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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百十一回~第三百二十回】

第三百十一回第三百十二回第三百十三回第三百十四回第三百十五回第三百十六回第三百十七回第三百十八回第三百十九回第三百二十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[富山県]白城駅・白石・海老江・四方・花ノ木~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「白城駅」について(『日本歴史地名大系』 ※『コトバンク』より引用)
【 「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条、「和名抄」高山寺本北陸駅条にみえる古代北陸道の駅。曰理(わたり)駅(現高岡市)と磐瀬(いわせ)駅(現富山市)の間に位置し、駅馬五疋を配置された。白城は後世の地名や史書にもみえず、比定を困難にしている。ただし曰理駅(湊)から磐瀬駅に至る間の射水(いみず)郡北部には放生津潟が広がっていたとみられ、北陸道は同潟の南側近辺を通過していた可能性が高い。】

×「白城駅」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【私も石川氏の「白石」説に賛成である。
 なぜかというと白城、すなわち新羅が白石となった例は、ほかにもいくつかあるからである。たとえばさきの若狭(福井県)でみたように、ここにある白石明神・白石神社の白石が新羅からきたものであったばかりか、遠くは陸前(宮城県)白石市の白石も、『和名抄』にある同陸前の柴田郡にあった新羅郷が転じて、それとなったものではないかと私は思っている。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白城」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山の・尻・のところ)」
◎縄文語:「白石」=「シ・オ・ウ」=「山・裾・のところ)」

 縄文語の「シロケ(orシ・オ・ケ)=山裾」に「新羅」という漢字を充てて渡来系の由来が創作されているだけです。

 「白城駅」の比定地にはいくつかの説がありますが、比定地の一つである「白石」と「白城」の縄文語解釈が完全に一致しています。これは縄文語によくある同じ地勢の言い換え表現です。
 念のため、他の比定地も見てみます。

・白石(『越中志徴』森田柿園)
・海老江・四方(『高岡市史』)
・花ノ木(『越中史壇』木倉豊信)

 白石以外を縄文語解釈します。

◎縄文語:「海老江」=「エプィ」=「小山」※海岸の丘陵。
◎縄文語:「四方」=「ヤ・カ・タ」=「陸岸の・ほとりの・方」※海岸。
◎縄文語:「花ノ木」=「パナ・ノッケ」=「川下の・岬」※呉羽丘陵。

 この中で「海老江」が「小山」、「花ノ木」が「川下の岬」で「白城=山裾」と相性のいい解釈が可能ですが、さすがに「白石」の完全一致にはかないません。しかし「白石」地区は平地で、近隣に山が見えません。
 周辺地名を解釈してみます。

◎縄文語:「大塚」=「オオ・テュ」=「大きな・小山」
◎縄文語:「鷲塚」=「ウェィ・シ・テュ」=「険阻な・水際の崖の・小山」
◎縄文語:「野口」=「ノッ・クチ」=「岬の・崖」
◎縄文語:「野町」=「ノッ・マーテュ」=「岬の・波打ち際」

 「微高地」 らしき地名が散見されます。
 ヒントを求めて国土地理院の治水地形分類図を見てみます。すると、謎が一瞬で氷解します。「白石」も上に挙げた地名も、例外なく「微高地」となっています。
 加えて、放生津は古くから干拓が行われていて、近隣から土取が行われたことは容易に推察できます。かつては現在よりはるかに起伏のある地勢だったのではないでしょうか。

 よって、「白城駅」の比定地は、「白石」地区がふさわしいと言えます。新羅国はまったく関係ありません。宮城県の白石市ももちろん「山裾」の意です。


■白城駅比定地、白石、海老江・四方、花ノ木周辺 ※「白城」と「白石」が「山裾」の解釈で一致。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[佐渡]荒貴神社・波多郷・唐崎神社・辛崎(新穂山王祭り)・ 白山神社・小布勢神社・白髭明神~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「荒貴神社」について(『佐渡の島』山本修之助 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【荒貴神社(佐渡国造政庁址)黒木御所址から約五〇〇メートル登ったところにある。ここは字アラキといって、佐渡国造政庁のあったところで、大荒木直が、祖先を祭っていたものであるといわれている。】

×「荒貴神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【荒貴神社の荒貴、アラキとはどういうことだったのであろうか。
 あとでみる唐崎神社ともあわせ考えると、これはやはりのち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家であった加耶諸国のうちの一国となっていた安羅(あら)からきたものではなかったかと私は思う。文芸評論家の荒正人氏は、自分の姓の荒がこの安羅からきたものだと書いているが、佐渡国造だった大荒木直の荒木、または荒貴神社の荒貴も、その安羅から渡来したことをしめす安羅来(荒木・荒貴)ということではなかったか。】

×「波多郷(畑野)」について(『新潟県の歴史散歩』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【畑野付近は古代波多郷(『和名抄』で、そうした地名があるのはここが秦氏系文化の拠点であってことによる。一般に秦氏は新羅系文化民と考えられているが、それを裏書きするように、その分族といわれる矢田氏や服部氏が居住し、数十ヘクタールの社領をもつ粟野江の賀茂神社がある。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「荒貴/荒木」=「アゥ・ラ・ケ」=「隣の・低地・のところ」
◎縄文語:「波多(郷)/服部」=「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」

