨下鴨といった。
 応神天皇が巡行した時、この鴨が飛び立って、條布(すふ)の井の樹にいた。この時、天皇がたずねて、『なんという鳥か』と言った。侍従の当麻(たぎま)の品遅部(ほむちべ)君前玉(さきたま)が答えて、『川に住む鴨でございます』と申し上げた。勅して射させた後、一つ矢を放って、二羽の鳥に命中した。矢を負って山の岑から飛び越えた所は、鴨坂と名づけ、落ち倒れた所は、それによって鴨谷と名づけ、吸い物を煮た所は煮坂である。
 下鴨里に、碓居谷箕谷酒屋谷がある。これは大汝命(おおなむち:オオクニヌシ)が臼を造って稲を舂いた所は碓居谷と名づけ、箕を置いた所は箕谷と名づけ、酒屋を造った所は酒屋谷と名づけた」

◎縄文語:
・賀毛/鴨=「カン・モィ」=「上の・入り江」
⇒google map(在田、西在田地区)
・鴨坂=「カン・モィ・サン・カ」=「上の・入り江の・坂の・ほとり(or上)」
⇒google map(北条町古坂と鴨谷町を結ぶ峠)
・鴨谷=「カン・モィェ・タンネ・イ」=「上の・入り江が・長い・ところ(谷か?)」⇒google map(鴨谷町)
・煮坂=「ニセィ・カ」=「(深山の川に覆い被さるように出ている)崖の・ほとり(or上)」⇒google map(河内町二カ坂)
⇒google ストリートビュー
・碓居谷=「ウテュ(谷)」=「間(の谷)」
・箕谷=「メ(谷)」=「湧水(の谷)」
・酒屋谷=「サン・カ・ヤ(谷)」=「坂の・ほとりの・岸(の谷)」


 賀毛郡比定地は加西市です。上鴨里、下鴨里は、在田、西在田地区に比定されています。

 上記の縄文語解釈の中では、「煮坂=断崖のほとり」の解釈確度が高そうです。決して「煮炊きをした坂」ではありません。現在の地名である「二カ坂」は、

●二カ坂=「ニ・サン・カ」=「すきまの・坂の・ほとり(or上)」

 と解釈すれば、辻褄が合います。

 また、「碓居谷」「箕谷」「酒屋谷」は、比定地が不明ですが、縄文語解釈で「煮坂(二カ坂)」の言い換えとすれば、辻褄が合います。「急峻な斜面のある泉際の峠(すきまの坂)」です。


■■■「條布里(すふ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「この村に井戸があり、ある女が水を汲むとすぐ井戸に吸い込まれた。だから、條布と名づけた」

◎縄文語:「シプィ」=「自然の井戸(湧水)」⇒google map


 條布の井戸が「修布の井戸」として今現在も残っています。縄文語解釈と完全に一致しています。風土記の女が井戸に吸い込まれた由来はもちろんデタラメです。そもそも「條布」自体が「自然の井戸」という意味なので、物語を付加する必要もありません。


□□□「鹿咋山(かくいやま)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が狩りに出かけた時、自分の舌を噛んでいる鹿と、不意にこの山で出会った。だから、鹿咋山といった」

◎縄文語:「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」⇒google map
⇒google ストリートビュー


 比定地は女鹿山(めがやま)です。

 この「形が弓の山」の縄文語解釈は、奈良の「香久山」、揖保郡の「香山里(かぐやま)」と同語源です。いずれも「弓の形をした山」を表現しています。

●奈良の「香久山」⇒googleストリートビュー
●揖保郡の「香山里(かぐやま)」⇒googleストリートビュー

 極めて確度の高い縄文語解釈です。応神天皇の鹿狩りはまったく関係ありません。

 ちなみに、女鹿山を縄文語解釈すると、

●女鹿山=「メ・カ・ヤマ」=「泉の・ほとりの・山」
or=「ムィ(=モィ)・カ・ヤマ」=「入り江の・ほとりの・山」

 となり、これも地勢と一致します。


□□□「品遅部村(ほむちべ)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇の世に品遅部たちの遠い祖先の前玉(さきたま)がこの地を賜った。だから、品遅部村と名づけた」

◎縄文語:「ホン・チュ」=「腹・腹」=入り江の中⇒google map


 説によって広さが異なりますが、比定地は、おおよそ加西市北条町から富田地区周辺です。「北条」の地名がそのまま縄文語に漢字を充てたものと捉えることができます。

●北条=「ホン・チュ」=「腹・腹」=入り江の中

 地勢を人体と同様に表現するアイヌ語には「ホン・アサ=腹の・底=入り江の奥」という言葉がありますが、「ホン・チュ」は「腹」を二つ繰り返して、「入り江の中」を表現したのではないかと思います。「入り江」は海際だけでなく、山中の同様の地勢の表現にも使われます。

 託賀郡の法太里も「ホン・チャ=腹の(入り江の中の)・岸」と解釈しましたが、法太里の比定地も野間川中流域に開けた入り江の奥になります。⇒google map


■■■「三重里」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、ある女がいた。筍を抜いて布を使って包んで食べると、何重にも折れ曲がって立つことができなくなった。だから、三重といった」

◎縄文語:「ムィ(=モィ)・エ」=「入り江の・頭」=入り江の入口or入り江の岬⇒google map


 比定地は、北条地区から下里川流域。
 前項の品遅部村を「入り江の中」とするならば、まさに「入り江の入口」or「入り江の岬」となり、縄文語解釈そのままの地勢となります。


 古事記にも「三重(郡)」に関して似たような地名由来譚があります。

×古事記:「(東方遠征の後)ヤマトタケルが『吾が足は三重に折れ曲がったように疲れてしまった』と言った。ゆえに、名づけて三重という」

 風土記同様、もちろんウソです。ヤマトタケル関連のほとんどの物語はこのように縄文語に充てた漢字表記からデタラメ創作されています。(※詳しくは拙著「日本書紀のエラーコラム」(電子書籍)をご覧ください)

 三重県はかつての三重郡(四日市市周辺)を引き継いだ名称ですが、縄文海進の頃、濃尾平野の南部は没していて、桑名市から四日市市周辺は、伊勢湾に出っ張った岬でした。こちらも「入り江の入口」あるいは、「入り江の岬」だったということになります。⇒google map


■■■「楢原里」命名由来 ■■■

×風土記:「柞(なら)がこの村に生えていた。だから、柞原といった」

◎縄文語:「ナ・ハ・ラ」=「山中の平地・水の引いた・低いところ」=入り江の入口or入り江の岬⇒google map


 比定地は、万願寺川と普光寺川の中、下流域。河西市九会、富合、小野市来住地区。
 縄文語解釈そのままの地勢ですが、特徴のない解釈、地勢なので、解釈確度については何とも言えません。


□□□「伎須美野(きすみの)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇の世に大伴連たちがこの地の領有を願い出た時、国造の黒田別を呼び寄せて、地状を聞いた。その時、答えて『縫った衣を櫃の底にしまい込んだようです』と申し上げた。だから、伎須美野といった」

◎縄文語:「ケ・メナ」=「山裾の・たまり水」⇒google map


 比定地は小野市来住(きし)町、下来住町周辺。

 縄文語解釈を見ると、これ以上的確な表現もありません。男池、女池、まさに「山裾のたまり水」。


□□□「飯盛嵩(いいもりたけ)」命名由来 □□□

×風土記:「大汝命(おおなむち:オオクニヌシ)の御飯(みいい)をこの嵩に盛った。だから、飯盛嵩といった」

◎縄文語:「エン・モ・リ・ト」=「尖った・小さな・高くなっている・突起」⇒google map
⇒google ストリートビュー


 比定地は飯盛山です。
 縄文語解釈そのままです。ストリートビューをご覧ください。「小さな峰の先端に出来た突起」。これ以上の表現は見つかりません。


□□□「糠岡」命名由来 □□□

×風土記:「大汝命(おおなむち:オオクニヌシ)が稲を下鴨の村で舂かせたところ、飛び散った糠がこの岡に飛んできた。だから糠岡といった」

◎縄文語:「ナイ・カ・ウン・オ」=「川・岸の・うなじ(峠)」⇒google map
⇒google ストリートビュー(右端が糠塚山)


 比定地は南網引町の糠塚山です。糠塚山は万願寺川の岸辺の峰の西端の山ですが、隣の山との間が峠になっています。


□□□「玉野村」命名由来 □□□

×風土記:「兄の意奚(オケ:第二十四代仁賢天皇)、弟の袁奚(ヲケ:第二十三代顕宗天皇)、二人の皇子たちが、美囊(みなぎ)郡志深(しじみ)里の高野宮にいた時、山部少楯(やまべのをだて)を遣わして、国造の許麻(こま)の娘、根日女命(ねひめ)に、求婚した。
 そこで、根日女はすでにこの求婚の言葉を承諾し終えていた。
 しかし、二人の皇子は互いに辞退して結婚せずにいた。その間に、根日女は年老いて亡くなった。
 その時、皇子たちはひどく哀しみ、すぐに小立(おたて)を遣わして、『朝夕に日が隠れない地に墓を造り、その骨を蔵(おさ)め、玉で墓を飾れ』と言った。だから、この墓を玉丘と名づけ、この村を玉野村と名づけた」

◎縄文語:
・玉丘=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」

玉野=「トマ・ヌ」=「湿地の・野原」
⇒google map

 比定地には玉丘古墳があります。周辺は溜め池だらけで、湿地帯であったことが容易に推測できます。

 顕宗天皇と仁賢天皇の在位は5世紀後半、玉丘古墳の築造年代は古墳時代中期ですから、風土記記載内容に時期的な齟齬はありません。
 ただし、この周辺の古墳は、5、6世紀頃まで縄文語解釈できるので、漢字表記にこじつけた物語は創作が含まれていると考えるのが妥当です。創作と真実の切り分けをどこにするかが問題です。すべて創作の可能性もあります。
※兵庫県の古墳については第三十九回~第四十二回コラムをご参照ください。


■■■「起勢里(こせ)」命名由来 ■■■

×風土記:「巨勢部たちがこの村に住んでいた。それによって里の名にした」

◎縄文語:「コッチャ」=「沢の入口」=川の分岐点⇒google map


 比定地は加東市の古瀬(こせ)地区です。
 古瀬地区は、加古川と東条川の分岐点にあります。説明するまでもありません。「沢の入口」となります。


□□□「臭江」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇の世に播磨国の田の農民の長として、百八十の村君がいて、それぞれの村同士で互いに闘っていた時、天皇が勅(みことのり)して、この村に追い集め、一人残らず斬り殺した。だから、臭江といった。
 その血が黒く流れた。だから、黒川と名づけた」

◎縄文語:
・臭江=「クッチャ・エ」=「川口の・頭」
・黒川=「キラゥ・カ・ワ」=「枝角(枝分かれの)・ほとりの・岸」
⇒google map


 いずれも比定地は不明ですが、縄文語解釈からすると「起勢」の言い換え、つまり「加古川と東条川の分岐点」と捉えることができます。現在の地勢では、西古瀬地区が該当します。

 風土記記載の物語について、応神天皇時代の大和王権の統治状態を指摘する説がありますが、この物語自体どこまで真実かわかりません。むしろ、この類いの物語はほぼすべて漢字表記を正当化するために創作されたデタラメである可能性が高く思えます。


■■■「山田里」命名由来 ■■■

×風土記:「人が山の際に住んでいた。それによって里名とした」

◎縄文語:「ヤマ・チャ」=「山の・岸」
⇒google map


 比定地は小野市山田町です。両岸を峰に挟まれた山田川沿い。縄文語解釈そのままの地勢です。


□□□「猪飼野(いかいの)」命名由来 □□□

×風土記:「仁徳天皇の世に、日向の肥人(くまひと)である朝戸君(あさべのきみ)が天照大神のいる舟に、猪を持って参上して献上し、飼うべき所をお願いして答えを仰いだ。それによってこの野を賜って猪を放し飼いした。だから、猪飼野といった」

◎縄文語:「イカ・イ・ウン・ヌ」=「上を越す・ところ・にある・野原」⇒google map


 比定地は大開町周辺です。大開町も縄文語解釈します。

●大開(町)=「テュ・オ・イカ・イ」=「峰を・そこで・越す・ところ」

 
解釈が一致するので、「猪飼野」の言い換えと捉えることができます。


■■■「端鹿里(はしか)」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、神が多くの村に菓子(このみ)を分けていたところ、この村になって足りなくなった。そんなわけで『中途半端だなあ』と言った。だから端鹿と名づけた。この村は今になっても、山の木に実がない。真木、檜、杉が生えている」

◎縄文語:「ホアシ・カ」=「岬の・ほとり(or上)」⇒google map


 比定地は加東市椅鹿谷(はしかだに)周辺です。縄文語解釈そのままです。「岬のほとり」。


■■■「穂積里/塩野」命名由来 ■■■

×風土記:「本の名は塩野。<中略>鹹水(しおみず)がこの村に湧き出た。だから、塩野といった。
今、穂積と名づけるのは、穂積臣たちの一族がこの村に住んでいる。だから、穂積と名づけている」

◎縄文語:
・塩野=「シ・オ・ウン・ヌ」=「山・裾・にある・野原」
・穂積=「プッチャ(プッ・サ)」=「川口のほとり」=加古川と千鳥川の合流点
⇒google map


 比定地は加東市穂積周辺です。「塩野」「穂積」のいずれも地勢と一致します。

 また、他地域にも「穂積」の地名がありますので、参考に見てみます。
以下の全国の「穂積」の地勢を参考にすると、川口(川の合流点)とも言えない地勢もあるので

・穂積=「ペッチャ」=「川端」

 の意でも使用されていると考えられます。とすれば、「八幡」「富士見」「人見」「二間」「土間」「土万」などの「川端」を表す言葉と同語源となります。

 以下の例を見ると「川口」の地勢の方がやや優勢のようです。いずれにしても「川沿い」であることは確実です。


【参考】全国の「穂積」のつく地名 ※後世の開発で不分明な場所は除きました。
・青森県つがる市稲垣町穂積⇒google map
 ※「川端」の意か。
・山形県山形市穂積⇒google map
  ※「川端」の意か。
・(旧)福島県安積郡穂積村⇒google map
  ※川の合流点。
・栃木県さくら市穂積⇒google map
  ※川の合流点とも川端ともとれる。
・(旧)栃木県下都賀郡穂積村 ⇒google map
 ※「川端」の意か。
・(旧)山梨県南巨摩郡穂積村⇒google map
 ※川の合流点。
・長野県南佐久郡佐久穂町穂積⇒google map
  ※川の合流点。
・愛知県一宮市千秋町穂積塚本⇒google map
  ※「川端」の意か。
・愛知県豊田市穂積町⇒google map
 ※川の合流点。
・岐阜県瑞穂市穂積⇒google map
  ※川の合流点。
・大阪府茨木市上穂積⇒google map
  ※川の合流点とも川端ともとれる。
・山口市穂積町⇒google map
 ※川の合流点とも川端ともとれる。
・愛媛県大洲市長浜町穂積甲⇒google map
  ※「川端」の意か。


□□□「小目野(おめの)/佐々御井」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が巡行した時、この野で宿をとった。それで四方を望み見て『あそこに見えるのは、海か何かか』と言った。従臣(おもとひと)が答えて『あれば霧でございます』と申し上げた。その時『大体は見えるが、細部は見えないなあ』と言った。そこで、お言葉によって小目野と名づけた。
 さて、従臣たちが井を開いた。だから、佐々の御井といった。
 また、この野にちなんで、歌を詠んだ。
 『愛しい 小目の笹葉に 霰(あられ)が降り 霜が降っても けっして枯れないでくれ 小目の笹葉よ』」

◎縄文語:
・小目野=「オオ・ムィネ(=モィネ)・イ」=「深く・流れが遅い・ところ」
・佐々御井=「サ・サニ」=「横になっている(or隣の)・平山」
⇒google map
⇒google ストリートビュー


 小目野の比定地は加東市野村の小部野地区です。近隣の地名も縄文語解釈します。「小目野」「佐々御井」と辻褄の合う解釈が可能です。

●野村=「ノ・ムィレ(=モィレ)・イ」=「すごく・流れが遅い・ところ」

●社(町)=「ヤン・シ・オ」=「岸の・山・裾」

 ※通説では佐保神社の門前町であったことを由来とする。

●佐保(神社)=「サン・ホ」=「平山の・裾」
(旧名)坂合(神社)=「サン・カ・アン・イ」=「平山の・ほとりに・ある・ところ」
(旧名)佐加穂=「サン・カ・オ(orホ)」=「平山の・ほとりの・川口(川の合流点)」

⇒google map(佐保地区)
⇒google map(佐保神社)

 通説では、佐保神社はもともと坂合神社と呼ばれていて、それが佐加穂(サカホ)となり、現在の佐保になったということです。

 縄文語では、一つの人名地名を複数の名で言い換える例が無数にあるので、すべての呼び名が存在した可能性もあります。


■■■「雲潤里(うるみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「丹津日子(につひこ)神が法太(ほうだ)の川底(かわじり)を、雲潤の方に越そうと思い、そう言った時に、その村にいた太水(おおみず)神が断って『私は宍の血を用いて田を作ります。だから、河の水は欲しいと思いません』と言った。その時、丹津日子が『この神は河を掘ることに倦(う)んでこう言っているだけだ』と言った。だから、雲弥(うみ)と名づけた。今の人は雲潤(うるみ)と名づけている」

◎縄文語:「ウ・ムィ(モィ)」=「丘の・入り江」⇒google map


 比定地は加西市宇仁地区周辺です。

 縄文語解釈そのままの地勢です。なだらかな丘陵の豊富な場所です。


■■■「河内里(こうち)」命名由来 ■■■

×風土記:「川によって名とした。この里の田は草を敷かずに苗を植える。こうする理由は、住吉(すみのえ)大神が上って行った時、この村で食事をした。そこで、従っている神たちは人が苅っておいた草を、解き散らして御座とした。その時、草の持ち主はひどく困って、大神に訴えた。道理に叶うよう判定して『おまえの田の苗は、必ず草を敷かなくても、きっと草を敷いたように育つだろう』と言った。だから、その村の田は今も草を敷かないで苗代を作っている」

