※第一回~第三十一回「日本書紀のエラーコラム」/第三十二回~第九十二回「日出ずる国のエラーコラム」/第九十三回~「日没する国のエラーコラム」/第百九十七回~「日没する国のエラーコラム/第二百三回~「騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム」
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【目次(What's New)】
【 第三十二回 ~ 第四十回 】
邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。
日出ずる国のエラーコラム
第四十回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)行者塚に行者はいない!
兵庫県の古墳の縄文語解釈が長くなりましたので、回を分割して続けます。どうやら古墳時代中期まで時代が下ってきたようです。上代日本語に切り替わる時はやってくるでしょうか。第四十回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(二)行者塚に行者はいない!
【今回取り上げる内容】
行者塚古墳(西条古墳群)/人塚古墳(西条古墳群)/マンジュウ古墳(玉丘古墳群)/クワンス塚古墳(玉丘古墳群)/檀塔山古墳(玉丘古墳群)/褶墓古墳(日岡陵古墳)/車塚古墳(日岡山古墳群)/勅使塚古墳(日岡山古墳群)/幣塚古墳/愛宕塚古墳/阿保親王塚古墳(各地の親王塚古墳)/金津山古墳/ヘボソ塚古墳/万籟山古墳
■■■ 行者塚古墳(西条古墳群) ■■■
(兵庫県加古川市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
●「キル・オ・チャシ・テュク」=「足が・たくさんある・館の・小山」=造出がたくさんある古墳
or「ケゥ・オ・チャシ・テュク」=「死体が・たくさんある・館の・小山」 =死体をたくさん埋葬した古墳
造出が墳丘くびれ部の左右2ヶ所、後円部の2ヶ所の合計4ヶ所に存在。埋葬施設は後円部だけで粘土槨3基。後円部の造出にも埋葬施設があります。いずれにしても確度の高い縄文語解釈。
■■■ 人塚古墳(西条古墳群) ■■■
(兵庫県加古川市/5世紀前半/円墳)⇒google map
●「ピタル・テュク」=「河原の小石の・小山」
竜山石を用いた葺石が存在。
■■■ 玉丘古墳 ■■■
(兵庫県加西市/古墳時代中期/前方後円墳)⇒google map
兵庫県下で6番目の規模の古墳。播磨国風土記には、この古墳にまつわる物語が記されています。
<播磨国風土記>皇位継承争いで父である市辺押磐皇子を殺された意奚(おけ)袁奚(をけ)の二皇子(のちの二十四代仁賢天皇、二十三代顕宗天皇)が播磨国賀毛郡に逃れていた時、国造許麻の娘の根日女に恋心を持った。しかし、二人で譲り合ったために話がまとまらず、そのうちに根日女は亡くなってしまう。根日女の死を悼んだ二人は「朝夕、日の光がさす地」に、玉を飾った古墳を築造させた。
二皇子とも5世紀末に即位した天皇ですから、まだ、縄文語が奈良で使われていた可能性が高い頃です。漢字にこじつけられた地名譚があるということは、暗に「玉丘古墳」の命名由来が別に存在するということを自ら示しているようなものです。
●「トマム・オカ」=「湿地の・跡」
古墳の所在地である加西市東部にはたくさんのため池があります。この解釈が妥当だとすれば、ため池は古墳時代にはすでにあったことになります。
■■■ マンジュウ古墳(玉丘古墳群) ■■■
(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
玉丘古墳群北部にマンジュウ古墳という珍しい名前の古墳があります。日本のマンジュウの歴史は室町時代以来のようなので、古墳時代に「マンジュウ」の名前があるのは不自然です。
縄文語解釈します。
●「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
マンジュウ古墳は池のたもとにあります。この解釈でも、やはり、ため池は古墳時代中期にはすでにあったということになります。
■■■ クワンス塚古墳(玉丘古墳群) ■■■
(兵庫県加西市/5世紀前半/円墳)⇒google map
クワンス塚古墳に関連して、近畿地方には「鑵子(カンス)」が名前につく古墳が複数あります。漢字表記からまともに考えれば、「鑵子=青銅、真鍮などで造った湯沸かし。茶釜」の形のような古墳という意味になります。
しかし、玉丘古墳、マンジュウ古墳と、近接する古墳の縄文語解釈の確度がかなり高そうなので、このクワンス塚古墳だけ縄文語解釈ができないのも不自然に見えてしまいます。
近畿圏にある古墳名なので、筆者も中国由来の「鑵子」の意味かもしれないと考えていたのですが、これを機に調べ直すことにしました。
共通項を見つけました。
●「カス・テュク」=「山or川を越える・小山」
つまり、山であれば「峰の間を縫って越えるようなところ」、川であれば「川を渡るところ」の意になります。以下「鑵子」のつく古墳を列挙します。
リンク先の地図でご確認ください。ほぼ、峰の間、峰の入口となっています。加西市のクワンス塚古墳も峰の間に立地しています。
この「鑵子塚古墳」の縄文語解釈が妥当だとすれば、近畿圏の縄文語の使用時期はかなり下ることになります。どう捉えれば辻褄が合うのか、さらに検討が必要です。「鑵子」の解釈に関しても、隣接する古墳の解釈など、さらなる傍証が必要だと思われます。
【参考】古墳名に「鑵子」のつく古墳
◎掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map
◎真弓鑵子塚古墳(奈良県高市郡明日香村/6世紀中頃~後半/円墳)⇒google map
◎与楽鑵子塚古墳(奈良県高市郡高取町/6世紀後半/円墳)⇒google map(同上)
◎別所鑵子塚古墳(奈良県天理市別所町/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
◎近内鑵子塚古墳(奈良県五條市近内町/5世紀前半/円墳)⇒google map
◎母神山鑵子塚古墳(香川県観音寺市/6世紀後半/円墳)⇒google map
◎鹿隅鑵子塚古墳(香川県観音寺市)⇒google map
■■■ 檀塔山古墳(玉丘古墳群) ■■■
(兵庫県加西市/古墳時代中期/円墳)⇒google map
●「タン・トー(山)」=「こちらの・湖沼(の山)」=長倉池の際の古墳
地勢そのままの意です。
■■■ 褶墓古墳(日岡陵古墳) ■■■
(兵庫県加古川市/4世紀/前方後円墳)⇒google map
近隣の西条古墳群に確度の縄文語解釈ができたので、こちらの古墳も期待できます。この褶墓古墳に関連して、播磨国風土記に以下の記載があります。
<播磨国風土記><前略>印南別嬢はこの宮で薨去した。墓を日岡に作って葬った。その屍を掲げ持って印南川(加古川)を渡る時、強いつむじ風が川下から起こって、その屍を川中に巻き込み、探したけれども見つからなかった。ただ、そこで、匣(くしげ)と褶(ひれ:首にかける布)だけが見つかった。この二つを墓に葬った。それで、褶墓と名づけた<後略>
こういう地名譚が存在するということ自体、この物語がウソだと自ら宣言しているようなものです。以下、縄文語解釈。
●「ピラ・フルカ」=「崖の・高台」
or「フレ・フルカ」=「崩れて赤い地肌が露出した・高台」
さらに、褶墓古墳のある日岡山は、
●日岡山=「ピ・オカ(山)」=「石の・跡(の山)」
で、褶墓古墳と似た意味となります。
また、近接する狐塚古墳(既出)ですが、これは同名古墳が他の地域にも数多くあります。繰り返しになりますが、
●狐塚=「クテュニン・テュク」=「岩の段々のある崖の・小山」
です。褶墓、日岡、狐塚と、似たような命名ですので、これは日岡山自体の地勢、あるいは褶墓古墳のある山のいずれかを指した可能性が考えられます。
■■■ 車塚古墳(日岡山古墳群) ■■■
(兵庫県加古川市/4世紀/円墳) ⇒google map
●「ケゥ・ルム・テュク」=「死体の・岬(頭)の・小山」
近接する車塚古墳も日本各地に同名古墳があります。主に漢字表記から車に似ていることを由来としているようですが、これもこじつけの可能性が高いと思われます。 ただし、この一般名詞の縄文語解釈から妥当性を導き出すのも難しいです。
■■■ 勅使塚古墳(日岡山古墳群) ■■■
(兵庫県加古川市/4世紀/前方後円墳)⇒google map
●「テュク・ウシ」=「小山・のところ」
勅使塚古墳は、下記参考例のように同名古墳が複数ありますが、地勢、形状、築造年代、すべてに統一性がありません。それだけに解釈の確度が高いとは言えませんが、石川県の院内勅使塚古墳などは周辺地名と解釈が一致します。
●「徳田」=「テュク・タ」 =「小山・の方」
【参考】「勅使」を冠する古墳
◎院内勅使塚古墳(石川県七尾市/7世紀前半/方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(富山県富山市/3世紀末/前方後方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(茨城県行方市/5世紀後半/前方後方墳)⇒google map
◎勅使塚古墳(茨城県小美玉市/円墳)⇒google map
■■■ 幣塚古墳 ■■■
(兵庫県明石市/4世紀後半~5世紀初頭/円墳)⇒google map
●「ヌッ・サン」=「ゆっくり流れている川の・棚山」
幣塚古墳は、平地を流れる瀬戸川東岸の段丘上に築造された古墳です。
■■■ 愛宕塚古墳 ■■■
(兵庫県加古郡播磨町/4世紀後半~5世紀初頭/円墳)⇒google map
●「アッ・タプコプ」=「一方の・ぽつんと離れた山」
全国の、愛宕塚、愛宕山、愛宕神社の立地と 同様、ぽつんと離れた山です。
愛宕山古墳の詳細は第三十六回コラムをご参照ください。
■■■ 阿保親王塚古墳 ■■■
(兵庫県芦屋市翠ヶ丘町/4世紀後半/円墳)⇒google map
摂津志では平安時代の在原業平の父である阿保親王(平城天皇第一皇子)の墓とされていますが、時代がまったく合わないので、信憑性はゼロです。この名前がどこから生まれたのか縄文語で探ります。
この古墳名に関連して、「親王」を冠する古墳が各地に分散して複数あることに気づきます。以下にその例を挙げます。
【参考】「親王」を冠する古墳
◎中曽根親王塚古墳(長野県東御市/方墳)⇒google map
◎小田中親王塚(石川県鹿島郡中能登町/4世紀後半/円墳)⇒google map
※北陸地方最大級の円墳。崇神天皇の皇子、大入杵命の陵墓の伝承。しかし、年代が合わない。
◎親王塚古墳(愛知県春日井市/6世紀中頃/円墳)⇒google map
※庄内川右岸の段丘の末端に立地。護良親王の遺品を埋葬したとの伝承あり。しかし、年代が合わない。
◎親王塚古墳(佐賀県唐津市/7世紀/円墳)⇒google map
※桓武天皇皇子、葛原親王墓の伝承。しかし、年代が合わない。
そして、阿呆親王塚も兵庫県芦屋市以外に複数あります。
◎阿保親王塚(京都市伏見区)⇒google map
◎伝阿保親王墓(三重県伊賀市/5世紀末~6世紀初頭)⇒google map
※こちらは別人の伊賀の「阿保親王」、第11代垂仁天皇の皇子、息速別命の墓。しかし、年代が合わない。
これらの古墳の築造年代のほとんどは被葬者の年代と合わないので、伝承が間違っているのは言うまでもありません。
では、なぜこのようなことが起こったのか。それは、同じ語源となる音に、同じ漢字を充て、後世の人々がその漢字表記から由来を導き出したからです。
解釈の歪みを解きます。まず、「親王」の縄文語解釈から。
●親王=「シル・オ」=「山(大地)の・裾」=山裾、川の段丘の裾など
前掲の「親王」を冠する地名の地勢が、本当の阿保親王塚と思われる京都を除くにしても、ことごとく山裾、あるいは川の段丘裾であることがわかります。芦屋市の阿保親王墓も同様です。
一般名詞ですから、同じ地勢であれば、どこの地名にあっても不思議ではありません。
王子塚古墳(※第三十八回コラム参照)や、将軍塚古墳(※第三十五回コラム参照)と同じ類いの命名です。決して、王子や将軍や親王を埋葬した訳ではないということです。
次に「阿保」の解釈。
●「阿保」=
「アル・ポ」=「片割れの・子」 or
「アゥ・ポ」=「枝分かれた・子」
の意で、「六甲山の五助橋断層の南側の峰」、あるいは、その峰から「海に向かって枝分かれした小さな峰」のことを言っているのではないでしょうか。⇒google map
「ポ」は「ポン=小さな」の意で後続の「親王」にかかる可能性もあります。
「芦屋」の地名も、
●「芦屋」=
「アル・シル・ヤ」=「片割れの・山の・陸岸」or
「アゥ・シル・ヤ」=「枝分かれた・山の・陸岸」
の意だと思われます。通説の「六甲山南麓の地域が難波の湾の葦を材として屋根を葺いた」のを由来とするというのは、まったく信じられません。
とすれば、阿保親王塚古墳というのは、
●阿保親王塚古墳=
「アル・ポン・シル・オ・テュク」=「片割れの・小さな・山・裾の・小山」or
「アゥ・ポン・シル・オ・テュク」=「枝分かれた・小さな・山・裾の・小山」
ということになります。
また、地名では、河内の松原市にも「阿保」の地名があり、「阿保親王」の伝承が残っていますが、こちらは、
●「アゥ・オ」=「枝分かれた・川尻」
となります。
この阿保と呼ばれる地域の東方には、大和川と石川の合流点に築かれた古市古墳群があり、多くの古墳名から「川尻」の意味を読み取ることができます(※第三十三回コラム参照)。その古市古墳群との対比で、この「東除川」や「西除川」が大和川と合流する付近である阿保を「一方の川尻」と呼んだのではないかと推測します。
■■■ 金津山古墳 ■■■
(兵庫県芦屋市/5世紀後半/帆立貝形古墳)⇒google map
●「コッネ・テュ」=「窪んでいる・峰」
翠ヶ丘丘陵上に立地。翠ヶ丘町の周辺部は谷地形で、谷へ盛り土をして宅地を造成したようです(参考:wikipedia)。地形からの命名なので、固有名詞の可能性が高いと言えます。
■■■ ヘボソ塚古墳 ■■■
(兵庫県神戸市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
●「ペッポ・サム・テュク」=「小川の・ほとりの・小山」
その意味そのままの地勢です。
■■■ 万籟山古墳 ■■■
(兵庫県宝塚市/4世紀/前方後円墳)兵庫県宝塚市切畑長尾山⇒google map
●「パ・エ・ラム・サン」=「頭が・そこで・低い・棚状の山」=南に向かって下降する長尾山丘陵の地形。
※1934年発見。長尾山丘陵上に築造。古墳名は峰の名前か。
縄文語解釈が峰の形状を的確に表現しているため、時代は定かではないですが、この地域で縄文語(アイヌ語)が使われていたのは確実と言えます。
これらの結果から、少なくとも古墳時代中期までは、縄文語使用の確率が高くなってきました。さらに時代が下るか、兵庫県の古墳の縄文語解釈を続けます。
日出ずる国のエラーコラム
第三十九回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(一)処女塚は乙女ではない!
奈良、河内、群馬、そして、同名古墳を縄文語(アイヌ語)解釈してきましたが、縄文語解釈できる古墳の築造年代が想像以上に下り、また地域も拡大したので、今一度関西に戻って、西国の状況を再検証してみたいと思います。第三十九回 兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(一)処女塚は乙女ではない!
