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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第三百三十一回~第三百四十回】

第三百三十一回第三百三十二回第三百三十三回第三百三十四回第三百三十五回第三百三十六回第三百三十七回第三百三十八回第三百四十回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]大避神社・坂越・生島・千種川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「大避神社・坂越・生島」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【「大避」とは妙な字をあてたものだったが、それは秦氏が酒の醸造法を伝えたので、その秦氏を大酒君ともいったことからきたものだという。京都の太秦にある大酒神社とおなじものなわけであるが、それがどういうわけか、こちらでは大避となっている。
 千種川を越えたとみると、間もなく樹木のこんもりと茂った小島の見える海辺についた。みると坂越浦の大避神社前で、いわゆる前方後円墳のような形をした島は、大避神社の祭神・秦河勝の墓所という生島だった。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「大避(神社)」 =「オオ・サン・ケ」=「大きな・出崎・のところ」
◎縄文語:「坂越」 =「サン・カ」=「出崎の・上」
◎縄文語:「千種(川)」 =「テュ・サン」=「小山の・出崎」
◎縄文語:「生(島)」 =「エンコ」=「岬」

 この周辺一帯は、地勢と完全に一致する縄文語解釈が豊富にみられるので、 「大避=酒」などというこじつけ解釈はありえません。日本の歴史はこういったデタラメ通説、俗説が堂々とまかり通っていて、とても真面目に読む気になれません。
 秦氏が「酒の醸造法を伝えた」などという物語も当然眉唾ものです。

 日本全国、秦氏が活躍する場所は決まって「水辺」です。「機織りが得意」というようなこじつけ物語ももちろんウソです。皮肉なことに「機織り」が縄文語の「ハッタ」の発音をそのまま表現しています。

◎縄文語:「秦(氏)」 =「ハッタ」=「淵、水が深くよどんでいるところ」

 赤穂市の坂越も生島に守られた小さな湾です。

 秦氏の京都の拠点の「太秦」と「大酒神社」、ついでに秦氏の氏神を祭る「松尾大社」、秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した「広隆寺」も縄文語解釈します。

◎縄文語:「太秦」 =「ウテュ・マサ」=「間の・水辺の草原」
◎縄文語:「大酒(神社)」 =「オオ・サ・ケ」=「大きな・浜・のところ」
◎縄文語:「松尾(大社)」 =「マーテュ・オ」=「波打ち際の・はずれ」

◎縄文語:「広隆(寺)」 =「コッ・ラー」=「窪地の・低いところ」

 初期の神社仏閣の名称はことごとく縄文語由来です。法隆寺、東大寺、飛鳥寺、四天王寺、伊勢神宮、春日大社、熊野本宮大社なども例外ではありません。しかし、それらの由緒で縄文語解釈が語られることは一切ありません。徹底してウソ物語で上書きしています。記紀風土記もまったく同じ態度です。

 繰り返しになりますが、漢字表記にこじつけた歴史物語はことごとくウソです。すべては六~七世紀にかけてヤマトの実権を握った北方系渡来人の出自を正当化するために創作されています。ここに八百万の神、日本神話の起源があります。日本の神様は残念ながら大嘘つきです。


■大避神社周辺地名の縄文語解釈 ※同色は類似解釈または対比関係。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■千種川坂越橋から左奥、三角形の茶臼山を望む。麓に大避神社(「大きな出崎」)。右手の千種、築地の解釈に含まれる「小山」との対比表現。 ※「茶臼山」=「竪穴式住居の形の山」


■大避神社周辺地名の縄文語解釈
◎縄文語:「築地」 =「テュ・チャ」=「小山の・岸」
◎縄文語:「高谷」 =「テュ・ヤ」=「小山の・陸岸」
◎縄文語:「黒崎」 =「キ・サン・ケ」=「山の・出崎・のところ」
◎縄文語:「大黒」 =「オオ・キ」=「大きな・山」
◎縄文語:「坪江」 =「テュ・ポ・エ」=「岬の・小さいものの・頭」
◎縄文語:「茶臼山」 =「チャ・ヤマ」=「砦、館の(形の)・山」※竪穴式住居の形の山
◎縄文語:「宝珠(山)」 =「ポン・シ」=「小さな・山」

■主要神社仏閣の縄文語解釈
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「稲荷(大社)」=「イナゥ・リ」=「幣の・高台(高台の祭場)」※稲荷山山頂の祭場。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。
◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師寺」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]西宮山古墳・出雲墓屋・野見宿禰・立野・的場山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「西宮山古墳」について(『田能』村川行弘 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【場所は播州平野の都会。脇坂氏の城下町でもある竜野氏の背後にそびえる的場山の南ふもと、俗に西宮山という高さ五〇メートルばかりの小高い山の頂上である。的場山の山すそには揖保川が流れ、古墳上からは緑の平野の向こうにはるか播磨灘をのぞむすこぶる眺望のよいところである。
 播磨風土記によれば、あの角力の祖先といわれる野見宿禰が出雲国に帰るとき、ここで病気にかかって死んだので、出雲の人たちが墓を作って出雲墓屋とよんだ、とある。】

×「立野・出雲の墓屋」について(『風土記/播磨国風土記』中村啓信 角川ソフィア文庫)
【立野。立野と名づけた理由は、昔、土師弩美宿禰(はにしのみのすくね)が出雲の国に行き通い、日下部の野で宿り、病気を患って死んだ。その時、出雲の国の人がやってきて並び立ち、人々は川の礫石を取り上げて運び渡して、墓の山を作った。だから、立野と名づけた。その墓屋を名づけて出雲の墓屋とした。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「西宮山(古墳)」 =「ニセィ・メ・ヤ・ヤマ」=「崖の・泉の・岸の・山」

 「西宮山古墳」は「湯屋谷池」の池畔にあります。「湯屋谷池」はため池ですが、「西宮山古墳」の縄文語解釈を参考にすると、ため池として活用される以前から泉があったのかもしれません。

◎縄文語:「湯屋谷(池)」 =「イェ・ヤ・タンネ・イ」=「石の・岸が・長い・ところ」

 「湯屋谷池」は「西宮山古墳」とほぼ同義です。


 記紀風土記は、縄文語の同一地名を結びつけて多くの物語を創作しています。野見宿禰の場合も、出雲と結びつけられたのは、立野に出雲と同じ地勢で同じ地名があったからです。
 出雲は、島根半島と宍道湖、中海の地勢を表現しています。

◎縄文語:「的場山」 =「マーテュ・パ・ヤマ」=「波打ち際の・岬の・山」※揖保川沿いの山。
◎縄文語:「立野」 =「テューテュ・ノッ」=「出崎の・あご(岬)」
※峰の突端
◎縄文語:「出雲/墓屋」 =「エテュ・モィ/パケ・ヤ」=「岬の・入り江/岬の・陸岸」

