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日出ずる国のエラーコラム

【 第四十一回 ~ 第五十回 】

 邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。

日出ずる国のエラーコラム
第五十回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(三)百八十人の神様は酒盛りしていない~秋鹿郡、楯縫郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は秋鹿郡と楯縫郡です。

【今回取り上げる内容】
秋鹿郡/恵曇郷/多太郷/大野郷/伊農郷/楯縫郡/佐香郷/玖潭郷/沼田郷/於豆振

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

▼▼▼「秋鹿郡」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「郡家の真北に秋鹿日女(あきかひめ)が鎮座している。だから秋鹿という」

◎縄文語:「アケ・カ」=「対岸(反対側のところ)の・ほとり」⇒google map


 これは、地溝である多久川(講武川)の西岸を意味したのではないでしょうか。縄文海進の頃は、多久折絶(たくのおりたえ)に沿って日本海と宍道湖が近く、かなりくびれていたようです。


■■■「恵曇郷」命名由来 ■■■

×風土記:「須佐能乎命(スサノオ)の子の磐坂日子命が巡行した時に、『ここは国が若く美しい。土地のありさまは画鞆(えとも)のようだ。私の宮はここに造る』と言った。だから恵伴といった。神亀三年、字を恵曇と改めた」

◎縄文語:「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」⇒google map


  岬の入り江となっている恵曇港周辺。「出雲」と同語源です。多久折絶の日本海の出口。縄文語解釈そのままの地勢です。


■■■「多太郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能乎命(スサノオ)の子、衝杵等乎而留比古命(つきほことをよるひこ)が巡行した時に、『私の心は、明らかで正しくなった。私はここに鎮座しよう』と言って鎮座した。だから多田という」

◎縄文語:「タン・チャ」=「こちらの・岸」⇒google map
  ⇒ストリートビュー


 比定地には多太神社があります。風土記にもある多太社です。
 縄文語解釈の「こちら岸」は、谷を挟んだ一方を表しています。ストリートビューの左岸が多太神社です。


■■■「大野郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「和加布都怒志命(フツヌシ神)が狩りをした時に、猪の足跡を見失って『猪の足跡が失せてしまった』といった。だから内野といった。今の人は誤って大野と呼んでいる」

◎縄文語:「オオ・ノッ」=「大きな・岬」⇒google map
⇒ストリートビュー(※360°ビュー。宍道湖方面を望む。絶景です。)


  誤っているのは、明らかに風土記の由来の方です。デタラメな伝承を残さないでいただきたい。おかげで千年以上だまされている人々がたくさんいます。

 縄文語解釈の「大きな岬」とは、この周辺で一番高い山、かつての「女嵩山」、今の「本宮山」のことではないでしょうか。山頂には戦国期の本宮山城跡があります。
本宮山城の案内看板には、次のように書かれています。

 本宮山は『出雲国風土記』に『女心高野』と記された昔から、地域の人々に敬われた聖山であった。裾野が広く、切り立ったその姿は、近隣はもとより宍道湖の対岸からも仰ぎ見られる。この山頂部(標高279.4m)に山城を築城したのが大野荘を支配した大野市である。その祖先は紀氏で~」(※出典:本宮山城案内看板)


■■■「伊農郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「赤衾伊農意保須美比古佐倭気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけ)の妃である天𤭖津日女の命が国を巡行した時、『ああ伊農様』と言った。だから伊怒という。神亀三年、字を伊農と改めた」

◎縄文語:「エン・ノッ」=「尖った・岬」⇒google map


 伊野地区の東にそびえる十膳山を指したのではないでしょうか。尖り山です。
⇒google 画像検索


▼▼▼「楯縫郡」「楯縫郷」命名由来 ▼▼▼

×風土記
:「神魂の神が『所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:オオクニヌシ神)の宮を造ってあげなさい』といって子の天御鳥を楯部として天上界から下した。そしてここに下り、宮の装備である楯を造った。そして今に至るまで楯や鉾を造って皇神に奉っている。だから楯縫という」

◎縄文語:「タン・ティネイ」=「こちらの・湿地」⇒google map


 意宇郡の「楯縫郷」でも解説しましたが、縄文語で「こちらの」という場合は、隣接して同様の大きな地勢があります。
楯縫郡の場合は、楯縫郷が平田船川の北岸ですので、対岸の沼田郷の湿地を指したのではないでしょうか。

 何度も言いますが、決して楯や鉾を縫ったからではありません。


■■■「佐香郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「佐香の河内に百八十神々が集まり、調理場を建てて酒を醸造させた。そこで百八十日間、酒盛りをして帰って行った。だから佐香という」

◎縄文語:「サン・カ」=「平山の・ほとり」⇒google map
 ⇒ストリートビュー


 佐香郷比定地に佐香神社(別名:松尾神社)があります。ストリートビューの正面の平山の裾です。縄文語解釈そのままです。

 酒の神様で高名な神社ですが、残念ながら決して「酒の神様」ではありません。


■■■「玖潭郷(くたみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神が天の御飯田の御倉を造る場所を探して巡行した。その時『(はやさめ)久多美の山』と言った。だから、忽美(くたみ)という。神亀三年、玖潭と改めた」

◎縄文語:「クッチャ・モィ」=「川の出口の・入り江」⇒google map


 これは、平田船川に合流する小河川の出口の入り江を指したのではないでしょうか。アイヌ語の「入り江」は陸地の似たような地形の表現にも使われます。


■■■「沼田郷」命名由来 ■■■

△風土記
:「宇乃治比古命が『にた(湿地)の水で、乾飯をにたにして(やわらかくして)食べることにしよう』と言って、爾多と名づけた。だから爾多の郷というべきなのだが、今の人は努多と言っている。神亀三年、沼田と改めた」

◎縄文語:「ニタッ」=「湿地」
or「ヌタ」=「川が湾曲している内側の土地」
⇒google map


 これは、平田船川南岸の湿地を指していますが、「湿地」としても、「川が湾曲している内側の土地」としても捉えられます。
 楯縫郷の「タン・ティネイ=こちらの・湿地」の解釈から、「湿地」の意である「ニタッ」の言葉があった可能性は高いのですが、「平田船川が湾曲している内側の土地」と解釈しても地勢上ピタリと一致します。
 風土記にも、二通りの呼び名があるので、もしかすると、両方の呼び名が存在したのかもしれません。

 湿地を表す縄文語の「ニタッ」は風土記の上代日本語とも意味が一致しています。縄文語由来の日本語なのか、日本語由来の縄文語なのか、お互いの重なりが一部あるかもしれません。
 ほかに、「湯(ユ)」「岩(イワ)」「山(ヤマ)」「磯(イソ)」などの発音と意味も日本語とほぼ一致しています。


■■■「於豆振(おずふるい)」命名由来 ■■■

 風土記には地名由来はありませんが、縄文語解釈してみます。現在の十六島(うっぷるい)で、命名由来には多くの説があります。

◎於豆振=「オ・テュ・フレ・イ」=「尻の・岬が・崩れている・ところ」=岬が崩れているところ

◎十六島=「ウシ・フレ・イ」=「湾が・崩れている・ところ」
or「ウチ・フレ・イ」=「肋骨(枝分かれた岬?)が・崩れている・ところ」
⇒google画像検索


日出ずる国のエラーコラム
第四十九回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(二)大根島にタコをくわえた大鷲はいない!~島根郡編~
 出雲風土記の縄文語解釈を続けます。今回は島根郡です。

【今回取り上げる内容】
朝酌郷/山口郷/手染郷/美保郷/方結郷/生馬郷/法吉郷/千酌駅/蜛蝫島/蜈蚣島

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

■■■「朝酌郷(あさくみ)」命名由来 ■■■

×風土記:「熊野大神が朝の食事の神饌、夕べの食事の神饌のために、五つの食料を奉る民の居所を定めた。だから朝酌という」

◎縄文語:「アサ・クマ」=「湾の奥の・横山」⇒google map
 ⇒ストリートビュー


  宍道湖と中海を結ぶ大橋川の北岸が朝酌郷です。ストリートビューの対岸の平山。縄文語解釈そのままの意味です。


■■■「山口郷」命名由来 ■■■

○風土記:「須佐能袁命(スサノオ)の子の都留支日子命が『わたしが治めている山の入口だ』と言った。だから山口という」

◎縄文語:「ヤマ・クッチャ」=「山の・口」⇒google map


 珍しく、風土記と縄文語の意味が一致します。ただし、「スサノオの子の~」は明らかに創作です。


■■■「手染郷(たしみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ=オオクニヌシ神)が、『この国は丁寧(たし)に造った国だ』と言った。だから手染という」

◎縄文語:「テ(=テ)」=「そば、海辺」⇒google map


 半島の付け根の海辺。
 

■■■「美保郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ=オオクニヌシ神)が、高志の奴奈宜波比売命(ぬながはひめ)と結婚して生ませた子、御穂須須美命(みほすすみ)が鎮座している。だから美保という。」

◎縄文語:「ムィ(=モィ)・ホ」=「入り江の・尻」⇒google map


 当時、弓ヶ浜半島の南部は水没して島だったので、中海は入り江でした。川の場合の「尻」は「河口」を表しますので、この場合は「入り江の出口」を示したものと思います。


■■■「方結郷(かたえ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「須佐能袁命(スサノオ)の子の国忍別命が『わたしが治めている土地は、国形えし(良い)』と言った。だから、方結という」

◎縄文語:「カントィ」=「地面、台地」⇒google map


 ありきたりな意味なので、残念ながら、縄文語の解釈確度が高いとは言えません。他の解釈もありそうです。ただ、風土記の明らかなウソ由来よりはだいぶマシです。


■■■「生馬郷」命名由来 ■■■

×風土記
:「神魂命の子、八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこ)が、『わたしの子は心安らかでいくまない(怒らない)』と言った。だから生馬という」

◎縄文語:「エンコ・マ」=「岬の・谷川」⇒google map


 これは、講武川を表現したのでしょうか。奈良県の生駒も同義に解釈しています。

 講武川は風土記の時代には多久川と呼ばれ、東の大平山を水源とし、かつては日本海と宍道湖の両方に注いでいました。中流域から下流域は宍道湖に面したかつての佐太水海から日本海に抜ける断層の発達した地溝で、風土記時代には多久折絶(たくのおりたえ)と呼ばれていました。江戸期に開鑿された佐陀川沿いです。
 出雲国風土記の国引き神話で、八束水臣津野命が集めた国の一つが多久折絶から狭田国にかけての地域です(※比定地:松江市鹿島町から出雲市小津)。

 佐太水海の北辺には佐太神社があります。「佐太」の縄文語解釈は、

●佐太=「サン・タィ」=「浜にある・林」

 です。佐太水海の湖畔の様子ではないでしょうか。

 国の境界の箇所で表現される折絶(おりたえ)も縄文語解釈する努力をしてみます。

●折絶=「オ・テュイェ・イ」=「場所を・切る・もの(ところ)」

 だとしたら面白いのですが、残念ながら、これは無理矢理の語呂合わせ感が強く、自信はありません。


■■■「法吉郷(ほほき)」命名由来 ■■■

×風土記
:「神魂命の子、宇武賀比売命(うむかひめ)が、ほほき鳥(鶯)に姿を変えて飛んできて、ここに鎮座した。だから法吉という」

◎縄文語:「フンキ」=「浜から上がってきて、一段高くなっているところ」⇒google map


 もう、「バカにするな」って言いたくなるような風土記の由来です。
 この地域は、縄文語解釈そのままの地勢です。google mapで是非ご確認ください。表示位置は法吉郷の中心付近です。平地の多くは海でした。


■■■「千酌駅(ちくみ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「伊差奈枳命(いざなぎ)の子、都久豆美命(つくつみ)がここに鎮座している。だから都久豆美と言うべきであるが、今の人はただ千酌と名づけているだけだ」

◎縄文語:「テュ・モィ」=「小山の・入り江」⇒google map
  ⇒ストリートビュー


  ストリートビューをご覧頂くと一目瞭然です。


■■■「蜛蝫島(たこ)」命名由来 ■■■

×風土記
:「杵築の大鷲が蛸をくわえて島にとどまった」

◎縄文語:「タ」=「離れてぽつんとした島」⇒google map


 現在の大根島です。風土記の当時は中海がもっと広かったため、さらにぽつんとしていました。


■■■「蜈蚣島(むかで)」命名由来 ■■■

×風土記:「蜛蝫島の蛸が蜈蚣をくわえてこの島にとどまった。だから蜈蚣島という」

◎縄文語:「ムィ(=モィ)・カ・テュ」=「入り江の・岸辺の・岬」⇒google map


 現在の江島です。縄文語解釈そのままの地勢です。風土記には、夜見島とは岩の道を通って馬で往来でき、干潮時には陸地と同じになるとあります。

 出雲国風土記の縄文語解釈はつづく。次回は秋鹿郡と楯縫郡。


日出ずる国のエラーコラム
第四十八回 出雲国風土記のウソを徹底的に暴く!(一) "八雲立つ"は“本国人の岬”の意だ!~意宇郡編~
 今回から風土記縄文語解釈シリーズを始めます。前回のコラムでも書きましたが、風土記は神話、伝説、伝承の宝庫です。そして、それは同時にウソ物語の宝庫でもあります。

 それらは、縄文先住民が「地勢から命名した地名」に、後世の人々が適当な漢字を充て「漢字表記から意味を解釈して創作した空想物語」がほとんどです。
 いったいなぜ、その無数のウソ物語たちが大和王権の正式文書として残され、日本の歴史として千年以上にも渡って語り継がれることになったのか。

 それらの真相を探るためには、まず記紀や風土記のウソを徹底的に暴くことから始めなければなりません。

 今回は唯一完本に近いかたちで残る出雲国風土記を取り上げます。これまでの出雲国周辺の古墳名の縄文語解釈では、その使用の可能性は少なくとも6世紀まで下りました。
 6世紀の古墳名の縄文語から、8世紀初頭の風土記の上代日本語へ。この間のブラックボックスにはいったい何が隠されているのでしょうか。

 それでは始めていきます。


【今回取り上げる内容】
八雲立つ出雲/意宇郡/母里郷/屋代郷/楯縫郷/安来郷/毘売崎/山国郷/飯梨郷/舎人郷/大草郷/山代郷/拝志郷/宍道郷/野城駅/忌部の神戸

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「八雲立つ出雲」命名由来 ◆◆◆

×風土記:「八束水臣津野(やつかみずおみずの)の命が『八雲立つ』と言った。だから八雲立つ出雲という」

◎縄文語:「八雲立つ」=「ヤウンク・モィ・テューテュ」=「本国人の・入り江の・出崎」


 島根半島、または、弓ヶ浜半島(出雲国風土記の「夜見の嶋」)あたりでしょうか。極めて確度の高い縄文語解釈です。

 アイヌ語では「ヤウンク(本国人)⇔レプンク(外国人)」の対比の言葉があります。本来の意味は「ヤ・ウン・ク(陸・にいる・人)」、「レ・ウン・ク(沖・にいる・人)」です。
 これは、風土記の時代にも本国人と外国人の棲み分けがあったということを示しているのかもしれません。