近畿圏では、言うまでもなく奈良、河内に大規模古墳が多いのですが、実は全国で古墳数が最も多いのはダントツで兵庫県です。横穴墓も含めれば、その数、18,851基。
これまでの解釈結果を見ると、東国では少なくとも群馬周辺で7世紀まで縄文語が使われていた可能性が高くなっています。すでに弥生文化が浸透し、古墳には鉄器や馬具等が副葬される時代ですから、弥生文化と縄文文化が交差していることが窺えます。一方、近畿圏では、奈良、河内で6世紀まで時代が下る様相を呈していますが、まだまだ根拠が希薄で、縄文語使用の存否を判断するにはさらなる裏付けが必要だと思われます。果たして兵庫県はその解釈を補強するような結果をもたらすでしょうか。
早速、縄文語解釈を進めていきます。
【今回取り上げる内容】
五色塚古墳(各地の五色の地名)/小壺古墳/住吉三神と六甲山/処女塚古墳・求女塚古墳
■■■ 五色塚古墳 ■■■
(兵庫県神戸市垂水区/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)
兵庫県で有名な古墳はいくつかありますが、やはり外せないのは五色塚古墳です。五色塚古墳は兵庫県最大の前方後円墳で、日本で最初に復元整備が行われた古墳です。
五色塚古墳は、日本書紀において「神功皇后の三韓征伐の帰り道」の段に登場する第十四代仲哀天皇の偽陵ではないかと言われています。
<日本書紀>神功皇后、誉田別尊(後の応神天皇)親子と、第十四代仲哀天皇の二人の皇子(カゴ坂王、忍熊王)が皇位を争い、皇子らが赤石(明石)に淡路島から石を運んで仲哀天皇の偽陵を築造して帰路の皇后軍を迎え撃とうとした。
この五色塚古墳は淡路島産の葺石でびっしりと覆われています。その数、実に2,233,500個、総重量、2,784トン。以下、縄文語解釈。
●五色塚=「クチキル・テュク」=「岩崖がずっと続いている(ような)・小山」
⇒構造wikipedia写真
五色塚古墳の構造そのままです。
ただ、このままでは解釈の確度が心許ないので、全国の「五色」のつく地名も検証します。以下ご参照ください。ことごとく岩崖に関係しています。
これらを見ると「五色=岩崖」の縄文語解釈の確度は極めて高く、かつ、五色塚古墳の固有名詞と考えられることから、古墳築造時の縄文語の使用はかなり期待できます。さらなる裏付けを求めて解釈を続けます。
【参考】全国の「五色」のつく地名
※「五色沼」の多くは多色に変化するのを由来としているが、「岩崖の沼」or「岩崖の山嶺を映す沼」の意ではないか。
◎五色の滝(秋田県大館市)⇒google map
※岩崖の滝
◎五色沼 (岩手県八幡平市)⇒google map
※岩手山を水面に映す沼。
◎蔵王五色岳、五色沼(宮城県)⇒google画像検索
※崖の山頂。
◎志津五色沼⇒google画像検索
※月山を水面に映す沼。
◎五色沼(福島県)⇒google画像検索
※明治期の噴火でできた沼。「五色」はもともと磐梯山の別名の可能性はないか。
◎五色沼(福島市一切経山)⇒google画像検索
※一切経山を水面に映す沼。
◎五色沼(栃木県日光市)⇒google map
※五色沼と崖の五色山。
◎奈良県吉野郡天川村五色⇒googleストリートビュー
※天ノ川沿いの岩肌。
◎淡路洲五色地区⇒googleストリートビュー
※崖の海岸線。
◎京丹後五色浜⇒google画像検索
※崖の海岸線。
◎五色台(香川県坂出市、稚児ヶ滝)⇒google画像検索
※崖の滝。
■■■ 小壺古墳 ■■■
(4世紀末~5世紀初頭/円墳)⇒google map
五色塚古墳に関連して、西側に隣接する小壺古墳も解釈します。
●小壺=「コク・チュプポク」=「婿の・西」=西側にある婿の古墳
※すでに「子(コ)」という日本語が使われていたのであれば、「西にある子の古墳」の意。
小壺古墳で「子の古墳」の意味ではないかと疑ったのは、五色塚古墳の別名である「千壺古墳」の縄文語解釈によります。
●千壺=「シアン・チュプパ」=「親の・東」=東側にある親の古墳
これら、二つの古墳は親子の墓ではないかと疑った訳です。通説の「埴輪がたくさん置かれた古墳」というのは、漢字表記に引きずられた結果ではないでしょうか。
■■■ 住吉三神と六甲山 ■■■
前述した明石に築かれた仲哀天皇の偽陵(五色塚古墳)に関連して、神功皇后はその際「大津渟中倉之長峡」で住吉三神を祀っています。
この「大津渟中倉之長峡」は通説では大阪の住吉大社とされていますが、神戸市東灘区の本住吉神社にも同様の説があります。筆者の縄文語解釈では、明らかに神戸市の本住吉神社の方が優勢です。
まずは日本書紀記載内容。
<日本書紀>神功皇后は忍熊王が待ち構えているのを聞いて、<中略>難波に向かったが、船がぐるぐる回って進まなかった。務古水門(武庫の港)に還って占った。<中略>表筒男、中筒男、底筒男の和魂を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀ると、無事海を渡ることができた。
そもそも、日本書紀記載の神功皇后周辺の物語は、応神天皇の出生や武内宿禰の長寿など、あまりにも不自然で信憑性に欠けるので物語の内容自体を重視する必要はまったくありません。しかも、第十一代垂仁天皇から数代の間は、邪馬台国の卑弥呼の後を継いだ台与の事績を隠蔽している可能性すらあります(※第三十回コラム「ニニギはヤマトから一大率に派遣された!」参照)。
重要なのは、この住吉三神がもともとどこに祀られていた神かということです。上記物語は、おそらくその場所を想定してこじつけ創作されたものです。
この住吉三神がどのような神かと言えば、
<日本書紀>イザナギが黄泉の国でイザナミと別れた帰り、筑紫で禊した際に、水の底で底筒男命、潮の中で筒男命、潮の上で表筒男命が生まれた。
ということで、広く「航海の神」「豊漁の神」として信仰されています。
住吉三神を縄文語解釈します。
●底筒男=「ソコッ・テューテュク・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
=滝のたくさんある出崎のふもと
●中筒男=「ナィコッ・テューテュク・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
=断層谷のある出崎のふもと
●表筒男=「ウェン・テューテュク・オ」=「険しい・出崎の・尻」
=岩崖の出崎のふもと
つまり、これらはすべて、有馬四十八滝、蓬莱峡、地獄谷、芦屋ロックガーデンや須磨アルプスを有する「六甲山のふもと」ということを言っているのだと思われます。
そして、肝心の六甲山を解釈してみます。通説では、「六兒/無古/武庫/務古/牟古」等が、「六甲」に転訛したとされていますが、縄文語解釈では、異なる結果が導き出せます。
以下、縄文語解釈。
◎縄文語:「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
となります。
そして、六甲山のかつての別名「向津峰」の縄文語解釈。
◎縄文語:「向津(峰)」=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」
六甲山の言い換えです。
縄文語では人や土地が複数の名で呼ばれる例が無数にあります。むしろ、その方が普通だったのではないかとさえ思えるくらいです。とすれば、「六甲」と「向津」も、もともとは六甲山の地勢を指した言い換えの表現で、「六兒/無古/武庫/務古/牟古」は「向津」から転訛したと考える方が自然です。
「向津」は次のように言い換えることもできます。
◎縄文語:「向」=「ムィ・カィイ」=「山頂が・波のように折れ砕けているところ」
この方が「六兒/無古/武庫/務古/牟古」への流れがスムーズです。
六甲山のすべての縄文語解釈が、住吉三神の解釈や地勢と完全に一致しています。
これらを総括すると、住吉三神は決して海の神様などではなく、六甲山の自然崇拝だったということになります。海の神にされてしまったのは、その表記に「表」「中」「底」がたまたま含まれていて、それにこじつけて古代人が想像力豊かに物語を創作したからです。大阪の住吉大社が住吉三神の出所にはなりえない理由はここにあります。
「住吉」は縄文語解釈で、
●住吉=「スマ・ノッ・ヘ(orエ)」=「岩の・岬の・頭」
となり、大阪では「上町台地の岬」、神戸では「六甲山のふもとの岬」を表します。同じ縄文語を機縁として、神戸の本住吉神社から大阪に勧請されたと考える方が自然ではないでしょうか。
【おまけ】
神功皇后に関連して、神戸市の「御影」の地名譚があります。
<伝承>澤之井という泉があり神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」の名の起こり
他の例と同様に考えれば、この地名譚も疑わしく見えてきます。
以下縄文語解釈。
◎御影=「メクカ・ケ」=「沢と沢の間に細く伸びている山の・ところ」=御影地区に伸びている峰
◎澤之井=「サ・ウォロ・イ」=「浜を・水に浸している・ところ」=浜の泉
⇒google map
つまり、「六甲山から流れ出る沢に挟まれた峰の、浜に湧いている泉」という意味です。
■■■ 処女塚古墳/求女塚古墳 ■■■
◎処女塚古墳(兵庫県神戸市/4世紀前半/前方後円墳)⇒googlemap
◎東求女塚古墳(兵庫県神戸市/4世紀後半/前方後円墳)
◎西求女塚古墳(兵庫県神戸市/3世紀後半/前方後円墳)
神戸には、処女塚古墳、求女塚古墳の大変悲しい恋話が伝えられていますが、これも間違いなく漢字にこじつけた創作物語です。
まずは、物語内容(wikipedia引用)。
【菟原処女の伝説】菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な男性が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。娘はこれを嘆き悲しみ、「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます」と母に語ると自ら命を絶ってしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって後を追った。その後、親族たちは集まって、このことを長く語り継ごうと、娘の墓を中央に男の墓を両側に作ったという。
そもそも古墳の築造年代が異なるので、言うまでもなく事実ではありません。
次に縄文語解釈。
●処女塚=「オタ・モィ・テュク」=「砂浜の・入り江の・小山」
●求女塚=「モ・オタ・モィ・テュク」=「小さな・砂浜の・入り江の・小山」
いずれも砂堆の上に築造。そして、近隣の地名。
◎元(町)/本(山)/本(住吉神社)=「モ・オタ」=「小さな・砂浜」
つまり、「六甲山南麓の砂浜にある古墳」という意味です。情緒が消えてつまらなくなってしまいますが仕方ありません。
このように兵庫県の古墳を縄文語解釈すると、少なくとも4、5世紀まで縄文語が使われていた可能性は非常に高いと思われます。ほかにも、同名古墳で狩口台きつね塚古墳(神戸市/6世紀後半)、愛宕山古墳(三木市/4世紀末から5世紀初頭)、長尾薬師塚古墳(たつの市/7世紀)がありますが(※第三十六回、第三十七回コラム参照)、確実性を高めるために、さらに兵庫県内の古墳の縄文語解釈すすめたいと思います。
まだ結論づけるには早いですが、これまでの結果が示しているのは、決して弥生人の渡来とともに縄文文化のすべてが上書きされて消えてしまった訳ではないということです。骨格等の生物学的特徴は違えど、弥生人は縄文語を受け入れながら、少なくとも古墳時代までは先住縄文人と文化を共有していた可能性が高そうです。これは、もともと朝鮮半島南部に縄文人と縄文語や文化を共有する集団があり、その集団が日本に渡来して弥生人になったと仮定するとスムーズに理解することができます。
古墳時代の縄文語の使用地域は、現段階の解釈に限ってみても、東国から西日本にまで及び、想像以上の広がりを見せています。いったいどこで、いつから上代日本語に切り替わったのか。真実の歴史を探るためには、縄文語と上代日本語の境界線をもっと深く掘り下げて見ていく必要がありそうです。
※中国四国地方、および九州は今後検証予定です。その結果次第では、検証エリアを朝鮮半島南部にも拡大した方がいいかもしれません。
日出ずる国のエラーコラム
第三十八回 地名の王子、八王子は王子様ではない!
第三十七回のコラムで群馬県の古墳を縄文語解釈しましたが、そこに挙げた皇子塚古墳の解釈を補完するための裏付けがあまりにも貧弱なので、全国に散らばる「王子」「八王子」の地名を、縄文語の見地から探ってみました。やはり、由来は王子様ではなかったようです。第三十八回 地名の王子、八王子は王子様ではない!
【今回取り上げる内容】
皇子塚・王子塚・皇子山古墳/王子(各地の地名)/八王子(各地の地名)
■■■ 皇子塚/王子塚/皇子山古墳 ■■■
●「オ・ウシ・テュク」=「川尻(山尻)・のところの・小山」
山尻、あるいは、川の合流地点(川口)に立地する塚の意。
◎皇子塚古墳(群馬県藤岡/6世紀後半/円墳)⇒google map
◎皇子塚古墳(長野県上田市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
◎王子塚古墳(長野県上田市/5世紀中頃から6世紀前半/帆立貝形古墳)⇒googlemap
◎皇子山古墳群(滋賀県大津市/3世紀末~4世紀後半/前方後円墳、円墳)⇒googlemap
いずれの古墳も、峰裾、あるいは川の合流点に築かれています。これを前提に「王子」「八王子」を掘り下げて解釈していきます。
■■■ 王子 ■■■
まずは、「王子」から。以下、通説です(wikipedelia引用)。
【通説】王子信仰の隆盛とともに、王子信仰の社がある場所が王子の地名で呼ばれることが増え、王子の地名が全国に広がった。
※王子信仰とは:本宮と呼ばれる神社の主神からその子供の神として分かれ出た神格を祀ったり、巫女的な性格をもつ母神とその子神をあわせて祀る信仰。
何が正しいかは、人々が残した恣意的な文書や伝承よりも地勢が雄弁に証明します。
●「オ・ウシ」=「川尻(山尻)・のところ」
以下、全国の「王子」です。すべて川尻(川の合流地点)、あるいは山尻です。これらを見ると「オ・ウシ」という地名に「王子」という漢字が充てられて、王子信仰が相乗りしたと考える方が自然です。
【参考】王子のつく地名
◎東京都北区王子⇒google map
※石神井川と隅田川(旧入間川)の合流地点。
◎神奈川県厚木市王子⇒google map
※峰裾。川の合流地点とも言える。
◎大阪府貝塚市王子⇒google map
※峰裾。川尻とも言える。海水面が高い頃はもっと海沿い。
◎兵庫県明石市王子⇒google map
※川の合流地点。
◎兵庫県淡路市王子⇒google map
※山尻。
◎兵庫県揖保郡太子町王子⇒google map
※山尻。
◎和歌山県紀の川市王子⇒google map
※山尻。
◎岡山県久米郡美咲町王子⇒google map
※山尻、川の合流地点。
◎福岡県糟屋郡志免町王子⇒google map
※山尻。
◎奈良県王寺町王寺⇒google map
※山尻、川の合流地点。
■■■ 八王子 ■■■
次に八王子。
「午頭天王の八人の王子を祀る」という由来はあまりにも有名ですが、筆者にはどうも怪しく見えてしまいます。早速、出所である大元の京都八坂神社を探っていきます。
【八坂神社由緒】もともと感神院または祇園社と称し、斉明天皇2年(656年)に高麗からの使節である伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まる。
としています。
まず、この「スサノオが新羅から来た」という日本書紀の記述を鵜呑みにして書かれたであろう内容がかなり疑わしい。スサノオの時代に、まだ新羅は存在していません。そして、新羅の日本読みの「しらき」は縄文語解釈で、
●「シロケシ」=「山裾」
の意の一般名詞で、同じ地勢のどこの地名にも当てはまります。筆者は、スサノオの出身は大分県の国東半島のふもととしています(※第二十四回コラム参照)。
牛頭天王がいたとされる須彌山中腹の「豊饒国」は、実は大分の「豊国」のことではないでしょうか。また、伊呂波字類抄では、牛頭天王はインドの北にある「九相国」の王であるとしていますが、この「九相国」を縄文語解釈すれば「クーソル(対岸)」国で、筆者が考える「九州」の語源とも一致します。
つまり、この八坂神社の由緒に記される「新羅の牛頭山云々」の内容は、656年の創建が信用できるのであれば、「牛頭」の漢字表記と日本書紀の内容にこじつけた物語が後から付け加えられたものではないかと疑えるということです。
牛頭天王を縄文語解釈します。
●「牛頭」=「コッチャル」=「谷の入口」=白川と鴨川の合流地点か
⇒八坂神社google map
そして、似た解釈のできる人物に、スサノオの孫にあたる事代主がいます。
●「事代主」=「コッチャル・シル・ウシ」=「谷の入口の・山・の者」=三輪山の者
そして、事代主と同一神ともされる一言主。
●「一言主」=「ピテュ・コッチャル・ウシ」=「石の岬の・谷の入口・の者」=三輪山の者
古事記の一言主の記載内容は以下です(wikipedia引用)。
<古事記>雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
残念ながら、そのような神はどこにもいません。この空想物語を生み出すために、どれだけ頭を悩ませたのでしょうか。
神を創造する際に「昔の資料に書かれていることが理解できないので、とりあえず漢字表記から○○と解釈することにする」ぐらい書いてもらえれば、後世の人々がこんなに混乱することもありませんでした。その後の日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。また、中国の古文献に比して記紀の内容がはるかに稚拙であることも、これで納得がいきます。
因みに、一言主を祀る賀茂氏は事代主の子の天日方奇日方(=奇日方天日方武茅渟祇=鴨建角身)が始祖なので、その父である事代主を祀るのは自然です(※第二十五回、二十六回コラム参照)。「日本神話=欠史八代」の法則を神話に当てはめると、その謎は簡単に解くことができます。
牛頭天王に話を戻すと、牛頭天王には八人の子がいます。
【八王子神社由緒】牛頭天王の子の八人を八王子権現として祀る
この由緒は全国の「八王子」の地名由来ともなっていますが、本当でしょうか?
