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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百八十一回~第二百八十九回】

第二百八十一回第二百八十二回第二百八十三回第二百八十四回第二百八十五回第二百八十六回第二百八十七回第二百八十八回第二百八十九回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]伊賀市/須智荒木神社・白髭神社・伊賀・柘植・都美恵神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「須智荒木神社・白髭神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【集落の中を清冽な小川が流れていて、そこに須智荒木神社がある。そしてその参道の右手に「元禄三年三月十一日 荒木村白髭社にて」とした、
  畠うつ音やあらしのさく良麻
 という芭蕉の句碑がある。それでわかるように荒木神社は、もとは白髭神社ともいったものであった。<中略>伊賀阿波の阿波神社や比土の高瀬神社も、もとは白髭明神だったという。<中略>
 この白髭とは新羅ということであるが、中島一郎氏の『日本地名学研究』によると、古い朝鮮語の「クナル・クナラ(白髭)」からきたものだという。】

×「荒姓・安羅」について(『偏見と差別─この現代の腐蝕の構図』荒正人 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『新撰姓氏録』で、「荒」という姓が「安羅」であり、釜山の西にある三韓時代の小さい国であることを知った。それ以来、「安羅」の旧地を訪れてみたいという願望を抱いている。】

×「荒木」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【安羅は別に阿羅、安耶、安那とも書かれる。そしてさらには穴、安邪、織(あや)、漢(あや)というふうにも書かれ、『古語拾遺』には織がまた「織布(あらたえ)」の織というぐあいにもなっている。
 これで「荒」が古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの一国であった安羅からきたものということがわかった。では、荒木の「木」はどういうことであったか。これは大和(奈良県)の高市郡が朝鮮から新たに渡来した者が住んでいたというわけで今来郡ともいわれたものだったが、その今来がのちには今木となったのとおなじで、こちら伊賀の荒木もその荒来、すなわち阿羅来ということからきたものではなかったかと私は思う。】

×「安志・穴石・穴師」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【(柘植町の都美恵神社に合祀となった石上神社由来記に出てくる穴石大明神、穴師山は)いずれもアナシであるが、では、このアナシの「シ」とは何だったのか。これはアナ之(し)、すなわち安那(穴)のということの助詞なのである。
 したがって、穴石大明神などというのも、それは決して穴の石の大明神といったようなものではなく、これも安羅(安那・穴)の大明神ということだったのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「須智/荒木(神社)」=「シ・チャ/アケ」=「山の・岸/一方のところ」
◎縄文語:「白髭」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
or「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」
◎縄文語:「今来/今木」=「エコ」=「水源」

◎縄文語:「阿羅/安羅/織」 =「アゥ・ラ」=「隣の・低いところ」
◎縄文語:「安耶/安邪/織/漢」 =「アゥ・ヤ」=「隣の・陸岸」
◎縄文語:「安那/穴」 =「アゥ・ナ」=「隣・の方」
◎縄文語:「荒木」=「アケ」=「一方のところ」

 縄文語では「白髭」「山裾の(小)石」の意です。「ピ=石」が地勢と一致しない場合は「ペ=水」の場合も考えられます。いずれにしても「山裾」という地勢に変わりありません。
 須智荒木神社
の場合は山裾の小石河原の岸辺で、隣接して「荒木石の石切場跡」さえあります。そのほか、伊賀阿波の阿波神社や比土の高瀬神社も白髭明神だったとのことですが、こちらも例外なく「山裾(の小石)」を指しています。滋賀県の白鬚神社は「山裾の琵琶湖(の湖畔の石)」と解釈できます。

 「白髭」とはもともと先住民による地名です。しかし、「新羅人が関係している」と言われれば、それは否定はできません。なぜなら、朝鮮半島南部の新羅や百済庶民、加羅諸国は倭人と縄文語を共有する南方系の民族の可能性が高いからです。そうなると住んでいる場所が異なるだけの同族だとも言えます。となり村との間に川や海があることを理由に外国人だと言えないのと同じです。
 そのあたりが、百済王族周辺や高句麗の北方系とは異なるところです。百済王族は高句麗の分流で、高句麗は扶余族を出自としています。そして、百済王族周辺の人々が六~七世紀に大和朝廷の主導権を握ることになります。


■須智荒木神社 ※山裾の神社。小石河原。東に石切場跡隣接。


■伊賀阿波の阿波神社(白鬚明神) ※山裾の神社。

■比土の高瀬神社(白鬚明神) ※山裾の川岸の神社。



 奈良の「今木(高市郡)」は高取川上流の「エコ=水源」を指します。「荒木=アケ=一方のところ」とは語源が異なります。 「アケ=一方のところ」は近隣に対比となる同様の地勢があることがほとんどです。伊賀の場合は服部川の「対岸」あるいは「対岸の峰」の意ととれます。

 繰り返しになりますが、「アラ」「アヤ」「アナ」の地名は朝鮮半島南部の加羅諸国とは直接的な関係ありません。加羅諸国も縄文語圏なので、同じ地勢に同じ地名が与えられていただけです。


■伊賀市荒木 ※服部川対岸。


■奈良高市郡 ※高取川上流の水源。




 縄文語では「伊賀」「柘植」は同義です。柘植町の「都美恵神社」は「岬の入り江」の意です。「岬」や「入り江」は内陸の地勢の表現にも使われます。発音も完全一致しています。

