【 第二百二十一回 ~ 第二百三十回】
第二百二十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]比企郡・日置・都家(つげ)、都幾川、槻川・壬生~」
×「比企郡・日置・都家(つげ)、都幾川、槻川」について(『知られざる古代』水谷慶一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【埼玉県比企郡には、かつてここに「都家(つげ)郷」という地名があったことが、平安時代初期の「和名抄」という本によって知られるが、現在も、この地には都幾川、槻川、都幾山の名が残っていて、ここkも神社や遺跡の整列線が見られることと、比企が日置(ひき)に通ずることで、やはり新羅の太陽祭祀に関係した土地であることが推察される。
埼玉県立博物館の金井塚良一氏の教示によれば、この比企郡は新羅系の渡来氏族である吉士氏が進出したあとが見られるというから、今後の展開がたのしみである。ついでにいえば、「吉士」は新羅の官位の一つ(十七位中の十四位)で、「日本書紀」では雄略天皇の頃から「難波吉士」として現われる。この埼玉県の例にかぎらず、トキ、ツゲ、日置にちなんだ土地を調べてみると、まず例外なしに新羅系渡来人の痕跡が目につくのは、やはり偶然ではすまされぬものを感ずるのである】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「比企」
=「ピ・ケ」=「石・のところ」
or「ピケゥ」=「石ころ」
◎縄文語:「都家(つげ)/都幾川/槻川」=「テュ・ケ」=「峰、岬・のところ」
縄文語解釈をまとめると「山裾の石の川のところ」という意味です。都幾川支流、槻川沿いの嵐山渓谷を指したのかもしれません。東の山裾には菅谷という地名があります。
◎縄文語:「嵐山」=「ラム・サン」=「低い・出崎」
◎縄文語:「菅谷」=「シル・カ・ヤ」=「山の・ほとりの・岸」
トキ、ツゲは「山」にちなんだ名称で、もともと新羅人を指している訳ではありません。
■嵐山渓谷
■比企郡都幾川
また、「日置」に関して。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「日置部通説」(※株式会社平凡社世界大百科事典引用)
【・・・この職掌は拡大され,この聖火をもって製鉄や土器生産に従事することにもなるのである。このことは《日本書紀》垂仁三九年条で五十瓊敷(いにしき)皇子が千口の大刀を鍛造したとき,十箇品部の中に日置部が含まれていたことからもうかがえよう。また日置一族は砂鉄の生産地に多く分布し(肥後菊池川,出雲国飯石郡),さらに土器生産にも当たったと考えられ,また日置氏は土師氏系とされ菅原朝臣を賜姓されている(《三代実録》)。】
◎縄文語:「日置/新羅」
=「シロケシ」=「山裾」
or「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
日本全国の「新羅」「日置」はほぼすべて「山裾」です。「山裾」などどいう地勢は、朝鮮半島にも日本にも無数にあるので、発音や表記が同じだからと言って、いちいち新羅系渡来人を登場させる必要はありません。砂鉄をこじつけるのも間違いです。(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]No.23参照)
第二百二十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[茨城県]虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群・那珂郡幡田郷・常陸国[京都]秦氏・太秦・桂川・松尾大社【九州】宗像三女神(市杵嶋姫命/田心姫命/湍津姫)~」
×「虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群・那珂郡幡田郷・常陸国」について(『日本の中の朝鮮文化』)
【虎塚壁画古墳が発見された常陸のそこは、斉藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」 にある「那珂郡幡田郷」だったところであった。志田(諄一)氏の「秦氏との関連/虎塚古墳と幡田郷」にその関連がこう書かれている。
「幡田郷は幡太郷(三河国渥美郡)、幡多郷(遠江国長下郡)、幡陀郷(紀伊国安諦郡)、波多郷(肥後国天草郡)などとも書き、渡来人秦氏の後裔や、秦氏と関係ある一族が居住していたようである。
ところで、最近の(発刊当時1983)研究によれば、朱や丹をもって、各種の物品を赤く染める赤染の呪術は、新羅、加耶系の呪術で、赤染氏によってなされていた。その赤染氏は秦氏と同族、または同一の生活集団を形成していた氏族で、新羅系の帰化人だといわれている。のちに赤染氏や林のなかには、画師として活躍する者が少なくない。」
なお、私たちは、虎塚壁画古墳近くにある「十五郎横穴群」といわれるたくさんの横穴古墳をみてから、ついでこんどは勝田市武田の湫尾(ぬまお)神社にいたった。】
○「虎塚古墳」
七世紀初頭頃築造/七世紀前半頃追葬、前方後円墳、葺石・埴輪なし、集石遺構、周溝、古墳全長は63.5メートル、出土(石室内:成人男性人骨1体・小大刀・刀子・鉇・鉄鏃/石室外:鉄釘・鉄鉾・鉄鏃・土師器・須恵器など)
【(wikipedia)茨城県中部、那珂川下流域北岸、那珂川支流の中丸川に流れ込む本郷川右岸の台地上に築造された古墳である。<中略>埋葬施設は後円部における両袖式の横穴式石室で、壁画が残された彩色壁画石室として著名であり、南南西方向に開口する。石室は板状の凝灰岩を組み合わせて構築され、壁面には白土を塗ってキャンバスとした上に赤色顔料(ベンガラ:第二酸化鉄)によって、幾何学文様や大刀・盾・靫などの具象的な壁画が良好な状態で遺存する。 】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「虎塚古墳」 =「トラィ・テュク」=「湿地の水たまりの・小山」
◎縄文語:「幡田郷/幡多郷/幡多郷/幡陀郷/波多郷 =「ハッタル」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「十五郎横穴群」 =「チゥ・カ・オロ」=「水流、水脈の・ほとりの・ところ」