この八王子権現の大元は、京都の牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗、山王神道の神仏習合です。この八王子山を縄文語解釈します。
●「ハッタル・オ・ウシ」=「淵・尻・のところ」=淵の出口(入口)
◎牛尾山(八王子山)(京都市)⇒googlemap
※琵琶湖の尻の山。
と解釈できます。もしかすると「ハッタル」ではなく、「淵」を意味する「フチ」のような発音の言葉がすでにあったのかもしれません。尻を意味する「オ」は、日本語の「尾」が相応しい。とすれば、
●「フチ・オ・ウシ(淵・尾・主)」=「淵・尻・のところ」=淵の出口(入口)
となり、さらに理解しやすくなります。牛頭天王の解釈ともほぼ一致します。
以下、全国の八王子山、八王子の地形図です。リンク先で確認してみてください。これらを見ると、ほとんどが「湖や湾の出口」、あるいは「山間からの川の出口」となっています。
つまり、「王子」と同様に、「ハッタル・オ・ウシ」or「フチ・オ・ウシ」という地名に、「八王子」という漢字が充てられて、「八王子権現」が登場することになったと考えられるということです。
漢字表記は知恵や知識を後世の人々に広く伝承するという意味で、日本の発展に多大な貢献をしましたが、皮肉なことに縄文語に漢字表記が充てられた結果、縄文文化の多くは空想物語で上書きされてしまいました。大和王権には縄文文化を継承する人々はいなかったのでしょうか。
【参考1】八王子のつく山
◎八王子山 (滋賀県) ⇒google map
※琵琶湖の尻の山。
◎八王子山 (桐生市/太田市) ⇒google map
※渡良瀬渓谷の出口の山。
◎八王子山 (甲府市)⇒google map
※昇仙峡のある荒川の出口の山。
◎八王子山 (岐阜県) ⇒google map
※木曾川、可児川の出口の山。
【参考2】八王子のつく地名※後世の開発で不明となっている場所は除く。
◎埼玉県さいたま市中央区八王子⇒google map
※大宮大地の旧河川の川口。
◎東京都八王子市⇒google map
※西の山間から東流する河川多数。その出口。
◎愛知県瀬戸市八王子町⇒google map
※赤津川の山間からの出口。
◎愛知県田原市八王子町⇒google map
※通説は文徳天皇の皇子八条院が当地西方の台地に居を構えたことに由来だが、かなり怪しい。三河湾の出口。
◎三重県四日市市八王子町⇒google map
※淵の出口。
◎京都府八幡市上津屋八王子⇒google map
※川の出口。虚空蔵谷の出口の意か。
◎岡山県倉敷市八王寺町⇒google map
※高梁川の出口。
◎山口県防府市八王子⇒google map
※佐波川の出口。
日出ずる国のエラーコラム
第三十七回 関東古墳王国、群馬県の古墳から王朝交代を探る!
関東の古墳王国である群馬県の古墳名を縄文語解釈していたのですが、当該古墳固有の命名と思われる確度の高い縄文語解釈がいくつか発見でき、予想以上に縄文語解釈可能な古墳の築造年代が下ってしまいました。おそらく多くの人は信じることができないかもしれません。
第三十七回 関東古墳王国、群馬県の古墳から王朝交代を探る!
縄文語解釈できたのは、実に7世紀末までです。つまり、古墳が造られている時代はずっと解釈できたということです。時代区分で言えば、古墳時代から飛鳥時代までほぼまるごと。奈良時代直前までです。
縄文語解釈できた古墳が7世紀末の築造まで下るということは、すでに遣唐使の時代、万葉集の登場人物が活躍しているような時代に築造されたということですから、上代日本語と縄文語の類似が認められなければ、これはつまり、上代日本語を使う大和王権と、縄文語を使う地方(少なくとも東国)が二重構造になっていた可能性が高いということを示しています。さらに、縄文語解釈確度の高いと思われる狐塚古墳の例でも(※第三十六回コラム参照)、奈良に6世紀後半の築造が見られるので、奈良盆地の中でさえ地域性があった可能性があります。とすれば、上代日本語はごくごく限られた人々だけが使用する言語だったとする方が辻褄が合います。
中国が冊封体制の中で周辺の朝貢国に漢字を学ばせたように、日本の中でも、大和王権が統治エリアを広げるとともに、体制に組み込まれた地方などの人々に上代日本語を学ばせようとする意図が働いていたのかもしれません。
記紀が編纂されたのは、ちょうど古墳が造られなくなった直後です。記紀が生み出された本当の理由もこの周辺に隠れているかもしれません。
縄文語解釈できる時代が想像以上に下り、また地域も拡大したので、やはり、関西や九州など、エリアを広げて検証する必要がありそうです。
【今回取り上げる内容】
七輿山古墳/蛇穴山古墳(総社古墳群)/宝塔山古墳(総社古墳群)/大小路山古墳(総社古墳群)/遠見山古墳(総社古墳群)/八幡塚古墳(各地の八幡塚および八幡のつく地名)/荒砥富士山古墳(各地の富士見のつく地名)/薬師塚古墳(各地の薬師塚古墳)/オクマン山古墳/鶴巻・鶴山古墳(各地のツルのつく地名)/皇子塚古墳/しどめ塚古墳/堀越塚古墳(各地の堀越、堀口のつく地名)/三島塚古墳/女体山古墳/亀塚山古墳/オブ塚古墳/一ノ関古墳
■■■ 七輿山古墳 ■■■
(群馬県藤岡市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
●「ニナル・ケシ(山)」=「川岸の台地・の裾(山)」
鏑川と鮎川に挟まれた河岸段丘上に築かれた古墳。これは、かなり確度が高い縄文語解釈です。固有名詞としか考えられません。
■■■ 蛇穴山古墳(総社古墳群)■■■
(群馬県前橋市総社町/7世紀末/方墳)⇒形状(google画像検索) ⇒google map
●「チケ・テュ・サン」=「削れている・峰の・棚のような平山」
or「チケ・チャ・サン」=「削れている・縁の・棚のような平山」
or「チケプ・サン」=「削れている・棚のような平山」
「蛇穴山」が日本語ではないことは明らかです。40m四方の切り立った棚状の方墳で、葺石と横穴式石室があり、古墳構造を表現した縄文語解釈が可能です。
また、近隣には、二子山古墳(6世紀後半/前方後円墳)、愛宕山古墳(7世紀前半/方墳)もありますので、同名古墳の縄文語解釈に妥当性を与えることにもなります。
上記愛宕山古墳の縄文語解釈も固有名詞の可能性が高く、縄文語の使用の確率は極めて高いと言えます。
【参考】
◎愛宕山古墳(群馬県高崎市/7世紀前半/方墳)⇒googleストリートビュー(正面)
●「アッ・タプコプ(山)」=「片割れの・尾根の先にたんこぶのように高まっているところ(の山)」
※河岸段丘の先端に立地。この古墳の固有名詞の可能性が高い(※第三十六回コラム参照)。
■■■ 宝塔山古墳(総社古墳群)■■■
(群馬県前橋市総社町/7世紀後半/方墳)⇒google map
これは仏教の影響で「宝塔」とする説が一般的です。しかし、隣接する7世紀末築造の「蛇穴山古墳」とも築造年代が近く、蛇穴山古墳が確度の高い縄文語解釈ができることから、「宝塔山古墳」も縄文語解釈ができる可能性が高まります。
秩父長瀞の「宝登山」や、日本全国の地名にある「ホト」と同じ解釈を試みます。
まず、宝登山神社縁起の「宝登山」の由来を見てみます。
<宝登山神社縁起>「賊の火矢で火事になり、窮地に陥ったヤマトタケルを神犬が火を消して助けた。ヤマトタケルは山頂に神を祀り、火止山(ホドヤマ)と名づけた」⇒google map
漢字表記にこじつけられたこの地名譚の存在自体がウソを証明しているようなものです。
一方、全国の地名にある「ホト(保戸、保土、程、保戸)」は、「女性の陰部(御陰、陰所、女陰)」を由来とし、「湿地帯」を表すとされています。
「ホト」を縄文語解釈すると、
●「ホト」=「ペッ・チャル」=「川の・入口」
or=「ペッ・チャ」=「川・端」
or=「ポッチェ・イ」=「ぬかるんでどろどろしている・ところ」
となります。
秩父の宝登山も荒川左岸です。そして、「宝塔山古墳」も現利根川と八幡川に挟まれた立地です。利根川の流路が変わっていたとしても、支流沿いだったことは確実です。
「ホト(宝塔、宝登、保戸、保土、程、保戸)」は、周辺の地名には見当たらないので、固有名詞として古墳に命名された可能性があります。
■■■ 大小路山古墳(総社古墳群)■■■
(群馬県前橋市総社町/円墳)⇒google map
●大小路(山)=「オオ・コッチャル」=「大きな・窪地(谷)の入口」
宝塔山古墳、遠見山古墳とともに、水辺を連想させる解釈になります。
■■■ 遠見山古墳(総社古墳群)■■■
(群馬県前橋市総社町/6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
●遠見(山)=「トマム(山)」=「湿地(の山)」
or「トー・メム」=「湖、泉」=湖沼の意か
現在の利根川右岸に立地。利根川の流路はもっと東だったので、この古墳は湿地の中に築造されたということになります。 しかし、後世に「遠く見渡せる」という意味で「遠見山」と命名された可能性も否定はできません。
■■■ 八幡塚古墳 ■■■
◎保渡田八幡塚古墳(群馬県高崎市/5世紀後半~6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
◎八幡塚古墳(群馬県渋川市/7世紀後半/円墳)⇒google map
◎八幡塚古墳(東村第1号墳)(群馬県伊勢崎市/円墳)⇒google map
八幡様と言えば、大元は大分の「宇佐八幡(宇佐神宮)」ですが、京都の石清水八幡、鎌倉の鶴岡八幡に勧請されて、日本全国に広まりました。
このことに疑いを持つ人はほぼ皆無だと思われますが、筆者にはかなり疑わしく見えています。というのも、八幡を冠する地名は、古墳含め、日本全国に無数にあり、そのすべてに八幡神社が勧請されているとはまったく思えないからです。
縄文語解釈します。
●八幡=「ペッチャム(=ペッ・サム)」=「川端」
ではないでしょうか。
「日本書紀のエラーコラム」電子書籍(2018/2初版)の第十七回コラム「宇佐の八幡大神は応神天皇ではない!」で、「八幡=ヤ・ウン・ウェン・タク=岸・にある・険阻な・石」と縄文語解釈しましたが、「はちまん」の読みで解釈するならば、上記の「川端」の解釈が成立します。宇佐八幡も川岸です。さらに検討は必要ですが、解釈を変更しなければならないかもしれません。
というのも、今回古墳名の縄文語解釈を進めるにあたり、他の「八幡」を冠する古墳や地名の所在地も調べたのですが、そのほとんどが「川端」の地勢だったからです。
つまり、古墳や土地の命名にあたって、次の流れが想定できるということです。
1)もともと縄文語で「ペッチャム」と発音されていた「川端の土地」に、
2)まず、似ている音を機縁として「八幡」の漢字が充てられ(or表記が変えられ)、
3)次に、「八幡」の表記を機縁として「八幡神社」が勧請された。
※2)の前段階で別の字が充てられ、のち好字の「八幡」に改められた可能性もあります。
3)については、八幡神の流行により、縄文語と一致しない土地に勧請された神社も多数あるものと思われます。詳細は「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」で検証予定です。土地名としての「八幡」の方は、川端の地勢であることはほぼ間違いありません。図に示すと以下のようになります。
■「八幡=ペッチャム=川端」の分布概念図
ちなみに、前掲の保渡田八幡塚古墳の所在地「保渡田町」は「ホト」由来の地名と思われます、これも、
●ホト=「ペッ・チャ」=「川・岸」
or「ポッチェ・イ」=「ぬかるんでどろどろしている・ところ」
の意で、「八幡」との組み合わせの相性は極めて良好です。
以下、八幡を冠する地名の地勢をご覧ください。
【参考1】群馬県以外の八幡塚古墳
◎八幡塚古墳(山形県米沢市/5世紀後半/円墳)⇒google map
※川岸に立地。墳丘上に八幡神社。
◎塚野目第1号墳(八幡塚古墳)(福島県伊達郡国見町/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
※川岸に立地。
◎下鳥渡八幡塚古墳(福島県福島市/5世紀末~6世紀初頭/帆立貝形古墳)⇒google map
※川岸に立地。
◎那須八幡塚古墳(栃木県那須郡那珂川町/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※川岸に立地。
◎沼田八幡塚古墳(茨城県つくば市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
※少々川から離れすぎか。
◎林八幡塚古墳(茨城県結城市/前方後円墳)⇒google map
※川岸に立地。墳丘上に八幡社。
◎八幡塚古墳(東京都世田谷区/古墳時代中期/円墳)⇒google map
※川岸に立地。
◎八幡塚古墳(和歌山県紀の川市/円墳)⇒google map
※川岸に立地。
【参考2】「八幡」を冠する地名
※類例がありすぎるので、まとめてご覧ください。ほぼ川沿いで間違いありません。
◎東北北部 ◎東北南部 ◎北関東 ◎関東 ◎中部・近畿・中国・四国 ◎九州
■■■ 荒砥富士山古墳 ■■■
(群馬県前橋市/7世紀末/円墳)⇒google map
●「アルトル・ペッチャ(山)」=「反対の地の・川岸(の山)」
これは北東方向にある大室古墳群に対する呼び名で、固有名詞の可能性が高いと思われます。
「富士」に充てた「ペッチャ=川岸」に関連して、富士見の地名も解釈してみます。どうやら一般に流布している「富士山が見える場所」という由来は、高確率で漢字表記からのこじつけのようです。
「富士見」を縄文語解釈します。
●富士見=「ペッチャム(=ペッ・サム)」=「川端」=八幡
つまり、「富士見」は「八幡」と同じ意味で、異なる漢字が充てられているだけです。富士山が見えない「富士見」の地名の謎を解く鍵はここにあります。wikipediaに「富士見」のつく地名一覧がありましたので、抜粋して(北海道除く)googole mapにリンクしました。いくつかの例外を除いて、ほとんど「川端」です。「八幡」や「富士」の例を見ると、同じ音に同じ漢字を充てるといったような厳格な法則性はないようです。
【参考1】富士見坂
◎東京都千代田区富士見坂⇒google map
◎東京都港区青木坂(旧富士見坂)⇒google map
◎東京都港区大横丁坂(旧富士見坂)⇒google map※旧笄川沿いの坂。現在は暗渠。
◎東京都渋谷区宮益坂(旧富士見坂)⇒google map※渋谷川沿い。
◎埼玉県さいたま市南区富士見坂⇒google map
【参考2】富士見のつく地名※川沿いではない地名には注釈あり。
◎山梨県甲府市富士見⇒google map
◎埼玉県上尾市富士見⇒google map