◎縄文語:「伊賀」=「エンコ」=「岬」
◎縄文語:「柘植」=「テュ・ケ」=「岬の・ところ」
◎縄文語:「都美恵(神社)」=「テュ・ムィェ」=「岬の・入り江」
◎縄文語:「石上(神社)」
=「エサン・カ・ムィ」=「岬の・ほとりの・入り江」
or「エサン・カムィ」=「岬の・神」

◎縄文語:「穴石/穴師」
=「アゥ・ナ・ウシ」=「隣・の方の・ところ」
or「アゥ・ナ・シ」=「隣・の方の・山」



■都美恵神社(柘植町)



 縄文語は当該地の地勢をそのまま表現しているので、人名地名の一致不一致でわざわざ関係性を求めて悩む必要はありません。逆にそれらを安易にこじつけてしまうと、とんでもないウソ物語が誕生します。それを最初にやりだしたのが記紀風土記です。いや、もとい。中国の「山海経」、さらに遡って「金石文」や「甲骨文字」かもしれません。
 中国先住民、いわゆる東夷南蛮の言語(縄文語、アイヌ語)に漢字を充てる作業は実に三千年以上前の殷の時代から行われていました(※「日没する国のエラーコラム」参照)。日本の歴史も同様の改竄がなされるのは必然だったのかもしれません。
 それにしても南方系民族は、中国、朝鮮半島、日本でいずれも敗北しています。それだけ北方遊牧民系の人々が強靱だったということでしょうか。


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]名張市/正八旛宮・唐琴(からこと)・薦生・家野・葛尾・夏秋(なつあき)・松原町・蔵持町里(くらもちちょうさと)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「八幡村・八幡神社・唐琴」について(『名張市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【八幡村・八幡神社については古くから唐琴(からこと)の伝説がある。『三国地誌』に「八幡祠。一名唐琴明神」、また『伊水温故』に「唐琴社。八幡村在所の名も加羅坤土(からこと)」という。今あるところの民ら当社を加羅子の八幡という」とある。次のような伝説がある。
「安康天皇の御宇、出雲国造伊賀に来り神功皇后の社を祭る。国造夢託によるなり。皇后所持の琴をもって神体となす。この琴は三韓に得るところなり」つまり三韓征伐のとき持帰ったカラの琴がカラコトの語源というのだ。(『伊賀史』)
「天武天皇霊夢に感じ創するところ、始め大和国丹生河上にあり、後この地に遷奉すと。往古表筒男・中筒男・底筒男の三神をまつり、また村上天皇のとき神功皇后を配す。のちこれを改む」(『伊賀国誌草稿』)
「聖武の朝、一国に一カ所の八旛宮を祀らしめらるるの時、当村の八幡なればとて、唐琴社に応神天皇を奉祀せりと」(『名賀郡郷土資料』)
 諸説いろいろである。とにかく八幡村をカラコトと称し、八幡神社をカラコト明神と称したことについては相当深い伝承があるが、上記の諸説には信ずるに足るものがない。】

×「八幡神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【この八幡神社のある八幡がカラコト、すなわち「加羅坤土」、加羅と深い関係にあったところということは、たしかであったようである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」
◎縄文語:「唐琴/加羅坤土」
=「カリ・コッチャ」=「回る・谷の入口」
or 「カリ・コッ・チャ」=「回る・谷の・岸」
(湾曲する名張川の谷の入口or岸)

 「八幡=ペッチャ=川端」です。日本全国の八幡を冠する地名、八幡神社のほとんどは川端にあります。
 「カリコト」は名張川の「湾曲する谷川の入口or岸」を指します。朝鮮半島南部の加羅とはまったく関係ありません。隣接して「薦生(こもお)」の地名がありますが、これはしばしば地名に現れる「高麗」とほぼ同義で、「湾曲する谷川=名張川」を指しています。

◎縄文語:「薦生」=「コ・マ・オ」=「湾曲した・谷川の・尻(山裾or川の合流点)」※≒「高麗」

 周辺には「夏秋」「蔵持町里」などの珍しい地名がありますが、縄文語で解釈すれば簡単に由来を導き出せます。

■正八旛宮周辺の縄文語解釈 (国土地理院の電子地形図を加工して作成)


◎縄文語:「家野」=「エン・ノッ」=「突き出た・岬」
◎縄文語:「葛尾」=「クッ・オ」=「崖の・ふもと」
◎縄文語:「夏秋(なつあき)」=「ナィ・チャ・アケ」=「川・岸の・片割れ」
◎縄文語:「松原町」=「マーテュ・エ・ハ・ラ」=「波打ち際が・そこで・水が引いた・低地」
◎縄文語:「蔵持町里(くらもちちょうさと) 」=「キ・マーテュ・チゥサン・タ」=「山の・波打ち際の・川口(川の合流点)・の方」


