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日出ずる国のエラーコラム

【 第八十一回 ~ 第九十回】

 邪馬台国時代に縄文語(アイヌ語)が日本全国で使用されていたことは、地名、国名などから明らかです。では、それがいったい、いつ、どこで上代日本語に切り替わったのか。関東から九州の古墳名は、少なくとも6世紀までは、各地で縄文語が使用されていたことを示しています。縄文語を共有する「縄文人」「弥生人」「大規模古墳人」は、生物学的な特徴は違えど、いわゆる先住民である倭人です。
 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、支配体制を整えるべく革命的な出来事が連続して起こります。それはすなわち「上代日本語のヤマト」が「縄文語の先住民」を従える過程だったのかもしれません。

日出ずる国のエラーコラム
第九十回 「羽衣」は単なる「岬の頭」!「羽衣伝説」は縄文語に渡来系物語が便乗しただけだ!
 風土記、古墳名から外れてちょっと休憩。今回は羽衣伝説の謎解きをします。

 これまで、「因幡の白兎」「菟原処女の伝説」「椀貸伝説」ほか、多くの物語を縄文語解釈してきましたが、そのすべてが、漢字表記にこじつけたデタラメ物語でした。まるで、先住民文化を抹殺することを目的としているかのようです。

 「羽衣伝説」の場合はどうでしょうか。まずは内容をおさらいします。

<羽衣伝説>※wikipedia引用
 水源地(海岸・湖水)に白鳥が降りて水浴びし、人間の女性(以下天女)の姿を現す。
 天女が水浴びをしている間に、天女の美しさに心を奪われたその様子を覗き見る存在(男、老人)が、天女を天に帰すまいとして、その衣服(羽衣)を隠してしまう。
 衣類を失った1人の天女が飛びあがれなくなる(天に帰れなくなる)
 日本の羽衣伝説では、ここから近江型と丹後型でわかれる。

・近江型(昇天型)
 天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
 天女は羽衣を見つけて天上へ戻る

・丹後型(難題型)

 天に帰れなくなった天女は、老夫婦の子として引き取られる 。
 天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる 。
 老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す 。
 天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)。
<引用ここまで>


 羽衣伝説の場合は、朝鮮半島や中国、ベトナムなど、東アジア、東南アジアほか、フランスにも似たような伝説があります。因幡の白兎の場合も「子鹿とワニの物語」という南方系の物語に類型があるので、これらの大元の物語を探ると、記紀や風土記の編纂に関わった渡来系の人々のルーツを探ることができます。

 羽衣伝説の問題を解く鍵は「羽衣(はごろも)」という日本語の発音にあります。中国語では「ウイ(yǔyī)」、韓国語でも「ウウィ(uɰi)」です。

 筆者は、この「はごろも」の出所も、縄文語(アイヌ語)ではないかと疑っています。

◎縄文語:羽衣(はごろも)=「パケ・ル」=「岬の・頭」
 ※「岬」は内陸の同様の地形も指す

 日本に伝わる羽衣伝説のすべてが「岬or山」と「泉」に関係があります。「岬or山」は縄文語が示す地勢由来で、「泉」は羽衣伝説の物語由来です。

 以下、羽衣伝説の残る各地の地勢を見てみます。解釈確度を上げるために周辺地名も解釈します。


◎大阪府交野市天野川流域 ※岬の突端
 天野川の谷の出口に「私市(きさいち)」という地名がありますが、日本書紀には天皇の「妃(きさき)」の用事をする役所を私府(きさふ)、妃のための農耕をした人々を私部(きさべ)というとあります。その私部の中心の村が「私部内」と呼ばれ、それが訛って「私市」となったとするのが通説(※参考:大阪府HP)らしいですが、このような漢字こじつけ説は筆者にはまったく信じられません。

●私市=「キサ・エテュ」=「耳の形のように出っ張った・岬」

 これはどう考えても天野川の谷の出口の地勢です。「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」とも整合性がとれます。

 また、千葉県の木更津も「キサ・テュ=耳の形のように出っ張った・岬」の意で似た語源と考えられます。⇒google map
 日本武尊が身投げした妃の弟橘媛を偲んで「君去らずと言ったので木更津という」との伝承がありますが、もちろん漢字表記からのこじつけ物語で事実ではありません。


◎大阪府高石市羽衣 ※上町台地の岬の突端
 所在地の高石市を縄文語解釈します。

●高石=「ト・エテュ」=「突起した・岬」  

 また、羽衣地区の東には「鳳」地区があります。

●鳳=「オオ・ト・ル」=「大きく・突起した・岬」

 これらは、上町台地の岬を指したのではないでしょうか。いずれも「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」と完全に解釈が一致します。


◎滋賀県長浜市余呉湖 ※岬に囲まれた湖
 湖の南には柴田勝家と秀吉が戦ったことで有名な賤ヶ岳があります。これを縄文語解釈します。

●賤ヶ(岳)=「シテュ・ケ」=「大きな峰の・ところ」

「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」と非常に相性のいい解釈です。 また、反対側の湖の北方には、秀吉が拠点として築いた堂木山砦があります。これも縄文語解釈すると、

●堂木山=「ト・ケ・ヤマ」=「突起した・ところの・山」

 となり、「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」と完全に解釈が一致します。


◎千葉県千葉市(羽衣の松) ※岬の突端(拡大地図で地形表示にすると分かりやすい)
 所在地の地名は「武石町」です。これを縄文語解釈すると、

●武石町=「ト・エテュ」=「突起した・岬」

 となり、大阪の高石市と完全一致、滋賀県の余呉湖北方の堂木山と同義となり、「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」とも解釈が一致します。


◎鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石 ※天険の要害、羽衣石城

 鳥取県の「羽衣石」の場合は、読みは「うえし」ですが、「羽衣」という漢字が充てられた結果、「羽衣伝説」が結びつけられたと考えられます。「うえし」は明らかに日本語ではありません。縄文語解釈すれば、

●羽衣石(うえし)=「ウェン・シ」=「険しい・山」=要害の羽衣石城がある羽衣石山

 と捉えることができます。「羽衣=パケ・ル=岬の・頭」という解釈も可能なので、両方の呼び名があったのかもしれません。


◎京都府京丹後市峰山町 ※峰の突端 ◎静岡県静岡市清水区三保の松原 ※岬の突端 ◎千葉県佐倉市 勝胤寺(千葉石) ※岬の突端(拡大地図で地形表示にすると分かりやすい) ◎沖縄県宜野湾市真志喜 ※岬の突端
 このようにすべて、「山or岬の突端」が関係していることが分かります。つまり、縄文語で「パケ・ル」と呼ばれていた地名に、上代日本語の漢字の読みを機縁として、渡来系の「羽衣伝説」の物語が結びつけられた可能性が高いということです。
 そして、この渡来系の物語の出所が、記紀や風土記の編纂に関わった人物たちの故地の可能性が高いということにもなります。



日出ずる国のエラーコラム
第八十九回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!総括~肥後国/大隅国編~

 今回で風土記逸文の縄文語解釈も最後となりました。逸文の方も御多分に漏れず、写本が現存する常陸国、出雲国、播磨国、豊後国、肥前国の編纂姿勢となんら変わるものではありませんでした。つまり、先住民が話していたであろう縄文語解釈などはまったく見られず、全編にわたって先住民の文化を無視、上書きするような方針で書かれています。記紀、風土記編纂者側の人々にとっては、先住民の文化がどうしても邪魔で、ことごとく消し去る必要があったようです。
 関東から九州の古墳名の縄文語解釈は、少なくとも6世紀代まで各地で縄文語(アイヌ語)が使用されていたことを示しています。つまり、筆者がここで言う先住民とは、日本全国の「縄文人+弥生人+大規模古墳人」のことです。決して、東北、北海道などの北方に偏った人々だけの話ではありません。

 今回行った風土記の縄文語解釈では、先住民文化の裏付けとなる縄文語解釈を多数発見することができました。ただ、その一方で確度の低い解釈が少なからず含まれていることも否定はできません。よって、次は、より分かりやすい、確度の高い縄文語解釈だけをまとめ、それを電子書籍化させていただこうと思います。


【今回取り上げる内容】
<肥後国>
阿蘇郡/水嶋/日向国/知鋪郷/高日村
<大隅国>
必志里/串卜郷

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「肥後国」◆◆◆

■■■「阿蘇郡」命名由来 ■■■

×肥後国風土記逸文(『阿蘇家文書』)
「肥後国風土記にいう。昔、纒向日代宮御宇天皇(景行天皇)が玉名郡の長渚濱(ながすのはま)を出発して、この郡に行幸し、徘徊して四方をご覧になられたが、原野が広く遠く、人影を見つけることができなかった。そこで歎いて『この国には人はいるのか?』と仰った。
 その時に二柱の神がいて、人に化けて言った。
『我ら二柱の神は阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛がこの国にいる。どうして人がいないことがあろうか』と言い、忽然と見えなくなった。よって阿蘇郡名づける。これがその由縁である。二柱の神の社は郡の東にある。云々」

◎縄文語:「アソ」=「断崖」=阿蘇山⇒google map

 阿蘇郡の比定地は阿蘇山周辺です。縄文語解釈は阿蘇山の噴火口しか考えられません。

□□□「水嶋」命名由来 □□□

×肥後国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「風土記にいう。球磨県。県の乾(北西)の方角、七里の海中に嶋がある。積んで七十里としている。名づけて水嶋という。嶋からは冷水が出る。潮の干満によって上下する。0云々」

◎縄文語:「モ・テュ」=「小さな・岬」 ⇒google map

 比定地は球磨川河口の水島です。小さな岩の島です。

◆◆◆「日向国」命名由来 ◆◆◆

×日向国風土記逸文(『釈日本紀』)
「日向国風土記に言う。景行天皇の御世、天皇は児湯(こゆ)の郡に行幸し、丹裳(にもの)の小野を遊覧になられ、左右の侍従におっしゃった。『この国の地形は、まっすぐに扶桑(ひいづるかた)に向いている。なるほど日向(ひむか)と名付けるべきだ』と仰った」

◎縄文語:「プッ・カ」=「川口の・ほとり」⇒google map

 比定地は宮崎県と鹿児島県東部です。

 天孫降臨に絡んで多くの伝承に登場する日向ですが、おそらくはすべて史実ではありません。

 天孫降臨の地は伊都国ですし、そもそも第十二代景行天皇の時代は、まだ邪馬台国台与の時代です(※第三十回コラム参照)。景行天皇から第十六代仁徳天皇には武内宿禰が仕え、三百歳以上の長寿となっていますし、日本武尊の東西の遠征にも漢字表記にこじつけた疑わしい物語が多数含まれていて、とても真に受けられません。これらの物語は台与の事績の隠蔽を目的として創作されています。

 また、天孫降臨から第十代崇神天皇の場合も、第十代崇神天皇以降の系譜を正当化するために創作されたもので、その間に、邪馬台国(長髄彦=第八代孝元天皇、三炊屋媛=卑弥呼=倭迹迹日百襲姫)が含まれています(※第二十四回コラム参照)。
 つまり、少なくとも天孫降臨から第十六代応神天皇までの間は、邪馬台国の隠蔽や、崇神天皇以降の系譜の正当化を主目的として書かれているため、まったく信用ができないということです。

 さらに、日向国には「弥五郎塚古墳」(墳丘長95m)という巨大前方後円墳があります。築造年代は不明ですが、陪冢と見られる近隣古墳からは6世紀後半の須恵器が出土しています。これを縄文語解釈すると、

●弥五郎塚=「ヤウンク・テュ」=「本国人の・小山」

 となります。この土地の人々の縄文語による命名であることに疑う余地はありません。

 これらのことから、上代日本語で漢字表記にこじつけた「日の出の方向にまっすぐ向いている」という由来がいかにデタラメかが分かります。

■■■「知鋪郷」命名由来 ■■■

×日向国風土記逸文(『釈日本紀』『万葉集註釈』)
「日向国の風土記にいう。臼杵郡内の知鋪郷(ちほのさと)。天津彦々火瓊瓊杵尊が、天磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、神聖な道を選びに選んで、日向の高千穂の二上峰に天降った。その時、空は暗く、昼夜の区別もつかず、人や物は道を見失い、物の色も判別が難しかった。
 此処に大鉗(おほはし)、小鉗(をはし)という二人の土蜘蛛がいて、瓊瓊杵尊に申し上げた。「皇孫の尊よ、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾とし、それを四方に投げ散らしたならば、必ず開け晴れるでしょう」と。
 大鉗たちの言う通りに、千穂の稲を揉んで籾とし、それを投げ散らすと、空が開け晴れ、日月が照り輝いた。よって高千穂の二上の峰といった。後の人、改めて智鋪(ちほ)と名づけた」

◎縄文語:高千穂=「タ・スオ」=「石の・断崖の谷」⇒google map

 比定地は言うまでもなく宮崎県の高千穂です。

 天孫降臨神話自体が現実味のない話なので、風土記記載の高千穂命名由来もまったくのウソです。

 縄文語解釈については、「千」を「せん(呉音・漢音)」と読んだ方がしっくりきます。石の断崖絶壁の渓谷である高千穂峡のことです。⇒googleストリートビュー

 二上山を縄文語解釈すると、

●二上(山)=「ペテンコ・ムィェ」=「水源の・頂」⇒google map

 となります。山附川の源流が山頂付近にあるので、それを指したのかもしれません。

■■■「高日村」命名由来 ■■■

×日向国風土記逸文(『釈日本紀』)
「日向国の風土記にいう。宮崎郡。高日村。昔、天より降った神が御剣の柄(たかひ=手上=たかみ)を此地に置きなされた。よって剣柄(たかひ)の村という。後の人は改めて高日村という。云々。神世の昔、剣の柄をもって多加比(たかひ)といった。これをもって知ることができるだろう」

◎縄文語:「タ・ピ」=「玉石・石ころ」⇒google map

 高日村の比定地ははっきりしませんが、宮崎郡なので宮崎市周辺です。当時は、日南市から串間市も含んでいました。

 つまり、縄文語解釈は奇岩が連続する日南海岸を指したとすれば、完全に地勢と一致します。

 宮崎も

●宮崎=「モィ・イェ・チャ・ケ」=「入り江の・岩の・岸の・ところ」

 と解釈できます。

◆◆◆「大隅国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「オオ・スィ・ムィ」=「大きな・穴の・頂」=桜島⇒google map

□□□「必志里(ひし)」命名由来 □□□

×大隅国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「大隅国の風土記にいう。必志里。昔、この村の中に海の洲(ひし)があった。よって、必志里という。海の中の洲は、隼人の土地の言葉で必志(ひし)という」

