書籍購入 電子書籍閲覧方法ご意見・ご感想
サイトトップ/騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム(第三百五十一回~第三百六十回)

騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百五十一回~第三百六十回】

第三百五十一回第三百五十二回第三百五十三回第三百五十四回第三百五十五回第三百五十七回第三百五十八回第三百五十九回第三百六十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[岡山県]高麗寺~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗寺」について(『備中のなかの朝鮮』野村増一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【仁王門跡から山上にかけて、むかし山上仏教が栄え、大坊を中心に多くの僧坊たたちならんでいた。これが高麗寺で、いまは廃寺となっているが、平安初期の瓦が出て往時の姿をしのばせている。
 この高麗寺の由来をたずねても、それはもう文献も口碑もなにもないので、一切わからない。ただ源平盛衰記に、藤原成親がこの高麗寺に流されたと記されているから、そのころすでにこの名があったということがわかるだけである。
 朝鮮からの渡来人の技術によってたてられたものか、渡来氏族の氏寺であったものかなにもわからない。
 しかし、吉備の中山の山自体を神とし、神域として祭った吉備の勢力、山域にあまたの寺をたててうやまってきた吉備の人たちが、そこに高麗寺という名のお寺をもっていたということは、吉備の大豪族と朝鮮との深いかかわりを、はっきり示しているものといえよう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗(寺)」 =「コ」=「持ち手の曲がりのような湾曲したもの」=丸山

 「高麗」はこれまでも何度となく登場しています。「高麗」の地勢は上記「丸山」のほか、「湾曲する谷川」の二種。

◎縄文語:「高麗」 =「コ・マ」=「湾曲する・谷川」

  吉備の高麗寺の場合は「丸山」です。これは神奈川県大磯町の「高麗山」、京都府南丹市の「胡麻」駅前の山と同義です。
 ほか、埼玉県の高麗寺を代表例に、日本全国の「高麗/狛/駒/蒲生」など、ほとんどは「高麗川=湾曲する谷川」の意です。

 よって、これらの土地に付加される「高麗人が移住、活躍した」というような漢字表記にこじつけた物語は極めて怪しく、逆にそれらのデマを語るために「高麗」という漢字が充てられた可能性すらあります。古文献は北方系渡来人である為政者周辺の出自を正当化、装飾することを目的に編纂されていて、日本先住民は実に千年以上にわたって欺かれ続けています。

 決して「高麗」=「朝鮮半島系渡来人が活躍した土地」ではありません。

 
日本史の真実を探るためには、星の数ほどちりばめられたこのような公式をしらみつぶしに徹底的に破壊していかなければなりません。気の遠くなる作業です。
 全国の神社で語られるデタラメ由緒、八百万の神も同様、漢字表記の語呂合わせから生まれていて、決して縄文語地名の本当の由来を語ることはありません。


 また、地名以外の面白い例として、国内の古墳からいくつか出土している「環頭太刀」というものがあります。柄の先端に環状の飾りがついたものですが、これは万葉集では「高麗剣」と呼ばれています。

◎縄文語:「高麗」 =「コ」=「湾曲したもの」

 の意ですから、「高麗剣=柄の丸い剣」という意になります。決して「朝鮮半島」が名称の由来ではありません。


■高麗寺(岡山市中山) ※湾曲したもの。丸山。


■高麗山(神奈川県) ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


■JR山陰本線「胡麻」駅前の山 ※丸山。


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!温羅伝説は縄文語地名の漢字表記にこじつけたデタラメ物語だ!~[岡山県]鬼ノ城・温羅伝説・吉備津彦(イサセリヒコ)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鬼ノ城・温羅伝説・吉備津彦」について(『四道将軍吉備津彦』藤井俊 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【人皇第十代崇神天皇のころ、異国の鬼神が飛来して吉備国にやって来た。彼は百済王子で、名は温羅ともいい、吉備冠者とも呼ばれた。彼の両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚神は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。膂力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。彼はやがて備中国新山(にいやま)に居城を構えた。しばしば西国から都へ送る貢船や婦女子を略奪したので、人民は恐れ戦いて「鬼の城」と呼び、都に行ってその暴状を訴えた。
 朝廷は大いにこれを憂い、将を遣わしてこれを討たしめたが、彼は兵を用いることすこぶる巧みで、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので、むなしく帝都に引き返した。そこでつぎは、武勇の聞え高い皇子のイサセリヒコノミコトが派遣されることになった。
 ミコトは大群を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山に陣を布き、西は片岡山(旧楯築神社、楯築遺跡)に石楯を築き立てて防戦の準備をしたのである。
 さて、いよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神のことであるから、戦うこと雷霆のごとく、その勢はすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐんだが、ことに不思議なのは、ミコトの発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中に噛み合って、いずれも海中に落ちた。今日も吉備郡生石村(おいしむら/現岡山市)にある矢喰宮はその弓矢の化した巨石を祀っている。
 ミコトはここに神力を現わし、千鈞の強弓をもって一時に二矢を発射したところが、これはまったく鬼神の不意をつき、一矢は前のごとく噛み合って海に入ったが、余す一矢は狙いたがわず見事に温羅の左眼に当ったので、流るる血潮はこんこんと流水のごとく迸った。血吸川はその遺跡である。
 さすがの温羅もミコトの一矢に辟易し、たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なミコトは鷹になてこれを追っかけたので、温羅はまた鯉となって血吸川に入って跡を晦(くら)ました。ミコトはやがて鵜となってこれを噛み揚げた。鯉喰宮があるのはその由縁である。
 温羅は今は絶体絶命、ついにミコトの軍門に降って、おのれが名の「吉備冠者」の名をミコトに献ったので、それよりミコトはイサセリヒコノミコトを改称して吉備津彦命と名乗ることとなった。ミコトは鬼の首を刎ねてクシに指してこれを曝した。備前の首村(こうべむら/現岡山市首)はその遺跡である。
 しかるに、この首が何年と無く大声を発して唸り響いて止まない。ミコトは部下の犬飼健(たける)に命じ犬に食わしめた。肉は尽きて髑髏となったが、なお十三年の間、うなりは止まないで近里に鳴りひびいた。ある夜、ミコトの夢に温羅の霊が現れて、「吾が妻、阿曾郷の祝(はふり)の娘阿曾媛をしてミコトの釜殿の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。もし世の中に事あれば竈の前に参り給わば、幸あれば裕に鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。
 かくて吉備津の御釜殿は温羅の霊を祀れるもの、その精霊を「丑寅みさき」という。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 なぜ備中国府の後背に朝鮮式山城である鬼ノ城があるのか。これはまったく謎ではありません。

 鬼ノ城は七世紀後半の築城とされていますが、この時代の大和はすでに北方系渡来人に王権を簒奪された後なので、当然、大和の出先機関である国府は北方系渡来人勢力あるいはその軍門に降った勢力となります。国府周辺では南方系先住民文化を上書きするための地名由来潭が新たに創作され、高句麗、百済王族言語と同じ開音節の特徴を持つ上代日本語で風土記が編纂されていきます。

 大和は白村江の戦い(六六三)で唐、新羅の連合軍に敗れ、出自を同じくする百済国の復興は叶いませんでした。これに乗じて、南方系である日本先住民の反乱があってもまったく不思議ではありません。 しかも、新羅は閉音節の南方系言語、縄文語と同系と思われますから、日本先住民と同系同族です。彼らが手を結べばやっかいなことになります。
 つまり、朝鮮半島だけでなく、日本においても、南方系民族と北方系民族の対立があり、北方系の鬼ノ城が対峙していたのは、その実、南方系の日本先住民だった可能性があるということです。

