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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百三十一回 ~ 第二百四十回】

第二百三十一回第二百三十二回第二百三十三回第二百三十四回第二百三十五回第二百三十六回第二百三十七回第二百三十八回第二百三十九回第二百四十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]許麻神社・高麗寺・服部川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「許麻神社」について(『八尾市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【狛人 高麗国大武神の後と伝えられ、高麗国よりの帰化族である。和名抄に若江郡巨麻郷を伝えているが、その位置は不分明である。幸いにも、久宝寺の許麻神社がその名を伝えている。おそらくここがその本居であったろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「許麻(神社)」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」(湾曲する平野川)

 日本全国の「コマ(高麗、狛、巨摩、巨麻など)」は「湾曲する川」の地勢です。
 許麻神社は平野川北岸にあります。平野川は蛇行する川です。

■平野運河
【生野区の西部を北流する旧平野川はまるで蛇のようにうねうねと屈曲して、大雨のたびにつねにあふれ、沿岸の住民に被害を与えたので、直線の新運河を開いてこれを防いだもの。昭和十五年に、旧川は埋め立てられた。】(『大阪ガイド』大阪府警察本部編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)


■許麻神社 ※南を西流する平野川。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗寺」について
(『八尾市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【高麗寺 郡川部落の下から一直線に、通学道路が走っている。この道路の郡川と服部川との中間西側に小字高麗がある。ここからも奈良時代と思われる古瓦片が出土した。高安に多かった高麗族の氏寺あったであろう。史書にはすでにこの名を逸し、伝説また早く忘れ去られた。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「高麗」=高麗族の意か。

 筆者がこれまで見た「コマ」関連の地名で「コ・マ=湾曲する・谷川」or「コ=湾曲する山(丸山)」が該当しない初めての例です。近くには横穴式石室を持った小規模群集墳、高安千塚古墳群(六~七世紀)があり、渡来人の大拠点だったことが窺えます。ちょうどヤマト王権が朝鮮半島北方系渡来人に王権を簒奪された頃の築造です。この辺りから、先住民文化を上書きするための北方系渡来人の移住政策が徹底的に行われた可能性があります。
 私見では、少なくとも縄文語(アイヌ語)可能な大規模古墳時代までは先住民系(縄文、弥生含む倭人)が主導権を握っています。

 そんな中でも「服部川」は縄文語由来です。『日本の中の朝鮮文化』の中ではこれを「呉服」由来として高麗と結びつけていますが、明らかに違います。「服部川」周辺には今でも小さな湖沼が点在しています。

◎縄文語:「服部(川)」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

■服部川 ※湖沼が点在。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]心合寺山古墳・愛宕塚古墳・玉祖神社・大荒木命・恩智川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「心合寺山古墳・愛宕塚古墳・鏡塚古墳・玉祖神社・大荒木命」について(『八尾の文化財』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(心合寺山古墳は)大竹の西方、標高30メートルのところにある南免の環濠式前方後円墳で、五世紀中頃の注記古墳に属し、全長百三十メートル、後円部の高さ十一メートル、直径四十七メートル、周囲に大きな濠をめぐらした壮大なもので、多数の埴輪破片や礫石がみられることから、古墳の表面には小石を葺きならべ、家型などの埴輪が立てられていたと考えられる。<中略>
 この地域には、前期向山古墳を上方に、後期の愛宕塚がその近くにあり、また下方には鏡塚があって、前、中、後期の全期にわたる一連の古墳群をなしている。これらはこの地の豪族玉祖連の祖大荒木命の墓とも伝えられ、東方山麓に玉祖神社が勧請されていることから、玉造部の伴造としての玉造氏の先祖達の古墳群として、これら有力豪族の権勢を示す遺跡であろう】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「心合寺山(古墳)(しおんじやまこふん)」=「シアン・チゥ・ヤマ」=「大きな・水脈、水流の・山」(大きな周濠の古墳)
◎縄文語:「愛宕塚(古墳)」=「アッタ・テュ」=「片割れのぽつんと離れた・小山」

