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日出ずる国のエラーコラム

【 第九十一回 ~ 第九十二回】

 「日出ずる国のエラーコラム(第三十二回~第九十回)」において、関東から九州までの古墳名、および各国風土記を縄文語(アイヌ語)解釈した結果、少なくとも6世紀代までは日本全国で縄文語を話す人々が存在していたことがはっきりと見えてきました。このことは、上代日本語と縄文語を話す人々の比率がこれまでの概念とはまったく異なり、「上代日本語=ヤマト=少数派」「縄文語=地方=多数派」であったことを示しています。いったいいつからヤマトで上代日本語が使用されるようになったのでしょうか。
 縄文語と上代日本語の境界線、それは乙巳の変(大化の改新)です。第二十六代継体天皇とその皇子ら全員が死亡したあと、第三十代敏達天皇から民族が入れ替わり、第三十五代皇極天皇の時の乙巳の変で蘇我氏本家が滅ぶことにより、使用言語が変わっています。このことは天皇の諡号周辺の縄文語解釈から導き出せます。
 上代日本語を操り、自らの正当性を主張するために、先住民の文化や歴史をウソで上書きした勢力とは、いったい何者なのか。それを明らかにしていきます。


日出ずる国のエラーコラム
第九十二回 百済系敏達天皇で王朝交代!蘇我氏本家を滅ぼし、大化の改新は言語まで変えた!
 筆者はこれまで、神話、欠史八代、邪馬台国周辺、全国大規模古墳、風土記地名由来譚を縄文語(アイヌ語)解釈してきましたが、それにより、少なくとも6世紀代まで全国で縄文語が使用されていたことに確信を持っています。
(※詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」をご覧ください。実際の写真と統計を見ると、縄文語と地勢がいかに一致しているかが分かります。縄文語の使用年代は、縄文語解釈可能な大規模古墳の築造年代から導き出しています。)

 しかしその一方で、写本が残る日本最古の書物とされる記紀や風土記は、上代日本語で書かれています。上代日本語は、一部の単語を除いて、縄文語と似ても似つかぬ単語、文法を持っているので、そこには必ず、

●縄文語と上代日本語の境界線

 があるはずです。当然のことながら、日本書紀には「言語が切り替わった」などということは一言も書かれていません。

 日本書紀には、邪馬台国の事績を隠蔽しているという実績があります。
 邪馬台国関連の記事は、神功皇后三十九年、四十三年、魏志を引用して、「倭が使者を送ってきた」という条があるだけで、神功皇后やヤマト王権との関係は書かれていません。しかし、実際は、邪馬台国は長期にわたってヤマトに栄えたヤマト王権の前身です。
 日本書紀では、初代神武天皇、第十代崇神天皇の事績内に、魏志倭人伝には登場しない名称(長髄彦、三炊屋媛等)の敵対者としてしっかりと描かれています。

 邪馬台国の例で推し量ると、日本書紀は全編に渡って「権力筋に不都合なことは書かない」あるいは「都合の良い物語で史実を上書きする」主義で貫かれている可能性があります。

 もし、日本書紀が縄文語と上代日本語の境界線を隠しているとするならば、どのような方法でそれを探ればいいでしょうか。
 筆者は、和風諡号、漢風諡号、陵所、古墳、皇居にヒントを求めました。これらが縄文語で辻褄の合う解釈ができれば、天皇の在位年代がその使用時期を示すことになると考えたからです。これはヤマト王権中枢部での縄文語の使用状況を把握するための重要な資料となります。

 歴代天皇の名称は、和風諡号、漢風諡号、諱などと分類されていますが、第四十代天武天皇以前の和風諡号と諱については厳密な区別はないとされています。これらを縄文語の見地から見るとさらにその区別はなく、地名も人名も言い換え表現が存在する例は無数にあります。
 分かりやすい例として「六甲山」を挙げてみます。以下、すべて「六甲山」の形容です。

◎縄文語による「六甲山」の言い換え表現
「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」
「向津(峰)」=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」
「兵庫」=「ピ・オコッ」=「石の・沢」
「底筒男」=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻(ふもと)」
「中筒男」=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻(ふもと)」
「表筒男」=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻(ふもと)」

 「六甲」は「六児/無古/武庫/務古/牟古」等が転訛したのではなく、「六甲」や「向」がそれらに転訛したと捉えられます。「兵庫」も「武器を埋めた」などという由来ではありません。
 後半三つは「住吉三神」ですが、これらも六甲山の別名と解釈でき、必然的に主祭神としてふさわしいのは神戸市東灘区の本住吉神社となります。その漢字表記から海の神とされていますが、元々は先住民による六甲山の自然崇拝だったということです。
 天皇の名称の場合も、このような異称を後世の人々が勝手に分類して物語を創作したと考えることができます。

 漢風諡号については、淡海三船が後世にまとめて命名したというのが通説ですが、それであっても命名の元となった言葉があるはずなので、それを陵所、古墳、皇居の中から探るということです。
 また、筆者の私見では、淡海三船の時代(奈良時代後期)の大和朝廷中枢の人の言葉など、まったく信じることができません。彼らは、風土記、記紀で、先住民の歴史をことごとく上代日本語で上書きした人々の子孫で、自分たちの存在を正当化するためなら、どんなことでも言う人たちです。

 神功皇后以前は邪馬台国の卑弥呼、台与の事績を隠蔽している時代にあたり、創作の可能性が高いので、ミスリードを避けるために割愛します。(※詳しくは拙著「日本書紀のエラーコラム[増補版]」をご参照ください。)

 論より証拠ということで、まずは分かりやすいところから探っていきます。

 以下に第十五代応神天皇から第四十六代孝謙天皇までの和風諡号を一覧で並べてみます。
 時代の古い順からその漢字表記を見て、日本語で解釈して不自然ではないものを見つけてみてください。例えば、応神天皇の「誉田」などは、普通に考えれば、何を意味しているか分かりません。「誉められる田」と言ってしまえば、記紀、風土記と同様のこじつけ解釈となりますが、それでも解釈できればいい方です。どんどん代を下って行きます。

15.応神天皇:誉田(ほんた)
16.仁徳天皇:大鷦鷯(おおさざき)
17.履中天皇:去来穂別(いざほわけ)
18.反正天皇:瑞歯別(みつはわけ)
19.允恭天皇:雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)
20.安康天皇:穴穂(あなほ)
21.雄略天皇:大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)
22.清寧天皇:白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)
23.顕宗天皇:弘計(をけ)
24.仁賢天皇:億計(おけ)
25.武烈天皇:小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)
26.継体天皇:男大迹(おおど)
27.安閑天皇:広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)
28.宣化天皇:武小広国押盾(たけをひろくにおしたて)
29.欽明天皇:天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)
30.敏達天皇:渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)
31.用明天皇:橘豊日(たちばなのとよひ)
32.崇峻天皇:泊瀬部(はつせべ)
33.推古天皇:豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)
34.舒明天皇:息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)
35.皇極天皇:天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
36.孝徳天皇:天万豊日(あめよろづとよひ)
37.斉明天皇:天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
38.天智天皇:天命開別(あめみことひらかすわけ)
39.弘文天皇:
40.天武天皇:天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)
41.持統天皇:高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)
<日本書紀ここまで>
42.文武天皇:倭根子豊祖父(やまと ねこ とよおほぢ)
43.元明天皇:日本根子天津御代豊国成姫(やまと ねこ あまつみよとよくに なりひめ)
44.元正天皇:日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみずきよたらしひめ)
45.聖武天皇:天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)
46.孝謙天皇:高野姫/別称:倭根子(たかのひめ/やまとねこ)


 まず、第十六代仁徳天皇の「大鷦鷯」は日本語の「ミソサザイ」の古名ですから、大きなミソサザイがいるかどうかは別として、不自然ではありません。しかし、次の「去来穂別」「瑞歯別」「雄朝津間」このあたりは、まったく意味不明です。
 意味不明な和風諡号がさらに続き、第二十一代雄略天皇までいくとようやく「大泊瀬幼武」が何となく意味が通じる感じがします。次の清寧天皇の「白髪武広国押稚日本根子」も無理をすれば、なんとなく解釈できますが、次の顕宗天皇の「弘計(をけ)」、仁賢天皇「億計(おけ)」で、再び迷宮入りとなります。そして武烈天皇の「小泊瀬稚鷦鷯」でまた日本語解釈できそうですが、次の継体天皇から敏達天皇までは欽明天皇で一度浮上する以外は、また意味不明となり、第三十一代用明天皇以降になってようやくおおよそ日本語として解釈できそうな名前が続くことになります。
 確実に日本語と判断できるのは、天智天皇以降でしょうか。日本書紀以降も見るとさらにはっきりと日本語として解釈できます。

 これらが何を示しているのか。これは前半の和風諡号が縄文語(アイヌ語)の音に似た漢字を充てていることにより、日本語で解釈することが不可能になっていることを示していると考えます。

 この中で言えば、清寧天皇などが分かりやすい例です。日本書紀には「生まれながらにして白髪」だったという逸話が書かれていますが、これは高確率で漢字表記にこじつけたデタラメ物語です。
 「白」は、多くの場合「将」「親王/新皇」「城」などと同様に「シロケorシ・オ=山裾」の意の縄文語に充てられた漢字です。「将軍塚古墳」「親王塚古墳」「駿河」「新羅」「白浜」「(因幡の)白兎」などの例があり、筆者がとった統計では95%以上が「山裾」の地勢と一致しています。(※詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」をご参照ください。)
 清寧天皇の場合は、「白髪=シロケ=山裾」で陵墓の河内板門原陵、あるいは皇居の磐余甕栗宮の地勢となります。いずれも「山の麓」です。

 このように、筆者は、少なくとも6世紀代まで全国で縄文語が使用されていたと考えているので、天皇の諡号に縄文語が使用されていたとしても全く不思議はないわけです。

 仮に第三十一代用明天皇の和風諡号が日本語で解釈可能だとすると、用明天皇が縄文語と上代日本語の切り替わりのタイミングということになります。
 聖徳太子の父親である用明天皇の在位は西暦585年から587年です。この時代以降、革命的な出来事が次々に起こり、平城京の奈良時代へと突入していきます。記紀風土記もちょうどこの時期です。

・遣隋使(600年~)
・冠位十二階(603年)
・十七条の憲法(604年)
・遣唐使(630年~)
・大化の改新(645年)戸籍・計帳・班田収授法
 ※改新の詔は後世の創作とするのが通説
・壬申の乱(672年)
・飛鳥浄御原令(681年)
・日本書紀、古事記、風土記の編纂(7世紀末~8世紀初頭)
・平城京(710年)

 ここでは仮に用明天皇を上代日本語の切り替わりの画期としましたが、注意しなければならないのは、用明天皇以降、そしてそれ以前も、縄文語に充てた漢字が偶然日本語として解釈できている可能性があるということです。さらに正確に縄文語の使用状況をつかむためには、陵墓、皇居、諱など、他の要素との整合性を見ながら、縄文語解釈を進めていかなければなりません。

 以下に第十五代応神天皇から第四十一代持統天皇までの縄文語解釈の一覧を挙げます。
 応神天皇の縄文語解釈から時代を降って見ていくと、漢風諡号と和風諡号が、陵墓、皇居などと密接に関係していることが分かります。
 意外なことに、王朝交代説のあることで有名な継体天皇も縄文語解釈できていて、その子らの安閑天皇、宣化天皇までも陵墓、皇居と辻褄の合う縄文語解釈が可能です。この辺りまでは、まだ縄文語が使用されていた可能性が高いことが分かります。