 吉備の造山、作山古墳は縄文語解釈可能です。

◎縄文語:「造山/作山(古墳)」 =「チケレ・ヤマ」=「削れている・山」※自然地形を削って築造された古墳。
※築造時期は、それぞれ五世紀前半、五世紀中頃 。

 いずれも自然地形である丘陵を削って築造された巨大古墳です。
 さらに、作山古墳に後続する両宮山古墳も縄文語解釈します。

◎縄文語:「両宮山(古墳)」 =「レケ・サン」=「山陰、山の向こう側の・出崎」※造山、作山から東に移動。
※赤磐市。五世紀後半築造 。その後も周辺に古墳が築造される。

  五世紀後半から両宮山古墳のある赤磐市に移っていますから、大和との勢力争いに敗れたのかもしれません。
 つまり、これらの古墳を築造した先住民の大勢力が近隣にいたということです。


■作山古墳と両宮山古墳の位置関係
 

 そして、鬼ノ城、温羅の物語。これは、はっきり言ってまったくのデタラメで、史実を微塵も反映していません。

 この温羅の物語は吉備地域の縄文語地名を収集、仮借の漢字を充てた後、漢字表記をこじつけ解釈し、同一地名を結んで創作されたと考えられます。
 第七代孝霊天皇の皇子であるヒコイサセリヒコが登場するのも、大和と吉備で同一地勢、同一地名が存在したからで、四道将軍の伝承も眉唾物と判断できます。

 記紀風土記に記載される物語の多くも同じ方法で創作されています。天日槍、秦氏、阿知使主など、渡来系の人々が方々で大活躍するのも、単に

●「新羅」=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
●「百済」=「クッチャル」=「湖沼などの入口」
●「高麗」=「コ(・マ)」=「湾曲したもの(・谷川)」=丸山or湾曲する谷川
●「秦(氏)/機織り」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
●「阿知(使主)」=「アッチャ」=「一方の岸、対岸」

 などの、日本国中どこにでもあるありきたりな同一地勢の縄文語地名を片っ端から結んだ結果です。 加えて、後世の人々もこれらの説を下敷きに、同類の説を積み重ねていますから、デタラメがデタラメを呼んで、今や日本の歴史を史実から完全に乖離させています。


 以下、温羅物語に登場する地名の縄文語解釈です。傍証となる近隣地名も解釈しています。

■鬼ノ城周辺と温羅の縄文語解釈 ※温羅周辺は、「枝分かれた窪地」で一致。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■吉備津彦神社周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)

■吉備津彦神社 ※水際の崖。


■首部周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 そして、この物語に関連して、第七代孝霊天皇皇子であるイサセリヒコ(吉備津彦)周辺の人物名を縄文語解釈すると面白いことが見えてきます。

 まずは、イサセリヒコ。

◎縄文語:「吉備津彦」 =「キピ・チャ・シク」=「水際の崖の・岸の・大夫」
◎縄文語:「イサセリヒコ」 =「エサン・シリ・シク」=「岬の・水際の崖の・大夫」


 そして、父である孝霊天皇の諱は「大日本根子彦太瓊」で、兄弟の第八代孝元天皇の諱は「大日本根子彦国牽」です。

◎縄文語:孝霊天皇「(大日本)根子彦/太瓊」
=「ナィ・カ・シク/ピテュ・ニェ」=「川・岸の・大夫/石の岬の・林」
 
◎縄文語:孝元天皇「(大日本)根子彦/国牽」
=「ナィ・カ・シク/クッ・ニク」=「川・岸の・大夫/崖の・林」


 いずれもイサセリヒコと同類の解釈が可能です。

 筆者は神武天皇の最大の敵である「長髄彦」を倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の兄である孝元天皇に比定しています。二人の名の意味は完全に一致します。

◎縄文語:「長髄彦」 =「ナィ・カ・シ・ニェ」=「川・岸の・水際の崖の・林」 =孝元天皇 

 とすれば、これは「長髄彦」が拠点とした生駒、富雄周辺の丘陵の地勢と考えることができます。

◎縄文語:「生駒」 =「エンコ・マ」=「岬の・谷川」

 さらに、日本神話は欠史八代を加工して創作されていますから、神武天皇と崇神天皇周辺に同一人物が頻繁に登場します。孝元天皇と同時代の物部氏系図には、鬱色雄の義兄弟として「活馬長砂彦」の名が見えます。これは明らかに「生駒の長髄彦」の意です。

 つまり、大和と吉備には、「水際の崖」というありきたりな共通の地勢、地名が存在し、風土記編纂などで各地の縄文語地名を収集した為政者周辺の知識人が、その漢字表記をこじつけ解釈し、地名を結びつけて物語を創作したと考えられるということです。結論としては、高確率で第七代孝霊天皇皇子の「ヒコイサセリヒコ」と「吉備」はまったく関係ありません。その他、四道将軍も推して知るべしです。

 記紀風土記には同類の物語が無数にありますが、これらすべてを破壊しなければ、本当の日本の歴史は見えてきません。そのためには、まず、日本の地名、歴史を縄文語(アイヌ語)解釈することから始めなければなりません。


以下縄文語解釈詳細

◎縄文語:「百済王子」 =「クッチャ・オ・ウシ」=「湖沼の入口の・尻(はずれ)・のところ」
◎縄文語:「(総社市)名越」=「ナィ・クッチャ」=「川の・湖沼の入口」
※ちなみに日本全国の「王子/皇子」を冠する地名、古墳は「オ・ウシ=川尻(or山裾)・のところ」の地勢です。

◎縄文語:「鬼ノ(城)」 =「ケナ」=「川端の木原」
◎縄文語:「新山」 =「ニー・ヤマ」=「森、林の・山」


※鬼ノ城麓の谷は「(枝分かれた)窪地、低地(の岸)」の解釈で一致。
◎縄文語:「温羅」 =「ウッ・ラ」=「枝分かれた・低地」
◎縄文語:「御釜殿」 =「オカィ・マーテュ・オロ」=「たくさんある・波打ち際・のところ」
◎縄文語:「丑寅」=「ウッ・ト・オロ」=「枝分かれたの・湖沼・のところ」 
◎縄文語:「みさき」 =「メ・サ・ケ」=「泉の・浜・のところ」

◎縄文語:「血吸(川)」 =「チゥ・スィ」=「水流、水脈の・穴」
◎縄文語:「阿曾(郷)」 =「アッチャ」=「一方の岸、対岸」

※吉備津神社とイサセリヒコは中山「水際の崖」の地勢。
◎縄文語:「吉備津(彦神社)」 =「キピ・チャ」=「水際の崖の・岸」
◎縄文語:「イサセリ(ヒコ)」 =「エサン・シリ」=「岬の・水際の崖」

※片岡山、楯築神社は「川沿いの頂が折れている山(石の岬)」
◎縄文語:「楯築(神社)」 =「タン・テューテュ」=「こちらの・出崎」
◎縄文語:「片岡山」=「コッチャ・オ・ヤマ」=「谷の入口の・窪みの・山」

◎縄文語:「向山」 =「ムィェ・カィ・ヤマ」=「山頂が・折れている・山」
◎縄文語:「日畑」 =「ピ・パ・タ」=「石の・岬・の方」
◎縄文語:「西山」 =「ニセィ・ヤマ」=「水際の崖の・山」