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]亀山市/忍山(おしやま)神社・白髭大明神・猿田彦野村・布気神社愛宕山・白木・鈴鹿川・安楽川・椿亀川・亀田川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「忍山神社・布気神社」について(『亀山市の文化財』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【野村町(現亀山市野村)の西南方古字布気林にある。縄文式時代南野町の台地に集落した部族が弥生式時代を経て崇神天皇の頃、相当の人口を有するに至り、その祖神猿田彦を祀ったのが延喜式布気神社で、地名の布気が”ひげ”に転じて白髭となったものと思われる。
 一方、天照大神と相殿二座天児屋命、大玉命を祀る式内忍山神宮(皇大神の行宮)はもと野村町愛宕山の麓西南一帯の小山にあったが、文明年中兵火にかかって白木山にのがれ、帰っても社殿造営の力がなかったので、いまの忍山即ち布気神社の地に仮宮を営むこととなった。こうして同一社域内に本社布気神社と別宮忍山神宮の二社が共存したが、いつの間にか本来の布気神社の名がかくれて、忍山神社の名のみが残ることとなったと考えられる。現在垂仁天皇の十八年皇大神宮御遷座のあった址とされているが、更に考証の必要があろう。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「忍山(神社)」=「オスッ・ヤマ」=「ふもとの・山」※別名白髭大明神
◎縄文語:「白髭(大明神)」=「シ・オ・フ・ケ」=「山・裾の・丘の・ところ」※忍山神社の別名。
◎縄文語:「猿田彦」=「サ・タ・フ・ケ」=「湿地の・方の・丘の・ところ」※忍山神社の祭神。
◎縄文語:「布気林」=「フ・コ・ハ・ヤ・ウシ」=「丘・によって・水が引いている・陸岸・のところ」 ※忍山神社の旧所在地名。
◎縄文語:「野村」=「ノミ・ラ」=「祀る・低地」 ※忍山神社の現所在地。
◎縄文語:「布気(神社)」=「フ・ケ」=「丘の・ところ」 ※現在の布氣皇舘太神社。
◎縄文語:「愛宕山」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山or尾根の先端のたんこぶのような山」
◎縄文語:「白木(町)/白木(山)」=「シ・オ・ケorシロケ」=「山・裾・のところ」

 「白木」と「新羅」を結びつけて渡来人が活躍した説があるようですが、典型的なこじつけ創作物語です。全国の「新羅」「白木」など「シロ」のつく地名はほぼ「山裾」です。つまり、先住民の縄文語です。朝鮮半島の新羅も縄文語(アイヌ語)圏ですから、「新羅」でさえ「太白山脈のふもと」が由来です。いちいち漢字表記から解釈していては日本の本当の歴史が破壊されてしまいます。だいぶ手遅れかもしれないですが。

 押山神社周辺は「山裾の丘」で縄文語解釈が一致していて、一部「低地」の解釈が付加されています。地勢どおりです。

■押山神社、布気神社周辺 ※山裾の丘、低地の解釈で一致。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 「白髭神社」と「猿田彦」の縄文語解釈は琵琶湖や伊賀の白鬚/白髭神社と異なります。このように各地の地勢と一致する解釈を採用すると、地域によって解釈が異なることがあります。

◎縄文語:「白鬚/白髭明神(琵琶湖、伊賀)
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」
(琵琶湖の岸辺の石/伊賀服部川の岸辺の石ころ)
◎縄文語:「猿田彦
(琵琶湖、伊賀)
=「サ・タ・ピケゥ」=「湿地・そこにある・石ころ」
or「サ・タ・ピ・ケ」=「湿地・そこにある・石・のところ 
(琵琶湖の岸辺の石ころ)

 これは古代人が発音と漢字表記を厳密に一対一で対応させていないことが原因であると筆者は考えています。もしかすると「白髭明神」や「猿田彦」などの物語があらかじめ存在していて、ある程度似た発音の地名があると、片っ端から結びつけて由緒が創作されたのかもしれません。

 また、「愛宕山」は全国にありますが、ほぼ例外なく 「片割れの・ぽつんと離れた山or尾根の先端のたんこぶのような山」の地勢です。日本全域で縄文語が使用されていたことは明らかです。


 ちょっとテーマから外れますが、この亀山市には、「亀」を冠する河川、「椿亀川(つばかめがわ)」と「亀田川」があります。市の名前からしてなぜ「亀」がつくのか。亀山こども歴史観にまとめて説が挙げられていたので、要約してご紹介します。

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「亀山市の由来」について(亀山こども歴史観HP 要約)

・「三匹の亀」説
【敏達天皇の時代(572~585)、朝鮮半島の百済から来た日羅という僧が三匹の亀を献上した。この亀を、山城(京都市右京区)・丹波(京都府亀岡市)・伊勢(亀山市)で逃がした。その後、亀を逃がした場所をそれぞれ「亀山」とよぶようになった。】

・「亀の甲ら」説
【亀山の町は、全体が小高い丘の上にあり、その形が亀の甲らに似ていることから亀山というようになりました。 】

・「メドハギ占い」説
【むかし、阿野田町にメドハギという草がたくさん生えていた。このメドハギは占いにつかうために朝廷に献上されていた。不思議なことにメドハギの中にはいつも亀がすみついていたので、朝廷ではこの亀の甲らも占いに使った。よって亀の産地として亀山というようになった。 】