『日本の中の朝鮮文化』の中では、虎塚古墳を渡来系の古墳にしようとする意図が感じられますが、茨城県(常陸国)の古墳は、ほかにも七世紀代まで縄文語解釈可能なものが散見されるので、この古墳も南方系の日本先住民の墓である可能性が高いと云えます(※第七十回コラム参照)。たとえ朝鮮半島由来であっても、朝鮮半島南部の倭人と同系の民族ということです。
虎塚古墳の所在地をご覧下さい。 那珂川支流の中丸川沿いの低地にある峰の上に築かれています。「虎塚古墳」が「湿地の水溜まり」と縄文語解釈できるだけでなく、南に接する「十五郎穴横穴墓群」は「水流、水脈のほとりのところ」、所在地の「幡田郷」は「ハッタル=淵、水が深くよどんているところ」と解釈可能で、地勢と完全に辻褄が合っています。
■虎塚古墳(南南東約200mに十五郎穴横穴墓群)
ちなみに「常陸国」は那珂川の河口の地勢を表しています。常陸国風土記にあるような「袖をひたしたから」とか「真っ直ぐな陸路(直通:ひたみち)だから」といったような由来ではありません。
◎縄文語:「常陸」
=「ピタル・チャ」=「小石河原(or砂原)の・岸」
or「ピタル・チャル」=「小石河原(or砂原)の・河口」
■那珂川河口
秦氏にこじつけられているその他ハタ郷(幡田郷/幡多郷/幡多郷/幡陀郷/波多郷)ですが、通説では、「ハタ=海(朝鮮語)を渡ってきた秦氏系の人々が住んでいた」ということになっています。実際に上記ハタ郷はいずれも海沿いの地勢で、一見説得力があるように見えます。
しかし、「ハタ」を冠する地名は海際だけでなく内陸にも無数に存在します。本当に秦氏由来なのでしょうか。ここでは代表として「秦」と「幡(はた)」「波多」「羽田(はた・はだ)」のつく内陸の地名を探ってみたいと思います。
下部の例をご覧ください。秦氏の出身地の太秦も含め、ほぼすべて「淵、水が深くよどんでいるところ」の意です。決して「海の近く」でもなく、「秦氏がいた」ことを示している訳でもありません。
「ハッタル=淵、水が深くよどんでいるところ」などという地勢は、日本全国に無数にあります。このようにいちいち秦氏由来とされても大変困るのです。
また、秦氏の氏神で有名な京都の松尾大社ですが、これも類似の解釈が可能で、完全に辻褄が合います。
◎縄文語:「秦」=「ハッタル」=「淵」(桂川)
◎縄文語:「太秦」=「ウテュル・マサル」=「間の・水辺の草原」(桂川と支流、または鴨川の間の草原)
◎縄文語:「桂(川)」
=「コッチャル」=「谷の入口」(保津峡の入口)
◎縄文語:「松尾」
=「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」(桂川の岸辺)
■京都市太秦(西南に松尾大社。桂川沿い)
余談ですが、松尾大社に関連して、祭神は大山咋神、市杵嶋姫命で、「松尾神社略記」には次のようにあります。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
■「市杵嶋姫命」について(「松尾神社略記」 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【市杵嶋姫命は、古事記に「天照大神が素戔嗚命を天安河を隔てて制約された時、狭霧の中に生れ給うた」と伝える神で、宗像三女神の一として古くから海上守護の神徳を仰がれ給うた神である。恐らく外来氏族である秦氏が朝鮮や支那と交通する関係から、古代において合わせ祀られたものであろう】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「市杵嶋姫命」=「エテュ・ケ・スマ」=「岬の・ところの・石」
◎縄文語:「田心姫命」
=「タク・ルム」=「石の・岬」
◎縄文語:「湍津姫」
=「タク・チャ」=「石の・岸」
市杵嶋姫命含め、宗像三女神ですが、縄文語解釈すると、これらは玄界灘沿岸の地勢と捉えることができ、同じ地勢の言い換え表現であることが分かります。すなわち、先住民による岩礁の自然崇拝だったということです。もともと縄文語(アイヌ語)起源です。たとえ渡来人であっても、倭人と同系の民族であることには変わりありません。つまり北方系渡来人(百済、高句麗)由来ではありません。
※百済については、王族は高句麗と同源の扶余族で、
庶民とは言語が異なっていたという説があります。つまり、庶民は南方系で、王族は北方由来だったということです。⇒wikipedia(百済語)
■宗像大社中津宮の所在地、大島
以下「ハタ」を冠する地名の地勢。ほぼすべて「ハッタル=淵、水が深くよどんだところ」の地勢。
■神奈川県秦野市(秦野戸川公園) ※「ハッタル・ノッ=淵の・岬」
■奈良県磯城郡田原本町秦庄
■岡山県総社市秦
■大阪府寝屋川市秦町
■愛知県岡崎市秦梨町
■高知県高知市秦南町
■幡鎌(はたかま) 静岡県掛川市
■幡ヶ谷(はたがや) 東京都渋谷区 ※和泉川沿い。現在暗渠。
■幡川(はたがわ) 和歌山県海南市
■幡崎町(はたざきまち) 佐賀県鳥栖市
■幡代(はたしろ) 大阪府泉南市
■幡町(はたちょう) 茨城県常陸太田市
■幡西町(はたにしちょう) 愛知県瀬戸市
■幡野町(はたのちょう) 愛知県瀬戸市
■幡野町(はたのちょう) 愛知県名古屋市熱田区
■幡生新町(はたぶしんまち) 山口県下関市
■幡生本町(はたぶほんまち) 山口県下関市
■幡保(はたほ) 福岡県大川市
■幡谷(はたや) 千葉県成田市
■幡谷(はたや) 茨城県小美玉市
■幡谷(はたや) 宮城県宮城郡松島町
■幡谷(はたや) 群馬県利根郡片品村
■幡山町(はたやまちょう) 愛知県瀬戸市
■幡路(はだち) 兵庫県丹波篠山市
■音戸町波多見(おんどちょうはたみ) 広島県呉市
■掛合町波多(かけやちょうはた) 島根県雲南市
■北波多(きたはた) 佐賀県唐津市
■口波多(くちはた) 鳥取県八頭郡智頭町
■西波多(にしはた) 奈良県山辺郡山添村
■波多(はた) 鳥取県八頭郡智頭町
■波多江(はたえ) 福岡県糸島市
■波多瀬(はたせ) 三重県多気郡多気町
■波多津町(はたつちょう) 佐賀県伊万里市
■波多島(はたとう) 熊本県葦北郡芦北町 ※「パ・タ・アン・トー=岬・に・ある・海」の意か。
■三角町波多(みすみまちはた) 熊本県宇城市
■南波多町(みなみはたちょう) 佐賀県伊万里市
■赤岩羽田(あかいわはだ) 宮城県気仙沼市 ※「パ・タ=岬・の方」の意か。
■鶴羽田(つるはだ) 熊本県熊本市北区 ※「チル・ハッタル=したたる・淵」
■鳥羽田(とりはた) 茨城県東茨城郡茨城町 ※「トラィ・ハッタル=湿地の・淵」
■西羽田町(にしはだちょう) 愛知県豊橋市
■羽田井(はたい) 鳥取県西伯郡大山町 ※「ハッタル・エ=淵の・頭」滝つぼ?