※生石(村)の矢喰(宮)は「川の二股の岸辺」。
◎縄文語:「生石(村)」 =「オエサ」=「川の二股」
◎縄文語:「矢喰(宮)」 =「ヤケ」=「岸辺」

※矢部の鯉喰神社は「川端」。
◎縄文語:「鯉喰(宮)」 =「コィ・ケ」=「波・のところ」 ※川端
◎縄文語:「矢部」 =「ヤン・ぺ」=「岸にある・ところ」 ※岸辺

※首部周辺は「窪地、湿地」。
◎縄文語:「首」 =「コッ・パ」=「窪地の・上手」

◎縄文語:「坊主山」 =「ポッチェ・ヤマ」=「ぬかるんでいる・山」
◎縄文語:「富原」 =「トマ・ハ・ラ」=「湿地の・水が引いた・低地」
◎縄文語:「松崎」 =「マーテュ・サン・ケ」=「波打ち際の・出崎・のところ」


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「賀陽氏・加夜国造」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【吉備津神社は、「王朝以来、吉備氏の氏神として、吉備氏一族で賀陽国造の裔と称する賀陽氏が近世まで神主職を世襲していた」(藤井俊「四道将軍吉備津彦」)ということである。そしてこの「賀陽氏」の賀陽というのは「加夜」「加陽」とも書かれたものであり、吉備津神社のある備中というところからして、『延喜式』には「加夜郡」となっていたところだったとも私は書いた。
 なおまた『国造本紀』には「加夜国造」となっているが、ということはすなわち吉備氏・賀陽氏とは、加夜氏ということにほかならず、この加夜氏とは古代南部朝鮮の加耶(加羅・加那)からきたものであることはいうまでもない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「賀陽/加夜/加陽」 =「カ・ヤ」=「ほとりの・陸岸」=岸辺
◎縄文語:「吉備津(神社)」 =「キピ・チャ」=「水際の崖の・岸」

 いずれも単に岸辺の意です。朝鮮半島の加耶、加羅は関係ありません。朝鮮半島南部も縄文語圏なので、同一地勢、同一地名があるだけです。

 筆者は、神社というものは大和の覇権を握った北方系渡来人周辺の人々の出自の正当化、装飾を目的に設けられたものと考えています。漢字表記の語呂合わせから生み出した神々を祀り、堂々とデタラメ由緒を語ります。

 吉備津神社の神主の「賀陽氏」が先住民系である国造の血を引いているというのであれば、大和勢力に取り込まれたということになるのですが、造山、作山の両古墳に後続するのは、東方約二十キロの山向こう、赤磐市の両宮山古墳です。この先住民の主力勢力が何らかの理由で移動したということです。

 「賀陽氏」について可能性として考えられるのは、一部「賀陽氏」など国造後裔の一派が大和の軍門に降ったか、あるいはもともと大和系であった氏族が(吉備の地元豪族との血縁などを通して)新たに「賀陽氏」を名乗るようになったかのいずれかです。

 いずれにしても大和のイサセリヒコは吉備を大和系に取り込むための方便で、付会であることに違いはありません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[伊豆半島]大山祇・三嶋大社・三島神社・白浜神社・三宅島・伊豆多賀~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「三嶋大社」について(『静岡県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【旧下田街道が国道一号線と分岐する位置に、伊豆一の宮三島神社がある。中世以後の伝説によると、伊予国大三島三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに加茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった。】

×「三嶋大社・三島神社」について(『多賀村誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【学者曰う、三嶋大社の祭神、事代主神の現神して渡来し給えり、と。しかし、真偽の事は未だ知りがたからん。延喜式内神社に伊豆国所属の分、総数九十二座。其のうち島嶼部二十三座、南豆四十三座あり。北豆には、僅かに二十五座あるのみ。而してこれ等の諸祭神はだいたい三嶋大社随従の神にして、現今、〈伊豆〉半島ちゅう三嶋大社と称するもの二十六座ありて海岸に分布し居る事実は、全く半島の南部より伝来せる殖民人種によりて始まれりと見るのが至当なるを信ぜざるを得ず、と。】

×「大山祇」について(『伊予国風土記(逸文)』吉野裕訳 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【御島(瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮裏に大山積神社〈三島明神〉がある)においでになる神は大山積神、またの名は和多志(わたし/渡海)の大神である。・・・・・・この神は百済からおいでになりまして、摂津国の御島においでになった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「三島(神社)/(大)三島」 =「ムィ(orモィ)・サマ」=「入り江の・ほとり」
◎縄文語:「大山祇」 =「オオ・ヤマ・テュ・ムィ(orモィ)」=「大きな・山の・峰の・入り江」
◎縄文語:「和多志(大神)」 =「ワッタ・ウシ」=「淵、水が深くよどんでいるところ・のもの」
◎縄文語:「三宅島」 =「ムィ(orモィ)・ヤケ」=「入り江の・岸辺」

◎縄文語:「広瀬(神社)」 =「ペ・チャ」=「泉の・岸」
◎縄文語:「三嶋(大社)」
=「メ・スマ」=「泉の・石、岩」

or「メ・サマ」=「泉の・ほとり」

 三島神社のキーワードは「ムィ(orモィ)=入り江」または「メ=泉」です。縄文語に充てられる漢字は厳密に一意で結び付けられている訳ではありません。もっとデタラメになりふり構わず充てられています。 厳密に区別すればするほど逆に古代人の罠にはまっていきます。

 瀬戸内の大三島、大山祇、三宅島、伊豆の三島神社は、それらの地勢から見て「ムィ(orモィ)・サマ」=「入り江の・ほとり」と解釈するのが妥当です。

 また、大仁の広瀬神社と三島市の三嶋大社はいずれも泉のほとりですから、「メ・サマ=泉の・ほとり」の解釈が地勢と一致します。三嶋大社の場合は富士山のふもとで湧水周辺に溶岩がゴロゴロしていますから、「メ・スマ=泉の・石、岩」の可能性もあります。

 伊豆半島に三島神社が多いのは、リアス式海岸で「入り江のほとり」の地勢が豊富なので当然です。これらの縄文語地名に三島神社を建てて「大山祇神(和多志大神)」を祀り、「百済から来た渡海の神」というデタラメ由緒を語る訳です。

 大山祇の別名の「和多志大神」は、もともと縄文語で「ワッタ・ウシ=淵、水が深くよどんでいるところ・のもの」の意で、「ワッタ」は、秦氏の縄文語である「ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」と同義です。何かが祀られていたとするならば、先住民の自然崇拝です。

 このように神社とは渡来系の人々を日本の歴史に結びつけるために、その出自の正当化、装飾を目的に設けられています。


■大三島(愛媛県今治市) ※入り江のほとり。大きな山の岬の入り江。


■三嶋大社 ※泉のほとり。




 「白浜神社」と「新羅国」が結びつけられそうなので、完全否定します。この白浜神社の別名は「伊古奈比咩命神社」です。これも縄文語解釈します。

◎縄文語:「白(浜)」 =「シ・オ」=「山・裾」※山裾の浜。
◎縄文語:「伊古奈比咩(命神社)」 =「エンコ・ナ・シ・ムィ」=「岬・の方の・大きな・頂」

 繰り返しで恐縮ですが、日本全国の「白浜」は「山裾の浜」です。「新羅国」は地名由来にまったく関係ありません。「新羅神社」「新羅明神」も「山裾」の地勢です。


■白浜神社の岬 ※山裾の浜。岬の頭。




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「多賀神社」について(『熱海市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【以上は熱海大湯温泉の開拓者である万巻上人の物語ですが、熱海における温泉の発見とか、神社を祀る根元を作ったのは熱海人ではなく他国の人、特に韓国よりの文化の発達した帰化人によって行われたということは、注目すべきことと思われます。
 熱海の南にあたる伊豆多賀の地は、もと近江、いまの滋賀県の多賀に住んでいた人たちが神体をもって近江よりいず多賀に移住したといわれています。この近江の多賀地方の人は、やはり帰化人の子孫といわれています。
 多賀神社の境内や多賀地区には古代の遺跡があり、土器や石器が出土されています。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「多賀」 =「テュ・カ」=「峰、岬の・上 or ほとり」