 心合寺山古墳は大きな周濠を持つ古墳です。縄文語解釈そのままです。

 全国の愛宕山、愛宕(山)古墳は、「ぽつんと離れた山に築かれた古墳」であるか、あるいは、その古墳自体が「ぽつんと離れた山」となっています。(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]No.2」参照


■心合寺山古墳 ※大きな周濠の古墳。


◎縄文語:「玉(祖神社)」=「タン・マ」=「こちらの・谷川」
◎縄文語:「大荒木(命)」=「オオ・アケ」=「大きな・一方のもの」(大きな支流)

 「玉(多摩)川」と「荒川(ア=一方の)」はほぼ同義で、近隣の大きな川(本流)に対して、小さな方の川(支流)を表すことがほとんどです。

 八尾市の玉祖神社は和銅三年(710)に周防の玉祖神社から勧請したようですが、これが縄文語の「タン・マ=こちらの・谷川」由来であるのか、玉造部の祖とされている玉祖命由来であるのかは不明です。北方系渡来人は縄文語の漢字表記にこじつけて八百万の神を創作しているので、ウソと真実が混濁しています。

 真実を探るためには大元を辿るしかありません。周防の玉祖神社は佐波川北岸に立地しています。西方の山口市を貫流する椹野川の対比で「タン・マ=こちらの・谷川」と表現されたとすれば地勢と一致します。

 【八尾市にも先住民が「タン・マ」と呼んでいる地名があったので、それを機縁として玉祖神社を勧請し、玉祖命の物語と結びつけた】とするとしっくりきます。これは「高麗川=コ・マ=湾曲した・谷川」とまったく同じ流れです。


■周防玉祖神社 ※佐波川北岸。西方に椹野川。


 ちなみに恩智川は「数千年前の昔からほぼ現在の位置に沿って流れていたといわれ(wikipedia)ています。

◎縄文語:「恩智(川)」=「オン・チゥ」=「老いている、古い・水流、水脈」

 縄文語解釈が地勢と完全に一致しています。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]長田神社・百済~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「長田神社・百済」について(『京畿及近江国における蕃神ノ社について』今井啓一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【式外旧村社。長田神社。長田使主(録 未定雑姓 河内国 百済系)の祖神か。<中略>長田神社の北裏には旧家百済氏あり、百済系の長田使主の末裔という。長田神社は、その祖神を祀ったものと思う。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「長田」=「ナィ・カ・タ」=「川・岸・の方」
◎縄文語:「百済」=「クッチャ」=「湾や湖沼の入口」 (第二寝屋川、旧楠根川の河内湖の河口)
◎縄文語:「楠根(川)」=「クッチャ・ナィ」=「湾や湖沼の入口の・川」 (現第二寝屋川)

 縄文語では「河口湖に注ぐ川の岸辺」の意で、地勢と完全に一致しています。この百済氏は本当に百済由来なのでしょうか。

■長田神社 ※河内湖に注ぐ川の岸辺(第二寝屋川、旧楠根川の河内湖の河口)。


 『日本の中の朝鮮文化』の中には司馬遼太郎氏の言葉の引用で面白いものがあります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
◎「ヤマトの飛鳥」について(『日本の中の朝鮮文化』)
【司馬(遼太郎)さんは実地にそこ(朝鮮半島)を見て来たことで、重要な一つの訂正をした。朝鮮へ行ったことのある日本の歴史家たちは大和(奈良県)の飛鳥が新羅の慶州によく似ているといっているが、そんなことはない、というのが司馬さんの意見で、それよりむしろ、百済の扶余のほうがずっとよく似ているというのだった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 これは筆者の見解とも完全に一致します。六~七世紀にヤマト王権を簒奪したのは、百済の王族系です。百済王族はその出自を扶余とする高句麗の分流で、馬韓地域に南下し百済国を建国しました。一方、新羅、加耶、百済庶民は倭人と同系の南方系です。
 朝鮮半島渡来人と一口に言っても、倭人と縄文語(アイヌ語)を共有する南方系と、百済語(≓上代日本語と同系か)の北方系に大きく分かれます。少なくとも弥生文化を伝えたのは、南方系の倭人と同系の民族だったということです。その流れをさらにたどれば、中国大陸の東夷南蛮、長江文明へとつながっていきます。東夷南蛮の先住民の言語も縄文語です(※「日没する国のエラーコラム」参照)。