 問題は、敏達天皇から始まる欽明天皇の子の世代です。
 敏達天皇の和風諡号は「渟中倉太珠敷」ですが、その縄文語解釈は、

◎縄文語:渟中倉太珠敷=「ヌィナ・ク/ペト・タ・モシ」=「隠している・人/川口を・切る・国の端」

 となります。本当でしょうか。筆者も縄文語のこじつけによる偶然だと疑ったので、敏達天皇の周辺の解釈も進めました。(一覧下につづく)

※自信のない解釈には「?」を付記しています。
※古墳名については治定が正しいとは言い切れませんので参考程度です。

 すると、欽明天皇の子たち、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇、そして孫の舒明天皇は、それぞれ、漢風諡号、和風諡号、陵所、皇居等で、

●「入口を欠く水脈」「川口が死んでいる水脈」「涸れた水脈」「塞がっている水流」

 をキーワードに類似の解釈ができることが分かりました。これは、

●継体天皇系とは異なる、別系統の後継者を表現している

 のではないでしょうか。代表例として敏達天皇の諡号と皇居の縄文語解釈を挙げてみます。

■敏達天皇
【和風諡号〈古事記〉】他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)
◎縄文語:「他田(訳語田)」=「オサッ・チゥ」=「川口が涸れている・水脈」

【漢風諡号】敏達天皇
◎縄文語:「敏達」=「プッチャ・チゥ」=「入口を欠く・水脈」

【皇居】訳語田幸玉宮
◎縄文語:「訳語田/幸玉」=「オサッ・チゥ/サッ・コタンパ」=「川口が涸れている・水脈/涸れている・国の端」


 話は少し飛びますが、第二十六代継体天皇にも王朝交代説があります。前代は武烈天皇ですが、その武烈天皇の漢風諡号と和風諡号も「水の流れが死んでいる水脈」「涸れた水流」と解釈可能です。
 また、継体天皇は「川口」や「一方の川」という解釈が可能で、一貫して「水流で系統を表現」しているとすれば辻褄が合います。アイヌ語の「川口」は、現代日本人の感覚とは異なり、「川の出口」ではなく、「川の入口」と解釈します。河口から上流に向かうというニュアンスです。



 話を戻すと、欽明天皇の陵所が飛鳥だったのに対し、その子の敏達天皇、用明天皇、推古天皇、そして、用明天皇皇子である聖徳太子の陵所は河内の磯長に移っています。「磯長」を縄文語解釈すると、

◎縄文語:「磯長」=「シ・ナィ・カ」=「大きな・川の・ほとり」(本流のほとり)

 と解釈できますが、河内磯長周辺には、大きな川はありません。この「シナ」はもしかすると「支那=中国」を表すのではないでしょうか。つまり、

◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「支那の・ところ」

 ということです。「支那」という言葉は、仏典を通じて日本に入ってきたということですが、日本に仏教が伝来したのは欽明朝ということになっているので、「支那=中国」の解釈も十分考えられます。

 そして、訳語田幸玉宮の前の敏達天皇の皇居は「百済大井宮」です。これを普通に縄文後解釈すれば、以下のようになります。

◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「(川や湖沼の)入口が・多い・ところ」

 百済大井宮の比定地は奈良県北葛城郡広陵町ですが、確かに川の入口が多い感じもします。

 しかし、これも漢字表記どおり「百済=百済人」と解釈したらどうなるでしょうか。

◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「百済人が・多い・ところ」

 ということになります。つまり、「百済大井宮」とは「百済人の宮」だった可能性が浮上してくるということです。

 さらに、日本書紀の継体天皇崩御の条には

【日本書紀】
「二十五年春二月 天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。時に八十二歳であった。
 十二月五日、藍野陵に葬った。
 ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御と書いたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、『二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また、聞くところによると、日本の天皇、および皇太子、皇子みな死んでしまった』と。これによって言うと、辛亥の年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」

 とあります。しかし、残念ながら、継体天皇が死んでから今まで、千四百年以上にわたって後世の人々はこれを解決していません。

 この記事が実際に継体天皇の時だとすると、死んだ天皇とは、言うまでもなく「継体天皇」です。そして、死んだ皇太子、皇子ら全員というのは、素直に考えると継体天皇の子息、「安閑天皇」「宣化天皇」「欽明天皇」らということになります。
 そして、次の代が「敏達天皇」になる訳です。

 ただ、敏達天皇の兄弟、そして孫である舒明天皇までが、辻褄の合う縄文語解釈ができているというのはどういうことでしょうか。もし、民族が入れ替わるほどの革命的な事件が起こったのであれば、ここで使用言語が変わってもいいはずです。時間軸が矛盾しているような気がしますが、視点を変えるとすんなり解決できます。

 少々時代が降りますが、乙巳の変(645年)を見てみます。継体天皇の没年が辛亥だとすれば531年です。乙巳の変までは百年以上の開きがあります。

 乙巳の変は、大化の改新のきっかけとなった事件で、専横を極めた蘇我入鹿が、舒明天皇の皇子である中大兄皇子とその友人である中臣鎌子に暗殺された事件です。蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に火を放ち、自害しました。蘇我本家はここに滅びます。この時、天皇記はじめ、多くの書物が失われたと言われています。

 本当でしょうか?どうもきな臭いです。

 まだ、続きがあります。この乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された時、舒明天皇の第一皇子の古人大兄皇子が自宅に逃げ帰って言います。

韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。私は心が痛い」

 蘇我入鹿は「韓人」と対比の関係にあるので言うまでもなく「日本人」です。では、この「韓人」とはいったい誰か。奇を衒わずに読めば、実際に蘇我入鹿を切ったのは中大兄皇子とその仲間たちですから、中大兄皇子を指すとするのが妥当です。

 中大兄皇子は、舒明天皇の皇子ですから、古人大兄皇子の異母弟ということになります。中大兄皇子の母親は皇極天皇で、古人大兄皇子の母親は日本人の蘇我馬子の娘である蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)です。古人大兄皇子は蘇我入鹿とは従兄弟に当たります。
 ということは、古人大兄皇子の父親の舒明天皇と、古人大兄皇子本人も「韓人」と捉えることができ、

自分の身内である韓人側の人たちが罪を犯したので、自分も心が痛い」

 という主旨で言ったということになります。

 当時、蘇我氏は代々天皇に娘を嫁がせ、権力を握りました。蘇我氏の母親を持つ古人大兄皇子も即位を勧められますが、それを断り、出家して吉野に籠もります。しかし、結局は中大兄皇子に謀反の罪を着せられ殺されてしまいます。

 蘇我氏はいつから天皇家に娘を嫁がせていたのでしょうか。最初に記録に表れるのは欽明朝です。蘇我稲目が娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇に嫁がせていて、堅塩媛は用明天皇と推古天皇の母、小姉君は崇峻天皇の母になっています。

 余談ですが、蘇我稲目の父は蘇我高麗、祖父は蘇我韓子なので、蘇我氏が朝鮮半島系の渡来人だとする説がありますが、こういった漢字表記にこじつけた説ほど危ういものもありません。縄文語解釈では「高麗/狛=コ・マ=湾曲した川(地勢一致率7/7=100%)」(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)の意です。この解釈を採用すると、蘇我高麗とは、単に「湾曲した川沿いに住んでいた者」ということになります。「韓子」も「カ・コッ=回る、巻く・谷(曲がる川)」の意で、いずれも奈良県橿原市の「曽我町」の地勢を表しています。「曽我(蘇我)」は「サ・カ=湿地の・ほとり」、周辺の「真菅」は「マサカ=浜の草原の上」です。

 話を戻します。この蘇我稲目、欽明天皇の時代は、前述した「継体天皇とその皇子らが全滅した」時期にあたります。次代が「何かを隠している人」と縄文語解釈できる敏達天皇で、百済大井宮の人ですから、欽明天皇周辺の系譜も鵜呑みにすることはできません。

 古代人がしでかしている欠史八代系図のパズルのような組み替えを参考にすると(日本書紀のエラーコラム 第二十四回参照)、蘇我稲目が嫁がせたのは、革命を起こしたと思われる「敏達天皇」の可能性があります。敏達天皇の即位は、572年ですから、継体天皇が亡くなってから四十年の開きがあります。

 つまり、継体天皇とその皇子らが亡くなったのは、百済系渡来人である敏達天皇の勢力が王権を簒奪したためであり、その兄弟とされる用明天皇、崇峻天皇、推古天皇も、継体天皇との血縁はなかったのではないかということです。

 では、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父とされた欽明天皇とは一体誰なのか。欽明朝の大きな出来事としてあげられるのは、以下です。

・任那滅亡
・仏教公伝
・帝紀、旧辞の編纂


 ずいぶんと大きな出来事が起こっています。もし、革命が起きたというのであれば、欽明朝と捉えられなくもありません。継体天皇の死からこの辺りの年代の辻褄が合わないので、継体天皇の子の、「安閑天皇&宣化天皇」VS「欽明天皇」(辛亥の変)だったのではないかと捉える説があります。(喜田貞吉、林屋辰三郎)
 筆者もこの考え方に一部賛成ですが、少々異なります。

 欠史八代を神話として昇華させ、邪馬台国を隠蔽した日本書紀編纂者の手口を鑑みれば、彼らはあらゆる手を使って自らに不都合な歴史を消し去った可能性が高いと言えます。

 筆者の私見では、

●欽明天皇=敏達天皇

 です。

 つまり、欽明天皇は敏達天皇の分身ではないかと疑っているのです。欠史八代で言えば、神武天皇=崇神天皇のようなものです。一人の事績を分割して二人の天皇を登場させています。塩土老翁や武内宿禰が不自然に長命になっているのも、系図を組み替えたり、不要な人物を挿入したりして物語を創作した結果だと考えます。(※「日本書紀のエラーコラム〔増補版〕」第三十回参照)


 欽明天皇が創作された天皇ではないかと疑われる要素を並べてみます。

・和風諡号の「天国排開広庭天皇」が日本語で無理なく解釈できる。前後の天皇の和風諡号は辻褄の合う縄文語解釈が可能なので、欽明天皇だけが不自然である。
・日本書紀の欽明朝の記事が、百済と任那等、朝鮮半島情勢に偏り、日本国内の記事があまりにも少ない。
・任那滅亡、仏教公伝、帝紀・旧辞の編纂など、革命的な出来事が多い。
・蘇我氏が初めて天皇家に娘を嫁がせ、蘇我氏が権力を握る(蘇我氏が「欽明天皇=敏達天皇」を担いで革命を起こしたのではないか)。それが乙巳の変まで続く。
継体天皇とその皇子らが辛亥の年(五三一年)に全員死んだとすると、安閑、宣化、欽明朝は存在しない。敏達天皇は、継体天皇に接続する。
・敏達天皇の即位は五七二年で、継体天皇の死から約四十年の開きがある。革命を隠すためには、継体天皇とその皇子らが全滅してから敏達天皇即位までの間に創作物語を挟まなければならない。

 欽明天皇の事績を敏達天皇に置き換えて読むと、時代の流れが非常にスムーズになることが分かります。先々代の安閑天皇、先代の宣化天皇も、敏達天皇の事績を移植した内容が含まれているかもしれません。
 いずれにせよ、この時代の画期は、間違いなく欽明天皇(=敏達天皇)です。継体朝が皇子ともども滅び、別系統の欽明天皇(=敏達天皇)が即位しました。  