 この通説で語られる”同一地名を結んで歴史物語を創作する行為”が、日本の歴史の致命的欠陥です。記紀風土記に倣って、それを当然のこととして千年以上にわたり積み重ねていますから、黎明期の日本の歴史にはほとんど真実は存在しないのではないでしょうか。

 伊豆の「多賀」も滋賀県の「多賀」も「峰の上、峰のほとり」の地勢です。


■伊豆の多賀 ※峰、岬のほとり。

■滋賀県多賀大社 ※峰、岬のほとり。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[伊豆半島]枯野・軽野神社・雲金山・船原・楠田・伊那神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「枯野」について(『阪神の歴史』松田太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【応神天皇の世、さきに伊豆国から貢した官船(枯野船)が朽ちて使用することができなくなってので、その船材を薪とし、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜り、その代りとして、新たに船をつくらせた。そこで諸国から一時に五百の船を貢し、すべて武庫水門に集まっていた。この時新羅の調使の船も武庫水門に碇泊していた。ところが新羅の船の失火で多くの船が焼けたので、新羅王は謝罪のため名工を送ってきた。これが猪名部の始祖である。】

×「軽野神社」について(『静岡県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【修善寺駅から南へ四・五キロ、国道ぞいの松ヶ浦の円丘に軽野神社がある。このあたりは応神天皇五年に、伊豆国に命じて船をつくらせたという伝説の地で、そのさいまつられた神社といわれている。その船はクスの木を材とし、海上を軽くはしったので枯(狩/かる)野船と名づけられた。平安時代にはこのあたりは狩野郷(かのごう)とよばれ、付近には船原・楠田などの地名もあり、伊豆の山地から狩野川の水運を利用して材をはこんだ造船伝承にちなんだものとされる。】

×「伊那上神社・伊那下神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【いつのことか知らないが、伊豆には新羅系渡来人の猪名部などが早くから来ていてそのような船、「枯野船」といわれたものがつくられたということは、たしかなようである。それはかれらがその祖神を祭ったものにちがいない伊那上、伊那下神社があることからも推しはかることができる。<中略>
 この「枯野船」の枯はやはり、その船をつくった猪名部の祖神を祭った伊那上、伊那下神社が江戸時代までは唐大明神ともいわれたというその唐、すなわち韓(加羅)と考え合わせるほうが、合理的ということにならないであろうか。<中略>「枯野船」とはその韓国(からくに)の船ということになる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「枯野/軽野(神社)」 =「カ・ノッ」=「曲がっている・岬」

 この「曲がっている岬」は、軽野神社から見て狩野川対岸の「雲金山」を指します。「雲金山」の麓には「雲金神社」があります。

◎縄文語:「雲金(山)」 =「コ・カネ」=「湾曲している・上の方」

 「枯野/軽野神社」「雲金山」はいずれも「雲金山」の地勢を表現しています。

 「コ」は「湾曲している様」を表し、「高麗川=湾曲している川」「高麗山=湾曲している山=丸山」に充てられます。古文献に何が書かれていようとも「高麗人」を地名由来とするのは間違いです。古代人はデタラメを承知でそれら文献を編纂しています。

 近隣に「船原」や「楠田」の地名があるからといって、これも造船伝承と結びつけてはいけません。これでは古代人の思う壺です。現代人が古代人の掌の上で踊らされているようです。

◎縄文語:「船原」=「ペナ・ハ・ラ」 =「川上の・水が引いた・低地」
◎縄文語:「楠田」=「クッチャ・タ」 =「湖沼の入口・の方」

 「船原」は軽野神社から狩野川上流約一キロの地点です。「楠田」は伊豆の国市の長岡あたりでしょうか。
 こんな地勢は日本全国どこにでもあるのです。漢字表記にこじつけて解釈するのはまったくの見当違いです。


■軽野神社周辺から対岸の雲金山を望む  ※曲がっている岬。湾曲している上の方。


◎縄文語:「伊那(神社)/江奈」 =「エ・ナ」=「頭(岬)・の方」
◎縄文語:「唐(大明神)」 =「カ・ラ」=「岸の・低地」

 「伊那神社」は伊豆半島南西部の松崎町、那賀川の川下にあります。「伊那神社」「唐大明神」のいずれもありきたりな縄文語地名です。地名由来に朝鮮半島はまったく関係ありません。

 大阪府池田市の旧川辺郡為奈郷も、さらには池田市の地名由来も同義です。池田市の場合は、伊居太神社後背の五月山を指しています。

◎縄文語:「為奈」 =「エ・ナ」=「頭(岬)・の方」
◎縄文語:「伊居太(いけだ神社)/池田」=「エンコ・タ」=「岬・の方」

 伊豆に話を戻します。「伊那神社」の近隣地名も解釈します。

◎縄文語:「松崎」 =「マーテュ・サ・ケ」=「波打ち際の・浜・のところ」
◎縄文語:「櫻田」 =「サ・ケ・ラ・タ」=「浜の・ところの・低地・の方」

 つまり、「伊那神社」「唐大明神」は「那賀川河口の低地」ということです。


■伊那神社の縄文語解釈  ※「那賀川河口の低地」の解釈で一致。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[伊豆半島]安良里・網屋崎・浦守神社もろこし明神~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「安良里」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
安良里のその安良とは、これまでにみた加羅(加耶)諸国のうちの一国であった安羅(安耶・安那ともいう)にほかならず、これはまた加羅や韓が加良、韓良とも書かれたのと同じように、安良とも書かれたものであった。<中略>
 港の入口となるところに樹木の生い茂った網屋崎というところがあって、ここに浦守神社がある。どういう神を祭っているのかと地元の老人にたずねてみると、それはわからず、何でもかつては、「もろこし明神」といったものだとのことであった。
 もろこそ、諸越、唐(もろこし)とはもと中国をさしたものであるが、これも唐(から/韓)大明神のそれと同じく、古代朝鮮からのそれをさしていったものにちがいなかった。たとえば、いまもおこなわれている神奈川県の大磯にある高来(高麗)神社の「祝歌」に、高句麗からの渡来人である高麗若光集団の上陸を迎えるそれとして、「浦の者共怪しみて、遙かに沖を見ておれば、唐船(もろこしぶね)急ぎ八の帆を上げ・・・・・・」とあることからもそれがわかる。
 そういう安良里というところがあることからみても、私は伊豆のここに韓(加羅)野、すなわち「枯野」(韓国)という原始的な小王国のようなものがあって、それが擁していた木工集団の猪名部につくらせた船が「枯野船」といわれたのではなかったかと思う。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「安良里」 =「アン・レ」=「一方の・山陰」
◎縄文語:「網屋崎」 =「ア・ヤ・サンケ」=「薄い・陸岸の・出崎のところ」
◎縄文語:「浦守(神社)」 =「ウ・モ・ル」=「丘の・小さな・岬」
◎縄文語:「もろこし(明神)」 =「モ・ル・コチ」=「小さな・岬の・窪地」