■羽田町(はたまち) 大分県日田市
■羽田(はだ) 大分県大分市
■水沢羽田町(みずさわはだちょう) 岩手県奥州市
ここから
ハタ郷(幡田郷/幡多郷/幡多郷/幡陀郷/波多郷)。
■幡太郷(三河国渥美郡)※渥美半島東部か。※朝鮮語の「ハタ=海」の意ともとれる。
■幡多郷(遠江国長下郡)※天竜川河口西岸、一部東岸。天竜川の河口は幾筋もの河川が網の目のように流れ、至る所によどみをつくっていた。⇒国土交通省HP(天竜川 ) ※朝鮮語の「ハタ=海」の意ともとれる。
■幡陀郷(紀伊国安諦郡)※紀伊国安諦郡秦里。※和歌山県有田市付近。有田川河口付近の低地。河口には塩性湿地(⇒wikipedia)があります。※朝鮮語の「ハタ=海」の意ともとれる。
■波多郷(肥後国天草郡)※朝鮮語の「ハタ=海」の意ともとれる。
第二百二十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~京都八坂神社・伏見稲荷大社~」
×「八坂神社」由緒(『八坂神社由緒略記』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【八坂神社は祇園さんの名で親しまれ、信仰されている。八坂神社の創立については諸説があるが、斉明天皇二年(656)、高麗より来朝せる伊利之使主が新羅国牛頭山にます素戔嗚尊を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まるとの説は、日本書紀に素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に降り曾尸茂梨に居られたとの伝、また新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとの記録と考え合せて、ほぼ妥当な創立と見てよい。
尚この東山の地は、京都の町から見て瓜生山の麓に当り、また午頭天皇示現の地と伝える瓜生石も存し、また法観寺もあり、この一帯は霊地として信仰の対象であった事を思えば、創立は斉明天皇期以前を想定し得る。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「八坂(神社)」=「ヤン・サン・カ」=「陸岸にある・出崎の・ほとり」(華頂山のほとり)
◎縄文語:「新羅」=「シロケシ」=「山裾」(華頂山のふもと)
◎縄文語:「牛頭」
=「コッチャル」=「谷の入口」=白川と鴨川の合流地点
or「コッ・チャ」=「窪地の・岸」=八坂神社本殿下の池の岸
縄文語で解釈すれば、八坂神社の地勢そのままを示していることが分かります。斉明天王の時代はすでに北方系渡来人が王権を簒奪した後なので、神社の由緒などは周辺氏族の出自を装飾するために創作されたものが多くなっています。
※北方系渡来人による王権簒奪、上代日本語への言語の切り替わりについては第九十二回コラムをご参照下さい。第三十代敏達天皇で民族が入れ替わり、乙巳の変で言語が変わっています。
八坂神社の由緒にもご多分に漏れず「新羅にいた素戔嗚尊を祀った」とそれらしく書いてありますが、結局は先住民の縄文語の地名に漢字を充てて都合のよい物語を創作しただけです。日本全国に無数にある「シロケシ=山裾」という地勢に「新羅」という漢字が充てられた結果、めでたく新羅由来の素戔嗚尊が登場することになりました。
「シロケシ」と同様に「シル・オ」も「山・裾」と解釈でき、山裾の地勢には「将軍」「駿河」「新羅」「親王」「新皇」「白」「塩」などの漢字が充てられていて、新羅系渡来人のほか、「将軍/親王が埋葬されている」「塩が採れる」などの創作物語が付加されている例が多数あります。
古事記で語られる「稻羽之素菟(因幡の白兎)」も同様で、「シル・オ・ウン・サ・ケ=山・裾・にある・浜・のところ」で白兎海岸を指しています。 このような無数の創作物語の下に先住民は眠っています。
(※「山裾」「因幡の白兎」の詳細は「日出ずる国のエラーコラム[総集編]No.6」参照)
■八坂神社/白川
既出ですが、私見では素戔嗚尊は豊国出身で、日本書紀一書で語られる「新羅」「曾尸茂梨」は大分の国東半島です。
◎縄文語:曾尸茂梨=「シスマ・ルム」=「大きな石の・岬」
◎縄文語:大分=「オオ・ウェン・タク」=「大きな・険阻な・石」
◎縄文語:〔旧国名〕碩田(おおきた)=「オオ・ケィ・タク」=「大きな・岬の・石」
◎縄文語:国東半島=「クッ・ネ・サン・ケ」=「崖・の・出崎・のところ」
◎縄文語:大綿津見=「オオ・ウェン・タク・テュ・モィ」=「大きな・険阻な・石の・岬の・入り江」
◎縄文語:豊玉(彦)=「ト・ヤ・テュ・モィ」=「海・岸の・岬の・入り江」
これも繰り返しになりますが、八坂神社南方の伏見稲荷大社の由緒もまったくの創作です。縄文語では神社名も祭神名も後背の稲荷山の地勢を表していることが分かります。(※詳しくは「第八十回コラム」参照)
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「稲荷大社」由来(山城国風土記逸文『延喜式』神名帳頭註)
【風土記にいう。伊奈利というのは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等の遠祖、伊侶具の秦公が穀物を多く収穫し、裕福になった。それで、餅を的としたが、白い鳥に変って飛び去った。そして、山の峯にいて、そこに稲が生えた。よって社の名とした。その子孫は、先祖の過ちを悔い、社の木を引き抜き、家に植えて祭った。今、その木を植えて育てば幸福を得、枯れれば幸福にはならない】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「稲荷」=「イナゥ・リク」=「幣の・高台」=高台の祭場=稲荷山山頂の祭場⇒google map
◎縄文語:伏見稲荷大社の主祭神「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」
=「ウカゥ・ウン・ミンタル」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=磐座⇒写真(google画像検索)