 地名に頻繁に登場する「荒」ですが、多くは「ア=一方の」として解釈可能で隣接地の地勢との対比表現となります。「荒貴神社」も「アケ=一方のところ」と解釈は可能ですが、それでは隣接する何との対比か不明になります。
 ここは「アゥ・ラ・ケ=隣の・低地・のところ」と解釈した方が辻褄が合います。朝鮮半島南部の安羅もおそらくは同じ地勢の同語源です。「荒木」が「安羅来」という意味ではないことは明らかです。

 「荒貴神社」は「泉(和泉)」地区にあります。旧「下矢馳(しもやばせ)」地区です。南西には対比となりそうな「上矢馳」の地名があります。東方には藤津川(とうつがわ)が南流しています。そして、南方には「波多(郷)=淵、水がよどんでいるところ」があります。

◎縄文語:「泉(和泉)」=「エテュ・メ」=「岬の・泉」
◎縄文語:「矢馳」=「ヤン・ポッチェィ」=「陸岸の・ぬかるんだところ」
◎縄文語:「藤津」=「トー・チャ」=「湖沼の・岸」

 すべての辻褄が合います。繰り返しになりますが、秦氏の活躍が語られるのは、日本全国「水辺」です。縄文語の「ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」にこじつけて由来が創作されている可能性が高いので、実際にそれらの場所に秦氏かどうか不明です。ただ、そのような由来を創作するのは渡来人で間違いありません。


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「(佐渡)唐崎神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
唐崎神社の唐崎とはどういうことだったのか。これも九州の唐津がもとは韓津であったこと、それから近江(滋賀県)の瀬田の唐橋唐崎神社の唐橋・唐崎ももとは韓橋・韓崎だったとおなじことからきたものだったにちがいない。
 韓崎はほかにまた辛崎・可楽崎とも書かれるが、今村鞆氏の『朝鮮国名に因める名詞考』にもあるように、これももとはみな韓ということから出たものだった。<中略>
 これは佐渡国造だった大荒木氏の荒木、荒貴、すなわち安羅来とも考えあわせるべきもので、韓とは加羅であるとともに、その安羅ということでもあったのである。】

×「新穂の山王祭り」について(『祭り風土記』萩原龍夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【なお注意せねばならないのは、トチトチの酒宴の時、献立にチサという菜をかならず出すこと、お渡りの途中休憩する所を「辛崎」とよぶことである。<中略>
 辛崎とは近江日吉神社のお旅所たる唐崎から採られたのであろう。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「唐崎(神社)」=「カン・ラ・サン・ケ」=「上の・低地の・平山・のところ」
◎縄文語:「唐津」=「カ・チャ」=「まわる・岸」
◎縄文語:「唐橋」=「カリ・パ・ウシ」=「通う・岬・のところ」※瀬田川の渡し場。
◎縄文語:「辛崎(お旅所)」=「カリ・サケ」=「通うorまわる・折り返し」※折り返し地点。日吉神社のお旅所。


 「唐」「韓」「甘楽」「軽」など、「カラ」「カンラ」「カル」を冠する地名はこれまでも取り上げてきましたが、多くは「カ=回る、通う」の意で、川や岬などの「曲がっている様」を表現していました。九州の唐津は「曲がっている岸」の意です。

■唐崎神社周辺 ※上の低地の平山のところ。


■唐津 ※曲がっている岸。



 他の例では滋賀県の「唐橋」や「唐崎神社」などがあり、「唐橋」の場合は「カリ・パ・ウシ=通う・岬・のところ」、つまり瀬田川「対岸への渡し場」を表現したとすると辻褄が合います。近隣の「草津」や「矢橋」も「渡し場」の解釈が可能です(第二百十回コラム参照)。

◎縄文語:「草津」=「クサ ・チャ」=「対岸へ舟で運ぶ・岸」(琵琶湖の渡し場)
◎縄文語:「矢橋」=「ヤン・パ・ウシ」=「陸に上がる・岬・ところ」(琵琶湖の渡し場)

 また、唐崎神社(滋賀県)は琵琶湖の岸辺の湾曲した地勢を表現しているものと思われます。日吉神社のお旅所にもなっているとのことなので、その意味でも用いられたのかもしれません。

◎縄文語:「唐崎」
=「カ・サ・ケ」=「曲がっている・浜の・ところ」

or「カリ・サケ」=「通うorまわる・折り返し」※折り返し地点。日吉神社のお旅所。

■滋賀県唐崎神社、唐橋周辺(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■唐橋 ※瀬田川の渡し場。



 佐渡の「唐崎神社」に含まれる「カン・ラ=上の・低地」と同じ縄文語解釈では、群馬県の「甘楽郡」があります。「甘楽郡」は東方の「多胡郡」、北方の「富岡」、西方の「下仁田」、そして貫流する「鏑川」が、共通して「低地」「湿地」を表現しています(第二百十回コラム参照)。この周辺もその郡名から朝鮮半島系渡来人が活躍した物語が語られていますが、地名由来と渡来人は関係ありません。南方系先住民の縄文語が源です。