(wikipedia 百済語)
【百済の言語についてはじめて記した史書は「梁書」である。
「今言語服章略與高麗同」
 つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている。】

◎縄文語:「(朝鮮半島の)百済」=「クッチャ」=「湾や湖沼の入口」 (黄海の入口あるいはソウルの地勢)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]秦・太秦~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「秦・太秦」について(『寝屋川市文化財』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【市の地域は、全国でも屈指の古い歴史をもち、東部の丘陵地帯には、石器時代の遺跡や古墳が多数散在している。延喜式内の古社も四社(内一社はいま守口市)あり、高宮には高宮氏の一族が栄え、太秦には秦氏の一族が定住して、わが国上代の文化発展に貢献した。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「淵」(寝屋川沿いの湖沼地帯)
◎縄文語:「太秦」=「ウテュ
・マサ」=「間の・水辺の草原」(寝屋川の湾曲内の草原)

 縄文語解釈は考えるまでもありません。京都の太秦と同じ地勢なので、同じ地名となります。決して「秦氏が住んだ」というのが地名由来ではありません。
 たとえ秦氏が住んだのが事実だとしても、縄文語地名にこじつけて移住政策が徹底的に行われた可能性があります。もちろん、先住民文化を渡来文化で上書きするのが目的です。


■秦(寝屋川市) ※「秦」地区の東方、東南方に「太秦」地区。寝屋川沿いの湖沼地帯。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]田辺廃寺跡・田辺氏~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「田辺廃寺跡」について(wikipedia)
【 大阪府東部、大和川南岸において、明神山系から西に延びた台地上に位置する。現在は春日神社境内に所在する。1971年(昭和46年)に発掘調査が実施されている。
 伽藍は薬師寺式伽藍配置で、金堂を北、塔を東西に配する。創建は白鳳期の7世紀末葉頃で、奈良時代の8世紀前半にかけて堂塔の整備が進んだが、平安時代前期頃に焼失し、金堂のみが再建されて室町時代まで継続したと推測される。一帯は百済系渡来氏族の田辺史(田辺氏)の本貫地として知られることから、田辺史一族の氏寺と推定される寺院跡になる。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「田辺」=「タン・ナペ」=「こちらの・泉」(田辺池)

 縄文語は明らかに田辺廃寺跡の北に接する「田辺池」を指しています。百済系とされる田辺氏ですが、その名は縄文語地名由来です。

 船王後墓誌で有名な松岡山が北方にありますが、こちらは、

◎縄文語:「松岡(松岳)山」 =「マーテュ・オカ」=「波打ち際の・跡(国分の湖沼跡)

 と解釈可能なので、田辺池周辺には大きな湖沼があったのかもしれません。


■田辺廃寺跡と田辺池


 田辺氏では、日本書紀の雄略紀に登場する下記の田辺伯孫の説話が有名です。これらは内容からしても実際にあった物語ではなく、中国古文献(『文選』『宗書』)の脚色とされています。筆者は、このような物語には朝鮮半島系の出自を飾る大和朝廷側の意図が隠されていると考えています。つまり「古くからの朝鮮半島系渡来氏族が大和朝廷による日本の統治に大きく貢献している」ということを言いたいのではないかと勘ぐっているのです。

 北方系朝鮮半島渡来人の勢力は乙巳の変(六四五)で大和朝廷の中枢を完全掌握しています。記紀風土記編纂の時代には、権力基盤を盤石にするべく、天皇中心の物語を軸に渡来系周辺氏族の出自を飾るための物語が無数に創作されました。
 縄文語由来の地名であるにもかかわらず、各地の「百済」「高麗」「狛」「新羅」「白木」「秦」などのつく地名に、ことごとく渡来人物語が結びつけられているのはそういう理由だと考えます。これらの編纂態度を見ると、どの程度実際に移住したのかも不明と言わざるを得ません。もちろん上代日本語で書かれたそれらの物語には縄文語解釈のなどまったく見当たりません。先住民文化はことごとく渡来系物語で塗りつぶされているのです。