◎縄文語:「コッチャ」=「谷の入口」⇒google map


 河内の名の由来となった川は万願寺川支流の「普光寺川」に比定されています。河内町は縄文語解釈そのままの地勢です。まさに「谷の入口」です。

 なぜ、「六甲山の神」が、河内里を通って大阪の住吉大社に行かなければならないのでしょう。これも漢字語呂合わせで河内つながりとでも言いたいのでしょうか。

 縄文語解釈すると、住吉三神とされる底筒男命・中筒男命・表筒男命は、すべて「六甲山の別名」です。つまり、住吉三神とは、「六甲山の自然崇拝」ということになります。(※第三十九回コラム参照)。決して記紀神話に記されているような海の神様ではありません。
 住吉三神を祀る本宮として優勢なのは大阪の住吉大社ですが、本を正せば神戸市の本住吉神社の方が相応しいと言えます。

 この住吉三神の例ように、日本の神の多くは、「地勢を表現した縄文語が適当な漢字に変換され、その漢字表記にこじつけて物語が創作された」ことに由来しています。そこには本来の縄文語の意味はほとんどありません。陰暦月の名称に代表されるデタラメな漢字変換、物語変換が、記紀、風土記の神話、地名譚を覆い尽くしています。

 日本の神の大元は「縄文人の自然崇拝」です。

●天照大神=「ウ・マィ・エ・タ」=「互いに・響く金属音・で・踊る」
 ×太陽神 ⇒ ◎「銅鐸祭祀」

●伊勢(志摩)=「イソ・スマ」=「磯の・岩」

 ×太陽神 ⇒  ◎「伊勢志摩の岩礁」の自然崇拝

●太一=「タ・エテュ」=「石の・岬」
 ×北極星 ⇒  ◎「伊勢志摩の岩礁」の自然崇拝

●八幡大神=「ペッチャ」=「川端」
 ×応神天皇 ⇒  ◎「川端」の自然崇拝

●稲荷神
・稲荷=「イナゥ・リ」=「幣の・高台=高台の祭場」
・狐=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」

 ×ウカノミタマ(穀物神)、稲荷神 ⇒  ◎「稲荷山」の自然崇拝

●愛宕神社=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」
 ×イザナミ ⇒  ◎「愛宕山」の自然崇拝

●住吉三神
・底筒男=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」

・中筒男=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
・表筒男=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」
 ×海の神 ⇒  ◎「六甲山」の自然崇拝

●金刀比羅宮=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」
 ×金毘羅大権現、金毘羅 ⇒ ◎「象頭山」の自然崇拝


■■■「川合里」命名由来 ■■■

×風土記:「端鹿(はしか)の川の下流と鴨川が合流する村である。だから、川合里と名づけた」

◎縄文語:「カィ・ワ・エ」=「折れ曲がった・岸の・頭」⇒google map


 比定地は、小野市の河合地区と加西市富合、九会地区の一部です。

 残念ながら、風土記、縄文語のいずれが正しいか判断がつきません。
風土記ならば「東条川と加古川の合流点」、縄文語解釈ならば「万願寺川沿いの峰」ということになります。


□□□「腹辟沼(はらさきのぬま)/佐々御井」命名由来 □□□

×風土記:「花浪(はななみ)神の妻の淡海神が自分の夫を追いかけようとしてここに到り、とうとう怨み怒って、みずから刀で腹を割き、この沼に入水した。だから、腹辟沼と名づけた。その沼の鮒たちは今も五臓がない」

◎縄文語:「パラ・サン・ケ」=「広い・平山・ところ」⇒google ストリートビュー


 比定地は不明ですが、縄文語解釈を頼りに言えば、河合地区西部に横たわる青野ヶ原台地にある沼ということになるでしょうか。



※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか


日出ずる国のエラーコラム
第六十七回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(十二)~託賀郡編~
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は託賀郡。

【今回取り上げる内容】
託賀郡/賀眉里/大海/荒田/黒田里/袁布山/支閇岡/大羅野/都麻里/都太岐/比也山/鈴堀山/伊夜丘/阿富山/高瀬村/目前田/阿多加野/法太里/甕坂/花波山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「託賀郡(たか)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「昔、巨人がいて、常に身を屈めて歩いていた。南の海から北の海に到り、東から巡って行った時、この地にやってきて、『他の地は低いので、常に屈み伏して歩いていた。この地は高いので、背を伸ばして歩く。高いことだなあ』と行った。だから託賀郡といった。その踏んだ跡は、あちらこちらで沼になった」

◎縄文語:「タン・カ」=「こちら・岸」⇒google map


 比定地は多可郡と西脇市です。縄文語解釈の「こちら岸」は後述する加美区多田、加美区丹治が「こちら岸」の意と解釈できますが、ありきたりでどこにでもある地勢なので、残念ながら場所の特定はできません。

 ちなみに西脇市は、

●西脇=「ニセィ・ワ・ケ」=「川沿いの崖の・岸の・ところ」⇒google ストリートビュー 

 で、西脇市西田町の

●西田=「ニセィ・チャ」=「深山の崖の・岸」

 とまったく一致します。


 また、小野市にも西脇町がありますが、こちらも「急峻な山の岸辺」です。⇒google ストリートビュー



■■■「賀眉里(かみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「川上に住んでいることによって名とした」

◎縄文語:「カン・モィ」=「岸の(上の)・入り江」⇒google map


 「賀眉」の比定地は多可町加美区ですが、解釈は少々自信がありません。加美区の領域が広すぎて場所を特定することもできません。


□□□「大海」命名由来 □□□

×風土記:「大海と名づけた理由は、昔、明石郡大海里の人がやってきて、この山のふもとに住んだ。 だから大海山といった。松が生えている」

◎縄文語:「オオ・モィ」=「大きな・入り江」⇒google ストリートビュー


 「大海」の比定地は加美区箸荷(はせがい)です。縄文語解釈と地勢は一致していますが、ありきたりな解釈で、こちらも解釈確度については何とも言えません。


□□□「荒田」命名由来 □□□

×風土記:「荒田と名づけた理由は、ここにいる神、道主日女命(みちぬしひめ)は父がいないのに子を生んだ。真相を知るための盟酒(うけいざけ)を醸造しようとして、田七町を作ったところ、七日七夜の間に、稲が成熟し終わった。そこで酒を醸して多くの神を集め、その子を遣って、酒を捧げて進上させた。さて、その子が天目一命(あまのまひとつ)に向かって進上したことによって、それが父だと知った。その後、その田が荒れた。だから荒田といった」

◎縄文語:「ア・チャ」=「一方の・岸」⇒google map


 「荒田」の遺称地の候補として、多可町中区安楽田、多可町加美区的場の荒田神社、加美区奥荒田などがあります。

 風土記の「荒れた田」は、言うまでもなく、ただの漢字表記からのこじつけ創作物語です。
「荒」は、地名に頻繁に登場する漢字です。荒川、荒田、荒木など、あげればきりがありませんが、これはほとんどの場合、決して「荒々しい地勢」を表現している訳ではありません。

 縄文語解釈すれば、

●荒=「ア」=「一方の」
※主従関係の「主」となる近接する地勢との比較対象として、「従」にあたる方を「一方の~」と呼ぶことが多い。

 となります。つまり、川であれば、近くにもっと大きな川が、岸であれば、もっと大きな岸があるということです。この地名は日本全国どこにでもある地名なので、遺称地を特定するのは、かなり困難です。

 対比となる地名に「タン=こちらの」が用いられていることがあります。「加美区奥荒田(西側)」と「加美区多田(東側)」は峰を挟んで東西に接していますが、

●(加美区)多田=「タン・チャ」=「こちらの・岸」⇒google map


 とすれば、「荒田=一方の岸」と対の関係になります。

 また、杉原川上流に「加美区丹治」地区がありますが、北に近接して「加美区清水」地区があります。これも、

●(加美区)丹治=「タン・チャ」=「こちらの・岸」⇒google map
●(加美区)清水=「シ・ムィ(=モィ)・チャ」=「大きな・入り江の・岸」⇒google map

  として、対比となっていることが分かります。

 余談ですが、丹治地区と清水地区に挟まれた「加美区山口」と「加美区轟」も解釈すれば、

●(加美区)山口=「ヤマ・クッチャ」=「山の・入口」
●(加美区)轟=「タッタケイ」=「波立つ川(渓流)」


 となります。兵庫県周辺(丹波、丹後、因幡、伯耆、出雲、香川など)はその古墳名の解釈から、少なくとも5~6世紀までは縄文語が使用されていたのは確実と言えます。よって、地名を縄文語で解釈しても多くの辻褄が合うことになります。
 決して、風土記に書いてあるような神様がたくさん活躍した訳ではありません。

※兵庫県の古墳については第三十九回第四十二回コラムをご参照ください。


■■「黒田里」命名由来 ■■■

×風土記
:「土が黒いのによって名とした」

◎縄文語:「キレテュ」=「山崎」
 or「キ・チャ」=「山の・岸」
⇒google map


 黒田里の比定地は西脇市黒田庄町周辺です。黒田里に含まれる以下の地名を鑑みて総合的に解釈しています。


□□□「袁布山」命名由来 □□□

×風土記:「袁布山(をふやま)というのは、昔、宗形(むなかた)の大神、奥津嶋比売命が伊和大神の子を妊娠して、この山にやってきて『私が出産するにふさわしい時がきた』と言った。だから、袁布山といった」

◎縄文語:「オプッ・ヤマ」=「川口の・山」=加古川と支流の合流点の山⇒google map


 袁布山は、西脇市黒田庄町の前山に比定されていますが、加古川と篠山川の分岐点の南の黒田城址のある天狗山とも捉えられます。

 天狗山のふもとの加古川沿いの地名は黒田庄町船町ですが、この地名に含まれる「船」は他の地域でも何度も登場しています。

●船=「ペナ」=「川上」
 or=「プッ・ナ」=「川口の・方」


 ここでは、「川口」の意とすれば、「袁布山=川口の・山」の解釈とも、天狗山の地勢とも完全に一致します。

 また、川の合流点となる隣の地区の「黒田庄町小苗」は、

●小苗=「オ・ナ・エ」=「川尻の・方の・頭(岬)」
※現在の読みは「こなえ」ですが、後世に変化したという前提です。

 とすれば、辻褄が合います。

 ただ、西脇市黒田庄町の前山も小河川と加古川との合流点にある山なので、ここを比定地とする説も否定することはできません。


□□□「支閇岡」命名由来 □□□

×風土記:「支閇岡(きへおか)というのは、宗形の大神が『私が出産するにふさわしい臨月になった』と言った。だから、支閇丘といった」

◎縄文語:「キピ・オ・カ」=「水際の崖の・ふもとの・岸」⇒google map
⇒google ストリートビュー


 「支閇岡」の比定地は、たんばコミュニティエフエム山南中継局のあるイタリ山とされていますが、日本語のいわゆる「丘」とする必要はありません。
 「水際の崖のふもとの岸」とすれば、地勢ぴったりの表現です。


□□□「大羅野(おおあみの)」命名由来 □□□

×風土記:「大羅野というのは、昔、老夫と老女とが、網を袁布の中山に張って、鳥を捕まえようとしたところ、いろいろな鳥が多く来て、網を背負って飛び去り、例の野に堕ちた。だから、大羅野といった」

◎縄文語:「オオ・ア・メナ」=「大きな・一方の・上流の枝川」⇒google map


 大羅野の比定地は不明ですが、縄文語解釈が妥当であれば、加古川または篠山川以外ありえません。


■■「都麻里(つま)」命名由来 ■■■

×風土記
:「播磨刀売(はりまとめ)と丹波刀売とが国の境界を定めた時、播磨刀売がこの村に到って、井の水を汲んで食事をして『この水はうまい』と言った。だから都麻といった」

◎縄文語:「テュンマ」=「谷川」⇒google map


 比定地は西脇市津万(つま)から黒田庄町津万井(つまい)周辺です。

 以降の縄文語解釈も考慮すると、南北に延びる峰を東西に断ち切るような谷(県道297号)になっている津万井の谷が相応しく見えます。

 津万井は、

●津万井=「テュンナィ」=「谷川」

 とすれば解釈が一致します。


□□□「都太岐(つたき)」命名由来 □□□

×風土記:「昔、讃伎日子(さぬきひこ)神が、冰上刀売(ひかみとめ)に求婚した。その時、冰上刀売は返答して『お断りします』と言ったところ、日子神がなお強引に求婚した。それで、冰上刀売が怒って『どうして私を』と言った。言い終わると建石(たけいわ)命を雇って、武器を使って闘った。それで、讃伎日子が負けて還り去り、『私は、それは拙かったなあ』と言った。それで、都太岐といった」

◎縄文語:「テュ・タ・キ」=「峰を・切っている・山」⇒google ストリートビュー


 都太岐の比定地は不明ですが、「都麻」の言い換えとして、「津万井」の谷の山にするとしっくりきます。次項の「比也山」の解釈とも一致します。


□□□「比也山(ひややま)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇がこの山で狩をした時に、ある鹿が前に立ち、鳴いた声が比々と響いた。天皇は聞いて、侍従を止めた。だから、山は比也山と名づけ、野は比也野と名づけた」

◎縄文語:
・比也山=「ピ・ヤ・ヤマ」=「石の・岸の・山」
・比也野=「ピ・ヤ・ウン・ヌ」=「石の・岸・にある・野原」
 or「ピ・ヤ・ウン・ノッ」=「石の・岸・にある・岬」
※比也山の言い換え
⇒google map


比定地は比延山とされています。

●比延山=「ピ・エ・ヤマ」=「石の・頭の・山」⇒google ストリートビュー

 山頂に大岩がごろごろしていますので、それを指したものと思われます。しかし、風土記記載の「比也山」の縄文語解釈は「石の岸の山」ですから、縄文語解釈が一致しません。

 筆者は、前項で解釈した「都太岐=峰を・切っている・山」の言い換えとして、津万井の谷の北側の山を指したのではないかと疑っています。下記ストリートビューの左手の谷が津万井の谷です。「石の岸の山」であることが分かります。⇒google ストリートビュー

 とすると、風土記の都麻里の条に書かれているここまでの地名は、すべて津万井周辺の地名ということになります。


□□□「鈴堀山」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が巡行していた時、鈴がこの山に堕ちた。探したが見つからず、土を掘って探した。だから鈴堀山といった」

◎縄文語:「シテュ・ホ・ウン・ル」=「大きな峰の・尻・にある・岬」 ⇒google map


 比定地は現在も鈴堀山と呼ばれています。もちろん、鈴は落としていません。縄文語解釈そのままの地勢です。「大きな峰の端の山」。

 ちなみに日本で指折りに多い「鈴木」という名字は「シテュ・ケ=大きな峰・のところ」に住んでいたことをもともとの由来としていると思います。


□□□「伊夜丘」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇の麻奈志漏(まなしろ)という名の犬と猪が、この丘を走って登った。天皇がご覧になって、「射よ」と言った。だから、伊夜丘といった。
この犬と猪とが闘って死に、墓を作って葬った。そんなわけで、この岡の西に、犬墓がある」

◎縄文語:
・伊夜丘=「エヨカ・イ」=「後戻りする(川の)・ところ」
・犬墓=「エン・ノッ・パ・カ」=「尖った・岬の・頭の・ほとり」
(鈴堀山のほとり)
⇒google map


 縄文語解釈の伊夜丘の「後戻り」は、比延谷川の支流の小川が北に曲がって谷に入り込んでいる様を表しているものと思われます。犬次神社が犬墓に比定されているので、その東側の山(スソウジ山)です。

 この「エヨカ」と同類の表現で、「ホカ=後戻りする」があります。日本各地に存在する「堀川」「堀河」「堀越」「堀口」などの語源と思われます。
※「堀越」「堀口」については、第三十七回コラムの「堀越塚古墳」の項で各地の地勢を検証しています。

 犬墓比定地に建つ犬次神社は、犬墓の縄文語解釈どおり「尖り山(鈴堀山)のふもと」にあります。ストリートビューの正面の山です。
ついでに、犬次神社も縄文語解釈します。

●犬次(神社)=「エン・ノッ・チャ・ケ」=「尖った・岬の・ふちの・ところ」⇒google ストリートビュー

  犬を祀っているらしいですが、まったく関係ありません。後ろの鈴堀山を祀った方がいいのではないでしょうか。


□□□「阿富山(あふやま)」命名由来 □□□

×風土記:「朸(あふこ:天秤棒)を使って宍(しし)を担った。だから、阿富と名づけた」

◎縄文語:「アゥ・プッ・ヤマ」=「枝分かれた・川口の・山」 ⇒google map


  比定地は不明です。
 縄文語解釈を見ると、このあたりでは、加古川と杉原川の分岐点が「枝分かれた川口」には最もふさわしい地勢です。そこの山ですから、木次神社背後の「鈴堀山」、あるいは、その峰先の山ということになります。


□□□「高瀬村」命名由来 □□□

×風土記:「川の瀬が高いので名とした」

◎縄文語:「タ・シ」=「石の・山」」
⇒google map


 これも、比定地ははっきりしませんが、この「高瀬」こそ、比也山で述べた「比延山」に思えて仕方ありません。繰り返しになりますが、比延山の縄文語解釈は、

●比延山=「ピ・エ・ヤマ」=「石の・頭の・山」⇒google ストリートビュー

  で、「高瀬=石の山」の縄文語解釈とこの上ない相性を見せています。


□□□「目前田(めさきだ)」命名由来 □□□

×風土記:「天皇の猟犬が、猪のために目を打ち割かれた。だから、目割といった」

◎縄文語:「モィサム・ケ・チャ」=「入り江のほとりの・ところの・岸」 ⇒google map


 これも比定地は分かりません。

 縄文語解釈が比延山の西の加古川の岸辺を指したとすれば、風土記伝承の「犬墓」の比定地である「犬次神社」も近く、整合性がとれます。ここの「入り江」とは、比延山の南か、北にある峰に囲まれた平地のことだと思われます。


□□□「阿多加野(あたかの)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇がこの野で狩をした時に、ある猪に矢が刺さって、うなっていた。だから阿多加野といった」

◎縄文語:「アッチャケ・ウン・ノッ」=「一方の岸(対岸)・にある・岬」
⇒google ストリートビュー(鈴堀山を加古川対岸から)


