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騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム

【 第二百九十一回~第三百回】

第二百九十一回第二百九十二回第二百九十三回第二百九十四回第二百九十五回第二百九十六回第二百九十七回第二百九十八回第二百九十九回第三百回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十五回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~伊勢神宮・豊受(トヨウケ)・太一信仰・度会・高倉山・韓神山・辛島郷・天日槍・都怒我阿羅斯等~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「豊受(トヨウケ)」について(『南紀・伊勢・志摩・吉野』宮崎修二郎 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【『止由気宮儀式帳』という古い記録が神宮にあって、それによれば雄略天皇の夢枕に立った天照大神が「五十鈴川のほとりの一人ぼっちは寂しい。単語の豊受大神といっしょに住みたい」とおっしゃったから、「丹波国比治乃真名井原」(京都府中部)から移されたものだという。
 この伝説から一部の歴史学者は、つぎのような推定を組み立てている。丹波は早くから稲作が開けたところで、政治力はないが宗教的才能を持つ出石族(朝鮮から帰化した部族)がいた。そこであとから入って来た天孫族が、出石族より先住部族である出雲族を宣撫するため、出石族を利用した。いわば伊勢神宮は天孫族、出雲族を従えていった”記念碑”的存在だというのである。】

×「度会・賀利佐の峯」について(伊勢国風土記逸文『倭姫命世記』裏書)
【風土記にいう。度会郡と名づけた由縁は、神武天皇が天日別命に命じて、良い国を求めさせると、度会賀利佐の峯に煙が立っていた。天日別命はそれを見て「ここに長(土地神)はいるか」と言い、使いを遣った。使いが戻ってきて「大国主の神がいます」と報告した。   
 賀利佐に到ると、大国主神は使いを天日別命に遣ってお迎え申し上げた。橋を造らせたが、完成しなかったので、天日別命は梓弓を橋として渡った。ここに大国主命は弥豆佐々良姫(みづきさちひめ)命を献上するために参上した。弥豆佐々良姫命は土橋郷の岡本邑で天日別命をお迎え申し上げた。天日別命は国見に出て、弥豆佐々良姫命と会った。そして「川を渡ってよい娘と出会った」と言った。よって土地の名とした。】

×「度会」について(『古代への探求』松本清張 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ワタライというのは、わたしの考えでは、ワタ(朝鮮語のPata=海)から来ていると思う。「渡る」という動詞は、此方より彼方へ越えて行くという意があり、その中間を海洋とすれば、舟でワタを 航行することから出たのであろう。お互いに渡っていくことが「渡り合う」となり、それが「渡らい」となる。恰度「語り合い」が「語らい」と変化するのと同則である。度会とはまさに字義の如くで、記に「百船の渡逢県」とある通りである。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「豊受(トヨウケ)」=「トヤ・ウカウェ」=「海岸の・石が折り重なったところ」=丹後半島、伊勢志摩の岩礁

 トヨウケは丹後半島と伊勢志摩の岩礁を指しています。同じ地勢を同じ言葉で表現しているだけです。

 豊受大神宮(外宮)の後背の山は高倉山です。wikipediaには次のようにあります。

【古くは高賀佐山高坐山と呼ばれていたが、坐を「くら」と誤って読まれたため「高倉山」になったとされる。】(wikipedia)

 しかし、縄文語解釈するとまったく異なる答えが導き出せます。

◎縄文語:「高倉(山)」=「ト・カ・キ」=「湖沼の・ほとりの・山」
◎縄文語:「高賀佐(山)」=「コッ・カ・サン」=「窪地、谷の・ほとりの・出崎」
◎縄文語:「高坐(山)」=「コッ・チャ」=「窪地、谷の・岸」

 すべて「湖沼のほとりにある高倉山」の地勢を表しています。「こうくら」と読ませて「高句麗」と結びつけるのもナンセンスです。


■高倉山 ※湖沼のほとりの山。


 この高倉山は 伊勢国風土記逸文(『倭姫命世記』裏書)に見える「度会の賀利佐の峯」の比定地です。

◎縄文語:「度会」=「ワッタ・ラィイ」=「淵が・死んでいるところ」※水がよどんでいるところの意
◎縄文語:「賀利佐(の峯)」=「カリ・サン」=「回っている・出崎」※曲がっている岬=高倉山の尾根