◎縄文語:稲荷神の眷属「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のついている崖」=稲荷山⇒写真(google画像検索)
第二百二十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[京都]上狛高麗寺・薬師如来像~」
×「高麗寺」について(『朝日新聞(大阪)京都版』1967/6/13 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【
入羽踊り始まっさい
アヨイトコセ、ヨイヨーイヨイ
アー南無阿弥陀
ヨイヨーイヨイ
アー弥陀を頼みてせえ
極楽へこら導きせえ給えや
セーサーサーヨイトコセ
ヨイヨーイヨイ
奈良から京に都が移る二百年以上も前のこと。京都には中国、朝鮮からの帰化人が定住し、養蚕やすぐれた土木技術などで、大和朝廷を側面から支えた。こうした帰化人グループのなかで、南山城地方に勢力を張ったのが朝鮮の狛(こま)氏。その本拠地は、地名が語るように、相楽郡山城町上狛であったといわれる。木津川の北岸にあり、奈良街道から伊賀上野への分岐点をおさえる要衝だけに、山城平野一帯に号令をかけるには絶好の地だった。
このエキゾチックな歴史に、輪をかけるのがこの踊り唄の由来である。聖武天皇(724~749)のとき、高麗の高僧恵弁、東聡の二人が薬師如来像を持って渡来、この地に高麗寺を建てた。その供養のために、精霊踊りをはじめたというのだ。
話がこうトントン進むと、「上狛の精霊踊りは朝鮮渡来か」といわれそうだ。たしかに、白一色の装束など、古代朝鮮民族のニオイを感じさせる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「高麗/狛」=「コム・マ」=「(持ち手の曲がりのような)湾曲する・谷川」(木津川の湾曲)
神奈川県の「高麗山」、埼玉県の「高麗川」、東京の「狛江」でも書きましたが、全国の「高麗/狛」は「湾曲する川」あるいは「湾曲する山(丸山)」を指します。※詳しくは「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」No.12参照)
上狛の高麗寺の場合は「木津川の湾曲」を指したと捉えられます。発音を機縁にして高麗人が移り住んだか、あるいは渡来物語が創作されたかのいずれかです。
聖武天皇は奈良時代初期の在位で、当時は統一新羅の時代です。高句麗が唐、新羅連合軍に攻め滅ぼされたのは六六八年ですから、高麗人が半島の難を逃れて日本で勢力を伸張させるタイミングとしてはピッタリです。縄文語の発音を機縁にして実際に高麗人が移り住んだのかもしれません。
先住民文化を渡来系の新たな歴史で上書きするために、渡来物語が創作可能な地域への移住が積極的に行われた可能性もあります。
■高麗寺(京都府木津川市山城町上狛) ※木津川が湾曲。
■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。
■大磯高麗山 ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。
全国の「薬師」は「岸辺」の意です。薬師如来像も縄文語の発音を機縁にして納められた可能性があります。高麗寺の場合は、もちろん木津川の岸辺の意です。
◎縄文語:「薬師」=「ヤ・ケシ」=「岸の・末端」(木津川の岸辺)
※「薬師」の詳細は「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」No.25参照)
このように縄文語が漢字で表記され、渡来物語で上書きされると、先住民文化は跡形もなく消えていきます。その態度はまさに徹底的です。
第二百二十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~大阪/百済野・平野川(百済川)・駒川・大別王寺~」
×「百済野・平野川(百済川)」について(『大阪ガイド』大阪府警察本部編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【百済野
生野区の北方旧鶴橋町に属した一円はもと百済郡百済郷の地で、仁徳天皇のころ百済の帰化人が集団居住したところといわれる。この地を南から北へ縦断する平野川は、また百済川とも呼ばれた。
平野運河
生野区の西部を北流する旧平野川はまるで蛇のようにうねうねと屈曲して、大雨のたびにつねにあふれ、沿岸の住民に被害を与えたので、直線の新運河を開いてこれを防いだもの。昭和十五年に、旧川は埋め立てられた。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「百済」=「クッチャル」=「湾、湖沼、河川の入口」(河内湖に注ぐ平野川の河口)
他の地域の百済も同様の地勢です。大阪の百済は河内湖に注ぐ平野川を指したと考えられます。平野川の下流域で合流する川に「駒川」があり、地名としても残っています。縄文語では、
◎縄文語:「駒(川)」=「コム・マ」=「湾曲する・谷川」(蛇行する平野川の旧流路)
と解釈できます。引用中にもある「蛇のようにうねうねと屈曲」する平野川の旧流路を指したと考えられます。
仁徳天皇云々の話は別として、百済郡の設置は舒明天皇三年(631)に百済王子の豊璋と善光が来日した影響が強いとされています。六世紀中~七世紀中にかけては、ちょうど百済系渡来人がヤマト王権を簒奪する時期にあたり、それを確実にするのが蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(645)です(第九十二回コラム参照)。
このあたりの時代から北方系渡来人による日本の歴史の改竄が始められていたとするならば、先住民文化を抹殺するような記紀風土記の内容にも矛盾なくつながっていきます。
■平野川