◎縄文語:「ピ」=「浜」⇒google map

 比定地は鹿児島県曾於郡大崎町大字菱田です。菱田は、

●菱田=「ピ・チャ」=「浜の・岸」

 と解釈できます。

■■■「串卜郷(くしら)」命名由来 ■■■

×大隅国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「大隅国風土記にいう。大隅郡。串卜郷。昔、国を造った神が、この村に使いを遣って、現状を調べさせた。使者は報告した。『髮梳(くしら)の神がいました』と。国を造った神は『では髮梳村というべし』とおっしゃった。よって久西良(くしら)郷という。髮梳は隼人の土地の言葉で久西良(くしら)という。今は改めて串卜郷という」

◎縄文語:「ク・ラ」=「対岸の・低いところ」⇒google map

 比定地は鹿児島県肝属郡串良地区です。縄文語解釈は「肝属川を挟んで対岸の低いところ」という意味でしょうか。




日出ずる国のエラーコラム
第八十八回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~筑前国/筑後国/豊前国編~
【今回取り上げる内容】
<筑前国>
資珂嶋/瀰夫能泉/怡土郡/子饗原・芋湄野/児饗石/塢舸水門/大城山/宗像郡
<筑後国>
生葉郡/三毛郡
<豊前国>
鹿春郷/鏡山/広幡八幡大神/宮処郡

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈
◆◆◆「筑前国」 ◆◆◆
□□□「資珂嶋」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『釈日本紀』)
「筑前国風土記にいう。糟屋郡、資珂嶋。昔,気長足姬尊(神功皇后)が新羅に行幸した時,御船が夜にこの嶋に来て泊まった。陪従、名は大浜、小浜という者あり。すなわち小浜に勅してこの嶋に遣いにやり火を求めさせたが、早く得て帰ってきた。大浜が問うた。「この近くに家があったのか?」小浜が答えて言う。『この嶋と打昇浜(うちあげのはま)は近く連なり接している。ほとんど同じ土地というべし』と。よって近嶋(ちかのしま)という。今は訛って資珂嶋という」

◎縄文語:
・資珂(嶋)=「シ・カッ(嶋)」=「大きな・形(の嶋)」

打昇)=「ウテュ・アケ」=「間の・片割れのところ」=海の中道(志賀島との対比)⇒google map

 比定地は言うまでもなく志賀島です。

 これは、志賀島の南の能古嶋との対比表現です。

●能古島=「ノカン・ノッ(島)」=「小さな・岬(の島)」

 ちなみに、糟屋郡の命名由来は不明とされていますが、縄文語解釈すれば以下のようになります。

●糟屋郡=「カス・ヤ」=「徒渉する・岸」=陸繋島である志賀島へと続く砂州

 地勢と完全に一致しています。

 また、「うちあげの浜」の比定地は「海の中道」ですが、縄文語解釈どおり、「志賀島と陸の間の片割れの土地」です。これ以上うまい命名もありません。

□□□「瀰夫能泉(みぶのいずみ)」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『石清水文書』『八幡御託宣記』『極楽寺縁起』)
「糟屋郡。瀰夫能泉。郡の東南の方にある。気長足姬尊(神功皇后)が新羅より還幸した時,この村について,応神天皇を産んだ。この泉の水を汲んで,産湯とした。よって御産泉という。今,社を建てて祭っている」

◎縄文語:「メ・ウン・ノッ」=「泉・がある・岬」⇒google map

 糟屋郡の東部には湖沼の豊富な三郡山地があります。泉があるという点では、風土記逸文と一致しています。

■■■「怡土郡」命名由来 ■■■

×筑前国風土記逸文(『釈日本紀』)
「昔、仲哀天皇が球磨噌唹(くまそ)を討とうとして筑紫に行幸した時、怡土県主らの祖である五十跡手(いとて)が天皇が行幸すると聞き、五百枝賢木(いほえのさかき)を抜き取って、船の舳(へ)と艫(とも)に立て、上の枝に八尺瓊(やさかに)を掛け、中の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下の枝に十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引嶋(ひけしま)に出迎えて奉った。
天皇は勅して「あなたは誰だ?」と問うと、五十跡手は「高麗国の意呂山(おろやま)に天からがら降って来た日桙(ヒホコ)の苗裔の五十跡手です」と申し上げた。天皇は五十跡手を誉めて曰く、「恪(いそ)しかも。五十跡手の領土は恪勤国(いそのくに)というべし」と仰った。今は怡土郡というのは訛ったのである」

◎縄文語:「エテュ」=「岬」⇒google map

 比定地は言うまでもなく糸島半島です。縄文語解釈そのままです。伊豆も同語源です。

 つまり、風土記はまったくのデタラメです。

□□□「子饗原(こふのはら)/芋湄野(うみの)」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『釈日本紀』)
「筑紫国風土記にいう。逸都県。子饗原。二つの石がある。一つは,長さ一尺二寸、周囲一尺八寸。一つは、長さ一尺一寸、周囲一尺八寸。色は白くて固く,丸く磨かれているようである。土地の人が言い伝えるには、『神功皇后が新羅を討伐しようとして、軍をご覧になられた時、妊娠していたおなかの子が徐々に動いた。この時二つの石を裳の腰紐の下に挟んでついに新羅を征伐した。凱旋した日,芋湄野に至り、太子が誕生された。この因縁により,芋湄野という。お産を芋湄というのはこの国の言葉である』
 世の婦人が腹の子が動けば、裳の腰に石をはさみ、おさえて時を延ばすのは、思うにこれによるのだろうか」

◎縄文語:
・子饗原=「コッ・ウン・ノッ」=「窪地・にある・岬」
・芋湄野=「ウッ・メナ」=「枝分かれた・上流の細い川」⇒google map

 比定地には鎮懐石八幡宮が建ちます。邪馬台国時代は深江地区には海が入り込んでいたので、まさに窪地ということになります。また周辺には細い枝川がたくさんあります。縄文語解釈そのままの地勢です。

□□□「児饗(こふの)石」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『釈日本紀』)
「筑前国風土記にいう。怡土郡。児饗野。郡の西にある。この野の西に白い石が二つある。一つは、長さ一尺二寸、大きさは一尺、重さは三十一斤である。一つは、長さ一尺一寸、大きさは一尺、重さは三十九斤である。
 昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようとしてこの村に到った時に妊娠したが、たちまち産まれそうになった。その時、この二つの石を取って御腰に挟み、祈(うけい)をしておっしゃった。『朕は西の境を定めようと思い、この野に来た。もし、この妊んだ皇子が神であるならば、凱旋の後に生まれるのがよいだろう』と。
 ついに西の境を定めて帰り、皇子が産まれた。これがいわゆる誉田天皇(応神天皇)である。当時の人は、その石を名づけて皇子産石(みこうみのいし)いった。今は訛って児饗石という」

◎縄文語:「コッ・ウン・ノッ」=「窪地・にある・岬」⇒google map

 前項の「子饗原」と同様です。

□□□「塢舸水門」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「風土記にいう。塢舸県。県の東のほとりに大江(遠賀川)の川口がある。名を塢舸水門(をかのみなと)という。大船を受け入れることができる。そこから島と鳥旗(とはた)と襖(うみのくま)に通じる。名を柚門(くき)という。ここは小船を受け入れることができる。
 海の中には二つの小島がある。その一つを阿斛嶋(あこじま)という。島には支子(くちなし)が生え、海で鮑魚(あわび)が獲れる。もう一つは姿波嶋(しばしま)という。この両島にはともに鳥葛(つづら)・冬葡(うめ)が生えている」

◎縄文語:塢舸=「オ・カ」=「川口の・ほとり」 =遠賀川の河口⇒google map

 縄文語解釈は、風土記の説明に完全に一致しています。

□□□「大城山」命名由来 □□□

×筑前国風土記逸文(『万葉集抄秘府本』)
「風土記にいう。筑前国御笠郡。大野の頂に城がある。それで大城(おおき)の山というのである」

◎縄文語:大城(山)=「オホンケ」=「山裾(の山)」⇒google map

 比定地の大城山には日本最大の古代山城、大野城があります。白村江の戦い(663年)で唐と新羅の連合軍に敗れた後、倭国防衛の目的で築かれたものです。

 大野城も縄文語解釈すると、

●大野=「オオ・ノッ」=「大きな・岬」

 となり、これも地勢と一致します。

■■■「宗像郡」命名由来 ■■■

×筑前国風土記逸文(『宗像大菩薩御縁起』)
「西海道の風土記にいう。宗像大神が天より降り、崎門山にいらっしゃった時、青蕤玉(あをにのたま)を奥津宮の表(しるし)として置き、八尺蕤(やさかに)の紫玉を中津宮の表として置き、八咫鏡を辺津宮の表として置いた。この三つの表をもって御神体と為し、三つの宮に納め置いて、お隠れになった。それで身形の郡といった。後の人は、改めて宗像という。その大海命(おおあまのみこと)の子孫は、宗像朝臣らがこれである。云々」

◎縄文語:「メナ・カ・タ」=「上流の枝川の・ほとりの・方」=釣川の枝川の岸辺 ⇒google map

 比定地は言うまでもなく宗像市です。縄文語解釈は、釣川の上流の枝分かれの様を表しているのではないでしょうか。

 宗像については、当初「メナシ・コタン=東の・村」としていましたが、直方、枚方、行方など、ほかの地名を参考にすると、「方=カチャ=岸辺」とした方が整合性がとれるので、解釈を修正させていただきます。申し訳ありません。

◆◆◆「筑後国」命名由来 ◆◆◆

×筑後国風土記逸文(『釈日本紀』)
「公望が案ずるに、築後国風土記にいう。築後国は、元は筑前国と合わせて一つの国であった。昔、この二つの国の間の山に峻険な狭い坂があった。往来の人は鞍韉(したくら=鞍の下に敷く布)を摩り尽くしてしまった。土地の人は この坂を鞍韉尽くしの坂といった。
 三つ目にいう。昔、この堺の上に荒ぶる神が居て、往来の人の半分は生きのび、半分は死んだ。その数は極めて多かった。よって、人の命尽くしの神といった。時に、筑紫君と肥君らは占って、筑紫君らの祖である甕依姫(みかよりひめ)を祝(ほふり)として祭らせた。それ以降、路行く人は神に害されなくなった。これにより、筑紫神という。
 四つ目にいう。その死んだ者を葬るため、この山の木を伐って棺を造作した。よって、この山の木を取り尽くそうとした。よって筑紫国という。後に二つの国に分かれて、前と後(筑前、筑後)となる」

◎縄文語:「チクシ」=「海岸の難所」⇒google map

 比定地は福岡県(東部除く)です。玄界灘に面しした荒々しい地勢を指しています。

 風土記逸文は言うまでもなくデタラメです。

■■■「生葉郡」命名由来 ■■■

×筑後国風土記逸文(『釈日本紀』)
「公望の私記に曰く、案ずるに、築後国風土記にいう。昔、景行天皇が国を巡り終えて都に帰る時、この村に膳司(かしはで)がいて、御酒盞(おほみうき=天皇の酒の盃)を忘れた。云々。天皇は『惜しかったなあ、我が酒盞(うき)よ』とおっしゃった。土地の言葉で酒盞をウキという。よって、宇枳波夜(うきはや)郡というが、後の人が誤って生葉郡と名づけた」

◎縄文語:「ウコッ・パ」=「合流する(互いに付く、交尾する)・岬」 ⇒google map

 比定地はうきは市です。うきは市は東西に伸びる耳納山地と北方の古処山地から伸びる山並みが合流する地点です。縄文語解釈そのままの地勢です。うまい命名です。

■■■「三毛郡」命名由来 ■■■

×筑後国風土記逸文(『釈日本紀』)
「公望の私記に曰く、案ずるに、築後国風土記にいう。三毛郡。云々。昔、棟木一株が郡家の南に生えていた。その高さは九百七十丈だった。朝日の影は肥前国藤津郡の多良の峰を覆い、夕日の影は、肥後国の山鹿郡の荒爪の山を覆った。よって御木国という。後の人は訛って三毛といい、今は郡の名としている」

◎縄文語:「メ・ケ」=「泉の・ところ」 ⇒google map

 比定地は旧三池郡、現在の大牟田市全域とみやま市南部です。縄文語解釈はこの地域に点在する池沼を指しています。

◆◆◆「豊前国」◆◆◆
■■■「鹿春郷」命名由来 ■■■

×豊前国風土記逸文(『宇佐宮託宣集』)
「豊前国風土記にいう。田河郡、鹿春郷(かはるのさと)。郡の東北にある。この郷の中に川がある。鮎がいる。その源は郡の東北の杉坂山より出でて、すぐに真西を指し、流れ下って真漏河に合流する。この川の瀬は清い。よって清河原村と名づけた。今、鹿春郷というのは訛ったのである。
 昔、新羅国の神が自ら渡来して、この河原に住んだ。すなわち鹿春神(かはるのかみ)という。また、郷の北に峰があり、頂には沼がある。その周囲は三十六歩ばかりである。黄楊樹(つげのき)が生え、また、龍骨(たつのほね=石灰)がある。第二の峰には銅(あかがね)と黄楊樹(つげのき)、龍骨などがある。第三の峰には龍骨がある」

◎縄文語:「カパ」=「水中の平岩」⇒google map

 比定地は福岡県田川郡香春町(かわらまち)です。縄文語解釈は金辺川の川底の岩を指しています。地勢も発音も完全に一致しています。⇒google ストリートビュー

 風土記逸文の内容はもちろんデタラメです。

□□□「鏡山」命名由来 □□□

×豊前国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「豊前国風土記にいう。田河郡。鏡山。郡の東にある。昔、気長足姫尊(神功皇后)が この山にいて、遥かに国の形を見て、勅してうけいを行った。『天神(あまつかみ)も地祇(くにつかみ)も我がために福(さきわ)へ給え』と仰った。
 すると、御鏡を持って、ここに安置なさった。その鏡は、石となって今も山の中にある。よって名づけて鏡山という」

◎縄文語:鏡山=「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」⇒google map

 比定地には鏡山大神社が建ちます。

 風土記がなんと言い張ろうと、「カッ・ク」は「形が・弓(の山)」を表し、鏡山大神社から望む香春岳の形状を指しています。しかも三ノ岳の別名は「天香山」です。「カッ・ク」はこれまでも各地で何度も登場しています。この豊前国田河郡でもその例証が一つ増えたことになります。⇒googleストリートビュー(鏡山大神社後方より香春岳を望む)