 『日本の中の朝鮮文化』では、”言った者勝ち”といった体で、漢字表記から朝鮮半島と結びつけていますが、何度も言いますが、こういった説はまったくのデタラメです。この著者だけでなく、このような説が日本の歴史の隅々まで、通説、俗説問わず、星の数ほど鏤められて言います。これだけ堂々とデタラメが通用するのは、記紀風土記などの古文献がこれと同じことをやらかしているからです。そのデタラメの影響が千年を超えて続いています。

 安良里周辺の地名は簡単に縄文語解釈することができます。それらはことごとく地勢と一致します。朝鮮半島南部も縄文語圏、倭人と同系同族なので、同じ地勢に同じ地名があるのは必然です。だからといって結びつけて歴史を創作していはいけないということです。


■安良里周辺の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■浦守神社のある網屋崎(左手前の小さな山のふもとに浦守神社)※丘の小さな岬(浦守神社)。薄い岬(網屋崎)。

■浮島海岸 ※折り重なった石、岩。


◎縄文語:「宇久須」 =「ウコッ」=「川の分岐」
◎縄文語:「田子」 =「タン・コッ」=「こちらの・窪地」
◎縄文語:「浮島」 =「ウカゥ・スマ」=「折り重なった・石、岩」


 また、神奈川県大磯の高麗山は

◎縄文語:「高麗山」 =「コ・ヤマ」=「湾曲した・山」=丸山

 の意で、渡来人が朝鮮半島の「高麗」と結びつけて、ご丁寧に神社も建てて由緒を創作しているので、そもそも「高麗」と関係があるように見えるのは必然です。当然どこまで史実を反映したものかまったく不明で、それらは疑いなく先住民文化である縄文語の本来の意味を上書きして抹殺することを目的としています。記紀風土記と同様、日本全国の神社の使命はここにあります。

 高麗若光の話もどこまで史実か分かりません。少なくとも大げさに語られていることは確実です。
 埼玉県の高麗神社も目の前を流れる高麗川の地勢を指しています。

◎縄文語:「高麗(川)」 =「コ・マ」=「湾曲した・川」


■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。

■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[静岡県]久能山・補陀洛山・三保の松原・羽衣伝説~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「久能山・補陀洛」について(『久能山東照宮参拝のしおり/久能山の歴史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【久能山は、推古天皇の時、久能忠仁が始めて山を開き、一寺を建てて観音菩薩を安置し、補陀洛山久能寺と称したとあり、久能山も名称もこれから起こったといわれた。】

×「久能寺」について(『静岡市の史話と伝説』飯塚伝太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この寺(久能寺)は、推古天皇の御代、秦河勝の二男尊良の子(或は弟)久能、或は久能忠仁が創建し<後略>】

×「補陀落」について(wikipedia)
【補陀落(ふだらく、梵: Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。インドの南端の海岸にあるとされた。補陀落山(ふだらくせん)とも称す。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「久能(山)」 =「クッ・ノッ」=「崖の・岬」
◎縄文語:「補陀洛」 =「ペーチャラ・ケ」=「水辺・のところ」


 「久能山」は、その山容を表現しているに過ぎません。「補陀洛」は単に「水辺のところ」の意ですが、観音菩薩というありがたいデタラメ由来で上書きされています。

 ここにも「秦氏」が登場しますが、日本全国秦氏の活躍が語られるところは「水辺」です。京都の拠点である「太秦」も例外ではありません。

◎縄文語:「秦」 =「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「太秦」 =「ウテュ・マサ」=「間の・水辺の草原」

 秦氏が得意な「機織り」の出所がその名の縄文語であることも明らかです。


■久能山 ※崖の岬。



 このように神社だけでなく、黎明期の寺社も大嘘つきです。縄文語地名に仮借の漢字を充て、外来の物語を語ります。四天王寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、すべてそうです。目的は先住民文化の抹殺です。

◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師寺」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。


 東方に「三保の松原」がありますが、ここで語られる「羽衣伝説」も同様にデタラメです。

◎縄文語:「三保(の松原)」=「モィ・ホ」=「入り江の・尻(はずれ)」 
◎縄文語:「羽衣」=「パケ・ル」=「岬の・頭」 

 日本全国、羽衣伝説が語られるのは単に「岬の頭」の地勢です。羽衣伝説は朝鮮半島にも類型のものがあるので、「朝鮮系渡来人の足跡・・・・・・」などと語られますが、単に縄文語の地名にこじつけたものです。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[静岡県]安倍川・賤機山古墳・服部・麻機・白羽・初倉・敬満神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
〇「安倍川」について(『静岡市の史話と伝説』飯塚伝太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
安倍川は賤機山の先端まで下ると、静岡平野の諸方に枝川を分った。それらの安東川、十二艘川、後久川は巴川に合流し、大谷川は西平松で、浜川は高松で駿河湾に注いでいるが、みな安倍川の古い枝川の名残りである。】

△「賤機山古墳」について(『谷津山古墳と賤機山古墳』若林淳之 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【賤機山古墳に出土する金環や馬具等の多い事に注目し、江上波夫氏らの研究によると、北方騎馬民族(ツングース族)が南に移動し、中国大陸はもちろん、朝鮮半島を経て日本にも渡来し、日本の古代国家の統一に力を尽したという意見を発表した。いわゆる騎馬民族説を構築する論拠を与えるにふさわしい内容をもったものである。
 もちろん、江上氏の騎馬民族説には、異論があって定着した見解ではないから、賤機山古墳の被葬者が、そうした系譜に連なる人であると考えるわけにはいかないであろう。
 いっぽう、賤機山をめぐり、麻機とか服部といった地名があり、この地名は秦氏系統の渡来人が日本に定住した結果生じた地名であろうといわれていることから、これら渡来人のうちの有力者が葬られた古墳であったのかも知れないと言う人々もあるようであるが、それを信ずるわけにもいかないであろう。】

○「賤機山古墳の被葬者」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【この古墳(賤機山古墳)は千五百年位前のもので、此の附近の豪族安倍の王を葬ったものであろう。浅間神社は古くは奈吾屋さまと云って安倍の市(静岡市の古い名)の守り神であったが、ここはその奥の院とも云うべき位置に当たる。】

×「賤機山古墳の被葬者」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(賤機山古墳の被葬者について)「賤機山をめぐり、麻機とか服部といった地名があり、この地名は秦氏系統の渡来人が日本に定住した結果生じた地名であろうといわれている」ことも、重要な一つの状況証拠である。<中略>
 これは「静岡市の前身安倍の市の根基」をつくった秦氏族以外には考えられぬであろう。さきにもいったように、「安倍の市(静岡市の古い名)の守り神であった」浅間神社はそこの賤機山古墳の拝所としてできたもので、いまもこの神社の前に立ってみると、静岡市はその門前町として栄えたものであることがよく分かる。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「安倍(川)」 =「アゥ・ペ」=「枝分かれた・水」=安倍川下流の枝川
◎縄文語:「十二艘(川)」 = 「チゥヌ・サン」=「水が流れ出る・出崎」

◎縄文語:「後久(川)」 = 「コッ・キイェ」=「窪地の・茅」
◎縄文語:「安東(川)」 = 「アゥ・トー」=「枝分かれた・湖沼」

◎縄文語:「賤機山」 = 「シテュ・ハッタ・ヤマ」=「大きな峰の・淵、水がよどんでいるところの・山」
◎縄文語:「服部/秦(氏)/機織り)」 =「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「麻機」 =「アサ・ハッタ」=「奥の・淵、水がよどんでいるところ」 =あさはた緑地