 「度会」は「渡る」の意でも、朝鮮語の「パタ=海」の意でもありません。これも「高倉山のふもとの湖沼」を指しています。当然、渡来人も地名由来には関係ありません。
 「カル」「カリ」は「曲がっている様」を表します。これも「韓」とは関係ありません。奈良の「軽(カル)」も「曲がっている川」を指しています。

 月読宮の川向かいに「韓神山」がありますが、これも、

◎縄文語:「韓神(山)」
=「カ・カ・ムィ」=「曲がった川の・岸の・山の頂」

or「カ・カムィ」=「曲がった川の・神」

 と解釈できます。

 縄文語解釈すれば、日本の歴史や地名の謎は簡単に解けます。漢字表記から無理矢理解釈するので、無数に謎が生まれるのです。


■韓神山 ※曲がった川の岸の山の頂。


■奈良県の「軽」周辺 ※高取川が曲がっているところ。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 また、「度会」に関連して、『日本の中の朝鮮文化』には「宇佐市の辛島の地に度会、渡来(わたらい)の姓があるのは、すなわち辛=韓であり、度会は渡来(とらい)を意味している」という内容の記述がありますが、これも違います。「渡来」はすでに見たように「水がよどんでいるところ」の意です。
 辛島の隣接地区に「閤(ごう)」「旧八幡村(現四日市の一部)」「上田」「芝原」「畑田(はたけだ)」があります。

◎縄文語:「度会」=「ワッタ・ラィイ」=「淵が・死んでいるところ」※水がよどんでいるところの意
◎縄文語:「閤」=「コッ」=「窪地」
◎縄文語:「八幡」=「ヤン・ハッタ」=「陸岸の・淵」 ※「やわた」の読みでも「ヤン・ワッタ」で同義。
◎縄文語:「上田」=「ウェン・チャ」=「難所の・岸」
◎縄文語:「芝原」=「シ・パン・ハ・ラ」=「最も・川下の・水が引いた・低地」
◎縄文語:「畑田」=「ハッタ・クッチャ」=「淵の・入口」

 周辺の地名と完全に辻褄が合います。
 宇佐八幡の社家である「辛島氏」が渡来系氏族であるという説は、そもそも全国の神社自体が北方系渡来人を正当化するために設けられているので否定することは出来ません。一応、辛島も縄文語解釈すると、

◎縄文語:「辛島」=「カ・ウ・マ」=「曲がりが・たくさんある・谷川」

 となり、駅館川中流部の地勢と完全に一致します。


■辛島郷周辺 (国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■駅館川




 話を伊勢に戻します。伊勢神宮は星の信仰とされる「太一」信仰と同一視されることもありますが、これもまったくのデタラメです。これも伊勢の岩礁のことです。

◎縄文語:「太一」=「タ・エテュ」=「石の・岬」
◎縄文語:「伊勢」=「イソ」=「水中の水かぶり岩」
 
 トヨウケと名前が似ているので同一視されることの多い稲荷神のウカノミタマ。こちらは京都伏見稲荷大社後背の稲荷山山頂付近の地勢を指しています。

◎縄文語:「稲荷(神社)」=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」 (高台の祭場)
◎縄文語:「ウカノミタマ」=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=磐座⇒写真(google画像検索)
◎縄文語:「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のある崖」=磐座

 稲荷神の眷属である「狐」は「岩崖」のことです。岩にお揚げを供えてもなんの効果もありません。

 出石、敦賀は、天日槍、都怒我阿羅斯等の渡来伝承が有名で、この二人は同一人物とされることもあります。ただし、これらもどこまで史実を反映しているかまったく不明です。
 まずは天日槍。この名前は城崎温泉を指しています。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map
◎縄文語:「城崎(温泉)」=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」

 次に都怒我阿羅斯等。別名の「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)(日本書紀)」も解釈します。いずれも敦賀半島を指していることが分かります。

◎縄文語:「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/ア・シテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」= 立石岬/敦賀半島
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/ア・シテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」=敦賀半島/立石岬

 つまり、それぞれの名前は単に、出石の城崎温泉と敦賀半島を指しているだけで、朝鮮半島との関係はまったく読み取ることはできないということです。ヤマト王権に顔を出したというのであれば、単に「出石から来た」「敦賀半島から来た」ということになります。