◎縄文語:「甘良(甘楽)」=「カン・ラ」=「上にある・低いところ」
◎縄文語:「多胡郡」=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」

◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタッ」=「西の・湿地」(※「上仁田」は存在しません)
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地


■群馬県甘楽町周辺 ※低地、湿地の解釈で一致。



 前置きが長くなりましたが、佐渡の唐橋神社は近隣地勢を考慮して、

◎縄文語:「唐崎(神社)」=「カン・ラ・サン・ケ」=「上の・低地の・平山・のところ」

 と解釈しています。
 南方には白山神社があります。全国の白山神社は「浅い平山」あるいは「浅い平山を望む」地勢です(※第二百九十回コラム参照)。佐渡に白山神社が多いのも、単に平山に囲まれた地勢だからです。
 他の周辺地名も縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山」
◎縄文語:「吉井/本郷」=「ヤチ/ポン・コッ」=「泥/小さな・窪地」
◎縄文語:「貝塚」=「カィ・テュ」=「(頭が)折れた・小山」※平らな小山。

 すべて辻褄が合います。つまり、唐崎神社の語源は「上にある低地の平山」の縄文語で、朝鮮半島はまったく関係ないということになります。
 ただし、神社は北方系渡来人の出自を正当化、装飾するために設けられているので、神社が設けられたあとは朝鮮半島系渡来人に主導権が移っているものと思われます。時期は記紀風土記編纂周辺、国衙が設けられて以降です。

 話がかなり飛びますが、大国主の別名で「八千矛」があります。「武神」などとされていますが、このような漢字こじつけ説はすべてデタラメです。「吉井/本郷」の解釈同様、「ヤチ/ポン・コッ=泥/小さな・窪地」ではないでしょうか。場所は特定できませんが。


■佐渡唐橋神社、白山神社(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■唐橋神社、白山神社周辺の景色。上にある低地の平山。向かって右手に唐橋神社、左手に白山神社があります。




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「小布勢神社・白髭明神」について(『新潟県の歴史散歩』新潟県高等学校地方史研究会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【小泊から西三川の谷をわたったところ、西三川に、真野湾岸一円の信仰対象とされる小布勢神社がある。以前このあたりの土中から子持勾玉が出て話題となった。祭神は北陸路を征伐した四道将軍大彦命だが、この地域には岩をまつる信仰があり、かつて高句麗王をまつる白髭明神があったりして六、七世紀ののひとつの政治的中心のあったことがわかる。】

×「白髭明神」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ここにいう「高句麗王をまつる白髭明神」とは、これも「高句麗」ではなく安羅がそれとなっている「新羅」ということではなかったかと私は思う<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「小布勢(神社)」 =「オプッ」=「川口」
◎縄文語:「白髭(明神)」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」
or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」


 「小布勢神社」は「川口の神社」の意で、言うまでもなく、大彦は関係ありません。大彦は第八代孝元天皇の皇子ですが、欠史八代から応神天皇あたりまでは邪馬台国の卑弥呼と台与の事績を隠蔽するために物語が創作されている可能性が高いので、まったく信用できません。四道将軍などというものも存在自体確かではありません。この周辺に渡来系の人々の出自を飾る物語も詰め込まれています。

 縄文語では「白髭」が「山裾の石」の意なので「岩をまつる信仰」「白髭明神」の相性がいいのは当然です。

 また、神社と高句麗の相性がいいのも当然です。百済王族、高句麗の北方系渡来人の出自の正当化、装飾の役割を神社が担っているからです。


■西三川(小布勢神社)の岬 ※山裾の石。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[新潟県]妙高山・関山神社・新羅大明神・新井(妙高市)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「関山神社」について(『妙高観光ナビ』HP)
妙高山の里宮で、奈良時代の和銅元(708)年に裸行上人が開山したと伝えられています。関山神社宮殿は、2018年3月27日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。関山神社の竜旗は、上杉謙信から. 下賜されたものと伝え、. 縦72、横53センチ、赤地羅紗に. 上り竜、下り竜の青竜を. 金糸・銀糸で刺繍したもの。境内には、国の指定文化財の旧関山宝蔵院庭園があり、毎年7月には修験道の伝統を継承した「火祭り」が行われ、県の無形文化財に指定されています。】

○「関山神社新羅大明神」について(『新井市史(現妙高市)』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【本像は関山神社の御神体として、本殿の億深く安置してある秘仏である。<中略>
 本像の面長の面相、髪際の線や、杏仁形に近い眼、蕨手の垂髪、下腹を前方につき出した姿は、きわめて法隆寺夢殿の観音像に近い作風をもっているからである。また、胸飾の形式や胸にあらわれた下衣のふちにほられた、半パルメットの文様、背中のところにあらわれた、下衣の半パルメットの文様などは、全く法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍と共通している。
 しかしこれは、日本の政策ではあるまい。恐らく朝鮮三国時代の遺品が、何等かの事情で、この地に伝わったものと考えられる。<中略>
 本像の箱は元禄時代のもので、打箱は明治四十四年のもの。それには、新羅大明神と墨書されている。】