 田辺伯孫の物語は以下です。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「田辺伯孫の物語」
雄略紀(wikipedia)
【河内国飛鳥戸部(現在の柏原市南東部)の住人であった田辺史伯孫は、初秋の一日、古市郡の書首加竜に嫁ぎ、出産した娘の祝賀のために聟の家へ行ってきた。月夜であったその帰路、蓬蔂丘の誉田陵の下に赤い駿馬にまたがった騎士に出会った。異彩をはなったみなりで、常とは異なる優れた姿の馬だった。伯孫はその馬を見て欲しくなり、乗っていたみだらおの馬(栗毛の馬)に鞭をうち轡を並べようとしたが、赤馬の方が先に行ってしまい、埃や塵のようになり、消え去っていた。だが、その時、駿馬に乗っていた人物は伯孫の願いに気づき、馬を交換して、挨拶をして別れていった。伯孫は疾き馬を得て歓喜し、厩に入れ、餌を与えて寝たが、翌朝、赤馬は土の馬、すなわち埴輪に転じていた。伯孫は不思議に思い、誉田陵にもどって目を細めて遠くの方まで見まわして捜すと、元のみだらおの馬が土馬の中に立っているのを見つけた。そこで、かわりに土馬と取り替えておいた、という。同じ物語は【新撰姓氏録】「左京皇別」にも現れている。】




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]誉田八幡宮・応神天皇~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「誉田八幡宮」について(wikipedia)
【欽明天皇二十年(五五九年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。なお、この地は応神天皇陵(誉田御廟山古墳)がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住していたところでもあり、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「誉田八幡宮」
=「ホ・ウン・テュ/ペッチャ」=「川尻・にある・岬/川端」
or「ホ・ウン・チャ/ペッチャ
=「川尻・にある・岸/川端」
※誉田が「こんだ」の読みなら
=「コッチャ/ペッチャ」=「川尻・にある・岬/川端」

 縄文語地名は言い換え表現が存在する例が無数にあるので、いずれの呼び名もあったとも考えられます。

 「八幡=ペッチャ=川端」です。全国の「八幡神社」、「八幡」を冠する地名は川端にあります。「富士見」「人見」「二見」等も同様です。もし、祭祀があったとするならば、先住民による自然崇拝ということになります。

 応神天皇の名前も縄文語解釈してみます。漢風諡号については、淡海三船が後世にまとめて命名したというのが通説ですが、それであっても命名の元となった言葉があるはずです。

◎縄文語:「応神(天皇)」
=「オ・ウン・シ」=「川尻・にある・岬」
or「オ・ウン・チャ」
=「川尻・にある・岸」

 縄文語解釈では「誉田」とまったく同じ意味です。


■誉田八幡宮 ※この周辺一帯は「川下(石川と大和川の合流点)」の縄文語解釈で一致。



 また、応神天皇の別名の「誉田別尊(ほむたわけのみこと)/日本書紀)」「品陀和氣命(ほむだわけのみこと)/古事記)」について、日本書紀には以下の記載があります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
■「応神天皇の命名由来(上腕の瘤)」について(『日本書紀 全現代語訳』宇治谷孟 講談社学術文庫)
【生まれられた時に、腕の上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆(弓を射た時、反動で弦が左臂に当るので、それを防ぐためはめる革の防具)のようであった。これは皇太后(神功皇后)が男装して、鞆をつけなさったのに似られたのであろう。それでその名を称えて誉田天皇というのである】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