 日本書紀には、新羅王子である「天日槍」、意富加羅国王子である「都怒我阿羅斯等」は、ともに第十一代垂仁天皇に登場します。天日槍は垂仁天皇の時、都怒我阿羅斯等は崇神天皇の時の渡来です。
 日本書紀は欠史八代の事績を神話に加工して邪馬台国を隠蔽しています(※第十六回コラム参照)。そして、その後の垂仁天皇の頃は卑弥呼の後を継いだ台与の時代にあたます。天皇の諡号、大規模古墳の縄文語解釈を鑑みると、当時の王権内では確実に縄文語が使用されています。つまり、南方系先住民の勢力が実権を握っていたということです。

 この周辺の時代は「朝鮮半島vs日本」などの東西ではなく、「北方系vs南方系」で捉えるほうが真実に近いと考えます。百済王族、高句麗の扶余系が北方系で、中国東夷南蛮、朝鮮半島南部(新羅、百済庶民、加羅諸国)、そして日本が南方系です。南方系民族は縄文語を共有しています。つまり、言語を共有する以上、頻繁に往来があったと見るべきで、海を挟んでいるからといって、それを現在の国境の感覚で「朝鮮半島vs日本」という構図で見ることができないということです。朝鮮半島南部と日本は、いわば同国内の隣村のようなものです。

 「伊勢神宮が天孫族が出雲族を従えた記念碑」との説ですが、これは考察すべき時代が違います。
 日本全国の神社は「北方系渡来人の支配を正当化し、日本の歴史に結びつける」役割を担って設けられていて、その由緒は記紀風土記で語られる内容と連携しています。実際の神社名の多くは縄文語解釈が可能で、先住民による自然崇拝の可能性が高いことを示していますが、由緒にはそのかけらも見当たりません。それだけ徹底して先住民文化が抹殺、上書きされたということです。伊勢神宮も当然その延長で考えるべきで、当時の権力者側の方針を色濃く反映しています。

◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社の地勢。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カ・ケ」=「その上・のところ」(高台)※奈良の春日大社の地勢。
◎縄文語:「愛宕(神社)」=「アッ・タ」=「片割れの・ぽつんと離れた山(or尾根の先端の突起の山)」 ※全国の愛宕山の地勢。
◎縄文語:「熊野(大社)」=「クマ・ノッ」=「横に平べったい・岬」 ※熊野本宮大社前の山。
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山、出崎」(薄っぺらな平山)※白山の地勢。全国の白山神社(から望む景色)の地勢。
◎縄文語:「薬師(神社)」=「ヤ・ケ」=「岸の・末端」(岸辺) ※奈良の薬師寺ほか、全国の薬師寺、薬師神社の地勢。
◎縄文語:「金刀比羅(神社)」=「コッチャ・ピラ」=「谷の入口の・崖」※香川象頭山の地勢。

 また、法隆寺や東大寺、飛鳥寺、四天王寺などの寺社名も縄文語解釈可能で、周辺の地名と完全に辻褄が合っています。(※「北方系渡来人のエラーコラム」内で既出)

 日本書紀は、神話、欠史八代、応神天皇あたりまでは、邪馬台国を隠蔽するために創作された内容が多く、そこに朝鮮半島系渡来人の出自を装飾するための物語がたくさん盛り込まれています。それらはあくまで記紀編纂時、北方系渡来人が大和王権の実権を握った後、つまり、大化改新以降の勢力図を反映したもので、邪馬台国周辺の時代の史実とはまったく無縁と考えます。

 第二十六代継体天皇とその皇子ら全員が死亡した後、六~七世紀にかけて北方系渡来人による王朝交代が起きています。大化改新は言語が切り替わるほどの大革命です。詳しくは『日出ずる国のエラーコラム[総集編]』をご参照下さい。


 最後に、”神社の起源”について『日本の中の朝鮮文化』に面白い内容がありましたのでご紹介します。

「神社の鳥居と千木の起源」について(『百済の故地への旅』鳥本多喜雄 読売新聞 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【ここでは百済の遺品は、第二次大戦後に建てられた博物館に収められ、ほのかに当時の残光を輝かせていた。来てみて驚いたのは、大門は鳥居、博物館の棟(むね)に千木と、わが皇大神宮そのものの姿であることである。少なくとも私は鳥居に千木という神社スタイルの建築は、わが天孫民族特有のものだと思いこんでいた。博物館が落成した時、ようやく日本の占領から解放された韓国の人々も、この皇大神宮スタイルには驚いて、ゴウゴウたる非難の声がまき起った。しかし、これこそは百済宮殿建築の古式を踏襲した本来のものであるということで収まったという。つまり、鳥居と千木のふるさとは百済ということになる。】