 しかし、ここではいきなり「縄文語(アイヌ語)⇒上代日本語」となることはありませんでした。なぜなら、天皇に娘を嫁がせて後ろ盾となっていた日本人の蘇我氏が実権を握っていたからです。そして、

●乙巳の変(皇極天皇)以降は、縄文語解釈が不可能

 になります。つまり、

●大化の改新とは、使用言語が「縄文語(アイヌ語)⇒上代日本語」に切り替わるほどの大革命だった

 ということになります。さらに、それは、

●天皇周辺の民族が日本人から百済系渡来人に変わった可能性

 も示しています。まさに、

●「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した!」

 ということになる訳です。


 最後にもう一つ。敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇、舒明天皇に「別系統の後継者」の意を含ませたのはいったい誰なのでしょうか。普通に考えれば、権力者に近い書記官が権力者を貶めるようなことを理由もなく書くとは思えません。

 この書記官は、敏達天皇(=欽明天皇)と蘇我氏が起こした革命を面白く思っていなかったのではないでしょうか。あるいは、創作物語で史実を隠蔽することが許せなかったのかもしれません。固有名詞が縄文語解釈可能ということは、先住民系の倭人か、あるいは縄文語が理解できる渡来人ということになります。
 この内容は欽明朝に編纂が開始された帝紀・旧辞に記載されていたのでしょうか。

 仮説としては、

●権力者は継体天皇系から敏達天皇系に変わったが、新しい権力者に従う者たちは許されて、彼らのために働かされた。しかし、少なくとも書記官の一人は面従腹背の状態だった。書記官は、天皇の諡号などの固有名詞の中に真実の歴史を盛り込み、後世の人々にその解読を託した。

 ということが考えられます。そして、その結果、

●記紀や風土記で渡来系古代人がいかに自らに都合の良い物語を創作しようとも、固有名詞の縄文語の意味までは気づかず、そのまま放置されてしまった

 ということになります。蘇我氏なども書記官が書く漢字を完全には読めなかったのではないでしょうか。当該書記官だけが理解できたとしなければ、この状況は生まれません。

 しかし、その縄文語のヒントが読み取れるのも数代の話で、乙巳の変で先住民系である蘇我氏本家が滅び、書物も焼かれ、新たに縄文語に無知な渡来系の書記官に代えられていく中で、固有名詞も含めて上代日本語にとって変わられてしまいました。

 もしかすると、縄文語で歴史解読のヒントを盛り込んだその書記官とは、たった一人の人物だったのかもしれません。権力者の意向に逆らう、まさに命がけの作業です。彼が書いた期間だけ、固有名詞に真実が眠っている。まるで炙り出しの文字のようです。

※日本書紀には「漢文の完成形に近いα群」と「倭習の強いβ群」に分ける区分論がありますが(【参考】「日本書紀の謎を解く」森博達 中央新書)、いずれにせよ縄文語(アイヌ語)ではないことは明らかなので、いわゆる区分論とは「百済系渡来人の漢文」か、あるいは「中国系渡来人の漢文」かの違いになると思います。筆者は中国語の素養がないので、齟齬があればご指摘いただければと思います。

 乙巳の変以降、公地公民、班田収受、国衙、税制、記紀・風土記編纂と、着々と日本支配の体制が整えられていきます。平城京や平安京は、残念ながら、日本古来の伝統文化と言うには少々無理があります。それらは間違いなく渡来文化をベースに発展したものです。現代で言えば、中華街や韓国人街の勢力が拡大し、その支配地域を広げていったということです。各地の国衙はもちろんのこと、記紀の疑わしい神々が活躍する神社仏閣も、その作業を補助する役割を担い、日本の伝統文化として現在まで続いています。
 記紀に登場する八百万の神々は、縄文語に充てられた適当な漢字をその表記から解釈したことにより生まれたデタラメ神様で、多くはもともと先住民の自然崇拝です。(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)

 日本書紀が本当に隠したかったこと、それは邪馬台国ではなく、敏達天皇から大化の改新に至るまでの「権力者周辺の民族、言語が入れ替わる大革命」だったのかもしれません。

 日本人とは何か。日本の歴史とは何か。日本の伝統文化とは何か。まっさらな頭で今一度考え直す必要があると思います。


▼▼▼歴代天皇の諡号と諱、陵所、古墳、皇居、各名称の関連性▼▼▼

※縄文語解釈の選択肢は多数ありますが、和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、古墳名、皇居、地勢、基本的にそれぞれの縄文語解釈の整合性がとれるものを採用し、他の関連の見当たらない単独の解釈は「?(不明)」扱いとします。解釈の確度が高くないものにも「?」を付加しています。
※古墳名については治定が正しいとは言い切れませんので参考程度です。


■第十五代 応神天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「川口、川尻」の地勢で一致。

【和風諡号】誉田(ほむた)
◎縄文語:「誉田」=「ホ・ウン・テュ」=「川尻・にある・岬」
or「誉田」=「ホ・テ」=「こぶの・腕」
or「ホ・タ」=「こぶの・塊」

【漢風諡号】応神天皇
◎縄文語:「応神」=「オ・ウン・シ」=「川尻・にある・山」

【陵所】惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)
◎縄文語:「惠我藻伏」=「エンコ・ノミ・プッ・テュ」=「岬を・祭る・川口の・岬」

 和風、漢風諡号と陵所の地勢が一致しています。周辺の古墳名を見ると、おしなべて、現在の大和川と石川の合流点周辺を「川尻/川口/川下」と呼んでいたようです。河内湖の岸辺だったのかもしれません。

「ボケ山=ホ・ケ・ヤマ=川尻の・ところの・山」
「墓山=パンケ・ヤマ=川下の・山」
「岡(ミサンザイ古墳)=オ・カ=川尻の・ほとり」

 日本書紀には「生まれながらにして腕に瘤がある」と記載されていますが、充てられた「誉」という漢字から「ホ=瘤」の意が発生し、物語が創作された可能性もあると考えます。元となった物語の創作時期次第です。

■第十六代 仁徳天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「岸の浜、低地」の地勢で一致。

【和風諡号】大鷦鷯(おほさざきのすめらみこと)
◎縄文語:「大鷦鷯」=「オオ・サン・チャ・ケ」=「大きな・平山の・岸・のところ」

【漢風諡号】仁徳天皇
◎縄文語:「仁徳」=「ニタッ・ケ」=「湿地・のところ」

【陵所】
・百舌鳥野陵(もずののみささぎ)/百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
◎縄文語:「百舌鳥野」=「モィ・チャ・ウン・ノッ」=「入り江の・岸・にある・岬」
 ◎縄文語:「百舌鳥耳原」=「モィ・チャ/メミ・ハ・ラ」=「入り江の・岸/その泉・水が引いた・低いところ」
※百舌鳥古墳群南の石津川河口が入江になっていた。
・大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)
◎縄文語:「大仙」=「オオ・サン」=「大きな・平山」

【皇居】難波高津宮
◎縄文語:「難波高津」=「ニナ・ワ/トンケ・チャ」=「ずっと続いている高台(上町台地)の・岸/沼(河内湖)の外れの・岸」


■第十七代 履中天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。

【和風諡号】去来穂別(いざほわけのすめらみこと)
◎縄文語:「去来穂」=「イ・チャ・ホ」=「その・岸の・尻」

【漢風諡号】履中天皇
◎縄文語:「履中」=「ラ・チャ」=「低いところの・岸」

【陵所】百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)
◎縄文語:「耳原」=「メミ・ハ・ラ」=「泉の・水が引いた・低いところ」

■第十八代 反正天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。

【和風諡号】多遅比瑞歯別(たじひのみつはわけのすめらみこと)
◎縄文語:「多遅比瑞歯」=「タン・チャ・ヘ/ムィ・チャ・パ」=「こちら・岸の・頭/入江の・岸の・頭」
※履中天皇が「尻」、反正天皇が「頭」で対比関係。

【漢風諡号】反正天皇
◎縄文語:「反正」=「ハー・チャ」=「水が引いた・岸」

【陵所】耳原陵(みみはらのみささぎ)
◎縄文語:「耳原」=「メミ・ハ・ラ」=「その泉・水が引いた・低いところ」

【古墳名】田出井山古墳
◎縄文語:「田出井山」=「タン・チャイ・ヤマ」=「こちら・岸の・山」

■第十九代 允恭天皇
※和風諡号と陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。
※漢風諡号と古墳名の縄文語解釈が「岬」の地勢で一致。

【和風諡号】雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)
◎縄文語:「雄朝津間稚子」=「オア・トマ・ワカ」=「川尻が群在する・湿地の・水」

【漢風諡号】允恭天皇
◎縄文語:「允恭」=「エンコ」=「岬」

【陵所】長野原陵(ながののはらのみささぎ)
◎縄文語:「長野原」=「ナィカ・ウン・ヌ・ラ」=「川岸・にある・野原の・低いところ」

【古墳名】市ノ山古墳(市野山古墳)
◎縄文語:「市野山」=「エテュノッ・ヤマ」=「岬の・山」

■第二十代 安康天皇
※和風諡号、漢風諡号、皇居の縄文語解釈が「川辺」の地勢で一致。

【和風諡号】穴穂(あなほのすめらみこと)
◎縄文語:「穴穂」=「アゥ・ナ・ホ」=「枝分かれた・方の・尻(岸辺)」

【漢風諡号】安康天皇
◎縄文語:「安康」=「アゥ・コッ」=「枝分かれた・窪地、谷」

【陵所】菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)
◎縄文語:「菅原伏見」=「シカ・ワ・ラ/ペッチャ」=「地面の・縁が・低地・川岸」
or「シカ・ワ・ラ/プッチャ」=「地面の・縁が・低地・川口の岸」
※宮内庁治定の宝来城跡では地勢が一致しない。

【皇居】石上穴穂宮
◎縄文語:「穴穂」=「アゥ・ナ・ホ」=「枝分かれた・方の・尻(岸辺)」

■第二十一代 雄略天皇
※和風諡号、漢風諡号、別称、陵所の縄文語解釈が「水が湧く低いところ」の地勢で一致。偶然か、皇居の地勢とも一致。

【和風諡号】大泊瀬幼武(おおはつせわかたけのすめらみこと)
◎縄文語:「大泊瀬幼武」=「オオ・ポッチェイ/ワッカエテュキ」=「大きな・ぬかるんだところ/水が湧いているところ」

【漢風諡号】雄略天皇
◎縄文語:「雄略」=「イ・オ・ラ・ケ」=「それが・群在する・低い・ところ」

【別称】獲加多支鹵大王 ※稲荷山古墳出土鉄剣
◎縄文語:「獲加多支鹵」=「ワッカエテュ・ラ」=「水が湧いている・低いところ」

【陵所】丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
◎縄文語:「丹比/高鷲原」=「タン・チャ・ヘ/テケウ・ハ・ラ」=「こちら・岸の・頭/飛び越えるような水辺の・水の引いた・低いところ」

【皇居】泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)
◎縄文語:「泊瀬朝倉」=「ポッチェ・アッチャケ・ラ」=「ぬかるんだ・対岸の・低いところ」
※伝承地には黒崎と岩坂がありますが、岩坂は山の中なので縄文語解釈とは一致しません。

■第二十二代 清寧天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「平山のほとりの低地」の地勢で一致。羽曳野丘陵のほとり。