 この応神天皇の「瘤」ですが、縄文語では、「ホ」と言います。

◎縄文語:「ホ・タ」 =「瘤の・肩」

 です。日本書紀の記載内容と完全に一致しています。

 地勢の「ホ・ウン・テュ(チャ)=川尻・にある・岬(岸)」と日本書紀物語の「ホ・タ=瘤の・肩」の双方辻褄が合うので、いずれの解釈が正しいのか不明です。
 ただ、稀有性を考慮するならば、「ホ・タ=瘤の・肩」です。このような縄文語と古文献の内容が一致する例は、ほとんど見られません。確か、播磨国風土記で一例あった程度だと思います。

 考えられるのは、

・地名の「ホ・ウン・テュ(チャ)」からの連想で縄文語の「ホ・タが導き出され、日本書紀の「瘤物語」が創作された。

 ということでしょうか。であるとするならば、この物語が創作された時点では、縄文語を解釈できる人がヤマト王権の中枢にいたということになります。それがいつかは不明ですが、先住民文化を徹底的に消し去ろうとする記紀風土記編纂の態度を鑑みると、それ以前の先住民系勢力であった可能性が高いと言えます。

 また、誉田八幡宮が欽明天皇二十年(五五九年)の創建ということになっていますが、日本書紀には百済本紀の引用として以下の記載があります。

■「継体天皇と皇太子、皇子らの死」について(『日本書紀 全現代語訳』宇治谷孟 講談社学術文庫)
【二十五年春二月 天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。時に八十二歳であった。
十二月五日、藍野陵に葬った。
ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御と書いたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また、聞くところによると、日本の天皇、および皇太子、皇子みな死んでしまった」と。これによって言うと、辛亥の年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。】


 この日本書紀の記述が確かであれば、辛亥の年とは五三一年ですから、誉田八幡宮が創建された欽明天皇二十年(五五九年)に継体天皇の皇子である欽明天皇は生きていません。必然的に創建の物語がウソだということになります。

 この辺りの時系列の辻褄が合わないので、何かしらの創作が盛り込まれているとの説があります。筆者はここで百済系渡来人である第三十代敏達天皇の勢力が蘇我氏とともに大和王権を簒奪したと考えています。この時代周辺の天皇諡号の縄文語解釈がそのまま革命を表現しているからです。(※詳しくは「日没する国のエラーコラム[総集編]」参照)

 そして、後の乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅ぼされ、縄文語から上代日本語へと言語も変えられてしまいます。畢竟、上代日本語とは北方系の百済、高句麗と同系の言語だった可能性が高いということになります。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]飛鳥戸神社・安宿郡・駒ヶ谷・杜本神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「飛鳥戸神社」について(wikipedia)
【当地は五世紀に人質として献上され渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、本来は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられている。【三国史記】の百済本紀には昆伎王は熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆伎自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられる。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とする説がある。】

×「駒ヶ谷・安宿(あすかべ)郡」について(『日本の中の朝鮮文化』)
【河内にはさきにみたように、日本ではそこを韓ともいった辰韓の新羅や馬韓の百済のほか、高句麗の高麗人もまたやくさんやって来たところだった。現に、私たちがいま足を踏み入れた駒ヶ谷は、古田さん(古田実/元藤井寺市史編集室長)の説明をまつまでもなく、これは高麗ということからきた地名なのである。 <中略>
 すなわち(安宿郡の)河内飛鳥、近つ飛鳥の飛鳥とは、朝鮮語アンスク・アスク(安宿)からきたものだった。大和(奈良県)の飛鳥が遠つ飛鳥であったことに帯する近つ飛鳥とはもともと、飛ぶ鳥の安らかな宿(飛鳥・安宿)、ふるさとということだったもので、大和の明日香を飛鳥といっているのも、もとは「飛ぶ鳥の」というその枕ことばからきたものだったのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「飛鳥」 =「アゥ・チゥ・カ」=「枝分かれた・水流の・ほとり」
◎縄文語:「駒(ヶ谷)」 =「コ・マ」=「湾曲した・谷川」