 比定地は不明です。
 縄文語解釈では、加古川沿いの山を指したのでしょうから、鈴堀山、あるいは、それに連なる山とするのが妥当です。


■■「法太里(はふだ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「讃伎日子(さぬきひこ)と建石(たけいわ)命が闘った時、讃伎日子が負けて逃げ去る際に、手で這って行った。だから、匍田(はふだ)といった。」

◎縄文語:「ホン・チャ」=「腹の(入り江の中の)・岸」⇒google map


 比定地は芳田地区から多可町八千代区。
 野間川中流域の山間に開けた平地。


□□□「甕坂(みかさか)」命名由来 □□□

×風土記:「讃伎日子(さぬきひこ)が逃げ去る時に、建石(たけいわ)命がこの坂まで追放して『今後は、二度とこの境界に入ることはできないぞ』と言って、御冠(みかげ)をこの坂に置いた。
 ある人が言うには、『昔、丹波と播磨との国の境界を定めた時、大甕をこの上に掘り埋めて、国の境にした』と。だから、甕坂といった」

◎縄文語:「メ・カ・ウン・サン・カ」=「泉の・ほとり・にある・坂の・ほとり(or上)」⇒google map


 比定地は西脇市と加西市を結ぶ峠の二ヶ坂。縄文語解釈どおり、泉がたくさんある峠です。


□□□「花波山(はななみやま)」命名由来 □□□

×風土記:「近江の国の花波神がこの山にいた。それによって名とした」

◎縄文語:「パナ・ナペ・ヤマ」=「川下の・泉の・山」⇒google map


 比定地は不明です。
 野間川下流には湖沼がたくさんあるので、「湖沼のほとりの山」とすると縄文語解釈の辻褄が合います。



日出ずる国のエラーコラム
第六十六回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(十一)~神前郡編~「生活習慣を異にする人々」とは、異言語でデタラメを語る風土記を編纂したあなたたちの方だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は神前郡。

 風土記の堲岡里の大川内と湯川の条に「生活習慣を異にする人々がいる」との記載ありますが、それは、そもそも先住民とは異なる言語を操る「風土記を編纂したあなたたち」の方です。

 日本建国黎明期のデタラメ歴史が千年以上にも渡って語り継がれている多くの原因がまさにここにあります。


【今回取り上げる内容】
神前郡/堲岡里/生野/粟鹿河内/大川内/湯川/川辺里/高岡里/奈具佐山/多駝里/邑日野/粳岡/蔭山里/的部里

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「神前郡(かむさき)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「伊和大神の子の建石敷命(たけいわしき)が山使(やまつかい)村の神前山にいた。神がいるのによって名とした。だから、神前郡といった」

◎縄文語:神前山=「コッチャ・ケ・ヤマ」=「谷の入口の・ところの・山」 ⇒google map


 比定地は神崎郡福崎町です。市川右岸に神前山があります。まさに「谷の入口の山」です。⇒google map

 市川か、その支流の七種川を指したものと思われます。


■■■「堲岡里(はにおか)」命名由来 ■■■

×風土記
:「昔、大汝命(おおなむち:オオクニヌシ)と小比古尼命(すくなひこね)が争って、『埴(赤土の粘土)の荷をかついで遠くに行くのと、便意を我慢して遠くに行くのと、この二つの事では、どちらがよくできるだろうか』と言った。
 大汝命は『私は便意をがまんして行こうと思う』と言った。小比古尼命は『私は粘土の荷を持って行こうと思う』と言った。このようにして、競争して行った。
数日経って、大汝命は『もうがまんして歩くことができない』と言って、すぐにしゃがんで用便した。その時、小比古尼命が笑って「そうだ苦しい」と言って、埴をこの岡に投げ捨てた。それで堲岡と名づけた。
 また、用便した時、笹がその屎を弾き上げて、衣にはねた。だから波自賀(はじか)村と名づけた。その粘土と屎が石となって、今も残っている。
 ある人が言うには、応神天皇が巡幸した時、宮をこの岡に造って『この土地は粘土ばかりだなあ』と言った。それで堲岡といったと伝えている」

◎縄文語:「ペナ・オ・カ」=「川上の・川尻(川の合流点の)・ほとり」⇒google map


 比定地は、神崎郡神河町比延周辺です。市川と小田原川の合流点という意味です。

 風土記が長々と由来を創作していますが、もちろん、埴(赤土の粘土)もオオクニヌシもスクナヒコナも応神天皇も命名にはまったく関係ありません。


□□□「生野」命名由来 □□□

×風土記:「ここに荒ぶる神がいて、往来の人を半ば殺した。これによって死野と名づけた。その後、応神天皇が、『これは悪い名だ』と言って、改めて生野とした」

◎縄文語:「エンコ・ノッ」=「岬の・顎」=岬の出っ張ったところ
or「エンコ・ヌ」=「岬の・野原」⇒google map


 兵庫県北部の古墳の縄文語解釈(※第四十三回コラム)ですでにご紹介していますが、再掲します。

 生野城跡の山か、生野の盆地を指したのではないでしょうか。万一通行人が死んだとしても、それはただの偶然です。
 たまたま「生野」という漢字が充てられたので、漢字表記にこじつけてこんな物語が創作されています。


□□□「粟鹿河内(あわかのこうち)」命名由来 □□□

×風土記:「その川は、但馬の阿相(あさぐ)の郡の粟鹿山から流れてきている。だから、粟鹿川内と言った。楡が生えている」

◎縄文語:「アゥ・ワ・カ・ウン・コッチャ」=「枝分かれた・岸の・ほとりの・谷の入口」⇒google map


 神崎郡神河町に「粟賀町」があります。
 「あわか(orが)」という地名が離れた複数の場所にあって、比定地の説が混乱しているようですが、考えるだけ無駄です。先住民の発音に適当に漢字を充てただけなので、辻褄が合う方が逆に不自然です。

 粟鹿河内は、市川支流の越知川と猪篠川の分岐点の岸辺にあります。また、越知川と東の峰に平地が分断されているので、まさに「枝分かれた岸の谷の入口」という地勢になっています。

 一方、風土記に書かれている但馬国の粟鹿山ですが、その麓には粟鹿川が流れ、但馬国一宮の粟鹿神社があります。

 この麓の地勢を

●粟鹿=「アゥ・ワ・カ」=「枝分かれた・岸の・ほとり」=川に分断された岸辺⇒google map


 と解釈すれば、すべて解決します。同じ地勢であれば、同じ地名が複数あるのは至極当然のことです。同じ発音だからといって、遠隔地を繋ぎ合わせた物語を創作するのは無理筋というものです。


□□□「大川内(おおこうち)」命名由来 □□□

×風土記:「大きいことによって名とした。檜、杉が生えている。また、生活習慣を異にする人が三十人くらいいる」

◎縄文語:「オオ・コッチャ」=「大きな・谷の入口」⇒google map


 比定地は市川と小田原川の分岐点、神河町寺前です。

 前掲の粟鹿河内が地勢上の「従」を表す「アゥ=枝分かれ」がついているので、比較対象の「主」となる場所は大川内の「大きな谷の入口」かもしれません。


□□□「湯川」命名由来 □□□

×風土記:「湯がこの川で出た。だから、湯川といった。檜、杉、黒葛が生えている。また、生活習慣を異にする人が三十人くらいいる」

◎縄文語:「イェ・カ・ワ」=「岩の・ほとりの・岸」⇒google map
⇒google ストリートビュー1
⇒google ストリートビュー2


 比定は小田原川です。石や岩がごろごろした川。縄文語解釈そのままです。温泉は出ていないと思います。


■■「川辺里(かわのべ)」命名由来 ■■■

×風土記:「勢賀川、[石弖]川山(とがわやま)。土は中の下。
この村では、川辺に住んでいた。だから、川辺里と名づけた。
 勢賀という理由は、応神天皇がこの川内で狩をして、猪や鹿を多くここに攻めだして殺した。だから、勢賀といった。
 [石弖]川山といった理由は、その山に[石弖](と)があった。だから、[石弖]川山といった。
 星が出る時刻まで狩り殺した。だから、山を星肆(ほしくら)と名づけた」

◎縄文語:
・川辺=「コッ・ワ・ウン・ナンペ」=「窪地の・ふち・にある・水の湧いている穴」
・勢賀=「シ・カ」=「山の・ほとり」
・[石弖]川山=「ト・カ・ワ・ヤマ」=「湖の・ほとりの・岸の・山」
・星肆=「ポッチェ・コッ・ラ」=「ぬかるんだ・窪地の・低いところ」
⇒google map


 比定地は川辺地区です。川辺には西河辺と東川辺があるのですが、一連の縄文語解釈が「湿地」や「湖沼」を連想させますので、池の多い東川辺の方がより相応しく思えます。


■■「高岡里」命名由来 ■■■

×風土記:「この里に高い岡があった。だから高岡と名づけた」

◎縄文語:「タ・オ・カ」=「石の・川尻の・ほとり」⇒google map
⇒google ストリートビュー


 比定地は神前山周辺です。
 縄文語解釈の「石の川尻のほとり」というのは、岡部川と合流する直前の市川のことを指したものと思われます。大きな岩がごろごろしています。


□□□「奈具佐山(なぐさやま)」命名由来 □□□

×風土記:「檜が生えている。地名の由来はわからない」

◎縄文語:「ノッケ・ソ・ヤマ」=「岬の・滝の・山」⇒google map
⇒google ストリートビュー


 比定地は七種山です。
 七種山には七種の滝と呼ばれるたくさんの滝があります。

 風土記もさすがにこの漢字表記に結びつけた物語の創作を断念したのでしょうか。「神武天皇に逆らった名草戸畔の子孫が住んでいた」などと書かれていてもよさそうなものですが。

 ちなみに名草戸畔が拠点としていた紀国の海際にある名草山は、

●名草山=「ナィ・クッチャ」=「川の・入口」⇒google ストリートビュー

 と解釈する方がしっくりきます。


■■「多駝里(ただ)」命名由来 ■■■

×風土記:「応神天皇が巡行していた時、大御判人(おおみともびと)である佐伯部たちの始祖、阿我乃古(あがのこ)がこの地の領有を願い出た。その時、天皇が『はっきりと願い出たことだなあ』と言った。だから多駝といった」

◎縄文語:「タンチャ」=「こちら岸」⇒google map


 比定地は、姫路市船津町、山田町周辺です。

 市川下流の少川里(おがわ)でも書いたのですが、この多駝里の比定地である船津町と、少川里の比定地である花田町の地名は対比表現となっています。

●船津=「ペナ・チャ」=「川上の・岸辺」
●花田=「パナ・チャ」=「川下の・岸辺」


 繰り返しになりますが、縄文語の「タン=こちら」は、対比となる同じような地勢が近接する場合が多く見受けられます。

 今回の場合は、船津町の「タンチャ=こちら岸」の対比の対象となるのは、下流の「花田町」の可能性が高いということになります。


□□□「邑日野(おおわちの)」命名由来 □□□

×風土記:「阿遅須伎高日古尼命(あじすきたかひこね)の神が新次(にいすき)の社にいて、神宮をこの野に造った時、大輪茅(おおわち)を刈りめぐらして垣とした。だから、邑日野と名づけた」

◎縄文語:「オオ・ウォロ・チャ・ウン・ヌ」=「大きな・水につけている・岸・にある・野原」⇒google map


 湖沼の多い船津町の湿地帯を指したとすれば、ぴったりの表現です。


□□□「粳岡(ぬかおか)」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神と天日鉾命と二柱の神がお互いに軍を興して戦い合った。その時、大神の軍が集まって稲を舂いた。その粳が集まって丘となった。
 別伝では、城を掘った所は、応神天皇の御世に渡来した百済の人たちが自分たちの生活習慣のままに城を造って住んでいた。
 また、その箕でふるい落とした粳を墓といい、また、城牟礼山(きむれやま)といった。その孫たちは、川辺里の三家(みやけ)の人である夜代(やしろ)たちである。
 八千軍(やちぐさ)といった理由は、天日鉾命の軍勢が八千人いた。だから八千軍野といった」

◎縄文語:
・粳(岡)=「ノッケ」=「岬」
・城牟礼(山)=「キモロ(=キムィ・オロ)」=「山」
google map

・八千軍野=「ヤチ・クッチャ・ヌ」=「泥の・入口の・野原」
google map


 粳岡や城牟礼山はただの丘や山を表現したものです。

 八千草は、邑日野の縄文語解釈と辻褄が合います。つまり、「船津町(湿地帯)の入口」という意味です。

◎邑日野=「オオ・ウォロ・チャ・ウン・ヌ」=「大きな・水につけている・岸・にある・野原」


■■「蔭山里」命名由来 ■■■

×風土記:「応神天皇の御蔭(みかげ:髪飾り)がこの山に堕ちた。だから、蔭山といい、また、蔭岡と名づけた。
 その時、道を切り払う刃が鈍かった。それによって、『磨布理許』と言った。だから、磨布理(とほり)村といった。
 冑岡というのは、伊与都比古(いよつひこ)の神と宇知賀久牟豊富命(うちかくむとよほ)とが闘った時、冑がこの岡に堕ちた。だから、冑岡といった」

◎縄文語:
・蔭山=「カンカン・ヤマ」=「小腸のように曲がった・山」

・磨布理=「ト・ホ・ウン・ル」=「沼・尻・にある・岬」
・冑(岡)=「カィポ・テュ」=「波打ち際の・岬」
⇒google map


 比定地は、姫路市豊富町周辺です。「蔭山=小腸のように曲がった山」を神谷池一帯の山の表現すれば、ぴったりです。

 「磨布理」「冑岡」も「蔭山」の言い換えと捉えることができます。

 神谷池の西にそびえる「畑山」も

●畑山=「ハッタ・ケ・ヤマ」=「淵の・ところの・山」

 と解釈でき、これも同じ地勢の別の表現として辻褄を合わせることができます。


■■「的部里(いくはべ)」命名由来 ■■■

×風土記:「的部たちがこの村に住んでいた。だから的部といった。
石坐(いわくら)の山というのは、この山に石を載せている。また、豊穂命の神がいる。だから、石坐の神山といった。
 高野の社というのは、この野は他の野より高い。また、玉依比売命がいる。だから、高野の社といった。槐(ゑにす)、杜(かつら)が生えている」

◎縄文語:
・的部=「エンコ・ペペ」=「岬の・水たまりが群がって存在するところ」
⇒google map
・高野=「タオケ・ウン・ヌ」=「川岸の高所の・野原」⇒google map


 比定地は姫路市香寺町です。「水たまりが群がっている岬」のふもとです。

 現在の地名との整合性も見てみました。香寺町は、香呂村と中寺村が合併して誕生した町名です。

・香呂=「コッ・ウン・ラ」=「窪地・にある・低いところ」
・中寺=「ナィ・カ・タ・ラ」=「川・岸・にある・低いところ」

 「高野」の比定地には高野神社が建っています。珍しく風土記と縄文語解釈が一致しています。先住民がいたか、伝承が残っていたのでしょうか。


日出ずる国のエラーコラム
第六十五回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(十)~宍禾郡編~伊和大神は「岩山の神」だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は宍禾郡。

 宍禾郡は確度の高い縄文語解釈が多くできたので、この地域での縄文語使用は確実と言えます。同時に、いかに風土記がウソを書いているかが如実に見てとれます。

【今回取り上げる内容】
宍禾郡/比治里/宇波良村/比良美村/川音村/庭音村/奪谷/稲舂岑/高家里/都太川/伊沢/塩村/柏野里/伊奈加川/土間村/敷草村/飯戸阜/安師里/石作里/阿和賀山/伊加麻川/雲箇里/波加村/御方里/大内川・小内川・金内川/伊和村

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


▼▼▼「宍禾郡(しさわ)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「伊和大神が国を作り堅め終えた後、この川、坂を堺として巡行した時、自分の舌を出している大きな鹿が、大神と矢田村で出会った。そこで『矢は鹿の舌にある』と言った。だから、宍禾の鹿と名づけ、村の名は矢田村と名づけた」

◎縄文語:「シ・サン・ワ」=「大きな・平山の・岸」 ⇒google map


 比定地は宍粟市です。どこにでもある地勢の解釈なので、解釈確度については何とも言えません。


■■「比治里(ひじ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「孝徳天皇の世に、揖保郡を分けて宍禾郡を作った時、山部の比治が任命されて里長になった。この人の名によって、比治里といった」

◎縄文語:「ピ・チャ」=「石ころの・岸」⇒google map ⇒google ストリートビュー


 比定地は、比治地区。このあたりの揖斐川はずいぶんと石が目立ちます。揖斐川沿い北方の高屋里も「ごろた石の岸」の意で、辻褄が合います。


□□□「宇波良村(うはら)」命名由来 □□□

×風土記:「葦原志許乎命(あしはらのしこお:オオクニヌシ)が国を占有した時、『この地は狭い。室の戸のようである』と言った。だから、表戸(うわと)と言った」

◎縄文語:
・宇波良=「ウェン・ハ・ラ」=「難所の・水の引いた・低いところ」
・表戸(うわと)=「ウェン・チャ」=「難所の・岸」
⇒google map


 比定地は山崎町宇原です。揖保川沿いの岸。川と山に挟まれた出口のない平地。この偏の揖保川沿いは、蛇行する川と急峻な峰に挟まれた狭隘な平地が多く、周辺地名のいくつかが「ウェン=難所」で表現されています。


□□□「比良美村(ひらみ)」命名由来 □□□

×風土記:「大神の褶(ひらび)がこの村に落ちた。だから、褶村といった。今の人は、比良美村という」

◎縄文語:「ピラ・ムィ(=モィ)」=「崖の・入り江」⇒google map


 比定地は新宮町平見です。揖保川沿いの土崖の岸。ちなみに「ピラ=土崖」「ペシ=岩崖」。


□□□「川音村(かわと)」命名由来 □□□

×風土記:「天日槍命がこの村に泊り、『川の音がとても大きく高い』と言った。だから、川音の村といった」

◎縄文語:「カィ(orカ)・ウェン・チャ」=「折れ曲がっている(or巻いている)・難所の・岸」⇒google map


 比定地は川戸地区です。揖保川が大きく折れ曲がっているところ。地勢上、縄文人にとって難所であったことは疑いありません。


□□□「庭音村(にわと)」命名由来 □□□

×風土記:「本の名は庭酒(にわき)である。伊和大神の干し飯が枯れてカビが生えた。そこで酒を醸(か)ませて、庭酒に献(たてまつ)って宴会をした。だから、庭酒村といった。今の人は、庭音村という」