「神の山 」説
【ヤマトヒメがしばらく滞在した「鈴鹿小山宮」の跡に忍山神宮がまつられることになった。忍山神社のある場所を「神の山」といい、これが後になまって「亀山」というようになった。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「亀山」=「コ・マ・ヤマ」=「湾曲した・谷川の・山」=高麗(コマ)
◎縄文語:「椿亀(川)」=「テュ・パ/コ・マ」=「峰の・頭/湾曲した・谷川」※鈴鹿山脈から延びる峰の先端に流れる蛇行する川。
◎縄文語:「亀田(川)」=「コ・マ・チャ」=「湾曲した・谷川の・岸」

 古くからある日本全国の地名由来はほぼ縄文語(アイヌ語)で間違いありません。漢字表記にこじつけていろいろな物語が付加されている場合がありますが、大元は縄文語です。 通説、俗説含め、漢字表記から解釈している時点で信用できるものではありません。たとえ記紀風土記に記載されているものであってもです。それらこそがウソの親玉なのですから。

 椿亀川の流域に椿世町がありますので、「椿」が地名であることが分かります。「鈴鹿山脈から延びる峰の先端」という意です。つまり、「椿亀川」「亀田川」はこの地域を流れる「湾曲した川(蛇行する川)」の意です。
これは「コマ(高麗、狛)」を冠する地名と同義です。「高麗系の渡来人が~」と語られることが多いですが、これもどこまで史実かまったく不明です。


■椿世町(椿亀川、亀田川周辺)※湾曲する谷川。




 この 「椿亀川」と「亀田川」は「椋川」の支流で、「椋川」は「鈴鹿川」の支流です。鈴鹿川にはほかに「安楽川」という大きな支流があります。これらも縄文語解釈するのは簡単です。

◎縄文語:「鈴鹿(川)」=「シテュ・カ」=「大きな峰の・ほとり」
◎縄文語:「安楽(川)」=「アン・ラケ」=「一方の・低地」
◎縄文語:「椋(川)」=「マ」=「奥、山手」※「椿亀川」と「亀田川」の対比で、「山手の奥に行く川」の意。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]亀山市/鶏足山野登寺・白木国分寺【兵庫県】姫路市/鶏足寺・新羅・王子【四国】善通寺市/鶏足山宝幢院金倉寺│他地域鶏足寺~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鶏足山野登寺・白木国分寺・峰相山鶏足寺」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
白木国分寺の白木にしろ、鶏足山野登寺の鶏足にしろ、それはどちらも新羅と縁のあるものに違いなかった。鶏足山や鶏足寺というのは、ほかにもいくつかある。たとえば、これも近江の古橋には己高山観音寺があって、これももとは鶏足寺といったものだった。
 それからまた、今井啓一氏の『帰化人と社寺』「高麗寺・新羅寺・鶏足寺」をみると、「<朝鮮>半島からの来化者によって開創されたと思われる寺刹に鶏足寺のあることに注意し」として、たとえば播磨(兵庫県)の鶏足寺のことがこう書かれている。
「いまは姫路市に入る旧揖保郡大市村大字石倉のさらに北方、峰相山の山中に往事、鶏足寺という一州の名藍があったが、いまは全く廃しているようである。この峰相山鶏足寺亦、新羅国王子の開創と伝えている。・・・・・・
王子、当山によじ登って草案を結んで一心に千手陀羅尼を誦したのにはじまるとしている。勿論、そのまま信ずべくもないが、おそらく新羅系帰化人によっていつ頃か創始されたので、鶏足寺と称したことは肯けよう。」
鶏足というのは、新羅の別名が鶏林であったところからきたというもので、<後略>】

×「峰相山鶏足寺」について(現地案内看板)
鶏足寺ト言ウハ釈迦重大弟子迦葉ガ入定シタ印度伽耶城ノ東西鶏足山ニ似テイル処カラデ・・・<後略>】

×「峰相山鶏足寺」について(wikipedia)
【同書(『峯相記』)によれば、神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は3世紀ほど後の敏達天皇10年(581年)に没したという。伝承によれば、「皇后が新羅の王子を連れ帰ることにした。王子は皇后に渡海を無事に終えて日域(日本のこと)に着けば、伽藍を建てたいと願い出たが、仏法の是非のわからない皇后は明答しなかった。皇后は帰国後、西域の不安に備えて副将軍の男貴尊を播磨にとどめおき、王子を預けた。その後、王子は、峯相山に草庵をつくって、千手陀羅尼を唱えた」とある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白木/新羅」
=「シ・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
or「シロケ」=「山・裾・のところ」
(シ・オ・ケ
◎縄文語:「(新羅国)王子」=「オ・ウ」=「尻・のところ」(山の末端、山の麓)
◎縄文語:「鶏足」=「ケ・ケ」=「末端の、しものはずれの・ところ」(山の末端、山の麓)

 「白木/新羅」「王子」「鶏足」はすべて縄文語の「山裾」の言い換え表現です。新羅国と鶏足寺の相性の良さの理由はここにあります。
 そして、すべてをつなぎ合わせて漢字表記にこじつけた物語を作成すると、

×「新羅王子が来て鶏足寺を建てた」

 ということになります。 このような物語は日本各地に無数にありますが、記紀風土記と同様にまったく信用ならないものです。もちろん、実際に新羅と何らかの関係があったかどうかはまったく不明です。
 他地域の鶏足寺も山裾にあります。