 「飛鳥」に似た地名で「朝霞」「安積」「浅香」などの「アサカ」がありますが、これは「アッチャ・カ=一方の岸の・ほとり」と解釈できます。「飛鳥」も同語源かもしれません。いずれにせよどこにでもある川端の地名です。もちろん河内の飛鳥は「飛鳥川の岸辺」、大和の明日香は「高鳥川、あるいはその支流の岸辺」の意味です。地名由来に渡来人物語は関係ありません。
 どういう作業フローで日本の歴史を上書きしているかが分かります。

■渡来人による「日本の歴史上書きフロー」
(1)縄文語地名⇒(2)渡来人移住⇒(3)地名の漢字表記⇒(4)渡来人物語創作⇒(5)渡来人の歴史=日本の歴史

 風土記の地名由来はおしなべてこの流れで成立しています。


 「駒」について。縄文語では「駒」は「高麗」と同義です。
 通説では「駒」の発音の「こ」が甲類で、「高麗」の「こ」が乙類なので両者の関連はないとされていますが、そこに「縄文語(アイヌ語)」を介在させれば、その説はまったく通用しません。「駒」に関しても「駒 =コ・マ=湾曲した・谷川」が当てはまります。全国の「高麗/狛/駒」は「湾曲した川」の地勢です。羽曳野市「駒ヶ谷」の場合をご覧下さい。


■駒ヶ谷 ※近鉄線駒ヶ谷駅の北、飛鳥川旧流路の「であいのみち」が湾曲しています。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「杜本神社」について
(『日本の中の朝鮮文化』)
【駒ヶ谷となった竹内街道をちょっと進むと、左手に杜本神社があった。現在の祭神は経津主命などとなっているけれども、古田さん(古田実/元藤井寺市史編集室長)の説明によると、ここは高句麗系金作部の本拠だったところで、杜本という、朝鮮語モリ(頭)本からきたものだったかもしれないこの神社は、やはりそこにいた高麗(狛)氏族の祖神を祭ったものだった。
 神社はいまそこを下から掘り崩されている小高い山にあったが、ここにはかつて神宮寺として、別名を飛鳥寺ともいった金剛輪寺もあったのだった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「杜本(神社)」
=「モ・ル・テュ」=「小さな・頭の・岬」

or「モ・ル・ト」=「小さな・頭の・突起」

 「杜」の解釈が朝鮮語と縄文語(アイヌ語)で一致する面白い例です。このような例はたまに見受けられますが、朝鮮半島南部に倭人と縄文語を共有する南方系の人々がいた痕跡でもあります。朝鮮半島は北と南は別種です。南は日本先住民の倭人と同系です。しかし、後世日本の権力を握ったのは上代日本語を使う北方遊牧民系渡来人です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]三島古墳群【四国】愛媛県/大三島【中部】静岡県/三島~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「御島(三島)」について(『伊居太神社の朝鮮兜』金達寿)
【(伊予国風土記逸文ここから)「御島(瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮浦に大山積神社がある)においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(わたし/渡海)の大神である。・・・・・・この神は百済の国から渡っておいでになりまして、摂津国の御島においでになった」(ここまで)
 これは伊豆(静岡県)の三嶋大社や、いわゆる三島暦とも関係あるものであるが、<後略>】

×「三島と韓神」について(『韓神について』是沢恭三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【宮内省で祭られている韓神を考える時、忘れてならないのは神楽歌の中に韓神があることである。
「三島木綿(みしまゆう) 肩にとりかけ われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや」
 右、韓神の神楽歌の意味についてはすでに「三島と朝鮮」と題して小論(国史学七三、昭和二六・三月)を発表したことがある。その大意は三島木綿とは古く摂津三島に産した木綿であって、この三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ、「韓招ぎ」とあるは韓の技芸、すなわち韓風の、或は韓から伝来した芸能と解すべきで、それを舞うについて特に三島木綿を使用し、肩にとりかけてその特技なることを歌っているものであり、即ち韓の神であることに深い意を表していると】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「(瀬戸内)御島(大三島)」 =「ムィ・スマ」=「頂の・岩」
◎縄文語:「(摂津・伊豆)三島/三嶋」 =「メ・スマ」=「泉の・岩」