 もちろん、「出雲」も「雲が出る」という意味ではありません。

◎縄文語:出雲=「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」

 地勢そのままです。ほぼ、「八雲立つ」と同じ意味です。
 ちなみに、邪馬台国への旅程に登場する「投馬国」は、

◎縄文語:投馬=「テュ(ー)・モィ」=「岬の・入り江」

 で、出雲とまったく同じ意味となります。「テュ(ー)」は「峰or岬or古い」の意味です。(※「出雲国=投馬国」については第二十七回コラム参照

 出雲国は、イザナギ、イザナミ、スサノオ、天照大神の出身地です(※第二十四回コラム参照)。


▼▼▼「意宇郡(おう)」命名由来 ▼▼▼

×風土記:「八束水臣津野命が(方々から国を集め)、『今ここに、国を作り終えた』と言って、意宇の社に杖を立てて、『おえ』と言った。だから意宇という」

◎縄文語:「アゥ」=「枝分かれ」or「内」or「隣」⇒google map

 島根半島の内側か、あるいは、中海が宍道湖や美保湾と分かれている様子を表しています。

 「淡路島」「安房」「阿波」など、「アゥ」が語源と思われる場所は、「海を挟んだ対岸」(隣の意か?)などに多く使用されているようです。意宇郡の地勢ともピタリと一致します。

 また、「淡海(近江)=アゥ・モィ(orメ)=枝分かれた・入り江(or泉)」と同じ意にもとれます。
 「淡海」「巨椋池」「大阪湾」の地勢が、「中海」の「宍道湖」や「美保湾」の関係と一致します。


■■■「母里郷」命名由来 ■■■

×風土記:「大穴持命(オオクニヌシ神)が越平定後の帰りに、長江山で『私の造った国は天つ神の子孫に任せるが、出雲国だけはわたしの鎮座する国として守ろう』と言った。だから文里といったが、神亀三年、母里に改めた」

◎縄文語:「モィ・ル」=「入り江の・岬」⇒google map


 「入り江」は山中の同様の地形も指します。能義平野は古墳時代にはかなり水没していたので、実際に中海の入り江が近かったかもしれません。


■■■「屋代郷」命名由来 ■■■

×風土記:「天夫比命(アメノホヒ)のお供で天から下った天津子命が『私が鎮座しようと思う社だ』と言った。神亀三年、屋代に改めた」

◎縄文語:「ヤ・ウン・シ」=「陸岸・にある・山」⇒google map


 「中海の岸辺」の山という意味です。当時、弓ヶ浜半島は「夜見の嶋」という島で、南部は水没していたので、縄文語解釈により近い地勢となります。


■■■「楯縫郷」命名由来 ■■■

×風土記:「布都怒志命(フツヌシ神)が天上界の堅い楯を縫い直された。だから楯縫という」

◎縄文語:「タン・ティネイ」=「こちらの・湿地」⇒google map


 縄文語で「こちらの」という場合は、隣接して同様の大きな地形がある場合が多いです。「楯縫」の場合は、西に隣接した舎人郷の「湿地」のことではないでしょうか。舎人郷は後段で解説します。


■■■「安来郷」命名由来 ■■■

×風土記:「須佐乎命(スサノオ)が国土の果てまで巡った。ここに来た時『私の心は安らかになった』と言った。だから安来という」

◎縄文語:「ヤ・ウン・シ・ケ」=「陸岸・にある・山の・ところ」⇒google map


 「八雲」「屋代」「安来」「拝志」を総合的に考えると、「ヤ・ウン~」で「陸岸・にある~」が相応しく思われます。google mapのリンク先で、安来町から東方の島田町までが安来郷です。

※「安来」の解釈は、以前は「ヤ・ソ・ケ」=「岸の・水中のかくれ岩の・ところ」としていましたが、訂正させてください。申し訳ありません。


■■■「毘売崎」伝承 ■■■

 前回、第四十七回コラムの「毘売塚古墳」で取り上げました。「天武天皇三年(西暦674年)に姫がサメに殺された物語」ですが、古墳の築造時期は5世紀後半で、しかも埋葬者は男です。物語の中でサメに食われたはずの足も確認されています。

 毘売塚の縄文語解釈は、

●毘売塚=「シ・ムィ・テュ」=「山の・頂の・小山」

 で、中海に突き出た丘陵上にある毘売塚古墳の地勢とも、他地域の「姫塚古墳」の地勢とも一致しています。詳しくは第四十七回、第四十六回コラムをご参照ください。


■■■「山国郷」命名由来 ■■■

×風土記:「布都怒志命が国を巡った時、ここで『いつまでもやまずに見ていたい』と言った。だから山国という」

◎縄文語:「ヤマ・コッネ・イ」=「山が・凹んでいる・ところ」⇒google map


  リンク先の地形図をご覧ください。縄文語の命名由来が「なるほど」と思わせるような地勢です。


■■■「飯梨郷」命名由来 ■■■

×風土記:「大国魂命が天上界から下った時に、この場所で御膳(いい)を食べた。だから飯成という。神亀三年、飯梨に改めた」

◎縄文語:「エエン・ナィチャ」=「尖っている・川の入口」⇒google map


 飯梨川と山佐川の合流地点にある間の峰を指したのではないでしょうか。これは他にも解釈があるかもしれません。少々自信がありません。


■■■「舎人郷」命名由来 ■■■

×風土記:「欽明天皇の時、倉舎人君の祖先、日置臣志[田比](しび)が大舎人として仕えた。志[田比](しび)が住んでいたところ。だから舎人という」

◎縄文語:「ティネイ・ル」=「湿地の・岬」⇒google map


 「楯縫郷(タン・ティネイ=こちらの・湿地)」の対比となる湿地の答えは「舎人郷」。安田川、伯太川、吉田川中流域の、東西に隣り合った郷です。
 リンク先の地形図は野方町ですが、その南北に、折坂、月坂の丘陵地があります。「岬」とはこの丘陵を指したのではないでしょうか。縄文語解釈と完全に一致しています。


■■■「大草郷」命名由来 ■■■

×風土記:
「須佐乎命(スサノオ)の子、青幡佐久佐丁壮命(あおはたさくさひこ)が鎮座している。だから大草という」

◎縄文語:「オオ・クッチャ」=「大きな・川口」⇒google map


 リンク先google mapの「出雲国庁跡」周辺が大草郷。
 縄文語解釈そのままです。意宇川の河口。古墳の立地を見ても分かるとおり、当時意宇平野の北部は水没していました。


■■■「山代郷」命名由来 ■■■

×風土記:「大穴持命の子である山代日子命が鎮座している。だから山代という。正倉(みやけ)がある」

◎縄文語:「ヤマ・シオ」=「山・尻(裾)」⇒google map


 山裾の意ですから、正倉跡の立地と一致します。


■■■「拝志郷」命名由来 ■■■

×風土記:「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ=オオクニヌシ神)が越の八口を平定しようとして出た時、ここの林が勢いよく茂っていた。『私の心をはやす(引き立てる)林だ』と言った。だから林という。神亀三年、拝志と改めた」

◎縄文語:「パン・ヤ・ウシ」=「川下の・陸岸・のところ」⇒google map


 google mapのリンク先は、松江市玉湯町林です。松江市玉湯町の西半分と、宍道町の東半分が比定地です。宍道湖の岸辺です。


■■■「宍道郷」命名由来 ■■■

×風土記:
「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ=オオクニヌシ神)が追いかけた猪の像が、南の山に二つある。今は石となっているが、そのかたちは猪と犬にほかならない。だから宍道という」

◎縄文語:「シ・シテュ」=「大きな・(沢と沢に挟まれた)山の走り根」⇒google map


 どこにもありそうな地形です。

 宍道湖由来の命名であれば以下の解釈となります。
 イザナギ・イザナミの国生み神話で登場したオノコロの縄文語解釈は、

●オノコロ=「オンネ・コッ・ル」=「古い・窪地の・海」
or「オンネ・コッ・ル」=「古い・窪地の・跡」


 で、宍道湖と同じ意味です。

●宍道湖=「シアン・テュ・コッ」=「実に・古い・窪地」

 
一般的には「ししじ」が「しんじ」に変化したと言われていますが、それも風土記由来の説なので、信憑性がどれほどあるか不明です。似ている発音に同じ漢字を充てる例も、同じ発音に別の漢字を充てる例も、ともに無数にあります。


■■■「野城駅」命名由来 ■■■

○風土記:
「野城大神が鎮座しているので野城という」

◎縄文語:「ノッ・ケ」=「岬の・ところ」⇒google map


 これは、風土記の解釈もさすがに否定できません。比定地は、現在の能義神社付近です。能義神社は、能義平野に突き出た峰の先端にあります。


■■■「忌部の神戸」命名由来 ■■■

×風土記:「国造が神賀詞を奏上するために朝廷に参上する時、御沐の神聖な玉を作った。だから忌部という」

◎縄文語:「エエン・ぺ」=「頭が尖っている・もの」=尖り山⇒google map


 忌部の神戸の箇所には、玉造温泉の記述があり、「海と陸の境目に温泉がある。一度入れば美しい体になり、再び入れば病が治る」とあります。
 玉造温泉の東側にある山が「尖り山」となっています。⇒ストリートビュー

  アイヌ語には「エエニ(=エエン・イ)」という「尖り山」を表す言葉がありますが、「イ」も「ペ」も、動詞形容詞の後について「~するもの」の意があります。

 出雲国風土記の縄文語解釈はつづく。次回は島根郡。


日出ずる国のエラーコラム
第四十七回 島根県の古墳の縄文語解釈、風土記の無数のウソを徹底的に暴く!
 今回は島根県の古墳の縄文語解釈を取り上げます。

 出雲は、言うまでもなく出雲神話のふるさとです。
 出雲神話については、前半のコラムで一部取り上げていますが、国生み神話に登場する「宍道湖(=オノコロ)」や、イザナギ・イザナミの黄泉の国神話の「比婆山」等、出雲周辺の状況を鑑みると、神話時代のこの地域で縄文語(アイヌ語)が使用されていた可能性は非常に高いと言えます。
 神話はスサノオ(=帥升)の時代ですから、1世紀後半~2世紀前半のことです(※第一回第五回第二十四回コラム参照)。

 そして、さらに今回の出雲周辺の古墳の縄文語解釈では、その使用の可能性が6世紀まで下ることになりました。

 8世紀初頭に編纂された記紀や風土記はいわゆる「上代日本語」で書かれています。そして、唯一完本に近いかたちで現存する出雲風土記には多くの神話、説話、伝承が集中しています。
 6世紀の古墳名に使用されている縄文語から、これらの古文献に無理なく接続するには、言うまでもなく何かしらの革命を挟まなければなりません。

 6世紀の出雲では、各地に分散していた大型古墳が突然意宇平野周辺に集中して築かれるようになります。これは、各地域の首長が何らかを目的に一地域に集まったことを示しています。
 ちょうどその頃、九州では筑紫君磐井の乱(527年)がヤマト王権に鎮圧されましたが、その後勢力を伸張させた熊本県宇土地方からは、石棺式石室が出雲に取り入れられました。
 このことは、ヤマト王権からの圧力に、熊本地方と出雲地方が連携して対応したことを示していると考えられています。(※参考文献:しまねの遺跡 発掘調査パンフレット 魚見塚古墳・東縁寺古墳/島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)

 その後、日本各地には中央から国司が派遣されます。7世紀後半からは班田収受法で戸籍・計帳が整えられ、8世紀初頭の風土記では、地方の産物、地味、伝承等が中央に報告されます。日本の地方がヤマト王権の支配下に着々と取り込まれていきます。

 ここで、風土記に注目して見てみます。
 現在、風土記が残る国は、出雲、播磨、常陸、豊後、肥前で、出雲国以外は断片的です。ほか、逸文でいくつかの国のものが残っています。

 現在まで日本各地で伝えられる地名由来譚には風土記を出典としているものが多数ありますが、これらを縄文語で読むと、その多くは実にデタラメで、ほぼすべてが漢字表記にこじつけて創作された空想物語と判断することができます。

 つまり、

◆少なくとも6世紀まで
「古墳名が縄文語で解釈可能」
  
8世紀初頭
「風土記が上代日本語で書かれる」

 この間の時代で風土記掲載の漢字表記にこじつけられた神話、説話、伝承の類いが創作されたに違いなく、記紀の神話も同様に考えることができます。

 風土記掲載のデタラメ物語の例をいくつか挙げてみます。

■「常陸国」命名由来
×風土記:「ヤマトタケルが袖をひたした」
◎縄文語:「ピタ・チャ」=「小石河原の・岸」

■「常陸国久慈郡」命名由来
×風土記:「かたちが鯨に似ているのでヤマトタケルが久慈と名付けた」
◎縄文語:「クッチャ」=「川の出口」(川の合流地点)

■「出雲国楯縫郡」命名由来
×風土記:「神魂の子の天御鳥が楯部として天から使わされ、楯を造った場所」
◎縄文語:「タン・ティネイ」=「こちらの・湿地」

■「出雲国蜛蝫島(大根島)」命名由来
×風土記:「杵築の大鷲がタコをくわえて島にとどまった」
◎縄文語:「タ」=「離れてぽつんとした島」

■「肥国」命名由来
×風土記:「崇神天皇が天から火が下ったので火の国となづけよと言った」or「景行天皇を火が導いた」
◎縄文語:「ピ」=「石」(石の国)

■因幡の「白兎」神話
×風土記:「オキの島からワニを騙して海を渡ったウサギが、ワニに毛を剥ぎ取られて泣いていたのを大己貴神(大国主神)が助けた」
◎縄文語:「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山の・ふもと・にある・浜の・ところ」=白兎海岸

 地方の歴史、文化を消すことを目的としたのか、あるいは、地方の先住民と交流を持つことがまったくなかったのか。とにかく、これらは残念ながら日本太古以来の歴史、文化を正直に綴ったものではありません。

 出雲以外の地方を見ても、関東の古墳名では7世紀、奈良、大阪、兵庫の関西圏でも6世紀までは縄文語が使われていた気配があります。

 これは、地方の先住民と中央から派遣される国司の言語が異なっていたことが起因しているとも考えられます。いわゆる言語の二重構造です。
 これらを証明するためには、風土記のウソを徹底的に暴く必要があります。

 最近のコラムでは、縄文語使用の時期と地域を探るべく、日本各地の古墳名を縄文語解釈してきましたが、今後はそれに加えて、風土記の地名由来譚の解読も重点的に進めていこうと思います。

 まずは、島根県の古墳の縄文語解釈からご覧ください。

【今回取り上げる内容】
半分古墳/放レ山古墳/月坂放レ山5号墳/宝塚古墳(一保塚)/上塩冶築山古墳・上塩冶地蔵山古墳/小坂古墳/二子塚古墳/大庭鶏塚古墳/金鶏伝説について/古天神古墳/毘売塚古墳/造山古墳群/大成古墳/荒神谷遺跡


■■■ 半分古墳 ■■■
(島根県出雲市/前方後円墳)

 残念ながら地名由来の古墳名ですが、「半分(はんぶ)」という地名が日本語で意味が通らないので、縄文語解釈をご紹介します。

●半分=「パン・プッ」=「川下の・川口」

 つまり、神戸川の河口です。縄文の頃、このあたりまで神門水海(現在の神西湖)が迫っていたと思われます。⇒google画像検索

 以下、近接する放レ山古墳は「川下の・山陰の・山」、宝塚古墳も「湖のほとりの古墳」の意味ですので、解釈に齟齬はありません。


■■■ 放レ山古墳 ■■■
(島根県出雲市/古墳時代後期/円墳)⇒google map

 小型の円墳。

●「パナ・レ(山)」=「川下の・山陰(の山)」

 神戸川の「川下の山陰」という意味です。地勢と完全一致しています。
 安来市には似た名称で「月坂放レ山古墳群」があります。以下にご紹介します。


■■■ 月坂放レ山5号墳(月坂放レ山古墳群) ■■■
(島根県安来市/古墳時代中期~後期/方墳)⇒google map
⇒ストリートビュー

 横矧板鋲留短甲が出土しました。

●月坂放レ山=「テュ・サン・ケ/パナ・レ」=「小山の・平山の・ところ/川下の・山陰」

 山辺大堤北岸の丘陵に立地。縄文語解釈どおり「平山」です。ストリートビューの正面の山右手にあります。
 また、能義平野(安来平野)北部の扇状地は、古墳時代前期まで海だったようなので、「川下の山陰」というのも的を射た表現となります。
∵能義平野西に位置する大成古墳(JR荒島駅の南の丘陵斜面)の南東の谷に当時の海岸線が見つかっています。(※参考文献:荒島古墳群発掘調査報告書)