 「麻機」「服部」の地名由来に秦氏はまったく関係ありません。縄文語由来です。
 馬具など北方系の副葬品を考慮すると賤機山古墳の被葬者は北方系渡来人であったのかもしれません。新羅系とされる秦氏では少々違和感があります。

 「浅間神社」は「麻機」と同類の解釈が可能です。

◎縄文語:「浅間(神社)」 =「アサ」=「湾や入り江、洞窟などの奥」

 この解釈からは賤機山古墳の拝所であったことが読み取れません。日本全国、秦氏の活躍が語られるのは縄文語地名の「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」です。秦氏の”機織り”が得意というのも縄文語の「ハッタ」がその出所です。これら秦氏の活躍は、ありきたりな「ハッタ」という地名を結びつけて創作された可能性が高く、この地で秦氏が本当に活躍したかどうかは定かではありません。

 八百万の神や天日槍などの渡来人物語もこれと同様の構造で、各地の同一縄文語地名を結び、その漢字表記をこじつけ解釈することから生まれています。天日槍や秦氏が方々で活躍するのはそれだけ無数にあるありきたりな地勢だからです。筆者は風土記編纂のために収集された地名がそのがベースになっている可能性が高いと考えています。つまり、神話を含むすべての物語は同時期に創作されたということです。

 風土記に書かれている地名由来潭は神話含め、すべてデタラメで、その態度は徹底しています。縄文語解釈のかけらも見当たりません。為政者の出自の正当化、神格化、取り巻き渡来人の活躍を喧伝するために、そういったウソが無数に鏤められているのが日本の古文献です。


■賤機山周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


 騎馬民族は来ています。六~七世紀にヤマト王権を簒奪し、上代日本語で記紀風土記を編纂することにより、日本の歴史を為政者周辺の都合に合わせて改竄しています。神社仏閣もその一派で、漢字表記にこじつけたデタラメ神様、外来仏が活躍するだけで、縄文語の本当の地名由来は絶対に語りません。

 筆者は敏達天皇で王朝交代していると考えているので、聖徳太子周辺はすでに北方系渡来人となります。奈良の高市郡は渡来人の集住地で、高松塚古墳の壁画の衣装が高句麗のものと似ているのがそのものズバリ真実を表しています。日本の古代国家のベースを作ったのは彼らです。日本の伝統文化とはいったい何か、考え直す必要があると思います。南方系日本先住民の伝統文化は地方にこそ眠っています。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「初倉・敬満神社」について(『静岡県史/外来文化の経路と業績』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
牧ノ原と大井川ならびに其の附近の堅州浮州との距離に着目した秦氏族は、次第に其の附近に移住して遂に秦村を建てた。是れ即ちハヅクラ(秦村)で、今初倉の文字を宛てている。是に於て白羽牧は大牧場の南端をなし、大井川は利用されて対岸に志田を形成し、今の大津村に波田を分ちて大津御厨の基礎を置いた。(郷社式内)敬満神社は名神大社たるべく秦氏の祖先を祭り、(県社)大井神社(島田町)竹林寺(初倉村)鵜田寺(大津村)等は開創さるべき種子を蒔かれた。色尾の渡船と大井の川尻は其の手に帰した。かくて初倉は東遠西駿にわたる秦氏の大聚落となり、大宝倉となったのであろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「初倉」 =「ポッチェ・キ」=「ぬかるんだ・山」
◎縄文語:「敬満(神社)」 =「キ・マ」=「山の・谷水」

 「初倉」と「秦氏」のつながりの根拠は地名でしょうか。前述のように秦氏は「ハッタ=淵、水が深くよどんだところ」ですから、周辺地名も水辺の解釈が多くなります。

  「敬満神社」の所在地は「阪本」です。

◎縄文語:「阪本」 =「サン・カ・モ・オタ」=「出崎、平山・のほとりの・小さな・砂浜」

 傍証のために近隣地名も解釈します。

◎縄文語:「月坂」 =「テュ・サ・カ」=「小山の・浜・のほとり」
◎縄文語:「神戸」 =「カン・ぺ」=「上にある・水」
◎縄文語:「岡田」 =「オ・タ」=「うなじのように窪んだ・方」
◎縄文語:「大幡」 =「オオ・ハッタ」=「大きな・淵」
◎縄文語:「吉田(町)」 =「ヤチ・タ」=「湿地・の方」

 つまり、「湿地にある山」の地勢だということです。


■初倉・敬満神社周辺の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 御前崎市南端の白羽神社も解釈します。

◎縄文語:「白羽」 =「シ・ワ」=「山、大地の・ふち、岸」

 これも地勢そのままを表現しています。


■白羽神社(御前崎市) ※山、大地のふち、岸の神社。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[山梨県]巨麻郡~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「山梨県の帰化人」について(『山梨県の歴史』磯貝正義・飯田文弥 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【帰化人は古代の日本文化の発展に大きく寄与したが、甲斐国にも帰化人がいた。前記寺本廃寺跡や国分寺・国分尼寺跡から出土する古瓦はおそらく帰化人系技術者たちによって焼かれたものであろう。牧場の経営にも経験ゆたかなかれらが参与した可能性が大きい。
 まず高句麗系の帰化人がある。ふつう郡名の「巨麻」は駒を多く産するところからきたと説かれてきたが、関晃氏はいわゆる上代仮名づかいの研究成果にもとづき、その成立しがたいことを明らかにし、「高麗」のコマからきたものであることを論証した。<中略>
 『続日本紀』の霊亀二年(七一六)五月辛卯条に、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人一七九九人を武蔵国に遷し、はじめて高麗郡をおいたとみえるが、甲斐のほかはコマの名が郡名にまでなっているところはないから、この一七九九人の中には甲斐の高句麗人がかなりの数をしめていたことが推察される。甲府盆地の北辺にみられる積石塚をかれらの墳墓とする説も強い。
 つぎに百済系帰化人がある。『続日本紀』の延暦八年(七八九)六年庚申条には、甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂に対し、その請願によって本性要部・古爾・鞠部・解礼らをそれぞれ田井・玉井・大井・中井らに改姓することを許したとみえる。要部以下はいずれも百済の姓であると考えられるから、かれらは百済系帰化人の子孫であって、このときおそらく住居の地名によって日本風の新姓に改めたものであろう。
 また『日本後紀』の延暦十八年(七九九)十二月甲戌条によると、甲斐国の人止弥若虫・久信耳鷹長ら一九〇人の百済系帰化人が改姓を申請し、若虫は姓石川、鷹長は姓広石野を賜っている。かれらの先祖は白村江の戦いのあった癸亥年(天智二年、六六三)に百済から日本に亡命してきたもので、はじめ摂津におかれて官食を支給され、三年後の丙寅年(同五年、六六六)に甲斐に移されたものである。『日本書紀』の同年条に「百済の男女二千余人をもって東国に居く」とみえる二〇〇〇余人の中にかれらの先祖が含まれていたのであり、おそらく前記要部上麻呂らの先祖もまたその中にあったであろう。このときの百済からの亡命者はその数がきわめて多く、本国で社会的地位のひじょうに高かったものも多数含まれていたが、そうでないものはたいてい東国に移された。高句麗人にせよ、百済人にせよ、かれらが甲斐をはじめ東国各地の開発につくした役割は文献の上にはほとんどのこらないが、きわめて大きなものがあったといわねばならない。
 高句麗系・百済系帰化人が七世紀後半の半島における政治的激変の際、わが国に亡命した新しい帰化人群であったのに対し、大化前代の古い帰化人である東漢氏の部民、漢人部が甲斐におかれたことが知られる。<中略> ただし漢人部は帰化人東漢氏の私有民であって帰化人そのものではないから、(漢人部)町代や(同)千代はかならずしも帰化人の子孫ではない。しかし漢人部の直接の管理者として、東漢氏の部下の帰化人が現地に居住した可能性は大きい。『類従国史』天長六年(八二九)十月乙丑条にいよると、甲斐国節婦上村主万女が位二級を叙せられ、後身戸の田租を免ぜられている。上村主という氏姓は東漢氏の部下であった帰化人の小氏であるから、この上村主が漢人部の管理者として甲斐に住んでいたことは十分推測できよう(関晃氏「甲斐の帰化人」甲斐史学七)。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「巨麻」 =「コ・マ」=「湾曲した・谷川」=富士川とその支流