 いかに風土記がデタラメを書いているかが分かります。

【参考】他地域の「カッ・ク=形が・弓」の山
・各務(原)=「カッ・ク・ムィェ」=「形が・弓の・頂」⇒google ストリートビュー
・香久山(大和国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・香山里/鹿来墓(播磨国)=「形が弓の山」⇒google ストリートビュー
・鶴来=「カッ・ク・ラィイ」=「形が・弓の・死んでいるところ」=弓形の山の墓のあるところ ⇒google ストリートビュー
・小熊山古墳(豊後国)(杵築市/3世紀後半~4世紀初頭/前方後円墳)⇒googleストリートビュー
カクメ石古墳(飯塚市/古墳時代中期~後期/円墳)=「カッ・ク・ムィ・シリ」=「形が・弓の・頂の・山」
⇒googleストリートビュー
鏡山(豊前国田河郡鏡山=香春岳)※弓の形の山。三ノ岳別名、天香山。
=「カッ・ク・ムィェ・ヤマ」=「形が・弓の・頂の・山」⇒googleストリートビュー
・鏡山(唐津市鏡村)=解釈は同上。⇒googleストリートビュー
カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・出崎」=愛宕山の地勢⇒google ストリートビュー(※嵐山渡月橋から中央右奥)

□□□「広幡八幡大神」命名由来 □□□

×豊前国風土記逸文(『諸社根元記』)
「ある書にいう。豊前国宇佐郡、菱形山。広幡八幡の大神。郡家の東、馬城(まき)峰の頂に鎮座する。のちまた、第四十五代聖武天皇の御世、神亀四年(727年)歳次の年、この山に神の宮を造り祭る。よって広幡八幡の大神の宮と名づけた」

◎縄文語:鏡山=
・八幡=「ペッチャ」=「川端」
・広幡=「ピラ・ペト」=「崖の・水源」
・馬城=「マ・ケ」=「谷水の・ところ」
⇒google map

 御許山(大元山=馬城峰)山頂の大元神社は、宇佐八幡の奥宮です。

 八幡大神などという神はただの創作なので、この世にもあの世にもいません。日本の神々の多くは縄文人の自然崇拝がその根底にあり、それを後世の人々が都合よく擬人化して物語を創作したものです。

 八幡神社の場合は、もともと「ペッチャ=川端」という地名が出所です。各地の八幡神社の多くは川端にあるので、「ペッチャ」という発音にこじつけて八幡神社が勧請されたと考える方が合理的です。大元の宇佐八幡宮ももちろん川端の立地です。また、八幡神社が勧請されていない「八幡」という地名も多数見受けられます。
 詳しくは第三十七回コラムの「八幡塚古墳」の項をご参照ください。

 広幡は「ピラ・ペト=崖の・水源」と縄文語解釈しましたが、これは、御許山の地勢を表したとすればぴったりです。御許山の頂付近は急峻な崖がたくさんあります。

 余談ですが、宇佐は、

●宇佐=「ウ・ヤ」=「湾の・岸」

 とすれば、地勢と完全に一致します。

 その他豊後国風土記については、第七十八回コラム『豊後国風土記のウソを徹底的に暴く!~由布岳は「溶岩の倉の形の山」の意。木綿は作っていない!~』をご参照ください。

■■■「宮処郡(みやこ)」命名由来 ■■■

×豊前国風土記逸文(『中臣祓気吹抄』)
「豊前風土記にいう。宮処郡。いにしえの昔、天孫ここより経って、日向の旧都に天から降り立った。思うに、天照大神の神京である」

◎縄文語:「メ・ヤ・ケ」=「泉の・岸の・ところ」⇒google map

 比定地は京都郡です。肥前国の宮処郷と同じ由来です。京都郡には池沼が点在しています。縄文語解釈は、その「池沼の岸辺」という意味です。

 天孫とは天照大神の孫のニニギのことでしょうから、風土記の内容は見当違いです。ニニギがいたのは日向峠のある伊都国です(※第三十回コラム参照)。
 また、天照大神の両親のイザナギ、イザナミは、それぞれアシナヅチ、テナヅチと同一人物で、その子の奇稲田姫も天照大神と同一人物です(※第一回コラム参照)。つまり、天照大神は出雲の出身なので、豊前にその都があったとは思えません。関係があるとすれば、豊国を故郷とする夫のスサノオの方です。(※第二十四回コラム参照)
 また、天照大神は決して太陽神ではなく、私見では、銅鐸、銅剣、銅矛を扱う巫女ではなかったかと思います。(※第二十四回コラム参照)


日出ずる国のエラーコラム
第八十七回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~阿波国/伊予国/土佐国編~
【今回取り上げる内容】
<阿波国>
高草郡/牟夜戸・中湖・奥湖/奈佐浦
<伊予国>御嶋/伊社邇波
<土佐国>
玉嶋/神河

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「阿波国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「アゥ・ワ」=「枝分かれた(or隣の)・岸」

 比定地は言うまでもなく、徳島県です。

 斎部広成の古語拾遺に「麻種を植えた」とあり、延喜式には「粟を多く産した」ことが命名由来だとありますが、いずれも漢字表記にこじつけた由来であることから、まったく信用することができません。

 「アゥ」は、「枝分かれた地勢」or「隣」の意です。淡路島、淡海、安房、そして阿波。各地に頻繁に登場する言葉です。

□□□「牟夜戸/中湖(なかみなと)/奥湖」命名由来 □□□

×阿波国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「中湖というのは、牟夜戸奥湖の中にあるので中湖を名としている。阿波国風土記に見える」

◎縄文語:
・牟夜戸=「モヨ・チャ」=「入り江の中の・岸」
・奥(湖)=「オ」=「くぼんだところ(原義:うなじ)」
・中(湖)=「ナィカ」=「川岸」
google map

 牟夜戸の比定地は撫養川下流の撫養地区です。通説では、中湖は小松島、奥湖は橘湾または椿泊を指しています。日本古典文学大系では、中湖と奥湖をそれぞれ吉野川河口の中央部、南部に比定しています。

 こういう風土記の記載内容、そして漢字表記に引きずられると、まったく見当違いの解釈をすることがあります。同じような例で言えば、住吉三神があります。住吉三神は、底筒男、中筒男、表筒男で、その表記から筑紫日向の水辺の深度に合わせて生まれたとされていますが、漢字表記にこじつけた物語がほぼすべてデタラメであることはこれまで無数の例で見てきたとおりです。
 住吉三神を縄文語解釈すれば、これらは単に「六甲山の言い換え」であることがわかります。
 再掲となりますが、以下縄文語解釈です。

●底筒男=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
 =滝のたくさんある出崎のふもと
●中筒男=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
 =断層谷のある出崎のふもと
●表筒男=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」

 =岩崖の出崎のふもと

 同様に、阿波国風土記逸文に見える三つの港も、一つの港を異なる表現で表した可能性があります。漢字の「中」や「奥」に引きずられて解釈すれば、風土記の思惑どおり、デタラメな解釈に導かれていきます。

 これらの港を縄文語解釈し、一つの地名の言い換えとして仮定すると、「入り江の中の、くぼんだ川岸のところ」と解釈することができます。
 牟夜戸と撫養は発音が一致していますから、つまり、これら三つの港は、実は「一つの港の言い換えの表現で、撫養の港を指した」と考えることができます。

□□□「奈佐浦」命名由来 □□□

×阿波国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「阿波国風土記にいう。奈佐浦。奈佐浦という理由は、その浦の波の音が止むことが無かった。よって奈佐という。海部(漁民)は波を奈という」

◎縄文語:(和)奈佐=「(ウェン・)ノッ・チャ」=「険しい・岬の・岸」⇒google map

 比定地は奈佐浦です。那佐は和那佐とも呼ばれていました。

 風土記はなぜ、こうも嘘ばかり言うのでしょうか。漁民が波を奈と言ったことが本当にあるのでしょうか。

 縄文語解釈すれば、これは間違いなく那佐半島の地勢です。つまり、奈佐浦とは「険しい那佐半島の浦」ということになります。

◆◆◆「伊予国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「エン・イェ」=「尖った・岩」google map

 比定地は愛媛県です。
 縄文語解釈は佐田岬しかありません。

□□□「御嶋(みしま)」命名由来 □□□

×伊予国風土記逸文(『釈日本紀』)
「伊予国の風土記にいう。乎知郡の御嶋。坐す神の御名は大山積神、またの名は和多志大神である。この神は仁徳天皇の御世に現れた。この神は百済より来て鎮座し、津国の御嶋に鎮座した。云々。御嶋というのは津国の御嶋の名である」

◎縄文語:「ムィ・スマ」=「山頂の・岩」google map

 比定地は大三島です。縄文語解釈では、大三島最高峰の鷲ヶ頭山の頂ととれます。山頂は岩だらけです。

 風土記記載の「嶋(島)」が、いわゆる海に浮かぶ「島」と限らないことは、播磨国風土記の島々(伊刀嶋/家嶋/神嶋/韓荷嶋/高島)で解説しています(第六十三回コラム参照)。

□□□「伊社邇波(いさには)」命名由来 □□□

×伊予国風土記逸文(『釈日本紀』『万葉集註釈』)
「伊予国の風土記に記すこと。<中略>
 天皇等が湯(道後温泉)に行幸したのは五回ある。景行天皇、と大后の八坂入姫命の二人を一回、仲哀天皇と大后の神功皇后の二人を一回、聖徳太子を一回とする。聖徳太子の付き人は、高麗の僧である恵慈と葛城臣だった。この時、温泉の傍らに碑を立てた。その碑を立てたところを伊社邇波の岡という。伊社邇波と名づけたのは、この国の人々らが、その碑文を見たいと思い、誘いあって来た。よって伊社邇波という。<後略>」

◎縄文語:
「エテュ・ネ・ワ」=「岬・である・岸」or
「エテュノッ・ワ」=「岬の・岸」
google map

 比定地には伊佐爾波神社が建ちます。

 伊佐爾波神社の南には石手川が西流して重信川に合流していますが、江戸前期の改修以前は伊佐爾波神社に隣接する湯築城の傍らを流れていました。

 つまり、縄文語解釈どおり、「岬の岸」ということになります。

◆◆◆「土佐国」命名由来 ◆◆◆

×土佐国風土記逸文(『土佐日記』)
「風土記にいう。陰陽二神、交わりこの国を生む。名づけて速依別という。その義を取る。のちに改めて名づけ、土佐という」

◎縄文語:「タ・サ」=「石の・浜」google map

 比定地は高知県です。太平洋岸ですから、波に削られた石の浜は無数にあります。

□□□「玉嶋」命名由来 □□□

×土佐国風土記逸文(『釈日本紀』)
「土佐国風土記にいう。吾川郡の玉嶋。ある説にいう。神功皇后が巡国の時、御船をここに停泊させた。皇后は島に下り、休息した際、一つの白い石を得た。鷄卵のごとく丸い。皇后が掌に置くと四方に光を放った。皇后は大いに喜び、詔して左右に言った。これは海神が与えた白眞珠である。ゆえに嶋名となす。云々」

◎縄文語:玉(嶋)=「タン・パ」=「こちらの・岬」⇒google map

 「タン=こちらの」は各地の地名に用いられる言葉です。近隣に「同様の地勢」があるということは、これまでも何度か述べました。

 玉嶋に似た地勢とは、「ツヅキ島」と「衣ヶ島」です。それぞれ縄文語解釈すると次のようになります。

●ツヅキ(島)=「テューテュ」=「岬」
●衣ヶ(島)=「キケ」=「山」

 玉嶋の解釈とも整合性がとれます。

□□□「神河(みわがわ)」命名由来 □□□

×土佐国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「土佐国風土記にいう。神河。三輪川とよむ。源は北の山の中より出て、伊予国に至る。水清し。ゆえに、大神のために酒を醸(か)むにはこの川の水を用いる。ゆえに川の名としている」

◎縄文語:「メ・ワ」=「泉沼の・岸」⇒google map

 神河は仁淀川に比定されています。

 命名由来の説はいくつかあります。

1,平城天皇皇子の高岳親王が淀川に似ていることから「仁淀」と名づけた。
2,延喜式に、貢ぎ物として「贄殿川」の鮎の記載があり、贄殿川が転じて仁淀川になった。
3,上記風土記由来。

 いずれも漢字表記や音にこじつけた命名由来なので、信用することができません。

 仁淀川を縄文語解釈します。

●仁淀=「ニ・ヤチ」=「林の・湿地」

 とすれば、神河の縄文語解釈とも辻褄が合います。仁淀川の河口付近の地勢と完全に一致しています。以下ご参照ください。

国土交通省HP「仁淀川」引用>
『下流域(直轄管理区間)では、竹林、エノキ林、ヤナギ林等の河畔林が多く見られ、広い砂州には流水の影響を強くうけるツルヨシ、ヤナギタデ、ネコヤナギ等の植物が群落を形成しています。また、河口付近の感潮域には海岸砂丘性や塩沼湿地性の群落が分布しています。代表的な植物としてはオギ、ツルヨシ、ヤナギ等で、特定種はカワヤナギやタコノアシ、ノジアオイ等が確認されています』


日出ずる国のエラーコラム
第八十六回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~因幡国/伯耆国/美作国/播磨国/備前国/備中国/長門国編~
【今回取り上げる内容】
<因幡国>
高草郡
<伯耆国>粟嶋
<美作国>
勝間田池
<播磨国>
藤江浦/八十橋
<備前国>
牛窓
<備中国>
邇磨郷
<長門国>赤間関

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「因幡国」命名由来 ◆◆◆

×因幡国風土記逸文(『古今和歌集』)
「因幡の山は因幡国にある。武蔵国に武蔵があるがごとし。丹後にあればタコノ浦という。伊勢にあれば伊勢志摩、因幡は『行きなば』という意味である。峰に生える松を人の姿に見ている。風土記には稲葉国とある。誤って因幡としている。ただし、この国にはまちまちの説がある」

◎縄文語:「エン・ノッ・パ」=「尖った(or突き出た)・岬の・頭」⇒google map

 比定地は鳥取市周辺です。

 逸文には「まちまちの説がある」とありますが、少なくとも漢字こじつけの説はまったく信用することはできません。

 縄文語解釈では、海に突き出た海食崖の「長尾鼻」がふさわしく見えます。
 下記参考例を見ると、「稲葉山」の場合は、「独立峰」or「山頂が尖っている山」を指しているものと思われます。

【参考】各地の稲葉山
・稲葉山城(岐阜城)⇒google map
・富山県小矢部市稲葉山google map
googleストリートビュー(正面の山)
・鳥取県鳥取市稲葉山google map
googleストリートビュー(正面の山)
・京都府福知山市稲葉山古墳群 ⇒google map
googleストリートビュー(正面の山)

■■■「高草郡」命名由来 ■■■

×因幡国風土記逸文(『塵袋』)
「因幡の記を見ると、この国に高草郡がある。その命名には二つの解釈がある。一つは、野の中に草が高いので、高草という。その野を郡の名とした。もう一つは竹草郡である。ここにもと竹林があった。それ故にこういうのである。竹は草の長という意味で竹草というのではないだろうか。
 その竹について明かすと、昔この竹林の中に老いた兎が住んでいた。
<以下、因幡の白兎>
※「因幡の白兎」については、第四十五回コラム「鳥取県の古墳の縄文語解釈、因幡の白兎はウサギではない!」をご参照ください。