 出雲市の「放レ山古墳」の意味とも一致しているので、縄文語解釈の確度は非常に高いと言えます。


■■■ 宝塚古墳(一保塚) ■■■
(島根県出雲市/古墳時代後期)⇒google map

 墳丘が失われているため、規模、形状不明。数個の鉄鏃が出土していますが、とても宝の塚には見えません。
 以下縄文語解釈。

●宝塚=「ト・カラ・テュ」=「湖の・岸の低いところの・小山」

 このあたりは、神門水海の岸辺だったということになります。

 宝塚古墳は他の地域にもあります。また、言うまでもなく兵庫県には宝塚市もあります。下に参考例として他地域の宝塚古墳を挙げます。
 これらすべてが、「湖のほとりの小山」なので、縄文語解釈の確度はかなり高いと言えます。決して漢字表記にこじつけた「宝の塚」の意ではありません。

 また、参考までに別名の一保塚の解釈。

●一保塚
=「エン・ホ・テュ」=「突き出た・尻の・小山」=突き出た山裾の小山

 神戸川を挟んで北東が「塩冶」地区で、「エン・ヤ」=「突き出た・陸岸」の意味なので、神戸川の両岸が神門水海(現在の神西湖)に突き出ていたのかもしれません。


【参考例】他地域の宝塚古墳
◎宝塚古墳(茨城県茨城郡茨城町/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔に立地。
◎木崎宝塚古墳(茨城県桜川市)⇒google mapストリートビュー
 ※水田際の古墳の意味か。
 ※木崎=「キサ・ケ」=「耳のように突き出た・ところ」⇒google map
◎宝塚古墳(岐阜県可児郡御嵩町/円墳)⇒google map
 ※溜め池のそばの古墳。
◎宝塚1号墳、2号墳(三重県松阪市宝塚町/5世紀初頭、前半/前方後円墳)⇒google map
  ※周辺に複数の池。
◎佐味田宝塚古墳(馬見古墳群)(奈良県北葛城郡河合町/4世紀後半~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※池畔の小山。
◎宝塚古墳(広島県福山市/6世紀後半/円墳)⇒google map
  ※池畔の小山。
◎兵庫県宝塚市⇒google map
 ※宝塚市にはたくさんの池沼があります。その際の小山の意。


■■■ 上塩冶築山古墳/上塩冶地蔵山古墳 ■■■
◎上塩冶築山古墳(島根県出雲市/6世紀後半/円墳)⇒google map
◎上塩冶地蔵山古墳(島根県出雲市/6世紀後半~7世紀/円墳or方墳)⇒google map

 宝塚古墳の項でも書きましたが、塩冶地区は

●塩冶=「エン・ヤ」=「突き出た・岸」

 で、神戸川河口北岸の神門水海に突き出た地形を表したものと思われます。
 そして、築山古墳群の中心的存在である二つの古墳。この二つは出雲地方の最後の首長墓です。

●築山古墳=「チゥ・ケ・ヤマ」=「水脈の・ところの・山)」
※各地の築山古墳については第七十三回コラムの「築山古墳」参照
●地蔵山古墳=「チゥサ(山)」=「川口(波のそば)(の山)」=神戸川河口の古墳

 築山古墳は水脈、水流のそばにある古墳の意で、地蔵山古墳も、いわゆる「お地蔵様」が関係していなければ、「神戸川河口」の意となります。両者の解釈がみごとに一致しています。
 つまり、この周辺の地名は、

「半分」「放レ」「塩冶」「宝塚」「築山」「地蔵」=「神戸川河口」「神門水海の岸」の意

 ということになります。これらの縄文語解釈は総合的に見て極めて確度が高いと言えます。

 余談ですが、上記縄文語解釈に関連して、もしかすると日本のいわゆる「お地蔵様」の信仰は、縄文語(アイヌ語)の発音が似ているのを機縁として、結びつけられたのではないかという疑問が生まれました。

 確かに「お地蔵様」が祀られている場所の多くは水辺(波のそば)となっています。しかし、人の生活の場所、往来する場所は水辺が多いので、それは自然なことなのかもしれません。仮説としては面白いですが、残念ながら証明するのは難しいかもしれません。

【参考】各地の「お地蔵様」
◎東北地方⇒google map
◎関東地方⇒google map
◎中部地方⇒google map
◎関西地方⇒google map
◎中国、四国、九州地方⇒google map

【参考】各地の「地蔵山」
◎東北地方⇒google map
◎関東、中部、関西地方⇒google map
◎中国、四国、九州地方⇒google map


■■■ 小坂古墳 ■■■
(島根県出雲市/6世紀末/円墳or方墳)⇒google map
 ⇒ストリートビュー

●「オ・サン・カ」=「山尻の・平山の・ほとり」
or「コッ・サン・カ」=「窪地の・平山の・ほとり」

 ストリートビューの正面の平山のほとりにある小規模古墳です。後世に火葬墓として再利用されたことで有名になりました。


■■■ 二子塚古墳 ■■■
◎乃木二子塚古墳(島根県松江市/6世紀前半/前方後方墳)⇒google map
◎山代二子塚古墳(島根県松江市/6世紀の中頃~後半/前方後方墳)⇒google map

●二子塚=「プチャ・コッ・テュ」=「入口を欠く・谷(沢/溝)の・小山」=周堀(濠、壕)のある古墳

 いずれの二子塚古墳も周濠が確認されています。

 周辺古墳の縄文語解釈、他地域の二子を冠する古墳の築造年代を鑑みれば、いわゆる二人の子供の意である「双子」と漢字表記から解釈するよりも、縄文語解釈の方が確度が高いと言えます。
 隣接する古墳を縄文語解釈し、二子塚古墳だけを漢字表記から解釈するのでは、整合性がとれなくなるからです。

 他地域の多くの二子塚/二子山古墳についても同様です。ほぼすべてが周堀のある古墳となっています。(※第三十六回コラム参照


■■■ 大庭鶏塚(にわとりづか)古墳 ■■■
(島根県松江市/6世紀中頃/方墳)⇒google map

 南北辺42~44m、東西辺40~42mの方墳。南と西に大形状の造出。人頭大の葺石を石垣状に3~5段積みにした二段構成の方墳(※参考文献:史跡大庭鶏塚発掘調査報告/松江市教育委員会/昭和54年)。

●鶏=「ニウェン・タ・ル・テュ」=「荒い・玉石の・頭の・小山」

 葺石の方墳の意ではないでしょうか。「にわとり」は関係ないと思います。


■■■ 金鶏伝説について ■■■
 大庭鶏塚古墳に関連して、この古墳は昔から金鶏伝説で有名なようですが、「鶏」の文字にこじつけられた伝承と思われます。
 同様の金鶏伝説は日本各地にあります。以下要約。

<金鶏伝説要約>
 土中に金の鶏が埋まっていて、その鳴き声が聞こえるという伝説。長者の没落を語る朝日長者伝説と関連しているものが多い。
 岩手県西磐井郡平泉町の金鶏山は~藤原秀衡が財宝と黄金の雌雄の鶏を埋めて、鎮護とした。
 岐阜県山県郡大桑村の城山は、金鶏山とも称し、元旦には金鶏の鳴き声が三度聞こえるという。また、1588年土岐氏が斎藤道三に攻め滅ぼされたときに代々の家宝の金鶏を井戸の底へ捨てて逃げたが、この鳴き声を聞いた者は長寿であるといわれる。
 奈良県添上郡東山村、針ヶ別所村、豊原村の3村の境は神野山頂上で、黄金塚があって、元旦に吉凶を告げる金の鶏が土中から三声鳴く。ほかのときに鳴くと村に変事があるとされる。
 広島県三次市の鶏淵は、有徳人が立ち寄ると金鶏が現れる。
 宮城県栗原郡金田村の鶏坂は、その昔に金売り吉次が黄金の鶏をつくって埋めたという。
 このように、長者が財宝を埋めた跡から鶏の鳴き声がするという類型が多いが、ほかに、金鶏が飛び出して肩に止まった(宮城県登米市)、黄金の鶏が落ちて死んだ鶏淵(山梨県北都留郡)などがある。霊鳥信仰に中世説話の長者譚モチーフなどが結び付いて生まれてきた伝説であろう。 (出典:渡邊昭五/日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館)

 縄文語解釈では、残念ながらそんな長々とした伝説はありません。

●金鶏=「キケ」=「山のところ」

 ただの「山のところ」という意味です。「金鶏」という漢字が充てられたために、とても大げさな伝説に生まれ変わっています。

 全国の「金鶏」のつく地名も、ほぼ「山」です。
⇒google map(東日本)
⇒google map(西日本)

「近畿」の由来も実は「都に近い」という意味ではなく、ただ「山が多いところ」の意味かもしれません。


■■■ 古天神古墳 ■■■
(島根県松江市/6世紀後半/前方後方墳)⇒google map

 意宇川右岸の大草丘陵上に築造。後期古墳で前方後方墳は出雲東部の特色。天神様の祠もなく、古墳名称の命名時期も由来も不明ですが、縄文語では以下の解釈が可能です。

●「フ・テュシ」=「丘の・墓」

 地勢そのままの意味となります。

 その他地域の「天神」を冠する古墳については、第三十六回コラムで取り上げています。天神様が祀られていない古墳の方が多く、同時期に築造された周辺古墳も縄文語解釈が可能です。

 このような同じ名称の古墳が多数存在するということは、

◇「同じ古墳名」=「同じ特徴を持った古墳」

 と捉える方が自然です。

 二子山古墳などの場合は、漢字表記から「前方後円墳」の解釈も可能ですが、この「天神」冠する古墳で「天神様」と関係がなさそうなものは、他の共通の特徴を探さなければなりません。

 古天神古墳の場合は、「古」の漢字の意味が不明であり、「天神様」も関係がなく、かつ縄文語の意味も地勢と完全に一致することから、縄文語解釈の確度はかなり高いと言えます。


■■■ 毘売塚古墳 ■■■
(島根県安来市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

  出雲風土記にも記載のある古墳。以下出雲風土記要約。

<出雲風土記>
天武天皇三年、この地の語り部である長猪麻呂(おさのいまろ)の娘が毘売崎で遊んでいてサメに食われて死んでしまった。猪麻呂は怒り狂い、矢を研ぎ、矛を尖らせ、天神地祇に祈り、ほかのサメと一緒に仇のサメを囲み、討ち取った。サメの腹を切り裂くと娘の膝下が出てきた。

 天武天皇三年は西暦674年で、この物語の伝承地とされる毘売塚古墳の築造年代は5世紀後半です。しかも、発掘調査の結果、埋葬者は男で、足も確認されています。
 7世紀後半の物語でさえ、このような漢字表記にこじつけられた創作が堂々と行われています。風土記編纂の官命は713年で、出雲国風土記は733年の完成と言われていますから、このウソ物語は確信犯の可能性が高いと言えます。

 毘売塚古墳の縄文語解釈は香川県のコラムの姫塚古墳の項で軽く触れましたが、おさらいします(※第四十六回コラム参照)。

●毘売塚=「シ・ムィ・テュ」=「山の・頂の・小山」

 毘売塚は風土記に「毘売」と書かれているとおり、中海を望む丘陵の突端に築造されています。もともとは中海がここまで入り込んでいたのではないでしょうか。

 他地域の姫塚古墳の解釈ともほぼ一致しています。詳しくは第四十六回コラムをご参照ください。


■■■ 造山古墳群 ■■■
(島根県安来市/4~6世紀/方墳、前方後方墳)

 中海を望む丘陵を利用して築造された4基の古墳。造山1号墳は古墳時代前期における最大級の方墳。一辺60m、高さ5mの二段築成。

●造山=「チケレ(山)」=「削れている(山)」

 この古墳群の「造山」の名称はいつから用いられているものなのでしょうか。後世の命名でなければ、縄文語解釈の確度はかなり高く思えます。

 「つくりやま」を冠する古墳は、岡山県にも「造山古墳」「作山古墳」の二基がありますが、こちらも丘陵を削って築造されていて、地勢と縄文語解釈が一致しています。


■■■ 大成古墳 ■■■
(島根県安来市/古墳時代前期/方墳)⇒google map

  造山1号墳に先行する大型方墳。一辺45m、高さ6m。

●大成=「オンネ・ル」=「大きな(or古い、親の)・岬」

 大成古墳は中海を望む丘陵斜面に位置しています。古墳時代前期までは、丘陵際まで海だったようです。

 また、丹後半島にも「大成古墳群」がありますが、こちらも海に面した丘陵で、まったく同じような地形です。⇒google map


■■■ 荒神谷遺跡 ■■■
(島根県出雲市)⇒google map

 大量の青銅器が発見された遺跡。その数、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本。荒神谷史跡公園として整備され、荒神谷博物館が設けられました。
「荒神」の発音は日本語に思えないので、縄文語解釈します。

●荒神(谷)=「コッ・チャ」=「窪地(谷)の・ふち」

 荒神谷は窪地のふちの丘陵裾にあります。



日出ずる国のエラーコラム
第四十六回 香川県の古墳の縄文語解釈、金刀比羅宮はコンピラとは関係ない!椀貸伝説の謎を解く!
 今回は、香川県の古墳の縄文語解釈を進めましたが、解釈可能な古墳の築造時期は実に7世紀代まで下りました。7世紀代はサンプル数が少ないので省くにしても、解釈確度や、瀬戸内海対岸の兵庫、北京都、鳥取の状況を考慮すれば(※第三十九~四十五回コラム参照)、香川県での縄文語使用は6世紀まではほぼ確実だと言えます。

 香川県は古墳時代前期の積石塚が多いことで有名です。これらの積石塚は「地元産の石材を有効利用した自生」とする説と、「朝鮮半島由来」とする説がありますが、倭人が使用していた縄文語(アイヌ語)でこれらの名称が解釈できるとすれば、どういう理解になるでしょうか。しかも、その後に築造された古墳も少なくとも古墳時代後期までは縄文語解釈が可能です。

 これは、たとえ積石塚が朝鮮半島由来だとしても、渡来系の文化を持つ人々が縄文先住民の文化に取り込まれたか、あるいは、朝鮮半島にも縄文人と同族の倭人が住んでいた可能性が高いということになります。
 ただ、そもそも地元の石で古墳を築く由来をわざわざ他地域に求める必要性もあまり感じらません。その点、積石塚自生説の方が、その後の古墳の縄文語解釈をスムーズに受け入れることができます。

 また、積石塚古墳群で知られる石清尾山には5世紀末から積石塚が造られなくなり、次の古墳までは約100年の空白期間があります。しかも、その後の古墳は積石塚ではなく、盛り土の横穴式石室となり、周辺地域には群集墳が大量に築造されます。