◎埼玉県狭山市富士見⇒google map
◎埼玉県鶴ヶ島市富士見⇒google map
◎千葉県浦安市富士見⇒google map
◎千葉県千葉市中央区富士見⇒google map
◎千葉県木更津市富士見⇒google map
◎東京都千代田区富士見⇒google map
◎神奈川県川崎市川崎区富士見⇒google map
◎神奈川県相模原市中央区富士見⇒google map※川端ではない。
◎長野県諏訪郡富士見町富士見⇒google map
◎福岡県福岡市西区富士見⇒google map
【参考3】富士見町※川沿いではない地名には注釈あり。
◎青森県弘前市富士見町⇒google map
◎秋田県大仙市富士見町⇒google map
◎山形県酒田市富士見町⇒google map
◎茨城県結城市富士見町⇒google map※吉田用水沿いだが、河川ではない。
◎栃木県宇都宮市富士見町⇒google map
◎栃木県足利市富士見町⇒google map
◎栃木県栃木市富士見町⇒google map
◎栃木県佐野市富士見町⇒google map
◎群馬県館林市富士見町⇒google map
◎埼玉県川越市富士見町⇒google map
◎埼玉県行田市富士見町⇒google map
◎埼玉県加須市富士見町⇒google map
◎埼玉県鴻巣市富士見町⇒google map※川岸ではない。
◎東京都板橋区富士見町⇒google map
◎東京都八王子市富士見町⇒google map
◎東京都立川市富士見町⇒google map
◎東京都調布市富士見町⇒google map
◎東京都東村山市富士見町⇒google map
◎神奈川県横浜市中区富士見町⇒google map江戸期の干拓地。
◎神奈川県横須賀市富士見町⇒google map※川沿いではない。富士淺間大神あたりから本当に富士山が見えるか。
◎神奈川県平塚市富士見町⇒google map※川沿いではない。
◎神奈川県茅ヶ崎市富士見町⇒google map
◎神奈川県秦野市富士見町⇒google map
◎岐阜県多治見市富士見町⇒google map
※川沿いだが、解釈は厳しい。池田富士由来の地名か。
◎静岡県静岡市葵区富士見町⇒google map※旧流路沿い。
◎静岡県静岡市清水区富士見町⇒google map
◎静岡県沼津市富士見町⇒google map
◎静岡県磐田市富士見町⇒google map
◎愛知県名古屋市中区富士見町⇒google map
◎愛知県刈谷市富士見町⇒google map
◎島根県松江市富士見町⇒google map
◎岡山県岡山市東区富士見町⇒google map
◎広島県広島市中区富士見町⇒google map
◎香川県丸亀市富士見町⇒google map※讃岐富士由来か。
◎香川県坂出市富士見町⇒google map※讃岐富士由来か。
◎福岡県北九州市小倉南区富士見町⇒google map
◎佐賀県唐津市富士見町⇒google map※川沿いではない。
◎長崎県長崎市富士見町⇒google map
◎大分県別府市富士見町⇒google map
【参考4】その他
◎群馬県前橋市富士見(旧勢多郡富士見村)⇒google map
◎埼玉県鴻巣市吹上富士見(旧北足立郡吹上町富士見)⇒google map
◎東京都港区旧麻布富士見町⇒google map
◎愛知県名古屋市昭和区八事富士見⇒google map
◎鳥取県米子市冨士見町⇒google map
■■■ 薬師塚古墳 ■■■
◎薬師塚古墳(群馬県前橋市総社町/円墳)⇒google map
◎保渡田薬師塚古墳(群馬県高崎市保渡田町/5世紀末~6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
◎薬師塚古墳(群馬県高崎市山名町)⇒google map
◎多胡薬師塚古墳(群馬県高崎市吉井町/7世紀後半/円墳)⇒google map
◎薬師塚古墳(石塚)(群馬県高崎市菅谷町)⇒google map
◎薬師塚古墳(群馬県藤岡市上落合)⇒google map
◎薬師塚古墳(群馬県藤岡市緑埜/円墳)⇒google map
◎亀泉薬師塚古墳(群馬県前橋市亀泉町/6世紀初頭)⇒google map
◎薬師塚古墳(群馬県前橋市粕川町/円墳)⇒google map
●薬師=「ヤ・ケシ」=「岸の・峰裾」=峰裾の岸
群馬県には多くの薬師塚古墳があります。この名は「川に迫っている峰の岸」を表したのではないでしょうか。リンク先の地形図を見るとことごとく川沿いの峰上にあることが分かります。薬師神社と関係なければ、かなり確度が高いです。薬師神社も古墳名から勧請された可能性があります。
また、関西の「薬師」を冠する古墳も同じ地勢にあります。
【参考】関西の「薬師」を冠する古墳
※薬師山古墳は地名から命名された可能性あり
◎薬師山古墳(京都府京田辺市/古墳時代中期/円墳)⇒google map
◎薬師山古墳(兵庫県神戸市)⇒google map
◎長尾薬師塚古墳(兵庫県たつの市/7世紀/方墳)⇒google map
◎穴薬師古墳(香川県坂出市/古墳時代終末期/円墳)⇒google map
■■■ オクマン山古墳 ■■■
(群馬県藤岡市/6世紀後半/円墳)⇒google map
●「オ・クマ・ウン(山)」=「川尻の・横山(横長の山)・の方にある(山)」
「川尻の横山」とは、太田市の「八王子山」と「金山」のことではないでしょうか。日光連山の手前の平地に小高い峰が横たわっています。この解釈は後述する「八王子山=淵の出口の山」とも一致しています。
また、鴻巣市の武蔵国造笠原氏の内紛に関わった上毛野君小熊とも名前が一致するとともに、東南東約7kmには東国最大の前方後円墳である太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)があります。これらとの関係も気になるところです。
※「お熊様(熊野神社)」由来の命名かとも思ったのですが、近隣に熊野神社は発見できませんでした。
■■■ 鶴巻/鶴山古墳 ■■■
◎大鶴巻古墳(群馬県高崎市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
◎小鶴巻古墳(群馬県高崎市/5世紀後半/前方後円墳)⇒同上
◎鶴山古墳(群馬県太田市/5世紀後半/前方後円墳)⇒google map
◎鶴巻古墳(群馬県伊勢崎市/6世紀末/円墳)⇒google map
●「チル・マ・ケ」=「水がしたたる・谷川・のところ」
●「チル(山)」=「水のしたたり(山)」
この「チル=したたる(動詞)orしたたり(名詞)」は、「水流(つる)」「鶴」「都留」など、地名に見られる「つる」の語源となっているのではないでしょうか。すでに「つる」が「水に関係する地名」とする説も存在しています。
以下に「つる」のつく地名を列挙してみます。北から南まで満遍なく存在しています。そして、ほぼ水との関係を窺わせる地勢となっています。鶴の飛来地を地名由来とするのは、漢字表記からのこじつけが多いのではないでしょうか。
「鶴巻」「鶴山」は、周辺の地名には見当たらないので、固有名詞として古墳に命名された可能性があります。
【参考1】「鶴」を含む地名 ※北から南まで、あまりにも多いので、googleマップの検索結果でご覧ください。
◎東北⇒google map
◎関東⇒google map
◎中部/関西⇒google map
◎中国/四国/九州⇒google map
【参考2】「水流」を含む地名
◎青森県上北郡東北町水流⇒google map(青森)
◎宮崎県えびの市水流⇒google map(九州)
◎宮崎県宮崎市大塚町水流
◎宮崎県小林市水流迫
◎宮崎県都城市下水流町
◎宮崎県西都市水流崎町
◎宮崎県延岡市北方町川水流卯
◎鹿児島県出水市高尾野町下水流
◎鹿児島県伊佐市大口鳥巣西中水流
■■■ 皇子塚古墳 ■■■
(群馬県藤岡/6世紀後半/円墳)⇒google map
●「オ・ウシ・テュク」=「川尻(山尻)・のところの・小山」
山尻、あるいは、川の合流地点(川口)に立地する塚の意。
【参考】
◎皇子塚古墳(長野県上田市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
※峰裾に立地。
◎王子塚古墳(長野県上田市/5世紀中頃から6世紀前半/帆立貝形古墳)⇒google map(同上)
※川の合流地点に立地。
◎皇子山古墳群(滋賀県大津市/3世紀末~4世紀後半/前方後円墳、円墳)⇒google map
※谷の入口にある独立丘陵の皇子山に築造された古墳群。
これらの古墳の周辺には「王子」の地名がないので、固有名詞の可能性もあります。しかしながら、解釈例が少なすぎて説得力に欠けますので、ほかにも「王子」のつく地名を調べてみました。解説がかなり長くなりましたが、説得力のある内容となりましたので第三十八回コラムとして独立させることにしました。ぜひ、ご参照ください。
■■■ しどめ塚古墳 ■■■
(群馬県高崎市/7世紀前半/円墳)⇒google map
●「シテュ・モィ・テュク」=「(沢と沢とに挟まれた)山の走り根の、入江の、小山」
地形そのままです。烏川、その支流、碓氷川が入江の地勢を作っています。「モィ=入江」は、山中の地形にも使われます。
■■■ 堀越塚古墳 ■■■
◎堀越塚古墳(群馬県藤岡市/7世紀初頭/円墳)⇒google map
※鮎川が湾曲しているところ。
◎堀越古墳(群馬県前橋市堀越町/7世紀後半/円墳)⇒google map
※堀越はこの周辺の地名。大胡城あたりの地勢か。
●堀越=「ホルカ・チャル」=「異なる方向に向かう・川口」
or堀越=「ホルカ・チャ」=「異なる方向に向かう・川岸」
アイヌ語では「ホルカ=後戻りする」という意味ですが、下記地名参考例を見ると、本流と直角に分かれる支流や、川が湾曲しているところも指しているようです。同様の解釈ができる「堀口」も挙げます。ほぼ間違いない解釈だと思われます。
ただし、古墳名が地名由来の場合は、縄文語が使用されている時代の特定は難しくなります。
【参考】「堀越」「堀口」を含む地名
◎群馬県太田市堀口町⇒google map
◎青森県弘前市堀越⇒google map
◎志波姫堀口(宮城県栗原市)⇒google map
※迫川が曲がるところ。
◎福島県田村市船引町堀越⇒google map
◎茨城県ひたちなか市堀口⇒google map
※那珂川が曲がるところ。
◎新潟県胎内市堀口⇒google map
※落堀川支流が曲がるところ。
◎静岡県伊豆の国市寺家⇒google map
※狩野川支流の古川が曲がるところ。
◎静岡県袋井市堀越⇒google map
※原野谷川支流の宇刈川が曲がるところ。
◎愛知県名古屋市西区堀越、南堀越、堀越町、上堀越町⇒google map
※庄内川が曲がるところ。
◎京都府福知山市堀口⇒google map
※由良川、あるいは由良川支流が曲がるところ。
◎広島県広島市南区堀越⇒google map
※浦野川支流が湾曲しているところ。
■■■ 三島塚古墳 ■■■
(群馬県高崎市/5世紀初頭/円墳)⇒google map
●「モィ・スマ・テュク」=「入り江の・石の・小山」=石の入り江にある古墳。
墳丘上に三島神社。「モィ」の意味する「入り江」は、海の入り江以外に山中の同じような地形にも使われます。三島塚古墳の所在地は石原町で、墳丘上に三島神社がありますが、その名を機縁として勧請したとも考えられます。
静岡県の三島市も、富士山の麓の溶岩と湧水の多いところで、入り江のような地勢です。三島市は、
●「メム・スマ」=「泉の・石」=湧き水の石
の解釈も考えられます。
■■■ 女体山古墳 ■■■
(群馬県太田市/5世紀中頃/帆立貝形古墳)⇒google map
●「ノトル(山)」=「岬(山)」
太田天神山古墳(男体山古墳)に隣接。もしかすると、男体山も女体山も「ノトル(山)」を語源としているのではないでしょうか。
ただ、このありきたりな解釈から縄文語の妥当性を証明するのは難しいです。
■■■ 亀塚山古墳 ■■■
(群馬県前橋市/5世紀後半~6世紀初頭/帆立貝形古墳)⇒google map
●「コム・テュク」=「持ち手の曲がりのような・小山」
発掘調査がされていないため詳細は不明です。地元の解説では「帆立貝形古墳で前方部が小さいことから亀塚山と名づけられた」とされていますが、「亀塚」は他の地域で前方後円墳や前方後方墳にも命名されているのであまり説得力がありません。
ただ、「亀の甲羅の形」は縄文語解釈の「持ち手の曲がり」とそっくりなので、形状からはいずれが正しいか判断できません。
また、「コム・マ・テュク」=「持ち手の曲がりのような(湾曲した)・川」の意とすれば、他地域の亀塚古墳の解釈が可能になることもあります。この場合、「高麗(コマ)」と同語源ということになります。
【参考】全国の亀塚古墳
◎亀塚古墳(大分県大分市/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
※丹生川の湾曲部。
◎亀塚古墳(東京都狛江市/5世紀末頃/帆立貝形古墳)⇒google map
※野川の旧流路が湾曲。⇒google画像検索
◎神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市/3世紀前半/前方後方墳)⇒google map
※小河川の湾曲部。
◎亀塚古墳(静岡県浜松市/6世紀前半/前方後円墳⇒google map
※川が遠く、解釈が難しい。
◎亀塚古墳(岐阜県高山市/5世紀前半/円墳)⇒google map(※高山市立国府小学校グランドにかつて存在)
※川の湾曲部とするには強引か。円墳の意か。
◎亀塚古墳(栃木県下都賀郡/6世紀/前方後円墳) ⇒google map
※姿川の湾曲部。
■■■ オブ塚古墳 ■■■
(群馬県藤岡市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
●「オプッ・テュク」=「川口の・小山」
or 「オプ・テュク」=「柄の・小山」=前方後円墳か
地勢上「川口」とも言えず、「前方後円墳」の解釈も確度が高いとは言えません。「オブ」が日本語ではないことは明らかなので、少々残念なところです。
■■■ 一ノ関古墳 ■■■
(群馬県伊勢崎市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
●「エテュノッ・シル・ケ」=「岬の・山の・ところ」
岩手の一関市と同語源のような気がしますが、あまりにも一般的な地形なので、縄文語解釈の妥当性の判断ができません。ただ、「一つ目の関」ではないことは確かです。
日出ずる国のエラーコラム
第三十六回 ミサンザイ、稲荷山、将軍塚古墳から王朝交代を探る!