 これはデタラメ神様の好例です。縄文語の発音が似ているので同じ漢字が充てられ、物語が創作されています。

 縄文語解釈では、瀬戸内の大三島は「島の頂の岩の峰」を指し、摂津と伊豆の三島は「泉の岩」を指します。摂津の場合は摂津峡が代表的ですが、三島地区周辺には湖沼が多いので、開拓前は岩や石が目立っていたのかもしれません。伊豆の三島には富士山由来の湧水と溶岩が豊富にあります。


■(瀬戸内)御島(大三島) ※安神山の頂には突兀とした岩。

■摂津峡 ※三島地域を流れる芥川の上流の渓谷。

■三島市鮎壺の滝 ※富士山のふもとの三島市は、溶岩と湧水の宝庫です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百三十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]坐摩(いかすり)神社・都下・兎我野[奈良県]都祁│三重県/柘植│岐阜県/土岐郡│石川県/富来│鶏がトキを告げる/暁~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「都祈(とき)」について(『知られざる古代』水谷慶一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【天神を祭った場所は〈新羅では〉迎日県あるいは都祈野と呼ばれた。<中略>
 迎日県の意味はあきらかだが、都祈野とは何か。都祈(とじ)は古代新羅語で、「日の出」をあらわす。これは現在でも、ほとんど同じ発音の言葉が使われている。ヘトジといい、ヘは「日」、トジは「出る」に当たる。<中略>
 われわれは、よく「鶏がトキを告げる」という。この場合のトキは普通、時刻の意味と考えられているが、これはむしろ新羅語の「日の出」ととったほうがよいのではないか。「暁」という言葉のもとは「あかとき」であるが、これも新羅語の「都祈」と関係がありそうだし、また薄桃色をさして「とき色」というのも、夜明けの空の色からきているとすれば、この都祈で説明がつきそうである。
 ところで、このトキとかツゲ〈都祈(とき)が呉音では都祈(つげ)となる〉という地名が日本にはたくさんあるのだ。古いところでは、大阪にトガノという地名があったことが「古事記」や「風土記」などに見えるが、これはトキが訛ったものである。<中略>
 (大阪市)渡辺町の坐摩(いかすり)神社に参拝して、五十七代目という世襲の宮司である渡辺清音氏(曾祖父まで都下姓)にお会いした。<中略>「(祖先の)都下朝臣資政(つげのあそんすけまさ)と記した古い書面を見せられて、まことに感慨深く思った。
 このほか、ツゲやトキに由来する地名は奈良県の都祁村、三重県の柘植川、あるいは岐阜県の土岐郡、石川県の富来(とき)町と数え上げればキリがない】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「(鶏が)トキ(を告げる)」 =「チュキ」=「太陽の光」
◎縄文語:「暁」 =「アケ・チュキ」=「片割れの・太陽の光」


 鶏が告げる「トキ」も、「暁」も縄文語由来と考えられます。いちいち物語を創作しなくても、縄文語で解釈すると、そのままズバリの表現になります。
 「ツゲ」「トキ」の方もいろいろと結びつけて書かれていますが、これらもすべて縄文語由来です。それらの地勢と縄文語解釈を是非比較してみてください。特に摂津国一宮坐摩神社が解釈が面白いです。

◎縄文語:「坐摩(いかすり)神社」 =「エンコ・シリ」=「岬の・山」
◎縄文語:「都下」 =「テュ・ケ」=「岬の・ところ」


 坐摩神社は上町台地の先端にあります。つまり、河内湖と大阪湾を区切る岬の突端に位置していたということになります。主祭神は「坐摩神」ですから、何かが祭られていたとすれば、それは「先住民による上町台地(岬)の自然信仰」ということになります。
 日本の神様は大嘘つきで、絶対に真実を話しません。なぜでしょうか。

■坐摩神社由緒(wikipedia)
【当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀り花を献じたとされ(献花祭のいわれ)、応神天皇の三年に社殿を奉じたと伝わる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。 】