 もしかすると、古墳時代後期から終末期にかけて築造される群集墳は、上代日本語を普及させ、神話や無数の地名譚を創作した革命勢力の足跡かもしれません。古墳構造や副葬品が権力筋の大きな変化を示しています。

【今回取り上げる内容】
金刀比羅宮/椀貸塚古墳/椀貸伝説/猫塚古墳/鏡塚古墳/姫塚古墳/うのべ山古墳/爺ヶ松古墳/相作馬塚古墳/万塚古墳/ハカリゴーロ古墳/磨臼山古墳/王墓山古墳/宮が尾古墳/経塚古墳/八王子古墳/船岡山古墳/一つ山古墳/青塚古墳/平塚古墳/赤山古墳/けぼ山古墳


■■■ 金刀比羅宮 ■■■
(香川県仲多度郡琴平町/創建:神代か)⇒google map

 説明の必要もないと思われますが、いわゆる「こんぴらさん」の大元です。由緒には次の説があります。

<由緒>
1)大国主の和魂である大物主神が琴平山(象頭山)の山上に行宮(一時的な宮)を設け、国土経営に当たった。その宮の跡に大物主の神霊を奉り琴平神社とした。のち、中世に釈迦の弟子である金毘羅と習合し金毘羅大権現と称した。
2)大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登り、天竺毘比羅霊鷲山の護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭った。これが金毘羅大権現になった。


 ほかにもあるようですが、省略します。
 以下縄文語解釈。

●コトヒラ=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」=象頭山

 地勢そのままです。崖と言えば、奥社嚴魂神社周辺の柱状節理ともとれるのですが、「ピラ」は、「土が崩れた崖」を指すので、花崗岩の崩れた地勢を持つ象頭山全体を指したのかもしれません。⇒google画像検索(奥社嚴魂神社周辺の柱状節理)

 つまり金刀比羅神社の源は、「象頭山の自然崇拝」だったということになります。由緒にある大物主も釈迦の弟子も役小角も関係ありません。

 象頭山も「象の頭に似ている」のを命名由来としているようですが、少々無理筋に感じられます。釈迦が瞑想したインドの伽耶山(別名:象頭山)に似ていることから名付けられたとも言われますが、筆者はインドの伽耶山を見たことがないので判断できません。
 以下縄文語解釈。

●象頭山=「テューテュ・サン」=「岬の・棚のような平山」⇒google画像検索

 縄文語解釈では象頭山の地勢そのままの意味となります。

 擬人化した神様や神仏習合の権現様にありがたい由緒を添えて奉るのは人の心を整える方便として有益な部分もあるかとは思いますが、本来の自然崇拝に立ち返って、山、川、海などの自然自体を御神体としていっしょに奉ってもいいのではないでしょうか。

 このように、日本にいる八百万の神の正体の多くは、縄文語(アイヌ語)の理解できない後世の人々が縄文語の音に漢字を充て、それを漢字表記から解釈する過程で生まれた創作物です。※日本人の名字の多さ(地勢由来)も同じ理屈で捉えることができそうです。

 各神社の名称は縄文語で以下のように解釈することができます。

◎伊勢神宮=「イソ」=「磯、岩礁」=伊勢志摩の磯
 ※天照大神は漢字表記こじつけの太陽神ではなく、銅鐸祭祀のことです(※第二十四回コラム参照)。
◎太一信仰=「タ・エテュ」=「石の・岬」=伊勢志摩の岬
 ※伊勢の太一信仰は伊勢志摩の自然崇拝のことで、北極星とは関係ありません。  
◎愛宕神社=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れたたんこぶのような山」
 ※全国の愛宕山の地勢です(※詳細は第三十六回コラム参照)。
◎八幡神社=「ペッチャ」=「川端」
 ※八幡神社のほとんどは川端に立地(※詳細は第三十七回コラム参照)。
◎稲荷神社=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=高台の・祭場=稲荷山の山上
 ※狐=「クテュニン」=「岩の段々のある崖」=稲荷山の地勢
 ※ウカノミタマ=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=稲荷山の山上
◎金刀比羅宮=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」
◎熊野神社=「クマ・ノッ」=「横に長くなっているような・岬」


■■■ 椀貸塚古墳 ■■■
◎椀貸塚古墳(香川県観音寺/6世紀後半/円墳)⇒google map
◎大麻山椀貸塚古墳(香川県善通寺市/前方後円墳)⇒google map
◎吉原椀貸塚古墳(別名:大塚池古墳)(香川県善通寺市)⇒google map

●「ワ・カ・テュ」=「岸の・上(表面)の・小山」
or「ワ・ケ・テュ」=「岸の・はずれの・小山」
 =川・湖沼・海の岸辺の古墳 or 周濠のある古墳


 観音寺市の椀貸塚古墳は6世紀末の築造時期にしては珍しい「二重濠を持つ巨大円墳」です。濠と堤を含めると直径70mにもなります。

 大麻山椀貸塚古墳は金刀比羅宮の象頭山と峰続きの大麻山の中腹にあります。東側には金倉川が北流しています。ちょっと離れているように思えますが、かつて金倉川の流路はもっと西にあり、大麻山の山裾近く(JR土讃線の西側)を善通寺に向かって流れていたようです。つまり、「金倉川の岸にある古墳」の意です。

 吉原椀貸塚古墳は別名大塚池古墳で、池の中にある横穴式石室の巨石古墳です。盛り土が失われて石室が露出しています。説明をするまでもなく、「水辺の古墳」です。

 いずれも縄文語解釈との齟齬はありません。


■■■ 椀貸伝説 ■■■

 前述の椀貸塚古墳に関連して、日本各地にある椀貸伝説を縄文語で解読します。読んで字のごとく「椀を貸す」内容にさまざまな尾ひれがついた伝説です。代表例がwikipediaにありましたので引用してご紹介します。

<椀貸伝説例>金屋という場所に大きな岩があり、その岩の側で「膳椀を何人分貸してくれ」と叫ぶと、翌朝には希望した数の膳と椀が用意されていた。ある時、不心得者が借りた椀の数をごまかして返したところ、2度と貸してもらえなくなった。—鳥取県 八頭郡の伝承、『昔話伝説小事典』みずうみ書房

 異族との沈黙交易の象徴との説がありますが、筆者の見解は異なります。

 一連のコラムで繰り返し述べているように、このような漢字表記にこじつけた伝承はことごとくウソの創作物語の可能性が高いので、真正面から真面目に分析してもその多くは徒労に終わります。
 この物語も前述の金刀比羅宮の由来と同様に、後世の人々が縄文語(アイヌ語)に漢字を充てたことから生まれた疑いがあります。

 繰り返しになりますが、縄文語解釈では、

●「ワ・カ」=「岸の・上(表面)」
or「ワ・ケ」=「岸の・はずれ」

=川・湖沼・海の岸辺

 という意味ですから、縄文人が「水辺の岸」と呼んでいた土地に、当時の有識者が「椀貸」の漢字を充て、それを後世の人々が漢字表記から解釈して物語を創作したということになります。漢字を充てた時期と物語を創作した時期が一致しているとも考えられます。

 以下、同名古墳含め、椀貸伝説の残る土地の地勢を調べてみます。椀貸淵、椀貸池は言うまでもなく、その他もことごとく水辺であることが分かります。
 椀貸伝説は東北から九州まで分布しているので、縄文語の使用範囲も日本全国に広がっていた可能性があります。

【参考】椀貸伝説のある場所の一例(その他多数あり)
※名称から明らかに水辺と判断できない場所にはgoogle mapの地形図のリンクを貼っています。
◎久本古墳(香川県高松市)⇒google map
  ※溜め池の岸。周溝もある。
◎椀貸山古墳(福井県坂井市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
  ※馬蹄形の周濠を持つ。竹田川沿いでもある。
◎龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町)⇒google map
  ※印旛沼の岸辺の峰の上に立地。かつての印旛沼はJR成田線の際まで広かった。
◎カンカンムロ横穴群(千葉県印旛郡酒々井町)⇒google map
 ※中央排水路の岸。干拓前は、印旛沼と手賀沼が中央排水路の筋で太く繋がっていた。
◎貸し椀の穴古墳(福岡県朝倉市柿原)⇒google map
 ※国道386号の北側が浸水の恐れのある低地なので、かつては池沼だったのではないか。
◎貝喰池(山形県鶴岡市下川)
◎成田山新勝寺(千葉県成田市)⇒google map
  ※隣接する成田山公園には複数の池がある。
◎隠れ里(千葉県佐倉市下勝田)⇒google map
  ※高崎川支流の岸辺。
◎椀貸淵(山梨県南都留郡道志村)
◎椀貸穴(山梨県西八代郡市川三郷町鴨狩)⇒google map
  ※富士川の岸辺。
◎駒が池の椀貸穴(長野県下伊那郡大鹿村)
◎赤池(新潟県長岡市赤谷)
◎高浪の池(新潟県糸魚川市小滝)
◎椀貸池(静岡県掛川市)
◎椀貸淵(愛知県豊田市、愛知県設楽町)
◎椀貸せ淵(岐阜県下呂町小川)
◎蛇穴(岐阜県郡上市和良町)⇒google map
 ※鬼谷川の岸辺
◎亀淵(岐阜県美濃加茂市)
 ※木曾川の岸辺
◎小田中親王塚(椀貸穴)(石川県七尾市小田中)⇒google map
  ※久江川支流の岸辺。因みに「親王塚=シ・オ・テュ=峰・裾の・小山」の意。親王塚については、第四十回コラム参照。
◎竜宮淵(宮崎県東臼杵郡諸塚村)


■■■ 猫塚古墳(石清尾山古墳群) ■■■
(香川県高松市/4世紀前半/積石塚の双方中円墳)⇒google map

 石清尾山古墳群最大規模の積石塚古墳。全長約96m。

●「ノッケ・テュ」=「岬の・小山」

 峰山南側先端の頂部に築かれた古墳。「猫」に「ノッケ」を充てるのは、少々違和感があるので、解釈確度を上げるために、「猫」のつく他の古墳、地名を以下に挙げます。ほぼ峰の先端部で間違いありません。

【参考例】「猫」のつく他の古墳、地名
◎室ネコ塚古墳(奈良県御所市/5世紀初頭/方墳)⇒google map
  ※リンク先の峰の先端(画面中央)にあるのが室ネコ塚古墳。
◎五条猫塚古墳(奈良県五條市/5世紀前半/方墳)⇒google map
 ※峰の先端に立地。リンク先正面、道路左手の小山。
◎猫塚古墳(奈良県奈良市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
  ※小高い丘のように見えるが、開発のため不明。
◎猫塚(静岡県御前崎市)⇒google map
 ※御前崎の先端。近所の「ねずみ塚」は「ニテュ=林、森」の意。
◎猫塚(静岡県湖西市)⇒google map
  ※海に突き出た峰上。猫の仇討ち物語あり。
◎猫岩(群馬県赤城山)⇒google画像検索
  ※「猫に見える」との説あり。縄文語では「岬の岩」の意。峰から出っ張った地勢。


【「猫」の別の解釈】
■猫塚古墳
(茨城県筑西市/7世紀?/円墳)⇒google map
●「ナィ・カ・テュ」=「川・岸の・小山」
 ※鬼怒川沿いに立地。


■■■ 鏡塚古墳(石清尾山古墳群) ■■■
(香川県高松市/古墳時代前期/積石塚の双方中円墳)⇒google map

 石清尾山の積石塚の双方中円墳。鏡塚古墳は他の地域にも複数ありますが、鏡が出土したことを由来とする以外に、縄文語では以下の解釈が可能です。

●「カッ・ク・ムィ(山)」=「弓の形の・頂(の山)」⇒google ストリートビュー

 地勢そのままです。

 ちなみに香川県は縄文語解釈すると、以下のようになります。

■香川県
=「カンカン・ワ」=「小腸のように折れ曲がった・岸」
or「カィカィ・ワ」=「たくさん折れた・岸」=入り組んだ海岸線

 
縄文海進の頃は、平地が海だったので複雑に入り組んだ海岸線だったと思われます。 鏡塚古墳も同様の解釈が可能ですが、ほかの鏡塚古墳、香久山、香山里、各務原等を見ると、「弓の形の山」とした方がしっくりきます。別の表現で言い換える例は豊富にあるので、もしかすると両方の呼び名があったのかもしれません。
 解釈確度を上げるために、鏡出土由来以外の可能性のある他地域の鏡塚古墳も調べてみました。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
⇒googleストリートビュー
鏡山(豊前国田河郡鏡山=香春岳)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
=「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」⇒googleストリートビュー
・鏡山(唐津市鏡村)=解釈は同上。⇒googleストリートビュー
カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」=愛宕山の地勢⇒google ストリートビュー(※嵐山渡月橋から中央右奥)
・柄鏡塚古墳(福井県福井市)⇒googleストリートビュー
 ※「エ・カッ・ク・ムィェ」=「頭の・形が・弓の・頂」



■■■ 姫塚古墳(石清尾山古墳群) ■■■
(香川県高松市/4世紀前半/積石塚の前方後円墳)⇒google map

 男の名を冠する古墳の縄文語の意味が、それぞれ下記の解釈となるので、「姫塚」も同様に疑わなければなりません。

◎王子塚=「オ・ウシ・テュ=山裾・のところの・小山」
◎将軍塚=「シ・オケ・テュ=山・裾の・小山」
 or「シ・オ・ケ」=「山(大地)・裾の・ところ」
◎親王塚、新皇塚=「シ・オ・テュ=山・裾の・小山」

 そして、姫塚。

●姫塚=「シ・ムィ・テュ」=「山の・頂の・小山」

 つまり、王子塚や将軍塚が「山裾」に築造されたのに対し、姫塚は「山の上」に築造された古墳ということになります。意図した訳ではないと思いますが、王子と姫は対の関係になっています。
 石清尾山古墳群の姫塚古墳も峰山の南端の尾根上にあります。

 解釈確度を上げるために、他地域の姫塚古墳も挙げてみます。

【参考例】「姫」のつく他の古墳
◎姫塚古墳(茨城県東茨城郡大洗町/3世紀後半/前方後方墳)⇒google map
  ※小高い丘の上に立地。リンク先の左の小山。
◎姫塚古墳(千葉県山武郡横芝光町/6世紀末/前方後方墳)⇒google map
 ※小高い丘の上に立地。
◎姫塚古墳(長野県飯田市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
 ※小高い丘の上に立地。リンク先の正面の丘の上。
◎姫塚古墳(愛知県豊橋市/円墳)⇒google map
 ※小高い丘の上に立地。リンク先の正面の丘の上。
◎姫塚古墳(愛知県安城市/4世紀後半/方墳)⇒google map
 ※碧海台地の端に築かれた古墳。「孝徳天皇の皇女が~」の伝承は時代が合わない。
◎毘売塚古墳(島根県安来市/5世紀/前方後円墳)⇒google map
 ※中海を望む丘陵の突端に築造。
◎姫塚古墳(大分県日田市)⇒google map(ストリートビュー)
 ⇒google map(地形図)
 ※川沿いの丘上に立地。
◎姫塚古墳(佐賀県小城市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
  ※リンク先道路左手の丘の上に立地。
◎姫御前古墳(佐賀県小城市/古墳時代/前方後円墳)⇒google map
  ※鏡山と峰山を結ぶ尾根上に立地。「姫御前」は「シ・ムィ/コッチャ=山の・頂/谷の入口」で「谷の入口の山の上」を指したのではないだろうか。