◎縄文語:「出雲」 =「エテュ・モィ」=「岬の・入り江」

 「岬の入り江」はどこにでもあるありきたりな地勢なので、同じ地名が与えられていてもまったく不思議はない訳です。縄文語の場合、「入り江」は内陸の同様の地形も指します。

 「野見宿禰」が登場したのも、その名前がちょうど「立野」の地勢、地名と一致したからかもしれません。

◎縄文語:「野見(宿禰)」
=「ノッ・メ」=「岬の・泉」

or「ノッ・ムィ」=「岬の・入り江」 =「出雲」


■西宮山古墳周辺地名の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 周辺地名も縄文語解釈可能なので、漢字表記こじつけ説がデタラメなのは言うまでもありません。

◎縄文語:「鶏籠山」 =「ケィ・ラー・ヤマ」=「頭が・低地の・山」※頂上が窪んだ山。
◎縄文語:「白鷺(山)」 =「シ・オ・サン・ケ」=「山・裾の・出崎・のところ」
◎縄文語:「粒(坐天照神社)」=「エ・エン・ポ」=「頭を・尖らせている・子(の山)」

 「鶏籠山」などはこれ以上ない命名です。山頂が窪んでいます。

■鶏籠山 ※山頂が窪んでいる山。



 「白鷺山」に含まれる「白」は「シ・オ=山・裾」の意で、頻繁に地名に登場します。「新羅」の漢字が充てられることもありますが、言うまでも無く新羅国とはまったく関係ありません。「白浜」は「山裾の浜」、「新羅明神」は「山裾の神社」です。神社のデタラメ由緒に騙されていちいち渡来人の活躍を語ってはいけません。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]八千軍野・粳岡・城牟礼山・粒丘・中臣印達神社~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「八千軍野」について(『新播磨めぐり』橋本政次 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
八千軍野(やちぐさの)古戦場 福崎町八千種
 むかし伊和大神と、韓国から渡ってきた天日槍命とがたがいに軍を発して戦った古戦場で、天日槍命の軍が八千であったので八千軍野といったと播磨風土記に見える。】

×「八千軍野」について(『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫))
【伊和大神と天日鉾命と二柱の神がお互いに軍を興して戦い合った。その時、大神の軍が集まって稲を舂いた。その(ぬか)が集まってとなった。
 別伝では、城を掘った所は、応神天皇の御世に渡来した百済の人たちが自分たちの生活習慣のままに城を造って住んでいた。
 また、その箕でふるい落としたといい、また、城牟礼山(きむれやま)といった。その孫たちは、川辺里の三家(みやけ)の人である夜代(やしろ)たちである。
 八千軍(やちぐさ)といった理由は、天日鉾命の軍勢が八千人いた。だから八千軍野といった。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

 上に挙げたのは典型的な風土記のデタラメ物語です。「八千軍野」に”天日槍の八千の軍”などまったく関係ありません。
 「八千軍野」に「百済」が結びつけられたのは、いずれの縄文語地名も同じ場所にあったからです。「粳」「墓」「城牟礼山」はいずれもただの「丘」や「山」を表現したものです。

◎縄文語:「八千軍野」=「ヤチ・クッチャ・ヌ」=「泥の・入口の・野原」google map
◎縄文語:「百済」=「クッチャ」=「湖沼の入口」

◎縄文語:「城牟礼(山)」=「キモロ(=キムィ・オロ)」=「山」
google map
◎縄文語:「粳」=「ノッケ」=「岬」
◎縄文語:「墓」=「パケ」=「岬」


 風土記のデタラメ物語がどのように作成されたかがはっきりと分かります。すべては縄文語の音をつなぎ合わせ、漢字表記から解釈して創作した事実無根の物語です。
 これら風土記の物語を編纂から千年以上経た現在でも地名由来に採用するなど狂気の沙汰です。


■八千軍野周辺地名の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 八千種には「鍛治屋」という地名がありますが、鍛冶でも盛んだったのでしょうか。筆者にはこの地名も怪しく見えています。

◎縄文語:「鍛冶屋」=「コッチャ・ヤ」=「谷の入口の・岸」

 上記の「八千軍野=泥の入口の野原」「百済=湖沼の入口」と非常に相性のよい解釈です。こういった地名に「百済系渡来人が鍛冶を伝えた」という物語を結びつけるのが、記紀風土記のやり方です。 百済人が方々で活躍する理由がここにあります。

 「粳岡」の比定地が姫路市船津町の「糠岡」とされていますが、そもそも縄文語の「ノッケ=岬」などという地勢、地名はどこにでもあるので、地名だけを頼りに比定地を定めるのは非常に危険です。「八千軍野」近隣の山と言えば、春日山城跡のある「飯盛山」とも考えられます。

◎縄文語:「飯盛山」=「エ・エン・モ・ル」=「頭が・尖っている・小さな・岬」

 「飯盛山」という山が各地にあるのは、これもそれだけありきたりな地勢だということです。


■飯盛山 ※中央右側の山。頭が尖っている小さな岬。


 余談ですが、「粳岡」の比定地の「糠岡」がある姫路市「船津町」ですが、この地名は典型的な縄文語の対比表現です。

◎縄文語:「船津(町)」=「ペナ・チャ」=「川上の・岸」

 対比となるのは、市川下流東岸の「花田町」です。

◎縄文語:「花田(町)」=「パナ・チャ」=「川下の・岸」


□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「粒丘」について(『兵庫県史』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【天日槍に関する物語がしばしば記されているが、ほとんどすべて、伊和大神あるいは葦原志許乎命と国の占拠を争う話である。そのうちもっとも有名なものは、揖保郡揖保里粒丘(いいぼのおか)の条にみえるつぎの話であろう。
 日槍が韓国より渡ってきて、宇頭の川底(揖保川の河口)で宿を土地の神である葦原志許乎命にたのみ、海中に宿ることを許された。日槍は剣で海水をかきまわして(その渦のうえに)宿った。志許乎はその勢いにおそれて、さきに国を占めようと思い、各地をめぐり、粒丘にいって食事をした、云々という。】

×「粒丘」について(『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫))
【天日槍命が、韓国から渡って来て、宇頭川の下流に到って、宿る所を葦原志拳乎命にお願いして『あなたは、国主です。私は宿る所を求めています』と言った。そこで志拳は海中に宿ることを許した。その時、貴神は、剣で海水をかき混ぜて宿った。 主の神は貴神の活発な振る舞いを畏れて、先に国を占有しようと思い、巡り上り粒丘(いいぼおか)に着いて食事した。この時、口から米粒が落ちた。だから、粒丘と名づけた。 その丘の小石はみんな米粒に似ている。また、杖で地に刺すとすぐに杖の所から冷たい泉が湧き出て、遂に南と北とに通じた。北は冷たく南は温かい。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「粒丘」=「エ・エン・ポ・オ・カ」=「頭が・突き出ている・子(小さなもの)の・麓の・ほとり」※小さな突き出た山の麓のほとり ⇒google map