■鶏足山野登寺(三重県亀山市) ※山裾の寺。


■峰相山鶏足寺(兵庫県姫路市) ※山の末端の寺。




■己高山鶏足寺跡(滋賀県長浜市高山町) ※末端の山。


■鶏足寺(栃木県芳賀郡益子町) ※山裾の寺。


■鶏足寺(栃木県足利市) ※山裾の寺。


■鶏足寺(静岡県静岡市) ※山裾の寺。


■鶏足寺(旧飯福寺)(滋賀県長浜市) ※山の末端の寺。



 香川県善通寺市の鶏足山宝幢院金倉寺は別解釈です。こちらは同じ「末端」でも「陸岸の末端」の意で、金倉川の「川岸」の意となります。全国の薬師寺、薬師神社は「川岸」にありますが、これと同じ用法です。

◎縄文語:「鶏足」=「ケ・ケ」=「末端の、しものはずれの・ところ」(川岸)
◎縄文語:「薬師」=「ヤ・ケ」=「陸岸の・はずれ、末端」(川岸)


■鶏足山宝幢院金倉寺(香川県善通寺市) ※川岸の寺。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]池田市/為奈郷・伊居太神社・猪名津彦神社│他地域の猪名・伊那・伊奈~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「為奈郷・猪名部」について(『阪神地方の歴史』松田太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【応神天皇の世、さきに伊豆国から貢した枯野という官船が朽ちて使用することができなくなったので、その船材を薪とし、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜り、その代りとして、新たに船をつくらせた。そこで諸国から一時に五百の船を貢し、すべて武庫水門に集まっていた。この時新羅の調使の船も武庫水門に碇泊していた。ところが新羅の船の失火で多くの船が焼けたので、新羅王は謝罪のため名工を送ってきた。これが猪名部などの始祖である。猪名部は川辺郡為奈郷や猪名野、猪名川、尼崎市の廃寺猪名寺などに、その名が残っている。】

×「伊居太神社・猪名津彦神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【新羅系渡来氏族であった秦氏の上社、伊居太神社境内にある猪名津彦神社の猪名津彦というのも、もしかしたらその猪名部から出たものではなかったか。するとこれも、大豪族秦氏の部民であったかもしれない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「為奈/猪名/伊那/伊奈/猪名津」 =「エ・ナ」=「頭(岬)・の方」
◎縄文語:「伊居太(いけだ神社)」=「エンコ・タ」=「岬・の方」

 川辺郡為奈郷は現在の池田市周辺です。「イナ」と「イケダ」は同義です。五月山の突き出た峰を指しています。造船や大工で有名な猪名部氏ですが、名前の由来は縄文語の地名です。

 他地域にも「イナ」を冠する地名がありますがいずれも「岬」状の地勢を表しています。 滋賀県の稲部町の場合は平地の地勢で縄文語解釈の「岬」の解釈と一致していませんが、愛知川の旧流路が地勢と一致しています。

 本当に応神天皇時代の新羅国が関係しているのでしょうか。猪名部氏は物部氏説もあるので、その場合は応神天皇どころか、神武天皇以前、物部神祖のニギハヤヒの時代まで遡ります。
 私見では、欠史八代から応神天皇あたりまでの時代は邪馬台国隠蔽のために物語が創作されていて、同時に記紀編纂当時の渡来系氏族の「出自を装飾するための物語」、すなわち「日本の歴史に多大な影響を与えた」というプロパガンダが積極的に盛り込まれたと考えています。縄文語をまったく残さない編纂姿勢ですから、徹底的に渡来系の文化で先住民の歴史や文化を上書きしようとする態度が透けて見えます。


■伊居太(いけだ神社) ※周辺が旧川辺郡為奈郷。 五月山の麓。

■稲部町(滋賀県彦根市)
※愛知川の旧流路について ( 『稲部遺跡 第2次発掘調査報告書』2015 彦根市教育委員会)
【かつ ての愛知川は、稲部町、彦富町から湖岸の薩摩町、柳川町へと流れていたが、その旧愛知川の河道が文禄川と来迎川である。来迎川は2次調査区から南へ約600m の位置を流れ、彦富町から柳川町へと至る。文禄川は2次調査区の北側を流れ、稲部町から薩摩町へ至る。この ように、稲部遺跡は、旧愛知川の河道に挟まれた微高地上に立地している。】


■いなべ市(三重県)


■伊那(長野県伊那市)  ※岬のふもと。


■伊奈(東京都あきる野市)  ※岬のふもと。


■伊奈町(埼玉県北足立郡) ※大宮大地のはずれ。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]津市/大乃己所(おおのこそ)神社│四日市市/小許曾(おごそ)神社[大阪府]比売許曽神社、阿麻美許曾神社│ほかコソを冠する地名~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大乃己所(おおのこそ)神社」について(『津市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【諸書に己所(こそ)とはなり、なり、なりとあり、大乃己所は大社の義、大王主の義であるといい、また大古曾の地名は大社の所在と関係づけたものとある。】

×「小許曾(おごそ)神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【四日市市小古曾の小許曾神社は、こちら津市大古曾の大乃己所神社に対するそれであるのかもしれない。つまり「小」と「大」のちがいはあるが、古曾も己所も同義語のコソであって、そのコソとは「祠なり、社なり、森なり」だったということである。】