【和風諡号】白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
◎縄文語:「白髪武広国押稚日本根子」=「シロケ/トンケ/シリ・コッネ・オソ・ワッカ/ヤ・ムンテュ/ナィ・カ」=「山裾/湖の尻/大地の・窪んだ・尻の・水/岸の・草むら/川・岸」

【漢風諡号】清寧天皇
◎縄文語:「清寧」=「ティネィ」=「湿地」

【陵所】河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)
◎縄文語:「坂門原」=「サン・カ・ト・ハ・ラ」=「平山の・ほとりの・湖の・水が引いた・低いところ」

【皇居】磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)
◎縄文語:「甕栗」=「ムィ・カッ・ク・ル」=「頂の・形が・弓の・岬」
=「香久山」=「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」

■第二十三代 顕宗天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「川口」の地勢で一致。
※別称、陵所の縄文語解釈が「祭場のある山」の地勢で一致。

【和風諡号】弘計(をけ)
◎縄文語:「弘計」=「ウォ・ケ」=「水の・ところ」

【漢風諡号】顕宗天皇
◎縄文語:「顕宗」=「クッチャ」=「川の入口」

【別称】<古事記>袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)
◎縄文語:「袁祁之石巣」=「ウォ・ケ/イウォ・シ」=「水の・ところ/祭場のある・山」

【陵所】傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)
◎縄文語:「傍丘磐坏」=「コッチャ・オ・ケ/イウォ・テュ」=「谷の入口の・尻の・ところ/祭場のある・小山」

【皇居】近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)
◎縄文語:「八釣」=「ヤ・シリ」?=「内陸の方の・山」

■第二十四代 仁賢天皇
※漢風諡号、陵所、古墳名の縄文語解釈が「川下、ぬかるんだところ」の地勢で一致。

【和風諡号】億計(おけ)
◎縄文語:「億計」=「オ・ケ」=「川下の・ところ」

【漢風諡号】仁賢天皇
◎縄文語:「仁賢」=「チゥ・ケ」=「水脈の・ところ」

【陵所】埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)
◎縄文語:「埴生坂本」=「パニ・ウン・サン・カ・ポッチェイ」=「川下・にある・平山の・ほとりが・ぬかるんだところ」

【古墳名】ボケ山古墳
◎縄文語:「ボケ山」=「ホ・ケ・ヤマ」=「川下の・ところの・山」

【皇居】石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)
◎縄文語:「広高」=「シ・オ・トンケ」=「山・裾の・湖沼の外れ」

■第二十五代 武烈天皇
※和風諡号と漢風諡号が「涸れた水流で一致」。
※和風諡号と陵所の縄文語解釈が「ぬかるんだところ」で一致。

【和風諡号】小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)
◎縄文語:「小泊瀬稚鷦鷯」=「オ・ポッチェイ/ワカ・エ・サッ・チゥ・ケ」=「川尻(川の合流点)の・ぬかるんだところ/水が・そこで・涸れている・水流・ところ」

【漢風諡号】武烈天皇
◎縄文語:「武烈」=「ぺ・エ・ラィ・チゥ」=「水が・そこで・死んでいる(水が流れずにたまっている)・水流」

【陵所】傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)
◎縄文語:「傍丘磐坏」=「コッチャ・オカ/イウォ・テュ」=「谷の入口の・跡/祭場のある・小山」


【皇居】泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)
◎縄文語:「泊瀬列城」=「ポッチェイ・ヌピ・ケ」=「ぬかるんだところの・野原の・ところ」

■第二十六代 継体天皇
※和風諡号、皇居の縄文語解釈が「川尻」の地勢で一致。
※陵所と皇居が「一方の川」で一致。

【和風諡号】男大迹(おおど)
◎縄文語:「男大迹」=「オホント」=「川尻」

【漢風諡号】継体天皇
◎縄文語:「継体」=「キタイ」=「てっぺん、山頂、上流?」

【別称】彦太尊(ひこふとのみこと)
◎縄文語:「彦太」=「ペンケ・ペト」=「上流の・川口」

【陵所】藍野陵(あいののみささぎ)
◎縄文語:「藍野」=「ア・ナィ」=「一方の・川」

※宮内庁治定の三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)の築造時期は5世紀の中頃なので時期が合わない。学会の定説は今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m 、6世紀前半)。縄文語解釈でも、「一方の」という対比表現あるので、近接する三嶋藍野陵よりも今城塚古墳の築造時期の方が新しいことが分かる。

【皇居】磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)
◎縄文語:「玉穂」=「タン・マ・ホ」=「こちらの・川の・尻」

■第二十七代 安閑天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「窪地」の地勢で一致。

【和風諡号】広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)
◎縄文語:「広国押武金日」=「シ・オ・コッネ・オシタケ/カンナイ」=「大地(国)の・そこで・窪んでいる・底のところ/上にあるところ」


【漢風諡号】安閑天皇
◎縄文語:「安閑」=「ア・コッ」=「一方の・窪地」

【諱】勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)
◎縄文語:「勾」=「マ・カリ」=「谷川を・巻く」(曲がった川)

【陵所】古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
◎縄文語:「古市高屋」=「ペ・チャ/ト・カ・ヤ」=「泉の・岸/湖沼の・ほとりの・岸」

【皇居】勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)
◎縄文語:「勾金橋」=「マ・カリ/カンナ・ハ・ウシ」=「谷川を・巻く(曲がった川)/上にある・水が引いた・ところ」

■第二十八代 宣化天皇
※和風諡号、陵所、諱の縄文語解釈が「湖沼の入り江」の地勢で一致。
※漢風諡号、諱、陵所、皇居が「平山、横山」の地勢で一致。

【和風諡号】武小広国押盾(たけをひろくにおしたて)
◎縄文語:「武小広国押盾」=「トンケ・オ/シ・オ・コッネ・オシタ・タ」=「沼のはずれの・尻/大地(国)の・そこで・窪んでいる・底の・方」

【漢風諡号】宣化天皇
◎縄文語:「宣化」=「坂」=「サン・カ」=「平山の・ほとり」 ※陵所名の一部。

【諱】檜隈高田(ひのくまのたかたのみこ)
◎縄文語:「檜隈/高田」=「ペナ・クマ/トンケ・チャ」=「上流の・横山/沼尻の・岸」

【陵所】身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵:むさのつきさかのえのみささぎ)
◎縄文語:「身狹桃花鳥坂上」=「モィサ・ノッケ/サン・カ・ナィェ」=「入江の隣の・岬/平山の・ほとりの・川」

【皇居】檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)
◎縄文語:「檜隈/廬入野」=「ペナ・クマ/イウォ・ヌ」=「上流の・横山/神の・野原」

■第三十代 欽明天皇
※欽明天皇は創作された天皇ではないかと疑っています。

【和風諡号】天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)
◎縄文語:「天国/排開/広庭」=「ア・コッネ・オソ/パラコッ/ピ・ナィェ」=「横たわっている・窪んだ・尻/広い谷/細い・川」?
=日本語で解釈可能

【漢風諡号】欽明天皇
◎縄文語:「欽明」=「クマ」=「横山」

【陵所】檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)
◎縄文語:「檜隈坂合」=「ペナ・クマ/サン・カィ・イ」=「上流の・横山/平山を・背負っている・ところ」

【皇居】磯城島金刺宮
◎縄文語:「金刺」=「カンナ・シ」=「上にある・山のそば」

■第三十代 敏達天皇
※和風諡号(日本書紀)と皇居(訳語田幸玉宮)が「国の端」の意で一致。                    
※和風諡号(古事記)、漢風諡号、皇居(訳語田幸玉宮)が「川口が涸れている水脈」の意で一致。

【和風諡号】
<日本書紀>渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)
◎縄文語:「渟中倉太珠敷」=「ヌィナ・ク/ペト・タ・モシ」=「隠している・人/川口を・切る・国の端」
<古事記(別名)>他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)
◎縄文語:「他田(訳語田)」=「オサッ・チゥ」=「川口が涸れている・水脈」

【漢風諡号】敏達天皇
◎縄文語:「敏達」=「プッチャ・チゥ」=「入口を欠く・水脈」

【陵所】磯長陵(しながのみささぎ)
◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【陵所他説】葉室塚古墳
◎縄文語:「葉室」=「ハオロ・イ」=「中にない・者」

【皇居】
・百済大井宮
◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「(川や湖沼の)入口が・多い・ところ」or「百済人が・多い・ところ」

・訳語田幸玉宮
◎縄文語:「訳語田/幸玉」=「オサッ・チゥ/サッ・コタンパ」=「川口が涸れている・水脈/涸れている・国の端」

■第三十一代 用明天皇
※和風諡号が先代の敏達天皇と「川口/川下を切る」の意で一致。
※漢風諡号が先代敏達天皇の「川口を欠く」、舒明天皇の「塞がっている」の意で一致。

【和風諡号】橘豊日(たちばなのとよひ)
 ◎縄文語:「橘豊日」=「タンチャ・パナ・タ・ヨピイ」=「こちら岸の(本国の)・川下を・切る・分かれた者(原義:それを捨て去った者)」

【漢風諡号】用明天皇
 ◎縄文語:「用明」=「ヤ・オ・ムー・イ」=「陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・ところ」
or「ヨピイ」=「分かれた者(原義:それを捨て去った者)」


【諱】池辺皇子
 ◎縄文語:「池辺」=「イカ・プ」?=「それを溢れる・者」
or「池辺」=日本語の「いけべ」=「池畔」

【陵所】河内磯長陵(しながのみささぎ)
 ◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【皇居】磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)
 ◎縄文語:「池辺雙槻」=「イカ・プ?/ナペ・チャ・ケ」=「それを溢れる・者/冷たい水の・岸の・ところ」
or「池辺」=日本語の「いけべ」=「池畔」

■第三十二代 崇峻天皇
※皇居と地勢が「湧水」で一致。
※諡号、陵所、地勢ともに共通する確度の高い解釈はありません。

【和風諡号】
<日本書紀>泊瀬部(はつせべ)
 ◎縄文語:「泊瀬部」=「ポッチェ・ペ」=「ぬかるんでいる・ところ」

<古事記>長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)
 ◎縄文語:「若雀」=「ワッカ・サッ・チゥ・ケ」?=「水が・涸れている・水脈の・ところ」

【漢風諡号】崇峻天皇
 ◎縄文語:「崇峻」=「サッ・チゥ」=「涸れている・水脈」

【陵所】倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
 ◎縄文語:「倉梯」=「ク・レン・シ」?=「人が・外国の・ところ」

【皇居】倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)
 ◎縄文語:「柴垣」=「ク・レン・シ/シプィ・カ・ケ」=「人が・外国の・ところ/湧き水の・ほとりの・ところ」

■第三十三代 推古天皇
※和風諡号と皇居が「湖岸」の地勢で一致。
※漢風諡号と諱が「涸れた川」の意で一致。

【和風諡号】豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
 ◎縄文語:「豊御食炊屋」=「トヤ・メ・ケ・ヤ」=「湖岸の・山の尾根の・ところの・岸」

【漢風諡号】推古天皇
 ◎縄文語:「推古」=「サッコッ」=「涸れた川」

【諱】額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
 ◎縄文語:「額田部」=「ナィコッ・タ・プ」=「涸れた川を・切る・者」or「涸れた川に・ある・者」

【陵所】磯長山田陵(科長大陵)
 ◎縄文語:「磯長山田」=「シナ・ケ/ヤ・オ・ムー・チゥ」=「中国の・ところ/陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・水流」