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大別王寺」について(『摂津国百済寺考』藤沢一夫 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「日本書紀」敏達天皇六年(577)11月の条に、「百済国王は還使の大別王等に付して、経論若干巻、並びに律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工6人を献り、遂に難波の大別王寺に安置せり」とある記事の中に見える大別王寺は注目されるものである。同じく「日本書紀」によれば、同年五月、大別王は百済国に使したのであり、この記事の注記には「大別は未だ所出を詳らかにせざるなり」とあるが、「太子伝古今録抄」には「一 大別王の事、余昌(百済聖明王の王子)か、大唐の人なり」と推定している。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「大別王」=「オオ・ワッカ・オ」=「大きな・水の・尻」(河内湖の奥)
縄文語解釈すると「大別王」とは「河内湖の奥に住んでいる者」という意味になります。
この地域一帯を「河内湖に注ぐ蛇行する川の河口」と表現すれば、「百済=河川の入口」、「駒(川)=蛇行する谷川」、「大別王=大きな水の奥」すべてつじつまが合います。
朝鮮半島の百済も「黄海の入口」と解釈できます。朝鮮半島南部は倭人と縄文語を共有する同系(南方系)の民族ですが、百済王族は高句麗と同系の扶余族由来で、庶民とは言語が異なっていました。⇒wikipedia(百済語)
第二百二十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]秦上郷、秦下郷・穴織神社・呉服神社・豊中市勝部・伊居太神社・くれはの里~」
×「摂津手島郡秦上郷、秦下郷・穴織神社・呉服神社・豊中市勝部」について(『大阪府の歴史』藤本篤 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【五世紀の前後からは、大陸や半島からの帰化人が、高度の文化をたずさえて、ぞくぞくと難波津に上陸した。秦の始皇帝の子孫と称する湯月君は、応神朝に120県の人びとをひきいて帰化し、ついで阿知使主は、その都加使主、およびその一党17県の帰化人をつれて上陸している。
これらの帰化人は、難波津をとりまく摂河泉に多く移住した。弓月君とともに来日した人びとは、はじめ大和におかれたが、仁徳朝になって諸国にわけられた。彼らは養蚕をおこない絹を織って献上したが、それがやわらかく肌にあたたかいので、波多(秦)公の姓を賜ったという。摂津豊島郡の秦上郷、秦下郷(いずれも池田市域)には、穴織社(あやはとりしゃ)・呉服社(くれはとりしゃ)があり、阿知使主を呉に派遣してまねいた織女の穴織・呉織をまつった。<中略>秦氏所属の部民として、これにゆかりのある勝部(豊中市勝部)がその南方にあるのも、十分うなずける。<中略>勝部の東方に服部(豊中市服部)というところがあるが、服部は呉の機織の意味であり、これまた呉服の里の延長として、機織部の住んでいたところとも推定される。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「秦上郷、秦下郷」=「ハッタル」=「淵、水が深くよどんでいるところ」
◎縄文語:「穴織(社)」=「アゥ・ヤ・ハッタル」=「枝分かれた(隣の)・陸岸の・淵」(枝分かれた、隣の湖沼の岸)
◎縄文語:「呉服(社)」=「キル・ハッタル」=「山の・淵」(五月丘の麓の淵)
通説にはこのような漢字表記にこじつけた創作物語が堂々とまかり通っています。実際は漢字表記が縄文語(アイヌ語)の仮借で、もともとは先住民が呼んだ土地の名称です。だいたい、応神天皇の頃の内容など信用できるはずもありません。何度も言いますが、「ハタ=ハッタル」は「淵、水辺」のことであり、京都の太秦も同じ地勢です。(※秦氏については第二百二十二回コラム参照)
秦上郷にある二つの神社ですが、こちらは穴織神社が「枝分かれた湖沼の岸辺」、呉服神社が「山の麓の小河川の岸辺」に立地しています。阿知使主、都加使主親子はそれぞれの神社の言い換え表現になっています。「呉から穴織・呉織を招いた」などと書かれていますが、まったくの創作と思われます。
◎縄文語:「阿知(使主)」=「アゥ・チャ」=「枝分かれた・岸」(穴織神社)
◎縄文語:「都加(使主)」=「テュ・カ」=「岬の・ほとり」(呉服神社)
呉服神社の背後の丘陵は五月丘緑地と呼ばれていますが、これも辻褄の合う解釈が可能です。
◎縄文語:「五月(山)」=「サン・テュ・ケ」=「平山の・峰・のところ」
五月山は、古くは「佐伯山」とも呼ばれていました。
◎縄文語:「佐伯(山)」=「サン・エ・ケ」=「平山の・頭・のところ」
■穴織神社 ※「枝分かれた、隣の湖沼の岸辺」に立地。 ■呉服神社 ※「五月丘の麓の小河川の岸辺」に立地。 ■五月山(佐伯山) ※平山の峰。
秦氏の部民の「勝部」がいたとされる豊中市勝部も地勢と完全に一致する縄文語解釈が可能です。
◎縄文語:「勝部」=「コッ・ペ」=「窪地、谷の・水」(千里川の岸辺)
■豊中市勝部 ※猪名川支流の千里川の分岐点。
「服部(豊中市)は呉の機織の意味で、機織部の住んでいたところとも推定される」とありますが、万一事実だとしても、地名由来は縄文語です。こちらももちろん「ハッタル=淵、水が深くよどんでいるところ」の意で、服部緑地を指しています。
■服部緑地 ※池が豊富にある緑地公園。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「伊居太神社・くれはの里」について(『グラフいけだ』第八号 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【五世紀の頃、中国から機織の工人がたくさんこの地に来朝し、機織の技術を伝えました。その後この地方はこれらの帰化人によって開発され、古代には秦氏、漢氏が豊島郡司としてこの地方を治めました。いま 伊居太神社 、呉服神社に祭られている漢織姫、呉服姫の二神は、この地方開発の祭神として伝えられています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、坂上氏が私領地を開発し、勢力が拡大するにしたがって、池田地方は「くれはの里」と呼ばれるようになりました】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「伊居太(神社)」=「エンコル・タ」=「岬の・方」(五月山の方)