×「関山神社周辺」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
新羅大明神を祖神として関山神社を祭った(はじめの神体は仏像ではなかったはず)新羅からの渡来人集落より発したとみられるこの地方が古代の越後にとって、どのように重要な位置をしめていたか<後略>】

×「新井(妙高市)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【新井というのは、新羅の朴と関係があるのではないかと思われますね。新羅の最初の王、赫居世のフルネームは朴赫居世です。朴というのは本貫の一つがたしか「新井」すなわちシンジョン(新井)となっているはずです。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「関山(神社)」 =「サキ・ヤマ」=「湿地の・山」※妙高山。
◎縄文語:「妙高山」 =「ムィ・オ・コッ」=「頂が・たくさんある・窪地」※妙高山。
◎縄文語:「新羅(大明神)」 =「シ・オ」=「山・裾」

 「関山神社」は「妙高山」の里宮で、いずれも妙高山の山頂付近の地勢を表現しています。

 関山神社が妙高山の山裾の地勢なので、縄文語で「シ・オ=山・裾」と呼ばれるのは当然です。しかし、それに「新羅」という漢字を充て、ご丁寧に仏像まで用意してご神体にしてしまうのは、半島系渡来人の影響を多分に受けていると言わざるを得ません。「妙高山の里宮」という伝承が残っているだけ、まだ救いがあります。ほとんどの神社は本来の意味をかけらも伝えません。

 新羅人は倭人と縄文語を共有する南方系民族で、上代日本語を話す北方系(百済王族、高句麗系)の人々とは異種ですが、筆者が考えるに、記紀風土記、神社などは北方系の人々の出自を正当化すると同時に、その取り巻きとなる半島系渡来人の出自も装飾しています。神社はその由緒で縄文語の地名由来をことごとく上書きし、デタラメ神様を祀り、日本全国で渡来人の活躍を大げさに伝えています。普通に考えて、彼らにとって最も地位が低いのが日本先住民である縄文人です。証拠はその地勢です。歴史書は改竄できても、地勢は変えることはできません。


■妙高山遠景 ※頂がたくさんある山。

■妙高山山頂付近 ※湿地の山。



 妙高山は群馬県の妙義山と語源が似ています。

◎縄文語:「妙高山」 =「ムィ・オ・キ」=「頂が・たくさんある・山」


■群馬県妙義山 ※頂がたくさんある山。
 
(出典:wikipedia)


 「新井」の地名が新羅人と関係あるとのことですが、違うと思います。これは矢代川と関川の間の峰を指しています。

◎縄文語:「新井」 =「ア・エ」=「一方の・頭(岬)」

 新井地区の東に接して丘陵があります。この対比と考えれば辻褄があいます。南から北に向かって地名を解釈します。

◎縄文語:「(中郷区)板橋」 =「エテュ・パ・ウシ」=「岬の・頭の・ところ」
◎縄文語:「陣場」 =「テュ・パ」=「岬の・頭」
◎縄文語:「経塚」 =「キ・オ・テュ」=「山・裾の・小山」


■妙高市新井地区周辺 ※一方の岬。岬が東西に並んだところ。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[新潟県]彌彦神社 [石川県]伊夜比咩神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「彌彦神社」について(彌彦神社公式HP)
【彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。 よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。】

×「彌彦神社・伊夜比咩神社」について(『石川県の歴史散歩』石川県高等学校社会科教育研究会編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(能登島の)向田の村はずれに、式内社の伊夜比咩神社がある。越後の伊夜比古神社(弥彦神社)とは名のとおり、ふかいつながりをもつ。ふたつのやしろはずいぶん離れているように見えるが、ここから対馬海舟にのれば、まっすぐ越後につく】

×「伊夜比咩神社」について(石川県神社庁公式HP)
【本社は創立の年代を明記できないが、延喜式内社である。古く、旧社地イヤミより現在の地、八幡山へ遷り、八幡神社と合祀する。神明神社は能登島御厨の神社であるが合祀し、白山神社は明和6年に、菅原神社は寛政12年に勧請し合祀す。往古より産土神として篤く崇敬される。向田(能登島)の火祭が奉納される。 】

×「彌彦神社・伊夜比咩神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【比咩とはもちろん姫、すなわち女ということであり、比古とは彦で、男ということであることはいうまでもない。では、伊夜の伊が伊勢、伊蘇のそれとおなじように接頭語であるとすると、伊夜の夜、ヤとはいったい何であったのだろうか。
 それはたぶん、古代朝鮮語の羅・那と同義である耶、すなわち「国土」(古代南部朝鮮の加耶・加羅・加那は「大きな国土」という意)ということからきたものではなかったかと私は思う。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「彌彦(神社)」 =「イェー・ピケゥ」=「溶岩、石・小石」※彌彦山の地勢。
◎縄文語:「伊夜比咩(神社)」 =「イェー・ピ・メ」=「溶岩、石・小石の・泉」
◎縄文語:「イヤミ」 =「イェー・メ」=「溶岩、石の・泉」※伊夜比咩神社の旧所在地。