◎縄文語:
・庭音=「ニウェン・チャ」=「荒くなる・岸」
・庭酒=「ニウェン・チャ・ケ」=「荒くなる・岸・のところ」
⇒google map


 庭戸村の比定地は北方の染河内川流域の庭田神社とする説と、川戸地区北方の山崎町千本屋を比定地とする説がありますが、庭田神社は北方に離れすぎていて比治里としては不自然です。
 縄文語解釈では、「川戸」と似た解釈のできる山崎町千本屋に軍配が上がります。

 また、次の条の「奪谷」も「枝川が分かれているところ」の意で、「菅野川と揖保川の合流点」とすればまったく辻褄が合います。

 庭戸村を日本酒の起源とする説は、どれほど信憑性があるか不明です。なぜなら、この類の地名由来譚のほとんどは漢字表記にこじつけたデタラメ物語だからです。この物語を引き出すためだけに庭田神社と思しき場所を引っ張り出した可能性すらあります。


□□□「奪谷(うばいたに)」命名由来 □□□

×風土記:「葦原志許乎命(あしはらのしこお:オオクニヌシ)と天日槍命と二神がこの谷を奪い合った。だから、奪谷といった。その奪い合ったことによって、形は曲がった葛のようである」

◎縄文語:「ウッ・ペタウェ」=「脇川が・分かれているところ」⇒google map


 比定地は不明ですが、揖保川と菅野川の合流点とすれば、前条の「庭戸村」とも辻褄が合います。

 近隣に「山崎町船元」の地名がありますが、「船」は「ペナ=川上」あるいは「プッ・ナ=川口・の方」に充てられることが多いということはすでに何度か述べました。ここでも、

●船元=「プッ・ナ・ムンテュ」=「川口・の方・草原」

 とすれば、「奪谷」とも辻褄が合います。


□□□「稲舂岑(いなつきのみね)」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神がこの岑で稲を舂かせた。それで、稲舂の前(さき)といった。その糠が飛んでいった所を糠前(ぬかさき)と名づけた」

◎縄文語:
・稲舂=「エエニ・テュ」=「尖り山の・小山」
・糠=「ノッケ」=「岬」


 比定地はいずれも不明です。縄文語解釈の確度が高そうなだけに残念です。


■■「高家里(たかや)」命名由来 ■■■

×風土記
:「天日槍命が告げて『この村の高さは他の村に勝っている』と言った。だから高家といった」

◎縄文語:「タ・ヤ」=「ごろた石の・岸」⇒google map  ⇒google ストリートビュー


 比定地は、山崎町庄能から山崎町山崎周辺。ストリートビューを見ていただくと、縄文語解釈が一瞬で理解できます。まさに「ごろた石の岸」
 言うまでもなく、「村の高さ」はまったく関係ありません。


□□□「都太川(つだがわ)」命名由来 □□□

×風土記:「誰も由来を知らない」

◎縄文語:都太=「テュン・チャ」=「谷の・岸」 ⇒google map  ⇒googleストリートビュー


 比定地は「伊沢川」とされています。地勢そのままの表現です。

●伊沢=「イソ・ワ」=「水中のかぶり岩の・岸」

 岩手県の胆沢川、山梨県の石和も同語源と思われます。

 胆沢川には大きな岩がごろごろしています。上流には胆沢ダムがありますから、かなり水量の多い急流だったことが窺えます。⇒googleストリートビュー(胆沢川)


 一方、山梨県の石和は笛吹川沿いです。治水技術の発達していない昔は、笛吹川は氾濫を繰り返した暴れ川で、上流のダムで水量を調節するなどの治水が行われています。旧流路は石和温泉駅付近で平等川と合流しています。⇒google map(石和温泉付近)

 余談が長くなりますが、伝承では「笛吹権三郎の笛の音」が笛吹川の命名由来だとされていますが、これもまた漢字表記にこじつけたデタラメです。縄文語解釈すれば、

●笛吹(川)=「プケ・イ」=「水がゴボゴボと湧き出る・もの」=上流の湧水or洪水がよく起こる暴れ川

 の意だと思われます。


□□□「塩村」命名由来 □□□

×風土記:「あちこちで塩水が出る。だから塩村といった。牛や馬たちが好んで飲んでいる」

◎縄文語:「シ・オ(・ウン・ノッ)」=「山・裾(・にある・岬)」 ⇒google map


 比定地は、山崎町庄能です。山とすれば、最上山あたりでしょうか。何度も登場しますが、縄文語解釈では、「塩」は、ほぼ「山裾」の意です。

 風土記では、揖保郡の塩阜でも「塩が湧く」由来が書かれていましたが、言うまでもなく、どちらもまったくのウソです。この辺で塩水があちこちから湧く訳がありません。


■■■「柏野里」命名由来 ■■■

×風土記:「この野に(柏が)生えている。だから、柏野といった」

◎縄文語:「カス・ワ・ウン・ヌ」=「上を越す(川を渡る)・岸・にある・野原」⇒google map


 比定地は千種町です。
 縄文語解釈からすれば、「目的地へ行くための通過点、その峠や、川を渡渉する場所にある野原」ということになります。
 奈良の橿原、大阪の柏原、そしてカンス塚古墳、鑵子塚古墳も峠なども「カス」由来と考えることが可能です。いずれも「越える」場所、あるいは「川を渡渉する」場所にあります。


□□□「伊奈加川」命名由来 □□□

×風土記:「葦原志許乎命(あしはらのしこお:オオクニヌシ)が天日槍命と国を占有していた時、いななく馬がいて、この川で出会った。だから、伊奈加川といった」

◎縄文語:「エン・ノッケ(・カ・ワ)」=「尖っている・岬(の・ほとりの・岸)」⇒google map


 比定地は鷹巣川との説もありますが、この周辺の「尖っている岬」とすれば、千種町河呂の後山の尾根が相応しく見えます。⇒google ストリートビュー
https://goo.gl/maps/Az1YpXd5Eh3cip7n8


□□□「土間村(ひじま)」命名由来 □□□

×風土記:「神の衣が泥(ひじ)の上についた。だから、土間といった」

◎縄文語:「ペッチャ」=「川端」⇒google map


 比定地は山崎町土万(ひじま)です。志文川の川端。

 川端を表す「ペッチャ」に充てられた漢字には、これまで「八幡」「富士見」「人見」「二間」などがありましたが、またここで「土間」「土万」が加わりました。これらの地はすべて川端にあります。

 極めて縄文語の解釈確度が高いと言えます。この地域での縄文語使用は確実です。

※「八幡」については、第三十七回コラムの「八幡塚古墳」の項をご参照ください。ほとんどの「八幡」を冠する地名が「川端」であることを詳説しています。


□□□「敷草村」命名由来 □□□

×風土記:「草を敷いて神の座とした。だから、敷草といった。
この村に山がある。南の方に行くこと十里くらいに沢がある。二町くらいである。この沢に菅が生えている。笠を作るのに最適である。檜、杉が生えている。鉄を産出する。狼、熊が住んでいる。栗、黄連、蔦などもある」

◎縄文語:「シコッ・クッチャ」=「大きな谷の(窪地の)・入口」⇒google map


 比定地は現在の宍粟市千種町です。
 地勢上、縄文語解釈は辻褄が合いますが、いかんせん「大きな谷」がたくさんありすぎて、どれを指したのかわかりません。


□□□「飯戸阜(いいべのおか)」命名由来 □□□

×風土記:「国占めした神がここで飯炊きをされた。それで、飯戸の阜といった。阜の形も甑(こしき)、箕、竈などに似ている」

◎縄文語:飯戸(阜)=「エエン・ペ(・オ・カ)」=「尖っている・もの(・のふもとの・岸)」=「尖り山(のふもとの岸)」⇒google map


 比定地は不明ですが、前述の伊奈加川と完全に解釈が一致しています。

●伊奈加川=「エン・ノッケ(・カ・ワ)」=「尖っている・岬(の・ほとりの・岸)」=後山

 「飯戸阜」は「伊奈加川」の言い換えで、「尖り山」とは「後山」を指したのではないでしょうか。


■■■「安師里(あなし)」命名由来 ■■■

×風土記:「本の名は酒加里(すか)。土は中の上。伊和大神がここで食事をした。だから、須加といった。
 その後、山守里(やまもり)と名づけた理由は、山部三馬(やまべのみま)が任命されて里長となった。だから、山守といった。
 今、名を改めて安師とするのは、安師川によって名とするのである。その川は、安師比売神によって名としていた。
 伊和大神が結婚しようとして求婚した。その時、この神が固く拒んで許さなかった。それで、大神が大変怒って、石で川の源を塞ぎとめて、三形の方に流し下した。だから、この川は水が少ない。
 この村の山に、檜、杉、黒葛などが生え、大神、熊が住んでいる」

◎縄文語:「ア(orアゥ)・ナィ・チャ」=「一方の(or枝分かれた)・川の・岸」⇒google map


 安師里の比定地は安富町安志。林田川の岸辺です。須加の遺称地は西方の谷、山崎町須賀沢。

 「ア=一方の」「アゥ=枝分かれ」は何度も登場していますが、いずれも比較対象で主従関係の「主」に該当する地勢が近接していることが多いです。
 今回の場合の「主」にあたる「大きな川」は、もちろん、西の峰を挟んで南流する揖保川です。揖保川と林田川は平行して南流し、河口付近で合流しています。

 「須加」「山守里」も縄文語解釈を試みると、

●須加=「シ・カ」=「山の・ほとり」
●山守里=「ヤマ・モィェ」=「山の・入り江」


 となりますが、一般名称でかつ比較対象がないので解釈確度については何とも言えません。


■■■「石作里」命名由来 ■■■

×風土記:「本の名は伊和。<中略>石作首たちが村に住んでいた。だから、庚午の年、石作里とした」

◎縄文語:
・伊和=「イワ」=「(祖先を祀る神聖な)岩山」
・石作=「イソ・チケレ・イ」=「水中のかぶり岩が・削れている・ところ」
⇒google map


 比定地は、一宮町伊和から山崎町五十波の揖保川流域です。

 縄文語解釈の「伊和=岩山」は、播磨国一宮、伊和神社の北東にある宮山がピッタリです。磐座となる巨岩がごろごろしています。室町・戦国期の岡城跡でもあります。⇒google map

 また、「石作=水中のかぶり岩が削れているところ」は、このあたりの揖保川を表したものと思われます。揖保川と染河内川が合流する地点などは、大きな石だらけです。⇒google ストリートビュー


□□□「阿和賀山(あわかやま)」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神の妹、阿和賀比売命がこの山にいた。だから阿和賀山といった」

◎縄文語:「アゥ・ワ・カ・ヤマ」=「枝分かれた・岸の・ほとりの・山」


 比定地は不明です。但馬の粟鹿山(粟鹿神社)ではありません。離れすぎで、しかも隣国です。

 縄文語の「アゥ=枝分かれ、隣」は、地勢の主従関係では「主」となる場所に対して「従」を表すことが多く見受けられます。石作里の「伊和神社のある平地の岸辺」を「主」として、揖保川と峰に分断された「枝分かれた岸の山」を探してみます。

このあたりに地名を北から挙げると、

・一宮町嶋田(左岸)=「シ・ムィ・チャ」=「大きな・頭(岬)の・岸」 ⇒google ストリートビュー
・山崎町清野(右岸)=「シアン・ノッ」=「大きな・岬」
・山崎町木ノ谷(左岸)=「キヌ・タ・ノッ」=「葦原・にある・岬」
・山崎町与位(右岸)=「ヤ・エ」=「岸の・頭」=岸にある小山(與位神社)⇒google ストリートビュー
・山崎町杉ケ瀬(左岸)「シ・カ・ウン・コィサ」=「山の・ほとり・にある・波打ち際」
※母栖谷川が揖保川と合流する地点です。「モ・シ・ヤ」=「小さな・山の・岸」で杉ケ瀬と解釈が一致します。
・山崎町田井(右岸)=「タン・エ」=「こちらの・頭(岬)」
・山崎町野々上(左岸)=「ニナル・カ・ウン・ムィ」=「片側が山になっている川岸の平地・のほとり・にある・入り江」
※温泉で有名な群馬県のみなかみ町も「片側が山になっている川岸の平地」で、同語源の可能性があります。⇒google map

 この中では與位神社の建つ小山を「枝分かれた岸の山」とすれば地勢が一致します。⇒google map


□□□「伊加麻川」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神が国を占有した時、烏賊がこの川にいた。だから、烏賊間川といった」

◎縄文語:「エ・カィ・ムィ(・カ・ワ)」=「頭が・折れている(平らになっている)・山頂の・ほとりの・岸」⇒google map ⇒google ストリートビュー


 比定地の一である五十波も解釈します。

・山崎町五十波(いかば) =「エ・カィ・パ」=「頭が・折れている(平らになっている)・頭(岬)」

 地勢を見れば、これ以上的確な表現もありません。烏賊はいるはずもありません。


■■■「雲箇里(うるか)」命名由来 ■■■

×風土記:「大神の妻、許乃波奈佐久夜比命(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗であった。だから宇留加といった」

◎縄文語:「ウ(=フ)・カ」=「丘の・ほとり」⇒google map


 遺称地は一宮町閏賀です。確かに山のほとりというよりも「丘のほとり」です。
⇒google ストリートビュー1
⇒google ストリートビュー2


□□□「波加村(はか)」命名由来 □□□

×風土記:「国を占有した時、天日槍命が先に着いた所である。伊和大神はその後に到着した。それで、大神が大変不思議に思い、『思ったよりも先に着いていたなあ』と言った。だから、波加村といった。
 ここにやってきた人は、手足を洗わなければ、必ず雨が降る。その山に、檜、杉、檀、黒葛、山薑(わさび)などが生えている。狼、熊が住んでいる」

◎縄文語:「パ・カ」=「岬の・ほとり」⇒google map


 比定地は引原川流域です。ありきたりな解釈で、確度については何とも言えません。


■■■「御方里(みかた)」命名由来 ■■■

×風土記:「葦原志許乎命(あしはらのしこお:オオクニヌシ)と天日槍命が黒土の志尓嵩(しにだけ)のうち、一応は但馬の気多郡に落ち、一条は夜夫(やぶ)郡に、一条はこの村に落ちた。だから、三条(みかた)といった。
 天日槍命の黒葛は皆、但馬の国に落ちた。だから、但馬の伊都志(いづし)の地を占有していた。
 別伝では、大神は形見とし、御杖をこの村に指して立たせた。それで、御形といったとある」

◎縄文語:
・御方=「モィ・カ・タ」=「入り江・ほとりの・方」
⇒google map


 比定地は一宮町三方地区です。後述する神酒(みわ)村とも解釈が一致します。

◎神酒(村)=「モィ・ワ」=「入り江の・岸」


□□□「大内川/小内川/金内川」命名由来 □□□

×風土記
:「大きいのは大内といい、小さいのは小内(おうち)といい、鉄を出すのは金内といった。その山に檜、林、黒葛などが生えている。狼、熊が住んでいる」

◎縄文語:
・大内=「オオ・エテュ(・カ・ワ)」=「大きな・岬(・のほとりの・岸)」
・小内=「オ・ウン・テュ(・カ・ワ)」=「川尻・にある・峰(or岬)(・のほとりの・岸)」
・金内=「コッネ・エテュ(・カ・ワ)」=「凹んでいる・岬(・のほとりの・岸)」
⇒google map


 比定地は不明ですが、揖保川沿いの地名も含めて縄文語解釈すると、おおよその見当がつきます。この周辺は、縄文語解釈が非常に楽です。縄文語の使用は決定的です。

●「金内川」筆者比定「百千家満」⇒google map  ⇒google ストリートビュー
 百千家満(おちやま)と風土記記載の「金内川」の縄文語解釈がピタリと一致しています。百千家満が日本語でないことは明らかです。

・百千家満=「オ・ヤマ」=「中窪み(ぼんのくぼ)・山」


●「小内川」筆者比定「福中地区周辺」⇒google map
 揖保川右岸の東山と左岸の高取城に挟まれた谷周辺の地名が「小内川」の解釈とピタリと一致します。すべて「川下の岬のほとり」を表す地名です。

・福野=「プッ・ケ・ウン・ノッ」=「川尻の・ところ・にある・岬」
・福知=「プッ・ケ・テュ」=「川尻の・ところの・岬」
・福中=「プッ・ケ・ウン・ノッ・カ」=「川尻の・ところ・にある・岬の・ほとり」
・西深=「ノッ・サ・ウン・プッ・カ」=「岬の・ほとり・にある・川口の・ほとり」
・深河谷=「プッ・カ・ウン・タナ」=「川尻の・ところ・にある・高い山」
・生栖=「エンコ・チャ」=「岬の・岸」


●「大内川」筆者比定「三方地区の揖保川沿い」⇒google map
 金内川が百千家満周辺、小内川が福中周辺とすれば、「大内川」はその二カ所に挟まれた地域と推定できます。「三方地区の揖保川沿い」が該当します。

 揖保川右岸のなだらかな峰と対岸の高峰が対比の表現となっています。

・高峰=「タン・クマ・ネ・イ」=「こちらの・横山・である・もの」
⇒google ストリートビュー(左が高峰、右手前が揖保川対岸の峰)

 この地区を大内川に比定するならば、「大内川=大きな岬のほとりの岸=高峰のほとりの岸」と解釈する方が地勢上、しっくりきます。

 また、「宍禾郡」の解釈とも完全に一致していますが、郡の中心とは言えず、また、ありきたりな地勢の表現なので、残念ながら確度が高いとは言えません。

・宍禾=「シ・サン・ワ」=「大きな・平山の・岸」


<余談>
 ここに登場する「カ・ワ=ほとりの岸」というのは、各地の地名を縄文語解釈した結果導き出した筆者独自の見解なのですが、ほかに「カ・ヤ」も「ほとりの岸」とし、「カ(・ウン)・ラ=岸(・にある)・低いところ」と解釈しています。アイヌ語では「カ」「ワ」はすべて「ほとり」「ふち」「岸」などを表します。「ヤ」も「陸岸」の意です。
 こうすることで、朝鮮半島南部の「伽耶」「加羅」はもとより、全国の「○川」「○河」「○(ヶ)谷」「ヶ浦」などの地名の解釈が可能になります。すべて「岸辺」「ほとり」の意です。
 「カ・ワ」などは、もしかすると日本語のそもそも「川」や「側」の語源になっているかもしれません。さらに突っ込んで地名を調べる必要がありそうです。