◎縄文語:「綾織(あやは)(神社)※伊居太神社別名」=「アゥ・ヤン・パ」=「隣の・陸岸にある・岬」(五月山)
◎縄文語:「くれは(の里)」=「キル・パ」=「山の・岬」(五月山の出崎)
いずれも伊居太神社後背の五月山を指しています。機織り渡来人物語は漢字表記にこじつけた創作物語とするのが妥当で、どこまで真実を反映しているのか不明です。六~七世紀にヤマトが北方系渡来人勢力にとって代わられた結果、このような創作物語で地方の先住民文化が上書きされていきます。日本の神々はこれらの作業を補助する役割を担っています。(※「日出ずる国のエラーコラム[総集編]」参照)
■ 伊居太神社 ※所在地は池田市綾羽。
余談になりますが、穴織神社の「穴」はしばしば地名にみられる漢字です。穴織神社の場合は「アヤ」となっていますが、通常は「アナ」です。縄文語で解釈すれば、
◎縄文語:「穴」=「アゥ・ナ」=「枝分かれた(隣の)・方」
という意味になります。穴薬師神社であれば、
◎縄文語:「穴薬師」=「アゥ・ナ・ヤ・ケシ」=「枝分かれた(隣の)・方の・陸岸の・末端」=隣の岸辺
となります。
『日本の中の朝鮮文化』の中では朝鮮半島南部の伽耶地域にあった安那(アナ)、安耶(アヤ)、安羅(アラ)に結びつけていますが、「安那=隣の方」「安耶=隣の岸辺」「安羅=隣の低地」などという地勢はどこにでもあるので、発音だけを頼りに結び付けるのは危険です。
中国大陸の東夷南蛮同様、朝鮮半島南部も縄文語圏(アイヌ語圏)なので、同じ地勢であれば、同じ地名になっていてもまったく不思議なことではありません。 (※中国大陸の漢代県名の縄文語解釈については「日没する国のエラーコラム」第百九十七回~第二百二回をご参照ください)
第二百二十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]百舌鳥古墳群・百舌鳥八幡宮・百舌鳥百済村~」
×「百舌鳥八幡宮」由来(wikipedia)
【神功皇后が三韓征伐の帰途、この地において幾万代まで天下泰平民万人を守ろうとの御誓願を立てたとし、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇(532-571)の時代、この地を万代(もず)と称したのがきっかけと伝わる。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「百舌鳥」=「モ・テュ」=「小さな・峰」(古墳群のある台地)
◎縄文語:「百舌鳥八幡」=「モ・テュ・ペッチャム」=「小さな・峰の・川端」(台地の川端)
縄文語解釈では百舌鳥は「大阪湾を望む台地」を指し、「八幡」は「川端」を指します。全国の「八幡」を冠する地名、神社は「川端」にあります。神功皇后の地名由来は言うまでもなく創作物語で、もし原始信仰があるとするならば、先住民による川端の自然崇拝になります。「富士見」「二見」「人見」なども同語源です。
■百舌鳥八幡宮 ※百舌鳥古墳群のある台地の川端。
また、この周辺にはかつて百舌鳥百済村がありました。百舌鳥古墳群の南をながれる石津川の支流が百済川と呼ばれています。
◎縄文語:「百舌鳥百済村」=「モ・テュ・クッチャル」=「小さな・峰の・入口」(百済川)
「クッチャル」を分解すると「クッ=喉」「チャル=口」なので、「湖沼や湾の入口の河川」等に名付けられます。百済川の地勢そのままです。
須恵器工房で栄えた地域ですが、一般的に須恵器は朝鮮半島由来で、特に南部の伽耶のものが多いとされています。伽耶と百済では民族が少々異なります。馬韓由来の百済庶民と伽耶は南方系で倭人と同系、百済王族は北方の高句麗、扶余と同系です。
百舌鳥百済村の地名由来は縄文語です。倭人と言語を共有する朝鮮半島南部の人々が土着したというのであれば、無理なく理解できます。
■百済川 ※百舌鳥古墳群のある台地の入口の川。
第二百二十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]白木・多々良・白山・朝鮮半島多羅・釜山ーなぜ朝鮮半島と日本に共通の地名が存在するのか?~」
×「白木・多々良・白山」について(『河南町史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【住吉神社神代記の生駒神南備山本紀に「河内国白木坂」の名が再三出ている。千数百年も昔のことであるが、白木の名はひろくこの地方の呼び名であったのかも知れない。
(現白木町)長坂の北部に多々良という字地があり、中世この地に勢力をもっていた多々良氏は朝鮮新羅の王族が帰化したものであって、シラキ(白木)の名が、これから生れたという説もある。<中略>
多々良と呼ばれている地に、中世まで多々良村というのがあった。多々良千軒の古伝は架空の言ではないのである。森に包まれた神祠が西の大地にまつられ、一般に多々良ノ宮といった。長坂村(現白木町)が白山権現とあおぎ、明治の初めまでまつっていた。】
×「多々良」について(『河南町史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(後太平記に云)多々良氏野上修理亮は楠家に仕えて誉あり、然れども次第に衰え、終には正勝十津川の方へ漂泊し、和田等も悉く何処ともなく逐電せし故、多々良の某も我館を立ちのかんとせしが、先ず琳聖太子の宮に詣で御暇乞せしと書けり。・・・・・・この多々良の某は長坂、白木に間に住しと見えたり。多々良の谷と云所今にあり。琳聖太子(百済聖明王の第三子)は多々良氏の祖神也。かつて我館の辺に琳聖太子を請じて宮を建て、氏神とせしと聞こえたり(可正旧記)。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「白木/新羅」
=「シロケシ」=「山裾」
or「シル・オ・ケ」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「長坂」=「ナィ・カ・サン・カ」=「川・岸の・出崎の・ほとり」
◎縄文語:「多々良」=「テューテュク・ラ」=「出崎の・低いところ」 (多々良の谷)
◎縄文語:「白山」=「シル・オ・ヤマ」=「山裾の・山」(金剛山地のふもとの山)