 葦原志拳乎命はここで食事もしていないし、米粒も落としていません。「粒丘」は小さな山を指す縄文語です。
 比定地の丘陵には中臣印達神社が建ちます。

◎縄文語:「中臣/印達(神社)」=「ナィ・カ・トモ/エテュ・タ」=「川・岸・のところ/岬・の方」


■粒丘比定地の中臣印達神社のある丘 ※川岸の小さな突き出た山。



 そして、境内には薬司神社、厳島神社、弁財天、天満神社。

◎縄文語:「薬司(神社)」=「ヤ・ケ」=「陸岸の・末端」※岸辺
◎縄文語:「弁財天」=「ペッ・チャ・タ」=「川・岸・の方」※岸辺
◎縄文語:「厳(島神社)」=「エテュ・ケ」=「岬の・ところ」 ※小山
◎縄文語:「天満(神社)」=「タン・マ」=「こちらの・谷川」※川辺

 いろいろな神様が祀られていますが、ここにふさわしいのは岸辺の小山の自然崇拝です。


■中臣印達神社の地勢(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 まず日本全国の薬師神社、薬師寺は川端、湖沼端、海際にあります。

 それから、厳島神社、弁財天。厳島神社と言えば、宗像三女神が主祭神で中心は市杵島姫命です。多くの場合弁財天と同一視されます。ほかに市杵島姫命を祀る神社として高名なのは、福岡県の宗像大社辺津宮、大分県の宇佐八幡です。

◎縄文語:「辺津(宮)」=「ペッ・チャ」=「川・岸」
◎縄文語:「宇佐/八幡」=「ウ・ヤ/ペッチャ」=「湾の・陸岸/川端」

 薬師神社同様、全国の八幡神社は川端にあります。「弁財天=川岸の方」が祀られるのは自然です。
 また、「岬」の意を含む「市杵島姫命」と「川端」の意を含む「弁財天」が祀られるのは、「岬の川端」の地勢と関係がある可能性があります。厳島神社、宗像大社辺津宮、宇佐八幡はいずれも「山際の川端」にあります。


■宗像大社 辺津宮 ※山際の川端。


■宇佐八幡 ※山際の川端。全国の八幡神社は川端に立地。



 日本三大弁財天は厳島神社のほか、琵琶湖の竹生島の都久夫須麻神社、神奈川の江島神社です。いずれも「岬」は当てはまりますが、「川端」について見ると、琵琶湖の竹生島が「川端」ではありません。 こちらは、

◎縄文語:「弁財天」=「ペー・チャ・タ」=「水・岸・の方」 ※波打ち際

 と解釈すればつじつまが合います。ちなみに竹生島と江の島は、

◎縄文語:「竹生(島)」=「テュ・ポ」=「小山の・小さなもの」
◎縄文語:「江の(島)」=「エン・ノッ」=「突き出た・岬」

 となります。
 いずれにせよ、これら神社というものは、縄文語地名の漢字表記にこじつけて空想の神様を設定しただけの存在で、その実、為政者に都合の良い物語を流布することを目的に設けられています。

 弁財天がお金の神様?まったく違います。もともとは先住民の水辺の地名です。嘘つき神様、いいかげんにしてください。神の国である日本人の洗脳を解くには、千年を超える歴史文化の再検証をしなければなりません。


 『日本の中の朝鮮文化』では、大国主を”スサノオ系で新羅系の先住渡来人”とし、天日槍を”新参の新羅系渡来人”として、「新羅系の新旧渡来人で争いがあった」と書かれていますが、記紀風土記のウソ物語を鵜呑みにすると、こんなウソ歴史ができあがります。 記紀風土記の地名由来潭は、ことごとく先住民の縄文語地名を上書きするために創作されたもので、全てデタラメと判断するのが妥当です。

 スサノオが日本書紀の一書で「新羅」から来たと書かれているのは、「新羅」の意が

◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 だからです。日本全国に「山裾」の地勢があるのですが、なぜ、それが朝鮮半島の新羅国になるのか、まったく根拠がありません。新羅神社も先住民の「山裾」の地名を上書きするために設定された「新羅の神」で、新羅国と因果関係があって新羅神社という名称になっている訳ではありません。

 しかも、朝鮮半島南部は日本と同じく縄文語圏の同族であった可能性が高く、「新羅国」も「太白山脈の麓」の意である可能性があります。とすれば、頻繁に往来があるのは極めて自然で、現代の感覚のように朝鮮半島VS日本という対立構図にはなりえません。「朝鮮人の先祖は日本人」とも、「日本人の先祖は朝鮮人」ともいえるのです。まったくくだらない蝸牛角上の争いです。

 私見ではスサノオの故地は豊国の国東半島ではないかと考えています。

◎縄文語:「曾尸茂梨」=「シスマ・ル」=「大岩の・岬」
◎縄文語:「大分」=「オオ・ウェン・タ」=「大きな・険しい・石」
◎縄文語:「大綿津見」=「オオ・ウェン・タ・テュ・モィ」=「大きな・険しい・石の・岬の・入り江」
◎縄文語:「国東半島」=「クッ・ネ・サン・ケ」=「崖・である・出崎・のところ」

 天日槍も城崎温泉から来たことを表現している名前にすぎません。なぜ新羅国から来たことになったか。それは、「出石」が「山裾=新羅」の地勢だからです。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」
◎縄文語:「出石」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]韓泊・福泊・的形・仮屋~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「韓泊」について(『新播磨めぐり』橋本政次 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【天平年中、行基が築いた五泊の一。正安四年、安東平右衛門が改修した。もと三韓の入貢船が泊まったので韓泊といったが、のちカラの名を忌み、福泊と改めた。今は狭い船舶の出入りする川口に過ぎない。】

×「韓泊」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【そこがほかならぬ「韓泊」であったこと、すなわちかつては「朝鮮」のそれであったことが「のち」「忌み」きらわれたものだったはずである。これは九州・筑前(福岡県)の韓泊が唐泊となり、同肥前(佐賀県)の韓津が唐津となったことにもみられる事実であるばかりか、奈良・東大寺境内の韓国神社辛国神社となっていることや、また日本の各地にあった「新羅」というところが、白木・白子・白石・白国となっていることにも同様にみられるものである。
 なおまた、播磨のこの韓泊は、千田稔氏の「埋もれた港」によるといまみた「福泊」の地でもなく、現在の姫路市的形ではなかったかとしている。すなわち、その泊(港)を開いた「行基伝承ー泊明神ー泊山の関連性から、韓泊の比定地を姫路市東部の的形付近であると推考している」というのである。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「韓泊」=「カ・トマリ」=「巻いている・港」※曲がっている港。

 『日本の中の朝鮮文化』では「三韓の入貢船」が泊まったということを屈辱的だというニュアンスで一生懸命否定していますが、いずれにしても湾の名称に朝鮮半島は無関係なので無駄骨です。