【参考例】「新皇塚」「将軍塚」と対比できる「姫」のつく他の古墳

■姫宮古墳
(千葉県市原市/古墳時代後期/前方後円墳)⇒google map

 丘の上に築かれた古墳。「姫宮=シ・ムィ・モィエ=山の・頂・その入り江」の意。西北の峰裾には菊間新皇塚古墳(古墳時代前期/前方後方墳)があり、「新皇:姫=山裾:山上」で対の関係になっている。

■姫塚古墳
(長野県長野市/古墳時代前期前半/前方後方墳)⇒google map

 尾根の上に築かれた古墳。南方の峰先には川柳将軍塚古墳(4世紀前半/前方後円墳)があり、「将軍:姫=山裾:山上」で対の関係になっている。姫塚古墳が先行して築造されているので、「将軍」は、その対比としての命名の可能性あり。


※埼玉県神川町、千葉県富津市、滋賀県長浜市にも姫塚古墳がありますが、いずれも低地で山の上に築かれてはいません。別の命名由来を検討する必要があります。
※大阪府枚方市の姫塚古墳(古墳時代中期/円墳)は、周辺の開発のため、縄文語解釈ができませんでした。百済王の娘の伝承は時代が異なるので事実ではありません。


■■■ うのべ山古墳 ■■■
(香川県さぬき市/3世紀後半/前方後円墳)⇒google map

 四国最古級の積石塚前方後円墳。全長37m。

●うのベ=「ウナ・ピ(山)」=「火山灰の・石(の山)」

 低地に築かれた積石塚。花崗岩・安山岩・流紋岩等、いわゆる火成岩の石材が多く積まれています。奈良の畝傍山と同語源です。ただし、この古墳名称は、残念ながら「うのべ山」の地名由来ですが、この地域で縄文語が使用されていたのは確かだと言えます。

 ややこしいですが、この古墳の西方には火山(ひやま)という名の山がありますが、いわゆる火を噴く火山(かざん)の意味ではありません。四国の火山活動は一千万年前より前のことらしいので、縄文人でさえその火山活動は知るはずもありません。
 火山を縄文語解釈すると、

●火山=「ピ(山)」=「石ころの(山)」

 となります。火山(ひやま)は、讃岐の刳抜式石棺の石材となる白粉石(凝灰岩)を産出する山です。

 因みに「火山(ひやま)」という山は、香川のほかに、糸島市、広島市、呉市にもあります。
 広島市の火山には「神武天皇が烽火をあげた」伝説があるようですが、もとより神武天皇は実在しないので、この命名由来は明らかにウソです。呉市の火山も「山頂で灯台代わりの火を焚いた」ことを由来としています。

 広島市と呉市の火山は、ともに「巨石、巨岩がごろごろしている山」なので、縄文語解釈そのままの特徴を備えています。糸島の火山は「石」とは関係なさそうなので、別の由来を探った方がよさそうです。(広島市火山⇒google map /呉市火山⇒google map

 その他、肥国(火国)、氷川、斐伊川。これらはすべて「石ころ」由来ではないでしょうか。
 景行天皇紀に書かれている火が目的地の目印となったなどという肥国(火国)の命名内容はもとより、火山を由来とするという説も疑わしく思えます。「阿蘇の岩石」「押戸石」由来の名称ではないでしょうか。
 また、大宮の氷川神社と出雲の斐伊川を結びつける説がありますが、こちらもただ単に「石ころの多い川」が共通しているだけに思われます。


■■■ 爺ヶ松古墳 ■■■
(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map

 前方部盛土、後円部積石塚の前方後円墳。「爺ヶ松(じじがまつ)」は当て字ではないでしょうか。

●「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」

 リンク先の地図でご確認いただけると思いますが、この古墳は両脇を山に挟まれた奥池の際にあります。「爺ヶ松」が日本語とは思われないことから、確度の高い縄文語解釈と言えます。
 さらに、「マーテュ」の解釈を含む古墳を以下に二つあげます。


■■■ 相作馬塚古墳 ■■■
(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map

●「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」

 高月池のほとりの古墳。後述の万塚古墳が6世紀の築造で、縄文語の解釈確度が高いことから、相作馬塚古墳の解釈の妥当性も高いと言えます。


■■■ 万塚古墳 ■■■
(香川県高松市/6世紀)⇒google map

●「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」

 上記相作馬塚古墳と同じ地勢。平池のほとりの古墳。漢字の「万」の意味が不明で、縄文語解釈の確度が高いと言えます。ただし、万塚は周辺の地名でもあるので、残念ながら縄文語の使用時期は不明です。

 その他、丸亀市には岡田万塚古墳群がありますが、こちらも池畔になります。

◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map


■■■ ハカリゴーロ古墳 ■■■
(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map

  前方部、後円部ともに積石塚の前方後円墳。爺ヶ松古墳の上方約200mの、峰の先端の上に築かれた古墳。もちろん「ハカリゴーロ」は日本語ではありません。

●「パケ・リ・オロ」=「岬の先端の・高台の・ところ」

 発音がほぼ一致していて解釈確度は極めて高いと言えます。地勢そのままの意味と捉えることができます。


■■■ 磨臼山古墳(別名:遠藤塚古墳) ■■■
(香川県善通寺市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●磨臼(すりうす)=「シ・ウシ」=「山の・ところ」

 磨臼山は一般名詞なので、解釈確度が高いとは言えませんが、別名の遠藤塚は地形そのままを表現しています。

●遠藤塚=「エン・テューテュ」=「尖った・岬」⇒google mapストリートビュー

 時期は不明ですが、この場所で縄文語が使用されていた可能性は高いと言えます。地名と古墳のいずれが先の命名かはわかりません。


■■■ 王墓山古墳 ■■■
(香川県善通寺市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

 近隣古墳を縄文語解釈して、この古墳だけ漢字から解釈する訳にはいきません。王墓山古墳の属する有岡古墳群は、前述の磨臼山古墳、後述の宮が尾古墳とともに同系の人々の墓と考えられていますのでなおさらです。
 これまでの古墳の縄文語解釈で、将軍塚、王子塚、親王塚等が、将軍や王子や親王と無関係なことはすでに解説しています(※第三十五回第三十八回第四十回コラム参照)。
 この王墓山古墳も「王の墓」以外の意味である可能性があります。
 以下、縄文語解釈

●王墓(山)=「オ・ウン・パ・カ(山)」=「山尻・にある・岬の・ほとり(の山)」

 この「山尻にある岬」とは、金刀比羅宮の象頭山から峰続きの大麻山のふもとにある山、筆の山や我拝師山などの峰を指したのではないでしょうか。王墓山はそのほとりにある古墳という意味だと思われます。

 岡山県倉敷市にも「王墓山古墳」がありますが、まったく同じ地勢です。

【参考例】同名古墳
◎王墓山古墳(岡山県倉敷市/6世紀後半/円墳or方墳)⇒google map



■■■ 宮が尾古墳 ■■■
(香川県善通寺市/7世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「メ・ヤケ・オ」=「泉の・岸辺の・尻」

 大池の岸辺にある古墳です。「尻」は「大麻山の裾」を表現したのかもしれません。地勢上は解釈に齟齬はありません。
 この解釈が妥当だとすると、縄文語の使用時期が実に7世紀まで下ることになります。類例が少ないので、他の古墳も加味して判断しなければなりません。


■■■ 経塚古墳 ■■■
◎大窪経塚古墳
(香川県善通寺市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map※近隣地図
◎大麻山経塚古墳(香川県善通寺市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
◎横立山経塚古墳(香川県高松市/古墳時代前期後半/前方後円墳)⇒google map※近隣地図

 香川県以外にも各地に経塚古墳はありますが、決して「経典が埋納された古墳」という由来ではありません。仏教伝来は古墳時代後期のことなので、それ以前に築造された古墳も多々見受けられます。

●「ケゥ・テュ」=「死体の・小山」=お墓山

 縄文語解釈では、ただの「お墓山」程度の意味となります。


■■■ 八王子古墳 ■■■
(香川県高松市/古墳時代後期以降)⇒google map

 「八王子」の由来は、第三十八回コラムで解説していますが、高松市にも八王子を冠する古墳があるので、確認の意味も含め、おさらいします。
 ただし、こちらの古墳は小学校の体育館建設ですでに消滅しています。横穴式石室の石材が小学校に残っているようなので、築造時期は古墳時代後期以降となります。

●「ハッタ・オ・ウシ」=「淵・尻・のところ」=淵の出口(入口)

 「八王子」は、「湖や湾の出口」、あるいは「山間からの川の出口」につけられた名称です。決してスサノオの八人の王子たちが由来ではありません。

 高松市の八王子古墳を見てみると、やはり一宮池のほとりで縄文語解釈に齟齬はありません。


■■■ 船岡山古墳(1号墳) ■■■
(香川県高松市/3世紀中~4世紀前半/前方後円墳or双方中円墳)⇒google map

●「ポィナ・オカ」=「石の・跡」=積石塚の跡の意か
 ※「オカ=丘」という日本語がすでに使われていれば、「石の丘」の意。

 船岡池畔の船岡山上に築かれた積石塚の古墳。


■■■ 一つ山古墳 ■■■
(香川県さぬき市/4~5世紀/円墳)⇒google map

●「ピタ・チャ(山)」=「小石の・岸(の山)」
 ※海岸の砂利を葺石としておく。

 縄文語解釈が一つ山古墳の構造と一致しています。しかしながら、「一つ山」は古墳の築かれた山そのものの名称ともなっています。古墳名が地名由来なのか、地名が古墳由来なのかは不明です。


■■■ 青塚古墳 ■■■
(香川県観音寺市/5世紀中頃/帆立貝形古墳)⇒google map

  「青塚」という名の古墳は香川県以外にもいくつかあります。まさか「青々としている古墳」の意味ではないと思われますから、縄文語で他の意味を探ります。

●「アゥ・テュ」=「角の・小山」=角のようなものがついている小山=前方後円墳

 以下に挙げた古墳では、地勢上の共通点は見られないので、前方後円墳の名称とするのが相応しく思われます。

 その他、銚子塚古墳も前方後円墳の解釈が可能です。

●銚子塚(or山)古墳=「チー・テュ」=「中窪みの・小山」

【参考例】他地域の青塚古墳 ※すべて前方後円墳
◎青塚古墳(宮城県大崎市/4世紀?/前方後円墳)⇒google map
◎青塚古墳(長野県諏訪郡下諏訪町/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
◎青塚古墳(愛知県犬山市/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
◎豊場青塚古墳(愛知県西春日井郡豊山町/前方後円墳)⇒google map
◎青塚古墳(愛知県額田郡幸田町/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map


■■■ 平塚古墳 ■■■
(香川県観音寺市/7世紀初頭/円墳)⇒google map

 香川県最大の円墳。巨石の横穴式石室。

●「ピラ・テュ」=「崖(土が崩れているところ)の・小山」=崖のそばの古墳

 縄文語解釈も可能ですが、ここまで時代が降った場合は、「平らな塚」という意味で、頭の平らな古墳を表したのかもしれません。
 ただ、以下に挙げた他地域の例も含め、「平塚古墳」は、ほぼ川沿いの崖(土が崩れている場所)の上に立地しています。

【参考】他地域の平塚古墳
◎平塚古墳(群馬県高崎市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map
  ※河岸段丘の上に立地。
◎平塚古墳(愛知県掛川市/6世紀後半/方墳)⇒google map
 ※倉真川右岸の独立丘陵の先端に立地。
◎平塚古墳(福岡県糟屋郡粕屋町/弥生時代の終末期)⇒google map
 ※段丘上に立地。


■■■ 赤山古墳(赤山塚/赤田) ■■■
(さぬき市/4世紀中~後半/前方後円墳)⇒google map

●赤山=「アカ(山)」=「なだらかな尾根(の山)」

 「赤い土の山の意だろう」との解説を読みましたが漢字表記のこじつけ解釈は信用できません。ただ、墳丘の多くが残存せず、縄文語解釈も確度が高いとは言えません。
 赤山古墳は、かつて「赤山塚」と呼ばれ、地元の人々には「赤田」と呼ばれていたようです。

●赤田=「アカ・テュ」=「なだらかな尾根の・峰」


■■■ けぼ山古墳 ■■■
(香川県さぬき市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map

●「ケ(山)」=「額(の山)」=岬の先端(額部)or 中腹の意か

 確度に自信がありません。参考程度。



日出ずる国のエラーコラム
第四十五回 鳥取県の古墳の縄文語解釈、因幡の白兎はウサギではない!
 鳥取県周辺には古代より言い伝えられる神話、説話がいくつかあります。「因幡の白兎」「羽衣天女」など、誰もが一度は耳にしたことのあるこれらの物語の出所はいったいどこなのでしょうか。
 縄文語解釈では、残念ながら「うさぎ」も「天女」も登場しません。その代わりに『山裾の浜(=白兎海岸)』と『険しい山(=羽衣石山)』の自然地形が存在するだけです。

 周辺の古墳名から判断すれば、この地で縄文語が使用されていた可能性は非常に高く、さらにその築造年代からは縄文語に無縁な物語がいつ作成されたかも推定することができます。
 これまでの古墳の縄文語解釈では、近畿圏(大和、河内、播磨、丹後、丹波)に存在する古墳は少なくとも5世紀代までは解釈可能でした。つまり、漢字表記にこじつけた物語が創作された時期は、6世紀以降の可能性が高く、上代日本語が普及し始めたのも同時期と考えることができます。

 この時期の日本に起きた主な出来事を挙げてみます。

・継体天皇即位(507年)
・磐井の乱(528年)
・仏教伝来(538年)
・欽明天皇即位(539年)
・任那滅亡(562年)
・物部守屋の変(587年)
・推古天皇即位(593年)※厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我氏の政治
・遣隋使(600年~)
・冠位十二階(603年)
・十七条の憲法(604年)
・遣隋使(630年~)
・乙巳の変(645年)※蘇我氏滅亡、天皇記焼失。
・古事記、日本書紀、風土記編纂(8世紀~)

 つまり、このあたりの時代で、太古以来の言語を変えるほどの大革命が起こった可能性が高いということになります。
 「うさぎ」「うえし(羽衣石)」の発音や漢字表記にこじつけて生み出された空想物語。そこには縄文語解釈の欠片も見当たりません。これらの物語の作者はいったい誰なのでしょうか。羽衣伝説などは各地にありますが、もしかすると、それはそのまま革命勢力の足跡を示しているのかもしれません。

 西隣の出雲には、イザナギ・イザナミの国生みや黄泉の国神話がありますが、これも同じように考えると、同時期に創作された可能性が高いと言えます。(※第一回コラム第五回コラム参照)

 また、羽衣伝説の場合は、東アジア、東南アジア、フランスなど、因幡の白兎の場合は、南方系の物語に類型があるので、これらの大元の物語を探ると、記紀や風土記の編纂に関わった渡来系の人々のルーツを探ることができるかもしれません。

【今回取り上げる内容】
因幡の白兎/宮内狐塚古墳/羽衣石山(羽衣伝説)/福庭古墳/坊ヶ塚古墳/上神大将塚古墳・三度舞大将塚古墳/梶山古墳/徳楽方墳


■■■ 因幡の白兎 ■■■
(白兎海岸:鳥取県鳥取市白兎)⇒google map

 因幡の白兎の物語は、「古事記」と「先代旧事本紀」に記載があります。出雲風土記には記載がなく、因幡風土記は現存しませんが逸文(「塵袋」鎌倉中期)に記載があります。まずは、古事記記載内容の要約。