 一応、「彦」と「比咩」も縄文語解釈してみましたが、後世(神社創建時)の後付けかもしれません。とにかく、いずれの神社も「石、岩」の地勢だったということです。発音が同じなのは、同じ地勢だからです。安易に結びつけて歴史を創作してはいけません。

 加耶、加羅、加那の朝鮮半島南部は縄文語圏ですから、当然地名由来も縄文語です。

◎縄文語:「加耶」 =「カン・ヤ」=「上にある・岸」
◎縄文語:「加羅」 =「カン・ラ」=「上にある・低地」
◎縄文語:「加那」 =「カンナ」=「上の方」

 以下、二百四十一回コラム再掲。
 アイヌ語の「カ」は、地勢の名詞について「~のほとり、岸、上」などを表すのですが、各地の地名を見ると「カ」単体で「岸/ほとり」の意で使われている可能性があります。とすれば「カ・ラ=岸の・低いところ」 「カ・ヤ=カ・ワ=ほとりの・岸、縁」「(~ヶ浦)カ・ウン・ラ=岸・にある・低いところ」の解釈が可能になります。
 糸魚川など、川がない「川」のつく地名も「カ・ワ=ほとりの・岸」と解釈すれば辻褄が合います。日本語の「側(かわ/がわ)」の語源かもしれません。朝鮮半島南部の「加耶」「加羅」の地名の解釈も簡単になります。


■彌彦山山頂の御神廟 ※岩、小石。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[新潟県]新羅王碑(燕市竹ケ花)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新羅王碑(新潟県燕市竹ケ花)」について(「新羅王への敬意800年経た今も、韓国側が王碑の案内板寄贈」朝日新聞DIGITAL 2022/6/17)
【案内板には、大まかにこう記されている。
 「1222年ごろ、寺泊(現長岡市)に高麗人(こまびと)が漂着した。竹ケ花の山中で暮らすかたわら、新羅の文化や進んだ技術を伝えた。『火伏のお札』に新羅王と書いて与えたと村に言い伝えられている。渡来から34年後に没。村人は王様を尊敬し、墓を建立した。以来800年にわたり、連綿として奉祀(ほうし)を続けている」】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅王」 =「シ・オ」=「山・裾」

 新羅王碑の案内板に書かれていることを縄文語解釈を絡めて解釈すると次のようになります。

【縄文語を話す先住民が暮らしていた村に、朝鮮半島系の人が漂着し、先住民が「シ・オ=山・裾」と呼んでいた地名を聞いて、「新羅王」という漢字を充てて書いて見せた。先住民はなんと書いてあるか読めなかったので、その意味を聞いた。渡来人は朝鮮半島の「新羅国の王様」という意だと答えた。】

 これが実態ではないでしょうか。つまり、まったく「新羅の王族」ではない可能性が高いということです。天日槍や怒我阿羅斯等の例を鑑みると、物語すべてが渡来人によって創作された可能性すらあります。

 この「新羅王」は近隣の越後一宮、彌彦神社の祭神の一柱にもされていますが、彌彦神社も「山裾」にあるので齟齬はありません。ただ、縄文語の意味は「新羅王」に完全に上書きされています。これが神社の役割です。

 各地に点在する「新羅神社」「親王塚」「新皇塚」「塩塚」もすべて「シ・オ=山・裾」の地勢にあります。地名由来に偉人も渡来人も関係ありません。漢字表記に結びつけて歴史を創作してはいけません。しかし、日本の歴史の多くの部分がそういった創作で占められています。


■竹ケ花地区の新羅王の碑 ※中央奥の鳥居、熊野三社の奥。山裾。





騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]胡麻郷~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「胡麻郷」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみると、いまみた胡麻駅などのことがはっきりこう出ている。
  胡麻(コマ)駅 省線(国鉄のこと)山陰本線、明治四十三年設置、京都府船井郡胡麻郷村に在り。
  胡麻郷(コマサト)村 京都府船井郡胡麻村、大字に胡麻あり。
 胡麻はいまではその駅ともども胡麻(ごま)とよまれているようであるが、かつては「胡麻(コマ)駅」「胡麻郷(コマサト)村」とよまれていたこともこれでわかる。そしてそれが「朝鮮の国名に因める」とはもちろん、百済、新羅とならんで朝鮮三国時代を形成していた高句麗、すなわち高麗(こま)のことであることはいうまでもない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「胡麻(郷)」 =「コ(・ムィ)」=「持ち手の曲がり(の・頂)」 ※湾曲した山、丸山。

 胡麻郷の地名は高麗とはまったく関係ありません。
 「高麗」は地名によく登場しますが、ほとんどが「コ・マ=湾曲する・谷川」の意です。高麗人を移住させたことで有名な埼玉県の高麗郷でさえ「湾曲する川(高麗川)」です。

 いくつかの例外として「コ=湾曲する山(丸山)」を指す場合もあります。
 京都府の胡麻郷も「丸山」の意です。同じ解釈としては渡来人の上陸で有名な神奈川の「高麗山」が挙げられます。

 いずれにしても、漢字表記にこじつけた渡来人物語は、まったくのデタラメか、大げさに喧伝されている可能性が非常に高いと言えます。北方系渡来人が主導で編纂した記紀風土記以来、古文献自体がデタラメの温床です。