×「コソ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【朝鮮の正史の一つである『三国史記』によると、新羅の第一代王となっている赫居世(ヒャクコセ)を祭った始祖廟としてのそれができたのは西暦紀元六年、第二代南解王三年のことであった。これがのち四八七年には「神宮」というものになり、そしてこれの祭祀者である巫女としては代々の王の姉妹か、またはいうところの王族の女人があたるものとされていた。─<中略>
 赫居世というのは、赫が名で居世はその治世という意味を持つ尊称であったことから、この居世(こせ)が日本に渡って古曾・許曾・己所となり、あるいはまた紀伊(和歌山県)にある伊太祁曽神社の祁曽ともなったのである。】
 

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「古曾/許曾/己所」 =「コッ」=「谷、窪地」
◎縄文語:「大古曾/大乃己所(おおのこそ)神社」 =「オオ・コッ」=「大きな・窪地」
◎縄文語:「小許曾(おごそ)神社」 =「オコッ」=「沢」
◎縄文語:「伊太祁曽(神社)」
=「エテュ・クッチャ」=「岬の・入口」

or 「エテュ・コッチャ」=「岬の・谷の入口」

「コソ」は「コッ=谷、窪地」の意です。地勢によっては、

◎縄文語:「コソ」
=「コッチャ」=「谷の入口」

or「コッ・チャ」=「谷、窪地の・岸」

 の解釈も考えられます。いずれにしても祠、社、森は無関係です。新羅の祭祀も関係ありません。


■大乃己所(おおのこそ)神社(津市一身田大古曽) ※大きな窪地。



■伊太祁曽神社旧地(和歌山県日前神宮・國懸神宮) ※岬の入口or岬の谷の入口。

■小古曽(三重県四日市市) ※沢。




 他地域にも「コソ」を冠する地名がありますので、例証としてご紹介します。すべて「谷、窪地(の入口)」の地勢です。
 有名なところでは大阪に比売許曽神社、阿麻美許曾神社があります。これも縄文語解釈と地勢が一致します。

◎縄文語:「比売許曾(神社)」 =「シプィ・コッ」=「湧き水の・窪地」
◎縄文語:「阿麻美許曾(神社)」 「アゥ・モ・メ・コッ」=「枝分かれた・小さな・泉の・窪地」※大和川南岸の湖沼地帯の岸。

 上町台地は湧水が豊富です。

〇「上町台地の湧水」について(天王寺区公式HPより引用)
【上町台地は、生駒山からの伏流水が地下を通り、良質な井戸水に恵まれた地です。大坂の町がたびたび飲料水不足に悩まされていた時代も、豊富な水が人々の生活を救いました。】

 また、比売許曾神社の最寄り駅、隣接地区は「鶴橋」です。

◎縄文語:「鶴橋」 =「チ・パ・ウシ」=「水がしたたる・岬・のところ」 =上町台地

 大分県姫島の比売語曽神社も拍子水温泉のほとりにあります。


■比賣許曾神社 ※湧水が豊富な上町台地。


■阿麻美許曾神社 ※大和川南岸の湖沼地帯の窪地。



■他地域の「コソ」を冠する地名
□社辺(こそべ) 愛知県常滑市 ※谷の入口。


□阿古曽町(あこそちょう) 三重県鈴鹿市 ※「アゥ・コッ=枝分かれた・谷、窪地」の意。一見分かりにくいですが、隣接地名に「道伯(ドウハク)=トーパ・ケ=沼頭・のところ」「算所(さんじょ)=サン・チゥ=前にある・水流、水脈」「岡田=オコッ・チャ=沢の・岸」があり、湿地帯だったことが分かります。近隣には湖沼が豊富です。


□古曽部町(こそべちょう) 大阪府高槻市  ※「コッ・ペ=窪地の・水」=湖沼。


□小曽根町(こそねちょう) 兵庫県西宮市 ※武庫川河口近く。


□古曽志町(こそしちょう) 島根県松江市 ※谷の入口。


□金古曽町(かなこそちょう) 山口県山口市 ※谷の入口。


□不知火町小曽部(しらぬひまちこそぶ) 熊本県宇城市 ※谷の入口。


□岩古曽町(いわこそまち) 熊本県宇土市 ※谷の入口




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]津市/白塚町・栗真・一身田豊野・一身田町・志登茂川[奈良県]春日~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白塚」について(『津市の歴史散歩』津市教育委員会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
白塚 この地名の沿革はわかっていません。しかしこの地域が、海岸に平行する浜堤と、バックマージュ(後背湿地)からなっている、という地形から考えて「シラスカ」から転じたもの、と言えそうです。スカは「砂州のある所」という地形を意味し、白砂青松の地にふさわしい名前です。】

×「春日」について(『日本地名学研究』中島利一郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【私はこの「かすが」「大部落」の意に解せんとするものである。「か」は大の義で、ウラル・アルタイ語族では、「大」を可(か)といった。成吉思可汗の可汗は大帝の意である。日本語「か弱し」「か黒し」の接頭語「か」も大の義と考えていい。「かすが」の「か」もそれと見ていい。「すが」は古朝鮮語「村主(スグリ」)」「村主(スグニリム)」の「村(スグ)」で村、即ち部落のことである。故に私はこの「かすが」を大部落、即ち大村、大邑の義と考えたいのである。勿論、私は春日山下に夙に朝鮮人部落の存したことを想定するのである。】