<古事記要約:稲羽の素兎(因幡の白兎)>
 兎は隠岐の島からこの地に渡ろうとした時にワニ(サメ)を騙して並ばせ、その上を踏んで海を渡った。騙されたと知ったワニは、ウサギの毛をすっかり剥いでしまった。
 兎が泣いているところに通りかかった大国主の八十神(兄たち)は、「海水を浴びて風に当たって寝ていろ」と教えた。兎がその教えのとおりにすると、ウサギの体は全身傷だらけになった。
 大国主が通りかかり、「真水で体を洗い、蒲の穂を敷き散らしてその上を寝転がれば、傷は治るだろう」と教えた。兎がそのとおりにすると、元通りになった。
 兎は大国主に「八十神は八上姫を娶ることができない」と言った。果たして八上姫は大国主と結婚すると言った。


 よくこんな物語が思いつくものだと感心させられます。南方系の物語に類型があるようなので、編纂に関わった人々のルーツを推測することができます。

 白兎の正体を縄文語で暴きます。

●白兎=「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜の・ところ」=白兎海岸⇒google map

 これは間違いなく「白兎海岸」のことです。白兎海岸は峰の先端にある浜です。
 また、因幡国は、

●因幡=「エン・ノッ・パ」=「尖った・岬の・頭」

 で、白兎海岸西方約10kmにある「長尾鼻」あたりが相応しく思えます。

 ここでは「山裾にある浜」が「うさぎ」に化けてしまいましたが、次の近隣古墳では「きつね」も登場します。もう、何がなんだか分かりません。


■■■ 宮内狐塚古墳 ■■■
(鳥取県湯梨浜町/4~5世紀/前方後円墳)⇒google map
 ※出雲山展望台の南南西約200m。岬の突端にあります。

 狐塚古墳は稲荷神社の項ですでに紹介していますが、おさらいします。

●「狐塚」=「クテュニン・テュ」=「岩の段々のついている崖の・小山」

 つまり、「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」という意味です。詳しくは第三十六回コラムをご参照ください。各地の狐塚古墳の例を多数挙げています。

 この宮内狐塚古墳は、全長90mの大型前方後円墳で、東郷池に突き出た岬の突端にあります。縄文語解釈そのままの地勢です。

 ついでに京都の伏見稲荷もおさらいします。

●稲荷=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=高台の祭場(稲荷山の自然崇拝)

 縄文語解釈では、稲荷神社と動物の狐はまったく関係ありません。稲荷神社の眷属とされる狐は、稲荷山の崖状の地形のことです。
 この神社に油揚げを供える習わしが千年以上続いているのですが、何かしら霊験はあるのでしょうか。にわかには信じられません。


■■■ 羽衣石山(羽衣伝説) ■■■
(鳥取県東伯郡湯梨浜町)⇒google map

 羽衣伝説は各地にありますが、鳥取県にもあります。(※羽衣伝説⇒wikipedia
 鳥取県の羽衣伝説のある「羽衣石山(うえしやま)」の場合は、高確率で漢字表記にこじつけて後付けされた物語です。発音から言っても日本語ではありません。

●羽衣石(山)=「ウェン・シ(山)」=「険しい・山(の山)」

 山上には中世に要害を頼んで築かれた南条氏の羽衣石城があります。羽衣石山は岩崖が連続する険しい山です。これが羽衣伝説に化けるのですから、縄文語解釈の欠片も見当たりません。


■■■ 福庭古墳 ■■■
(鳥取県倉吉市/7世紀前半/円墳)⇒google map

●「フンキ・ネ・ワ」=「水際の一段高くなったところ・の・岸」

 天神川沿いの小高い岸で縄文語解釈そのままの地勢ですが、残念ながらこの古墳名は地名由来です。ただ、時期は不明ですが、縄文語使用の確率は非常に高いと言えます。


■■■ 坊ヶ塚古墳 ■■■
(鳥取県鳥取市/古墳時代後期/円墳)⇒google map

●「ポール・テュ」=「岩窟の・小山」

 石室壁面に線刻のある横穴式石室を持つ古墳。固有名詞の可能性が高く、縄文語解釈の意味は完全に一致しているのですが、発音と漢字表記が少々ズレているのが惜しいところです。


■■■ 上神大将塚古墳/三度舞大将塚古墳 ■■■
◎上神大将塚古墳
(鳥取県倉吉市上神/古墳時代前期/円墳)⇒google map
◎三度舞大将塚
(鳥取県倉吉市大谷茶屋/弥生時代/方墳形)⇒google map

●「タン・シ・オ・テュ」=「こちらの・山・裾の・小山」

 「こちらの山」は、「大きな峰から外れた山」を指しているのではないかと思います。この解釈に登場する「シ・オ=山・裾」は「因幡の白兎」の「白」と同じ用法です。
 これまでのところ、「シ・オ=山・裾」には「塩」「白」「将」「親王」「新皇」などの漢字が充てられることが多いようです。


■■■ 梶山古墳 ■■■
(鳥取県鳥取市/6世紀末~7世紀初頭/変形八角形墳)⇒google map

 彩色壁画のある古墳。

●「カス・ヤマ」=「越える・山」

 つまり、山であれば「峰の間を縫って越えるようなところ」、川であれば「川を渡るところ」の意です。これは、第四十回コラムのクワンス塚古墳の項で解説しています。「鑵子塚古墳」と同義の名称です。
 しかしながら、この「梶山」は地名のようで、北の袋川と南の私都川の谷を結ぶ丘陵の隙間を指しているようです。残念ながら縄文語使用の時期を特定するヒントにはなりません。


■■■ 徳楽方墳 ■■■
(鳥取県西伯郡大山町/古墳時代前期/方墳)⇒google map

●「テュ・ラケ」=「小山の・低いところ」

 これは丘陵の低い場所を表したものと思われます。固有名詞の可能性が高く、縄文語の意味そのままの地勢です。下に挙げた参考例でもほぼ地勢が一致しているので、築造時期の縄文語の使用は確実だと思われます。

 この徳楽方墳と似た名称の古墳が大阪にありましたが、現在は開発で消滅しています。

◎徳楽山古墳(大阪府羽曳野市/古墳時代終末期/円墳)⇒google map

 羽曳野丘陵東部の低い箇所にあった小山の山頂部に築造されています。横口式石槨から終末期の古墳とされていますが、これは地名由来の名称の可能性も高く、縄文語使用時期の判断材料にすることはできません。
 しかしながら、「徳楽」の地勢も鳥取の徳楽方墳と一致しています。

 また、この「徳楽」に関連して、似た地名の「トクラ」も調べてみました。

●戸倉=「テュ・ラ」=「小山の・低いところ」

 と解釈すれば、「徳楽」と同じ地勢を表すことになります。以下の参考例を見ると、「丘陵の間の低い土地」「低い峰の谷」の地形を表しているようです。

【参考例】各地の「トクラ」のつく地名
◎宮城県本吉郡南三陸町戸倉⇒google map
◎千葉県富里市十倉⇒google map
◎東京都あきる野市戸倉⇒google map
◎静岡県駿東郡清水町徳倉⇒google map
◎静岡県伊豆市戸倉野⇒google map
◎静岡県三島市徳倉⇒google map
◎京都府舞鶴市十倉⇒google map
◎京都府綾部市十倉⇒google map
◎兵庫県三田市十倉⇒google map


日出ずる国のエラーコラム
第四十四回 丹後丹波の古墳の縄文語解釈、天橋立は天に通じるハシゴではない!
 丹後には渡来文化の影響を窺わせる弥生時代以来の鉄器工房や古墳時代の製鉄工房があります。大陸製の副葬品も散見され、古墳の規模からはその勢力の大きさが窺えます。大和王権と対立するほどの勢力があったとする説もあり、古墳時代中期からは丹波に移動しています。

 今回のコラムの縄文語解釈結果を見ると、渡来文化が色濃く残る丹後丹波地域でさえも縄文語の使用時期は少なくとも5世紀~6世紀前半までは降るものと思われます。兵庫県中部北部も同様の傾向を示しています。

 半島や大陸の文化や技術を持った渡来人が日本海を渡り、丹後に土着したか、あるいは、渡来人が先住民に受け入れられ、文化や技術を伝えた。そして、古墳が築造され、縄文語で呼称される。
 この流れを考える時、朝鮮半島南部にも同じ言語、文化を共有する倭人の同族がいたと仮定する方が歴史の流れを自然に理解することができます。今後は、それを検証すべく、縄文語解釈のエリアを西に拡大させていこうと思います。

 上代日本語は、いったいいつどこで生み出され、どこで使われていた言語なのでしょうか。

【今回取り上げる内容】
天橋立/蛭子山古墳/銚子山古墳/枡塚古墳/ニゴレ古墳/白米山(しらげやま)古墳/聖塚古墳・菖蒲塚古墳/二間塚古墳/坊主塚古墳/千歳車塚古墳/岡古墳


■■■ 天橋立 ■■■

 「天橋立」の呼称はいつから用いられているのでしょうか。有史以前からこの姿らしいので、この名も同じくらい古いかもしれません。
 まずは、丹後国風土記記載内容。

<丹後国風土記逸文>「与謝の郡。郡の役所の東北の隅の方に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。初めの名を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の名を久志の浜と名づけた。そう名付けたわけは、国土をお生みになった大神の伊射奈芸(いざなぎ)命が天に通おうとして梯子を作ってお立てになった。それで、天の椅立と名付けた。伊射奈芸命がおやすみになっている間にその椅が倒れてしまった。それで、伊射奈芸命は霊妙な働きが表れたことを不思議に思われた。それで久志備の浜と名付けた。これを中古の時代には久志といっていた。」(参考:風土記 中村啓信 角川ソフィア文庫)

 「イザナギ云々」は言うまでもなく、古代人の漢字表記からのこじつけ創作です。
 以下縄文語解釈。

●天橋立=「ア・ノッ・ペチャ・タ・タィ」=「横たわっている・岬・波打ち際・にある・林」⇒google map

  天橋立の松林は三千年前から維持されていたようです。
 ついでに「久志浜」も縄文語解釈します。

●久志=「ク」=「川(山)向こう」

 さらに天橋立で仕切られた阿蘇海。阿蘇海は久志の言い換え表現で、まったく同じ意味です。

●阿蘇(海)=「アッチャ」=「対岸、向こう岸」

 「クシ」は決して「霊妙」などという意味ではありません。
 そして、その東隣の宮津湾。

●宮津(湾)=「モヨ・チャ」=「入り江の内部の・岸」
⇒google map

 いずれも確度の高い縄文語解釈です。地勢そのままです。

 天橋立周辺の縄文語解釈を見ると、時期は不明ですが、この地での縄文語(アイヌ語)使用は確度が高そうです。


■■■ 蛭子山古墳(日本海三代古墳) ■■■
(京都府与謝郡与謝野町/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

 墳丘長145m。網野銚子山古墳(京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)とともに、日本海三代古墳の一。古墳時代前期の丹後半島周辺に大きな勢力があったとされています。

●蛭子(山)=「エン・ピ・シ」=「尖った・石の・山」=葺石の古墳

 表面には葺石と埴輪が確認されています。


■■■ 銚子山古墳 ■■■
◎網野銚子山古墳(日本海三代古墳)
(京都府京丹後市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
◎黒部銚子山古墳
(京都府京丹後市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

 一般的に酒器の「銚子」に似ていることから命名された江戸期の「前方後円墳」の名称とされていますが、それでは日本各地に見られる銚子山、銚子滝等の「銚子」を冠する地名の説明がつきません。
 銚子は縄文語の「チー=中窪み」の意で、太古から使用されていた言葉だと考えます。つまり、

●銚子(山)=「チー(山)」=「中窪み(山)」=前方後円墳

 詳しくは第三十六回コラムの銚子塚、銚子山古墳の項をご参照ください。


■■■ 枡塚古墳 ■■■
(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map

●「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」

 日本海の海岸段丘上に築かれた古墳。縄文語解釈そのままの立地です。固有名詞の可能性が高く、解釈の確度はかなり高いと言えます。
 同じ語源の古墳に兵庫県加西市の「マンジュウ古墳」があります。マンジュウ古墳もため池の際の立地です。


■■■ ニゴレ古墳 ■■■
(京都府京丹後市/古墳時代中期)⇒google map

●「ニ・オロ」=「隙間の・ところ」=峰の間

 名称は地勢由来と思われます。奈良の「新木山(にきやま)古墳(5世紀前半/前方後円墳)」と同じ地勢、同じ用法です。日本語ではありませんし、解釈確度が高く感じられます。

 朝鮮半島の影響を受けた鉄製甲冑が出土し、丹後地方の中でも早い時期に金工技術が伝来したことを示しています。
 このような出土品を持つ古墳の呼称が縄文語解釈できるということは、縄文人と弥生人の境界線が曖昧であった可能性を示しています。大陸や半島由来の骨格を持ちながらも、弥生人は縄文人と言語や文化を共有していたのではないでしょうか。
 それはちょうど現代における日本在住の(日本生まれの)外国人が日本文化を日本人と共有し、日本語を流暢に話すのとまったく同じ現象と言えます。筆者はそのような地域が朝鮮半島南部にまで及んでいたと考えています。


■■■ 白米山(しらげやま)古墳 ■■■
(京都府与謝郡与謝野町/古墳時代前期中頃/前方後円墳)⇒google map

 墳丘長90m。近隣では蛭子山古墳に次ぐ大きさ。築造時では丹後地方最大規模、かつ日本海側最古級の前方後円墳。
 白米山(しらげやま)が日本語でないことは明らかです。

●白米(山)=「シロケ」=「山裾」

 地勢そのままです。


■■■ 聖塚古墳/菖蒲塚古墳 ■■■
いずれも(京都府綾部市/5世紀前半/方墳)⇒google map

 丹波地方の大型方墳。

●聖塚=「ピ・シリ・テュ」=「石の・峰の・小山」=葺石の古墳

 聖塚古墳は全国的にも最大規模の葺石を持つ方墳です。

●菖蒲塚=「ア・ヤマ・テュ」=「一方の・山の・小山」=聖塚との対比で一方の塚
or「シ・ホ・テュ」=「山・尻の・小山」=山裾の古墳 
※「しょうぶ塚」の読みと仮定


■■■ 二間塚古墳 ■■■

(京都府丹波市/5世紀後半~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「ペッチャ・テュ」=「川端の・小山」

 竹田川沿いの古墳。「二間」に特別な意味がないのであれば、かなり確度の高い縄文語解釈と言えます。「富士見」「八幡」と同語源です(※第三十七回コラム参照)。


■■■ 坊主塚古墳 ■■■
(京都府亀岡市/5世紀後半/方墳)⇒google map

●「プセ・イ・テュ」=「ぬかっている・ところの・小山」
or「ポッチェ・イ・テュ」=「どろどろしている・ところの・小山」


 亀岡盆地は太古の昔は湖でした。この周辺のぬかるんだ土地から名付けられた呼称だったのではないでしょうか。極めて確度の高い解釈です。

 「保津川」「保津峡」も同語源で「湿地を流れる川の渓谷」とするのが相応しく思えます。大国主が切り開いた渓谷を妻の「三穂津姫」にちなんで保津川・保津峡と名付けたという伝説があるらしいですが、これは言うまでもなく漢字表記にこじつけたただの空想物語です。


■■■ 千歳車塚古墳 ■■■
(京都府亀岡市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map

●車塚=「ケゥ・ル・テュ」=「死体の・岬の・小山」

 車塚古墳は各地にあります。命名由来は一般的に「前方後円墳が貴人の乗る車に似ているから」とされていますが、まったく信じられません。
 近接する「坊主塚古墳(5世紀後半築造)」が確度の高い縄文語解釈ができているので、この車塚古墳も縄文語解釈できると判断してもよさそうです。
ということは、この地域では少なくとも6世紀前半までは縄文語が使用されていたということになります。
 兵庫県にも巨大な車塚古墳があります。旧丹波国地域です。