■JR山陰本線「胡麻」駅前の山 ※丸山。


■神奈川県大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]綾部~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「綾部」について(『綾部町史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【漢部を綾部と書くようになったのは、いつの頃か判らないが、安国寺文書、長禄四年(一四六〇)のものと思われる広戸九郎左衛門下知状に、郡内村名を挙げた中に、「漢部」の文字を使用している。江戸時代にも尚漢部の文字を使用したことは、慶安三年に作製した「山家藩古地図写」等多くの例が残っている。漢部の名はいわゆる古墳時代に当る氏族制度社会を以て成立した古代国家の部民から出た名で、恐らく皇室所属の絹織物を専業とする帰化人の職業部落であったであろう。】

×「漢氏」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【漢氏・ 漢人・漢部の漢とは、鮎貝房之進氏の『雑攷』「漢をアヤ又はアナと訓じたるに就きて」にもはっきりのべられているように、これはのち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家安羅・安那・安耶(阿羅・阿那・阿耶とも書く)からきたものであった。
 そしてこの安羅・安那・安耶が漢織・穴織の漢(あや)・穴(あな)ともなり、それがまた漢氏・漢人・漢部などという氏族名ともなった。<中略>要するに綾部もこの漢部(氏)が中心となって栄えたところで、それでのちには、ここにも立派な仏教寺院などが建立されたりもしたのだった。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「綾部」 =「アゥ・ヤ・ウン・ぺ」=「枝分かれた(隣の)・岸・にある・ところ」

 福知山盆地の東方の川沿いの綾部市中心の盆地を指したものと思われます。綾部市の地名由来は縄文語ですが、それに渡来人が「漢部」の文字を当てたことから部民の「綾部」そして「機織り」と結びつけられています。機織りをしたのかもしれませんが、それが地名由来ではありません。





 安羅・安那・安耶(阿羅・阿那・阿耶)については、何度も登場していますが 再掲します。

◎縄文語:「阿羅/安羅/織」 =「アゥ・ラ」=「枝分かれた(隣の)・低いところ」
◎縄文語:「安耶/安邪/織/漢」 =「アゥ・ヤ」=「枝分かれた(隣の)・陸岸」
◎縄文語:「安那/穴」 =「アゥ・ナ」=「枝分かれた(隣の)・方」

 朝鮮半島南部も縄文語圏なので、同じ地勢に同じ地名が与えられているだけです。無数に存在する同じ地名を結びつけて歴史を創作してはいけません。日本の歴史が渡来人の活躍だらけになります。手遅れですが。

 神社仏閣は渡来人の出自を正当化、装飾する役割を担っているので、周辺で渡来人の活躍が語られるのは当然です。 以下、すべて周辺地勢と一致する縄文語解釈ですが、神社仏閣の由緒でその意味が語られることはまったくありません。デタラメ神様と仏様が庶民を煙に巻く物語を流布しているだけです。
 法隆寺(小さな山陰)、東大寺(こちらの湖沼の岸)、四天王寺(大きな峰の岬)、飛鳥寺(一方の岸のほとり)、薬師寺(岸の末端)、薬師神社(岸の末端)、春日大社(その上のところ、高台=春日山)、八幡神社(川端)、愛宕神社(ぽつんと離れた山、尾根の先端のたんこぶのような山)、白山神社(浅い平山=白山)、熊野大社(横に平べったい岬=熊野大社目の前の山)、金刀比羅宮(谷の入口の崖=象頭山)。

 漢織、穴織は水辺のことです。機織りと相性のいい秦氏の活躍が語られるのも決まって水辺です。京都の太秦、松尾大社しかり。

◎縄文語:「漢織」=「アゥ・ヤ・ハッタ」=「枝分かれた(隣の)・岸の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「穴織」=「アゥ・ナ・ハッタ」=「枝分かれた(隣の)・方の・淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「秦」=「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「太秦」=「ウテュ・マサ」=「間の・水辺の草原」(桂川と支流、または鴨川の間の草原)
◎縄文語:「松尾」 =「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」(桂川の岸辺)



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]丹波・志楽郷・設楽(しらく)庄・志楽村~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「丹波・丹後」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【中島利一郎氏の『日本地名学研究』にもあるように、丹波・丹後の丹(タン)とは古代朝鮮語の谷ということであった。】

×「志楽郷・設楽(しらく)庄・志楽村」について(『朝鮮の国名に因める名詞考』今村鞆 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【丹後国加佐郡の東部新舞鶴町の東に接す。『和名抄』加佐郡志楽郷。『吾妻鏡』建久六年、丹後国設楽庄。今の志楽村は舞鶴の東若狭街道に当る。】

×「志楽郷・設楽(しらく)庄・志楽村」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【志楽・設楽とは三河(愛知県)の設楽郷・設楽郡、また設楽神・志多良神とも関係あるもので、これが『朝鮮の国名に因める名詞考』のなかにあるのは、もちろん新羅ということの転訛したものと考えられているからである。新羅がそれとなった例としては、武蔵(埼玉県)のもと新羅郡だったところに志楽郷・志木がある。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「丹波」 =「タン・パ」=「こちらの・岬」
◎縄文語:「志楽(郷)/設楽(庄)/志楽(村)」 =「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