縄文語解釈をまとめると「金剛山地のふもとの川沿いの山裾」ということになります。地勢と完全に一致しています。繰り返しになりますが「シロケシ」or「シル・オ」には、「新羅」「駿河」「将軍」「白」「塩」「親王」「新皇」などが充てられています。地名はあくまで縄文語で、朝鮮半島由来ではありません。
多々良氏がこの地に住んで「琳聖太子(百済聖明王の第三子)」を勧請したとありますが、これは「高麗」とまったく同じロジックのこじつけ物語です。
全国の「高麗」の地名は「コムマ=湾曲した谷川」or「コム=丸山」の地勢です。縄文語の音に似ているというだけで「高麗」という漢字が充てられ、「高麗人が移り住み、高麗神社が建てられた」等の物語が創作されました。どこまで史実を反映しているか不明ですが、この類の物語で日本の先住民文化が徹底的に上書きされたことだけは確かです。(※「高麗」の地名由来については、第二百八回コラム参照)
「多々良の谷」についても、決して多々良氏が住んだからそう呼ぶことになった訳ではありません。もともと「出崎の・低いところ」の地勢で縄文語で「テューテュク・ラ」と呼ばれていた地域だったからです。
以下、googleマップで「白木」地区の地勢をご確認ください。また、「多々良=テューテュク・ラ」の発音が少々ズレているので、傍証として他地域の「多々良」を冠する地名も挙げています。例外なく「出崎の低いところ」の地勢です。
■大阪府南河内郡河南町白木 ※金剛山地のふもとの川沿いの山裾。
■たたら浜 神奈川県横須賀市鴨居 ※岬のふもとの浜。
■多々良木 兵庫県朝来市 ※「テューテュク・ラケ=出崎の・低いところ」。
■多々良潟 広島県廿日市市宮島町 ※山裾の低地。
■多々良 山口県防府市 ※山裾の低地。大内氏上陸の説あり。推古天皇のころ、この浜に上陸し、百済聖明王の第三子琳聖太子の後裔と称した 。
■多々良(対岸の山裾)福岡県福岡市 ※多々良川沿いの山裾の低地。
■多々良町 熊本県水俣市 ※山裾の低地。
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「朝鮮半島の多羅」について(『朝鮮語源の日本地名』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【六世紀のころの任那の地図を見ると、「多羅」がある。いまのナクトン(洛東)江流域の中ほどで、ジンジュ(晋州)からの支流が合流する平野部、現在も米の産地であるが、六世紀早々から任那は衰微期に入り、百済、新羅の両国に次第に圧迫されて、国状は不安定であった。
当時、新羅は洛東江流域まで進出したが、国境近くにあって不安におびえた多羅附近の農民たちは、河の流れに乗ってプサン(釜山)に出て、対馬、壱岐を経て唐津に渡り、この「多良岳」のふもとに安住の地を求め、ふる里を偲んで、こう名づけたのではあるまいか。有明海に面した岳麓、佐賀県藤津郡に「太良町」がある。「肥前風土記」には「託羅郷」とあり、早くから開拓された農漁村で、畑作が主である】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「多羅/多良/太良(町)」=「タン・ラ」=「こちらの・低いところ」
縄文語の「タン=こちらの」は、近隣により大きな同様の地勢がある場合がほとんどです。朝鮮半島の「多羅」は洛東江流域の低地で、洛東江下流、あるいは支流の上流に大きな低地があります。
多良岳の場合は、東麓に多良町があり、多良川が有明海に注いでいます。これも小さな低地で、南北に大きな低地があります。
話がそれますが、「釜山」は洛東江河口の地勢を表しています。
◎縄文語:「釜山」=「プッ・サン」=「河口の・出崎」
■多羅 朝鮮半島 ※洛東江流域、晋州からの支流が合流する平野部。
■多良岳の麓の多良町 ※有明海に面した低地。
この問いの答えは至極簡単です。日本全域、朝鮮半島南部、中国大陸の東夷南蛮は、同じ南方系の民族で縄文語(アイヌ語)を共有していたからです。遙か雲南地方の少数民族のイ族が日本語の一部(縄文語由来の単語)を理解できるのはそういう理由です。
しかし、中国、朝鮮半島、日本のいずれの南方系先住民も、後世北方系民族(遊牧民)に侵略され、使用言語も変えられてしまいました。それぞれの国で侵略した側に都合のよい地名解釈、歴史解釈が語り継がれています。山海経の妖怪や日本の八百万の神も先住民が名付けた地名を漢字表記にこじつけて無理やり解釈した結果生まれたものです。
日本であれ、朝鮮半島であれ、中国であれ、同じ地勢であれば、同じ縄文語地名であってもまったく不思議はありません。逆に共通の地名が多ければ多いほど「縄文語」の同言語圏だった可能性が高くなります。
ですので、同じ地名が登場するたびに、朝鮮系渡来人の活躍物語が語られ、南方系の日本先住民の歴史が上書きされては大変困るのです。残念ながら、日本の歴史はそのようなことを千年以上も続けています。
第二百二十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]藤井寺(葛井寺)・岡・羽曳野・誉田・船氏・津氏~」
○「葛井寺」について(『葛井寺HP』より引用)
【葛井寺は七世紀前半百済からの渡来人葛井氏の氏寺として創建されたと伝わります。 葛井氏の前身である白猪氏は朝廷から葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜ります。 日本で初めて体系的に刑法や行政法と民法を揃えた法典「大宝律令」(701)の作成にも葛井一族は大きく関わっており、葛井氏は新しい文化を多くもたらします。その実績が認められ広大な土地を賜り、その地に寺を建立し葛井寺の基が始まったとされます。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「葛井(寺)」
=「プッ・チャ・エ」=「川口の・岸の・頭(岬)」
or「プッ・チャィ」=「川口の・岸」
この縄文語は、周辺の地名と整合性を持たせて解釈したものです。この一帯は「川下の岬(古市古墳群)」の解釈で一致しています。川下というのは石川の下流域という意味で、石川と大和川の合流点を指したものと思われます。
◎縄文語:「羽曳野」=「パンパケ・ノッ」=「川下の・岬」
◎縄文語:「誉田(こんだ)」=「コッチャル」=「谷の入口」