◎雲部車塚古墳(兵庫県丹波篠山市/5世紀中頃/前方後円墳)

 千歳車塚古墳が縄文語解釈可能だとすると、近隣のこちらの古墳も同様に考えてよさそうです。第十代崇神天皇期の四道将軍の一人である丹波道主が埋葬されているとも言われていますが、築造時期がまったく合いません。


■■■ 岡古墳 ■■■
(京都府京丹後市/7世紀初頭/円墳)⇒google map

  横穴式石室の中には、6体の人骨とともに、金銅装の環頭大刀をはじめ勾玉などの玉類や須恵器など豊富な副葬品が出土しています。また、馬の前脚の骨が人骨の前の石の上に置かれており、肉のついた脚片を供えたものではないかと考えられています。(※出典:京丹後市HP)

●岡=「オカ」=「跡」

 現在の岡古墳は移築されたもので、もともとは西方の新樋越川の下流の砂丘の中にありました。縄文語解釈では、湿地の跡と捉えられます。新樋越川は水害を避けるために設けられた離湖と海を結ぶ人工の川です。新樋越川以前は、江戸期に人力で掘削された樋越川(暗渠)が東方にありました。離湖の旧名は「河続海(かつみ)」です。

●河続海(かつみ)=「カンチゥ・メ」=「出水の・泉沼」

 離湖は大雨のたびに溢れて周辺に被害をもたらした湖のようです。縄文語解釈そのままの意味です。


日出ずる国のエラーコラム
第四十三回 天日槍は新羅から来ていない!楯縫は楯を作っていない!
 兵庫県北部の古墳を解釈するにあたって、地名譚や神社の由緒等でいくつか気になる点が出てきたので、回を分けて解説させていただきます。

【今回取り上げる内容】
天日槍、城崎温泉、出石、気比、イザサワケ(垂仁天皇紀)/新羅、加羅、百済、高麗のデタラメ地名由来について/楯縫神社、彦狭知/生野(応神天皇の伝承)/神奈備(神鍋山)


■■■ 天日槍、城崎温泉、出石、気比、イザサワケ(垂仁天皇紀) ■■■

 天日槍の渡来伝説を検証します。日本書紀、古事記、播磨風土記等に記載されている有名人です。以下、日本書紀の記載内容要約。

<日本書紀>垂仁天皇3年3月。昔、新羅王子の天日槍が宝物を持ってきた。今、但馬国ではこれを神宝としているという。天皇はそれを見たいと思い、天日槍の曾孫の清彦を召した。清彦は神宝を献上した。すなわち、羽太の玉一つ、足高の玉一つ 、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ 、日鏡一つ 、熊の神籬一つ。ほかに出石の刀子が一つあったが、これは身に着けて隠した。酒の席で隠しているのがばれて献上したが、刀子が勝手に清彦のところに戻ってきたという。天皇は畏れて、それ以上求めなかった。刀子はそれから淡路島に渡り、土地の人に祀られている。

 天日槍を縄文語解釈します。

●天日槍=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map

 リンク先の地勢を見ると、これはどう考えても但馬国の城崎温泉を指しています。温泉を意味する「ポケ・イ」は類似の単語がほとんどないので、この単語を切り口に解釈しました。極めて確度の高い解釈です。※因みに「温泉」を意味する「ホコ」は大国主の別名である「八千矛神」にも使用されています。
 さらに、城崎温泉は、

●城崎(温泉)=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」

 で、天日槍の意味と完全に一致します。城崎温泉の位置する円山川下流域はコウノトリの生息域を保全するための鳥獣保護区であり、ラムサール条約に登録された湿地帯でもあります。
 出身地の伝承がある出石は、

●出石
=「エテュ・シ」=「岬の・山」
or「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」

⇒google map


 となります。出石は山に囲まれた盆地の地勢です。これは、出石城の南に聳える有子山城を指したとするのが相応しく思われます。有子山城は山名祐豊の築城です(1574年)。

 但馬国一宮である出石神社には、祭神として天日槍のほか、出石八前大神(いづしやまえのおおかみ)が祀られていますが、この「八前」は、明らかに

●八前=「ペッチャ」=「川端」=出石川沿い

 の意で、川沿いの地勢を指す「八幡」や「富士見」と同語源と思われます(※第三十七回コラム参照)。

 また、天日槍と都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が同一人物である説がありますが、同一人物とすれば、天日槍が敦賀温泉の人か、あるいは都怒我阿羅斯等の名が丹後半島あたりを表現したとも捉えることができます。ただし、同じような地形は日本各地にあるので、単一視点から同一人物とするのは安直に思えます。

●「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」= 立石岬/敦賀半島or丹後半島google 画像検索(丹後半島)

 双方の地名に共通する「気比」の縄文語解釈は以下です。

●「ケ」=「額・縁」=海岸沿いの意か

 三人称は「ケピ」なので、

●「テュ・ルッケイ・ケピ」=「岬が・崩れているところ・その縁(額)」

 のような形となります。
 古事記では「気比大神」を「御食津(みけつ)」が転訛したもので食物の神だとしていますが、もとより信じられません。
 ついでに気比神宮の主祭神のイザサワケですが、これも通説では食物神です。この類いの漢字表記にこじつけた説はことごとくデタラメです。

●イザサワケ=「イソ・サン」=「磯の・出崎」 ※「ワケ」は要検討

 つまり、敦賀半島です。決して食べ物の神ではありません。
 そして、天日槍の故国とされる新羅。新羅も縄文語解釈します。

●新羅=「シロケ」=「山のふもと」

 出石の地勢と一致します。縄文語解釈では、天日槍が実在の人物であれば、ただ「出石から来た」というだけで、朝鮮半島から海を渡って来たという訳ではありません。


■■■ 新羅、伽耶、百済、高麗のデタラメ地名由来について ■■■ 
 「新羅から来た」「伽耶から来た」「百済から来た」「高麗から来た」。記紀を読むと、多くの半島由来の人々が登場します。前述の天日槍が代表的なものですが、伝承として出石の地元にしっかり根付き、出石神社の主祭神としても祀られています。
 しかし、大変申し訳ないですが、他の例も勘案すると、これらの物語は高確率でデタラメです。
 前項で解釈したように、新羅は、

●「シロケ」=「山裾」

 の意です。そのような地勢は日本全国どこにでもあります。そこに「新羅」という漢字が充てられているというだけの理由で、日本の歴史に「新羅由来の人物」がいちいち登場して活躍されては困ります。
 同義と思われる富士山のふもとの駿河。

●駿河=「シロケ」=「山裾」=富士山のふもと

 これにもし「新羅」の漢字が充てられていれば、富士山のふもとにさえ、めでたく「新羅人」の登場となる訳です。
 同じように「伽耶」。別名である「加羅」もまとめて。

伽耶=「カ・ヤ」=「岸・陸岸」=岸辺
●加羅=「カ・ラ」=「岸の・低いところ」


 天日槍と同一人物の説がある都怒我阿羅斯等は「意富加羅国」の出身です。

●意富加羅国=「オオ・カ・ラ」=「大きな・岸の・低いところ」

 言うまでもなく、このような地勢も日本全国どこにでもあります。
 日本各地に無数に存在する「○ヶ谷」、そして「○ヶ浦」。もし、これらの地名が上記と同様の由来で同じ漢字を充てられていたとしたら、日本中に渡来人物語が根付くことになります。本当に恐ろしいことです。
 しかし。

●高麗=「コ・マ」=「湾曲した・川」※第三十四回コラム参照

 その恐ろしい現象が実際に起こっていると思われるのが日本全国に数多く残る「高麗」という地名です。「高麗人が住んだ」という地名由来以外見たことがありません。

 百済も例外ではありません。
 百済という日本語読みに関しては、河内国風土記の逸文(日本声母伝 文化14年[1817年])にその由来が書かれています。以下要約。

<日本声母伝>百済の人が渡来すると、河内国の久多羅郡に住まわされた。敏達天皇の時に、阿耨多羅三藐三菩提寺(あのくたらさんみゃくさんぼたいじ)などを建てた。だから(クタラという)地名にしたと河内国風土記に見える。昔、そのくたら郡に住まわされたことによって、後に日本中に住んだ百済人もクタラ人と呼ぶようになった。本来クタラは河内の地名であって、韓語で百済(ペクチェ)国を「クタラ」というのではない。

 もっともらしい説ですが、違うと思います。以下縄文語解釈。

●百済=「クッチャ」=「湾、川等の入口」

 「クッチャ」というのは、そもそも「湾や、川等の入口」につけられた地名で、同じ地勢に同じ地名が与えられていたものです。「百済」は他地域にも見られる地名ですが、これまでの地名由来譚の縄文語解釈も勘案すると、発音を機縁として「百済人が住まわせられた」か、あるいは、由来がはっきりしない場合は、発音や「百済」という漢字表記から「百済人が住んだ」という物語が創作されたか、いずれかの可能性が高いと思われます。「高麗(=「コ・マ=湾曲した川」)」とまったく同じロジックです。

 なぜ「百済」という漢字が充てられたかと言えば、それは朝鮮半島の「百済」も「黄海の入口の国」を表した「クッチャ」と倭人から呼ばれていたからではないでしょうか。それは同時に朝鮮半島南部にも倭人の勢力圏があった可能性を示しています。

 同様に「新羅=太白山脈のふもと」、「伽耶=岸辺、加羅=岸辺の低い土地」と、少なくとも半島南部の三国の解釈は不自然ではありません。
 

■■■ 楯縫神社、彦狭知 ■■■

 兵庫県の豊岡市には但馬で二番目に大きい横穴式石室を持つ楯縫古墳(豊岡市/7世紀前半/円墳)があります。この楯縫古墳の近隣には楯縫神社があります。古墳名の由来はこの神社でしょうか。
 兵庫県には、ほかに養父市、丹波市に楯縫神社があります。他県では茨城県稲敷郡(常陸国信太郡一宮)や鳥取県倉吉市にあります。
 兵庫県の楯縫神社は彦狭知を主祭神としています。茨城県の楯縫神社は大国主の国譲りに活躍したフツヌシ神を祭神としていますが、彦狭知を主祭神とする説もあります。鳥取県の楯縫神社は祭神が異なるようです。

 斎部広成が著した古語拾遺において、彦狭知は紀伊忌部氏の祖とされる人物です。以下要約。

<古語拾遺>
[天照大神の天岩戸隠れの際の八十万神の相談]手置帆負(讃岐忌部氏の祖)と彦狭知の二柱の神をして、天御量(あまつみはかり)をもって峡谷の木材を伐り、瑞殿(みずのみあらか)を造営し、笠と矛と盾を造らせる。
[神武天皇の橿原即位の際]手置帆負と彦狭知の二柱の神が孫を率いて、斎斧、斎[金且](スキ)をもって、始めて山の木を採り、正殿を造営した。

 また、日本書紀には、

<日本書紀>(国譲りが完了した後、高皇産霊尊が)紀国の忌部の遠祖である手置帆負命を作笠者(かさぬい)、彦狭知命を作盾者(たてぬい)の役目とした。

 とあります。
 楯縫は出雲国の郡名にもあります。出雲大社の東側の宍道湖沿いで、「杵築大社(のちの出雲大社)に楯を作って奉納した」ことを地名由来としているようです。
 以下、縄文語解釈。

●楯縫=「タン・ティネイ」=「こちらの・湿地」

 何に対して「こちら」の意味でしょうか。その解は、彦狭知の名前にあります。

●彦狭知=「シコッ・サ・サリ」=「大きな谷(窪地)の・隣の・湿地」

 ということです。では、各地の地勢を見て検証していきましょう。

◎楯縫神社(豊岡市)⇒google map
 ※豊岡市中心部の大きな窪地との対比か。
◎楯縫神社(養父市)⇒google map(式内社の論社二社)
 ※建屋の楯縫神社の方が式内社にふさわしい。建屋川の支流の谷に立地。
◎楯縫神社(丹波市)⇒google map
 ※加古川沿いの西の盆地に対する対比か。
◎一宮楯縫神社(茨城県稲敷郡)⇒google map
 ※霞ヶ浦のほとりの湿地。
◎信太楯縫神社(茨城県稲敷郡)⇒google map (同上)
 ※霞ヶ浦のほとりの湿地。
◎楯縫神社(鳥取県倉吉市)⇒google map
 ※倉吉市中心部の盆地との対比か。
◎旧出雲国楯縫郡⇒google map
 ※斐伊川沿いから外れた湿地。あるいは宍道湖の隣の湿地。
◎旧紀伊国名草郡(和歌山市鳴神社付近)⇒google map
 ※紀ノ川のほとりの湿地。

 ちなみに、作盾者(たてぬい)と一対で登場する作笠者(かさぬい)と手置帆負を解釈すると、

●作笠者=「コッ・ティネイ」=「窪地の・湿地」
手置帆負=「ト-・オ・ケ・ポッチェイ」=「湖沼(海)の・尻・のところの・どろどろしているところ」=沼尻の湿地

 となります。こじつけの解釈に見えるかもしれませんが、「楯や笠を縫う」などの由来よりはだいぶマシかと思います。
 これは、紀伊に関する元資料に「タテヌイ・ヒコサシリ・カサヌイ・タオキホオイ」がまとめて記載されていたのが原因ではないでしょうか。それらが漢字表記から人名に化けて職人に生まれ変わったと考えれば辻褄が合います。


■■■ 生野(応神天皇の伝承) ■■■
 兵庫県中央部、旧播磨国と旧但馬国の中間地点に生野町があります。兵庫県を南北に分ける分水嶺でもあるこの地には、応神天皇由来の地名譚があります。

<播磨国風土記>ここに荒ぶる神が住み、往来する人の半数を殺すので「死野」と呼ばれていたが、応神天皇が「これは悪い名であるから改めるように」と言って「生野」に改めさせた。

 これも言うまでもなく、漢字表記にこじつけられた空想物語です。

●生野⇒google map
=「エンコ・ノッ」=「岬の・顎」=岬の出っ張ったところ
or「エンコ・ヌ」=「岬の・野原」

 生野城跡の山か、生野の盆地を指したのではないでしょうか。万一通行人が死んだとしても、それはただの偶然です。


■■■ 神奈備(神鍋山) ■■■
 兵庫県豊岡市に神鍋山があります。この神鍋は神奈備と同語源と思われ、太古の昔から神の宿る山として崇められています。これを機に、神奈備を縄文語解釈してみようと思います。

●神奈備
=「カン・ナ・プ」=「上の・方の・もの」=あの世のもの
or「カムィ・ネ・プ」=「神・である・もの」


 アイヌ語で「プ」は動詞、形容詞の母音で終わる単語について「~であるもの」の意を表し、子音で終わる単語につく場合は「ペ」に変化します。しかしながら、どうもその使い分けがされていないような気配があります。
 同様の使い方に「物部」があります。上記用法であれば、「モノノプ」となるはずですが、「モノノペ」とする方が自然です。
 また、「〇〇部」と呼ばれる大和王権の部民の名称はこの「プorペ」由来ではないでしょうか。