◎縄文語:「ト・カ・ウン・クッチャ」=「湖沼の・ほとり・にある・沢の入り口」=湖山池のほとりの千代川河口⇒google map

 比定地はおおよそ、鳥取市の河内川と千代川、その支流の曳田川に挟まれた地域です。

 縄文語解釈を参考にすれば、「湖沼のほとりの河口」という意味ですから、必然的に「湖山池のほとりの千代川の河口」ということになります。「高い草」や「竹林」はまったく関係ありません。

◆◆◆「伯耆国」命名由来 ◆◆◆
×伯耆国風土記逸文(『諸国名義考』)
「伯耆国の風土記にいう。手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が呑もうとしたので、山中に逃げ入った。時に、母が遅く来たので、『母様、早く来てください。早く来てください』と言った。ゆえに母来の国と名づけた。後に改めて伯耆国とした。云々」

◎縄文語:「パン・パケ」=「川下の・岬」=弓ヶ浜半島google map

 風土記逸文はもちろんデタラメです。これが風土記全般の一貫した編纂方針です。縄文語の存在を知っていたのか、それとも無知だっただけなのか。

 縄文語解釈は、宍道湖、中海の出口の岬という意味で、弓ヶ浜半島を指したのだと思います。

□□□「粟嶋」命名由来 □□□

×伯耆国風土記逸文(『釈日本紀』)
「伯耆国の風土記にいう。相見(あふみ)郡。郡家の西北に余戸(あまりべ)里があり、粟嶋がある。少日子命が粟を蒔いたとき、穂がたくさん実って落ちた。そして、粟殻に乗って弾かれ、常世国にわたっていった。ゆえに粟嶋という」

◎縄文語:「アゥ(嶋)」=「枝分かれor隣の(の嶋)」⇒google map

 比定地は、弓ヶ浜半島の付け根で、小山の頂に粟嶋神社が建ちます。

 この粟嶋は、江戸時代中期までは中海に浮かぶ小さな島で、埋め立てによって陸続きになったようです。

 縄文語解釈の「アゥ=鹿角/枝分かれた様/隣」は各地の地名に登場します。「淡」「阿波」「安房」。すべて、「海を挟んだ隣の地」あるいは「枝分かれた地形」を指しています。「淡海」を「淡水湖」の意だとするような通説はそろそろ捨てていただきたいものです。「枝分かれた・入り江(or泉)」の意です。

◆◆◆「美作国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語: 「メ・マサカ」=「泉の・浜の草原」⇒google map

  比定地は津山盆地周辺です。津山盆地には太古の昔、湖がありました。北東部の勝田郡周辺には高原の湿地帯もあります。

□□□「勝間田池」命名由来 □□□

×播磨国風土記逸文(『詞林采葉抄』)
「美作国風土記にいう。日本武尊が櫛を池に落とし入れた。よって勝間田池と名づけた。云々。玉かつまとは櫛の古語である」

◎縄文語:「カン・テュンマ・タ・エンコ」=「上にある・谷川・の方の・岬」google map

 比定地は勝田郡勝央町にあった勝間田町で、美作七宿の一つです。

 縄文語解釈は少々自信がありませんが、滝川両岸の山と捉えられます。⇒googleストリートビュー


◆◆◆「播磨国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「パン・ル」=「川下の・岬」google map

 比定地は兵庫県西部です。縄文語解釈の「川下の岬」は、針間国が加古川以西なので、加古川右岸の岬かもしれません。

□□□「藤江浦」命名由来 □□□

×播磨国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「藤江浦。播磨国。住吉大明神が藤の枝を切らせ、海上に浮かべて、誓って仰った。『この藤が近寄ったところを我が領土とするべし』と。それで、この藤は波に揺られて近寄ったので、ここを藤江浦と名付けた。住吉の御領である」

◎縄文語:「プッ・チャィェ」=「川口の・岸」google map

 比定地は、明石市藤江地区です。まさに「川口の岸」。縄文語解釈そのままの地勢です。

□□□「八十橋」命名由来 □□□

×播磨国風土記逸文(『本朝神社考』)
「播磨国風土記にいう。八十橋は、陰陽二神、および八十二神の降臨した跡である。丹後、播磨、ともに橋がある」

  比定地は加古川右岸の平荘湖周辺です。八十橋については、印南郡益気(やけ)里で解説しています。第五十七回コラムの「益気里」をご参照ください。

 以下第五十七回コラム引用。

◎縄文語:益気=「ヤ・ケ)」=「岸の・ところ」
or
「イェ・ケ)」=「岩の・ところ」⇒google map
◎縄文語:斗形(山)=「マーテュ・カ・タ(山)」=「波打ち際の・ほとり・にある(の山)」⇒google map
◎縄文語:八十橋=「ヤ・ソ・パ・ウ」=「岸の・岩の・頭の・ところ」⇒google map(岩の写真)

 いずれも、加古川右岸の平荘湖周辺です。これらの縄文語解釈は極めて確度が高いと言えます。地勢そのままを表現しています。
 これらは風土記のウソをはっきりと証明しています。

◆◆◆「備前国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:
吉備国=「キピ」=「水際にそそり立つ崖」
google map
⇒googleストリートビュー(玉野市王子が岳)

  比定地は言うまでもなく、律令の備前、備中、備後、美作国です。
「キピル=水際にそそり立つ崖」は、「岐阜」と同語源と思われます。

□□□「牛窓」命名由来 □□□

×備前国風土記逸文(『本朝神社考』)
「神功皇后の舟が備前の海上を過ぎた時、大きな牛がいて、舟を転覆させようとした時、住吉の明神が老翁となって、その角を持って投げ倒した。ゆえにその場所を名づけて牛転という。今、牛窓というのは訛ったのである」

◎縄文語:「ウテュ・マーテュ」=「間の・波打ち際」google map

 比定地は瀬戸内市牛窓町牛窓です。縄文語解釈そのままの地勢で、「前島との間の浜」ともとれますし、現在は埋め立てられていますが「錦海湾の波打ち際」ともとれます。

 風土記の内容はもちろんデタラメです。
 神功皇后にゆかりのある住吉三神ですが、これらも決して海の神ではなく、縄文語解釈すれば、六甲山の自然崇拝であることがわかります。神功皇后が住吉三神を祭った場所とされる「大津渟中倉之長峡」も大阪の住吉大社ではなく、六甲山の麓の本住吉神社ということになります。

 以下、第三十九回コラム「兵庫県の古墳名から王朝交代を探る!(一)処女塚は乙女ではない!/住吉三神と六甲山」の項一部引用。詳しくは当該コラムをご参照ください。

●底筒男=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
 =滝のたくさんある出崎のふもと
●中筒男=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
 =断層谷のある出崎のふもと
●表筒男=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」
 =岩崖の出崎のふもと

 つまり、これらはすべて、有馬四十八滝、蓬莱峡、地獄谷、芦屋ロックガーデンや須磨アルプスを有する「六甲山のふもと」ということを言っているのだと思われます。

 そして、肝心の六甲山を解釈してみます。通説では、「六児/無古/武庫/務古/牟古」等が、「六甲」に転訛したとされていますが、縄文語解釈では、まったく逆の結果となります。
以下、縄文語解釈。

●六甲山=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
⇒google写真検索

 となります。

 

 地勢を見ると、もともとの発音は「ルッケイ」で、それが「ムッケイ」「ムッコー」「ムコ」に転訛したのではないでしょうか。

◆◆◆「備中国」◆◆◆
■■■「邇磨郷(にま)」命名由来 ■■■

×備中国風土記逸文(『本朝文枠』)
「臣(三善清行)は去る寛平五年(893年)に備中介に任命された。彼の国の下道(しもつみち)郡に邇磨郷がある。ここに彼の国の風土記を見るに、皇極天皇の六年、大唐の将軍蘇定方(そていほう)が新羅軍を率いて百済を伐った。百済は使を遣はして救いを乞うた。天皇は筑紫に行幸して、救の兵を出そうとされた。時に、天智天皇は皇太子となり、政を執って、行路に従っていた。下道郡に宿した時、一郷の集落が甚だ盛んな様子を見て、天皇は詔を下し、試みにこの郷の軍士を徴収された。そして兵二万人を得た。天皇は大いに悦んで、この邑を名づけて二万郷と言った。後に改めて邇磨郷という。その後、天皇は筑紫の行宮で崩御されたので、ついにこの軍を派兵することはなかった」

◎縄文語:「ニ・マ」=「隙間の・谷川」google map

 比定地は岡山県真備郡真備町の二万地区です。
 二万地区の東に柳井原貯水池がありますが、ここは高梨川が東西に分かれて流れていたものを治水対策で貯水池としたものです。縄文語解釈の「隙間の谷川」はこの東の貯水池か、あるいは二万地区を北流する小田川支流と捉えられます。

◆◆◆「長門国」◆◆◆
□□□「赤間関」命名由来 □□□

×長門国風土記逸文(『日本書紀通証』)
「長門の赤間関。赤女の多いのをもって名とした。風土記に見える」

◎縄文語:「アケ・マ・チャ・ケ」=「片割れの・谷川の・岸の・ところ」=小瀬戸?google map

 比定地は下関です。縄文語解釈では、彦島と本州の間の「小瀬戸」がふさわしく見えます。

 赤間関は赤馬関とも表記され、別名馬関(ばかん)とも呼ばれていました。

●馬関=「マ・チャ・ケ」=「谷川の・岸の・ところ」

 漢字を音読みしただけではないでしょうか。


日出ずる国のエラーコラム
第八十五回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~相模国/上総・下総国/常陸国/陸奥国編~
【今回取り上げる内容】
<相模国>
足軽山/伊曽布利
<上総・下総国>
<常陸国>
賀蘇理岡
<陸奥国>
八槻/飯豊山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈
◆◆◆「相模国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「ソ・カ・ウン・ムィ(=モィ)」=「磯の・ほとり・にある・入り江」

 鎌倉あたりでしょうか。

□□□「足軽山」命名由来 □□□

×相模国風土記逸文(『続歌林良材集』)
「相模国風土記にいう。足軽山(あしがらやま)は、この山の杉の木を取って舟を造ると、足が軽くなることは、他の材で造る舟とは違った。よって足軽山と名づけたという。云々」

◎縄文語:「ア・シロイカル」=「一方の・山越えの道」⇒google map

 比定地は足柄峠周辺の山々、足柄山地です。

 縄文語解釈は発音も地勢も一致していて、まさに足柄峠を指していることが分かります。極めて確度の高い縄文語解釈です。

 また、足柄峠の東を「坂の東」として「坂東」と呼ぶという通説もデタラメ解釈で、縄文語解釈すれば、

●坂東=「パン・トー」=「川下の・湖沼」=霞ヶ浦

 という意味になります。つまり、「坂の東」と漢字表記にこじつけるにしても、中山道の「碓井峠」としなければなりません。

 さらに、霞ヶ浦、香取海(旧名:流海)は、

●霞(ヶ浦)=「ケシ・モィ」=「しもの外れの・入り江」
●香取(海)=「コッチャ」=「沢の入口」
●流海=「ナイカ・ウン・ル」=「川のほとり・にある・海」

 ついでに、東国の通称だった日高見国は、

●日高見(国)=「シ・チュカ・ウン・モィ」=「ずっと・東・にある・入り江」=霞ヶ浦

 が相応しく思えます。

□□□「伊曽布利」命名由来 □□□

×相模国風土記逸文(『万葉代匠記』)
「相模国風土記にいう。鎌倉郡。見越崎。つねに速い浪があり、石を崩す。この国の人は伊曽布利と名づけている。石を振ることをいうのである」

◎縄文語:伊曽布利=「イソ・フ」=「磯の・丘」⇒google map

 比定地は稲村ヶ崎、あるいは腰越の小動岬と言われています。

◆◆◆「上総・下総国」命名由来 ◆◆◆

×上総・下総国風土記逸文(『国花万葉記』)
「下総、上総の総とは、木の枝のことである。昔 この国には巨大な楠が生えていて、長さは数百丈に及んだ。時に天皇は不思議に思って占わせたところ、神祇官は「天下の大凶事です」と奏上した。これによりこの木を斬り捨てると、南方に倒れた。上の枝を上総といい、下の枝を下総という」

◎縄文語:総=「プッ・サ」=「川口の・浜」

 斎部広成の古語拾遺には、
「天冨命は、麻がよく育つ豊かな地を求め、天日鷲命の孫らを連れて、阿波から安房に移り住んだ。麻の別名は「総」であることから「総国」と名づけた。安房は阿波から名づけた」
 とあります。

●阿波/安房=「アゥ・ワ」=「枝分かれた(隣の)・岸」=対岸

 安房と阿波が同じ発音なのは、単に同じ地勢だからです。

 総国と麻はまったく関係ありません。
 また、神武東征神話が欠史八代の事績を基に創作された物語であるというのは何度も書いていますが、天冨命はその神話の中に登場する人物です。古語拾遺の漢字表記にこじつけた物語はデタラメの可能性が高いと言えます。

◆◆◆「常陸国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・岸」
or「ピタ・チャ」=「小石河原(or砂原)の・河口」
⇒google ストリートビュー(那珂川河口)

□□□「賀蘇理岡」命名由来 □□□

×相模国風土記逸文(『塵袋』)
「サソリとはササリ蜂というもので、子に呪文をかける時に使われる。常陸国ではカソリというらしい。この国には賀蘓理岡(かそりのをか)という岡がある。昔 この岡にはササリ蜂がたくさんいた。これにより、サソリの岡と呼ぶべきところを、カソリ岡というのだろう」

◎縄文語:「コッチャ」=「沢の入口」⇒google map

 比定地には鉾田市勝下(かつおり)の説があります。

 縄文語解釈に該当する沢は勝下地区の南端にしかありません。

 勝下は

●勝下=「コッチャ・オロ」=「沢の入口の・ところ」

 で、解釈も一致します。

◆◆◆「陸奥国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「メト・ノッケ」=「山奥の・岬」

 複数の解釈ができるので、ちょっと自信がありません。すみません。

□□□「八槻」命名由来 □□□

×陸奥国風土記逸文(『大善院旧記』)
「陸奥(みちのおくの)国の風土記にいう。八槻と名づけた所以は、景行天皇の時、日本武尊が東の夷を征伐して、この地に到った。八目の鳴鏑(威嚇のための音が出る矢)をもち、賊を射殺した。その矢の落ちたところを矢着(やつき)という。ここには正倉(みやけ)がある。
 古老が言い伝えている。昔、この地には八人の土蜘蛛がいた。一人目を黒鷲、二人目を神衣媛(かむみぞひめ)、三人目を草野灰(かやのはひ)、四人目を保々吉灰(ほほきはひ)、五人目を阿邪爾那媛(あざになひめ)、梯猪(たくゐ)、七人目を神石萱(かむいしかや)、八人目を狭礒名(さしな)という。
 それぞれ一族がいて、八か所の岩窟に住んでいた。この八か所はすべて要害の地で、朝廷に従わなかった。国造の磐城彦が敗れ去った後、百姓を脅し掠め取り続けた。
 景行天皇が日本武尊に土蜘蛛を征伐すると詔した。土蜘蛛らは力を合わせて防御し、また、津軽の蝦夷と協力して謀り、多くの猪鹿弓(ししゆみ)、猪鹿矢を石城に連ねて、官軍の兵を射た。官軍の兵は進むことができなかった。日本武尊は槻弓、槻矢をとって、七発はなち、八発はなつ。母初の矢は雷のごとく鳴り響いて蝦夷の輩を追い、退かせた。八発の矢は、八人の土蜘蛛を射貫き、たちまち殺した。その土蜘蛛を射た箭は、ことごとく芽吹き、槻の木となる。その地を八槻の郷という。この地には正倉がある。神衣媛(かむみぞひめ)と神石萱(かむいしかや)の子孫で赦された者が郷の中にいる。今、綾戸というのがこれである」