 「韓泊」の「韓」に充てた「カ=巻いている」は地名に頻繁に登場します。奈良の「軽」の地も「曲がっている川」を表現しています。

 『新播磨めぐり』には「韓泊」の比定地が「福泊」とあり、「狭い船舶の出入りする川口」とあります。

◎縄文語:「福泊」=「プッ・ケ・トマリ」=「川口・のところの・港」

 地勢と地名が完全に一致しています。

 しかしながら、縄文語視点で見ると比定地は東隣の「的形」地区がふさわしいと言えます。「的形」には「仮屋」の地名があります。

◎縄文語:「的形」=「マーテュ・カ・タ」=「波打ち際の・ほとり・の方」
◎縄文語:「仮屋」=「カ・ヤ」=「巻いている・岸」※曲がっている岸


■的形ヨットハーバー ※曲がっている岸。


 『日本の中の朝鮮文化』では、『韓』が『唐』、『新羅』が『白』になった地名がたくさんあると書かれていますが、まったくのデタラメです。

◎縄文語:「唐泊」=「カ・トマリ」=「巻いている・港」※曲がっている港。
◎縄文語:「唐津」=「カ・チャ」=「巻いている・岸」※曲がっている岸。
◎縄文語:「辛国(神社)」=「カ・ラ・コッネイ」=「岸の・低いところの・くぼんだところ」※岸辺の低地。周辺は低地の解釈で一致。(※第二百六十二回コラム参照)


■唐泊 ※曲がっている港。谷が北方に入りこんでいます。


■唐津 ※曲がっている岸。


 何度も言いますが、「新羅」は「山裾」です。 「白」も同様で朝鮮半島の新羅国はまったく関係ありません。

◎縄文語:「白木」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」
◎縄文語:「白子」=「シ・オ・コッ」=「山・裾の・低地」
◎縄文語:「白石」=「シ・オ・ウシ)」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「白国」=「シ・オ・コッネイ)」=「山・裾の・窪地」


騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]ひびき灘・比治寄奈田~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「ひびき灘・比治寄奈田」について(『鐘/尾上の金の伝来等についての伝説』古家実三 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【この鐘がよほど古くから伝わり、また、有名になっていたことは、『千載集』という古い歌集に、前中納言(大江)匡房の歌として
 高砂の尾上の鐘の音すなり
  暁かけて霜やおくらむ
 というのが載っていることでも想像されます。<中略>今から八七〇年前、藤原時代にはこの鐘は有名になっていたことがわかります。
 また、伝説では尾上の鐘の音は、東は二見浦、西は妻鹿の海上までもひびき渡るので、その間の海上をひびき灘、又は比治寄奈田というとあって、『万葉集』巻一七をはじめ、古い歌集や、『夫木集』という有名な歌集にも十数首の歌が載っておりますが、それには鐘のことは少しも触れておりません。したがって、ひびき灘という名所言うは、鐘の響きから生れたものか、それ以前から別の忌みでそうした名称があったものかは、はっきりいたしません。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「ひびき(灘)」=「ピピ・ケ」=「小石がごろごろしている・ところ」
◎縄文語:「比治寄(奈田)」=「ピッチェ・ヤ・オロ」=「ハゲている・陸岸・のところ」

 つまり、「草木の生えていない石がごろごろしている岸辺」という意です。


■妻鹿の東、小赤壁 ※草木の生えていない石がごろごろしている岸辺。



 「ひびき=小石がごろごろしているところ」の意では北九州の響灘も同じ由来と考えられます。

 その他、「草の生えていない土地」を「ハゲ地」と表現する代表例に鳥取砂丘があります。

◎縄文語:「鳥取(砂丘)」=「トント・リ」=「ハゲ地の・高台」

 まさか垂仁紀の「誉津別皇子のために天湯河板挙が白鳥を捕まえたから」などという馬鹿げた地名由来を真に受けている人はいないでしょう。先住民の歴史が上書きされている典型的な例です。

 また、敦賀の地名由来潭に登場する都怒我阿羅斯等の別名の于斯岐阿利叱智干岐の名にも「はげ地」の意が含まれます。

◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾・のところ/一方の・大きな・岬が・ハゲている・ところ」 ※敦賀半島
◎縄文語:「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/一方の・大きな・岬」 ※敦賀半島

 日本書紀によれば、都怒我阿羅斯等は「角がある人」らしいですが、そんな人はこの世にはいません。発音にこじつけて創作されただけです。光武帝の額の角を参考にしたのでしょうか。

 この人物は崇神天皇の時に渡来した意富加羅国の王子とのことですが、この意富加羅国も

◎縄文語:「意富加羅(国)」=「オホ・カン・ラ」=「深い・上にある・低地」

 などと解釈すれば、朝鮮半島にも敦賀にもある地勢となります。敦賀の場合は「中池見湿地」があります。

 朝鮮半島南部も縄文語圏なので、同じ地勢に同じ地名が与えられるのは当然のことです。記紀風土記の物語は基本的にこのような縄文語の同じ地名を結びつけて物語を創作しています。それをいちいち結びつけて渡来人の活躍物語を語るのは、歴史の改竄をもくろんだ古代人の罠にまんまとはまっているようなものです。

 新羅王子の天日槍にしてもしかり。「新羅」は縄文語でどこにでもある「山裾」の意で、「出石の山裾」を指した可能性があります。とすれば、「天日槍」の名は単に「出石から来た」ことを示しているだけになります。
 繰り返しで恐縮ですが、

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」 ※城崎温泉
◎縄文語:「出石」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」

 です。類例のスサノオも同様で、私見ではスサノオは豊国の国東半島付近、「新羅=山裾」の出身です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]四天王寺聖霊院(鶴林寺)・刀田山・戸田太子・在家・安田・イカルガ~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「鶴林寺・刀田山・戸田太子」について(『全国社寺史跡めぐり』轟木史郎編 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【欽明天皇(五六五)の世に高麗の僧恵便が日本に仏法を広めたとき、ここに草案をむすんだ。〈その恵便の〉教えを受けた聖徳太子が創建したといわれる。刀田山・戸田太子とも呼ばれ、鶴林寺と改めたのは鳥羽天皇のころである。】

×「四天王寺聖霊院(鶴林寺)」について(『鶴林寺のしるべ』鶴林寺 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【(聖徳太子が)恵便の教えを受け、御年十六歳のとき秦河勝に命じて三間四面の精舎を建立し、釈迦、文殊、普賢、四天王を祭り、四天王寺聖霊院と称されたのが始まり<後略>】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「四天王(寺)」=「シ・ティネイ」=「大きな・湿地」
◎縄文語:「聖霊(院)」=「シアン・ラー」=「大きな・低地」
◎縄文語:「刀田(山)/戸田(太子)」=「ト・タ」=「湖沼・の方」

 聖徳太子など、こんなものです。第三十代敏達天皇から北方系渡来人が権力を握っていますから、その甥に当たる聖徳太子も推して知るべしです。
 「四天王寺聖霊院」があるのは加古川町「北在家」。そして、その東隣は尾上町「安田」。