日出ずる国のエラーコラム
第四十二回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(四)ヨゴレババ古墳群ってなんだ?
 兵庫県北部の古墳の縄文語解釈を進めた結果、5世紀代までは確度の高い解釈をいくつか発見することができました。6世紀以降もかなり可能性が感じられます。
 しかしながら、南部に比して解釈の確度が少々心許なく、また、6世紀以降に関しては、南北ともに解釈例が貧弱な傾向にあるのは否めません。

 ということで、次は隣接地域の丹後や吉備に範囲を拡大し、解釈の確度の向上を目指すことにします。この地域周辺の縄文語使用の評価(=上代日本語の拡散状況)は、より確実な裏付けが得られてから行いたいと思います。

 まずは、兵庫県北部の古墳の解釈をご覧ください。

【今回取り上げる内容】
ヨゴレババ古墳群/池田古墳/船宮古墳(船山)/城ノ山古墳/茶すり山古墳/長塚古墳/小丸山古墳/加都王塚古墳/禁裡塚古墳/文堂古墳/長者ヶ平/居籠塚


■■■ ヨゴレババ古墳群 ■■■
(兵庫県豊岡市/7世紀前半/円墳2基)⇒google map

●「ヨコペ・パン・パ」=「海中の孤岩・川下の・岬」


 すごい名前で日本語ではとても理解できませんが、縄文語解釈を見れば納得できます。断崖絶壁の上に築造された2基の円墳です。この地域での縄文語使用は確実です。
 2号墳の石室には高句麗の古墳と同じ技術が用いられていて、渡来系の被葬者の可能性が高いと言われています(wikipedia参照)。隋の煬帝が高句麗遠征していた頃のことです。
 被葬者が渡来人で古墳名が縄文語であれば、渡来人は倭人に受け入れられ、在地文化に馴染んでいた可能性が高くなります。しかし、古墳名が既存の地名由来であれば、縄文語使用の時期の判断は難しくなります。その辺は、他の古墳も含めて総体的に判断するしかありません。


■■■ 池田古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

 墳丘長136m、但馬地方最大、兵庫県で4番目の規模の大型前方後円墳。円山川沿いに築造。墳丘は葺石で覆われ、左右のくびれ部に造出があります。

●「エンコ・タ」=「岬の・石」=葺石の古墳

 池の田ではないことは明らかですが、縄文語解釈も少々心許ないです。他の古墳の信憑性次第です。


■■■ 船宮古墳(船山)■■■
(兵庫県朝来市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map

 墳丘長91m、周濠を含めて120m。但馬では池田古墳に次ぐ規模。円山川の段丘上に築造された古墳です。葺石や円筒埴輪、形象埴輪が認められ、全国的にも珍しい牛形埴輪が出土しています。
 墳丘上に八幡社があるので船宮でしょうか。昔は「船山」と呼ばれていたようです。

●「ペナ(山)」=「上流の(山)」=池田古墳の上流

 これは規模や築造時期から判断して、池田古墳から見て「円山川の上流」を表現したものと思われます。縄文語解釈の確度はかなり高いと言えます。


■■■ 城ノ山古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/4世紀後半/円墳)⇒google map

 池田古墳に近接する但馬地方最古の古墳。尾根の先端に築造。

●「シ・オ(山)」=「山の・裾(の山)」

 地勢そのままです。他の地域の「城」のつく古墳も、いわゆる「お城由来」でなければ、同語源の確率が高いのではないでしょうか。

 新潟県胎内市の日本海側最北端の古墳である「城の山古墳(4世紀前半)」は越後城氏由来のようなので縄文語解釈は当てはまりません。ちなみに、別名である「ひとかご山」の縄文語解釈は、

●「ペッチャ・カ・ケ」=「川端の・平らな・ところ」=河原の平らな山

 が相応しく思われます。

 また、「上ノ山古墳」も「ジョウノ」の読みが転じたものであれば、同語源の可能性があると思われます。参考に挙げた下記「上ノ山古墳」「上の山古墳」ともに、すべて「山裾」に築造されています。

【参考】各地の上ノ山古墳、上の山古墳
◎山田上ノ山古墳(孝徳天皇陵治定)(大阪府南河内郡太子町/円墳)⇒google map
 ※葛城二上山の西麓に立地。
◎上ノ山古墳(京都市/5世紀後半/円墳)⇒google map
 ※山裾に立地。
◎上ノ山古墳(茨城県東茨城郡茨城町/7世紀/前方後円墳)⇒google map
 ※涸沼前川沿いの台地上に立地。
◎上の山古墳(奈良県天理市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
  ※柳本古墳群。山裾。渋谷向山古墳近接。
◎上の山古墳(山梨県上野原市/5世紀後半/積石方墳)⇒google map
  ※山裾。


■■■ 茶すり山古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/5世紀前半/円墳)⇒google map

●「チャ・シリ」=「館の・山」=竪穴式住居に似た山or死者の住む家の意

 近畿圏最大級、直径90m、高さ18mの大型円墳です。尾根の先端に築かれています。
 「茶臼山=チャ・山」」とまったく同じ意味です。日本語では解釈できないので、茶臼山古墳の例も考慮すると、確度の高い縄文語解釈と言えます。


■■■ 長塚古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/5世紀末/前方後円墳)⇒google map

●「ナィ・カ・テュ」=「川・岸の・小山」

 東河川支流の川岸に築造された古墳。岡田古墳群の一。

 同名の古墳は他地域にもあります。縄文語解釈の確度を上げるために、これらの古墳も検証します。長塚古墳は上記解釈以外に次の解釈があるようです。

●長塚=「ノッ・カ・テュ」=「岬の・ほとりの・小山」

【参考】他地域の長塚古墳
◎長塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町/6世紀末~7世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
 ※黒川東岸の台地上に立地。
◎長塚古墳(岐阜県可児市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
 ※可児川右岸の台地上に立地。
◎長塚古墳(岐阜県大垣市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
 ※相川支流の岸に立地。
◎小幡長塚古墳(愛知県名古屋市守山区/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
 ※小幡緑地の丘陵南西に立地。岬のほとりの意。
◎小幡長塚古墳(大阪府堺市/5世紀中頃~後半/前方後円墳)⇒google map
 ※大仙古墳の東に立地。川の名残があるか。あるいは、岬のほとりの意か。後世の開発のため不明。
◎見野長塚古墳(兵庫県姫路市/6世紀前半/前方後円墳)⇒googlemap
 ※八家川支流沿い。


■■■ 小丸山古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map

●「コ・マ・オロ(山)」=「湾曲した・谷川の・ところ(の山)」

 東河川支流の小川が湾曲した岸に築造。地勢そのままです。岡田古墳群の一。


■■■ 加都王塚古墳 ■■■
(兵庫県朝来市/6世紀中頃/円墳)⇒google map

●「オ・ウン・テュ」=「山尻・にある・小山」

 これは、将軍塚古墳、王子塚古墳、親王塚古墳(※第三十五回、第三十八回、第四十回コラム参照)と似た命名です。直径20mの規模から言っても、決して王が葬られている訳ではありません。


■■■ 禁裡塚古墳 ■■■
(兵庫県養父市/6世紀後半/円墳)

●「ケゥ・ル・テュ」=「死体の・岬の・小山」⇒google map

 禁裡が宮中を意味しているはずはないのですが、縄文語解釈も一般名詞で確度が高いとは言えません。

●車塚=「ケゥ・ル・テュ」=「死体の・岬の・小山」

 とまったく同じ解釈です。


■■■ 文堂古墳 ■■■
(兵庫県美方郡香美町/7世紀)⇒google map

●「プッ・ウン・トィ」=「川口・にある・墓」

 湯舟川支流の川口に築造された横穴式石室の後期古墳。


■■■ 長者ヶ平 ■■■
◎長者ヶ平(ちょうじゃがなる)(兵庫県美方郡香美町)⇒google map

 長者ヶ平1号墳、2号墳が築造された土地の名前ですが、縄文語解釈の確度がかなり高いのでご紹介します。時期は不明ですが、この地域で縄文語が使用されていたのは確実だと思われます。

●「テューテュ・ナ」=「出崎(峰の先の)・平らなところ」

 峰の先端の平らな場所を指しています。古墳は地下に埋まっていて、現在その姿は確認できません。

 解釈の確度を上げるために、鳥取県の長者ヶ平古墳、他地域の長者原も見てみます。「長者=峰の先」の意であることが分かります。

【参考】「長者」を関する古墳、地名
◎長者ヶ平古墳(鳥取県米子市/6世紀中頃/帆立貝形古墳)⇒google map
 ※向山丘陵の南西端に築造された古墳
◎各地の長者ヶ原⇒google map
  ※ほぼすべて峰の先端。


■■■ 居籠塚 ■■■
(兵庫県丹波篠山市)⇒google map

●「エンコ・テュ」=「岬の・小山」

 「居籠(いごり)」が当て字で日本語ではないことは明らかなので、築造年代や構造がはっきりしないのが残念です。


日出ずる国のエラーコラム
第四十一回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(三)「石の宝殿」の謎を解く!
 兵庫県の古墳の縄文語解釈のつづきです。兵庫県での縄文語使用の時期ですが、どうやら6世紀代まで下る可能性が高くなってきました。以下ご覧ください。

【今回取り上げる内容】
輿塚古墳/壇場山古墳/山之越古墳/宮山古墳/竜山の石の宝殿/御輿塚古墳


■■■ 輿塚古墳 ■■■
(兵庫県たつの市/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map

 輿塚古墳は揖保川河口の右岸の丘陵に築造された大型前方後円墳です。揖保川流域や瀬戸内海に勢力を持った首長の墓と言われています。

●「コッチャ・テュ」=「沢の入口の・小山」

 地勢そのままの意で、極めて確度の高い縄文語解釈です。揖保川の西隣の富嶋川を指したのかもしれません。


■■■ 壇場山古墳 ■■■
(兵庫県姫路市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map

 中播磨・西播磨地方では最大、兵庫県では第3位の規模の古墳。前述の輿塚古墳と同じ勢力が市川東岸に移動して築造したと考えられています。神功皇后が壇を築いて祈念したことを命名の由来とする伝承がありますが、言うまでもなく信用に値しません。

 この古墳については、地勢や構造に一致する縄文語解釈がなかなか見つけられずに非常に難航しましたが、周囲の陪塚も併せて観察することで、整合性の取れる解釈を探し出すことができました。陪塚は二基残存しています。

●壇場山=「タンチャ・サン」=「こちら岸の・出崎」

 どこから見て「こちら岸」なのかと言えば、まず、南に隣接する陪塚、「櫛之堂古墳」。

●櫛之堂=「ク・ウン・トィ」=「対岸・にある・墓」=壇場山古墳の周濠を挟んで対岸にある墓

 石棺の形が「櫛の胴」に見えたことに由来する名称との説がありますが、これも後世の人が漢字表記からこじつけただけです。

 次に、東隣にある「林堂東塚古墳」。

●林堂=「レ・トィ」=「沖の方の(岸と反対方向の)・墓」=壇場山古墳の「こちら岸」と反対方向にある墓

 つまり、この三つの古墳は、その位置関係から命名されたことになります。


■■■ 山之越古墳 ■■■
(兵庫県姫路市/5世紀中頃/方墳)⇒google map

 山之越古墳は壇場山古墳に後続する古墳です。大和王権との関係で規模が縮小されたと考えられています。
 以下縄文語解釈ですが、残念ながら、あまり確度が高い解釈とは言えません。

●「ヤマ・ネ・クチャ」=「山・のような・小屋」


■■■ 宮山古墳 ■■■
(兵庫県姫路市/5世紀後半/円墳)⇒google map

 山之越古墳に後続する南西方向の宮山古墳も解釈してみます。

●「メ・ヤ(山)」=「小川の・岸(の山)」

 ではないかと思います。小川を挟んだ川向かいの中鈴山古墳は、

●中鈴山=「ナィ・カ・テューテュ(山)」=「川・岸の・岬(の山)」

 さらに南方の見野長塚古墳(6世紀/前方後円墳)も、

●長塚=「ナィ・カ・テュ」=「川・岸の・小山」

 で、いずれも宮山古墳と整合性がとれる地勢の解釈となります。見野長塚古墳が6世紀の築造なので、兵庫県での縄文語の使用も6世紀まで下る可能性が出てきました。


■■■ 竜山の石の宝殿 ■■■

 前述の壇場山古墳、山之越古墳の石棺は、西方の加古川流域で産出される竜山石で造られています。竜山石は畿内政権の石棺の材にも用いられ、東は滋賀県、西は山口県まで運ばれています。採石場は高砂市の竜山と宝殿山ですが、ここには「石の宝殿」を祀ることで有名な生石神社(おうしこじんじゃ)があります。

 「石の宝殿」は直方体の岩を加工した巨大な石造物(横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2m)で、その使用目的は未だに謎に包まれています。播磨国風土記に以下の記載があります。

<播磨国風土記>原の南に作石がある。その形は家のようである。長さは二丈、広さ一丈五尺、高さも同じくらいである。名づけて大石という。伝えて言うには、『聖徳王の御世に弓削大連が造った石だ』ということである。

 ここに出てくる「作石」を縄文語解釈すると、

●作石=「チケレ・イソ」=「削れている・岩」

 になります。
 播磨国風土記の伝承と縄文語解釈が正しければ、聖徳太子が活躍する6世紀末まで縄文語が使われていたことになります。しかし、この類いの伝承がまるで信用できないのは、他の例からも明らかです。

 しかしながら、「作石」に充てた「チケレ=削れている」という言葉は、隣国吉備の大古墳である、造山(5世紀前半)、作山(5世紀中頃)の両古墳と同じ由来と思われます。両古墳とも「自然地形の丘陵を削り取って築造」したものなので、固有の古墳構造を示した確度の高い縄文語解釈と言えます。とすれば、播磨の「作石」も少なくとも同時期以降の築造の可能性もあります。

 また、「石の宝殿」の名称ですが、日本語の意味として解釈するには少々無理があります。どの確度から見ても「宝を収めた御殿」には見えません。
 遊びで縄文語解釈を試みたのですが、面白い結果が出ました。

●石の宝殿=「イソ・ネ・ポルチャ」=「岩・の・あの世への入口」=岩の古墳or霊場

 これは、石の宝殿自体が誰かを埋葬した古墳、あるいは祈祷などを行う霊場のいずれかを示したものだと思われます。

 「石の宝殿」は、他の地域にもあります。

◎石宝殿古墳(大阪府寝屋川市/7世紀中頃)⇒google map
 ※平岩の横口式石槨。見たままです。
六甲山の石宝殿⇒wikipedia
 ※石の霊場。

 ただ、この解釈が妥当だとすると、大阪の石宝殿古墳が7世紀中頃の築造なので、他の歴史的事象と整合性を取ることが難しくなる気配があります。これについて、果たして何かしらの解答は得られるのでしょうか。とりあえず、現状では放置して縄文語解釈の作業を進めます。

 生石神社は、

●おうしこ(神社)=「アゥ・シ・ケ」=「枝分かれた(隣の)・大地の・ところ」=あの世

 であれば、石の宝殿と辻褄が合います。「シ=山」の意もあるので、竜山との対比で宝殿山を「隣の山」と呼んだだけかもしれません。


■■■ 御輿塚古墳 ■■■
(兵庫県姫路市/古墳時代後期/円墳)⇒google map

●「メ・クッチャ・テュ」=「泉の・川が流れ出るところの・小山」

 通説では「神が御輿として石棺に乗る」のを命名の由来としていますが、地勢を見ると縄文語解釈の方が明らかに優勢です。古墳時代後期の築造ですから、この地で6世紀代まで縄文語が使われていたことになります。


 まだまだ兵庫県は続きます。


◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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