◎縄文語:八槻=「ヤ・テュキ」=「岸の・小山」⇒google map

 比定地は福島県東白川郡棚倉町八槻です。川沿いの山。発音も地勢も完全一致しています。さらに、八槻地区に隣接して「近津」という地名が残っていますが、「近津」を縄文語解釈すると、

●近津=「テュ・チャ」=「小山の・岸」

 で、「八槻」と解釈が完全に一致します。極めて確度の高い上問語解釈です。

 風土記の先住民の捉え方は一貫しています。もちろん、これらの漢字表記に合わせて創作されたような内容は疑わしいと言わざるをえません。

□□□「飯豊山」命名由来 □□□

×陸奥国風土記逸文(『大善院旧記』)
「陸奥(みちのおくの)国の風土記にいう。白河郡の飯豊山。この山は豊岡姫命の忌庭(ゆには)である。また、飯豊青尊が物部臣をして御幣を奉った。ゆえに山名とした。
 古老曰く、昔、垂仁天皇の二十七年の秋に飢饉があり、多くの人民が亡くなった。ゆえに宇恵々山という。のち、名を改めて豊田という、また、飯豊ともいう」

◎縄文語:「エテュ・ヤ」=「岬の・岸」⇒google map

 比定地には飯豊比売神社が建ちます。縄文語解釈は一般的すぎる形容で、解釈確度についてはなんとも言えません。



日出ずる国のエラーコラム
第八十四回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~尾張国/駿河国/伊豆国/飛騨国/信濃国/飛騨国編~
【今回取り上げる内容】
<尾張国>熱田社/吾縵郷/藤木田/遠江国/白羽村
<駿河国>不来見
<伊豆国>
<飛騨国>
<信濃国>
ははき木
<飛騨国>
甲斐国/菊花山

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「尾張国」命名由来 ◆◆◆

×尾張国風土記逸文(『倭漢三才図会』)
「風土記にいう。日本武尊が東夷を征伐して この国に帰り到った。身に帯びた剣を熱田宮に納めた。その剣は、元は八岐巨蛇(ヤマタノヲロチ)の尾から出たものである。よって、尾張国という」

◎縄文語:「オ・ウォロ・イ」=「川口を・水につけている・ところ」=川口の湿地のところ⇒google map

 比定地は愛知県西部です。木曾川、長良川、庄内川などが伊勢湾に流れ込んでいます。風土記が編纂された奈良時代初期においては、稲沢市あたりまで伊勢湾が入り込んでいたようです。縄文語解釈そのままの地勢です。

 また、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣とは、天叢雲剣、別名草薙剣です。ヤマタノオロチとは「ヤマトから派遣されていた役職者」だと日本書紀のエラーコラムで書きましたが、その人物を倒すと、尾張氏神祖のニギハヤヒ(=天火明)の孫、「天村雲」と同名の剣が出てくる訳です。
 日本武尊が焼津で草を払ったことで有名な草薙剣を縄文語解釈すると次のようになります。

●草薙の剣=「ケシ・ナゥケ」=「ぴかぴか光る・木カギ」=鉄や銅の剣、矛、戈

 また、日本書紀によれば、日本武尊と賊の戦いで焼けたことが焼津の命名由来となっていますが、縄文語解釈では単に焼津の海岸の地勢となります。

●焼津=「イェー・チャ」=「岩、石の・岸」=大崩海岸⇒google map

 この草薙の剣に代表されるように、日本武尊の東国遠征の物語のすべては、漢字表記にこじつけて創作された空想物語です。

□□□「熱田社」命名由来 □□□

×尾張国風土記逸文(『釈日本紀』)
「尾張国風土記にいう。熱田社(あつたのやしろ)は、昔、日本武命が東国を巡歴して帰った時、尾張連の遠祖の宮酢媛命を娶り、その家に泊まった。夜に厠に向かい、身に付けていた剣を桑の木に掛け、それを忘れて殿に入った。驚いて取りに行ったが、剣は光を放ち神のようだったので、手に取ることができなかった。そして、宮酢媛命に言った。「この剣は神の気がある。齋き奉って私の形影(みかげ=魂の片割れ)とすべし」と。よって社を建てた。郷の名により、熱田社と名づけた」

◎縄文語:「アテュィ・チャ」=「海・岸」⇒google map

 熱田神宮は、かつて伊勢湾に突出した岬に位置していました。つまり、熱田郷は海岸沿いだったということです。縄文語解釈そのままの地勢です。

□□□「吾縵郷」命名由来 □□□

×尾張国風土記逸文(『釈日本紀』)
「尾張国風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。垂仁天皇の世、品津別(ほむつわけ)皇子は生まれて七年経っても言葉を話さなかった。天皇は広く群臣に問えども、誰も分かるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。
『吾は多具国の神(出雲国島根郡、楯縫郡の多久社の神)の阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)である。吾は未だに祭祀されていない。もし、吾に祝人(ほふり)をつけるならば、皇子はよく喋るようになり、また その寿命も延びるだろう」と言った。
 帝は霊能者の日置部らの祖である建岡(たけおか)君を卜人として占うと吉と出た。そこで遣わせて神を探させると、建岡君は美濃国の花鹿山(はなかのやま)に到り、榊の枝を取り、縵(かづら)を作り、占いして曰く、『私の縵が落ちたところに必ずこの神が居るだろう』と。
 すると縵がひとりでに飛んでいき、この吾縵郷に堕ちた。このことでこの地に神がいることが分かった。そこで社を建てた。この社によって里の名にした。後の人は訛って吾縵里という」

◎縄文語:「アッ・チャ・ラ」=「一方の・岸の・低いところ」⇒google map

 比定地は一宮市の阿豆良神社です。

 縄文語解釈は、他に選択肢もあり、かつ、一般的な形容なので確度については何とも言えません。

□□□「藤木田(はぎた)」命名由来 □□□

×尾張国風土記逸文(『塵袋』)
「昔、尾張国の春部(かすかべ)郡に国造の川瀬連という者が田を作ろうとした時に、一夜にして藤(はぎ)が生えた。怪しみ畏れて、これを切り棄てることもしなかったが、その藤は大きく成長した。ゆえにこの田を藤田という。菅清公卿の尾州記によれば、その藤がだんだん大きな樹となったので、藤木と名づけたという。土地の人は波木田という」

◎縄文語:「パケ・チャ」=「岬の先端の・岸」⇒google map

 比定地は不明ですが、春部郡は後の春日井郡で、春日井郡は現在の春日井市周辺です。

 縄文語解釈は庄内川両岸にある峰の先端とすれば、地勢と完全に一致します。

◆◆◆「遠江国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:遠江=「テューテュ・モィ」=「岬の・入り江」=浜名湖

 浜名湖はもともと入り江でしたが、砂州が伸びて湖となっています。

 近江(淡海)との対比で遠淡海だとする説が一般的ですが、このような漢字表記にこじつけた説が信用できないのは、他の一連の縄文語解釈が示しています。

●近江(淡海) =「アゥ・モィ(orメム)」=「枝分かれた・入り江(or泉)」

 ついでに琵琶湖も。

●琵琶(湖)=「ピ・ワ」=「小石の・岸」

 決して形が琵琶に似ているという由来ではありません。

□□□「白羽村(しるは)」命名由来 □□□

×遠江国風土記逸文(『山下氏系譜』)
「古老が伝えて言う。昔遠江の海辺の相良(あひら)の白羽御牧があった。浜松の海辺まで松原だったが、その松原に野馬が多くいて、毎年捕まえて朝廷に献上していた。ゆえに、牧場の司という役所がある。これに懸塚の白羽山下氏は、昔、筑紫の大友某の末裔であるが、いつの次回か、白羽の司に任じられて、懸塚に居住し、牧場の職掌となった。これをもって世の人は白羽殿といい、ついには村名となった。今、白羽村というのはこれである」

◎縄文語:「シ・パ」=「山(or大地)の・頭(先端)」=御前崎⇒google map

 御前崎市、浜松市に白羽の地名が残ります。

 「白」は「シ・オ=山・裾」の意で各地に現われます。しかし、白羽村の場合は、読みが「しるは」なので、「オ=裾」は省いています。

◆◆◆「駿河国」命名由来 ◆◆◆

×駿河国風土記逸文(『枕詞燭明抄』)
「風土記にいう。国に富士川あり、その水は極めて猛々しく速い。よって駿河国と名づけたという。しかれば、その川が早く波打ちする駿河という意味だろうか」

◎縄文語:「シロケ」=「山のふもと」=富士山のふもと

 縄文語解釈は説明の必要もありません。富士山のふもとという意味です。

□□□不来見」命名由来 □□□

×駿河国風土記逸文(『続歌林良材集』)
「駿河国風土記にいう。庵原(いほはら)郡の不来見(こぬみ)の浜に妻をおいて通う神がいた。その神は常に岩木山を越えて来たが、この山には道を妨げる荒ぶる神がいて、遮って通さなかった。件の神は荒ぶる神のいない間を窺って通った。離れているので通うのは難しかった。女神は、男神を待って岩木山に到り、夜な夜な待つが、待ちかねて男神の名を呼んで叫んだ。よって、そこを名づけて手児呼坂(てこのよびさか)とする。云々。
手児は東の土地の言葉で、女のことをいう。田子浦も手子浦である。
<中略>
『岩木山 たた越きませ 庵崎の 不来見浜に 我立待たむ』
この歌も『万葉集』に入っている。庵崎(いほさき)は庵原である。不来見浜は男神が来ないことにより、このようにいう。云々」

◎縄文語:
・不来見=「コッネ・モィ」=「谷である・入り江」
⇒google map
・手児呼坂=「テューカ/ヨピ・サン・カ」=「峰の上/枝分かれた・出崎(or坂)の・上」⇒google map(薩埵峠)
・田子(浦)=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」
⇒google map

 不来見は静岡市清水区の興津川河口、岩木山は興津川左岸の薩埵山に比定されています。
手児呼坂はいくつかの説があり、薩埵峠、庵原郡蒲原町の七難坂、静岡市手越の盗人坂、富士市の宇東川の坂、清岸寺前の坂、東町の坂があります。(※参考:角川日本地名大辞典)

 縄文語解釈について。
 まず、不来見の「谷」は興津川の縄文語解釈と一致します。

●興津(川)=「オコッ・チャ」=「谷の・岸」

 次に、複数の説がある手児呼坂ですが、これは「手児」と「呼坂」はほぼ同義と捉えることができます。「呼坂=枝分かれた出崎(or坂)の上」の解釈と風土記の内容を考慮すると「薩埵峠」が相応しく見えます。

 田子浦の「タン=こちらの」は各地で数多く使用される言葉です。この「タン」がつくと、比較対象となる同じ地勢が近隣にあるというのは、すでに何度かご紹介しています。この田子浦の場合も、かつて東方には浮島沼がありました。

◆◆◆「伊豆国」命名由来 ◆◆◆

×伊豆国風土記逸文(『鎌倉実記』)
「北畠親房の著述にいう。伊豆別王子(いずわけのみこ)は景行天皇の二十四子、武押分(たけおしわけ)命である。
伊豆風土記にいう。駿河国の伊豆の崎を分け、伊豆国と名づけた。日金岳(ひがねのたけ)には瓊々杵尊の荒神魂(あらみたま)を祀る。
 奥野の神猟(おきののみかり)は、毎年国ごとの役(えだち)である。八牧の幣坐(みてぐら)を構える。狩具(かり)の行い、装いを納めた次第は別図にある。
 推古天皇の世、伊豆と甲斐の間に聖徳太子の領地が多かったので、太子の領地は猟鞍(かりくら)をやめた。
八牧のところどころに、昔は猟鞍の司が山神を祀っていた。幣坐は神坐と名づけた。その旧法は絶えて久しい。夏野の猟鞍は、伊藤、奥野で、年ごとに獲物を追い詰める者と射手を選んで行う。云々」

◎縄文語:「エテュ」=「岬」=伊豆半島

 縄文語解釈は説明の必要もありません。伊都国と同語源で「エテュ=岬」の意。伊豆半島のことです。

◆◆◆「飛騨国」命名由来 ◆◆◆

×飛騨国風土記逸文(『倭漢三才図会』)
「風土記にいう。この国は、もと美濃国に含まれていた。昔、近江の大津に王宮を造営した。時に、この郡より良材を多く出して、馬の駄にして(荷を乗せて)やってきた。その速いことはまるで飛んでいるようだった。よって改めて飛駄という」

◎縄文語:
「ピタ
」=「小石河原(or砂原)」or
「ピ・チャ」=「石の・岸」


 縄文語解釈は、飛騨市を貫流する宮川の岸とすれば地勢と一致します。現在は護岸されているので、当時の様子はあまりうかがえませんが、雰囲気は感じ取ることはできます。⇒googleストリートビュー(宮川の河原)

 常陸国の「ピタル・チャル=小石河原の・川口」に似た命名です。

◆◆◆「信濃国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「シ・ニナ」=「広い・山中の平地」

 長野県の盆地のことです。県下に歌われる「四つの平」です。

□□□「ははき木」命名由来 □□□

×信濃国風土記逸文(『袖中抄』)
「昔、風土記という書を見ましたので、この箒木の由来はだいたい見ましたが、ずいぶんと年月が経ち、はっきりとは覚えていません。件の木は美濃国と信濃国の国境の園原というところにある旅人の宿のところに生えている木です。遠くからは箒を立てたように見えます。近くから見ると、それに似た木はありません。それで、あるように見えて実際には逢えないものを例えていいます」

◎縄文語:「パンパケ」=「川下のところ」=川の合流点⇒google map

 比定地は長野県下伊那郡阿智村智里園原です。
 縄文後解釈は考えるまでもありません。園原川と阿知川の合流点です。



◆◆◆「甲斐国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「カィ」=「折れ波」=笛吹川?or釜無川?