□□□「伊和村」命名由来 □□□

×風土記
:「本の名は神酒(みわ)である。伊和大神が、酒(みわ)をこの村で醸造した。だから、神酒村といった。また、於和(みわ)村といった。
大神が国を作り終えた後、言ったことには『於和(おわ)等於我美岐』」

◎縄文語:
・伊和=「イワ」=「(祖先を祀る神聖な)岩山」
・神酒=「モィ・ワ」=「入り江の・岸」
⇒google map


 御方里の条に続けて書かれているのですが、比定地は一宮町伊和になるのでしょうか。風土記記載の物語はほとんど漢字表記にこじつけた創作なので、そもそも信用するに値しません。

 縄文語解釈では「イワ=岩山」の意なので、必ずしも一宮町伊和とする必要はなく、そのような地勢が他にもあれば、必然的に似た地名となります。

 ただ、この周辺には岩山が発見できなかったので、風土記の記載どおり、もともとの地名には「神酒」の発音が近かったのかもしれません。
とすれば、「神酒=入り江の岸」と解釈して、揖保川支流の「公文川沿いの岸辺」とする方が辻褄が合います。
 また、前述した「御方(三方)=モィ・カ・チャ=入り江の・ほとりの・岸」とも解釈が一致することになります。


日出ずる国のエラーコラム
第六十四回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(九)~讃容郡編~「讃容」は「平山の岸」。伊和大神も娘も鹿も関係ない!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。今回は讃容郡。

 讃容郡は、比定地の地名も含め、地勢との関係がはっきりしない地名が多く、また、他に類例のない独特の地名も多かったため、縄文語解釈の確度を上げるのが大変難しかったです。
 確度の高そうな解釈ができたのは、以下です。

・讃容郡/讃容里
・室原山
・久都野
・中川里
・引船山
・弥加都岐原


 ただ、讃容里(佐用町)の「大撫山」と「本位田」の大小の対比などは、アイヌ語の典型的な使い方なので、このエリアでの縄文語使用の確率は非常に高いと言えます。


【今回取り上げる内容】
讃容郡/讃容里/吉川/速湍里/凍野/邑宝里/鍫柄川/室原山/久都野/柏原里/筌戸/中川里/引船山/弥加都岐原/雲濃里/塩沼村

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


▼▼▼「讃容郡(さよ)/讃容里」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「(伊和)大神妹妋(いもせ)二柱がお互いに競って国占めした時、妹玉津日女命(いもたまつひめ)が生きている鹿を捕らえて横に寝かし、その腹を割いて、稲種をその血に種(ま)いた。それによって一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。
 ここに、大神が『おまえは五月夜(さよ)に植えたことだなあ』と言って、他の所に去っていったので、五月夜の郡と名づけ、神を賛用都比売(さよつひめ)と名づけた。今も讃容の町田がある。
 鹿を放した山は、鹿庭山と名づけた。山の四面に十二の谷がある。どの谷も皆、鉄を産出することがあった。難波豊前(とよさき)の朝廷(孝徳天皇朝)に初めて奉った。発見した人は別部(わけべ)の犬、その孫達が、初めて奉った」

◎縄文語:
・讃容=「サン・ヤー」=「平山の・岸」
・鹿庭山=「シ・コッ・ネ・ワ(ヤマ)」=「大きな・窪地・の・岸(の山)」
⇒google map
⇒googleストリートビュー


 比定地は兵庫県佐用郡佐用町です。ストリートビューを見ていただくと一目瞭然です。まさに「平山の岸」。

 「鹿庭」は「讃容の地勢」の言い換えではないでしょうか。鹿庭山の比定地は大撫山です。

<伝承>そこに棲む大蛇が長い尾で山をなでると草木が折れてしまうことから「尾撫山」と呼ばれていて、それがいつからか「大撫山」となった。

 信じるに値しませんが、こうした漢字表記にこじつけた適当な由来が先住民文化に上書きされて積み重ねられていることが日本文化の一側面です。

●大撫山=「オンネ・エテュ(orテュ)(山)」=「大きな・岬(の山)」

 「オンネ」は、近くに対比となる「ポン=小さなもの」がある場合が多く、この場合は、「小さな峰」が該当します。
 江川川の北岸には「本位田」という地名があります。

●本位田=「ポン・エテュ」=「小さな・岬」

 これは、佐用川と江川川に挟まれた峰を指したものと思われます。

 このほかにも、アイヌ語の典型的な大小の対比表現として、「ポロ⇔ポン」「シ⇔モ」があります。
 この地域での縄文語(アイヌ語)の使用の確率は非常に高いと言えます。


□□□「吉川(えがわ)」命名由来 □□□

×風土記:「本の名は、玉落川。(伊和)大神の玉がこの川に落ちた。だから、玉落といった。
 今、吉川というのは、稲挟部の大吉川がこの村に住んでいた。だから、吉川といった。その山、黄連(かくまぐさ)が生えている」

◎縄文語:
・玉落(川)=「タン・モヨ・チャ」=「こちらの・入り江の・岸」
・吉川=「エンコ・ワ」=「岬の・岸」
⇒google map


 比定は佐用川支流の江川川です。佐用町で佐用川に合流します。「玉落」も「吉川」も「江川川が佐用町で佐用川に合流する岸辺」を表現したのではないでしょうか。
 玉落川は、他にもいろいろな解釈ができるので、少々自信がありません。

※「桉見」「伊師」については、比定地が不明のため、解釈できませんでした。


■■「速湍里(はやせ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「川の流れが速いのによる。速湍の社に鎮座する神、広比売命(ひろひめ)は那都比売(こなつひめ)の妹である」

◎縄文語:「パ・ヤ・ウン・シ」=「岬の・岸・の・ところ」⇒google map


 比定地は、佐用町早瀬地区。佐用川を蛇行させるほどに突き出た岬の岸を表しています。


□□□「凍野(こおりの)」命名由来 □□□

×風土記:「広比売命(ひろひめ)がこの地を占有した時、地が凍った。だから、凍野、凍谷といった」

◎縄文語:「コッ・ウン・レ・ヌ」=「窪地・にある・三つの・野原」⇒google map


 佐用川に分断された早瀬、仁位、上月地区の三カ所の野原。ちょっと自信がありません。


■■「邑宝里(おお)」命名由来 ■■■

×風土記
:「弥麻都比古命(みまつひこ)が、井を開いて干し飯を召し上がって、『私はこの国を占有した』と言った。だから、大の村といった。
井を開いた所は、御井村と名づけた」

◎縄文語:
・邑宝=「オホィ」=「深淵、淵」
⇒google map
御井=「ムー・イ」=「ふさがっている・所」⇒google map


 邑宝里の比定地は、佐用町円光寺地区周辺。御位の比定地は佐用町二位。南北に接しています。

 「邑宝」「御位」ともに短い単語なので、解釈確度が高いとは言えません。

 邑宝の縄文語解釈である「淵」は、佐用川が湾曲して、流れが緩やかになっている箇所を示したのではないでしょうか。

 御位の「ふさがっている所」というのは、「突き出た山の峰に囲まれて四方が見渡せない土地」を表現したとすれば、地勢そのままです。⇒googleストリートビュー



□□□「鍫柄川(くわえがわ)」命名由来 □□□

×風土記:「神日子命が鍬の柄を、この山で採らせた。だから、その山の川を名づけて鍫柄川といった」

◎縄文語:「ケゥ・エ(川)」=「死体の(骨の)・上流(の川)」=涸れた(枝川の?)上流(の川)⇒google map


 佐用川支流の秋里川に比定されています。ちょっと解釈には自信がありません。


□□□「室原山(むろふ山)」命名由来 □□□

×風土記:「風を防ぐことはまるで室のようであった。だから、室原といった。人参、独活、藍漆、升麻(とりのあしくさ)、白朮(おけら)、石灰(いしばい)が生えている」

◎縄文語:「ムィ・オロ・プッ」=「入り江の・所の・川口」⇒google map


 上月町史では西大畠地区に比定されています。
 アイヌ語の「入り江」などは、海際だけでなく、山中の峰に囲まれた地形も指します。ここでは、その「入り江の所に入る場所」という意味にとれます。
 ちょうど「海の入り江の入口」を指した「室原泊」が揖保郡にあります。こちらも内陸と海の違いはありますが、同じ意味です(※第六十三回コラム参照)。

 一方、東に隣接する上月(こうづき)地区を縄文語解釈すると、

●上月=「コッチャ・ケ」=「沢の入口の・ところ」

 となり、室原の解釈と一致します。よって、「室原山」は、「上月地区にある沢の入口の山」と解釈できます。


□□□「久都野(くづの)」命名由来 □□□

×風土記:「弥麻都比古命(みまつひこ)が、『この山は、踏めばきっと崩れるだろう』と言った。だから、久都野といった。その後、改めて宇努(うの)といった。その近辺は山、中央は野であった。」

◎縄文語:「クッチャ・ノッ」=「川尻(川の合流点の)・岬」⇒google map


 比定地は不明ですが、「室原山」や「上月」の縄文語解釈とピタリと一致しています。同じところを言い換えているだけかもしれません。


■■「柏原里」命名由来 ■■■

×風土記
:「柏が多く生えているので、名づけて柏原とした。」

◎縄文語:「カス・ワ・ハ・ラ」=「上を越す・岸・水が引いた・低いところ」⇒google map


 比定地は西徳久、東徳久、下徳久地区です。
 徳久を縄文語解釈すると

●徳久=「タオケ・ペ・イ」=「高所に・沿って下る・ところ」

 「柏原」が上るところ、「徳久」が逆方向の下るところ、つまり上りと下りですから、同じ場所を指しています。


 ちなみに、大阪の柏原市も

●柏原(市)=「カス・ワ・ラ」=「上を越す・岸の・低いところ」

 とすれば、大和川を上って奈良盆地に入る川岸のところと解釈できます。

 また、奈良県の橿原市も

●橿原(市)=「カス・ハ・ラ」=「上を越す(川を渡る)・水が引いた・低いところ」

 で、畝傍山南麓の峰の間の平地と捉えることができます。


□□□「筌戸(うえと)」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神が、出雲の国から来た時、嶋村の岡を腰掛けの床几として坐っていて、筌をこの川に置いた。だから、筌戸と名づけた。魚は入らないで鹿が入った。これを取って鱠(なます)に作り、食べる時に口に入らないで地に落ちた。それで、ここを去って他の所に遷った」

◎縄文語:「ウェン・チャ」=「難所の・岸」⇒google map


 比定地は東徳久の殿崎地区です。千種川の両岸から峰が迫って、岸が狭くなっている場所です。

 殿崎は、

●殿崎=「テュンナィ・サ・ケ」=「谷川の・浜の・ところ」
or「テュンナィ・サ・ケ」=「谷川の・湿地(茂み)の・ところ」


 と解釈できます。「川岸の狭い湿地(茂み)」であれば、「難所」という表現も的を射ています。


■■「中川里(なかつがわ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「苫編首(とまみのおびと)たちの遠い祖先である大仲子(おおなかつこ)と神功皇后が韓国に渡って行った時、船は淡路の石屋で停泊した。その時、風雨がひどく起こり、農の民は悉く濡れた。この時に、大仲子は苫を作って屋を作った。天皇が『これは国の富である』と言い、姓を与えて苫編首とした。よってここに住んだ。だから、仲川(なかつがわ)里と名づけた」

◎縄文語:「ナィ・クッチャ・カ・ワ」=「川の・入口の(合流点の)・ほとりの・岸」⇒google map


 比定地は佐用町三日月地区の志文川沿いです。志文川と支流の本郷川が合流するポイントであることが分かります。
 縄文語解釈そのままの地勢です。

 三日月も「三日月が見えるところ」のような意味ではないのは明らかで、

●三日月=「メ・クッチャ・ケ」=「古川の・入口の(合流点の)・ところ」

 とすれば、中川里の解釈とも一致します。


□□□「引船山(ふなひきやま)」命名由来 □□□

×風土記:「天智天皇の世に、道守臣がこの国の宰(みこともち)として、公の船をこの山で造って、引っぱって海に下らせた。だから、船引といった。この山に鵲が住んでいた。あるいは韓国の烏という。枯木の穴に栖み、春は見えるが、夏は見えない」

◎縄文語:「ペナ・プッ・ケ」=「川上の・川口(川の合流点)の・ところ」⇒google map


 比定地は不明ですが、中川里なので、三日月地区周辺です。「川上の川の合流点のところ」。これ以上のうまい地勢の説明もありません。中川里の解釈とも一致します。

 「船」「舟」は、「ペナ=上流」、「プッ・ナ=川口の・方」を由来とすることが多いようです。


□□□「弥加都岐原(みかづきはら)」命名由来 □□□

×風土記:「仁徳天皇の世に、伯耆の加具漏(かぐろ)と因幡の邑由胡(おおゆこと)の二人が、たいへん驕り高ぶって節度がなく、清酒で手足を洗っていた。さすがに、朝廷は度が過ぎているとして、狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を派遣して、この二人を呼び出した。
 その時、佐夜が、すっかり二人の親族を捕まえて朝廷に向かった時、繰り返し、水の中に沈めて虐げた。その中に女が二人いた。玉を手足に纏っていた。そこで、佐夜が不審に思って聞いた。
 女は答えて『私たちは服部弥蘇連が因幡の国造阿良佐加比売(あらさかひめ)を娶って生んだ子、宇奈比売、久波比売です』と言った。その時、佐夜は驚いた。彼女たちは執政大臣の娘だったので還し送った。送った所を見置山と名づけ、溺れさせた所を弥加都岐原と名づけた」

◎縄文語:「メ・クッチャ・ケ」=「古川の・入口の(合流点の)・ところ」⇒google map


 比定地は三日月地区です。前述のとおり、地勢そのままの意で、中川里や船引の言い換えです。


■■「雲濃里(うの)」命名由来 ■■■

×風土記
:「伊和大神の子、玉足日子・玉足比売命が生んだ子である大石命、この神は父神の心に適っていた。だから、有怒(うの)といった。」

◎縄文語:「ウ・ヌ」=「丘の・野原」⇒google map


 比定地は不明です。現在の地名では、志文川上流の春哉を、

●春哉(はるかな)=「フ・カ・ウン・ヌ」=「丘の・上・にある・野原」

 と解釈すれば、雲濃里の解釈と一致します。また、次項の「塩沼村」の解釈とも一致します。


□□□「塩沼村」命名由来 □□□

×風土記:「この村に海水が出た。だから、塩沼の村といった」

◎縄文語:「シ・オ・ウン・ヌ」=「山・裾・にある・野原」⇒google map


 特徴のない地勢なので、ちょっと自信はありませんが、このような内陸に海水が出ないことだけは確かです。
 再三登場しますが、「塩」はほとんどが「シル・オ=山・裾」に充てられています。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか



日出ずる国のエラーコラム
【小休止】三日月は本当に三日目の月か?三日月について考えてみる。
 ちょっと風土記解釈に疲れたので小休止。月について述べようと思います。

 筆者が記紀の神話を縄文語(アイヌ語)で解釈しようと思った大きなきっかけとなったのが、陰暦月の縄文語解釈でした。

 繰り返しになりますが、再掲します。

◇陰暦月 ※月が満ちる過程(新月から満月の間)
▼【睦月】=〈モィテ〉=【浦の両端にある出崎、浦の手(の形のような月)】=三日月
▽【如月】=〈キサ・アケ〉=【耳の・片割れ(の形のような月)】
▽【弥生】=〈ヤ・オホィ〉=【岸の・深いところ(の形のような月)】
▽【卯月】=〈ウ・チュキ〉=【入江の (形のような) ・月】
▽【皐月】=〈サ・チュキ〉=【浜の (形のような) ・月】
▼【水無月】=〈モィ・ナ・チュキ〉=【入江を・切った(形のような) ・月】=半月
▽【文月】=〈フ・ムィ・チュキ〉=【丘の・頂の(形のような) ・月】
▽【葉月】=〈ハ・チュキ〉=【葉の(形のような) ・月】
▽【長月】=〈ノ・チュキ〉=【卵の(形のような) ・月】
▽【神無月】=〈コ・ネ・チュキ〉=【持ち手の曲がり・のような・月】
▽【霜月】=〈シ・モ・チュキ〉=【わずかに・小さな・月】
●【師走】=〈シ・ワ・ソ〉=【満ちた・輪(縁)の・面】=満月

日出ずる国のエラーコラム

 これらの月の満ち欠けを表す先住民の言葉に、後世の人々は「仲睦まじいので睦月」「神がいなくなるので神無月」「師匠が走るくらい忙しいので師走」といった由来を漢字表記からこじつけて創作しました。

 縄文語からの解釈か、漢字表記からの解釈か、いずれに信憑性があるかは火を見るより明らかです。そして、記紀には「仲睦まじいので睦月」に類する解釈が、それこそ無数にあります。「もし、これらの内容すべてが漢字表記にこじつけたデタラメだとしたら」という仮説のもとに作業は始まりました。

 現在、全国の古墳名、および風土記の地名由来譚の縄文語解釈を進めていますが、その結果、神代はおろか、古墳時代までまるまると縄文語を使用していた痕跡が発見できています。
 少なくとも5,6世紀までは、東日本はもちろん、東海、関西中国四国地方でも縄文語が使われていたことはほぼ確実だと言えます(※中国四国西部、九州の多くは今後の作業予定です)。

 日本に古くから伝わる意味不明の由来や伝承の類いの多くは、縄文語を漢字で表記し、それを漢字表記から解釈することから生まれています。そこには縄文語の本来の意味はほとんど見当たりません。


 上記、筆者の縄文語解釈の大きなきっかけとなった月齢に関して、前々からちょっと気になっていることがあります。

 それは、

「三日月」は本当に「三日目の月」なのか。
「望月(もちづき)」(満月)は本当に「持ち月」「満ち月」なのか
「十六夜月」は本当に「いざよう(ためらう)月」なのか。
「朔日(ついたち)」は本当に「月立ち」なのか。
「晦日(つごもり)」は本当に「月隠り(つきごもり)」なのか。