 「巨麻」は「駒」由来でも「高麗」由来でもありません。富士川とその支流の蛇行する様子を表した縄文語です。日本全国の「コマ」の地名は「湾曲する川」あるいは「湾曲する山=丸山」の地勢です。

 つまり、「高麗人を住まわせたので巨麻郡とする」というロジックはここで破綻するので、「高麗人を住まわせた」という内容自体、どこまで史実を反映したものか不明となります。少なくとも渡来人の活躍が大げさに喧伝されていることだけは確かです。

 同様のことは他地域の「高麗」「百済」「新羅」の地名にも言えます。「百済」は「クッチャ=湾や湖沼の入口」、「新羅」は「シロケ(orシ・オ・ケ)=山裾」です。


■南巨摩郡富士川 ※湾曲する谷川。

■高麗山(神奈川県) ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。

■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



 国分寺、国分尼寺周辺に渡来人が多いのは必然です。国衙自体が渡来人の拠点なのです。瓦も高確率で渡来人の作でしょう。
 百済、高句麗の滅亡後には、先行の同族、北方系渡来人が繁栄する日本に難民が大量に押し寄せたことが推察されますが、彼らが新しい渡来人の一派として東国支配に遣わされたことは十分に考えられます。そこで風土記編纂とともに神社仏閣等が設けられ、新旧渡来人に都合のよい由緒が大げさに語られることになる訳です。

 古文献に記されるのは、あくまで国衙周辺の出来事が中心ですから、彼らに都合のよい渡来系の話が多くなるのは当然です。この状況下で先住民がどういう生活を送っていたのかは知る術はありません。
 歴史上、先住民が再度活躍しはじめるのは、坂東平氏、武蔵七党など、平安末期の武士の時代あたりからではないでしょうか。一般的に平氏は桓武系の賜姓ですが、末端は各地の土豪です。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百五十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[山梨県]唐沢・ヘンポリ・白鬚神社・黒戸奈神社(唐戸大明神)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「唐沢・ヘンポリ」について(『山梨日日新聞』1978/8/6 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(都留市文化財審議会の)窪田委員は、上大幡の字唐沢付近を地元の人たちが「ヘンボリ」と呼んでいること、また農田地区に白鬚神社があることなどから、この辺に帰化朝鮮人がいたことはほぼ間違いない─としている。
 「ヘンポリ」というのは朝鮮語で「人里」とうい意味で、『地名語源辞典』(山中襄太著)に帰化朝鮮人が住みついたことは確実性が高い─と書かれている。また、白鬚神社についても、帰化朝鮮人がその王・福徳(または福信)を祭った神社といわれている。 】

×「唐戸大明神・黒戸奈神社」について(『甲斐の韓人』山梨日日新聞社社長/野口二郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【甲斐国古社史考によると 、いわゆる国衙八幡宮において三郎九筋百六十社の神官たちが、国家安康の奇岩を二人ずつ交替して務めた番帳なるものがある。永禄四年(信長の時代)のものをみると
 四番 万力之禰宜
    唐渡之禰宜
 慶長十三年(徳川秀忠の時代)のものには
 三番 万力の禰宜
    唐土の禰宜
 の文字が目につく。唐渡、唐土はけだし同一神社を指すのであろうが、文字からして異国の香が高い。すなわち東山梨郡誌(大正五年山梨教育会東山梨支会編)平等村、上万力村組合の項に、
 ○唐土大神宮 村社、上万力村にあり、素戔嗚尊を祀る。永禄四年の番帳に唐ノ宮とあるは是なり。
 に当るのである。更に古社史考、文化年間神社一覧によると、同じ山梨郡万力筋の中に、倉科にも、成沢にも唐戸明神がある。郡誌には
 ○黒戸奈神社 中牧村、郷社、字倉科、小字噛んだにあり、素戔嗚尊を祀り、甲斐名勝志に唐土ミョウ院と云う(古社史考には祭神に天之暗戸神を加える)
 ○唐戸神社 諏訪村、村社、字成沢、小字大沢に在り、素戔嗚尊を祀る
 と見えて、唐土を名乗る三社が何れも古伝説の上において、韓と日本とを逸早く結びつけた素戔嗚尊を祭神としていることを知るのである。】

×「黒戸奈神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【牧丘町の唐土大明神・黒戸奈神社についてみたわけであるが、ここにいう唐土の唐が古代朝鮮をさした韓(から)であったことは、もういうまでもないであろう。しかしながら、この韓が新羅をさしたのか、それとも百済をさしたものかはまだ明らかではない。
 だいたい、韓とはのち新羅となる古代南部朝鮮の小国家であった加羅(加耶ともいう)からきたものであるが、一方また、日本では百済をもさして韓といっていたからである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「ヘンポリ」 =「ペン・ポ・ル」=「川上の・小さな・岬」
◎縄文語:「唐沢」 =「カ・サン・ワ」=「曲がっている・出崎、平山の・ふち、岸」 ※丸山のほとり。
◎縄文語:「唐土(大神宮)/唐戸(神社)」 =「カ・テュ」=「曲がっている・岬」
◎縄文語:「黒戸奈(神社)」 =「カ・テュ・ナ」=「曲がっている・岬・の方」

 縄文語の「カ」は「曲がっている様」を指すのですが、これも「コ」同様に、「曲がっている川」を指す場合と「曲がっている山(丸山)」を指す場合の二種あるようです。

 白鬚神社は、渡来人が縄文語の「シ・オ=山・裾」の地名のところに神社を建てて、自らに都合のよい神を祭ったものです。神社の使命は渡来系の為政者周辺の人々の出自の正当化、装飾のための由緒を語ることなので、そもそも渡来系なのは当然です。そこでは本来の先住民による縄文語地名の意味などが語られることは一切ありません。

 近江の白鬚神社の総本宮は、

◎縄文語:「白鬚(神社)」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」


 の意で、琵琶湖湖畔の白鬚神社の地勢を表しています。 琵琶湖は「ピ・ワ=石の・岸」の意なのでこの解釈になりますが、他地域の白鬚神社は「ピ=石」ではなく「ぺ=水」の場合も考えられます。その場合は、「山裾の水辺」という解釈となります。