  丹波は「こちらの岬」というありきたりな地勢を表現しているので、どこを指したかは不明です。丹後半島とするのが無難でしょうか。

 繰り返しになりますが、日本の地名に「新羅国」が関係することはほぼありません。おしなべて「山裾」の意の縄文語に新羅国をこじつけて物語を創作しているだけです。
  埼玉県の新羅郡は、「シ」には「大地」の意もあるので、「武蔵野台地のはずれ」の意です。


■東舞鶴周辺 ※どこを見ても山裾。



 愛知県の設楽も山の中なので「山裾」の意ともとれますが、発音が異なるのが気になります。

◎縄文語:「設楽」 =「シテュ・オロ」=「大きな峰の・ところ」

 この解釈の方が地勢とピッタリです。


■愛知県設楽町 ※山裾。大きな峰のところ。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]白米山古墳・蛯子山古墳・神明山古墳・銚子山古墳・杉谷古墳・芦高神社古墳・丸山古墳・産土山古墳・安良山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「丹後の古墳」について(『丹後の古墳』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【前期の古墳としては、加悦(かや)町白米山(しらぎやま)古墳、同町蛯子山古墳、丹後町神明山古墳・弥栄(やさか)町銚子山古墳、網野町銚子山古墳、峰山町杉谷古墳などがある。いずれも全長一○○~二〇〇mの大型前方後円墳で、葺石、埴輪を有する。またその中には、周囲に濠をめぐらせているものがある。
 中期の古墳としては、久美浜町芦高(あしだか)神社古墳、岩滝町丸山古墳、丹後町産土山(うぶすなやま)古墳、馬場の内古墳などが代表的なものである。
 後期の古墳は横穴式を主流とするが、多くは前期のように独立せず群集しており、数は飛躍的に増大する。<中略>加悦町上司古墳、大宮町新戸古墳、弥栄町大田古墳などが主なものである。】

×「加悦(かや)」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
加悦というのは、これも安羅同様、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家加耶・加羅・加那からきたものであった。『丹後路の史蹟めぐり』によると、加悦はもと「加屋」「賀屋」とも書かれたもので、それが現在の加悦となったのは、「南朝の忠臣といわれた名和長年の臣、嘉悦(かや)氏」がここの「領主となって」からだという。
 それだけではなかった。加悦町には、これももと「加耶の媛」ということだったかもしれない萱野媛を祭る『延喜式』内の古い吾野神社があり、また、安羅・安那・安耶からきた安良というところや、安良山というのもあって、これは古文書にはっきり、安羅山とかかれていたものだったという。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白米山(古墳)」 =「シロケ(orシ・オ・ケ)・ヤマ」=「山裾(or山・裾・のところ)の・山」
◎縄文語:「蛯子山(古墳)」=「エン(orエ)・ピ・シ」=「尖った(or頭が)・石の・山」
※葺石の古墳。
◎縄文語:「神明山(古墳)」=「シアン・ムィ・ヤマ」=「大きな・頂の・山」
※日本海最大の前方後円墳。
◎縄文語:「銚子山(古墳)」 =「チー・ヤマ」=「中くぼみの・山」
※前方後円墳。酒器の銚子の意ではない。
◎縄文語:「芦高(神社古墳)」=「アゥ・シチュカ」=「枝分かれた・東の果て」※久美浜町盆地の東の山。
◎縄文語:「丸山(古墳)」=「マ・オロ・ヤマ」=「谷水・のところの・山」
※阿蘇海のほとりの山。全国の「丸」は水辺、川辺。円墳なので日本語の「丸い山」の意の可能性あり。
◎縄文語:「産土山(古墳)」=「ウ・ナ」=「内部の・方」※原義「膣の・方」。竹野地区の地勢。
◎縄文語:「新戸(古墳)」=「シアン・ト」=「大きな・湖沼」
└縄文語:「大宮」=「オオ・メ・ヤ」=「大きな・泉の・岸」※新戸古墳の所在地
◎縄文語:「大田(古墳)」=「オタ」=「砂浜」
※地名由来。
└縄文語:「弥栄(町)」=「ヤン・サ・カ」=「陸岸(内陸)にある・浜の・ほとり」※大田古墳の所在地


 頻繁に登場しますが、「新羅」「白木」「白米」などが充てられる「シラキ/シラギ」は「山裾」の意です。地名由来に朝鮮半島はまったく関係ありません。これだけ各地に頻繁に登場するということは、それだけありきたりな地勢であり、それだけデタラメ由来が蔓延っているということです。
 「カヤ」「カラ」についてもしかり。他の解釈もあるので詳しくは第三百十四回コラムをご参照ください。