【古墳名】山田高塚古墳
 ◎縄文語:「山田高塚」=「ヤ・オ・ムー・チゥ/トンケ・テュ」=「陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・水流/湖のはずれの・小山」

【皇居】豊浦宮/小墾田宮
 ◎縄文語:「豊浦」=「トヤ・ウン・ラ」=「湖岸・にある・低いところ」
 ◎縄文語:「小墾田」=「オ・ハ・ル・チウェ」=「川口の・水が引いた・跡の・水流」

■第三十四代 舒明天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所(滑谷/押坂)が「川口が死んでいる/涸れている/塞がっている」の意で一致。

【和風諡号】息長足日広額(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
 ◎縄文語:「日広額」=「ペッパ・ナィコッ」=「川口の・涸れた沢」

【漢風諡号】舒明天皇
 ◎縄文語:「舒明」=「チウェ・ムー・イ」=「水脈が・塞がっている・者」

【諱】田村
 ◎縄文語:「田村」=「チウェ・ムー・」=「水脈が・塞がっている・跡」

【陵所】滑谷岡(なめはざまのおか)/押坂陵(おさかのみささぎ)
 ◎縄文語:「滑谷」=「ナペ・サマ」=「湧水の・ほとり」
 ◎縄文語:「押坂」=「オサッ・コッ」=「川口が涸れている・谷川」

【皇居】飛鳥岡本宮
 ◎縄文語:「飛鳥岡本」=「アゥ・チゥ・カ/オカ・エ・ムー・チゥ」=「枝分かれた・水脈の・ほとり/後が・そこで・塞がっている・水脈」

■第三十五代 皇極天皇
※漢風諡号と陵所が「山裾、丘」で地勢が一致。

【和風諡号】天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天豊財重日足」=「ア・トヤ/ト・カ・ラ/?(不明)」=「横たわっている・湖の岸/湖・岸の・低いところ」

【漢風諡号】皇極天皇
 ◎縄文語:「皇極」=「コッ・ウン・キ・オ・ケ」?=「窪地・にある・山・裾の・ところ」


【陵所】越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
 ◎縄文語:「越智/崗上」=「オ・チャ/?」=「川尻の・岸/」
※比定地は複数あります。(車木ケンノウ古墳/牽牛子塚古墳/岩屋山古墳/小谷古墳)。 これら古墳の地勢を考慮すると、「崗上=丘の上」で日本語と捉えることができます。

【皇居】飛鳥板蓋宮

■第三十六代 孝徳天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。陵所は、敏達天皇以来、大阪の磯長が多くなっています。

【和風諡号】天万豊日(あめのよろずのとよひのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天万豊日」=「?」

【漢風諡号】孝徳天皇
 ◎縄文語:「孝徳」=「コッ・ウン・ト」?=「窪地・にある・突起」

【諱】軽
 ◎縄文語:「軽」=「?(不明)」

【陵所】大阪磯長陵
 ◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【皇居】難波宮

■第三十七代 斉明天皇(第三十五代 皇極天皇 重祚)
※漢風諡号に妥当な解釈がありません。

【漢風諡号】斉明天皇
 ◎縄文語:「斉明」=「?(不明)」

■第三十八代 天智天皇
※漢風諡号と諱が「川口」で一致するも、確度が高いとは言えません。

【和風諡号】天命開別(あめみことひらかすわけのみこと)
 ◎縄文語:「天命開」=「?(不明)」

【漢風諡号】天智天皇
 ◎縄文語:「天智」=「タン・チャ」?=「こちらの・川口」

【諱】葛城
 ◎縄文語:「葛城」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口の・ところ」

【陵所】山科陵
 ◎縄文語:「山科」=「ヤマ・シナ」?=「山・中国」

【皇居】近江大津宮

■第三十九代 弘文天皇=大友皇子は割愛

■第四十代 天武天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。

【和風諡号】天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天渟中原瀛真人」=「?(不明)」

【漢風諡号】天武天皇
 ◎縄文語:「天武」=「?(不明)」

【諱】大海人(おおあま)
 ◎縄文語:「大海人」=「?(不明)」

【陵所】檜隈大内陵
 ◎縄文語:「檜隈大内」=「ぺナ・クマ/オオ・エテュ」?=「川上の・横山/大きな・岬」

【皇居】飛鳥浄御原宮

■第四十代 持統天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。

【和風諡号】大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
 ◎縄文語:「天之廣野」=「?(不明)」

【漢風諡号】持統天皇
 ◎縄文語:「持統」=「?(不明)」

【諱】鸕野讚良(うののさらら)
 ◎縄文語:「鸕野讚良」=「?(不明)」

【陵所】檜隈大内陵
 ◎縄文語:「檜隈大内」=「ぺナ・クマ/オオ・エテュ」?=「川上の・横山/大きな・岬」

【皇居】飛鳥浄御原宮

日出ずる国のエラーコラム
第九十一回 日本書紀の地名由来譚のウソをすべて暴く!
 今回は日本書紀に戻って日本書紀記載の残りの地名由来譚のウソを暴きます。

 風土記や記紀には漢字表記にこじつけた地名由来譚が無数に記載されていますが、日本神話も含め、これらの空想物語は大化の改新以後に創作されたものです。天皇の諡号関連が縄文語解釈不能になることから、縄文語(アイヌ語=日本先住民言語)と上代日本語の境界線は乙巳の変にあると考えられます。

 よって、日本書紀記載の固有名詞は、第三十四代舒明天皇までは縄文語で解釈できる可能性があります。このように書くと、乙巳の変のあった次代の皇極天皇の時に民族が入れ替わるほどの大革命があったように捉えられますが、実際に民族が入れ替わっているのは、第三十代敏達天皇からです。継体天皇とその皇子ら全員が死亡した際に王朝交代があります。詳しくは次回のコラムで解説します。

 なお、漢字表記にこじつけた地名由来譚は第二十一代雄略天皇までしかありません。

===第十代 崇神天皇天皇 武埴安彦(難升米)の反乱===  

 武埴安彦の反乱については、第九回コラムでも軽く取り上げましたが、今回はさらに突っ込んで調べてみます。
 筆者は武埴安彦を邪馬台国の大夫、難升米に比定しています。

◎縄文語:
・「難升米」=「ナィチャ・メ」=「川口の・池沼」
・(武)埴安彦=「パニ・ヤチ・シク」=「川下の・泥、湿地の・大夫」


 景初3年(239年)難升米は邪馬台国の使節として魏に渡り、率善中郎将の位を与えられています。また、正始6年(245年)には帯方郡の塞曹掾史張政が邪馬台国まで来て、魏の皇帝から預かった黄幢と詔書を難升米に手渡しています。

 邪馬台国と狗奴国の争いの中、戦死か寿命か不明ですが、卑弥呼は亡くなりました。私見では、その後、狗奴国王である第十代崇神天皇(=初代神武天皇)が大王の位に就こうとするのですが、国中が服さず、殺し合いが続きます。そして結局は、事態収拾のため、邪馬台国後継の女王に台与(大田田根子)が擁立されることになります。
魏志倭人伝に以下の記載があります。

【魏志倭人伝】
「卑弥呼以て死す。<中略>
更(か)わりて男王を立てるも国中服さず、更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復(また)卑弥呼の宗女を立て、年十三にして王となり、国中遂に定まる」

 筆者は、この「殺し合い」に「武埴安彦の反乱」が含まれていると考えます。「武埴安彦の反乱」について、日本書紀には以下のようにあります。

【日本書紀要約】
「四道将軍の大彦は、遠国の皇化のために北陸に派遣されたが、途中和珥坂(比定地:奈良県天理市和爾町)で崇神天皇の命が危ないという不吉な歌を少女から聞き、宮に引き返し報告する。
天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命が言うには、埴安彦が反乱する予兆が見られるという。
 しばらくすると、埴安彦と妻の吾田媛が軍を率いてやってきた。埴安彦は山背から、吾田媛は大阪から迫った。崇神天皇は、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)を大阪に遣わし、吾田媛の軍を討たせた。吾田媛は殺され、軍卒もことごとく斬られた。
 また、山背には大彦と和珥氏の祖である彦国葺(ひこくにぶく)を遣わし、埴安彦を討たせた。その時、奈良山に登って戦ったが、官軍が草木を踏みならしたので、その山を名づけて奈良山と呼んだ。
 それから和韓河(わからかわ)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取り、挑みあった。時の人は、その河を挑河(比定地:相楽郡水泉、現在の木津町)と呼んだ。今、泉河というのは訛ったのである。
 埴安彦は彦国葺の矢に射られ、殺された。部下たちはおびえて逃げたが、河の北で破り、半分以上首を切った。屍が溢れた。そこを名づけて羽振苑(はふりその/比定地:京都府相楽郡精華町祝園)という。
 また、その兵らが恐れ逃げるとき、屎が褌から漏れ、甲(よろい)を脱ぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知ると、頭を地につけて『我君(あぎ)』(我が君お許しください)といった。
 ときの人は、甲を脱いだところを伽和羅(かわら/比定地:京都府京田辺市河原里ノ内/伽和羅古戦場跡)という。褌から屎が落ちたところを屎褌(くそばかま)という。今、樟葉というのは訛ったのである。『我君』と言ったところは『我君(比定地:和伎/精華町祝園神社)』という」

 他の例を勘案すると、地名由来譚は確実にデタラメなので、まずは、その箇所を縄文語解釈と比定地の地勢を比較しながら検証していきたい思います。

◎縄文語:
・「奈良山」=「ナラ・ヤマ」=「山中の平地の・山」
=奈良盆地の山
・「和韓河」=「ワカルッケイ・ワ」=「洪水が起こるところの・岸」=木津川が湾曲しているところ
「泉(河)(挑河)」=「エテュ・メ」=「岬の・池沼」=木津町の地勢
・「祝園(羽振苑)」=「ポッチェ・ヌ」=「泥でどろどろしている・野原」=祝園(木津川が湾曲するところ)の地勢
・「伽和羅」=「カワ・ラ」=「岸辺の・低いところ」
・「樟葉」=「クソ・パ」=「対岸の・岬」=石清水八幡宮のある男山/木津川、宇治川、桂川の合流点
・「和伎(我君)」=「ワ・ケ」=「岸の・ところ」=祝園あたりの木津川の岸辺

 「奈良山」は考えるまでもありません。奈良盆地にある山という意味です。

 和韓河、泉河(挑河)の比定地は、現在の木津町。そして、羽振苑の比定地の祝園は、木津町の北方約3kmのところです。木津川が湾曲するこの辺りは、まさに頻繁に氾濫するような地勢です。完全に地勢と縄文語解釈が一致しています。

■泉河(挑河)の比定地の木津町
■羽振苑の比定地の祝園、祝園神社

===第十一代 垂仁天皇===

腰折田
【日本書紀要約】「垂仁天皇の命により、野見宿禰と当麻蹴速(たぎまのうえはや)が相撲をとった。野見宿禰は当麻蹴速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺した。勝者となった野見宿禰には蹴速の土地が与えられた。これがその土地に腰折田(山裾の折れ曲がった田)がある理由である」