◎縄文語:「(北)在家」=「チャィ・ケ」=「岸・のところ」
◎縄文語:「安田」=「ヤチ・チャ」=「泥の・岸」

 縄文語地名に漢字を充てるだけでは足りず、ご丁寧に寺も建てて外来の仏像を据えています。


■鶴林寺と周辺地名の縄文語解釈 ※「低地の岸」の解釈で一致。(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
○「鵤(いかるが)の斑鳩寺(はんきゅうじ)と鶴林寺」について(『鵤の太子・斑鳩寺』魚澄惣五郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【元来、播磨には聖徳太子所縁の地に建立された古刹が二つあって、その一つがこの「鵤の太子」であり、今一つは、加古川市の「刀田の太子」すなわち鶴林寺である。河内の「上の太子」すなわち磯長の叡福寺に対して、河内の野中寺を「下の太子」という如くに、播磨では、鶴林寺と斑鳩寺とが東西に相対している。】

×「イカルガ」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ところで、鵤といい斑鳩というと、われわれは大和・法隆寺のある斑鳩の里を思いだす。そのためか、播磨のこれは斑鳩寺(はんきゅうじ)と音読することになっているというが、しかしこれもやはりイカルガ(鵤・斑鳩)であって、このイカルガは伊勢(三重県)の四日市にもある。四日市の地名はで、ここには寺院のかわり、『延喜式』内の古い伊賀留我神社が二つになってある。
 松本清張氏によると、このイカルガ(鵤・斑鳩・伊賀留我)というのも、もとは韓泊などのカラ(韓)ということからきたものではないかとのことであるが、もしそうだとすると、播磨のこちらのその鵤にも古代朝鮮からの渡来人が早くから住みついていたものとみなくてはならない。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「鵤・斑鳩・伊賀留我」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」

 イカルガの縄文語解釈は考えるまでもありません。 縄文語で「岬のほとり」の意です。これも朝鮮半島とはまったく関係ありません。

■斑鳩寺(揖保郡太子町鵤)→林田川東岸の山のほとり


■斑鳩寺(奈良法隆寺)→松尾山のほとり。小さな山陰。


■伊賀留我神社(四日市市鵤)→丘陵のほとり

 

 法隆寺も縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「法隆(寺)」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」 ※松尾山のふもと。

 その他、大阪の四天王寺も

◎縄文語:「四天王(寺)」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」 ※上町台地の突端。

 と解釈可能です。いずれも周辺地名とも地勢と完全に一致していますが、それら由緒で縄文語が語られることは一切ありません。それだけ徹底して先住民文化が渡来系文化で上書きされたということです。(※法隆寺周辺の地名解釈については第二百六十三回コラム参照

 「四天王寺」の解釈が、加古川の「シ・ティネイ=大きな・湿地」と異なります。大阪の「四天王寺」が加古川と同様に「大きな湿地=河内湖」を指した可能性もあります。しかしながら、各地の地名を周辺地名や地勢と一致させながら縄文語解釈していくと、縄文語に充てられる文字にそれほど一貫性がないことに気づきます。

 例えば、必ずと言っていいほど渡来人物語と結びつけられる「韓」は、「カ=曲がっている様」 「カン・ラ=上にある・低地」 「カ・ラ=ほとりの・低地」 の地勢を表す縄文語などに充てられています。

 これは先住民の言語である縄文語に仮借の漢字を充てるあたり、「この発音にこの文字」といったような厳密で一意的なルールに則って作業を進めた訳ではないということを示しています。古代人はもっといい加減にデタラメに手当たり次第作業を行っています。  

 この作業の優先順位の筆頭は、とにかくなりふり構わず「為政者周辺に都合の良い歴史物語を創作すること」であり、そのためには厳密なルールなどはむしろ邪魔です。これを正確に検証すればするほど、逆に罠に陥ることになります。

 初期の神社仏閣はこのように先住民文化を上書きする役割を担って設けられています。記紀風土記も同じ思想です。そして国衙の役割も同様に捉えるのが妥当です。

 地方は、縄文語の先住民と、上代日本語の国衙周辺で言語が二重構造であった可能性が非常に高いと言えます。関東から九州の古墳名は少なくとも六~七世紀代まで縄文語解釈可能です。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]生石(おうしこ)神社・作石~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「石の宝殿・生石神社・作石」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【橋本政次氏の『新播磨めぐり』をみると、「石殿(石の宝殿)は石英粗面岩、入口を上にし、西が棟で、基底方六メートル、基底から棟まで八メートル。この未完成の神殿をそのまま祭神として祭っている」とあるように、石塊は石塊でもただのそれではなかった。
「未完成の神殿」はやはり古墳の石室にしようとして手がけたものではなかったかと思われたが、どちらにせよ、それが生石神社の神体になっているものだった。そしてその「石の宝殿」は生石神社の「生石(おうしこ)」ということとも関連があるにちがいなかった。
 とすると、これはのちにみる淡路島生石崎の、天日槍を祭る生石(おいし)神社の「生石(おいし)」とも関連があったものではなかったであろうか。天日槍を「国土開発の祖神」として祭る但馬における出石神社の「出石」といい、それぞれに関連し合ったものではなかったかと思われるが、しかしそれ以上のことはわからない。】

×「石の宝殿(作石)」について(『風土記/播磨国風土記』中村啓信 角川ソフィア文庫)
【原の南に作石がある。その形は家のようである。長さは二丈、広さ一丈五尺、高さも同じくらいである。名づけて大石という。伝えて言うには、『聖徳王の御世に弓削大連が造った石だ』ということである。 】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「石の宝殿」=「イソ・ネ・ポルチャ」=「岩・の・あの世への入口」=岩の古墳or霊場
◎縄文語:「生石(おうしこ神社)=「アゥ・シ・ケ」=「枝分かれた(隣の)・大地の・ところ」=あの世

 「石の宝殿」が仮借の漢字表記であることは明らかです。「宝殿」にはまったく見えません。そして、この「石の宝殿」は播磨国風土記では「作石」と呼ばれています。

◎縄文語:「作石」=「チケレ・イソ」=「削れている・岩」

 この縄文語の「チケレ=削れている」は隣国吉備の「造山古墳」「作山古墳」の名称にも使われています。両古墳とも「自然地形の丘陵を削り取って築造」したものです。古墳の築造時期はそれぞれ、五世紀前半、五世紀中頃です。この周辺地域でこの時代まで縄文語が使用されていたのは確実です。


■生石神社の石の宝殿 ※あの世の入口。削れている岩。



 淡路島の出石神社。 『日本の中の朝鮮文化』では「生石神社」となっていますが、現在の「生石地区にある出石神社」を指しているようです。

◎縄文語:「生石(おいし)」=「オ・ウシ」=「尻(末端)・のところ」※岬の先端。
◎縄文語:「出石(神社)」=「エテュ・ウシ」=「岬・のところ」

 残念ながらまったく「石つながり」ではありません。「石」は単なる当て字です。
 「出石=岬のところ」もありきたりな地勢なので但馬にも淡路島にも「岬」があったということです。これを結びつけてウソ歴史を創作してはいけません。しかし記紀風土記が率先してこの作業を行っています。