×「シラスカ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【シラスカのシラとはなにか。これはもういうまでもなく新羅(しら)、すなわち新羅のことである。してみるとシラスカは新羅の村落ということになる<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白塚」 =「シ・オ・テュ」=「山・裾の・小山」

 「シ・オ」の発音に充てられる漢字の「白」「新」「塩」「親王」「新皇」などはすべて「山裾」の意です。繰り返しになりますが、地名由来は新羅ではありません。
 津市の白塚町は「山裾の小山の麓」、つまり「鈴鹿山脈の麓の丘陵地帯」にあります。縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。白塚町の西には「栗真」という地名が見られますが、これも縄文語解釈すると、

◎縄文語:「栗真」 =「キ・マ」=「山の・谷川」

 の意で、地勢と一致します。

 また、この丘陵は「一身田豊野(いっしんでんとよの)」地区で、南に接する「一身田(町)」は奈良、平安時代の「一代限りの私有田」を由来とするのが通説です。しかし、このような漢字表記に結びつけた解釈は、どうもウソくさいです。記紀風土記では、漢字表記にこじつけた内容はほぼすべてデタラメでした。

◎縄文語:「一身田豊野」 =「エン・シ・タ・ト・ヤ・ノッ」=「突き出た・山・にある・湖沼・岸の・岬」
◎縄文語:「一身田(町)」 =「エン・シ・タ」=「突き出た・山・の方」

 「白塚=山裾の小山」「栗真=山の谷川」の解釈と一致します。

 「豊野」の解釈に「湖沼」が含まれますが、このあたりは『津市の歴史散歩』にあるとおり湿地帯で、かつては湖沼があったものと思われます。一身田町を貫流する志登茂川は、

◎縄文語:「志登茂(川)」 =「シ・トマ」=「大きな・湿地」

 と解釈することができます。

■白塚町、一身田町周辺 ※鈴鹿山脈の東麓。湿地に突き出た丘陵の麓。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 奈良の「春日」周辺が朝鮮人部落だったのはまず間違いありません。なぜなら平城京自体がそういう性質のものだからです。北方系渡来人が大和の中枢に入り込み、王権を簒奪したのが六~七世紀で、大化改新はその完了報告のようなものです。ここで言語が縄文語から上代日本語に切り替わっています(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]参照)。
 当然、後の平城京はその流れをくんでいます。言語が替わるほどですから、渡来人中心の都だったことは想像に難くありません。
 しかし、それでも「春日」は縄文語由来です。この地域一帯は「山裾の湿地」の解釈で一致して、神社仏閣の名称さえ縄文語由来です。神社仏閣の由緒に縄文語解釈のかけらも見られないところに、先住民文化を徹底して上書きしようとする強い意志が感じられます。デタラメ満載の風土記とまったく同じ態度です。法隆寺周辺も同様です(※第二百六十三回コラム参照)。

 奈良の項で既出ですが、春日周辺地名の縄文語解釈を再掲します。

◎縄文語:「春日」=「カケ」=「その上のところ」


■春日大社、東大寺、興福寺周辺 ※すべて興福寺の「峰と西麓の湖沼跡」の縄文語解釈で一致。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■周辺の地名
◎縄文語:「漢國(神社)」=「カン・コッ」=「上にある・窪地」
◎縄文語:「春日率川坂岡(神社)(かすがいさがわさかおかじんじゃ) 」=「カケ・エサン・カ・ワ・アン・サッコッ・オカ」=「その上の所・岬の・ほとり・に・ある・乾いた窪地の・跡」
◎縄文語:「韓国(辛国)(神社)」=「カ・ラ・コッネイ」=「岸の・低いところの・くぼんだところ」(岸辺の低地)
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」
◎縄文語:「魚屋」=「ウォ・ヤ」=「水の・岸」(岸辺)
◎縄文語:「半田」=「パン・チャ」=「下手の・岸」
◎縄文語:「鍋屋」=「ナペ・ヤ」=「泉の・岸」
◎縄文語:「花芝町」=「パナ・シ・パ」=「下手の・大きな・岬」 (大きな岬の下手)
◎縄文語:「東向」=「ペンケ・シ・ムィ・ケ」=「上手の・大きな・頂・のところ」(大きな岬の上手)
◎縄文語:「高天市町(たかまいちちょう)」=「トコ・エテュ」=「小山の・岬」
◎縄文語:「中筋町」=「ナィカ・テューテュ」=「川岸の・岬」
◎縄文語:「小西町」=「コッ・ニセィ」=「窪地の・水辺の崖」
◎縄文語:「林小路町」=「パン・ヤチ・コッチャ」=「下手の・泥の・窪地の入口」
◎縄文語:「橋本町」=「ハー・チゥ・ムンテュ」=「水が引いた・水脈の・草むら」
◎縄文語:「餅飯殿町(もちいどの)」=「ムンテュ・エテュノッ」=「草むらの・岬」
◎縄文語:「椿井町」=「テュー・パ・エ」=「岬の・頭の・先」
◎縄文語:「雑司町」=「チー」=「中くぼみ」(窪んでいるところ)
◎縄文語:「春日野」=「カ・カンナ」=「その上の・上の方」
◎縄文語:「高畑町」=「テュー・カ・ハッタ」=「峰の・ほとりの・淵」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]津市・安濃津・穴津・洞津(あなのつ)・荒木・村主~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「津市・安濃津」について(『津市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【津の地名起源 津とはいうまでもなく、船舶の集りつく港という意味で、安濃地方の港であった所を「安濃津」といったのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「津」 =「チャ」=「岸」
◎縄文語:「安濃津」
=「アゥ・ノツ」=「枝分かれた・岬」
or 「アゥ・ノッ・チャ」=「枝分かれた・岬の・岸」