◎縄文語:「腰折田」=「ク・オロ・チャ」=「対岸の・ところの・岸」
[比定地]香芝市磯壁/良福寺付近

 比定地には池がたくさんありますから、いずれかの岸ということです。言うまでもなく、折れ曲がった田などという意味ではありません。


■堕国/弟国(乙訓)
【日本書紀要約】「丹波から五人の女が後宮に入れられた。竹野媛だけが不器量だったので丹波に返された。竹野媛は恥じて葛野(かずの)で自ら輿から落ちて死んだ。その地を名づけて堕国という。弟国(乙訓)というのはなまったのである」

◎縄文語:「弟国(乙訓:おとくに)」=「オタ・オ・コッネ・イ」=「砂浜が・そこで・窪んでいる・ところ」
=砂浜の窪地(沓羅側西岸)
[比定地]京都府大山崎町付近


■鳥取
【日本書紀要約】「垂仁天皇の皇子、誉津別皇子(ほむつわけ の みこ)は三十歳になって鬚が生えても物を言わずに、幼子のように泣いてばかりいた。ところが、鵠を見て「これは何だ」と片言を発したため、天皇は鵠を見て物を言うことができたのだと喜んだ。そこで天湯河板挙に鵠を捕まえるように命を下した。天湯河板挙は出雲国(或る人が言うには但馬国)まで追いかけて鵠を捕獲した。
 1ヶ月後、天湯河板挙は天皇に鵠を献上した。誉津別皇子はその鵠とたわむれているうちに、言葉を話すことができるようになった。その報賞として、天湯河板挙は姓を与えられ、「鳥取造」と名乗った。あわせて、鳥取部・鳥養部・誉津部(ほむつべ)が定められた」(Wikipedia引用)」

◎縄文語:「鳥取」=「トント・リ」=「ハゲ地の・高台」=鳥取砂丘



===第十二代 景行天皇===

京都(郡)
【日本書紀要約】「豊前国長峡県(ながおのあがた)に行宮を築いて休んだ。そのところを名づけて京(みやこ)という」

◎縄文語:「京都(郡)」=「メ・ヤ・ケ」=「泉の・岸・のところ」

[比定地]福岡県京都郡


■碩田(おおきた)
【日本書紀要約】「その地形は広くて大きく美しい。よって碩田と名づけた」

◎縄文語:「碩田」=「オオ・ケィ・タ」=「大きな・頭の・石」
or=「オオ・ケィ・チャ」=「大きな・頭の・岸」
or=「オオ・ケィ・タ」=「大きな・頭の・そこ」
or=「オオ・キ・チャ」=「大きな・茅の・岸」

[比定地]大分県

 縄文語は国東半島を指しているとすればピッタリの表現です。


■海石榴市(つばきち)/血田(第七十八回コラム)
【日本書紀要約】「つばきの木とって槌に作り、これを武器にした。<中略>ことごとく土蜘蛛の仲間を殺した。血は流れて踝(くるぶし)までつかった。当時の人は、つばきの椎を作ったところを海石榴市といい、また、血が流れたところを血田といった」

◎縄文語:「海石榴市」=「チン・パケ・チャ」=「崖の・岬の・岸」

[比定地]大分県大野郡」

◎縄文語:「血田」=「チン・チャ」=「岩崖の・岸」

[比定地]大分県豊後大野市緒方町知田


 血田の地名に関連して、緒方川の下流、大野川と合流するところに「沈堕の滝」がありますが、これもまさに「崖の岸」で同語源です。

」‌‌‌
◎縄文語:「沈堕」=「チン・チャ」=「岩崖の・岸」



■踏石(ほみし)
【日本書紀要約】「天皇はうけいをして、「私が土蜘蛛を滅ぼす事が出来るなら、この石を蹴ったら、柏の葉のように空に舞いあがれ」と言って蹴った。すると石は柏の葉のように大空に上がった。それでその石を名づけて踏石という」

◎縄文語:「踏(石)」=「ホ・イソ」=「こぶの・海中の平岩」

[比定地]帝踏石(〒800-0233 福岡県北九州市小倉南区朽網西2丁目30)


■日向国
【日本書紀要約】「景行天皇は子湯(こゆ)県に行幸し、丹裳(にもの)小野に遊び、東方を望んで側の者に言った。「この国の地形は、まっすぐに日の出る方に向いている」と。それでその国を名づけて日向国という。
」‌‌‌
◎縄文語:「日向」=「プッ・カ」=「川口の・ほとり」

[比定地]宮崎県児湯郡


■水島
【日本書紀要約】「景行天皇が九州を巡幸し芦北の小島で休息して食事をしようとした折、水が無かったため小左と申す者が天地の神々に祈ったところ、冷水が湧き出し天皇に献上できた。故にここを「水島」と呼ぶ」(Wikipedia引用)

◎縄文語:「水島」=「ミンタ・スマ」=「祭場の・岩」
[比定地]熊本県


■火国(肥国)
【日本書紀要約】「景行天皇は不知火(しらぬひ)に導かれて、八代県(やつしろのあがた)の豊村に上陸することができたことから、その国を「火の国」と名づけた」(日本大百科全書(ニッポニカ)引用)

◎縄文語:「火」=「ピ」=「石ころ」

[比定地]熊本県

⇒google 検索(阿蘇山 石岩)


■阿蘇国
【日本書紀要約】「景行天皇18年6月16日条に《阿蘇の国に来られた。その国の野原はひろく、遠くまで人が住んでいる気配はまったく無い。そこで天皇はおっしゃられた。「この国には人は居ないのだろうか」そのとき、阿蘇津彦(アソツヒコ)・阿蘇津姫(アソツヒメ)の二神が人の姿になって現れ「われら二人あり、何ぞ人無しとおっしゃられるのです」と言われた」(阿蘇ペディア引用)」

◎縄文語:「阿蘇」=「アソ」=「断崖」

[比定地]阿蘇


■御木国
【日本書紀要約】「(景行天皇が)秋七月四日、筑紫後国の三毛に着いて、高田の行宮に入った。時に倒れた樹木があり、長さ九百七十丈。役人たちは皆その樹を踏んで往来した。<中略>天皇@はこれは何の樹かと尋ねた。一人の老夫が言う。「これは歴木(くぬぎ)といいます。以前まだ倒れていないときは、朝日の光に照らされて、杵嶋山(きしまのやま)を隠すほどでした。夕日の光に照らされると、阿蘇山を隠すほどでした」と。天皇は「この樹は神木である。この国を御木国と呼ぼう」」

◎縄文語:「御木」=「メ・ケ」=「泉の・ところ」

[比定地]福岡県三池



■八女国
【日本書紀要約】「(景行天皇が)『その山の峯は、幾重も重なって大変うるわしい。きっと神がその山におられるだろう』と言った。ときに水沼県主猿大海が申し上げるには『女神がおられます。名を八女津媛といいます。常に山の中においでです』と。それで八女国の名がこれから起こった」

◎縄文語:「八女」=「ヤ・メ」=「冷たい・泉(or古い小川)」
or「ヤ・ぺ」=「冷たい・水」

[比定地]八女津媛神社

日本書紀の内容は間違いなくデタラメですから、本当に八女津媛神社が八女の起源かどうかも疑わしいです。



■的邑(浮羽)
【日本書紀要約】「八月、的邑(いくはのむら)に着いて食事をした。この日食前掛が盞(うき:酒杯)を忘れた。当時の人はその盞を忘れたところを名づけて浮羽といった。今「的(いくは)」というのはなまったのである。むかし筑紫の人々は、盞を浮羽と言った」

◎縄文語:「的(浮羽)」=「エンコ・パ」=「岬の・上手」
[比定地]うきは市



■焼津/草薙
【日本書紀要約】「日本武尊が焼津の賊が野に火を放った時、天叢雲剣(伊勢神宮の倭媛命から授けられた)で草をなぎ払い、難を逃れた。その剣を名づけて草薙という。賊を焼き殺した滅ぼしたところを名づけて焼津という」

◎縄文語:「草薙」=「ケル・ナウケ」=「ピカピカ光る・木かぎ」=鉄剣、銅剣」

◎縄文語:「焼津」=「イェー・チャ」=「岩の・岸」=大崩海岸
[比定地]焼津


 ちなみに、古事記には「相武国」とありますが、相模国の誤記ではないかとされています。

◎縄文語:「相武」=「スオ」=「断崖絶壁の岩盤の川床」=大崩海岸

 「スオ」はアイヌ語では一般的に「断崖の川の地勢」を指すようですが、原義が「箱」の意なので、大崩海岸のような海際の地勢を指して表現したとしても不自然ではありません。



■馳水(走水)
【日本書紀要約】「日本武尊の妃の弟橘姫が海に身投げしたので、海が鎮まり舟が無事岸に着いた。ときの人は、その海を名づけて馳水という。


◎縄文語:「走水」=「パ・シ・ウン・モィ・チャ」=「岬の・山・にある・入り江の・岸」
[比定地]横須賀市走水


■吾嬬(吾妻)
【日本書紀要約】「日本武尊が碓井峠で海に身を投げた弟橘姫を思い出し、「ああ、吾が嬬よ」と言ったので、碓日の嶺より東の諸国を吾嬬という」

◎縄文語:「吾妻」=「アケ・テュ・マ」=「片割れの・峰の・川(断崖絶壁の川)」
[比定地]碓氷峠

 碓氷峠の榛名山を挟んで北方には吾妻川があります。吾妻川沿いには急峻な地形が連続して現れます。縄文語は特に嬬恋あたりを指したのではないかと思います。
因みに、「ア」だけでも「片割れ」の意味を表しますから、「アヅマ」の読みであっても「アッ(音便)・テュ・マ」で同じ意味となります。


■居醒井
【日本書紀要約】「日本武尊は伊吹山の神の雹や霧から抜けだし、醒井の地で泉の水を飲み気持ちが醒めた。それでその泉を居醒井という」

◎縄文語:「居醒井」=「エン・サ・ケィ」=「隣の・頭(岬)」
[比定地]兜黛山

 居醒井は残念ながら井戸ではありません。居醒の清水対岸にある兜黛山(かぶと山)のことです。

‌◎縄文語:「かぶと」=「カィポ・ト」=「波打ち際の・突起」



■白鳥陵

【日本書紀要約】「日本武尊は伊勢国の能褒野で亡くなり、陵に葬られたが、白鳥に化けてヤマトに向かって飛んだ。そして大和国琴弾原にとどまり、そこに陵を造った。さらに白鳥となって河内国旧市邑にとどまったので、そこにも陵を造った。当時の人はこの三つの陵を白鳥陵と言った」

◎縄文語:「白鳥」=「シ(・オ)・タオリ」=「山の(・裾の)・川岸の高所」
[比定地]大和国琴弾原:奈良県御所市冨田/河内国旧市邑:大阪府羽曳野市軽里


 大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)は国見山の麓、河内国旧市邑(大阪府羽曳野市軽里)は羽曳野丘陵の麓。
 能褒野の陵は比定地が複数ありますが、日本武尊自体創作された人物の可能性が高いので、墓を定める行為自体矛盾しています。これら白鳥の物語は、すでに存在していた「白鳥」という古墳の名称にこじつけて創作されたものと思われるので、能褒野の陵は「白鳥塚」とする以外なく、白鳥の物語をもとに「丁子塚」にする理由はありません。
 これらの物語の創作は日本書紀編纂時(※縄文語と上代日本語の境界は大化の改新)にまで降る可能性があるので、創作時に「白鳥」を冠する古墳がすでに複数存在していても何ら不思議はない訳です。