 淡路島は

◎縄文語:「淡路(島)」=「アゥ・テュ」=「枝分かれた、となりの・岬、峰」

 の意で、「淡海=アゥ・メ(orモィ)=枝分かれた・泉(or入り江)」や「安房、阿波=アゥ・ワ=隣の・岸」にも見られる表現です。
 近江との対比として挙げられる「遠江」も「テューテュ・メ(orモィ)=岬の・泉(or入り江)」の意で、浜名湖を指しています。決して、「近い淡水湖」とか「遠い淡水湖」とかの意ではありません。このような漢字表記こじつけ説は、ほぼ間違いなくデタラメです。

 日本の歴史の根本的なところに無数の漢字表記こじつけ説が潜んでいます。大々的に検証し直さなければ、真実の歴史には到底たどり着けません。


■淡路島出石神社 ※岬の先端。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[兵庫県]新羅神社・麻生八幡神社・白浜・大将軍社・宮山古墳・高麗剣・白国・平峯神社・随願寺・増位山・白幣山~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「新羅神社・麻生八幡神社」について(『兵庫県神社誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【村社 新羅神社/鎮座地 四郷村明田字下道居】
【[播磨鑑]新羅大明神 明田神社是也/糸引村鎮座/麻生八幡神社縁起ニモ右同様の事見エタリ。】

×「麻生八幡神社・新羅国」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
麻生山麓の糸引村だったところにあるその麻生八幡神社も、もとは明田の新羅神社と同系列のものだったのかもしれない。「異説」となっているが、しかしこれからみるように、新羅神社というのは四郷町明田のそれだけではなかった。同系列のものはほかにもまだあるばかりか、この周辺はかつては「新羅国(しらくに)」だったところなのである。
 明田の西南となっている白浜町白浜ということにしても、浜辺が白いからなどというのではなく、これも新羅ということからきたものではなかったかと思う。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「新羅(神社)」=「シ・オ」=「山・裾」
◎縄文語:「麻生/八幡(神社)」=「アッチャ/ペッチャ」=「一方の岸/川端」
◎縄文語:「白(浜)」=「シ・オ」=「山・裾」

 日本全国「新羅神社」は「山裾の神社」、「八幡神社」は「川端の神社」です。神社の由緒などは、為政者に都合良く創作されたデタラメです。
 「白浜」の方ももちろん「白い浜」の意ではありません。残念ながら『日本の中の朝鮮文化』で自信満々に紹介されているような「新羅国」由来でもまったくありません。これも日本全国「白浜」は「山裾の浜」です。


 新羅神社の所在地は四郷町明田(しごうちょうあけだ)です。

◎縄文語:「四郷(町)/明田」=「シ・コッ/アケ・チャ」 =「大きな・窪地/一方の・岸」

 麻生とまったくの同義です。

◎縄文語:「麻生」=「アッチャ」=「一方の岸」

 麻生八幡神社の南方には大将軍社があります。 もちろん偉大な将軍と関係がある訳ではありません。これも「新羅」や「白」と同様、縄文語の「山裾」に頻繁に充てられる漢字です。古墳名にもいくつか見られますが、いずれも山裾または山の端に築かれた古墳です。縄文語の使用時期を判断するための好資料となります。

◎縄文語:「大将軍(社)」
=「タン・シ・オ・ケ」=「こちらの・山・尻(裾/端)・のところ」
or「タン・シオケ」=「こちらの・山裾」


■新羅神社周辺地名の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 明田の北隣の地区には見野古墳群、見野廃寺があります。『日本の中の朝鮮文化』では「新羅神社」と「見野廃寺」「見野古墳群」がいかにも新羅系渡来人と関係があるような書かれ方をしていますが、まったく見当違いです。

◎縄文語:「見野」=「メナ」 =「上流の細い川 or たまり水」

 見野の北方は四郷町本郷、その北は御着があり、西方には宮山古墳があります。

◎縄文語:「(四郷町)本郷」=「ポン・コッ」 =「小さな・窪地」
◎縄文語:「御着」=「コッ・チャ・ケ」 =「窪地の・岸・のところ」
◎縄文語:「宮山」=「メ・ヤ・ヤマ」 =「泉の・岸の・山」

 この宮山は、銀象嵌環頭太刀が出土したことで有名ですが、この柄の先が丸い環頭太刀は別名「高麗剣(こまつるぎ)」とも呼ばれています。

◎縄文語:「高麗(剣)」=「コ」 =「湾曲したもの」 ※柄が丸い剣。

 地名によく見られる「高麗(川)」も同義です。

◎縄文語:「高麗(川)」=「コ・マ」 =「湾曲した・川」

 全国の「高麗」の地名は「湾曲した川」、あるいは「湾曲した山(丸山)」の地勢を指していて、「高麗人が移住した」などという物語がどれほど史実を反映しているかまったく不明です(※『日出ずる国のエラーコラム』参照)。


 先住民が縄文語(アイヌ語)を使っていたことを受け入れれば、日本の歴史の謎は簡単に解くことができます。日本の歴史には先入観、偏見がありすぎます。
 記紀風土記等、日本の古文献が漢字こじつけデタラメ歴史を書いているのが諸悪の根元です。編纂から千年以上たった現代の人々もそれに右ならえ状態です。これが日本の歴史において朝鮮半島系渡来人が大げさに活躍し続ける理由です。



□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白国=新羅国」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【広峯山の東峰につづく増位山には、行基の開山とされている隋願寺という古刹がある。この寺院のことを書いた魚澄惣五郎氏の「白国の随願寺」というのをみると、「白国は往古に、新羅国人が来往したので、この地名が起こったのであると伝えられている」とある。そして私たちが広峯神社でもらった「広峯神社由緒略記」には、そのことがさらにまたこう書かれている。
「広峯山の内、白幣山(白幣峯とも云えり)と称する霊峯あり。古はこの霊峯を主とし、此の辺一帯を新羅国山(新羅国の称は麓平坦の土地までにも及ぼせり)と称せり。」】

×「白国神社」について(『神社名鑑』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【景行天皇の皇子で国造白国家の始祖に当る稲背入彦命の孫阿曾武命が、其室高富媛命臨産の苦悩に際し、神吾田津比売の神誨に依って阿良津命を安産した報賽として斎き祀ったに始まる。新羅国国主大明神の神号を賜い、又日の宮とも称せられたが、孝謙天皇の勅命により新羅国を白国と改め、白国氏が代々神主として奉祀し来った。】

×「阿曾」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【ここにみられる「阿曾」の曾は新羅の原号ソ、「阿良津」の阿良はのち新羅に併合された古代南朝鮮の小国家安羅からきたものではなかったかと思われるが、それはどちらにせよ、白国が「新羅国」ということから出たものであることははっきりしている。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白国」=「シ・オ・コッネイ」=「山・裾の・窪んでいるところ」
◎縄文語:「広峯(神社)」=「シ・オ・メナ」=「山・裾の・水たまり」