 甲斐の発音に相応しい縄文語は「カィ=折れ波」ぐらいしかありません。川が勢いよく流れる様子を表したのでしょうか。

 ちなみに笛吹川は、いわゆる「笛を吹く」ではなく、

●笛吹=「プケ」=「ゴボゴボと水が涌き出るところ」

 の意だと思います。尾張氏族の笛吹連も、その祖は健多乎利(筆者比定=天香山)で、葛城高尾張から尾張に移り住んでいる可能性があります。葛城高尾張、尾張、いずれにしても、水が涌き出るような地勢です。


□□□「菊花山」命名由来 □□□

×甲斐国風土記逸文(『夫木和歌抄』)
「雲のうへに 菊ほりうえて 甲斐国鶴の郡を うつしてそみる
 この歌の注にいう。風土記に、甲斐国鶴郡にある菊花山がある。その山から流れ出る水は菊を洗っている。その水を飲む人は、鶴のように長命になる。云々」

◎縄文語:菊花(山)=「キケ」=「村に近い山のところ」⇒google map

 また、鶴郡は、

●鶴郡=「チ」=「水のしたたり」

 の意です。


日出ずる国のエラーコラム
第八十三回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~伊勢国編~
【今回取り上げる内容】
<伊勢国>
度会郡/宇治郷/度会・佐古久志呂宇治/五十鈴/服機社/麻績郷

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「伊勢国」命名由来1 ◆◆◆

×伊勢国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「伊勢国の風土記にいう。伊勢国は天御中主(あめのみなかぬし)尊の十二世の孫、天日別(あめのひわけ)命の平げたところである。
 天日別命は、神倭磐餘彦の天皇(神武天皇)、日向の西の宮よりこの東国を征伐した時、天皇に随って紀伊国の熊野村に到った。時に、金の烏の導きによってに中州(なかつくに)に入り、菟田の下県(しもつあがた)に到った。
天皇は大部(おほとも)の日臣命に『逆らう黨(ともがら)、胆駒(いこま)の長髄を早く征伐せよ』と勅命を下し、また、天日別命に勅して『天津の方に国がある。その国を平げよ」と仰った。そして将軍の剣を与えた。
 天日別命は勅命に従い、数百里東へ進んだ。 その邑に神がいて、名を伊勢津彦といった。天日別命は『汝の国を天孫に献上するか』と問うと、『私はこの国を探し出し、長いあいだ居住している。その命を聞くことはできない』と答えた。
 天日別命は兵を起こしてその神を殺そうとした。その時、伊勢津彦が畏み伏して『我が国はことごとくに天孫に献上します。私は敢えてここに居ることもありません』と言った。天日別命は『汝の去る時には、何か証拠を残せ』と言った。伊勢津彦は『私は今夜を以って八風を起して海水を吹き、波浪に乗って東に入ります。これはすなわち私が去った証拠です』と言った。
 天日別命が兵を整えてこれを窺った。すると、夜中に大風が起こり、波が高く打ち上がり、日の如く光り耀いて、陸も海も明るくなり、神は遂に波に乗って東に去っていった。
 古語に、神風の伊勢の国、常世の浪寄せる国というのは、思うに、このことをいうのである。伊勢津彦の神は、近く信濃国に住んだという。
 天日別命はこの国を手懐けて天皇に復命した。天皇はたいへん歓び、「国はほどよく国神の名を取って、伊勢と名づけるべし」と仰った。そして、天日別命の封地とし、宅地を大倭の耳梨の村に与えた。
 ある本では、天日別命は詔を奉り、熊野村より直に伊勢国に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろわぬものを罰して平らげ、山川を境に地邑を定めた。そうして後、橿原の宮に復命したという」

◎縄文語:
・伊勢=「イソ」=「磯」
⇒google map
・伊勢津(彦)=「イソ・チャ(シ・ク)」=「磯の・岸(大きな・人=太夫)」

 比定地はもちろん伊勢です。風土記は記紀を下敷きに物語を創作したのでしょう。

 神武天皇は実在しません。第十代崇神天皇をモチーフに創作された人物です。長髄彦は活馬(=生駒=邪馬台国の役職の「伊支馬」)長砂彦で第八代孝元天皇のことです。邪馬台国の卑弥呼は長髄彦の妹の三炊屋媛で、孝元天皇の妹の倭迹迹日百襲姫です。(※第十六回コラム参照)

 伊勢津彦が実在したとするならば、邪馬台国を攻め滅ぼした崇神天皇の時代のこととなります。神武天皇の事績は崇神天皇の事績ですから、長髄彦と卑弥呼の邪馬台国を攻め滅ぼした後に、伊勢国にも侵攻したのかもしれません。

 伊勢の縄文語解釈は、後述する「志摩=スマ=岩」とも完全に一致しています。

 また、伊勢神宮と関わりの深いとされる「太一信仰(北極星信仰)」ですが、これも縄文語解釈すれば、北極星ではなく、

●太一=「タ・エテュ」=「石の・岬」=伊勢志摩の岬

 ということになります。縄文語に適当な漢字を充てた結果、中国由来の信仰に化けてしまったのではないでしょうか。日本の神の多くの成り立ちはこのような適当なものです。何度も言っていますが、筆者の見解では、天照大神は銅鐸の神で、太陽神ではありません。伊勢神宮は、伊勢志摩の岩礁の自然崇拝とした方がまったく説得力があります。

 以下、神様の解釈例ですが、挙げればキリがありません。

・天照大神=「ウ・マィ・エ・タ」=「互いに・響く金属音・で・踊る」=銅鐸祭祀の神
・八幡大神=「ペッチャ」=「川端」
・稲荷神=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」=伏見の稲荷山の祭場
・狐=「クテュニン」=「岩の段々の崖」=伏見の稲荷山の地勢
・カグツチ=「カッ・ク・テューテュ」=「形が・弓の・岬」=京都の愛宕山の地勢
・愛宕=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or峰の端の突起部)」=愛宕山の地勢
・金刀比羅=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」=金刀比羅宮の象頭山の地勢

◆◆◆「伊勢国」命名由来2 ◆◆◆

×伊勢国風土記逸文(『日本書紀私見聞』)
「伊勢国の風土記にいう。伊勢と云うのは伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子の出雲建子(いずもたけこ)命、又の名は伊勢都彦(いせつひこ)命、又の名は天櫛玉命という。
この神は、昔、石で城を築き、ここに鎮座していた。そこに安倍志彦の神がやってきたが、戦って勝てずに去った。よってこの名とした」

 縄文語解釈は前項と同じです。

●伊勢=「イソ」=「磯」

 ですから、風土記の「石で城を築き」というのも何かしらのつながりがあるかもしれません。

□□□「的形浦」命名由来 □□□

×伊勢国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「風土記にいう。的形の浦は、この浦の地形が的に似ている。よって名とした。今はすでに渚は入り江になっている。天皇が浜辺に行幸して歌った。
ますらをの 猟矢(さつや)たばさみ 向ひ立ち 射るや的形 濱のさやけさ」

◎縄文語:「マーテュ・カ・タ」=「波打ち際の・ほとりの・方」⇒google map

 比定地は松阪市黒部周辺です。

 縄文語解釈の「マーテュ=波打ち際」は各地の地名で用いられる非常に確度の高い縄文語解釈です。

 風土記は言うまでもなくデタラメです。

【参考】「マーテュ」の解釈が可能な各地の古墳 ※第七十回コラムより引用
◎馬塚古墳(水戸市/円墳)⇒google map
=「マーテュ・カ」=「波打ち際の・ほとり」
※那珂川のほとり。
◎枡塚古墳(京都府京丹後市/5世紀中頃/方墳)⇒google map
=「マーテュ・テュ」=「波打ち際の屈曲したところの・小山」
※日本海を望む段丘に築造。
◎マンジュウ古墳(兵庫県加西市/古墳時代中期/帆立貝形古墳)⇒google map
=「マーテュ」=「波打ち際の屈曲したところ」
※ため池の際に築造。
◎爺ヶ松古墳(香川県坂出市/古墳時代前期/前方後円墳)⇒google map
=「テューテュ・マーテュ」=「岬の・波打ち際の屈曲したところ」
※峰に挟まれた池畔。
◎相作馬塚古墳(香川県高松市/5世紀後半)⇒google map
※池畔。
◎万塚古墳(香川県高松市/6世紀)⇒google map
=「マーテュ・カ」=「波打ち際の屈曲したところの・ほとり」
※平池の南岸に築造。
◎岡田万塚古墳群(香川県丸亀市/古墳時代中期)⇒google map
※池畔。

■■■「度会郡」命名由来 ■■■

×伊勢国風土記逸文(『倭姫命世記』裏書)
「風土記にいう。度会郡と名づけた由縁は、神武天皇が天日別命に命じて、良い国を求めさせると、度会の賀利佐の峯に煙が立っていた。天日別命はそれを見て「ここに長(土地神)はいるか」と言い、使いを遣った。使いが戻ってきて「大国主の神がいます」と報告した。   
 賀利佐に到ると、大国主神は使いを天日別命に遣ってお迎え申し上げた。橋を造らせたが、完成しなかったので、天日別命は梓弓を橋として渡った。ここに大国主命は弥豆佐々良姫(みづきさちひめ)命を献上するために参上した。弥豆佐々良姫命は土橋郷の岡本邑で天日別命をお迎え申し上げた。天日別命は国見に出て、弥豆佐々良姫命と会った。そして『川を渡ってよい娘と出会った』と言った。よって土地の名とした」

◎縄文語:「ワッタ・ラィイ」=「淵が・死んでいるところ」=淵が淀んで流れていないところ
伊勢神宮外宮の池沼郡
⇒google map

 賀利佐の峯の比定地は伊勢神宮外宮の高倉山と言われています。

 縄文語解釈は、発音、地勢ともに完璧です。アイヌ語の「ラィ=死んでいる」は、地勢で言えば、古い川が淀んで流れていないような状態を表します。これ以上ない命名です。伊勢神宮外宮の池沼群を指しています。

 風土記の内容はもちろんデタラメですが、大国主が登場しているのが少々気になります。

 筆者は大国主を邪馬台国(第七代孝霊天皇、倭迹迹日百襲姫の親子=フツヌシ神と卑弥呼)以前にヤマトを治めていた、第三代安寧天皇に比定していますので、伊勢国は当時からその勢力圏だったということになります。
大国主を出雲の神だと捉えると伊勢国はだいぶ遠くなりますが、ヤマトであれば、地勢上も不自然ではありません。

 風土記の内容に信憑性があればという条件つきですが。

■■■「宇治郷」命名由来 ■■■

×伊勢国風土記逸文(『伊勢二所太神宮神名秘書』)
「風土記にいう。宇治郷は、伊勢国の度会郡の宇治村の五十鈴川の川上に宮社を造り、太神(天照大神)を齋き奉った。これにより宇治郷を内の郷とする。今は宇治の二字を以って郷の名とする。云々」

◎縄文語:「ウテュ」=「間」=両側を山に挟まれた地形⇒google map

 比定地は伊勢神宮内宮の門前町である宇治です。

 縄文語解釈は考えるまでもありません。両側を山に挟まれた地形です。

●宇智郡(現五條市)=「ウテュ」=「間」⇒google map
●近内(五條市)=「テュ・ウテュ」=「小山の・間」⇒google map
●烏土塚古墳
(奈良県生駒郡/6世紀中葉/前方後円墳)=「ウテュ・テュ」=「間の・小山」⇒google map
宇治(京都府)=「ウテュ」=「間」⇒google map
●塩尻(長野県塩尻市)=「シ・ウテュ」=「山の・間」
⇒google map
●塩尻(長野県上田市)=「シ・ウテュ」=「山の・間」⇒google map

□□□「度会/佐古久志呂宇治(さこくしろうぢ)」命名由来 □□□

×伊勢国風土記逸文(『伊勢二所太神宮神名秘書』)
「風土記にいう。度会と名づけたのは、川の名に由来するだけである。五十鈴は、神風の百船(ももふね)の度会県、佐古久志呂宇治の五十鈴の河上という。これらは皆、古語をもって名づけている。百船は百艘の御船を神に献上したものである。佐古久志呂は川の水が流れ通って底に通じるという意味である。云々」

◎縄文語:
・佐古久志呂宇治
=「サッコッ・クッチャロ/ウテュ」=「枯れた谷の・入口/(山の)間」=五十鈴川の谷の入口
⇒google map

 度会の比定地は伊勢の宮川、五十鈴川は現在も五十鈴川と呼ばれています。

 縄文語解釈では「佐古久志呂=枯れた谷の入口」ですから、五十鈴川、あるいはその支流の谷を指したとすれば地勢と一致します。

□□□「五十鈴」命名由来 □□□

×伊勢国風土記逸文(『伊勢二所太神宮神名秘書』)
「五十鈴との由来は、風土記で言われている。この日、八小男(やをとこ)と八小女(やをとめ)らがここで逢い、泗樹き(いすすき=気持ちが落ち着かない様)、交わったからである。よってこれを名とした。云々」

◎縄文語:「イソ・チャ」=「磯の・岸」⇒google map

 江戸中期の伊勢貞丈は、五十鈴が伊勢津彦からの命名だと指摘しています。

 筆者も同語源だと考えますが、「五十鈴=伊勢志摩の磯」だとすれば、普通に考えて地名の方が先です。

 また、宮崎県にも五十鈴川がありますが、これを伊勢津彦由来だとする訳にはいきません。宮崎県の五十鈴川もまた、「磯の川」由来です。極めて確度の高い縄文語解釈です。

●五十鈴川(宮崎県)=「イソ・チャ(川)」=「磯の・岸(の川)」⇒google map

□□□「服機社」命名由来 □□□

×伊勢国風土記逸文(『倭姫命世紀』)
「神服機殿(かむはとりどの)。倭姫(やまとひめ)命は飯野の高丘宮(いひののたかをかのみや)にお入りになった。機屋を作り、天照大神の御衣を織った。それから高丘宮より磯宮にお移りになった。そして社をその地に建てた。名づけて服織社という」

◎縄文語:「ハッタ(=ワッタ)」=「淵」⇒google map

 比定地は松坂市の大明神山の説があります。

 ちょうど櫛田川が折れ曲がっているところで、深い淵になっています。⇒googleストリートビュー

■■■「麻績郷(をみ)」命名由来 ■■■

×伊勢国風土記逸文(『倭姫命世紀』)
「麻績郷と名づけたのは、郡の北に神がいて、この神が天照大神の宮に荒妙の衣(あらたへのみそ=麻の衣)を奉った。神麻績(かむをみ)の氏人らは、分かれてこの村に居住した。よって名とした」

◎縄文語:「オ・ウン・メ」=「川尻・にある・泉」⇒google map

 比定地は多気郡明和町付近です。

 明和町は櫛田川と宮川に挟まれた河口付近で、齋宮のハナショウブ群落が有名です。現在では範囲が狭くなりましたが、明治期までは一面の湿原だったようです。縄文語解釈と完全に地勢が一致しています。