  現在流布している由来の説は、すべて漢字表記からこじつけられています。前述のとおり、陰暦月等の他の由来の多くが縄文語由来なので、これらもことごとく疑ってかからなければなりません。

 以下、縄文語解釈。

◎三日月=「ムィ(=モィ)・カッ・チュキ」=「入り江の・形の・月」
◎望月=「モ・チュ・チュキ」=「小さな・太陽の・月」
◎十六夜月=「エ・チャン・ヤ・チュキ」=「頭が・薄くなっている・ふちの・月」
◎晦日(つごもり)=「チュキ・モィレイ」=「月が・静かなもの」
◎朔日=「チュキ・タ・チャ」=「月を・切った・ふち」=月が切り替わった日

 比較対象がないので、語呂合わせ感は否めませんが、辻褄は合っています。

 「三日月」などは、現在においても三日目の月だけを指している訳ではありません。四日目の月も五日目の月も「三日月」です。また上弦に至るまでの月だけではなく、下弦を過ぎた月も三日月と呼ばれることもあります。
 これを縄文語解釈で「入り江の形の月」としてしまえば、上記半月に満たない月すべてを三日月とすることができ、「三日目の月」より広範囲の月を指すことができます。

 これはほんの一例ですが、日本を覆うほどに流布している漢字表記にこじつけた上古の由来は、神話、神社、地名、月の名称、ほぼすべてが高確率でデタラメです。日本の歴史が真実を語る日は来るのでしょうか。


日出ずる国のエラーコラム
第六十三回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(八)~揖保郡編(4)~揖保郡の嶋は島ではない!海際の岩崖だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。揖保郡完結編。

 浦上里に登場する謎の島々。通説では家島諸島に比定されていますが、縄文語解釈では、驚きの結果となりました。

【今回取り上げる内容】
伊刀嶋(揖保郡)/家嶋/神嶋/韓荷嶋/高島

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈


■■■「伊刀嶋」命名由来 ■■■

×風土記
:「多くの島を合わせた呼び名である。応神天皇が、狩の射手を飾磨の射目前(いめさき)に立てて、狩りをした。さて、我馬野(あがまの)から出てきた牝鹿がこの阜(おか)を通り過ぎて海に入り、伊刀嶋に泳いで渡った。
 その時、侍従たちが望み見て語り合って言うことには、『鹿はもうその島に到り着いた』と言った。だから伊刀嶋(いとしま)と名づけた」


 風土記の書き手も困ったようで、「多くの島を合わせた呼び名」だと、苦し紛れの言い訳を書いています。
 伊刀嶋は飾磨郡にも登場し、同類の由来譚が簡単に記載されています。飾磨郡の伊刀嶋は少川里にあり、少川里の比定地は内陸です。いわゆる海に浮かぶ「島」であるはずがありません。

 これはどうやらかなりねつ造の疑いがあるので、次の揖保郡に登場する他の島と併せて次項で検証します。


■■■「家嶋/神嶋/韓荷嶋/高島」命名由来 ■■■

×風土記
・家嶋「人々が家を造って住んでいた。だから、それによって名とした」

・神嶋「この嶋の西あたりに石神がある。形は仏像に似ている。だから、それによって名とした」
<後略>※要約『応神天皇の時、新羅の人が来て五色の玉のような仏像の顔を剥がして瞳を盗んだ。神は泣いて怒って暴風を起こし、新羅の人の船を沈めた。亡くなった人を埋葬した場所を韓浜という』

・韓荷嶋「韓人の壊れた船や漂っている物がこの嶋に漂い着いた。だから、韓荷の嶋と名づけた」

・高嶋「高さがこの近辺のどの嶋にも勝っていた。だから、高嶋と名づけた」


 比定地がどの島であるか簡単には断定することができないので、試行錯誤しながら探っていきます。

 まず、これらの「島」が、本当に島を指したのかどうかも不確かなので、縄文語解釈の選択肢を挙げてみます。
 全国の「内陸の島のつく地名」の多くを見ても、いわゆる海に浮かぶ「島」由来ではないのは明らかです。他の由来を探す必要があります。

【参考】「島」のつく地名
関東⇒google map
中部⇒google map
関西・中国⇒google map
四国⇒google map

●島の縄文語解釈の選択肢。
1)「スマ」=「岩」
2)「シ・ムィ(=モィ)」=「大きな・入り江」
3)「シ・ムィ」=「大きな・頂」
4)「シ・マ」=「大きな・谷川」
5)「ス」=「西」
6)「サ」=「隣」
7)「島」=後の日本語の「島」が縄文語に付加されて、島の名となる。

 また、一般的に比定地とされる家島諸島の現在の地名にヒントがないか探ってみます。現在の島名は、下記です。

【家島諸島】
家島/男鹿島(だんがじま)/坊勢島(ぼうぜじま)/西島/院下島(いんげじま)/松島/高島/宇和島/黒島/クラ掛島/太島(ふとんじま)/矢ノ島/小ヤケ島/大ヤケ島/黒フゴ島(くろふごじま)/高羽島(たかわじま)/金子島/小松島/大コ島(おこしま)/小碇礁(こいかりしょう)/大碇礁/ハタカ島/上島

 この中から、縄文語解釈可能な島名を挙げてみます。

◆家(島)=「イェー」=「岩」
 or「エエン」=「先が尖っている」
 or「エン・ウェン」=「先が・険しい」
◆男鹿(島)=「タン・カ」=「こちら・岸」
◆坊勢(島)=「ポッチェ・イ」=「ぬかるんだ・ところ」
◆院下(島)=「インカ」=「物見」
◆松(島)=「マーテュ」=「波打ち際」
◆クラ掛(島)=「コイリ・カ・ケ」=「波のうねり・のほとり・のところ」
◆太(島)=「プチ・ウン」=「入口・にある」
◆ヤケ(島)=「ヤ・ケ」=「岸の・ところ」
◆黒フゴ(島)=「ク・プケ」=「神の(大きな)・大波」※自信ありません。
◆高羽(島)=「タ・ワ」=「石の・岸」
◆大コ島=「オ・ケ」=「外れの・ところ」
◆宇和島、上島=「ウェン・スマ」=「難所の・岩」

 また、西島の地名の解釈。

◆コウナイの石=「カンナ・イ」=「上の方にある・もの」
◆オツヅノ鼻=「オ・テューテュ・ノッ」=「尻の・岬の・あご」
 or「オ・テューテュ・ネ・パナ」=「尻の・岬・である・海のところ」
◆マルトバ浜(韓浜)=「モィレ・トパ」=「静かな・沼頭」
◆韓浜=「カ・ラ・ウン・パン・ムィ(=モィ)=「岸の・低いところ・にある・川下の・入り江」
◆オドモの浜=「オタモィ」=「砂浜の入り江」

 風土記登場の島を縄文語解釈します。


◎縄文語解釈
・家(嶋)
  =「イェー」=「岩」
  or「エン・ウェン」=「尖った・険しい」
  or「エエン」=「先が尖っている」
・神(嶋)
  =「コ」=「持ち手の曲がり(湾曲)」
  or「カムィ」=「神」
・伊刀(嶋)=「エテュ」=「岬」
・韓荷(嶋)=「カィ・ラゥネ」=「折れた・深く掘れている」
・高(島)=「トンケ」=「海尻」



 残念ながら、家島諸島に当てはまる大きな島は、家島ぐらいしかありません。小さな離れ小島は、風土記が大きな島を差し置いてわざわざ取り上げるのは不自然なので省きます。

 あまりにもヒントがないので、一つ仮説を設定します。

『これらの島々は、本当は島ではなく、陸の何かを指した』

 飾磨郡で登場した、揖保郡のそれと同名の伊刀嶋もいわゆる海に浮かぶ「島」を指したのはないのは明らかです。飾磨郡の伊刀嶋は、

◎縄文語解釈:伊刀嶋=「エテュ・ウン・シ・ムィ(モィ)」=「岬・にある・大きな・入り江」
or「エテュ・サ」=「岬・のそば(隣)」

 として、四郷町の岬周辺の地勢とした方がはるかに説得力があります。


 この伊刀嶋と同じような扱いで、記紀に海の神様にされてしまった陸の神様がいます。それは、「住吉三神」です。

 住吉三神は神功皇后が三韓征伐の帰りに祀ったとされ、一般的に海の神様とされていますが、この由来も当然デタラメです(※第三十九回コラム参照)。
 縄文語解釈すると、この三神は「六甲山の自然崇拝」と捉えることができます。

底筒男=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
 =滝のたくさんある出崎のふもと
中筒男=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
 =断層谷のある出崎のふもと
表筒男=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」

 =岩崖の出崎のふもと

 そして、六甲山とその別名の向津峰は、

六甲山=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
向津峰=「ムイェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」

 となります。大元の発音は「ロッコウ」に限りなく近いと言えます。
 「六兒/無古/武庫/務古/牟古」等が、「六甲」に転訛したとしている通説とは異なりますが、縄文語で総体的に見ると、通説の方が怪しい説だということがはっきりと分かります。

 同様に、播磨国風土記記載の揖保郡の島々も、実は陸地にある地形を、その発音と表記から無理矢理解釈して「海に浮かぶ島」の物語を創作したのではないかと疑うことができます。
 記紀、風土記編纂者サイドには、無数の歴史ねつ造実績があります。

 では、その大元と想定できる揖保郡の陸地の地勢とはいったいどこか。

 この島々の直前に記載されているのは、「浦上里」で、「御津」「室原泊」「白貝浦」。その前が、「石見里」で、「酒井野」「宇須伎津」「宇頭川」「伊都村」「雀嶋」です。

 「石見里」と「浦上里」は、東西に隣接した海岸地帯です。

 この隣接する二つの里の地形で、最も特徴的なのは、海に突き出した岩の岬です。特に石見里の綾部山の南西は、海際に切り立つ断崖です。⇒google map

 このような巨大な岩や崖は、言うまでもなく縄文人の代表的な自然崇拝の対象です。伏見稲荷、伊勢志摩の太一信仰、六甲山の住吉三神など、挙げればきりがありませんが、縄文語解釈では、これらはすべて岩や崖に関係する自然崇拝です。

 また、姫路市には、巨岩、巨石を磐座としている神社がたくさんあります。しかも、姫路市に比定される飾磨郡の縄文語解釈は「シ・カマ」=「大きな・岩、平岩」です。

 ということで、揖保郡に隣接する飾磨郡でも、巨岩、巨石への執着が見て取れたので、これらの「嶋」が、縄文語の「スマ=岩」に充てられたものではないかと仮定してみます。

 とすると、

◎家嶋=「エエン・スマ」=「先が尖っている・岩」
 or「エン・ウェン・スマ」=「尖った・険しい・岩」
◎神嶋=「カムィ・スマ」=「神の・岩」

◎伊刀嶋=「エテュ・スマ」=「岬の・岩」
◎韓荷嶋=「カィ・ラゥネ・スマ」=「折れた・深く掘れている・岩」

◎高嶋=「トンケ・スマ」=「海尻の・岩」

 これらは、すべて、「綾部山の海際の断崖」を指したのではないでしょうか。海を隔てて離れた遠くの島々を詳しく語るよりは、はるかに説得力があるように思えます。

 そして、風土記では石海郡、現在の地名は岩見ですから、

●岩見=「イワ・モィ」=「岩山の・入り江」
 or「イワ・ムィ」=「岩山の・頂」
 or「エン・ウェン・ムィ」=「尖った・険しい・頂」


 と、縄文語解釈では、まったく一致することになります。


※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか



日出ずる国のエラーコラム
第六十二回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(七)~揖保郡編(3)~「銅牙石」は「飼牙石」!「立方体の石」の意だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。揖保郡のつづき。石海里から。

【今回取り上げる内容】
石海里/酒井野/宇須伎津/宇頭川/伊都村/雀嶋/浦上里/御津/室原泊/白貝浦/萩原(荻原)里/鈴喫岡/少宅里/細螺川/揖保里/粒丘/神山/出水里/美奈志川/桑原里/琴坂

 ※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■「石海里(いわみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「孝徳天皇の世にこの里の中に、百便の野があって、百枝に垂れる稲が生えていた。阿曇連百足(あずみむらじももたり)がその稲を取って献上した。
 その時、天皇が『この野を開墾して田を作るがよい』と言われた。阿曇連太牟(むた)を遣わして、石海の役民を呼んで開墾させた。だから、野の名を百便(ももたる)といい、村を石海と名づけた」

◎岩見=「イワ・モィ」=「岩山の・入り江」
or「イワ・ムィ」=「岩山の・頂」
or「エン・ウェン・ムィ」=「尖った・険しい・頂」
⇒google map


 比定地は揖保川河口東岸一帯から西岸のたつの市御津町岩見周辺までです。

 縄文語解釈からすると、たつの市御津町岩見の岬が相応しく見えます。岩見から室津に至る海岸線が表現そのままです。

 「石海(石見:島根県西部)から人々を連れてきて開拓させた」などという説は、どこまで本当か分かりません。

 これらの縄文語解釈を鑑みると、可能性として考えられるのは、

1、縄文語で「イワ・ムィ(=モィ)」と呼ばれる土地がある。
2、これに「石海」という漢字を充てて表記した。
3、日本海側に「石見」という発音の同じ(or似ている)地名がある。
4、「そうだ、石見の民を連れてきて開拓させたことにしよう」

※縄文語の命名由来が例え異なっていても、それは編纂者にとって問題ではない。発音が同じ(or似ている)なら結びつけられる。

 というような単純な流れではないでしょうか。そこに事実の辻褄を合わせるための深い洞察や高度な算段があったようにも思えません。

 それよりも、「記紀と結びつけて天皇中心主義を地方の伝承に反映させること」。それこそが第一義とされていたのかもしれません。そのためには先住民の文化をことごとく上書きして塗りつぶしても構いません。むしろ、それも同じくらい重要な目的だった気配すら窺えます。
 日本の黎明期の歴史は、記紀、風土記に破壊されています。

 ちなみに、石見は周辺の地形も考慮すれば、

●石見=「エン・ウェン・ムィ」=「尖った・険しい・頂」
or「イワ・ムィ」=「岩山の・頂」


 あたりが相応しいかと思います。ほかにも解釈の選択肢がありそうです。「尖った険しい頂」「岩の・頂」とすれば、断魚溪あたりでしょうか。⇒google map(断魚溪)



□□□「酒井野」命名由来 □□□

×風土記
:「応神天皇の世に宮を大宅里に造り、井をこの野に作って、酒殿を造り立てた。だから、酒井野と名づけた」

◎縄文語:「サン・カ・エン・ノッ」=「平山(or出崎)の・上が・突き出た・岬」
⇒google map


 比定地ははっきりとしないのですが、縄文語解釈を参考にすれば、前述の「嫦娥山」を「山裾の平山」と解釈できるので、酒井野は世界の梅公園のある「綾部山」あたりでしょうか。


□□□「宇須伎津」命名由来 □□□

×風土記
:「神功皇后が韓国を平定しようと渡って行った時、御船を宇頭川の泊で停泊させた。
 この泊りから伊都に渡って行った時、にわかに向かい風に遭って、進み行くことができなくて、船越から御船を越したが、船はやはり進むことができなかった。農の民を駆り集めて、御船を引かせた。
 さて、ある女がいて、船引きを助けるために、いとしい我が子を献じようとして江に落ちてしまった。だから、宇須伎と名づけた。今のことばでは、伊波須久(いはすく)という」

◎縄文語:「ウチュケ・チャ」=「間のところの・岸」⇒google map


 比定地には魚吹八幡神社があります。かつては海縁の砂堆だったということですが、本当でしょうか?