 「白国」は「山裾の窪地」の意で、「広峯神社」と同義です。白峰山の麓には、大池、弁天池などの湖沼が見られます。新羅国はまったく関係ありません。

◎縄文語:「隋願(寺)」=「チゥ・カ」=「水流、水脈・のほとり」
◎縄文語:「増位(山)」=「マーテュ・エ」=「波打ち際の・頭」

 「瑞巌寺」と所在地の「増位山」は「山頂の池沼」、あるいは麓の「池沼地帯の上手」を表現したものと思われます。増位山の麓にも「増位」の地名が見られます。


■白国周辺地名の縄文語解釈 (※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 白幣山は「浅い平山」の意です。

◎縄文語:「白幣(山)」=「ハ・ぺ」=「浅い・もの」※浅い平らな山。=白山

 これは「白山(はくさん)神社」の「白山」と同義です。

◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山」

 日本全国の「白山神社」は「浅い平山」の立地、あるいは「浅い平山」を望む場所にあります(※第二九十回コラム参照) 。もちろん、地名由来は新羅国やら白山信仰やらとはまったく関係ありません。神社などそんなものです。


■市川から増位山、白峰山方面を望む  ※浅い平山。


 『日本の中の朝鮮文化』には「阿曾」「阿良津」は「新羅」「安羅」由来であるとありますが、全然違います。いいかげんにしてください。

◎縄文語:「阿曾」=「アッチャ」=「対岸」
◎縄文語:「阿良津」=「ア・チャ」=「向こう・岸」

 で、まったくの同義です。
 朝鮮半島南部も縄文語圏なので、新羅や安羅周辺に日本と同じ地名があるのは当然なのです。いちいち結びつけられて歴史を創作されてはたまりません。日本の多くが渡来系文化になってしまいます。かなり手遅れですが。。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百三十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[淡路島]仙山・千光寺・出浅邑・阿那賀~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「仙山」について(『神話と伝承の淡路島』鈴木享 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【洲本から仙山に向かう。洲本市街の西北方にそびえ、淡路富士の異名をもつ淡路島第三位のこの山は、イザナギ、イザナミの二神が天の沼矛で海中をかきまぜたとき、矛の先から最初にしたたり落ちて固まった山だという。仙山の名もそこから起こったといわれている。】

×「千光寺」について(『神話と伝承の淡路島』鈴木享 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【同寺の縁起潭によると、延喜元年、播磨国上野の深山に為篠王という大猪が出現した。猟師の忠太という者が山中に入ってこの猪を射たが、猪は傷を負いながらも海を泳いで淡路に渡り、仙山に逃げこんだ。忠太が血の跡をたどってなおも負うと、多過ぎの洞が光を放っている。のぞいてみると胸に矢をうけた千手観音像があった。おどろいた忠太はこれまでの殺生を公開し、その場で発心して髪を剃った。そして名も寂念とあらため、千手観音像を安置する精舎を建立、千光寺と号したという。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「仙山」
=「シアン・サン」=「大きな・出崎」

or「シ・エン・サン」=「大きな・突き出た・出崎」
◎縄文語:「千光(寺)」=「シ・エンコ」=「大きな・岬」

 「仙山」と「千光寺」は縄文語ではまったくの同義です。

 記紀風土記の神話を下敷きにして堂々と地名由来としたり、漢字表記に結びつけて渡来人を活躍させたり、同じ地名を結びつけて物語を創作したりしているところが、日本の歴史の致命的な欠陥です。多くの歴史を組み立て直す必要があります。

 神社仏閣の由緒もこのとおりです。八幡神社、稲荷神社、愛宕神社、金刀比羅宮、四天王寺、飛鳥寺、法隆寺(斑鳩寺)、東大寺、薬師寺、これら代表的な初期神社仏閣の名称も所在地の縄文語地名を漢字表記して、創作した神や外来の仏を据えたものです。
 こんな荒唐無稽な物語が真実なわけがありません。聖徳太子等、偉人を絡めた物語もどこまで史実かまったく不明ですが、これらの物語で先住民文化が徹底して上書きされていることだけは事実です。


■仙山 ※大きな出崎。大きな岬。



 『日本の中の朝鮮文化』には淡路島の「白髭神社」を取り上げて、新羅系渡来人の足跡だとしていますが、これも違います。日本全国「白髭神社」「新羅明神」は「山裾」にあります。

◎縄文語:「白髭」
=「シ・オ・ピケゥ」=「山・裾の・小石」

or「シ・オ・ピ・ケ」=「山・裾の・石・のところ」

or「シ・オ・ぺ・ケ」=「山・裾の・水・のところ」

 白鬚神社もご多分に漏れず、先住民の縄文語に漢字を充てて適当な神様を創作しているだけです。すべてに朝鮮半島の「新羅国」を結びつけられては困ります。
 ”八百万の神”などと言いながら、こういうデタラメなことを千年以上にわたって行っているのが、”神の国”日本の歴史です。


■白鬚神社(洲本市) ※山裾の神社。




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「出浅(いずさ)」について(『天日槍』今井啓一 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【生石崎の辺も恐らくその出浅邑の一部であり、早く槍(天日槍のこと)の党類が盤踞していたのであろう。出浅邑の位置については判然しないけれども、淡路国津名郡、式内旧村社築狭神社の鎮座する、即ちいま洲本市に入る旧千草邑大字築狭の地を含む旧物部郷の名のある一円かと考える。出浅・築狭は音近い。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「出浅」=「エテュ・サ」=「岬の・前(or浜)」
◎縄文語:「築狭(神社)」=「テュ・サ」=「小山の・前(or浜)」

 「出浅邑」の比定地には他に二説あります。旧津名町「志筑」と「五色町都志」です。

◎縄文語:「志筑」=「シ・テュ」=「大きな・小山」
◎縄文語:「(五色町)都志」=「テュ・ウシ」=「岬・のところ」

 いずれも地勢と一致する縄文語解釈ですが、ありきたりな地勢を指していて、比定地を決定するには根拠が希薄です。

■出浅邑比定地の縄文語解釈(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 ちなみにこの「五色」は縄文語の「クチキ=岩が続いているところ」に充てられる漢字です。「五色塚古墳」「五色沼」等、日本全国「五色」のつく地名が散見されますが、決して「色が五色に変化する」ことを由来としている訳ではありません。「崖のほとり」あるいは「崖を望む場所」を指しています。詳しくは『日出ずる国のエラーコラム』総集編をご覧下さい。

◎縄文語:「五色」=「クチキ」=「岩崖がずっと続いているところ」
※「崖のほとり」あるいは「崖を望む場所」

 兵庫県最大の「五色塚古墳」は淡路島産の葺石でびっしりと覆われています。「クチキ・テュ=岩崖がずっと続いている・小山」の表現がピッタリです。築造が4世紀末~5世紀初頭ですから、この時期、この周辺での縄文語使用は確実です。以下日本書紀の要約です。