◎縄文語:「誉田(ほんだ)」=「ホ・ウン・テュ」=「川尻・にある・岬」
◎縄文語:「古市」=「フル・エテュ」=「丘の・岬」
地名の「誉田」はホムタからコンダに転訛したとの説が一般的ですが、縄文語ではいずれの地名があっても辻褄が合います。 よくある言い換え表現だった可能性もあります。
「古市」は古墳を指したと思われます。
藤井寺市には「土師ノ里」駅と「土師の里」交差点(誉田御廟山の北北東方約1㎞)があり、土師氏に由来すると言われています。西隣には、「林」「岡」の地名があります。これらに共通するのも「川下」です。
◎縄文語:「土師(藤井寺市)」=「パン・チゥ」=「川下の・水流、水脈」
◎縄文語:「林(藤井寺市)」=「パン・ヤチ」=「川下の・泥」
◎縄文語:「岡(藤井寺市)」=「オ・カ」=「川口の・岸」
【船氏(ふねうじ)は河内国丹比郡野中郷(大阪府藤井寺市・羽曳野市)を本拠地としたとされる渡来系氏族で、欽明天皇14年(553年?)に王辰爾が船の税を数え記録したことで氏名を賜ったという。】
×「船氏・津氏・葛井氏」について(『柏原市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【船氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から帰化した辰孫王の子孫で、その一族は国分の一帯に船氏、藤井寺市を中心に津氏、葛井氏の三氏に分かれてそれぞれ繁栄した。】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「船(氏)」 =「ペナ」=「上流」(国分を拠点とする/大和川川上)
◎縄文語:「津(氏)」 =「チャ」=「岸」 (藤井寺市)
◎縄文語:「葛井(氏)」
=「プッ・チャ・エ」=「川口の・岸の・頭(岬)」
or「プッ・チャィ」=「川口の・岸」 (藤井寺市/石川の川下)
藤井氏は前述のとおり、石川の河口付近を表し、津氏はその岸辺という意味です。
こちらの船氏と藤井氏は川下、川上で対比関係になっているように見えます。また、船氏の氏神を祀ったとされる神社に伯太彦神社、伯太姫神社がありますが、
◎縄文語:「伯太」 =「パンケ・タ」=「川下の・方」(大和川の川下)
とすれば、船氏が拠点とした国分の「川上」との対比表現となります。決して「船の税を数えた」から船氏というのではありません。
ちなみに、周辺地名を縄文語解釈すると、
◎縄文語:「片山」 =「カンチゥ・ヤマ」=「洪水の・山」(大和川と石川の合流点)
◎縄文語:「玉手山」 =「タン・マーテュ・ヤマ」=「こちらの・波打ち際の・山」(石川河口の岸辺の山)
◎縄文語:「松岡(松岳)山」 =「マーテュ・オカ」=「波打ち際の・跡」(国分の湖沼跡)
◎縄文語:「田辺」=「タン・ナムペ」=「こちらの・泉」(田辺池)
ですから、田辺氏が拠点とした玉手丘陵の東側に湖沼があったことが窺えます。そして、大和川と石川のに対して川上と呼んでいるのです。
■藤井寺 ※周辺一帯は「川下」の縄文語解釈で一致。
第二百二十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[大阪府]大狛神社・本堂・とっくり池・三郷・南畑・雁多尾畑(かりんどばた)・巨麻郷・安堂・高井田・松岳山古墳~」
○「大狛神社・雁多尾畑」について(『朝鮮の国名に因める名詞考』今村鞆 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【河内国中河内郡今の(当時の)堅上村の辺に当る。『和名抄』大県郡巨麻郷、『延喜式』大狛神社は堅上村大字本堂に在りて産土神なり。「河内志」高安山の東南にして、雁多尾畑の北なる山村なり。今、堅上村大字本堂及雁多尾畑の北なるべし。】
×「巨麻郷」について(『柏原市史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「巨麻郷」は本堂がこれに当る。ここには大狛神社が祀られてあり、奈良時代には狛一族の活躍が見られる。
本堂の文化財としては、まず第一に挙げられるものに区長相伝の唐式鏡(瑞華蝶鳥鏡)ある。いずれは狛一族の長のものだったかと考えられる優品で、本堂出土志那であるところに一層その価値が高い。)】
■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「大狛(神社)」=「オク・マ」=「窪地の・谷水」
◎縄文語:「本堂」=「ポン・トー」=「小さな・湖沼」
縄文語解釈は、大狛神社の北にある「とっくりダム(旧とっくり池)」を指したとすればピッタリです。住所は三郷町南畑(さんごうちょうみなみはた)です。南畑の近隣には、頭に東西北のつく「○畑」の地名はありません。つまり、「南」以外はありません。
◎縄文語:「とっくり(池)」=「トー・キリ」=「湖沼の・山」
◎縄文語:「三郷(町)」=「サン・コッ」=「出崎の・窪地、谷」
◎縄文語:「南畑」=「メナ・メムハッタル」=「上流の細い枝川の・古川や枝川にある深み」
■大高麗神社周辺 ※三郷町南畑。北方にとっくりダム。
「雁多尾畑」は大狛神社の南の地区です。そしてこの周辺は「巨麻郷」だったところです。もちろん「高麗」と同じく「湾曲する川」の地勢です。
◎縄文語:「雁多尾畑」=「カリ・トー・ハッタル」=「まわる・湖沼の・淵、深くよどんでいるところ」(湾曲する大和川)
◎縄文語:「巨麻」=「コム・マ」=「湾曲する・谷川」(湾曲する大和川)
雁多尾畑の南に接する安堂、高井田地区は「雁多尾畑」同様に「湖沼」の解釈が可能です。大和川沿いが湖沼の地勢だったことが分かります。
また、高井田地区対岸の松岳山(旧松岡山)には松岳山古墳があります。松岳山古墳は古墳時代前期の築造ですから縄文語解釈可能です。墓誌で有名な船王後(六世紀末~六四二)の墓ではありません。
◎縄文語:「安堂」=「アゥ・トー」=「枝分かれた・湖沼」
◎縄文語:「高井田」=「トー・カ・エテュ」=「湖沼の・ほとりの・岬」
◎縄文語:「松岡山」=「マーテュ・オカ・ヤマ」=「波打ち際の・跡の・山」
つまり、これらの地名由来に高麗人は関係ありません。先住民による命名です。
■湾曲する大和川 ※北岸が高井田地区。その西隣が安堂地区。