 また、明和町と、宮川を縄文語解釈しても、ピタリと辻褄が合います。

●明和(町)=「メ・ワ」=「泉の・岸」
●宮(川)=「メ・ヤ」=「泉の・岸」

◆◆◆「志摩国」命名由来 ◆◆◆

●志摩=「スマ」=「岩、石」

 つまり、伊勢志摩とは「磯の岩、石」という意味になります。



日出ずる国のエラーコラム
第八十二回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~伊賀国/若狭国/丹後国編~
【今回取り上げる内容】
<伊賀国>
唐琴
<若狭国>
<丹後国>
丹波/奈具社/与佐郡/凡海/常世嶋
※「天橋立」については第四十四回コラム「丹後丹波の古墳の縄文語解釈、天橋立は天に通じるハシゴではない!」をご参照ください。

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「伊賀国」命名由来1 ◆◆◆

×伊賀国風土記逸文(『万葉緯』)
「伊賀国の風土記。伊賀国は、昔、伊勢国に含まれていた。孝霊天皇の六十三年に分割して伊賀国とした。伊賀津媛の領有する郡だったので郡の名とし、また国の名とした。
 西は高師川、東は家富の唐岡、北は篠獄、南は中山が境界だった。土地は中くらいに肥えていて、民は山や川によって生活することができた。樹木は中くらいの材。有名な石、珍しい禽獣、鳥がとれる」

◎縄文語:「エンコ」=「岬」⇒google map

 比定地は言うまでもなく伊賀市です。

 縄文語解釈も考えるまでもありません。岬のある土地という意味です。

◆◆◆「伊賀国」命名由来2 ◆◆◆

×伊賀国風土記逸文(『万葉緯』)
「伊賀の国の風土記。伊賀郡。猿田彦の神、はじめこの国は伊勢の加佐波夜(かざはや)国に属していた。二十余万年の間此の国を領していた。
 猿田彦の神の娘、吾娥津媛命は天照大神が天上から投げ降された三種の宝器のうち、金の鈴を守っておられた。その守られた齋(いはひ)の処を加志之和都賀野(かしのわつかの)という。今、手柏野(たかしはの)というのは、それを誤っているのである。
 また、この神の守られる国なので、吾娥の郡といった。その後、天武天皇の時、吾娥の郡を分けて国の名とした。国の名の定まらぬ期間は十余年だった。これを加羅具似(からくに)というのは虚国の意味である。のち、伊賀と改めた。吾娥の音の転じたものである。伊賀の郡はその中の一つである。
 この国のうち、この郡は、土地が乾いていて小川が多い。その川のすべての名を名づけて、久禮奈美之登利須須杵(くれはのとりすすき)川という。この国は、昔、呉服(くれは)君が衣を濯いだことを由来とする。この川は、年魚および鮭など多くの魚が獲れる。今、また内膳司に献上している」

◎縄文語:
・手柏野=「タオ・カ・ワ・アン・ノッ」=「川沿いの高所の・上・に・ある・岬」

吾娥=「アケ」=「片割れのところ」
・加羅具似=「カンナ・コッネ・イ」=「上にある・窪地の・ところ」=唐琴(次項)
=木津川上流か
久禮奈美之登利須須杵=「コッネ・ヌ・ウン・ノッ/トライ・テューテュ」=「窪地の・原・にある・岬/湿地の・岬」
⇒google map(「伊賀市東部や中央部の高台の湿地群」か)


 風土記逸文の内容はまったくあてになりません。天照大神は奇稲田姫の別名で、漢字語呂合わせの太陽神ではなく、銅鐸祭祀のことです。銅鐸祭祀をした説のある物部氏の神祖、二ギハヤヒの名も、先代旧事本紀の正式名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)です。※第二十四回コラム参照

 しかも、日本神話が欠史八代の事績を基に創作された物語であることを前提とすると、スサノオ(筆者比定:帥升)の妻でもある天照大神は西暦100年前後の人物で、その孫とされるニニギを道案内したのが猿田彦ですから、猿田彦は必然的に2世紀中頃の人物ということになります。
 二十万年という内容は言うまでもなくまったくのデタラメですが、風土記の時代の人々も昔の資料に書かれている内容が皆目理解できなかったのかもしれません。

 縄文語解釈では、「吾娥」以外は、古琵琶湖の名残ともとれる伊賀市東部や中央部の「高台の湿地群」を指したものと解釈することができます。
 伊賀は古琵琶湖発祥の地と考えられていて、丘陵地に湿地が群在しています。縄文語解釈と完全に一致しています。
 次項の「唐琴」も同様に解釈できます。

□□□「唐琴」命名由来 □□□

×伊賀国風土記逸文(『毘沙門堂本古今集註』)
「カラコトゝ云所ハ、伊賀国ニアリ。彼国ノ風土記云、大和・伊賀ノ堺ニ河アリ。中嶋ノ辺ニ神女常ニ来テ琴ヲ皷ス。人恠テ見之、神女琴ヲ捨テウセヌ。此琴ヲ神トイハヘリ。故ニ其所ヲ号シテカラコトゝ云也。 (毘沙門堂本古今集註)」

◎縄文語:「カンナ・コッ・チャ」=「上にある・窪地の・岸」⇒google map

 比定地は不明ですが、前項同様、丘陵地帯の湿地を指したものと思われます。

◆◆◆「若狭国」命名由来 ◆◆◆

×若狭国風土記逸文(『倭漢三才図会』)
「風土記にいう。昔、この国に男と女がいた。夫婦となり、ともに長生きした。人々は、その年齢を知らなかった。容貌(かほかたち)は若く、少年のようだった。のち、神となった。今、一宮(若狭比古神社)の神がこれである。よって若狭の国という。云々」

◎縄文語:
「ウェン・ケィ・サ」=「険しい・岬の・浜」
google map

 縄文語解釈は少々自信がありません。

◆◆◆「丹後国」命名由来 ◆◆◆

×丹後国風土記逸文(『海部氏勘注系図』)
「丹後国は、もとは丹波国と合わせて一つの国だった。元明天皇が治めていた時、詔して丹波国を五つの郡に分割し、丹波国を置いた。
 丹波と名づけた所以は、昔、豊宇気大神がこの国の伊去奈子嶽(いさなこのだけ)に天降った時、天道日女命(あめのみちひめ)らが五穀の種や桑蚕を請うた。そして、その嶽に真名井を掘り、その水を水田や陸田にそそいで悉く種を植えた。
 大神はこれをみて大変喜んで詔した。
『阿那迩恵志田(あなにえした)、植弥之与田庭』
 こうして後に大神は高天原に登って行った。故に田庭という。丹波、もとの字は田庭。多爾波と訓む。当国の風土記にある」

◎縄文語:丹波=「タン・パ」=「こちら岸」google map

 縄文語解釈は一般的すぎて、どこを指したのか不明ですが、旧丹波国には現在の「綾部市」、隣国但馬国には「養父市」が含まれるので、この周辺を指したのかもしれません。

●養父=「ヤン・ぺ」=「岸にある・ところ」
●綾部=「ア・ヤン・ペ」=「一方の・岸にある・ところ」


□□□「天橋立」命名由来 □□□
※天橋立についてはすでに取り上げています。第四十四回コラム「丹後丹波の古墳の縄文語解釈、天橋立は天に通じるハシゴではない!」をご参照ください。

□□□「奈具社」命名由来 □□□

×丹後国風土記逸文(『古事記裏書』『元元集』)
「丹後国風土記にいう。丹後国丹波郡。郡の西北の隅の方に比治里がある。この里の比治山の頂に真奈井(まない)という泉があった。今はすでに沼となっている。この泉に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていた。
そこに老夫婦がいた。和奈佐(わなさ)の老夫、和奈佐の老婦といった。老夫婦はこの泉にきて、ひそかに天女一人の衣裳を取って隠してしまった。
 やがて衣裳のある天女たちは皆天へと飛んでいった。ただ、衣裳委のない娘一人はとどまり、水に体を隠して、恥じらっていた。そこで老夫は言った。
『私には子供がいない。願わくは、天女よ、あなたは私の子になってもらえないだろうか』
 天女は答えて言う。
『私一人だけ人間界にとどまり、どうして従わないでいられましょう。願わくは、衣裳を返していただけないでしょうか」と答えた。
 老夫は言う。
『天女よ、どうにかして私たちを欺く心があるだろう』
 天女は言う。
『天の者の心には信が元にあります。どうして疑う心を多く持ち、羽衣を返してもらえないのでしょう』
 老夫が答えて
『疑いが多く、信がないのは人の世の常です。ゆえに、この心をもって返すまいと思ってしまった』
 と言い、ついに天女に衣裳を返した。そして夫婦の家へ帰り、十年余り一緒に暮らした。

天女は酒を醸すのが上手だった。一杯飲めば、すべての病気が治った。その一杯で得られた財は車で老夫婦に送った。その家は豊かになり、土地も豊かとなった。ゆえに土形(ひぢかた)の里といった。これが今に至り、比治里というようになった。
 のち、老夫婦は天女にいう。
『お前は私たちの子ではない。しばらく仮に住んだだけだ。早く出て行け』
 ここに天女は天を仰いで嘆き、地に伏せて悲しみ、
『私は私自身の心でここに来たのではありません。これはあなた方が願ったことです。なぜ厭う心を生じて、出て行けとひどいことを言われるのですか』
 と言った。
 老夫はますます怒り、出て行くことを願った。天女は涙を流して門の外に出て、郷の者に言った。
『長く人の世にいたので天へ還ることもできません。また親しい間柄の者もなく、ここにとどまる方法もありません。どうしましょう、どうしましょう』
 といい、涙を拭って嘆き、天を仰いで歌を詠んだ。
『天の原 ふり放(さ)け見れば 霞立ち家路まどひて 行方知らずも』
 ついにこの地を離れ荒塩の村に至り、村人らに言った。
『老夫婦の心を思えば、私の心は荒塩と異なることがありません』
 よって比治の荒塩村という。
 また丹波里の哭木(なきき)村に至り、槻の木に凭れて泣いた。ゆえに哭木村という。
 また竹野郡船木里の奈具村に至り、村人に言った。
『ここで、私の心はなぐしくなりました(穏やかになりました))
 そして、この村に住むようになった。
 これはいわゆる竹野の郡の奈具の社に奉られている豊宇賀能賣命(とようかのひめのみこと)である。」

◎縄文語:
・比治(里)=「ペッチャ」=「川端」
⇒google map
・哭木(村)=「ナィカ」=「川端」⇒google map
・船木(里)=「ペナケ」=「川上のところ」⇒google map
・奈具(村)=「ナィ・ケィェ」=「川の・頭(上流)」⇒google map

 比定地は「比治里」が「比沼麻奈為神社」、「哭木村」が「峰山町内記」、「船木里奈具村」が「弥栄町船木」です。
 縄文語解釈と地勢がいずれも一致しています。「船=ペナ=川上」は各地の地名に見られる極めて確度の高い縄文語解釈です。ここでは、ほかの一連の地名とも整合性がとれています。

 比治山は現在の磯砂山(いさなごさん)ですが、鯨の古名である「いさな」に似ているからという説があるようですが、縄文語解釈ではまったく異なります 。

●磯砂山=「エサンノッケ」=「岬のところ」

 単なる「山」という意味ですが、「目立つ山」という意味合いだと思います。

 風土記記載の羽衣伝説はもちろん創作ですが、記紀や風土記に記載のこのような物語は、本来の縄文語の意味を理解できずに書いたか、あるいは、縄文語の存在を知っていて敢えてそれを無視して書いたかのいずれかです。いずれにし ても、その目的はヤマト王権の支配の正当化です。

■■■「与佐郡」命名由来 ■■■

×丹後国風土記逸文(『海部氏勘注系図』)
「今、比治の真名井というのはなまったのである。この時、磐境(いはさか)の傍に天の吉葛(よしづら)が生えていた。天香語山命はその匏(ヨサ)を採り、真名井の清水を汲み、神饌をしつらえて、厳かに大神を祭った。ゆえに、匏宮という。また久浜宮ともいう。これがこの郡に匏と名づけた所以である。風土記にある」

◎縄文語:
「イェ・チャ(orサ)」=「岩の・岸(or浜)」
google map

 比定地は言うまでもなく与謝郡です。現在は南北に離れていますが、その間の地域も含まれます。

 「与謝」は地元では「よざ」と呼ばれることが多いようなので、縄文語「チャ=岸」の発音により近いということになります。丹後半島の海岸のことです。

□□□「凡海(おほしあま)」命名由来 □□□

×丹後国風土記逸文(『海部氏勘注系図』)
「それを凡海と名づけた所以は、古老が伝えて曰く、昔、天下を治めた大穴持神(大国主神)と少彦名神がこの地に到り、鎮座していた時、海中の大嶋、小嶋を引き集めた。十の小嶋をもって一つの大嶋とした。名づけて凡海という。当国風土記にある」

◎縄文語:「オオホ・シアン・マ」=「深く・大きな・谷川」=由良川google map

 比定地は由良川河口と大浦半島の西部です。
 この周辺に多くの島があったとは考えられないので、風土記の内容は「おほしあま」の語尾が「しま(島)」と聞こえることから、こじつけ創作されたとするのが妥当です。

 縄文語解釈は由良川とも舞鶴湾ともとれます。

□□□「常世嶋」命名由来 □□□

×丹後国風土記逸文(『海部氏勘注系図』)
「時に、大宝元年三月己亥、当国に地震があり、三月間やまなかった。この嶋は一夜にして蒼茫たる海となった。かろうじて高い山であった二つの峰が、神岩として海上に残った。今、常世嶋と名づけている。また、俗に、男嶋(ひこじま)、女嶋(ひめじま)と称す。嶋ごとに神の祠がある。祭るのは、彦火明命と日子郎女神である。当国の風土記にあり」

◎縄文語:「ト・イェ」=「突起した・岩」google map

 比定地は老人嶋神社のある冠島と沓島(google map)です。

 いずれにしても「突起した岩」そのままの地勢です。


日出ずる国のエラーコラム
第八十一回 風土記逸文のウソを徹底的に暴く!~摂津国~
【今回取り上げる内容】
<摂津国>
住吉/夢野/有馬温泉・塩之湯/比売嶋/美奴売/広田・御前・兵庫・八幡/籤稲村/御魚家/味耜山/形江/吹江

※「×」=風土記要約、「◎」=縄文語解釈

◆◆◆「摂津国」命名由来 ◆◆◆

◎縄文語:「セ・チャ」=「広い・岸」

 「つのくに」の読みであっても、「セ=広い」が消えただけです。

□□□「住吉」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『釈日本紀』)
「摂津国風土記にいう。住吉というわけは、昔、神功皇后の世に住吉大神が出現して、天下を巡行し、住むべき国を探し求めた。その時、沼名椋(ぬなくら)の長岡の前(さき)に到り、「ここはまことに住むべきよい土地だ」と言った。褒め称えて『真住吉(ますみえ)し住吉(すみのえ)の国』言った。そして、神の社をお定めた。
 今の人は略して『須美乃叡』(すみのえ)と称する」