 縄文語解釈からすると、「間の岸」という意味なので、「川と川に挟まれた間の岸」の意ともとれます。「八幡」も「ペッチャ=川端」の意なので、川岸はほぼ確実です。

 しかしながら、河口の海岸とも想定できるので、検証をさらに続けます。

 魚吹八幡神社のある「網干(あぼし)」区ですが、

●網干
=「ア・ポン・シ」=「片割れの・小さな・山」
or「アゥ・ポ・ウシ」=「枝分かれた・ちいさなもの・のところ」


 となります。これはJR網干駅の北に隣接する朝日山あたりでしょうか。残念ながら、海際を解読するヒントにはなりえません。⇒google map

 ちなみに、似ている名称の烏帽子は、

●烏帽子
=「エン・ポン・シ」=「尖った・小さな・山」
or「エポ・ウシ」=「小さな頭・のもの」


 となります。帽子の形状としても、地形としても簡単に思い浮かべられる名称です。

  次に、魚吹八幡神社は網干区宮内の立地ですから、「宮内」の地名を検証します。これは他の地名も勘案すると、いわゆる神社のエリアを意味する「宮の内」ではないと思います。

●宮内=「モィ・ヤ・ウチュ」=「入り江の・岸の・間」

 ここに答えらしきものがありました。両側に入り江が二つあり、その間の土地ということになります。
 しかし、「入り江」は内陸の同様の地形にも使われますから、太子町の峰に囲まれた「入り江」とたつの市石見地区にある「入り江」の、「内陸の入り江の間の土地」ともとれます。

 さらに検証を続けます。

 宮内の南には「垣内」の地名があります。これは、

●垣内=「コィカ・ウチュ」=「波打ち際の・間」

 ですが、この波打ち際は「川沿い」の地名にも使われます。

 さらに、南の「新在家」。これは他地域にも複数見受けられます。
 一般的には江戸期に「新しい家が建った地区」に命名されたと言われていますが、この類の由来も、漢字表記にこじつけて適当に解釈されていることが多いので、あまり信用できません。日本の伝承は本当にウソだらけです。

●新在家=「シアン・チャィ・ケ」=「大きな・岸の・ところ」⇒google map

 縄文語解釈すればこうなります。

 解釈確度を上げるために「在家」のつく各地の地名を調べてみましたが、ほぼすべて「川沿い」あるいは「海沿い」で間違いありません。

 また、大津茂川東岸の地名は、「大津区」ですが、

●大津=「オオ・チャ」=「大きな・岸」

 だとすれば、新在家の意味と完全に一致します。

 結論。
 魚吹八幡神社の南には、さらに海沿いを意味する地名「新在家」「大津」があるので、魚吹八幡神社は高確率で「川沿い」だったということになります。


【参考】「新在家」のつく地名
◎愛知県西尾市新在家⇒google map
◎大阪府摂津市新在家⇒google map
◎奈良県葛城市新在家⇒google map
◎兵庫県神戸市灘区新在家⇒google map
◎和歌山県和歌山市新在家⇒google map

【参考】「在家」のつく地名
◎関東地方の「在家」のつく地名⇒google map
◎中部関西地方の「在家」のつく地名⇒google map
◎中国四国地方の「在家」のつく地名⇒google map


□□□「宇頭川」命名由来 □□□

×風土記
:「宇須伎津の西の方に渦の淵があった。だから、宇頭川と名づけた。ここは神功皇后が船を停泊した港である」

◎縄文語:「ウチュ・カワ」=「間のところの・岸」⇒google map


 宇須伎津とまったく同じ意味なので、宇須伎津の言い換えではないでしょうか。

 「カワ」を流れる「川」の意だとすれば、「間の川」という意味です。通説の揖保川のことだとすると、河口がいくつかに分かれたうちの「間の川」という意味になります。

 ちなみに京都の「宇治(川)」も(山と山のor琵琶湖と巨椋池の)「間の土地(川)」の意と思われます。


□□□「伊都村」命名由来 □□□

×風土記
:「御船の船員たちが言ったことには『いつかこの見える所につきたいなあ』と言った。だから、伊都といった」

◎縄文語:「エテュ」=「岬」⇒google map
https://goo.gl/maps/2pTHPAMiudFwwKQC9


 御津町伊津が比定地です。糸島、伊豆などと同じ由来です。


□□□「雀嶋」命名由来 □□□

×風土記:「雀が多くこの島に集まっていたので雀嶋といった。草木は生えない」

◎縄文語:「シテュ・ムィ(=モィ)・スマ」=「(沢と沢に挟まれた)山の走り根の・入り江の・岩石」
or「シ・ウ・ムィ(=モィ)・スマ」=「大きな・湾の・入り江の・岩石」
⇒google map


 なぜ「嶋=スマ=岩石」と解釈したのかと言えば、前条の「伊都村」の比定地が御津町岩見で、

●岩見=「イワ・ムィ(モィ)」=「岩山の・入り江」⇒google ストリートビュー

 と解釈できるからです。綾部山、嫦娥山の崖や岩でしょうか。雀嶋の解釈と一致します。岩山であれば、草木も生えません。


■■■「浦上里」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、阿曇連百足たちが、はじめに難波の浦上に住み、その跡にこの浦上に住み、その後にこの浦上に遷ってきた。だから、本の居場所によって名とした」

◎縄文語:「ウッ・ラ・カ・ムィ(モィ)」=「枝分かれた・低いところの・ほとりの・入り江」
⇒google map


 比定地は岩見港から室津港周辺。


□□□「御津」命名由来 □□□

×風土記:「神功皇后が御船を停泊した泊である。だから、御津と名づけた」

◎縄文語:御津=「ムィ(=モィ)・チャ」=「入り江の・岸」
⇒google map


 比定地は岩見港、または、伊津。
 岩見港西岸の岬には嫦娥山などと中国系の名前がつけられていますが、

●嫦娥山=「シロケ・サン」=「山裾の・平山」
⇒google map

 ではないでしょうか。


□□□「室原泊(むろふのとまり)」命名由来 □□□

×風土記:「この泊は風を防ぐこと室のようだった。だから、それによって名とした」

◎縄文語:御津=「ムィ(=モィ)・オロ・プッ」=「入り江の・中の・入口」⇒google map


 比定地は室津港です。google mapをご覧ください。絶妙な命名です。
 室津を縄文語解釈すると、

●室津=「ムィ(=モィ)・オロ・チャ」=「入り江の・中の・岸」

 で、これも地勢とも一致します。


□□□「白貝浦(おうのうら)」命名由来 □□□

×風土記:「昔、白貝が生息していた。だから、それによって名とした」

◎縄文語:「アゥ(・ウン)・ラ」=「枝分かれの(・にある)・低いところ」
or「オオ・ラ」=「深い(大きな)・低いところ」
⇒google map


  比定地は室津の西奥にある大浦です。地勢そのままの解釈です。


□□□「伊刀嶋/家嶋/神嶋/韓荷嶋/高島」命名由来 □□□

 多くの検証を要するので、後段でコラムを独立させてまとめてご紹介します。(※第六十三回コラム参照


■■■「萩原(荻原)里」命名由来 ■■■

×風土記:「神功皇后が、韓国から還って上ってくる時、御船でこの村に停泊した。一夜のあいだに、萩の根が生えた。高さは一丈くらいである。それにちなんで萩原と名づけ、御井を作った。だから、針間井といった。
 その附近は開墾しなかった。また、罇(もたい)」の水が溢れて井となった。だから、韓清水と名づけた。
 その水は朝汲もうとしても朝は水が出ない。そこで酒殿を造った。だから、酒田といった。
 船が傾いて乾いた。だから、傾田(かたぶきだ)といった。
 舂米女(よねつきめ)たちの陰部を、従臣たちが犯して傷を負わせた。だから、陰絶田(ほとたちだ)といった。
 それで萩が多く繁茂した。だから、萩原といった。
 そして祀っている神は少足命(すくなたらしのみこと)である」

◎縄文語:萩原=「パンケ・ワ・ラ」=「川下の・岸の・低いところ」⇒google map


 萩原里の比定地は揖保町萩原です。縄文語解釈と地勢がピタリと一致しています。

 また、風土記記載の地名由来の中で、傾田だけ比定地があります。誉田町片吹です。

◎縄文語:片吹=「コッチャ・プッ・ケ」=「沢の入口の・川口の・ところ」

 縄文語解釈では、誉田町片吹というよりも、揖保川と林田川の合流点の萩原の言い換えとする方がしっくりきます。


□□□「鈴喫岡(すずくいおか)」命名由来 □□□

×風土記:「応身天皇の世にこの岡で狩をしたところ、鷹の鈴が落ち、探したが見つからなかった。だから、鈴喫岡と名づけた」

◎縄文語:「シテュ・ケ」=「大きな峰の・ところ」⇒google map


 比定地ははっきりしませんが、縄文語解釈では、揖保川西岸の河口の峰が相応しく見えます。


■■■「少宅里(おやけ)」命名由来 ■■■

×風土記:「本の名は、漢部里である。土は下の中。漢部と名付けた理由は、漢人がこの村に住んでいた。っだから、それによって名とした。その後に改めて少宅と名づけた。
 その後、若狭の孫である智麻呂が、任命されて、里長となった。これによって、庚寅の年(690年)、少宅里とした」

◎縄文語:漢部=「ア・ヤン・ペ」=「一方の・陸に上がる・ところ」⇒google map


 比定地は龍野町小宅地区周辺です。「揖保川の岸辺の陸にあがるところ」という意味です。「アル=一方の」がついていますから、対比となる場所があるはずです。
 揖保川の下流部には姫路市の余部地区がありますから、

●余部=「ヤン・ペ」=「陸に上がる・ところ」

 とすれば、漢部との関係も成立します。また、余部地区の揖保川対岸の海辺の山は綾部山です。こちらも対比とされる上陸の岸だった可能性があります。

 また、のちの里名となった「少宅里」は

◎少宅里=「オ・ヤ・ケ」=「山裾の・岸の・ところ」

 で、地勢とも一致します。「オ=尻」はアイヌ語では「河口」を指すことが多いのですが、本州では、「山裾」の意でも使用されることが多いように思えます。「シル・オ=山・裾」に充てられたと思われる「城」「代」「白」「将」「塩」「親王」などを含む地名が各地に多数残っています。


□□□「細螺川(しただみがわ)」命名由来 □□□

×風土記:「農民が田を作り溝を通したところ、細螺が多くこの溝にいた。その後、ついに川になった。だから、細螺川といった」

◎縄文語:「シテュ・ウン・テュンナイ」=「沢と沢に挟まれた峰の走り根・にある・谷川」⇒google map


 比定地は林田川です。一般的な地勢表現なので、発音がちょっとズレるので解釈確度については何とも言えませんが、解釈そのままの地勢です。


■■■「揖保里」命名由来 ■■■

×風土記
:「この里は粒山(いいぼやま)をたよりに成り立っている。だから山によって名とした」

 次項の粒丘参照。


□□□「粒丘(いいぼおか)」命名由来 □□□

×風土記:「天日槍命が、韓国から渡って来て、宇頭川の下流に到って、宿る所を葦原志拳乎命(あしはらしこお:オオクニヌシ)にお願いして『あなたは、国主です。私は宿る所を求めています』と言った。そこで志拳は海中に宿ることを許した。その時、貴神は、剣で海水をかき混ぜて宿った。
 主の神は貴神の活発な振る舞いを畏れて、先に国を占有しようと思い、巡り上り粒丘(いいぼおか)に着いて食事した。この時、口から米粒が落ちた。だから、粒丘と名づけた。
 その丘の小石はみんな米粒に似ている。また、杖で地に刺すとすぐに杖の所から冷たい泉が湧き出て、遂に南と北とに通じた。北は冷たく南は温かい」

◎縄文語:「粒丘」=「エ・エン・ポ・オ・カ」=「頭が・突き出ている・子(小さなもの)・麓の・ほとり」※小さな突き出た山の麓のほとり。 ⇒google map


 粒丘の比定地は中臣印達神社のある中臣山、揖保里の比定地は、その遺称地から、揖保川町、揖保町周辺とされています。

 揖保川とその支流の合流点である中臣山とすれば、縄文語解釈そのままの地勢です。

 新羅由来の渡来人である天日槍とオオクニヌシが国の占有を争ったような伝承が播磨国にありますが、古代人の創作物でまず間違いありません。そもそも天日槍が新羅から来たというのもどこまで本当か分かりません。なぜなら、縄文語解釈すれば、

●新羅=「シロケ」=「山裾」=出石
●天日槍=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉


 で、ただ「出石の人」と言っているだけだからです。他の例も勘案すれば、天日槍は漢字表記にこじつけて「新羅由来の渡来人」と創作されてしまったと考える方が合理的です。このようなデタラメ物語が千年以上に渡って無数に言い伝えられているのですから、古代人は本当にとんでもないことをしてくれたものです。
 詳しくは、第四十三回『天日槍は新羅から来ていない!楯縫は楯を作っていない!』を御参照ください。


□□□「神山」命名由来 □□□

×風土記:「この山に石神がいる。だから神山と名づけた」

◎縄文語:「コ・ヤマ」=「持ち手の曲がりのような・山」
⇒google map
⇒ストリートビュー


 これは、その山の形状から言っても比定地の神戸北山を指しています。

 林田里の槻折山の条で登場する「蒲阜(かまおか)」も同じ山体で、同語源と思われます。

・蒲阜=「コ(阜)」=「持ち手の曲がりのような(阜)」⇒googleストリートビュー



■■■「出水里(いずみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「この村に冷たい泉が出る。だから、泉によって名とした」

◎縄文語:「エテュ・ムィ(=モィ)」=「岬の・入り江」
⇒google map


 どこにでもある地勢なので、解釈確度が高いとも言えません。出雲などと同語源。


□□□「美奈志川(みなしがわ)」命名由来 □□□

×風土記:「伊和大神の子、石龍比古命(いわたつひこ)と妹石龍売命(いもいわたつめ)と二神が、川の水を互いに競っていた。
 夫の神は北の方の越部村に流そうと思い、妻の神は南の方の泉村に流そうと思った。
その時、夫の神がその山の岑を踏んで流し下した。妻の神が見て、道理に合わないと思い、すぐ指櫛でその流れる水を塞き止めて、岑のあたりから溝を通し、泉村に流して争った。そこで夫の神はまた泉の下の川に到り、流れを奪って西の方の桑原村に流そうとした。
 さて、妻の神は何としても許さないで地下に水を流す下樋を作り、泉村の田あたりに流し出した。
 これによって、川の水は絶えて流れない。だから、无水川(みなしがわ)と名づけた」

◎縄文語
美奈志川=「メナ・ソカナ」=「上流の細い枝川の・山際の平地」
⇒google map
越部(村)=「コッチャ・ウン・ペ」=「沢の入口・にある・ところ」


 いずれの解釈も周辺の地勢と一致します。美奈志川には中垣内川が比定されています。
 さらに、中垣内川を縄文語解釈してみます。

●中垣内川(なかがいちがわ)=「ナイコッ・カ・ウン・エテュ(川)」=「涸れた川の・ほとり・にある・岬(の川)」

 中垣内川の解釈も、美奈志川の解釈とも、風土記の説話とも一致します。

 風土記記載の物語は、神様云々は創作としても、何かしらの現実を投影したものなのかもしれません。これは、先住民との交流があった可能性を示しています。これまでの一連の解釈の中では、極めて珍しい例です。


■■■「桑原里」命名由来 ■■■

×風土記:「旧名は、倉見の里である。土は中の上。応神天皇が欟折山(つきおれやま)に立ってご覧になった時、整然と立ち並ぶ倉が見えた。だから、倉見の村と名づけた。今、名を改めて桑原とする。
別伝では、桑原の村主たちが讃容郡の桉(くら)を盗んで持ってきたところ、その持ち主が跡を追い求めて、この村で発見した。だから、桉見といったとある」

◎縄文語:「キラゥ・ムィ(=モィ)」=「枝分かれた山の・入り江」 ⇒google map


 比定地は揖西町西部です。
 「キラゥ」は「キ・アゥ」=「骨(or山)の・枝=角」の意ですが、地勢では「アゥ」が「枝分かれたところ」を指すので、「枝分かれた山」と解釈しました。


□□□「琴坂」命名由来 □□□

×風土記:「景行天皇の世に出雲国の人がこの坂で休んだ。ある老人がいて、娘といっしょに坂本の田を作った。さて、出雲人が、その娘に行為を持たれようと思い、琴を弾いて聞かせた。だから、琴坂と名づけた。
ここに銅牙石がある。形は双六の綵(さえ)に似ている」

◎縄文語:琴坂=「コッチャ・サン・カ」=「沢の入口の・平山の・ほとり」 ⇒google map


 比定地はたつの市揖西町小犬丸と揖西町新宮の境界の峠です。縄文語解釈そのままの地勢です。

 ここで産出する銅牙石ですが、写本には「飼●(「豕」や「可」に似た文字)石」と書かれています。平安期の延喜典薬寮式の播磨が納めるべき薬種に銅牙があることから、通説では「銅牙」の誤記であるとされています。
 「双六の綵」とはサイコロのことで、この周辺で採れる数ミリの立方体の「升石(マス石)」とされています。

 これを縄文語で解釈するとどうなるか、試してみます。

●銅牙石
=「テューカ(石)」=「峰の上」
or「ト・カツ(石)」=「突起した・形(の石)」

 ちょっと微妙です。

 しかし、「銅」を写本の「飼」に戻すと、

●飼牙石=「シ・カッ(石)」=「真の(本当の)・形(の石)」

 で、「立方体」を指したとすれば、その形状そのままの意です。「銅」はもとから「飼(し)」だったのではないでしょうか。

 縄文語に充てられた漢字が何を意味するのか、漢字表記からの解釈ではまったく解読することはできません。
 日本の有史は、縄文語にデタラメに漢字を当てはめたところから始まっています。無理矢理解読しようとしても、記紀風土記以来、累々と積み重ねられたこじつけ創作物語に、さらに厚みを加えることになるだけです。

 もちろん、漢字以前に文字がなかったという仮定の上です。



※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか



日出ずる国のエラーコラム
第六十一回 播磨国風土記のウソを徹底的に暴く!(六)~揖保郡編(2)~大国主は稲種山に種を積んでいない!稲種山は「長い尖り山」の意だ!
 播磨風土記縄文語解釈を続けます。揖保郡のつづき。林田里から。

【今回取り上げる内容】
林田里/松尾阜/塩阜/伊勢野、伊勢川/稲種山/邑智駅家/冰山/槻折山/広山里/麻打里/意比川/枚方里/佐比岡/佐岡/大見山/三前山/御立阜/大家里/大法山/上筥岡・下筥岡・魚戸津・朸田/大田里/言挙阜/鼓山

 ※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■「林田里」命名由来 ■■■

×風土記:「本の名は談奈志。<中略>伊和大神が国を占有した時、御志(みしるし)としてここに植えたところ、やがて、楡の樹が生えた。だから、談奈志といった」

◎縄文語:談奈志=「タナ」=「高い山」
⇒google map


 ドンピシャで一つの単語です。ただ、あまりにもありきたりな表現なので、どの山を指したのか分かりません。やはり伊勢山でしょうか。


□□□「松尾阜(まつおのおか)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が巡行していた時、ここで日が暮れた。この阜(おか)の末を取ってかがり火とした。だから松尾と名づけた」

◎縄文語:「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻(外れ)」 ⇒google map


 「川のほとり」あるいは「池のほとり」のことだと思われます。


□□□「塩阜(しおおか)」命名由来 □□□

×風土記:「この阜の南に塩水湖があった。たてよこ三丈くらい。海と離れていること三十里ほどで、水底は小石を敷きつめ、周囲は草に覆われている。海水と淡水が混じり合い、満ちる時は深さ三寸くらいである。牛、馬、鹿たちが好んで飲んだ。だから、塩阜と名づけた」

◎縄文語:「シ・オ」=「山・裾」 ⇒google map


 本当に塩が採れた痕跡があるのでしょうか。太古は海底で隆起したとしても、科学的に証明されていないのであれば、まったく信じることができません。

 日本全国の「塩」のつく地名の多くは、「シ・オ=山・裾」の意です。ほか、繰り返しになりますが、「白」「将」「親王」「新皇」などの漢字が充てられることが多いようです。