◎縄文語:「加悦」=「カン・ヤ」=「上にある・陸岸」

 という意味です。加悦地区に「金谷」という字があります。これも、まったく同義です。朝鮮半島はまったく関係ありません。

◎縄文語:「金谷」=「カンナ・ヤ」=「上にある・陸岸」

 安良山も同様。

◎縄文語:「安良山」=「ア・ヤマ」=「一方の・山」

  二つの山が南北に並んでいて、その南の山が「安良山」です。よくある対比表現です。


■安良山 ※二つ並んだ一方の山。



 縄文語の「ア=一方の」などに充てられる「荒」「新」を冠する地名も無数にあります。いちいち朝鮮半島と結びつけられてはたまりません。朝鮮半島南部も倭人と縄文語を共有する同族なのですから、同じ地勢に同じ地名があるのは当然なのです。言語が異なるのは北方扶余系、百済王族と高句麗の人々です。

 以下、地図で確認できる古墳の地勢です。「産土(うぶすな)」の解釈が面白いです。原義は「膣」の意ですが、「峰に挟まれた細い谷地勢」そのままです。「産土」は縄文語由来の単語かもしれません。


■白米山古墳 ※山裾の山。


■芦高神社古墳 ※枝分かれた東の果て。久美浜町盆地の東の山。


■丸山古墳 ※谷水のところの山。阿蘇海のほとりの山。全国の「丸」は水辺、川辺。円墳なので日本語の「丸い山」の意の可能性あり。


■産土山古墳 ※峰の挟まれた内部の方。原義は「膣の方」。竹野地区の地勢。


■新戸古墳 ※大きな湖沼があったか。所在地名もほぼ同義。「大宮=オオ・メ・ヤ=大きな・泉の・岸」。


■大田古墳「砂浜」 ※地名由来。所在地名もほぼ同義。「弥栄町=ヤン・サ・カ=陸岸(内陸)にある・浜の・ほとり」 。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百二十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都府]大宮売神社・周枳・荒山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
△「大宮売神社」について(『丹後国二の宮/大宮売神社略記』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【祭神
  大宮売神(あめのうずめの神・みやびの神)
  若宮売神(とようけの神・うけもちの神)
 創立年代は詳らかではないが、出土品によって証せられるように、悠遠な太古から朝鮮東海岸よりの意住民によって文化が発展し、弥生時代稲作民による祭祀的呪術的な権力をもつ豪族王国が生まれて大丹波国をなし、その祭政の中心地であったとは考古学者の通説である。
 六世紀と思われるころ大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神殿の一柱でまた造酒司(みきつかさ)に祀られた神であり、この神を祀る最も古い社と云われている。旧主基(すき)は大嘗祭の悠紀主基の斎田の地であり、江戸時代までには主基村とあり、明治になって周枳村となる。<後略>】

×「大宮売神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【竹野川流域のそこにはさきにみた新羅大明神のほか、さらにまたもう一つ新羅神社があった。
 <中略> 周枳の大宮売神社と溝谷神社の中間にあたる竹野川中流のかたわらに荒山、新町というところがあって、いまは廃社となっているが、かつてはそこに新羅神社があったというのだった。
 <中略>そこに新羅神社があったとすると、荒山のアラというのも、もとはといえば、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家安羅(アラ)からきたものにちがいなかった。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■


◎縄文語:「大宮売(神)」 =「オオ・メ・ヤ・ノミ」=「大きな・泉の・陸岸・を祀る」
◎縄文語:「主基/周枳(村)」 =「シ・ケ」=「山・のところ」

 大宮売神は”竹野川沿いの湿地の祭場”を指したのではないかと思われます。峰山盆地を貫流する竹野川は河岸段丘が発達しています。この縄文語解釈が妥当であれば、北方系渡来人の支配が確立する六~七世紀以前から、南方系先住民による自然崇拝が存在したことになります。
 『大宮売神社略記』では「大宮売神」が記紀に登場する「アメノウズメ」とされています。

◎縄文語:「(アメノ)ウズメ」 =「ウテュ・メ」=「間の・泉」

 当該地の地勢にこじつけたとすれば辻褄が合います。


■大宮売神社 ※竹野川は河岸段丘が発達。



 大宮売神社の北方に、谷を挟んで峰山町新町、峰山町荒山地区があります。新町は『日本の中の朝鮮文化』で「アラ」に結びつけられていますが「しんまち」と読みます。

◎縄文語:「新町」 =「シアン・マーテュ」=「大きな・波打ち際」

 とすれば、 「大宮売(神) =オオ・メ・ヤ・ノミ=大きな・泉の・陸岸・を祀る」の解釈と完全に一致します。

 「荒山」の方は考えるまでもありません。

◎縄文語:「荒山」 =「ア・ヤマ」=「一方の・山」

 
大宮売神社の所在地が「周枳=シ・ケ=山・のところ」ですから、よくある対比表現となっています。

 繰り返しになりますが、「新羅」は日本全国同じ地勢を指しています。無数に存在する地勢を安易に新羅国に結びつけてはいけません。

◎縄文語:「新羅」 =「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 ただし、朝鮮半島南部一帯は南方系民族で、倭人と縄文語を共有する同系、同族です。新羅もその可能性は高いと言えます。 つまり、日本にとっても先住民と同じです。


■峰山町荒山 ※周枳から見て、北方の山。一方の山。




第三百十一回第三百十二回第三百十三回第三百十四回第三百十五回第三百十六回第三百十七回第三百十八回第三百十九回第三百二十回/ 】
◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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