◎縄文語:「スマ・ノッ・ヘ(orエ)」=「岩の・岬の・頭」

 これは、大阪の住吉大社のことではなく、兵庫県神戸市の本住吉大社のことです。

 住吉については、すでに第三十九回コラムで紹介していますので、抜粋して再掲します。

▼以下、第三十九回コラム「住吉三神と六甲山」より抜粋

<日本書紀要約>「神功皇后は忍熊王が待ち構えているのを聞いて、<中略>難波に向かったが、船がぐるぐる回って進まなかった。務古水門(武庫の港)に還って占った。<中略>表筒男、中筒男、底筒男の和魂を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀ると、無事海を渡ることができた」

 この住吉三神がどのような神かと言えば、



<日本書紀要約>「イザナギが黄泉の国でイザナミと別れた帰り、筑紫で禊ぎした際に、水の底で底筒男命、潮の中で筒男命、潮の上で表筒男命が生まれた」


 ということで、広く「航海の神」「豊漁の神」として信仰されています。
住吉三神を縄文語解釈します。

●底筒男=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻」
 =滝のたくさんある出崎のふもと
●中筒男=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻」
 =断層谷のある出崎のふもと
●表筒男=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻」
 =岩崖の出崎のふもと

 つまり、これらはすべて、有馬四十八滝、蓬莱峡、地獄谷、芦屋ロックガーデンや須磨アルプスを有する「六甲山のふもと」ということを言っているのだと思われます。

 そして、肝心の六甲山を解釈してみます。通説では、「六児/無古/武庫/務古/牟古」等が、「六甲」に転訛したとされていますが、縄文語解釈では、まったく逆の結果となります。
 以下、縄文語解釈。


●六甲山=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山
⇒google写真検索

 となります。
 地勢を見ると、もともとの発音は「ルッケイ」で、それが「ムッケイ」「ムッコー」「ムコ」に転訛したのではないでしょうか。

 さらに傍証。六甲山のかつての別名「向津峰」の縄文語解釈。


●向津峰=「ムイェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」


 これも同じ意味です。

 つまり、住吉三神は海の神様などではなく、六甲山の自然崇拝だということになります。大阪の住吉大社が住吉三神の出所にはなりえない理由はここにあります。

□□□「夢野」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『釈日本紀』)
「摂津国風土記にいう。雄伴の郡に夢野がある。代々伝えていう。者、刀我野に牡鹿がいた。その正妻の牝鹿はこの野にいて、妾の牝鹿は淡路国の野嶋にいた。牡鹿はたびたび野嶋に行って、妾と愛し合うことこの上ない。そのような状況で、牡鹿が正妻の所で泊った。明くる朝、牡鹿は正妻に語った。
『昨晩夢を見た。私の背に雪が降り積もっていた。また、すすきが生えた。この夢は何の前触れなのか』
 正妻は夫がまた妾の所に向かうことを嫌って、偽りの夢判断を言った。
『背の上に草が生えるのは、矢で背が射られる前兆です。また、雪が積もるのは、食用肉となって塩を塗られる前兆です。あなたが淡路の野嶋に渡れば、必ず船人に遇って、海中に射殺されるでしょう。二度と行ってはいけません』
 牡鹿は妾への思いに勝てず、また野嶋に渡った。すると、海中で船に遇い、ついに射殺されてしまった。ゆえにこの野を名づけて夢野という。俗説にいう、『刀我野に立てる立派な牡鹿も、夢判断のまにまに』」

◎縄文語:「ユ・メナ」=「温泉の・上流の細い枝川」=湊山温泉のある天王谷川⇒google map

 比定地は神戸市兵庫区夢野町です。

 極めて確度の高い縄文語解釈です。夢野町の東には天王谷川が流れ、川端には平安時代から続く湊山温泉があります。周辺には他にも温泉があるので、比定地の夢野町に近い方にも存在したのかもしれません。

 縄文語解釈が妥当だとすれば、温泉の歴史はさらに遡ることになります。言うまでも無く、鹿の由来ではありません。

□□□「有馬温泉/塩之湯」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『釈日本紀』)
「摂津国風土記にいう。有馬郡。塩之原山がある。この山の近くに塩の湯がある。この湯が麓にあるので名とした。久牟知川。山によって名とした。もとの山の名は功地山(くうちやま)。
 昔、孝徳天皇の世、塩の湯に行幸したいと思い、温泉に行宮を設けた。久牟知山で採った木材は大変美麗だった。そこで勅して『この山は功のある山だ』と仰った。よって功地山と名づけた。土地の人は、誤って久牟知山という。
 また、別伝に言う。『初めて塩の湯を見ることができた』と。土地の人は言う。『この言葉がいつの天皇の世のことか分からない。ただ、蘇我の馬子の時のことだとは知っている』と」

◎縄文語:
・有馬=「ア・マ」=「一方の・谷川」
⇒google map
・塩(の湯)=「シ・オ」=「山・裾」=有馬温泉
・久牟知=「クマ・チャ」=「平山の・岸」
⇒googleストリートビュー(旧公智神社比定地)

 比定地は有馬温泉です。久牟知山の比定地は旧公智神社が建っていたとされる西宮市北六甲台天上公園付近とされています。

 縄文語解釈は、すべて齟齬はありません。有馬温泉は、「山裾の谷川沿いの温泉」です。
 風土記には、「その麓に塩の湯があることによって、塩之原山という名前にした」とあります。縄文語解釈の「シ・オ=塩=山の・裾」の解釈とも完全に一致しています。

 この「シ・オ=山の・裾」は、これまで、古墳名、地名で何度も登場しています。「塩」「親王」「新皇」「将」「城」「白」などの漢字が充てられています。

 これも繰り返しになりますが、もっとも分かりやすいのが、因幡の白兎です。

●白兎=「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜の・ところ」=白兎海岸⇒google map

 これは間違いなく「白兎海岸」のことです。白兎海岸は峰の先端にある浜です。極めて確度の高い縄文語解釈です。

 「久牟知=クマ・チャ=平山の・岸」も有馬川東岸の高台を指しています。「功のある山」などという由来が単なる創作であることが分かります。

□□□「比売嶋」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「摂津国の風土記にいう、比売嶋の松原。応神天皇の世に、新羅の国に女神がいた。夫からのがれて来て、しばらく筑紫国の伊波比の比売嶋にいた。そこでいうには『この嶋はこれでもまだ遠いとはいえない。もしこの嶋にいれば、男神が尋ねて来るだろう』と。それでまた移って来てついにこの嶋にとどまった。ゆえに、もと住んでいた土地の名をとってこの嶋の名とした」

◎縄文語:「プッ・ムィ(=モィ)」=「川口の・入り江」

 比定地は大阪市西淀川区姫島周辺です。姫嶋神社が建ちます。

 縄文語解釈では、魏志倭人伝に登場する不弥国と同じ解釈にしてみました。アイヌ語の「モィ=入り江」は、内陸の同様の地形も指すので、例えば「プッ=川口」や「トー=海」などがついた方が分かりやすくなります。海が内陸まで入り込んでいた当時は、不弥国も遠賀川の河口だった可能性があります。

 また、大分県の国東半島沖に浮かぶ姫島は、以下のような解釈になります。

●姫嶋(筑紫国)=「ピ・ムィ(=モィ)」=「石の・入り江」
⇒google map(浮洲)
⇒googleストリートビュー(浮洲)

 浮洲(入り江の石の洲)の地勢と完全に一致しています。

□□□「美奴売」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『万葉集註釈』)
「摂津国風土記にいう。美奴売の松原。今、美奴売(みぬめ)というのは神の名である。その神は能勢郡の美奴売山に居て、昔、神功皇后が筑紫国に下る時、諸々の神を川辺郡の神前(かむざき)の松原に集めて出征の成功を祈願した。 その時、この神もやってきて、『私もまた護り助けよう』と言った。すなわち諭して曰く、『われが住むところの山に杉の木がある。それを伐採してわがために船を造るべし。すなわちこの船に乗って行幸すべし。まさに幸福があるだろう』と。神功皇后は、神の教えのままに命を下し、船を造らせた。この神の船は、ついに新羅を征伐した。
 新羅から帰った時、この神をこの浦に祀り、併せて船も留めて神に奉った。この地を美奴売と名づけた」

◎縄文語:「ピ・ネ・ムィ(=モィ)」=「小石・の・入り江」


 比定地は神戸市灘区岩屋中町にある敏馬(みぬめ)神社です。

 この神社の東方には西求塚古墳(にしもとめづか/3世紀後半/前方後円墳)、処女塚古墳(おとめづか/4世紀前半/前方後円墳)、東求塚古墳(4世紀後半/前方後円墳)があります。これらの古墳には「菟原処女(うないおとめ)をめぐって二人の男が争い、娘が悲しんで自ら命を絶った」という悲恋伝説がありますが、そもそもそれぞれ築造年代がそれぞれ異なるのでまったくの創作物語であることは疑う余地がありません。
 これらを縄文語解釈すると、以下のようになります。

●処女塚=「オタ・モィ・テュ」=「砂浜の・入り江の・小山」
●求女塚=「モ・オタ・モィ・テュ」=「小さな・砂浜の・入り江の・小山」

 これらの古墳はいずれも砂堆の上に築造されています。また、近隣地名には下記があります。

◎元(町)/本(山)/本(住吉神社)=「モ・オタ」=「小さな・砂浜」
つまり、砂堆の入り江だったということです。詳しくは第三十九回コラムの「処女塚古墳・求女塚古墳」をご参照ください。

□□□「広田/御前/兵庫/八幡」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『本朝神社考』)
「風土記。十四代仲哀天皇が三韓を攻めようとした。<中略>
(~三韓征伐~)
 神功皇后は筑紫に帰り、皇子を生んだ。これが誉田天皇(応神天皇)である。
 神功皇后は摂津国の海岸、北岸の広田郷に到着した。今、広田明神と名づけているのは神功皇后である。ゆえに、この海辺を御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。また、兵器を埋めたところは武庫という。今は兵庫という。誉田天皇は今の八幡大神のことである」

◎縄文語:
・広田=「ピラ・チャ」=「土崖の・岸」
or「パラ・チャ」=「広い・岸」=西宮にあった入り江の岸
⇒google map
・御前=「メ・サ・ケ」=「泉の・浜の・ところ」=西宮にあった入り江の岸
・兵庫=「ピ・オコッ」=「石の・谷」=六甲山
・八幡=「ペッチャ」=「川端」

 広田明神は現在の広田神社です。古代、西宮市には深く海が入り込んでいて、広田神社のそばまで入り江だったようです。

 縄文語解釈の「広田」も「御前」もその入り江の岸を指したと捉えられます。

 「兵庫=石の谷=六甲山」は、極めて確度の高い縄文語解釈です。「住吉」の項の繰り返しになりますが、六甲山は、

●六甲山=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」=断層の六甲山

 の意味で、本住吉神社に祀られる「住吉三神」、六甲山の別名であった「向津峰」も六甲山の地勢を表しています。

●向津峰=「ムイェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」

 決して「兵庫=武庫」ではありません。これは古代人によるただの「兵」と「武」の連想ゲームです。

 また、八幡大神については、これまでも何度かご紹介していますが、全国の八幡神社、八幡の地名は、ほとんど「ペッチャ=川端」にあります。
 「富士見」「人見」「二間」「八前」なども同語源と思われます。全国の「八幡」「富士見」については第三十七回コラム「八幡塚古墳」「荒砥富士山古墳」の項をご参照ください。

□□□「籤稲村(くししろのむら)」命名由来 □□□

×風土記逸文(『中臣祓氣吹抄』)
「摂津国風土記にいう。河辺郡。山木の保。籤稲村には、仁徳天皇の時、津直沖名の田があった。元の名は柏葉田。田串(田の境界のしるし)を造り、贖罪のために田を献上した。よって籤稲村と名付けた」

◎縄文語:「ク・ウン・シ・オ」=「対岸・にある・山・裾」⇒google map

 比定地は川西市久代です。

 縄文語解釈の地勢そのままです。猪名川対岸の山裾。これ以上的確な表現もありません。

□□□「御魚家(みまなや)」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『日本声母伝』)
「『和語がかえって韓語のようになることがある。<中略>
 任那は様々な魚がたくさんいる国で、毎度 日本の朝廷に献上している。故にミマナと呼ぶのは、ミとは御の字の心、マナは魚のことである。任那より魚を献上する事』
 摂津国風土記の西生(にしなり)郡の篇に、その魚がくれば、御魚家(みまなや)といい、京へ送るまでの間に宿る地名でもある」

◎縄文語:「メマン・ナィ」=「冷たい・川」⇒google map

 比定地は狭義では現在の慶尚南道金海市、広義では朝鮮半島南岸一帯となります。

 私見では倭人は中国大陸東岸、朝鮮半島南岸、日本全域を往来する海の民としていますから、当然、任那も縄文語解釈可能です。

 金海市を流れる川と言えば、洛東江が代表的です。

□□□「味耜山(あじすきやま)」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『神趾名所小橋車 上巻』)
「摂津国風土記にいう。大小橋山(おほをばせやま)。松や杉は木材としてよい。また、茯苓(ぶくりょう)や細辛(さいしん)並びに奇石や金玉などが出る 云々。

 昔、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)がこの山に天降ったため、味耜山(あぢすきのやま)と名づけた」

◎縄文語:「アテュィ・チャ・ケ」=「海・岸の・ところ」⇒google map

 比定地は天王寺区小橋町です。産湯稲荷神社が建ちます。

 縄文語上町台地上なので、海沿いであることは確かですが、一般的な名称で確度についてはなんとも言えません。

□□□「形江(かたえ)」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『神趾名所小橋車 下巻』)
「傍江(かたえ)というのは、景行天皇が諸国を巡幸された時、江沢において御姿をうつされたので形江という。その由来が摂津国風土記にみえる」

◎縄文語:「コッチャ・エ」=「谷の入口の・頭」⇒google map

 比定地は大阪市東成区大今里片江です。


 縄文語解釈は次の吹江の解釈とも繋がります。片江と吹江は隣接しています。

□□□「吹江(ふきえ)」命名由来 □□□

×摂津国風土記逸文(『神趾名所小橋車 下巻』)
「『古代は大きな沢がところどころにあって、深水のところだった』
 風土記に吹江と書かれているのは、今の深江(ふかえ)である」

◎縄文語:「プケ・イ」=「大水が出る・ところ」⇒google map

 比定地は大阪市東成区大今里深江です。
 縄文語解釈と風土記の内容が一致しています。ただ、風土記は単なる漢字によるこじつけなのでただの偶然です。


◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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