■唐沢橋後背の山 ※曲がっている山。丸山。


■黒戸奈神社(倉科唐戸大明神/現山梨市牧丘町倉科)から対岸の山を望む ※曲がっている山。丸山。


■唐土大神宮(現山梨市万力/旧平等村周辺)の山並み ※曲がっている山。丸山。

■唐戸神社(現山梨市牧丘町窪平/旧諏訪村周辺)の山並み ※曲がっている山。丸山。



 何度も書いているので恐縮ですが、『日本書紀』の一書にスサノオの故地が「新羅」との記載がありますが、これも縄文語では日本に無数にある「山裾」の地勢と解釈できるので、それが直ちに朝鮮半島の「新羅国」を指すことにはなりません。スサノオの時代は邪馬台国よりもさらに一世紀前後遡りますから、大和中枢でも縄文語が使用されていたことは確実です。

 日本の黎明期の歴史にはこのような古代人がしかけた罠が無数に鏤められていて、現代人はまんまと古代人の罠に嵌められています。特に渡来人の活躍が語られる内容は、ありきたりな縄文語の地勢、地名を結びつけて創作したもので、どこまで史実を反映したものかまったく不明です。

 甲斐の戦国武将の小山田信茂について『日本の中の朝鮮文化』に記載があります。この人物は武田信玄の後継の武田勝頼を裏切って武田氏滅亡に一役買ったことで有名です。この小山田氏が朝鮮系渡来人に近い血筋ではないかとのことですが、これも当然です。日本の貴種と呼ばれる人々はおしなべて渡来人です。小山田氏は坂東平氏に属する秩父平氏ですから、貴種、つまり桓武平氏直系の人物と血縁があっても不思議ではありません。

 ただ、武士の台頭以降は地頭などが徐々に国衙勢力を駆逐していきますから、先住民系の土豪色が強くなっていったのではないでしょうか。坂東平氏や武蔵七党の台頭はそのように見えます。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百六十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]白鬚明神(日高市)[山梨県]白鬚神社(甲州市)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白鬚明神(埼玉県日高市)・白鬚神社(山梨県甲州市)」について(『月刊山梨/甲斐の韓人』野口二郎1948/12 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(新編風土記稿は)高麗郡高麗郷高麗村の高麗大宮の項でこう述べている。
○高麗大宮は清乗院大宮寺と号す。社伝に曰く、霊亀二年、高麗王を始めとして千七百九十九人の高麗人、当郡に来住し、土地を開き、耕作の業を営む。天平二十年、高麗王薨ず。即其霊を祀り、高麗明神と崇む。又これを大宮明神と称う。王薨ずる日、鬚神共に白し、仍て白鬚明神と祀らしむと<中略>

 さて、十一月上旬のことである。塩山町(現甲州市)中井尻の白鬚神社に使をたてた。前記武蔵国高麗郡の所々にある白鬚明神と、何か因縁がないかと筆者の詮索癖からである。以下はその織の神官日原一兄氏(62)の談である。
「当社は社記によると、祭神猿田彦命となっているが、実は新羅から見えられた『白鬚の君』だということである。その子孫の人たちは代々この地の湿田に農耕にはげんだ。その後、新羅三郎義光公が今から千年ばかり前、居城の守護神としてこの地に西向きの神社を建てられたと言われている。武田氏滅亡の時、織田の兵火で焼かれたが、寛文十年吉田神道の吉田家から裁許状があって復興し、元禄三年現在の堂宇が完成したと承知している」
 白鬚の君は、薨ずる日白鬚髪ともに白しとある(埼玉県日高市白鬚明神である)高麗王の伝と、まことに似通っているのを覚える。あるいは甲斐源氏の祖、新羅三郎を引き合いに出すために、いつか新羅の人と脚色せられてしまったのかも知れない。
 塩山町に続く松里村(現甲州市)三日市場に湧く冷泉を、白鬚鉱泉と呼ぶのも、偶然とばかりはいえない気がする。】

×「白鬚明神(埼玉県日高市)・白鬚神社(山梨県甲州市)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(上記は)日原一兄の証言のほうがただしいのである。しかもつづけて、「その子孫の人たちは代々この地の失恋に農耕をはげんだ」とあるのも、事実にもとづいた貴重な証言といわなくてはならない。それが「新羅から見えられた『白鬚の君』」であったればこそ、「その後、新羅三郎義光公が今から千年ばかり前、居城の守護神としてこの地に西向きの神社を建てられたと言われている」のである。】

×「白鬚明神」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【全国のあちこちを歩いてみますと、その白鬚神社というのはいたるところにあります。なかでも有名なものに近江の比良明神の白鬚神社などがありますが、周囲の遺跡やその他の状況からみて、この比良や白鬚はどうしても「新羅」でなければならないんですよ。それなのに、どうして高句麗系の高麗若光を祀った神社が白鬚神社になったのか、─それで悩んでいたんです。<中略>
 要するに高麗さんの高麗神社は、新羅系の白鬚神社の上に、また高句麗系のそれが重層した、かぶさったというわけですね。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 通説、俗説問わず、漢字表記にこだわってつなげているうちはトンチンカンな説しか生れません。これらはいずれも、各地の地勢を表した縄文語地名の仮借の漢字表記です。

 縄文語で解釈すると次の公式がまったくのデタラメであることが判明します。
・「高麗人が活躍した土地」=「高麗神社」
・「新羅人が活躍した土地」=「白鬚神社」

 縄文語地名の漢字表記に無理矢理こじつけて半島系の物語を創作するので辻褄が合わなくなるのは当然です。たとえ移住させたことが史実であっても、もともとの地名由来は縄文語でなのです。渡来人の活躍を語るために神社まで建てられ、デタラメで大げさな由緒が語られます。記紀風土記と神社は同類です。

 まず、埼玉県日高市の高麗神社は、何度も取り上げていますが、高麗川の地勢を表現しています。

◎縄文語:「高麗(神社)」 =「コ・マ」=「湾曲する・谷川」※目の前を流れる高麗川

 そして、なぜ白鬚明神が祀られているかですが、これは

◎縄文語:「白鬚(明神)」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

=「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」

 の地勢だからです。現在の住所は日高市です。

◎縄文語:「日高」=「ピタ・カ」=「小石河原の・ほとり」


■高麗神社 ※湾曲する高麗川のほとり。
■高麗川の小石河原(高麗神社付近) ※小石河原。


 山梨県甲州市の白鬚神社は解釈が異なります。
 古代人は縄文語に似た発音に手当たり次第適当に漢字を充てているので、仮借の文字と縄文語の間に一意に結びつけられる公式はありません。各地の地勢にふさわしい解釈を周辺地名も考慮しながら探らなければなりません。

◎縄文語:「白鬚(神社)」=「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」

 近隣の「松里村三日市場」の湧水を「白鬚鉱泉」と呼ぶようです。

◎縄文語:「松(里村)」=「マーテュ」=「波打ち際」
◎縄文語:「三日市場」=「メ・カ・エテュ・パ」=「泉の・ほとりの・岬の・はずれ」
◎縄文語:「白鬚(鉱泉)」=「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」

 つまり、「山裾にある湧水、泉」ということです。

 埼玉県日高市の白鬚明神の「山裾の石」とは解釈が異なります。 これらを結びつけて「高麗系」「新羅系」を論じるのでおかしなことになるのです。それだけ古代人はデタラメな歴史物語を創作しているということです。

 また、「三日市場」が古代の「市場」が地名由来との説がありますが、このような漢字表記こじつけ説が通説、俗説問わず疑わしいことは言うまでもありません。



■甲州市三日市場 ※山裾の水のところ。白鬚鉱泉。




第三百五十一回第三百五十二回第三百五十三回第三百五十四回第三百五十五回第三百五十七回第三百五十八回第三百五十九回第三百六十回/ 】

◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

©Kagetsu Kinoe