 「白」は頻繁に地名に登場する文字で、「塩」「将」「城」「親王」「新皇」などとともに「シ・オ=山裾」の縄文語に充てられることが多い文字です。これらの文字を冠する古墳は各地にありますが、その立地が「山裾」の割合は、27/28=96.4%です。(※縄文語地勢一致率一覧PDF参照)
 また、白浜は「山裾の浜」を指します。因幡の白兎も「シ・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜・のところ」で白兎海岸のことです。大国主神と兎の物語はもちろん漢字表記にこじつけた創作です。(※日出ずる国のエラーコラム総集編NO.6参照)

===第十三代 成務天皇===
なし
===第十四代 仲哀天皇===

■伊都国
【日本書紀要約】「筑紫の伊覩縣主の祖の五十迹手が、天皇がおいでになると聞いて、大きな賢木を抜き、船の舳艫に立て、上枝に八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣を掛け、穴門の引嶋(彦島)まで迎えた。そして奏上するには「手前がこれらを献上します訳は、この八尺瓊の曲がっているように、上手に天下を治め、また、白銅鏡の様にあきらかに山川海原をご覧いただき、十握剣をひっさげて天下を平定していただきたいからであります」と。天皇は五十迹手をほめて「伊蘇志」とおっしゃった。時の人は五十迹手の本国を名づけて伊蘇国といった。いま伊都というのはなまったのである」

◎縄文語:「伊都」=「エテュ」=「岬」
[比定地]糸島半島

 伊豆と同語源です。言うまでもなく、日本書紀の伊都国名の由来はウソです。


===神功皇后===

■栲衾新羅国(新羅)
【日本書紀要約】「どうして、熊襲が服従しないことを憂うのか?<中略>この国よりも勝って宝のある国、例えば処女のように海上に見える国がある。目にまばゆい金・銀・彩色などがたくさんある。これを栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)という。もし自分を祀れば、刃を血に濡らさないで、その国はきっと服従するだろう。また熊襲も従うだろう」

◎縄文語:「栲衾新羅国」=「ト・プ・スマ・シロケ」=「突起した・倉の形の・岩の・山裾」
=耶馬溪の麓という意か。

 神功皇后の新羅征伐に関して、新羅は本当に朝鮮半島の新羅かどうかも怪しく見えます。もしかすると、筆者がスサノオの故地に比定した国東半島の麓のことかもしれません。

※スサノオ=オオワタツミ
◎縄文語:「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「大きな・険しい・石の・岬の・入り江」=国東半島のふもと


 とすれば、仲哀天皇との論争は、熊襲を討つか、豊国を討つかの争いだったことになります。非常に現実的です。


■御笠

【日本書紀要約】「神功皇后は、荷持田村の羽白熊鷲を征伐するために香椎宮から松峡宮に移った。そのときつむじ風がにわかに吹いて、御笠が吹き飛ばされた。ときの人はそこを名づけて「御笠」といった」

◎縄文語:「御笠」=「メカ・サン」=「山の尾根の・平山」
[比定地]筑紫野市、大野城市、太宰府市(旧御笠郡)

 大野城のある四王寺山とすれば縄文語解釈ピッタリの地勢です。


■安
【日本書紀要約】「二十日、層増岐野にいき、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。そばの人に「熊鷲を取って心安らかになった」と言った。それでそこを名づけて安という」

◎縄文語:「安」=「ヤウン・シ」=「本国人の・土地」

[比定地]福岡県飯塚市、朝倉市、朝倉郡筑前町(旧夜須郡)

 縄文語の「ヤウン・シ」と同様の解釈が可能な例がほかにもあります。

 まずは、宮崎の弥五郎塚、宮崎と鹿児島の弥五郎伝説。

◎縄文語:「弥五郎(塚)」=「ヤウンク(・テュ)」=「本国人(の小山)」

 そして、日本書紀のスサノオの歌、出雲国風土記に登場する「八雲立つ出雲」。

◎縄文語:「八雲立つ出雲」=「ヤウンク・モィ・テューテュ/エテュ・モィ」=「本国人の・入り江の・岬/岬の・入り江」

 と解釈でき、すでに多くの渡来人がいたことを物語っています。たくさん雲が出るなどという意味ではありません。


■松浦(末盧)国
【日本書紀要約】「神功皇后が『鮎が釣れて珍しいものだ』と言った。ときの人は名づけて梅頭羅国(めずらの国)と言った。今は松浦というのはなまったのである。
」‌‌‌
◎縄文語:「松浦(末盧)」=「モィ・チャ」国=「入り江の・入口」の国
[比定地]佐賀県唐津市


■裂田の溝(さくたのうなで)
【日本書紀要約】「那珂川の水をひいて、神田に入れようと思い、溝を掘った。迹驚岡(とどろきのおか)に及んで、大きな岩で塞がっていて溝を通すことができなかった。神功皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせて溝を通すことを求めた。その時急に雷が激しくなり、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。時の人はそれを名付けて裂田の溝といった」

◎縄文語:「裂田の溝」=「サッコッ・タ・アン・ウッナィ・チウェ」=「涸れた谷・に・ある・枝川の・水流」

[比定地]裂田の溝(福岡県那珂川市)

 発音、地勢が完全一致しています。


■宇瀰
【日本書紀要約】「神功皇后が新羅より還られた。十二月十四日誉田天皇(応神天皇)を筑紫の蚊田に生んだ。時の人はその産所を名づけて宇瀰といった」

◎縄文語:「宇瀰」=「ウッ・ムィェ」=「枝分かれた・山頂」
[比定地]福岡県糟屋郡宇美町


■逢坂
【日本書紀要約】「武内宿禰は精兵を出して忍熊王を追った。近江の逢坂で追いついて破った。それでそこを名づけて逢坂という」

◎縄文語:「逢坂」=「オ・ウン・サン・カ」=「(琵琶湖の)尻・にある・平山の・上(orほとり)」
[比定地]滋賀県大津市逢坂

===第十五代 応神天皇===

■誉田天皇
【日本書紀要約】「生まれた時に、腕の上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆(ほんだ=弓を射た時、反動で弦が左臂に当たるので、それを防ぐためはめる皮の防具)のようであった。これは皇太后(神功皇后)が男装して、鞆をつけたのに似たのであろう。それでその名を称えて誉田天皇というのである。
 上古の人は弓の鞆のことを「ほむた」といった」

◎縄文語:「誉田」=「ホ・テ」=「こぶの・腕」
or「ホ・タ」=「こぶの・塊」
or「ホ・ウン・テュ」=「川尻・にある・岬」
=大和川と石川の合流点(応神天皇陵の地勢)

※応神天皇については、次項の第九十二回コラムで詳説しています。


■韓人池(からひとのいけ)

【日本書紀要約】「高麗人・百済人・任那人・新羅人が来朝した。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を率いて池を作らせた。よってその池を名づけて韓人池という」

◎縄文語:「韓人」=「コッ・ラ・ポッチェイ」=「窪地の・低い土地が・ぬかるんだところ」
[比定地]唐古池(奈良県磯城郡田原本町)
‌‌
◎縄文語:「唐古」=「コッ・ラ・ケ」=「窪地の・低い・ところ」



■鹿子水門(カコノミナト)
【日本書紀要約】「日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)は朝廷に仕えて老齢となり、仕えられなくなったので本国に帰った。そして娘の髪長媛を献上した。それで播磨に到着した。天皇は淡路島に来て狩をしていた。西の方を見ると、数十の大鹿が海に浮いて来て、そ播磨の加古の港に入った。天皇は左右に「あれはどういう大鹿だろう?大海に浮かんで沢山来ているが」といった。左右の者も怪しんで使者をやって調べさせると、みな人だった。ただ角のついた鹿皮を着物としていたのである。「何者か?」というと答えて「諸県君牛です。年老いて宮仕えができなくなりましたが、朝廷を忘れることが出来ず、それで私の娘の髪長媛を献上します」と。天皇は喜んで宮仕えさせた。それで時の人は、その岸に着いたところを名付けて鹿子水門といった。およそ水手(ふなこ)を鹿子と言うのは、このとき初めて起こった」

◎縄文語:「賀古」=「カッ・ク」=「形が・弓(の山)」=日岡山
[比定地]加古川河口

 比定地は加古川河口ですが、縄文語解釈では日岡山となります。鹿皮を着た人が泳いでいるなど史実であるはずがありません。普通に考えて水を吸収して溺れます。
 播磨国風土記の賀古郡の条にも鹿にまつわる話がありますが、これももちろん創作です。


===第十六代 仁徳天皇===

■茨田堤/強頸断間(こわくびのたえま)/杉子断間(ころものこのたえま)
【日本書紀要約】「茨田堤の築造の際に築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった。天皇が夢を見た。神が現れて教えて言うには、「武蔵野の人強頸と河内の人茨田連杉子の二人を河伯(かわのかみ)に奉ればきっと防ぐことができるだろう」と。それで二人を探し求めて得られた。そこで河伯に人身御供した。強頸は泣き悲しんで水に入れられた。その堤は完成した。<中略/要約:杉子は機転を利かせたヒサゴの占いの言い訳で人身御供を逃れたが、堤は完成した>時の人はその二か所を名付けて、それぞれ強頸断間、杉子断間といった」

◎縄文語:
「茨田堤」=「マーテュ・ウン・テューテュ・ムィェ」=「波打ち際・にある・岬の・頂」
「強頸断間」=「コッ・ワ・アン・クパイ/テュンマ」=「窪地(湖)・に・ある・舟で渡す(通路の)ところ/間の谷」
[比定地]大阪市旭区千林町
「杉子断間」=「カ・モ・コッ/テュンマ」=「回る・ゆるやかな・谷/間の谷」
[比定地]寝屋川市太間

 この時代は邪馬台国を継いだ台与の時代にあたります。武内宿禰は第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇まで仕えていますが、これは古代人の物語の創作のために、一人の一生が超人的に長くなってしまったものだと考えます。このような例は、葉江、塩土老翁など、神話周辺にも存在します。(詳しくは第三十回コラム参照)

 つまり、少なくともこの周辺の時代の出来事は、邪馬台国隠蔽の役割を担わされているため、必然的に創作色が強いものになっている可能性が高いということです。この茨田堤もどれだけ史実に近いものかは不明です。台与の事績であっても何ら不思議はありません。


■柏済/葉済(かしわのわたり)
【日本書紀要約】「<要約:仁徳天皇は八田皇女を妃に迎えることを皇后の磐之媛から許可を得ようとしたが、皇后は頑として許さなかった。しかし、皇后が紀国に行った隙に、天皇は八田皇女を大宮に入れた。>
 皇后は難波の渡りにつき、天皇が八田皇女を召したと聞き、大いに恨んだ。そして熊野岬で採ってきた三つ柏を海に投げ入れて、岸に止まらなかった。それで時の人は柏を散らした海を名づけて葉済(かしわのわたり)と言った。<後略>」

◎縄文語:「柏済/葉済」=「ク・ワ」=「対岸の・岸」
or「カス・ワ」=「川を渡る・岸」
or「コッチャ・ワ」=「谷の入口の・岸」
[比定地]淀川河口

 柏を散らしたのか、対岸や川岸を指したのか、常識的に考えれば、縄文語解釈の方に妥当性があります。つまり、この物語も縄文語の地名にこじつけて創作された可能性が高いということになります。どこまで創作かが問題となります。