 塩阜の比定地は、現在の聖ヶ丘公園(林田陣屋跡)ですが、言うまでもなく、「鶴嘴山」のふもとにあります。そして、聖ヶ丘を縄文語解釈すれば、

●聖(丘)=「ピ・シリ」=「石の・山」
or「ピ・シリ・オ・カ」=「石の・山の・裾の・ほとり」


 の意で、地勢とまったく一致します。


□□□「伊勢野、伊勢川」命名由来 □□□

×風土記:「この野では人の言えが建つたびに、平穏に暮らすことができなかった。
 さて、衣縫猪手(きぬぬいのいて)という漢人の刀良(とら)たちの祖がここに住もうとして、神社を山の麓に立てて、山の岑(みね)に鎮座する紙である伊和大神の子、伊勢都比古命と伊勢都比売命を敬い祭った。
 これより後、それぞれの家は安らかになって、やっと里となることができたので伊勢と名づけた」

◎縄文語:「イソ・ノッ」=「平岩の・岬」 ⇒google map


 神座の窟や、岩屋の森などがある伊勢山のことだと思います。


□□□「稲種山」命名由来 □□□

×風土記:「大汝命(おおなむちのみこと:オオクニヌシ)と少日子根命(スクナヒコナ)と二柱の神が、神前郡壁里生野の岑にいて、この山を望み見て『その山は、稲種を置くのによい』と言った。稲種を送って、この山に積んだ。山の形も稲を積んだ形に似ていた。だから、名づけて稲積山といった」

◎縄文語:「エエニ・エ・タンネ・イ」=「尖り山が・そこで・長くなっている・もの」
⇒google map(峰相山※とんがり山は南西の尾根先)
⇒googleストリートビュー


 比定地は峰相山から延びる尾根先のとんがり山です。うまい命名です。地勢そのままです。ぜひリンク先のストリートビューをご覧ください。


□□□「邑智駅家(おおちのうまや)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇が巡行している時、ここに到って『私は狭い地だと思ったが、ここは広々としたところだなあ』と言った。だから、大内と名づけた」

◎縄文語:「オオ・テュ・ウン・モヨ」=「大きな・峰・にある・入り江の中」 ⇒google map


 「邑智駅家」については、播磨国風土記に記載される表記が里名になっていないので、その理由について研究者の間で議論があるようです。(※参考文献:「『播磨国風土記』と播磨国の駅家」中村弘)
 これは、縄文語の発音にたまたま「駅家」という漢字を充てたために、混乱が起きているとも考えられます。上記縄文語解釈では、邑智駅家は後世に設けられた駅家で、風土記の当時は駅家ではなかった可能性を示しています。

 「オオ・テュ=大きな・峰」は、後述する邑智比定地の西にある槻折山が「小山」と解釈できるので、その対比として、槻折山の北側の峰を「大きな」峰と言ったのかもしれません。

 「モヨ(モィ・オ=入り江の・中)」は、アイヌ語の文法的には「モヨロ」として、三人称の形にした方が適切なのかもしれませんが、他の解釈例の発音も併せて検討すると、必ずしも三人称の形にしなければならない訳ではないかもしれません。
 今回の場合は、最後尾につく「ル」を子音として、表記が脱落したと解釈する方がスムーズに理解できます。

 また、邑智駅家の近隣の小字、馬屋田に関しては、

●馬屋田=「モヨ・チャ」=「入り江の中の・岸辺」

 とも解釈でき、何が本当にいわゆる馬に関する「駅」なのか定かではありません。

 古代人は、縄文語の発音にことごとくデタラメに漢字を充てているので、少なくとも古墳時代以前の事柄については、漢字表記を正面からまともに解釈するのは、極めて危ういと言わざるをえません。
 ここでも、「駅家と書いてあるからいわゆる『うまや』である」とは限らないということです。


□□□「冰山(ひやま)」命名由来 □□□

×風土記:「この山の東にこんこんと流れ出る泉がある。応神天皇がその井の水を汲んだところ凍った。だから冰山と名づけた」

◎縄文語:「ピ(山)」=「石ころ(山)」 ⇒google map


 比定地は定まっていないのでなんとも言えません。ただ、この辺の山は実際に石ころが多いようです。



□□□「槻折山(つきおれやま)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇がこの山で狩をして、槻弓で走る猪を射たところ、その弓が折れた。だから槻折山といった。
この山の南に石の穴があり、穴の中に蒲が生えていた。だから蒲阜(かまおか)と名づけた。今はもう生えていない」

◎縄文語
・槻折山=「テュ・オロ・ヤマ」=「小山の・中の・山」
⇒google map
・蒲阜=「コ(阜)」=「持ち手の曲がりのような(阜)」⇒googleストリートビュー


 槻折山は、小さな頂がいくつかあるので、その中の山という意味だと思います。

 蒲阜は槻折山の南だとすると、揖保郡太子町とたつの市誉田町福田の境界にある坊主山(佐比岡比定地)が相応しく思えます。ストリートビューで持ち手のような山の形状をご確認いただけます。

 いずれにせよ、応神天皇の弓は関係ありません。


■■■「広山里」命名由来 ■■■

×風土記:「旧名は握(つか)の村。土は中の上。都可(つか)と名づけた理由は、石比売命が泉里の波多為(はたい)の杜に立って弓を射たが、ここに到って箭がすべて地に入り、ただ、柄が地面から出ているだけになった。だから、都可の村と名づけた。その後、石川王が総領であった時、改めて広山の里とした」

◎縄文語:「テュ・カ」=「小山の・ほとり」⇒google map


 「テュ=小山」は槻折山の解釈と一致しています。つまり、「槻折山のほとり」ということだと思います。

 「広山」は残念ながら、適切な縄文語解釈が見つかりませんでした。


■■■「麻打里」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、但馬国の人、伊頭志君麻良比(いずしのきみまらひ)がこの山の家に住んでいた。二人の女が夜に麻を打っていたが、麻を自分の胸に置いて死んだ。だから、麻打山と名づけた。今、このあたりに住んでいる者は、夜になると麻を打たない。その土地の人が言うには、『讃伎の国』という」

◎縄文語:「アサ・ウテュル(山)」=「入り江の奥の・間(の山)」⇒google map


 麻打山の比定地が太子町の平地にあるいずれかの山だとすれば、まさに「入り江の奥の間の山」と表現するのにぴったりの地勢です。「入り江」は内陸の同様の地形を表現するのにも使われます。

 麻を胸に置いて死んだとか、夜に打つとか打たないとか、命名にはまったく関係ありません。麻を夜に打たない風習があったかどうかとは切り分けて考えなければなりません。

 風土記記載のすべての地名由来譚に関しては、真面目に分析する価値があるかどうかから分析し直さなければなりません。


□□□「意比川(おひかは)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇の世に出雲の御蔭大神(みかげおおかみ)が枚方里の神尾山にいて、いつも道行く人を遮って、通行人の半分を殺し半分を生かして通した。
 その時、伯耆の人小保弖(こほて)と因幡の布久漏(ふくろ)と出雲の都伎也(つきや)の三人がともに悩んで、朝廷に申し上げた。
 そこで額田部連久等々(ぬかたべのむらじくとと)を遣わして、祈祷させた。そのときに、屋形を屋形田に作り、酒屋を佐々山に造って祭った。宴で遊んでたいへん楽しみ、櫟山の柏を帯びに掛け腰に差し込んで、この川を下りながら押し合いをした。だから、厭川(おそいかわ)と名づけた」

◎縄文語:意比川=「オホィ・カ・ワ」=「深い淵の・ほとりの・岸」⇒google map


 縄文語解釈では、ありきたりな命名由来となりますが、後述する「平方」「佐比岡」ともまったく辻褄が合います。「山に挟まれた谷地形」という意味です。

 川はいわゆる流れる水の「川」ではなくて、「岸辺」の意味とした方が辻褄が合います。
 「水辺」を連想させる解釈なので、かつては大きな湖沼があったのかもしれません。現在でも池沼が点在しています。

 厭川も縄文語解釈してみます。

●厭川=「オソコッ・ワ」=「窪地の(尻の跡の)・岸」

 こちらも意比川の解釈とも地勢とも完全に一致します。
 また、「意此川」誤記説としても、厭川と同語源と解釈することができます。

 とにかく、意比川、意此川のいずれにしても、「押し合いした」などという風土記の命名由来とはまったく関係ありません。


■■■「枚方里」命名由来 ■■■

×風土記:「河内国の茨田(まむた)郡枚方里の漢人がやってきて、はじめてこの村に住んだ。だから枚方里という」

◎縄文語:「ピラ・カ・タ」=「崖の・ほとりの・方」⇒google map


 「ピラ=崖」ですから、日本のどこにでもある地形です。

 発音が同じというただそれだけの理由で、他の土地からまったく無関係の人を登場させるのは記紀、風土記の常套手段です。
漢人が本当にいたかどうかは不明ですが、それが命名由来ではないことだけは確かです。


□□□「佐比岡」命名由来 □□□

×風土記:「出雲の大神が神尾山にいた。この神は出雲の国人がここを通り過ぎると、十人のうち五人を留め、五人のうち三人を留めて行き来の妨害をした。それで出雲の国人たちが佐比を造ってこの岡に祭ったが、それでも和やかに受け入れられることはなかった。
 そうなった理由は、男神が先に来て、女神が後に来たからである。この男神は鎮まることができなくて去って行った。そういうわけで、女神は怨み起こっているのだ。
 それからしばらく後に、河内国の茨田(まむた)郡枚方里の漢人がやってきて、この山のあたりに住んで、敬い祭った。それで辛うじて和やかに鎮めることができた。この神が座しているのにちなんで、名づけて神尾山といった。また、佐比を造って祭った所を、佐比岡と名づけた」

◎縄文語:佐比岡=「スオ・オ・カ」=「崖の淵の・はずれの・岸」⇒google map


 「意此川」「枚方」とともに「崖」がキーワードになっています。比定地は佐用岡地区です。

 縄文語解釈の「スオ」は、もともと「箱」の意で、地形では「両岸が崖で川底が岩の箱となって水をたたえているところ」の意です。ここでも水辺を連想させるので、やはりこの近辺に湖沼があったのかもしれません。

 比定地が重なる「意此川」と「枚方」もともに「崖」の意を含む名称なので、まったく辻褄が合います。

さらに、佐用岡のすぐ北に隣接して「松尾」「広坂」の地名を発見することができます。

●松尾=「マーテュ・オ」=「波打ち際の・はずれ」 ⇒google map
●広坂=「ピラ・サン・カ」=「崖の・平山の・ほとり(岸)」⇒google map

 この二つの地名はまるで「佐比岡」の言い換えのようです。周辺地名も含めて総合的に解釈すると、一連の縄文語解釈は極めて確度が高いと言えます。

  また、佐比岡の比定地を坊主山とする説がありますが、槻折山の項では、槻折山の南にある丘の「蒲阜(かまおか)」の比定地として坊主山を挙げました。これは、神尾山の解釈とも一致します。佐比岡よりも神尾山の比定地が相応しいと言えます。

●神尾山=「コ・オ」=「持ち手の曲がりのような・尻」
⇒google map
⇒googleストリートビュー

  さらに、坊主山は、

●坊主山=「ポッチェ(山)」=「ぬかるんでいる(ところにある)(山)」

 と解釈できますから、水辺であったことも想像できます。


□□□「佐岡」命名由来 □□□

×風土記:「仁徳天皇の世に筑紫の田部を召して、この地を開墾させた時、毎年五月にこの岡に集い集まり、酒を飲んで宴会をした。だから、佐岡といった」

◎縄文語:「サン・オ・カ」=「平山の・ふもとの・岸」


 比定地が不明なので、なんとも言えません。
 縄文語解釈では、前項の「広坂=崖の平山のほとり」とほぼ一致するので、広坂周辺かもしれません。


□□□「大見山」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇がこの山の嶺に上って、四方を望み見た。だから大見といった。御立の所に岩があった。高さ三尺くらい、長さ三丈くらい、広さ二丈くらいであった。その石の表面に、ところどころ、窪んでいる跡があった。これを名づけて御沓(みくつ)あるいは御杖(みつえ)の所といった」

◎縄文語:
・大見=「オオ・ムィ(山)」=「大きな・頂(の山)」=平山か
・御沓=「ムィ・クツ」=「山頂の・岩崖」
・御杖=「ムィ・テュイェ・イ」=「山頂を・切っている・もの」=平山の山頂
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 山頂が広い岩崖のある山という意味かと思われます。ストリートビューをご覧いただければ分かりますが、縄文人は命名の天才です。

 比定地の檀特山は、

●檀特山=「タン・タ・サン」=「こちらの・石の・平山」

 「タン=こちらの」がついていますから、対比となる山があるはずです。

 それは南の大日寺のある朝日山です。大法山の比定地とされています。こちらも山頂に巨石がごろごろしています。

●朝日山=「ア・サン・ピ(山)」=「一方の・平山の・石(の山)」
or「アゥ・サン・ピ(山)」=「枝分かれた・平山の・石(の山)」
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  解釈が完全一致です。朝日山は大法山の比定地なので、詳しくは後述します。

 応神天皇は命名に関係ありません。漢字表記に語呂合わせした由来はことごとくデタラメです。


□□□「三前山(みさきやま)」命名由来 □□□

×風土記:「この山の岬のようなところが三つあった。だから、三前山といった」

◎縄文語:「ムィ・サン・ケ(山)」=「山頂が・平山の・ところ」
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 これも、比定地は大見山と同じく「檀特山」とする説がありますが、縄文語解釈でも地勢が完全に一致しています。


□□□「御立阜(みたちおか)」命名由来 □□□

×風土記:「応神天皇がこの阜(おか)に上って、国見をした。だから、御立岡といった」

◎縄文語:「ミンタ・テュ」=「祭場の・岬」
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 比定地は「立岡山」です。かつて北の宮(一の宮)岡ノ峯八幡が祀られていましたが、阿宗神社に遷座し、現在は天満宮が祀られています。

 岡ノ峯八幡が祀られていたことを考慮すると、「ミンタル=山上の祭場」とするのが相応しく思えます。
 繰り返しになりますが、「八幡」は縄文語で「川端」の意で、全国の八幡を冠する地名はほぼすべて、そして八幡神社の多くも川端にあります(第三十七回コラム参照)。

●岡ノ峯=「オコッ・ノミ・ノッ」=「沢を・祭る・岬」
●八幡=「ペッチャ」=「川端」


 立岡山も小川に囲まれているようなので齟齬はありません。


■■■「大家里(おおやけ)」命名由来 ■■■

×風土記:「古い名は大宮里である。土は中の上。応神天皇が巡行していた時、この村に宮を営んだ。だから、大宮といった。その後、田中大夫が宰だった時に至って、大宅里と改めた」

◎縄文語:「オ・ウン・ヤ・ケ」=「山裾(川尻)・にある・岸の・ところ」⇒google map


 縄文語解釈の地勢そのままです。


□□□「大法山(おおのりやま)」命名由来 □□□

×風土記:「今の名は、勝部岡(すぐりべのおか)である。応神天皇がこの山で十大な法を宣言された。だから、大法山といった。
 今、勝部と名づける理由は、小治田河原天皇の世に大倭(やまと)の千代勝部たちを遣わして、田を開墾させ、その者たちがこの山あたりに住んだ。だから、勝部の岡という」

◎縄文語:
・大法=「オンネ・リ」=「大きな方の・高台」
・勝部=「ス・リ」=「西の・高台」
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 比定地は朝日山です。朝日山は東北東側の尾根にも小さな高台があります。二つ並んだ高台の大きな方を指したものと思われます。大日寺のある方です。

 「勝部」が「大法」の言い換えともとれるので、解釈確度はかなり高いと言えます。縄文語では、このような言い換えが頻繁にあります。


□□□「上筥岡・下筥岡・魚戸津(なへつ)・朸田(おうこだ)」命名由来 □□□

×風土記:「宇治天皇(菟道稚郎子:うじのわきいらつこ)の世に宇治連たちの遠い祖先、兄太加奈志(えたかなし)と弟太加奈志の二人が大田の村の与冨等の地を願い出て、田を開墾し種を播こうとして来ていた時、使用人が朸を遣って食器などをかついだ。すると、朸が折れて荷物が落ちた。
 だから、鍋が落ちた所は、魚戸津と名づけ、前の筥が落ちた所は、上筥岡と名づけ、後ろの筥が落ちた所は、下筥岡といい、かついでいた朸が落ちた所は朸田といった」

◎縄文語:
・魚戸津=「ナペ・チャ」=「冷たい水の(湧水の泉)・岸」
・筥岡=「パケ・オ・カ」=「岬頭の・裾の・ほとり」
・朸田=「オ・ウン・コッチャ」=「山裾・にある・沢の入口」
⇒google map


 比定地は勝原区南部と大津区北部。
 魚戸津の解釈は、地勢から正誤は判断できませんが、筥岡、朸田は現在の地勢そのままです。

 風土記は、なんでこんなに長々とデタラメを書いたのでしょうか。


■■■「大田里」命名由来 ■■■

×風土記:「昔、呉勝(くれのすぐり)が韓国から渡ってきて、はじめは、紀伊国の名草郡の大田に着いた。その後、別れてきて、摂津国の三嶋賀美郡の大田村に移ってきた。さらにまた、揖保郡の大田村に移ってきた。そこで、もとの紀伊国大田によって名とした」

◎縄文語:「オタ」=「砂浜、砂原」
or「オ・ウン・チャ」=「山裾・にある・岸」
⇒google map


 太子町太田が比定地です。縄文語解釈いずれともとれます。


□□□「言挙阜(ことあげおか)」命名由来 □□□

×風土記:「神功皇后の時、軍が出発する日、この阜にいて、軍人達に訓令して言ったことには『この御軍(みいくさ)は、決して言挙してはいけない』と言った。だから、名づけて言挙前(ことあげのさき)といった」

◎縄文語:「コッチャ・アケ」=「谷の入口の・片割れのところ」
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 比定地は太子町の黒岡、天満山、原周辺とされていますが、縄文語解釈は東方の谷地形の入口を指したものと思われます。本当にうまい命名で、感心させられます。

 神功皇后は命名にはまったく関係ありません。


□□□「鼓山」命名由来 □□□

×風土記
:「昔、額田部連伊勢と神人原(みわびとはら)大夫とが互いに闘った時、鼓を打ち鳴らして闘った。だから、名づけて鼓岡といった」

◎縄文語:「テューテュ・ムィ(=モィ)(山)」=「岬の・入り江(の山)」
⇒google map


 比定地の太子町原地区には鼓原大歳神社があります。岬に囲まれた入り江。縄文語解釈そのままの地勢です。



※比定地参考:播磨広域連携協議会HP ほか



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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