 『津市史』に「いうまでもなく」とありますが、巷で常識として通用している漢字表記から解釈する説はほぼすべてデタラメです。
 「安濃津」 は「穴津」「洞津(あなのつ)」ともいったようです。

◎縄文語:「穴津」 = 「アゥ・ナ・チャ」=「枝分かれた・方の・岸」
◎縄文語:「洞津(あなのつ)」 = 「アゥ・ナ・ノッ(・チャ)」=「枝分かれた・方の・岬(の・岸)」


 また、安濃町安濃の西隣には「安濃町荒木」という地名があります。こちらの「荒木」も

◎縄文語:「荒木」 = 「アケ」=「一方のところ」

 の意で、「安濃」の言い換え表現ととれます。

 いずれも地勢と完全一致しています。当然、地名由来に伽耶諸国の安羅、安那は関係ありません。朝鮮半島南部も倭人と同系の南方系民族なので、安羅、安那の方もその地勢を表した縄文語由来です。現在の日本人、朝鮮人の把握の仕方とは異なります。朝鮮人が渡来したとも、日本人が朝鮮半島にいたとも言えます。隣村と変わりありません。同系同族です。


■安濃町安濃周辺 ※枝分かれた岬。



 また、安濃町には「村主」地区があります。古代朝鮮語で「村落の長」を表すという説が一般的ですが、地名の「村主」の由来が朝鮮半島と関係があるかと言えば、まったく関係なさそうです。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「村主」について(『日本歴史大事典』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【村主 天武長の八色の姓より以前に存した古代の姓の一つ。この姓を有したのは下流の氏で、一部落ないし数部落の長だった程度の小豪族と思われ、そのほとんどが帰化系と考えられる。すくりの語源も、村落の長を意味する古代朝鮮語からきたものであろうという説が有力である。
 実例をみるとこの姓を有するものには、漢氏の管掌下におかれた諸種の品部や漢氏の私有の部の直接指揮者である漢人(あやひと)が非常に多い。村主の語は氏の名や地名になっている場合もあり、『和名抄』は伊勢国(三重県)安濃郡須久理と書いている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■ 

◎縄文語:「村主」 = 「シ」=「山」

 村主地区にはちょうど藤ケ森城跡の小山があります。湿地にポツンと突き出た小山を指したのではないでしょうか。和歌山県の「村主郷」も「山」の意と解釈できます。
 また、「村主」の氏名も単に「山際に住した」ことを表した可能性があります。

■村主地区の藤ヶ森城跡 ※湿地の小山。


■和歌山県の伊都郡の郷と現在地名(国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百八十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]コメンド山古墳・コメンド塚・金鶏伝説~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「コメンド山古墳・金鶏伝説」について(『白山町文化誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【コメンド山古墳 御城地内字阿坂に円墳がある。「コメンド」は「コメンドリ」がなまったもので、金鶏伝説のなごりと思われる。対象の始めころすでに発掘せられ、土砂は流出し、石室は破壊され、ほとんど形をとどめていない。<後略>】

×「コメンド塚・金鶏伝説」について(『白山町文化誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【コメンド塚 南家城地域内にあるミドダニ総合遺跡の北方字片山に「コメンド塚」とよばれる円墳がある。川口の東阿坂の円墳と同じく金鶏伝説(金の鶏が埋められていて、元旦の朝まだき一声高く鳴く。もし村が衰退するか災害などで困ったときにこの塚を掘れ、そうすれば元の通り立ち直るという)の名残である。この伝説は全国的に分布し、堅果にも五十数カ所あるという。封土は取り除かれ、石室も破壊され、天井石が露出している。予測しがたいが、南北径一〇・八メートルの小型の後期の古墳である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「コメンド山」 =「コ・ウン・テュ・ヤマ」=「湾曲(した川)・にある・岬の・山」
◎縄文語:「コメンド塚」 =「コ・ウン・テュ・テュ」=「湾曲(した川)・にある・岬の・小山」
◎縄文語:「金鶏」=「キケ」 =「山のところ」

 両古墳とも湾曲する雲出川のほとりの峰にあります。縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。コメンド塚が後期古墳(六~七世紀)なので、少なくともこの時代まで南方系先住民の文化だったということです。

 全国の金鶏伝説は縄文語の「キケ =山のところ」に漢字を充てて創作された空想物語です。日本全国にあるのは、単に日本が山だらけなだけです(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]参照)。先住民文化を徹底して上書きしていることが分かります。
 「近畿」も同じ由来かもしれません。

■コメンド山古墳・コメンド塚 ※湾曲した川の峰にある古墳。




◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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