古墳の縄文語(アイヌ語)解釈に関して、奈良、河内の古墳を扱ったコラムで将軍塚/将軍山、ミサンザイ/ニサンザイなどの同名の古墳が複数存在する古墳名をいくつか取り上げました(以下「同名古墳」とします)(※第三十二回、第三十三回コラム参照)。これらは立地や地形、形状など、多視点からの比較検証が可能なので、それだけ縄文語解釈の確度を高めることができ、各地域における縄文語の使用状況(上代日本語の拡散状況=大和王権の勢力拡大状況)を効率よく把握することができます。第三十六回 ミサンザイ、稲荷山、将軍塚古墳から王朝交代を探る!
当初は、各地域の古墳を一つ一つ縄文語解釈していくつもりだったのですが、少々方針を変更して、これら同名古墳を優先的に解釈していこうと思います。その方が、より早く結果に辿り着けるはずです。これまでの結果では、予想以上に長期にわたって縄文語が使われていましたが、果たしてどこまで時代が下るでしょうか。
また、同名古墳の多くは日本語と縄文語の二通りの解釈が可能なので、解釈の確度を上げるために、関東の古墳王国である群馬県の他の古墳も縄文語解釈してみようと思います。群馬県には茶臼山古墳、稲荷山古墳、二子山古墳、天神山古墳などの多数の同名古墳があります。これらの周辺の古墳もまとめて解釈することにより、同名古墳の縄文語解釈の妥当性を補完できる可能性があります。つまり、他の古墳も辻褄の合う縄文語解釈ができれば、それは同時に、近接する同名古墳を縄文語解釈することの妥当性を示すことにもなるということです。
【今回取り上げる内容】
稲荷山・稲荷塚古墳/狐塚古墳/愛宕山古墳/伊勢塚・伊勢山・伊勢殿古墳/造山/作山古墳/茶臼山古墳/銚子山・銚子塚古墳/二子山・二子塚古墳/天神山・天神塚古墳/(既出:ミサンザイ古墳/ニサンザイ古墳/将軍山・将軍塚古墳)
■■■ 稲荷山/稲荷塚古墳 ■■■
「稲荷神を祀っている」ことを由来とするのでしょうか。稲荷神社のない古墳も多数見受けられます。
そもそも稲荷神社由緒の「“稲成り”を語源とし、五穀豊穣の穀物神とする」は、あまりにも疑わしいです。神社の祭神の多くは、縄文語を理解できない後世の人々が「漢字表記にこじつけて都合良く創作した神」で、ほとんど信用することができません。他の神様についても、この一連のコラムで何度も書いています。
縄文語解釈します。
●「稲荷」=「イナゥ・リク」=「幣の・高台」=高台の祭場
稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社は、もともと背後の稲荷山の山上にありました。現在でも稲荷山全体を神域としています。縄文語解釈とピタリと一致します。
稲荷神社の眷属とされる狐ですが、これも縄文語解釈します。
●「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」=稲荷山⇒写真(google画像検索)
さらに主祭神であるウカノミタマ(古事記:宇迦之御魂神)。まずは、wikipedia引用。
【通説】名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
この解釈は、いったいどこから出てきたのでしょうか。そして、縄文語解釈。
●「ウカノミタマ」=「ウカゥ・ウン・ミンタル」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=磐座⇒写真(google画像検索)
もともとの祭場は、山頂、大岩などの自然崇拝の場所ではないでしょうか。「穀物神」とか「狐」とか、縄文人が聞いたら笑うかもしれません。
「稲荷」を冠する古墳については、稲荷社が祀られていたか、あるいは、実際に祭場であったかのいずれかだと思います。稲荷社は古墳名との一致から設けられたとも考えられます。縄文語が使われていたかどうかは他の古墳の解釈も含めて総合的に判断するしかないようです。
【稲荷山/稲荷塚古墳代表例】※稲荷社が確認できたものは注釈あり。
◎白石稲荷山古墳(群馬県藤岡市/4世紀後半/前方後円墳)
◎風返稲荷山古墳(茨城県かすみがうら市/7世紀/前方後円墳)
◎稲荷山古墳(千葉県富津市/6世紀/前方後円墳)
◎三ツ井稲荷山古墳(愛知県一宮市/円墳)※墳丘上に神明社
◎鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市/6世紀前半/前方後円墳)
◎稲荷塚古墳(東京都多摩市/7世紀前半/八角墳)
◎稲荷塚古墳(側ヶ谷戸古墳群)(埼玉県さいたま市/6世紀中頃/円墳)
◎台耕地稲荷塚古墳(埼玉県さいたま市/7世紀前半/円墳)
◎市場稲荷山古墳(群馬県太田市/6世紀中頃/円墳)※墳丘上に稲荷山神社
◎上小塙稲荷山古墳(群馬県高崎市/6世紀前半/円墳)※墳丘上に烏子稲荷神社
◎稲荷山古墳(埼玉県行田市/5世紀後半/前方後円墳)※墳丘上に稲荷社があった
◎箸中稲荷山古墳(奈良県桜井市/3世紀/前方後方墳)※墳丘上に稲荷社
◎大淀稲荷山古墳(奈良県吉野郡大淀町/円墳)※新野稲荷神社境内に立地
◎二子塚古墳(別名:稲荷山古墳)(大阪府池田市/6世紀前半/前方後方墳)※墳丘上に稲荷社
◎稲荷山古墳(兵庫県丹波篠山市/6世紀後半/前方後円墳)※清五郎稲荷神社の後ろの丘陵に立地
■■■ 狐塚古墳 ■■■
稲荷山/稲荷塚古墳に関連して、狐塚古墳も調べてみました。繰り返しになりますが、
●「狐塚」=「クテュニン・テュク」=「岩の段々のついている崖の・小山」
の意です。狐が出没したという由来が散見されますが、仮に狐が現れたとしてもそれはただの偶然です。下記代表例を見ると、「崖の峰の前 or 崖の峰の上 or 河岸段丘上にある古墳」の意で間違いなさそうです。地勢からの解釈が可能なため、かなり確度が高く、縄文語使用時期の好資料となります。将軍塚古墳と似た命名です(※第三十五回コラム参照)。
【狐塚古墳代表例】※稲荷社が確認できたものは注釈あり。
◎狐塚古墳群(宮城県亘理郡山元町)⇒google map
※峰端上に立地。
◎狐塚古墳(福島県双葉郡浪江町/前方後円墳)⇒google map
※段丘上に立地。
◎狐塚古墳(茨城県かすみがうら市/古墳時代後期)⇒google map
※峰端上に立地。
◎狐塚古墳(埼玉県秩父市/7世紀/円墳)⇒google map
※河岸段丘上に立地。墳丘上に稲荷社あり。
◎狐塚古墳(東京都世田谷区/5世紀後半/円墳or帆立貝形古墳)⇒google map
※国分寺崖線の斜面上。かつて稲荷社が存在。
◎狐塚古墳(東京都調布市/古墳時代終末期/円墳)⇒google map
※立川段丘縁辺部(府中崖線)に立地。
◎狐塚古墳跡(東京都八王子市)⇒google map
※峰端に立地。
◎狐塚古墳(神奈川県川崎市)⇒google map
※崖前か。墳丘上に稲荷社あり。
◎狐塚古墳(山梨県笛吹市春日居町/6世紀後半/円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎鳥居原狐塚古墳(山梨県市川三郷町/円墳)⇒google map
※曽根丘陵西端の支丘上に立地。
◎狐塚2号墳(山梨県甲斐市/7世紀/円墳)⇒google map
※河岸段丘上に立地。
◎狐塚古墳(長野県佐久市/円墳)⇒google map
※河岸段丘状に立地。
◎代田山狐塚古墳(長野県飯田市/4世紀/前方後円墳)⇒google map
※天竜川右岸の中位段丘の東端部に立地。
◎狐塚北古墳(長野県伊那市)⇒google map
※河岸段丘に立地。
◎狐塚古墳(静岡県伊豆の国市)⇒google map
※山裾に立地。
◎狐塚古墳(静岡県浜松市北区/5世紀中頃/方墳)⇒google map
※三方原台地の北西縁に立地。
◎狐塚古墳(静岡県浜松市中区/円墳)⇒google map
※台地端に立地。
◎狐塚古墳(岐阜県多治見市/7世紀前半/円墳)⇒google map
※西方の山裾に稲荷大明神あり。神社由来か。
◎狐塚古墳(福井県越前市/円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎狐塚古墳(京都市右京区/円墳)⇒google map
※有栖川の河岸段丘か。少々が解釈が厳しい。
◎帯解狐塚古墳(奈良県奈良市/6世紀後半/円墳)⇒google map
※山裾に立地だが、少々解釈が厳しい。
◎豊田狐塚古墳(奈良県天理市/6世紀後半/円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎額田部狐塚古墳(奈良県大和郡山市/前方後円墳)⇒google map
※額田部丘陵の西側端部に立地。
◎佐味田狐塚古墳(奈良県大和郡山市/古墳時代前期/帆立貝形古墳)⇒google map
※馬見丘陵に立地。
◎茅原狐塚古墳(奈良県桜井市/7世紀初頭/方墳)⇒google map
※三輪山の裾だが、少々離れていて解釈が厳しい。
◎信太狐塚古墳(大阪府和泉市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※丘陵上に立地。
◎狩口台きつね塚古墳(兵庫県神戸市/6世紀後半/円墳)⇒google map
※明石海峡を見下ろす丘陵上に立地。
◎狐塚古墳跡(兵庫県相生市)⇒google map
※消滅のため、詳細不明。解釈が厳しい。
◎狐塚古墳(岡山県津山市/前方後円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎狐塚古墳(岡山県真庭市)⇒google map
※山裾に立地。
◎八橋狐塚古墳(鳥取県東伯郡琴浦町/5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
※大山峰裾の高台に立地。
◎狐塚古墳(広島県福山市)⇒google map
※峰上に立地。
◎狐塚古墳(山口県山口市/6世紀/前方後円墳)⇒google map
※小山の前だが、少々解釈が厳しい。
九州地方 ※この地域は小高い土地でも狐塚と呼んでいるようだ。
◎狐塚古墳(福岡県糸島市/5世紀前半/円墳)⇒google map
※峰上に立地。
◎狐塚古墳(福岡県朝倉市/6世紀後半~7世紀前半/円墳)⇒google map
※小高い土地。
◎中原狐塚古墳(福岡県久留米市/6世紀後半/円墳)⇒google map
※耳納連山の台地上に立地。
◎狐塚古墳(大分県国東市/4~5世紀前半/帆立貝形古墳)⇒google map
※海岸段丘上に立地。
◎狐塚古墳(宮崎県日南市/7世紀前半)⇒google map
※愛泉会日南病院敷地内。風田川河口右岸の砂丘上に立地。
■■■ 愛宕山古墳 ■■■
日本全国には数えきれないほど愛宕神社がありますが、これらの大元は京都の愛宕山、愛宕権現とされています。しかし、この「愛宕山」、愛宕権現が祀られる前から「アタゴ」と呼ばれています。その解釈にはいくつかの説がありますが、いずれも説得力のあるものではありません。日本語ではないことは明らかなので、ここではその真相を縄文語解釈から探ってみます。
まずは、愛宕権現の由緒を見てみます。以下wikipedia引用。
【由緒】愛宕権現は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られた。
まず、イザナミを垂迹神としているところからしてかなり怪しさが漂います(※第一回コラム参照)。カグツチを火の神として祀っていますが、これもその名に含まれる漢字表記の「火」にこじつけた空想物語です。出生時にイザナミの陰部を火傷させて死に至らしめたなどということはありません。
次に縄文語解釈。
●「愛宕」=「アツ・タプコプ」=「片割れの(or一方の)・離れてぽつんと立っている山(or尾根の先がたんこぶのように高くなっているところ)」⇒google ストリートビュー(※嵐山渡月橋から中央右奥)
明らかに京都の愛宕山の地勢です。つまり、山頂に建つ愛宕神社のそもそもの出所は山岳信仰であり、自然崇拝です。
日本各地に存在する「愛宕山」ですが、「離れてぽつんと立っている山」以外の山はあるでしょうか。そして、そのすべてに愛宕神社が勧請されているのでしょうか。あまりにも多いので、愛宕山のgoogle画像検索でご確認ください。
⇒愛宕山google画像検索
また、火の神「カグツチ」の正体は、
●「カグツチ」=「カッ・クッ・テューテュク」=「形が・弓の・出崎(岬)」⇒google ストリートビュー(同上※嵐山渡月橋から中央右奥)
です。手前左の小倉山と愛宕山の連なりが弓を横にした形に見えます。これだけでは、こじつけ感が否めませんが、他の例を見るとこの解釈確度が極めて高いことが分かります。カグツチはヤマトの香久山とまったく同じ意味です。
●各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
●香久山(大和国)=「カッ・ク・ヤマ」=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
●香山里/鹿来墓(播磨国)=「カッ・ク・ヤマ」=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
●鶴来の丘(常陸国)=「カッ・ク・ライ・イ」=「形が・弓の・死んでいる・ところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
話を本題に戻すと、つまり「愛宕山古墳」というのは、
●「愛宕山古墳」=「ぽつんと離れた古墳」or「ぽつんと離れた山(or尾根の先がたんこぶのように高くなっているところ)に築かれた古墳」
という意味で、そこに愛宕神社があるからというよりも、そういう地形の地名に愛宕神社が勧請された場合が多いということです。
【愛宕山古墳代表例】※愛宕神社が確認できたものは注釈あり。
◎愛宕山古墳(宮城県柴田郡村田町/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※ぽつんと離れた山の上に立地。
◎愛宕山古墳(茨城県水戸市/5世紀前半or6世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
※河岸段丘の端に立地。墳丘上に愛宕神社。
◎愛宕山古墳(茨城県稲敷郡美浦村/5世紀/前方後円墳)⇒google map
※峰の先端に立地。墳丘上に愛宕神社。
◎愛宕山古墳(茨城県結城郡八千代町/古墳時代後期/前方後円墳)⇒googleストリートビュー(正面の山)
※ぽつんとした独立した小山に立地。
◎愛宕山古墳(群馬県高崎市/7世紀前半/方墳)⇒googleストリートビュー(正面)
※河岸段丘の先端に立地。この古墳の固有名詞の可能性が高い。
◎愛宕山古墳(埼玉県行田市/6世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
※埼玉古墳群の最小古墳。墳頂部に愛宕社が祀られていた。
◎白山愛宕山古墳(埼玉県行田市/8世紀中頃/円墳)⇒google map
※埼玉古墳群のいずれかの陪塚と想定される。埼玉古墳群からぽつんと離れた古墳。墳丘上に愛宕社。
◎愛宕神社古墳(埼玉県川越市/6世紀中頃/円墳)⇒google map
※仙波台地の東南端上に立地。仙波愛宕神社は平安時代に勧請か。
◎愛宕山古墳(兵庫県三木市/4世紀末から5世紀初頭/前方後円墳)⇒google map
※まさにぽつんと離れた小山に立地。
■■■ 伊勢塚/伊勢山/伊勢殿古墳 ■■■
伊勢信仰由来でしょうか。伊勢神社のない古墳もたくさんあります。縄文語解釈します。
●「イソ・テュク」=「平たい岩の・小山」=横穴式石室の古墳か?