<日本書紀要約>
【神功皇后、誉田別尊(後の応神天皇)親子と、第十四代仲哀天皇の二人の皇子(麛坂王、忍熊王)が皇位を争い、皇子らが赤石(明石)に淡路島から石を運んで仲哀天皇の偽陵を築造して帰路の皇后軍を迎え撃とうとした。】

■兵庫県洲本市五色町 ※崖の海岸線。


■五色塚古墳(※出典:wikipedia CC0) ※岩崖がずっと続いているような小山。




□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「阿那賀」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【西淡町(現あわじ市)阿那賀の阿那とは、近江(滋賀県)などにおけるその「阿那」とおなじく、これも天日槍に象徴される新羅系渡来人集団がそこからやって来たとみられる、古代南部朝鮮の小国家安那(安羅)から出たものではなかったか<後略>】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「阿那賀」=「アゥ・ナィ・カ」=「枝分かれた、隣の・川の・ほとり」

 朝鮮半島の「安那(安羅)」は、

◎縄文語:「安那(安羅)」=「アゥ・ナ」=「枝分かれた、隣の・方」

 の意です。朝鮮半島南部も縄文語圏ですから、似たような地勢に似たような地名が与えられているだけです。「同じ地名があるのは、朝鮮半島からの渡来人が~!」というような話には決してなりません。

 つまり、天日槍の物語も、このように似たような地名を結びつけて物語を創作したとするのが妥当で、史実とするにはあまりにも根拠が不明です。
 日本全国に無数に存在する「シ・オ・ケ=山・裾・のところ」の地勢に与えられた「新羅」という漢字を結びつければ、いくらでも物語を生み出すことができます。「高麗=コ・マ=湾曲した・谷川」「百済=クッチャ=湾や湖沼の入口」も同様です。記紀風土記の渡来人物語はこうして誇張されている可能性があります。


■あわじ市阿那賀 ※枝分かれた川のほとり。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百四十回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[淡路島]慶野 [大阪府]猪飼野 [三重県]猪飼~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「慶野」について(『街道をゆく/明石海峡と淡路みち』司馬遼太郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【「慶野」というのが地名ですか」
「地名は慶という一字だけだと思いますけど」
 と、いい加減に返事したが、帰宅して調べてみると、やや当っている。しかし当ってもいないのは古音はケイではなくケヒで、本来、飼飯という漢字があてられていた。筒飯野とも書く。<中略>
 飼飯という普通名詞は、猪(ぶた)などを飼ふことという意味であることは、ほぼ間違いない。『時代別国語大辞典』(上代編)の「け」(食)の項をひくと、「飼は(中略)飯を伴って、ケヒを写すのに用いられている」というこら、要するにぶたなどを飼うということであろう。
 ぶたは、上代、朝鮮半島からの渡来人の渡来の波の密度が濃かったころ、摂津に猪飼野(猪甘いかい)や伊勢に猪飼という上代以来の地名がのこっているように、ところどころで飼われていたらしい。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「慶野」=「ケィ・ノッ」=「頭の・岬」

 まず、上代の「ケヒ」について「ぶたを飼うこと」だとありますが、上代の権力中枢の人々こそ、大嘘物語で先住民文化を上書きした張本人なので、まったく信憑性がありません。日本の歴史は決して上代日本語の時代から始まっているのではありません。

 淡路島の「慶野」は西岸の岬です。東に接して櫟田(いちだ)、倭文(しとおり)の地名があります。

◎縄文語:「櫟田」=「エテュ・タ」=「岬・の方」
◎縄文語:「倭文」=「シテュ・オロ」=「大きな峰・のところ」

 つまり、「慶野」とは「並んでいる峰の頭の岬」という意味です。「ぶた???」。まったく関係ありません。

 余談ですが、「慶野」に南に接して「松帆古津路」という地名があります。これは典型的な縄文語地名です。

◎縄文語:「松帆古津路」=「マーテュ・ホ/コッチャ」=「波打ち際の・尻/谷の入口」


■慶野周辺の縄文語解釈 ※「慶野」は「並んでいる峰の頭の岬」の意。
(※国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、『街道がゆく』に、摂津の「猪飼野」、伊勢の「猪飼」が「ぶたが飼われていた名残」だという内容がありますが、これもまったくのデタラメです。

 摂津の「猪飼野」、伊勢の「猪飼」も典型的な縄文語表現です。

◎縄文語:「猪飼野」=「エ・カィ・ノッ」=「頭が・折れている・岬」※頭が平らな岬=上町台地
◎縄文語:「猪飼」=「エ・カィ・イ」=「頭が・折れている・もの」※頭が平らな山。

 摂津の「猪飼野」は上町台地の突端、大阪城の南に位置しています。伊勢の「猪飼」の「頭が平らな山」には建武年間の猪飼城跡があります。

 いずれにしても「ぶた」がまったく関係していないことが分かります。日本の歴史は通説俗説、玄人素人問わず、随所でとんちんかんです。 それもこれもアイヌ語を先住民の言語として受け入れていないからです。


■猪飼城跡(三重県桑名市多度町北猪飼) ※頭が平らな山。



 また、『日本の中の朝鮮文化』では敦賀「気比」の地名を挙げて、新羅系「都怒我阿羅斯等」の足跡とし、気比神宮に祀られている「伊奢沙別命」が「天日槍」であり、天日槍の別名である「気比大神」が北陸、但馬、筑前にまで広がっていると嬉々として書いていますが、当然「ケィ=頭」などという縄文語地名はいたるところにあるので当然です。いちいち渡来系は関係ありません。何度も言いますが、こういう同一地名を短絡的に結びつけて歴史を創作してはいけません。

 「都怒我阿羅斯等」は単に敦賀半島を表現した縄文語で、別名の「于斯岐阿利叱智干岐」も同義です。

◎縄文語:「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/一方の・大きな・岬」 ※敦賀半島
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾・のところ/一方の・大きな・岬が・ハゲている・ところ」 ※敦賀半島

 気比神宮に祀られている「伊奢沙別命」も敦賀の浜の地勢を指しています。天日槍も何度も取り上げていますが、念のため。

◎縄文語:「伊奢沙別/去来紗別」=「エテュ・サ・ワ・ケ」=「岬の・浜の・岸・のところ」※敦賀の浜
◎縄文語:「天日槍 」=「ア・ヌ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いているところ」 ※城崎温泉

 こういう縄文語地名の漢字表記にこじつけてデタラメに創作したのが八百万の神の正体です。渡来人物語も同様に考えるのが妥当です。よって、史実をどれだけ反映しているかまったく不明で、少なくとも大きく誇張されていることは確実です。なぜなら、これらを語る古文献を編纂したのが渡来系の人々なのですから。

 

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◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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