■玉代(たまて)
【日本書紀要約】「<要約:仁徳天皇の異母兄弟の隼別皇子は、天皇が后に迎えようとした雌鳥皇女を横取りした。隼別皇子が天皇をあざけっていることを耳にした天皇は、皇子と皇女を吉備品遅部雄鯽(きびのほむちべのおふな)、播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさえきのあたい あがのこ)に追わせて殺させた。八田皇女は使者の二人に「雌鳥皇女が身につけている足玉や手玉を取ってはいけない」と言った。二人は皇子と皇女を宇陀で逃すが、伊勢の蒋代野(こもしろのの)で追いつき殺した。二人は皇女の玉を裳の中に見つけた。二人は王子を埋葬して復命した。
 この年、新嘗祭の月に宴会があった。近江山君稚守山(おうみのやまのきみわかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさかのひめ)の手にあった良い珠が、雌鳥皇女の珠に似ていた。湯悪人に調べさせると、佐伯直阿俄能胡の妻の玉だと答えた。阿俄能湖は自分がとったことを白状して、殺されるところだったが、代わりに自分の土地を差し出して、資材を逃れた。それでその地を名付けて玉代と言った>」

◎縄文語:「玉代」=「タン・マ・タィ」=「こちらの・谷川の・林」
or「タン・マ・チャ」=こちらの・谷川の・岸」
[比定地]奈良県御所市玉手

 これも「玉代」の表記から創作された物語とする方が妥当です。


■鷹飼邑
【日本書紀要約】「<要約:四十三年秋九月一日、依網(よきみ)の屯倉の阿弭古(あびこ)が変わった鳥を捕まえて天皇に奉った。天皇が百済の王族である酒君をよんで、何の鳥かと尋ねた。酒君は、「百済にはこの鳥がたくさんいて、馴らすと人によく従い、早く飛んでいろいろな鳥を取ります。百済では倶知(くち)といいます」と言った。これは今の鷹である。酒君に授けて養わせたが、いくらも経たぬうちに馴れ、天皇に奉った。この日百舌鳥野で鷹狩りをして雉を数十羽得た。この月はじめて鷹甘部(たかかいべ)を定めて。時の人はその鷹を飼うところを名づけて鷹飼邑といった>」

◎縄文語:「鷹飼」=「テ・エ・カィ・イ」=「浦の手が・そこで・折れ曲がっている・ところ」

[比定地]旧鷹合村(大阪府大阪市東住吉区鷹合)

 縄文語解釈は、上町台地(河内湖の半島)が折れ曲がっている様子を表しています。

 河内も縄文語解釈すると、

◎縄文語:「河内」=「カィ・ワ・テュ」=「折れ曲がっている・岸の・岬」

 となり、鷹飼の解釈と一致します。つまり、この鷹匠の物語も縄文語の漢字表記にこじつけて創作された可能性が高いということになります。


■百舌鳥耳原(もずのみみはら)
【日本書紀要約】「六十七年冬十月五日、河内の石津原に出向き、陵地を定めた。十八日に陵を築いた。この日、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民の中に入り、倒れ死んだ。その急に死んだのを怪しんで傷を探した。百舌鳥が耳から出てきて飛び去った。耳の中を見るとことごとく食いかじられていた。それでそこを百舌鳥耳原というのは、このいわれによるのである」

◎縄文語:「百舌鳥耳原」=「モィ・チャ/メミ・ハ・ラ」=「入り江の・岸/その泉・水が引いた・低いところ」

[比定地]大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵/仁徳天皇陵)

 かつては石津川の河口に海が大きく入り込んでいました。


■県守淵
【日本書紀要約】「<要約:吉備の中国の川嶋河(現高梁川)の川俣に竜がいて、人々を苦しめたいた。笠臣の祖である県守が川にヒサゴを浮かべて竜に言った。「おまえがヒサゴを沈めたら自分が逃げるが、沈めることができなければおまえを斬る」と。竜は鹿になって沈めようとしたが沈まなかった。県守は川に入り、竜とその仲間をことごとく斬った。そこを名づけて県守淵という>」

◎縄文語:「県守」=「ア・コッ・タ・モ・ル/ハッタ」=「一方の・谷・にある・小さな・岬/淵」

[比定地]比定地は不明も、川嶋ノ宮八幡神社の略記に記載あり

 縄文語はかつての高梨川が東西に分岐して流れていたことを表しています。西は柳井原貯水池を通り、現高梨川の流路を辿り、東は川島八幡神社前の谷を過ぎて南流していました。つまり、高梨川の東西いずれかの谷の地勢を指しているということです。竜の物語は関係ありません。


===第十七代 履中天皇===

■磐余稚桜宮
【日本書紀要約】「<要約:三年冬十一月六日、天皇は両股船を磐余の市磯池に浮かべた。酒の杯に桜の花びらが散った。物部長真胆連に調べさせると、掖上の室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とした。磐余稚桜宮というのはこれがそのもとである。>」

◎縄文語:「桜」=「サンケ・ラ」=「平山(or出崎)の・低いところ」

[比定地]履中天皇磐余稚桜宮跡、履中天皇磐余稚桜宮跡伝承地


===第十九代 允恭天皇===

■なのりそ藻
(ホンダワラ科の海藻)
【日本書紀要約】「(河内の茅渟に住まわされていた衣通郎姫は天皇がまれにしか来ないので、その寂しさを歌に詠んだ)天皇は衣通郎姫(そとおしのいらつめ)に「この歌を他人に聞かせないように、皇后(衣通郎姫の実姉)が聞いたら大いに恨まれるから」と言われた。それで時の人は、浜藻を名づけて「なのりそ藻(人に告げるな)」といった」
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◎縄文語:「なのりそ藻」=「ナヌ・リ・ソマ」=「その顔・高くする・シダ」


 「ソマ」はシダ植物のことですが、厳密に使い分けしていた訳ではないと思うので、似た形状の植物のことも同じ名で呼んだのではないでしょうか。

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===第二十一代 雄略天皇===

■蜻蛉野(あきつの)
【日本書紀要約】「四年秋八月十八日、吉野宮においでになった。二十日に河上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出させた。自分で射ようとして構えていると、虻が飛んできて天皇の臂を噛んだ。そこへ蜻蛉が急に飛んできて、虻を咥えて飛び去った。天皇は蜻蛉に心があることをほめて、群臣に詔して蜻蛉を褒める歌を詠ませた。<中略>よって蜻蛉をほめて、この地を名づけて蜻蛉野という」
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◎縄文語:「蜻蛉野」=「アケ・チゥヌ・イ」=「一方の・流れ出る・ところ」

[比定地]蜻蛉の滝周辺(奈良県吉野郡川上村西河)

 縄文語解釈のとおりの地勢です。吉野川支流の滝。


■道小野(みちのおの)
【日本書紀要約】「六年春二月四日、天皇は泊瀬(はつせ)のこのに遊んだ。山野の地形をご覧になり、深く感銘を受け、歌を詠んだ。
 『泊瀬の山は、体制の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、なんとも言えず美しい。なんとも言えず美しい』
 そこで小野を名づけて、道小野といった」
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◎縄文語:「道小野」=「メトッ・オ・ノッ」=「山奥が・たくさんある・岬」

[比定地]奈良県桜井市初瀬


■雷(いかづち)(=三輪山)
【日本書紀要約】「<要約:七年秋七月三日、天皇は少子部連スガルに三輪山の神を捕まえてくるよう命じた。スガルは三輪山から大蛇を捕まえてきて天皇に見せた。天皇は斎戒しなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れて見ることができず、殿中に隠れた。そして大蛇を岳に放たせた。あらためてその岳に『雷』の名を賜った」

◎縄文語:「雷」=「エカィ・テューテュ」=「山頂が平らな・岬」

[比定地]三輪山


これはかなり縄文語の解釈確度が高いと言えます。「テューテュ=岬」」には「ツチ」や「ツツ」の読みの漢字が充てられることが多いようです。アシナヅチ、テナヅチ、タケハヅチ、カグツチ、塩土老翁、底筒男、中筒男、表筒男などの神名、人名のほか、地名にも数多く登場します。


■甲斐の黒駒
【日本書紀要約】「<要約:秋九月、天皇が工匠の猪名部真根(いなべのまね)に「(石を台にして斧で材を切る時に)誤って石にあてることがないのか」と問うた。真根は「決して誤ることはありません」と答えたが、天皇が采女に着物を脱がせて、ふんどし一つで皆の前で相撲をとらせると、気を奪われ斧を台石に当てて刀を傷つけた。
 天皇は責めて刑吏に渡し、野で処刑しようとしたが、工匠の同僚が詠んだ嘆きの歌を聞いて後悔した。天皇は赦免の使いを甲斐の黒駒に乗せて走らせ、刑を許した。>」

◎縄文語:「黒駒」=「キ・オ・ウン・コ・マ」=「山・裾・にある・湾曲した・川」

[比定地]八ヶ岳南麓の湾曲する河川か

 黒駒に関しては全国の「黒駒」、および「駒」を関する地名の地勢とともに検証しています。詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]No.13」をご覧ください。

【統計】「黒駒」「駒」の地名が「湾曲した川」の地勢と一致する確率。
1)「黒駒」が「湾曲した川」の確率=5/6=83.3%
2)「駒」が「湾曲した川」の確率=80/91=87.9%
1)+2)=85/97=87.6%
(※地名は郵便番号一覧からサンプル抽出)


■呉坂
【日本書紀要約】「十四年春一月十三日、身狭村主青(むさのすくりあお)らは、呉国の使いとともに、呉が献った手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)と衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛らを率いて住吉津(すみのえ)の津に泊まった。この月に呉の来朝者のために道を造って磯歯津路(しはつのみち)に通じさせた。これを呉坂と名づけた」

◎縄文語:「呉坂」=「キ・オ・ウン・サ・カ」=「山・裾・にある・浜の・ほとり」

[比定地]長居公園通=上町台地の裾の河内湖の浜のほとり

 縄文語解釈そのままの地勢です。


■呉原
【日本書紀要約】「三月、臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を檜隈野(ひのくまのの)に住まわせた。それでこの地を呉原(くれはら)と名付けた。また、衣縫(きぬぬい)の兄媛を大三輪神社に奉り、弟媛を漢の衣縫部(きぬぬいべ)とした。
漢織(あやはとり)と呉織(くれはとり)の衣縫は、飛鳥衣縫部べと伊勢衣縫の先祖である」

◎縄文語:「栗原」 =「カリ・ハ・ラ」=「回る・水が引いた・低いところ」 (蛇行する川の岸辺の低地)
[比定地]奈良県高市郡明日香村栗原


■兎豆満佐(太秦)
【日本書紀要約】「秦造酒(はたのみやつこさけ)を天皇は寵愛し、詔して秦の民を集めて、秦酒公を賜った。公はそれで各種多数の村主を率いるようになり、租税としてつくられた絹、縑(かとり:上質の絹)を献上して、調停にたくさん積み上げた。よっって姓を賜って兎豆満佐(うずたかく積んだ様子)といった」

◎縄文語:「太秦」=「ウテュ・マサ」=「間の・草原」
=川(or山)に挟まれた草原
[比定地]京都市右京区太秦



 大阪府寝屋川市にも「太秦」の地名があります。こちらも「川に挟まれた草原」と解釈することができます。


■城の上(きのえ)
【日本書紀要約】「三年十一月、大伴室屋大連に命じて『信濃国の壮丁を集めて、城を大和の水脈(みまた)村に造れ』といった。よってそこを城の上という」

◎縄文語:「城の上」=「キ・ナィェ」=「葦の・川」
[比定地]奈良件北葛飾郡広陵町

◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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