もともと「イソ=磯の平たい岩」の意です。横穴式石室の古墳を表現したのかもしれません。
伊勢神宮の「伊勢」も同語源だと思われます。
●伊勢志摩=「イソ・スマ」=「平たい岩・岩石」=伊勢志摩の岩礁
因みに、伊勢神宮と関係があるとされる「太一信仰」、これは中国由来の北極星信仰だとされますが、縄文語解釈ではこれも異なります。
●太一=「タク・エテュ」=「石の・岬」
これも他の例と同様に縄文文化に渡来文化が重ねられて解釈が歪められています。本来は、この地域の岩礁の信仰、自然崇拝とするのが相応しく思われます。伊勢志摩の解釈とも一致します。
話を戻します。以下、伊勢を冠する古墳の代表例です。横穴式石室でほぼ間違いないのではないでしょうか。
【伊勢塚/伊勢山/伊勢殿古墳代表例】
◎伊勢塚古墳(群馬県藤岡市/6世紀末/八角墳)⇒google map
※4段に造られた古墳。3段目は最上段の葺石を積み上げてから、その外側に河原石を敷き詰めて造りだした段築面。大小の石を組み合わせた特徴的な模様積石室。(参考:藤岡市HP)
◎山名伊勢塚古墳(群馬県高崎市/6世紀前半/前方後円墳)⇒google map
※二段築成の墳丘に葺石。近隣産出の凝灰岩を積み上げた横穴式石室。
◎伊勢殿古墳(群馬県高崎市/円墳)⇒google map
※横穴式石室あり。
◎伊勢山古墳(五社稲荷古墳)(群馬県前橋市/6世紀末/前方後円墳)⇒google map
※横穴式石室あり。
◎伊勢山古墳(埼玉県熊谷市/6世紀末/前方後円墳)
※横穴式石室あり。
◎伊勢塚(佐賀県神埼市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※葺石、横穴式石室あり。
◎伊勢塚古墳(静岡県富士市/6世紀初頭/円墳)⇒google map
※葺石あり。石室不明。
◎御伊勢山古墳(群馬県高崎市/円墳)⇒google map
※川沿いなので「河原の山」だった可能性があります。詳細は不明です。
◎お伊勢山古墳(茨城県鹿嶋市/前方後円墳)⇒google map
※詳細不明。お伊勢様の祠あり。
■■■ 造山/作山古墳 ■■■
この古墳は、岡山県の第1位、2位(全国4位、10位)の有名な巨大古墳です。
●つくり(山)=「チケレ(山)」=「削れている(山)」
◎造山古墳(岡山県総社市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map
◎作山古墳(岡山県総社市/5世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
この両古墳は、自然地形の丘陵を削って築造されました。wikipediaに解説があります。縄文語解釈そのままです。 ⇒造山古墳wiki ⇒作山古墳wiki
■■■ 茶臼山古墳 ■■■
決して「茶臼に似ている山」ではありません。
●「茶臼」=「チャシ」=「砦/館」
竪穴式住居の屋根に似た形状を表すか、あるいは死者の住む館を表したのだと思います。下記の代表例を見ると、すべて前方後円墳なので、後方部を竪穴式住居の入口に見立てているという解釈もできます。
また、アイヌ語には「チャシコッ」で「山頂の祭場の跡」の意があるので「チャシ」にも「祭場」の意味が含まれているかもしれません。とすれば、古墳上で祭祀が行われていたことを示し、前述の「稲荷」の意味とも一致します。
日本各地の山の名にある「茶臼山」も「館に似ている山(住居の屋根の形に似ている山)」、あるいは「砦が築かれた山」ではないでしょうか。富士山の「へ・チセ=頭が・竪穴式住居(のような山)」の解釈に似ています。
古墳も山も「茶臼」には見えないのですが、漢字表記に引きずられるとこのような解釈にならざるを得ません。
「茶臼山古墳」の名は3世紀末~6世紀後半まで使用されています。奈良、大阪の他の古墳の縄文語解釈が成立している時代とも重なりますから、その間、縄文語が使われていた可能性は高いと言えます。古墳名の場合は、銚子塚古墳の解釈と同じ「チーシ(塚/山)=中窪み(塚/山)=前方後円墳」由来の可能性もあります。
【茶臼山古墳代表例】
◎羽生田茶臼山古墳(栃木県下都賀郡/6世紀後半/前方後円墳)
◎赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市/5世紀中頃/帆立貝形古墳)
◎別所茶臼山古墳(群馬県太田市/5世紀前半/前方後円墳)
◎小幡茶臼山古墳(愛知県名古屋市/6世紀中頃/前方後円墳)
◎青塚古墳(別名:茶臼山古墳)(愛知県犬山市/4世紀中頃/前方後円墳)
◎天王寺茶臼山古墳(大阪府大阪市/5世紀/前方後円墳)
◎太田茶臼山古墳(大阪府茨木市/5世紀中頃/前方後円墳)
◎池田茶臼山古墳(大阪府池田市/4世紀中頃/前方後円墳)
◎桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市/4世紀初頭/前方後円墳)
◎膳所茶臼山古墳(滋賀県大津市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)
◎木の岡茶臼山古墳(滋賀県大津市/5世紀/前方後円墳)
◎浦間茶臼山古墳(岡山県岡山市/3世紀末/前方後円墳)
◎中山茶臼山古墳(岡山県岡山市/古墳時代前期/前方後円墳)
◎和田茶臼山古墳(岡山県赤磐市/5世紀後半~末/帆立貝形古墳)
◎富田茶臼山古墳(香川県さぬき市/5世紀前半/前方後円墳)
◎高松茶臼山古墳(香川県高松市/4世紀末/前方後円墳)
◎柳井茶臼山古墳(山口県柳井市/4世紀/前方後円墳)
■■■ 銚子塚/銚子山古墳 ■■■
「銚子塚」は江戸時代の考古学での前方後円墳の通称で、通説では「銚子の側面に似た形の丘陵」を由来としています。「銚子」は徳利のことではなく、急須やそれに柄のついたような酒器です。前方後円墳に似ているでしょうか。
また、千葉県の地名の「銚子」は、かつて「銚子口」と呼ばれ、入口が狭く、中に入ると広い空間があり、一般的には、酒器の銚子に似ているということが由来とされています。
筆者は、このような漢字表記にこじつけた地名譚をほとんど信じない悪い癖がついており、「銚子」についても縄文語解釈で「チゥ・シル=潮流の・山」とし、「荒波の犬吠埼」あたりを表現したのだろうと考えていました。
しかしながら、前方後円墳の名称である「銚子塚」を検討した結果、どうやらその解釈を修正した方がいいという結論に達しました。申し訳ありません。
「銚子」は縄文語の「チーシ」で、もともと「中が凹んだ」形状を表し、それが利根川河口の地形を意味する「銚子口」の語源になったのではないかと思います。川の形状というよりも、銚子半島の形状とした方がしっくりきます。
●「銚子口」=「チーシ・クッチャル」=「中凹みの・河口」⇒google map
「中に入ると広い云々」は、いつもの後世の人々のこじつけ解釈です。
徳利の別名である「お銚子」は、本来の酒器とは異なるので誤用だとされていますが、もしかすると、もともと「チーシ」は「くびれを持った器」の太古からの名称で、「銚子」という漢字を充てられたために、解釈の混乱が起きているのかもしれません。
つまり、銚子を冠する古墳を縄文語解釈すると、
●銚子塚/銚子山古墳=「チーシ(塚/山)」=「中凹み(塚/山)」=前方後円墳
となります。「銚子の側面」とするよりも、「中凹みの塚/山」とした方が直接的な表現で理解しやすいです。「朝子塚」や「丁子塚」などの表記の揺らぎも簡単に説明できます。
とすれば「銚子塚」というのは、縄文語が話されていた時代からの古い名称ということになります。それが、江戸地誌や考古学に採用され、「酒器の銚子に似ている」というこじつけ解釈が付け加えられたのかもしれません。
下記、滝や地名の【参考例】を見ると、「銚子(チーシ)」という縄文語は確実に使われていたと考えられます。決して酒器の銚子の形には似ていません。
【銚子塚/銚子山古墳代表例】
◎高柳銚子塚古墳(千葉県木更津市/5世紀中頃/前方後円墳)
◎白岩銚子塚古墳(埼玉県神川町/6世紀前半から中頃/前方後円墳)
◎牛渡銚子塚古墳(茨城県かすみがうら市/5世紀中頃/前方後円墳)
◎朝子塚古墳(群馬県太田市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)
◎甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市/4世紀後半/前方後円墳)
◎岡銚子塚古墳(山梨県笛吹市/4世紀後半/前方後円墳)
◎寺谷銚子塚古墳(静岡県磐田市寺谷丁子塚/5世紀中頃/前方後円墳)
◎丁子塚(三重県亀山市/4世紀末/前方後円墳)※ヤマトタケル陵墓治定
◎網野銚子山古墳(京都府京丹後市/4世紀末~5世紀初頭/前方後円墳)
◎一貴山銚子塚古墳(福岡県糸島市/4世紀後半/前方後円墳)
◎銚子塚古墳(佐賀県佐賀市/4世紀末/前方後円墳)
【参考1】全国各地の「銚子」を冠する滝の例、多数。滝の途中に凹みがあり、段になっている形か。⇒写真(google画像検索)
【参考2】銚子岬(北海道)。真ん中が凹んだ岬。「チー・シル」であれば、「陰茎の・山」で、形状はそのまま。⇒google map
【参考3】銚子ヶ峰(岐阜県郡上市/高山市)は、一ノ峰から三ノ峰のセットで「中凹みの峰」の意か。⇒wiki
【参考4】丁子山(岐阜県揖斐川町)は、湧谷山との山頂とセットで「中凹み山」の意か。⇒google map
■■■ 二子山/二子塚古墳 ■■■
二子山も「二つの山」ではない解釈も可能です。
●「二子」=「プッチャク・コッ」=「入口を欠く・谷(沢/溝)」=周堀(濠、壕)のある古墳
アイヌ語には「プッチャクナィ=尻なし川(入口を欠く川)」という似た言葉があります。つまり、明らかに「周堀(濠、壕)」を指しています。
下記代表例を見ると、ほぼすべての古墳に周堀が確認できます。しかしながら、日本語で「二つの山」と解釈するのも前方後円墳の形状から否定はできないので、実態は総合的に判断するしかありません。
【二子山/二子塚古墳代表例】
◎井出二子山古墳(群馬県高崎市/5世紀後半/前方後円墳)※周堀あり
◎総社二子山古墳(群馬県前橋市/6世紀末/前方後円墳)※周堀想定
◎天川二子山古墳(群馬県前橋市/6世紀中頃前方後円墳)※周堀あり
◎二子山古墳(埼玉県行田市/6世紀前半/前方後円墳)※空堀あり
◎大須二子山古墳(愛知県名古屋市/6世紀前半/前方後円墳)※現存しない。堀の有無は不明
◎味美二子山古墳(愛知県春日井市/6世紀前半/前方後円墳)※周濠あり
◎曽本二子山古墳(愛知県江南市/6世紀中頃/前方後円墳)※周濠説あり
◎二子山古墳(太田茶臼山古墳陪塚)(大阪府高槻市/5世紀後半/前方後円墳)※外堤あり
◎二子塚古墳(福島県安達郡/4世紀後半?/前方後円墳or前方後方墳)※周溝あり
◎二子塚古墳(茨城県石岡市/前方後方墳)※堀の有無は不明
◎八幡二子塚古墳(群馬県高崎市/6世紀前半/前方後円墳)※周堀あり
◎簗瀬二子塚古墳(群馬県安中市/6世紀初頭/前方後円墳)※内濠、外周溝あり
◎姉崎二子塚古墳(千葉県市原市/5世紀前半~中頃/前方後円墳)※周溝あり
◎二子塚古墳(神奈川県川崎市/6世紀前半/前方後円墳)※現存しない。堀の有無は不明
◎二子塚古墳(神奈川県秦野市/6世紀後半/前方後円墳)※堀の有無は不明
◎二子塚古墳(長野県上田市/6世紀前半ご/前方後円墳)※周溝あり
◎塚原二子塚古墳(長野県飯田市/5世紀後半/前方後円墳)※周溝あり
◎二子塚古墳(静岡県磐田市/5世紀後半/前方後円墳)※周溝あり
◎二子塚古墳(愛知県知多郡阿久比町/5世紀/前方後円墳)※堀の有無は不明
◎五ケ庄二子塚古墳(京都府宇治市/6世紀初頭頃/前方後円墳)※周濠あり
◎二子塚古墳(大阪府池田市/6世紀前半/前方後円墳)※堀の有無は不明
◎二子塚古墳(大阪府河内郡太子町/7世紀後半/双方墳)※周溝あり
◎山代二子塚古墳(島根県松江市/6世紀の中頃~後半/前方後方墳)※濠の可能性あり
◎乃木二子塚古墳(島根県松江市/6世紀前半/前方後方墳)※周濠あり
◎二子塚古墳(広島県福山市/6世紀末~7世紀初頭/前方後円墳)※周溝あり
◎岩原双子塚古墳(熊本県山鹿市/古墳時代中期/前方後円墳)※周溝あり
■■■ 天神山/天神塚古墳 ■■■
天神様が祀られていない古墳もたくさんあります。
●「天神」=「テュシル」=「墓」
つまり、「お墓山」の意です。ただ、この特徴のない解釈では、地形や立地、形状から解釈の妥当性を探ることはできません。
【天神山/天神塚古墳代表例】※天神社が確認できたものは注釈あり。
◎前橋天神山古墳(群馬県前橋市/4世紀前半~中頃/前方後円墳)
◎常名天神山古墳(茨城県土浦市/5世紀初頭/前方後円墳)※墳丘上に常名神社の祠あり
◎天神山古墳 (山梨県甲府市/古墳時代前期/前方後円墳)
◎大和天神山古墳(奈良県天理市柳本町/3世紀末から4世紀後半/前方後円墳)※伊射奈岐神社境内にあり、天神も祀る
◎上白水天神山古墳(福岡県春日市天神山/6世紀/前方後円墳)
◎田宿天神塚古墳(茨城県かすみがうら市/4世紀末頃/前方後円墳)
◎天神塚古墳(山梨県笛吹市/6世紀後半/円墳)
◎天神塚古墳(京都府亀岡市/5世紀後半/方墳)
◎太田天神山古墳(群馬県太田市/5世紀前半~中期頃/前方後円墳)※くびれ部に天満宮の祠あり
◎姉崎天神山古墳(千葉県市原市姉崎/4世紀前半~中頃/前方後円墳)※くびれ部に天神社あり
◎天神塚古墳(宮城県名取市/4世紀/方墳)※墳丘上に天神社あり
◎天神塚古墳(山梨県山梨市/円墳)※墳丘上に天神社あり
◎上溝天神塚古墳(長野県飯田市/6世紀中頃/前方後円墳)※墳丘上に天神社あり
日本書紀のエラーコラム
第三十五回 将軍塚古墳に眠るのは将軍ではない!