■坐摩神社 ※上町台地の先端に立地。



 坐摩神社の 北方には兎我野(とがの)町があります。兎我野は上町台地の北の麓、天満砂堆にあります。

◎縄文語:「兎我野」
=「テュ・カ・ノッ」=「峰の・ほとりの・岬」
(上町台地北の天満砂堆)
or「ト・カ・ノッ」=「海・岸の・岬」(大阪湾、河内湖の岸の天満砂堆)

 以下、奈良県の都祁村(現奈良市)、三重県の柘植、あるいは岐阜県の土岐郡(現土岐市)、石川県の富来(とき)町です。

■都祁水分神社(奈良県奈良市) ◎縄文語:「都祁」 =「テュ・ケ」=「岬の・ところ」


■柘植町(三重県伊賀市) ◎縄文語:「柘植」 =「テュ・ケ」=「岬の・ところ」


■大富館跡(土岐氏発祥の地)(岐阜県土岐市)  ◎縄文語:「土岐」 =「テュ・ケ」=「岬の・ところ」


■富来領家町(周囲一帯が富来地域)(石川県羽咋郡志賀町) 
◎縄文語:「富来」
=「テュ・ケ」=「岬の・ところ」

or「ト・ケ」=「海の・ところ」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百四十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]新羅・志良ケ崎・百済・久太郎・安良・心斎橋~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「久太郎町・心斎橋」について(『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『大阪府の歴史散歩(上)』の「船場の町名」としたところに、こうあるのをみて「おや」と思ったものだった。
「(町名には)堀久太郎館跡とも百済町の転訛ともいわれる久太郎町、<中略>心斎橋の名は岡田心斎・大塚震災心斎の架橋とも、新羅の転訛ともいわれる」<中略>
 『天正図(石山本願寺軍攻撃配置図[wikipedia]/天正四年)』をみると、何と、いまの心斎橋にあたるそれがちゃんと「新羅橋」となっているではないか。<中略>
 『天正図』にはほかにも「新羅崎」「志良ケ崎」というところがあり、それが『承徳図(大阪古地図/承徳二年)』になると「新羅池」「新羅洌」、また「新羅洌」と三カ所にまだわたってある。そしてもちろん「百済郡」「百済川」「百済里」「百済洌」などもあるばかりか、『宝暦図(浪速往古図/宝暦六年)』には「久太良」「安良」(安羅)というのも出ていて、これにはとくにふりがなまでついている。これでみると、久太郎町というのも堀久太郎とは関係なく、やはり百済の転訛したものとみるよりほかないようである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅/志良ケ崎」 =「シ・オ・ケ or シロケ」=「山・裾・のところ or 山裾」(上町台地のふもと)
◎縄文語:「百済/久太良」 =「クッチャ」=「湾や湖沼の入口」
(河内湖の入口)
◎縄文語:「安良/安羅」 =「ア・ラ」=「一方の・低地」

 縄文語解釈はすべて上町台地周辺の地勢「上町台地のふもと」「上町台地のふもとの低地」「上町台地周辺を流れる川」を表しています。もともとの地名由来に朝鮮半島の渡来人は関係ありません。

 朝鮮半島に日本と同じ発音の地名が多いのは、朝鮮半島南部が日本先住民(縄文、弥生、大規模古墳人)と縄文語(アイヌ語)を共有する同言語圏、同系の民族の居住地だったからです。

 このように、日本の歴史、地名、文化には、「朝鮮半島系の創作物語」が無数に付加されています。それはもちろん、新旧問わず朝鮮半島系渡来人に都合のよい加工であることは言うまでもありません。それらは記紀風土記の時代から現在に至るまで延々と続けられています。


■石山本願寺推定地(大阪城内)



 また、「心斎橋」のもとが「新羅」とはちょっと信じられないので、これも縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「心斎(橋)」 =「シアン・チャィ」=「大きな・岸」(上町台地西麓、難波砂堆、大阪湾の岸辺)

 この解釈も完全に地勢と一致しているので、もともと「新羅」「心斎」のいずれの名称もあった可能性があります。

■心斎橋 ※上町台地西麓、難波砂堆、大阪湾の岸辺。



◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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