古墳名の縄文語(アイヌ語)解釈の作業を進めているうちに、「将軍」を冠する古墳がやたら多いことに改めて気づかされました。代表的なものを数えても20以上あります。古墳時代の倭の五王(讃・珍・済・興・武)は中国王朝(宋、斉、梁)から将軍号を与えられ、また、随行した者たちも将軍の位を授けられています。第三十五回 将軍塚古墳に眠るのは将軍ではない!
全国に散らばる将軍と称する古墳に、このような人々が眠っているのでしょうか。大和や河内などの権力の中枢部に同名の古墳が見当たらないのも不自然に感じます。
以下に代表例をあげてみます。命名由来は「どこぞの将軍あるいは有力者が埋葬されている古墳」とされているところが多いと思いますが、地形図で確認すると、やはり別の意味が隠されているようです。
将軍塚、将軍山の「将軍」を縄文語解釈すると、
●「将軍」
=「シロケシ」=「山のふもと/山裾」
∵「シロケシ」=「シル・オケシ」=「山(大地)の・末端」
or「シル・オ・ケ」=「山(大地)・裾の・ところ」
◎「将軍塚/将軍山(古墳)」=「山のふもと、または山(大地)の末端にある古墳」
となります。似ている解釈に「塩塚」があります。
●「シル・オ・テュク」=「山の・尻の・小山」
時代が下った場合には、いつの間にか漢字表記に引きずられて本当に「将軍の塚」という意味で使われ始めたということもあるのではないでしょうか。
以下の【参考】のgoogle mapでご確認ください。
【参考1】全国の「将軍」を冠する古墳
◎将軍山古墳(大阪府茨木市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※峰の端に立地
◎将軍塚古墳(和歌山県和歌山市/6世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※峰の端に立地。
◎森将軍塚古墳(長野県千曲市/4世紀中頃/前方後円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎川柳将軍塚古墳(長野県長野市/4世紀中~5世紀前半/前方後円墳)⇒google map
※山の端に立地。
◎倉科将軍塚古墳(長野県千曲市/5世紀前半/前方後円墳)⇒google map
※峰の端に立地。
◎土口将軍塚古墳(長野県千曲市/5世紀前半~後半)⇒google map
※峰の先端に立地。
◎越将軍塚古墳(長野県長野市/5世紀/円墳)⇒google map
※山の末端に立地。
◎赤坂将軍塚古墳(長野県上田市/円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎別所将軍塚古墳(長野県上田市/円墳)⇒google map
※山裾に立地。
◎安坂将軍塚古墳(長野県東筑摩郡/5世紀中~後半/積石塚)⇒google map
※山の端に立地。
◎将軍塚古墳(静岡県浜松市/古墳時代後期/円墳)⇒google map
※山の端に立地。
◎元島名将軍塚古墳(群馬県高崎市/4世紀前半/前方後方墳)⇒google map
※井野川東岸の段丘縁(wikipediaに解説あり)に立地。
◎野本将軍塚古墳(埼玉県東松山市/4世紀後半/前方後円墳)⇒google map
※松山台地先端部(wikipediaに解説あり)に立地。
◎将軍山古墳(埼玉県行田市/6世紀末/前方後円墳)⇒地形図
※大宮台地の北端に立地。周囲河川の堆積作用と所在地の沈降作用により現在は平地にあるが、かつては台地状の地形だった。
※稲荷山古墳出土鉄剣の銘文解釈の問題がありますが、ここでは敢えて無視します。大和などの権力の中枢部で使われていた言葉と地方の言葉に不一致があり、大和勢力の拡大に応じて上代日本語が地方に拡散していったという仮定です。
◎将軍塚古墳(栃木県宇都宮市/7世紀前半/円墳)⇒google map
※峰の裾に立地。
◎大将軍山古墳(長崎県対馬市/4世紀後半/高塚古墳)⇒google map
※長崎県観光連盟公式HPによると、「志多留貝塚の西の丘を大将軍(でじょうぐ)山と呼んだ」とあります。「でじょうぐ」は「テク・シロケシ」=「手の・峰裾」で「海に突き出た峰続きの半島のふもと」を意味したのだと思います。アイヌ語の似た表現で「モィ・テク」=「入り江の・手」は、「浦の両端の出崎」を表します。
【参考2】全国の「将軍」のつく地名
◎大将軍山(山口県岩国市)⇒google map
※峰の先端。「大」は「大きい」の意か。
◎大将軍山(山口県下松市)⇒google map
※峰の端。気配はあるも、少々解釈が厳しい。別の由来か。
◎将軍塚(京都府京都市)⇒google map
※峰の先端。
◎将軍塚(滋賀県大津市)⇒google map
※壬申の乱の敗将を祀ったのが由来と言われているが・・・。
日出ずる国のエラーコラム
第三十四回 本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!
第三十二回から古墳名の縄文語解釈を進めていたのですが、その作業途中で、大阪の百済という地名が目に付きました。当然のように「百済の王子云々」という地名由来があります。確かに百済滅亡に絡む亡命の話は広く知られていますが、百済の日本語名「くだら」の語源を「クッチャル」=「黄海の出入り口」としている筆者には、かなり引っかかる地名です。第三十四回 本当に高麗人が高麗に移り住んだのか!
念のため調べてみると、摂津国「百済郡」の設置された場所は、やはり河内湖の湖畔でした。大和川が形成する三角州であり、「川の入口」です。この百済郡は、亡命した百済王が拠点としていて、八世紀中頃に子孫の百済王氏が河内に本拠を移して消滅を迎えます。
百済王の話は確かに違和感が感じられないので、もともとあった地名に渡来人が「百済」という漢字を充てたのかもしれません。
同様の成り立ちの地名が日本には数多くあります。武蔵国の高麗郡などは渡来人をまとめて移り住まわせたことで有名です。これを機に、他の地名もいくつか調べてみることにしました。
■武蔵国新羅郡(新座郡)
<続日本紀>天平宝字2年(758年)、帰化の新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移す。是に於て、始めて新羅郡を置く。
◎「新羅郡」=「シロケシ」=「山(or大地)裾」
※武蔵野台地北端。現在の新座市周辺。朝鮮半島の新羅、富士山の麓の駿河と同語源か。
※武蔵国「新羅郡」はのちに「新座郡」と表記が改められ、「にいくら」と読まれるようになったというのが通説。縄文語で「ニークル」とすれば、単に「林」の意。
■武蔵国高麗郡
<続日本紀>天正天皇霊亀2年(716)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野国の7国在住の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を置く。
※初代郡司は高麗王の高麗若光。666年の高句麗の使節の一人、玄武若光と同一人物であれば、かなりの長命。
◎「高麗郡」=「コム・マ」=「持ち手の曲がりのような(湾曲している)・谷川」
◎「高麗郡」=「コム」=「持ち手の曲がり(湾曲)」※山の形状を表すことが多い
高麗郡の解釈が心許ないので、他の地名も併せて調べてみました。ほぼすべて湾曲した川付近です。リンク先のgoogleマップ等で地形をご確認いただけます。平塚市の高麗山は山の形状を表していますが、こちらも「持ち手の曲がりのような山(丸山)」となっています。
【参考】全国の「高麗」「狛」のつく地名
◎埼玉県「高麗」⇒google map
※高麗川が高麗神社のあたりで湾曲。
◎東京都「狛江市」⇒google画像検索
※野川の旧流路が湾曲。
◎平塚市「高麗山」
※「持ち手の曲がりのような山(丸山)」
◎山梨県「南巨摩郡」⇒google map
※富士川が湾曲。
◎京都府木津川市「狛」(旧高麗村)⇒google map
※木津川が湾曲。
◎京都府乙訓郡「高麗田」⇒google map
※桂川、宇治川、木津川が合流し、石清水八幡宮の男山を避けて湾曲。
◎大阪市中央区「高麗橋」⇒google map
※上町台地を横切って川が湾曲していたか。
◎徳島県鳴門市「高麗」⇒google map
※小さな河川が湾曲。
解釈例を見ると、ほぼ間違いないと思われます。渡来人が移住したことを地名由来としているところも多いと思いますが、すでに縄文語の地名があった場所に漢字知識のある渡来人が似た音の漢字を充てたというのが実態ではないでしょうか。
これをもって続日本紀等の記述をデタラメだとするのは、さすがに行き過ぎだと思いますが、そのまま鵜呑みにするのも危険だと思います。
また、馬を意味する「駒」という言葉がありますが、「高麗」の「こ」が乙類であるのに対して、「駒」の「こ」は甲類なので、関連はないとされています。しかし、ともに「コム・マ=持ち手の曲がりの・谷川」という縄文語(アイヌ語)を語源とし、似た発音の漢字を充てていると仮定すれば、全く関係がないとも言い切れません。
この「駒」に関して、日本書紀には雄略朝に献上された「甲斐の黒駒」 の記述があります。朝廷と良馬の産地である甲斐のつながりを示す貴重な資料だとされていますが、本当でしょうか。
甲斐の「黒駒」を縄文語解釈すると、
●黒駒=「キル・オ・ウン・コム・マ」=「山・裾・にある・湾曲した・川」=八ヶ岳南麓の湾曲した川
となり、甲斐源氏の源清光が拠点とした八ヶ岳南麓の逸見庄と地勢が重なります。清光は確かにここで馬を飼育したとされていますが、雄略朝から実に600年以上経過しています。いずれが本当の由来なのでしょうか。
⇒google map(清光が居館とした谷戸城周辺)
日出ずる国のエラーコラム
第三十三回 河内の古墳名から王朝交代を探る!
奈良の佐紀盾列古墳群との関連も指摘される河内の百舌鳥・古市古墳群。時期としては、佐紀盾列古墳群に後続して重なる5~6世紀とされています。下の縄文語解釈を見ると、百舌鳥古墳群は解釈例が少なく、少々確実性に欠けるように見えますが、古市古墳群は誉田山古墳(応神天皇陵治定)を中心に、かなり辻褄が合う内容となっています。第三十三回 河内の古墳名から王朝交代を探る!
これらを見ると、やはり河内でも少なくとも5世紀までは縄文語が使われていた可能性があります。
【今回取り上げる内容】
<百舌鳥古墳群>乳岡古墳/大仙陵古墳(大山古墳)/上石津ミサンザイ古墳/いたすけ古墳/銭塚古墳/土師ニサンザイ古墳/グワショウ坊古墳/竜佐山古墳/収塚古墳/旗塚古墳/ドンチャ山古墳
<古市古墳群>津堂城山古墳/二ツ塚古墳/誉田山古墳/墓山古墳/仲ツ山古墳/大鳥塚古墳/はざみ山古墳/市ノ山古墳/岡ミサンザイ古墳/鉢塚古墳/鍋塚古墳/ボケ山古墳/白髪山古墳
■■■ 百舌鳥古墳群 ■■■
「モィ・チャ」=「入り江の・岸」
※百舌鳥古墳群南の石津川河口が入江になっていました。日本書紀記載の仁徳天皇云々は言うまでもなくウソです。
◎乳岡(ちのおか)古墳(4世紀後半/前方後円墳)
「チシネ・オク」=「中央部が凹んでいる・うなじ」
※前方後円墳のことか。銭塚古墳と類似。
◎大仙陵古墳(大山古墳)(5世紀前期~中期/前方後円墳/仁徳天皇陵治定)
→縄文語解釈が難しい。日本語の「大きな山」の意か。もともと「おおせん」の読みであれば、
「オオ・サン」=「大きな・岬」
の意。
◎上石津ミサンザイ古墳(5世紀初頭/前方後円墳/履中天皇陵治定)
「ムィェ・サン・チャシ」=「入り江が・前にある・館」
※周濠のある古墳の意か。第三十二回の「ミサンザイ古墳」の項参照。
◎いたすけ古墳(5世紀前半/前方後円墳)
「エテュ・シル・ケ」=「岬の・山の・ところ」
※台地の南端に立地。
◎銭塚古墳(5世紀中~後半/帆立貝形古墳)
「チシネ・テュク」=「中央部が凹んでいる・小山」
※前方後円墳(帆立貝形)のことか。
◎土師ニサンザイ古墳(5世紀後半/前方後円墳/反正天皇陵墓参考地治定)
「ペッ・チャ/ムィェ・サン・チャシ」=「川・岸/入り江が・前にある・館)」
※第三十二回の「ニサンザイ古墳/ミサンザイ古墳」の項参照。
◎グワショウ坊古墳(5世紀後半/円墳)
「クマ・シル・ホ」=「横長の・山の・尻」
※大仙公園の地形。
◎竜佐山古墳(5世紀後半/前方後円墳(帆立貝))
「タク・サン」=「石の・岬」
※葺石か。
◎収塚古墳(5世紀中~後半/前方後円墳(帆立貝))
「オスッ・ぺ・テュク」=「ふもと・ところの・小山」
※大仙陵古墳の陪塚。大仙陵古墳の尻にある。
◎旗塚古墳(5世紀中頃/帆立貝形古墳)
「パ・タク・テュク」=「頭が・石の・小山」
※葺石か。
◎ドンチャ山古墳(6世紀初頭/円墳)
「トー・チャ」=「沼・岸」
※土師ニサンザイ古墳の南西に立地。土師ニサンザイ古墳はかつて二重濠であった可能性があり、ドンチャ山古墳ももっと濠に近かったか。
■■■ 古市古墳群 ■■■
「フル・エテュ」=「丘の・岬」
※羽曳野丘陵北端。河内湖に突き出た岬。
◎津堂城山古墳(4世紀後半/前方後円墳/允恭天皇陵治定)
「チャ・トー」=「川岸の・湖沼」
※大和川沿いの地名。沼があったか、あるいは周濠のことか。城山は室町時代の小山城。
◎二ツ塚古墳(4世紀後半/前方後円墳)
「プッ・チャ・テューテュク」=「川口の・岸の・岬」
※誉田山古墳に食い込む立地。
◎誉田山古墳(5世紀初頭/前方後円墳/応神天皇陵治定)
「コッチャル(山)」=「沢の入口(の山)」
※大和川と支流(石川?)の合流地点にあったか。
※誉田別(応神天皇)の由来で、居館があったか。
「ほんだ」の読みなら
「ホ・ウン・テュ」=「川尻・にある・岬」
or「ホ・ウン・チャ」=「川尻・にある・岸」
この一帯が川下と呼ばれていたか。
◎墓山古墳(5世紀前半/前方後円墳/誉田山古墳陪塚治定)
「パ・カ」=「岬の・ほとり」
※誉田山古墳の陪塚の意か。
◎仲ツ山古墳(5世紀前半/前方後円墳/応神天皇皇后仲姫陵治定)
「ナィ・カ・テュ」=「川・岸の・峰」
※誉田山古墳の北に立地。大和川支流の川岸か。仲姫の由来で、居館があったか。
◎大鳥塚古墳(5世紀前半/前方後円墳)
「オオ・トラィ・テュク」=「大きな・川岸の水たまりの・小山」
※誉田山古墳の北に立地。大和川支流の川岸か。
◎はざみ山古墳(5世紀中頃/前方後円墳)
「パン・チャ・メム」=「川下の・岸の・泉」
※川下の周濠か。※誉田山古墳周辺の川下。
◎市ノ山古墳(5世紀後半/前方後円墳/允恭天皇陵治定)
「エテュノッ」=「岬」
◎岡ミサンザイ古墳(5世紀末/前方後円墳/仲哀天皇陵治定)
「オ・カ/ムィェ・サン・チャシ」=「川口・ほとり/入り江が・前にある・館」
※誉田山古墳周辺の川下。
◎鉢塚古墳(5世紀末/前方後円墳/仲哀天皇陵治定)
「パン・チャ・テュク」=「川下の・岸の・小山」
※岡ミサンザイ古墳の北方に位置する陪塚。
◎鍋塚古墳(5世紀/方墳)
「ナムペ・テュク」=「水の・小山」
※濠のある古墳か。
◎ボケ山古墳(6世紀前半/前方後円墳/仁賢天皇陵治定)
「ホ・ケ」=「川尻の・ところ」
※誉田山古墳周辺の川下。
◎白髪山古墳(6世紀前半/前方後円墳/清寧天皇陵治定)
「シロケシ」=「山裾」
※峰塚公園の丘陵の裾に立地。古事記には「清寧天皇が生まれながらに白髪で、白髪大倭根子命と名づけられていたことに由来」とありますが、この類の記述は一切信用できません。皇居とされる磐余甕栗宮(奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社)も山裾にあります。⇒google map
■滋賀県の古墳は地名から命名した古墳が多く、確度の高い解釈がほとんど発見できていませんが、稲荷山古墳、茶臼山古墳、亀塚古墳、将軍塚古墳など、他の古墳と共通名を使用する古墳が解釈できています。詳しくは、第三十五回、第三十六回、第三十七回コラムをご覧ください。
▼百舌鳥古墳群
▼古市古墳群
日出ずる国のエラーコラム
第三十二回 奈良の古墳名から王朝交代を探る!
蛇足(二)で、メスリ山古墳に関連して、その周辺古墳の名を縄文語(アイヌ語)で解釈しましたが、その他の古墳についても縄文語で解釈できるかどうか探ってみました。第三十二回 奈良の古墳名から王朝交代を探る!
古墳は考古学の見地からおおよその築造年代が分かりますので、縄文語がいつの時代まで使用されていたのか見当がつくのではないかと考えたのです。大王やその周辺の権力の動きとともに、当時の人々の思考や文化も見えてくるかもしれません。
ただし、所在地名からとった名称を縄文語で無理矢理解釈することも可能なので、あくまで古墳形状や構造の解釈の妥当性に注意しながら進めていきます。後者の解釈が成立しなければ、その時代に縄文語が使われていたと判断するのは難しく思えます。
下の解釈例を見ると、老婆(箸墓古墳)や老父(外山茶臼山古墳)など、人物を名称にした古墳は邪馬台国時代の初期古墳にしかなく(卑弥呼~台与)、その後は構造や立地から命名がなされています。また、構造由来の命名を見ると、ウワナリ塚古墳(「重なった縁の道の小山」の意)は6世紀、ウワナリ塚古墳を除いても5世紀までありますので、縄文語解釈と築造年代に妥当性があるのならば、縄文語もこの時期まで使用されていたということになります。逆に言えば、6世紀以降、日本語の意味として辻褄の合う名称の割合が大きくなるということです。
筆者は、渡来系弥生人が日本に勢力を扶植しはじめてから、縄文語は姿を消していったと考えていましたが、これを見る限りでは様相が異なります。5世紀まで渡来勢力による大きな王朝交代がなかったとすれば、いったいいつから上代日本語になったのでしょうか。それとも、権力の中枢部だけが上代日本語を使っていたのでしょうか。
稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山古墳の銘文解釈がありますが、権力中枢部で使われる言葉と、末端の庶民や地方などが同じ言葉を使っていたことを示している訳ではありません。むしろ、宮廷の文官等だけが使う特殊な(表記)言語だった可能性すらあります。記紀の漢字表記にしてもまたしかりです。
ここでは、大和勢力の拡大に応じて上代日本語が地方に拡散していき、徐々に縄文語に漢字が当てはめられていったという仮説を立てています。庶民や地方で使われていた言語の実態は、記紀や鉄剣銘などの権力筋の文書より、むしろ、古墳名や地名などに確実に表れているのではないでしょうか。
話を戻すと、これまでのところ、3世紀に始まる大和古墳群、それに後続する佐紀盾列古墳群(4世紀後半~5世紀)、馬見古墳群北部、中部(4世紀後半~5世紀)までは縄文語解釈が成立しているように見えます。それ以降の奈良盆地南部あたりから難しい雰囲気が漂い始めますので、やはり継体天皇あたりが分岐点になるかもしれません。横穴式石室、群集墳、渡来系の副葬品が大量に登場し始める頃です。
また、この古墳の縄文語解釈を全国に広げると、大和王権の支配確立のおおよその時期が見えてくるかもしれません。
【今回取り上げる内容】
<奈良盆地東南部>纏向石塚古墳/マバカ古墳/纒向矢塚古墳/箸墓古墳/ホケノ山古墳/波多子塚古墳/馬口山古墳/ノムギ塚古墳/ヒエ塚古墳/メスリ山古墳/桜井(外山)茶臼山古墳/行燈山古墳/櫛山古墳/フサギ塚古墳/ウワナリ塚古墳/シウロウ塚古墳
<奈良盆地北部・東部>宝来山古墳/五社神古墳/佐紀陵山古墳/佐紀高塚古墳/市庭古墳/コナベ古墳/ウワナベ古墳/ベンショ塚古墳/ヒシアゲ古墳/塩塚古墳/オセ山古墳
<奈良盆地西部>川合大塚山古墳/フジ山古墳/ナガレ山古墳/新木山古墳/牧野古墳/烏土塚古墳
<その他>ニサンザイ古墳・ミサンザイ古墳/宇智の地名(他の似た名称の地名)
■■■ 奈良盆地東南部 ■■■
◎纏向石塚古墳(3世紀初頭/前方後円墳)
「エサン・テュク」=「岬の・小山」
※葺石はなく、石の塚の意味ではない。
◎マバカ古墳(3世紀初頭/前方後方墳)
「マ・パ・カ」=「谷川の・上手の・ほとり」
※立地的に馬口山古墳と対。
◎纒向矢塚古墳(3世紀中頃以前/前方後円墳)
「ヤ・テュク」=「岸の・小山」
◎箸墓古墳(3世紀中頃/前方後円墳)
「フチ・フルカ」=「老婆の・高台」
※筆者推定、卑弥呼の墓。
【余談】箸墓古墳の所在地である箸中は「フチ・ナィ・カ」で、「老婆の・川・岸」。卑弥呼の居館、あるいは墓が川岸にあったことを表しているのではないでしょうか。邪馬台国の役職者(第八代孝元天皇、倭迹迹日百襲姫周辺人物)も箸中周辺の古墳に眠っている可能性が高いと思われます。
◎ホケノ山古墳(3世紀中頃?/前方後円墳(帆立貝))
「ホク・ノッ」=「夫の・岬」
◎波多子塚古墳(3世紀後半~4世紀前半/前方後円墳)
「パ・タク・テュク」=「頭が・石の・小山」
※葺石か。
◎馬口山古墳(3世紀後半~4世紀前半/前方後円墳)
「マ・クッチャル」=「谷川の・出口」
※立地的にマバカ古墳と対。
【余談】「クッチャル」は、百済の日本名である「くだら」の語源で、黄海の「出入り口」を表したのではないでしょうか。一方、新羅の読みの「しらぎ」は「シロケシ」で「山裾」だと思います。であれば、富士山の麓の「駿河」と同語源です。
◎ノムギ塚古墳(3世紀後半-4世紀前半/前方後方墳)
「ノッ・プ・ケ」=「岬の・倉の・ところ」
※前方後方墳か。フサギ塚古墳も前方後方墳で「倉の岬」の意。
◎ヒエ塚古墳(3世紀後半-4世紀前半/前方後円墳)
「ピ・エ・テュク」=「石の・頭の・小山」
※葺石か。
◎メスリ山古墳(4世紀前半/前方後円墳)
「マッ・シリ」=「妻の・峰」
※筆者推定、台与の墓
◎桜井(外山)茶臼山古墳(4世紀前半/前方後円墳)
「テュピン・チャシ」=「老父の・館」
◎行燈山古墳(4世紀前半/前方後円墳/崇神天皇陵治定)
「アルトル」=「山向こうの地」
※渋谷向山古墳と一対か。
◎櫛山古墳(4世紀/双方中円墳)
「クシ・ウン」(山)=「対岸・にある」(山)
※行燈山古墳の対岸に立地。
◎フサギ塚古墳(4世紀中頃/前方後方墳)
「ペッチャ・ケ・テュク」=「川端の・ところ・小山」
※前方後方墳か。
◎ウワナリ塚古墳(6世紀後半/前方後円墳)
「ウワ・ノル・テュク」=「重なった縁の・道の・小山」
※円筒埴輪を並べた前方部三面の平坦面か。
◎シウロウ塚古墳(不明/前方後円墳)
「シル・オ・テュク」=「山・裾の・小山」
※龍王山の山裾にあります。
■■■ 奈良盆地北部・東部 ■■■
◎宝来山古墳(4世紀後半/前方後円墳/垂仁天皇陵治定)
「ポロ・イ」=「大きな・もの」
◎五社神古墳(4世紀末/前方後円墳/神功皇后陵治定)
「コッチャル・シル」=「沢の入口の・山」
または、
「コッ・チャ・シル」=「窪地の・岸の・山」
※もともと濠(壕)があったか。
◎佐紀陵山古墳(4世紀末頃/前方後円墳/日葉酢媛陵治定)
「ミンタル・サン・ケ」=「祭場の・岬の・ところ」
※稲荷山古墳と同義。
◎佐紀高塚古墳(4世紀/前方後円墳/称徳天皇陵治定)
「トンケシ・テュク」=「沼尻の・小山」
※佐紀石塚山古墳の濠の尻に立地。近隣の他の古墳と比較しても「高い塚」の意味ではない。
◎市庭古墳(5世紀前半/前方後円墳/平城天皇陵治定)
「エテュ・ニッ・ワ」=「岬の・柄の・縁」
※前方後円墳か。
◎コナベ古墳(5世紀前半/前方後円墳)
「コッ・ナムペ」=「窪地の・水」
※濠のことか。
◎ウワナベ古墳(5世紀中頃/前方後円墳)
「ウ・ワ・ナムペ」=「重なった・縁の・水」
※二重濠のことか。
◎ベンショ塚古墳(5世紀中頃/前方後円墳)
「ペッ・チャ・テュク」=「川・岸の・小山」
◎ヒシアゲ古墳(5世紀中~後半/前方後円墳/磐之媛陵治定)
「ピ・シル・アルケ」=「石の・山の・片割れ」=「一方の石の峰」
※コナベ・ウワナベ古墳の片割れという意味か。
◎塩塚古墳(5世紀前半~中頃/前方後円墳)
「シル・オ・テュク」=「山・裾の・小山」
※丘陵の裾に立地。塩の塚ではない。
◎オセ山古墳(5世紀?/前方後円墳)
「オソル(山)」=「尻(山)」
別名:ゲンオ塚古墳
「キム・オ・テュク」=「山・裾の・小山」
※丘陵の尻(裾)に立地。
■■■ 奈良盆地西部 ■■■
▼馬見古墳群(北部)
◎川合大塚山古墳(5世紀後半/前方後円墳)
「オオ・テュク」=「大きな・小山」
※九僧塚古墳とワンセット。
◎九僧塚古墳(5世紀後半/方墳)
「クソル・テュク」=「対岸の・小山」
※川合大塚山古墳の副葬品埋納施設。 川合大塚山古墳の濠の対岸にある。
◎中良塚古墳(5世紀後半/前方後円墳)
「ナィ・クッチャル・テュク」=「川の・出口の・小山」
※大和川が支流を集める合流地点。この地域の地名に「穴闇(なぐら)」がある。川合の地名は、これの漢字表記か。
◎フジ山古墳(不明/円墳)
「プッ・チャ」=「川口の・岸」
※大和川の合流地点の丘に築かれた古墳。
▼馬見古墳群(中央部)
◎ナガレ山古墳(5世紀前半/前方後円墳)
「ナィ・カ・ルム」=「川・岸の・岬」
※川岸に立地。地名から命名したか。千葉県の流山も川岸の岬か。
◎新木山(にきやま)古墳(5世紀前半/前方後円墳)
「ニク(山)」=「隙間(山)」
※馬見丘陵の峰の途切れた中間に立地。
◎牧野(ばくや)古墳(6世紀末/円墳)
「パケ・ヤ」=「岬頭の・縁」
※馬見丘陵の尾根の先に立地。地名から命名したか。
▼馬見古墳群南部は確度の高い解釈が発見できていません。
▼平群の古墳
◎烏土塚古墳(6世紀中葉/前方後円墳)
「ウテュル・テュク」=「間の・小山」
※古墳単体の名称というより、東西の峰に挟まれた地名であったか。
■その他
◎ニサンザイ古墳/ミサンザイ古墳=「ムィェ・サン・チャシ」=「入り江が・前にある・館」
※周濠のある古墳の意か。
▼以下すべて周濠のある前方後円墳
◎上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市/5世紀初頭)
◎土師ニサンザイ古墳(大阪府堺市/5世紀後半)
◎岡ミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市/5世紀末)
◎淡輪ニサンザイ古墳(大阪府泉南郡岬町/5世紀中~後半)
◎西ニサンザイ古墳(西二山在古墳)(大阪府泉南郡岬町/5世紀前半)
◎鳥屋ミサンザイ古墳(鳥屋見三才古墳)(奈良県橿原市/6世紀前半)
※「ミサンザイ」が「ミソサザイ」や「みささぎ」の転訛だとするのが一般的な説ですが、これは縄文人の発声した音を後世の人々が都合良く漢字や音にこじつけて解釈した代表的な例に思えます。
■飛鳥、南葛城の古墳は確度の高い解釈が発見できていません。
■奈良盆地周縁部(奈良県)の古墳は確度の高い解釈が発見できていません。
【余談】奈良盆地周縁部の古墳を調べている時に、「五條市はもともと宇智郡と呼ばれていて、ここから畿内のウチである」という意味を表したとの資料の解説を読みましたが、筆者の見解はまったく異なります。
「宇智」を縄文語解釈します。
●宇智=「ウテュル」=「間」
で、「両側から峰が迫っている地形」を表したのだと思います。五條市の「近内」の地名も、
●近内=「テュク・ウテュル」=「小山の・間」⇒google map
の意味だと思います。前出の烏土塚古墳も同様です。
また、京都府の「宇治」も同語源ではないでしょうか(「宇陀」もか?)。長野県の「塩尻」も、
●塩尻=「シル・ウテュル」=「山の・間」⇒google map
と解釈することができます。決して「塩の道の終点」ではありません。
このように、後世の人々が漢字表記や音にこじつけて適当に意味づける人名地名由来が積み重なり、ウソの歴史が無数に築かれているように思えます。この作業は少なくとも記紀から現在に至るまで、実に千年以上に渡って連綿と続けられています。
▼奈良盆地南東部古墳地図
▼奈良盆地北部古墳地図
▼川合大塚山古墳群地図
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