「鳥居の起源」について(『鳥居考』津村勇 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【鳥居型として最も原始的なるものは、満州に散在するところの民家の門によって、偲ばれる。また朝鮮の村里の入口や陵墓に建てられているホングサルムン(紅箭門)も鳥居の前身であると思われる。この門の最も珍しいのは、咸鏡南道北青郡徳城面大里の入口にあるものであって、黒木の柱に、横木二本を渡し、その横木の間に縦木二本を貫き、その左右二本の上には、鳥の型を刻んでいるのがある。】

 村の入口に建てる鳥居様のものや千木、さらには棟持ち柱は中国南部を起源とする民族も持っているので、一概に北方系とは言い切れません。ただし、満州や百済、高句麗にも同様のものがあり、それらが日本の神社の起源になっている可能性もあるということです。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十八回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[福井県]氣比神宮・伊奢沙別命(去来紗別)・気比大神・御食津大神・保食神 ・天日槍・都怒我阿羅斯等・明神崎・水島~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「氣比神宮・伊奢沙別命・気比大神・御食津大神」について(wikipedia)
【主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。】

×「氣比神宮・天日槍」について(『福井県の歴史』印牧邦雄 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【 古来、越前一の宮として民衆に崇敬されてきた気比神宮も、かつては笥飯宮とよんで、新羅の王子天日槍を伊奢沙別命としてまつり、仲哀天皇や神功皇后を併祀してきた。この伊奢沙別命は土豪角鹿氏の氏神であった。角鹿氏は長くこの地を支配しており、天平三年(七三一)の『越前国正税帳』にも郡司角鹿網手の名がみえるから、現在の敦賀市の誕生には、大陸との深いつながりを感じとることができよう。 】

■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「氣比(神宮) 」=「ケィ」=「頭(岬)」
◎縄文語:「伊奢沙別/去来紗別 」=「エテュ・サ・ワ・ケ」=「岬の・浜の・岸・のところ」
◎縄文語:「御食津(大神)」 =「メカ・チャ」=「尾根の・岸」
◎縄文語:「保食(神)」=「ウカゥ・・テュ」=「石が折り重なった・小さな・岬」
◎縄文語:「都怒我阿羅斯等」=「テュ・ルッケイ/アテュ」=「岬が・崩れているところ/もう一方の・大きな岬」
= 立石岬/敦賀半島  ※角鹿氏の祖の説あり。
◎縄文語:「于斯岐阿利叱智干岐」=「ウ・ケ/アテュ・カケイ」=「湾の・ところ/もう一方の・大きな岬が・禿げているところ」
=敦賀半島/立石岬  ※都怒我阿羅斯等の別名。


 これら縄文語解釈からは朝鮮半島をまったく感じることができません。つまり、朝鮮半島と敦賀を結びつけているのは真偽不明の記紀風土記の物語や伝承、俗説だけということになります。

 「御食津」「保食神」は「食物神」ではありません。どんな文献に何が書いてあろうとも、漢字表記こじつけ説は記紀風土記を筆頭に基本的にデタラメです。これらは敦賀半島周辺の地勢を表現しています。

 この中で「都怒我阿羅斯等/于斯岐阿利叱智干岐」と「保食神」が「大きな岬」「小さな岬」の対比関係になっています。アイヌ語の「シ=親の、大きな」「モ=子の、小さな」の典型的な対比表現です。
 「立石岬」が「シテュ=大きな岬」であれば「モテュ」がどこかと言えば、それは「明神崎」「水島」です。

◎縄文語:「明神(崎)」=「・テュ」=「小さな・岬」
◎縄文語:「水島」=「・テュ・スマ」=「小さな・岬の・石、岩」

 ちなみに「立石岬」は、

◎縄文語:「立石(岬)」=「タ・イソ」=「石がごろごろしている・磯」

 ということになります。


■立石岬と水島 ※大きな岬と小さな岬の対比表現。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■敦賀半島立石岬 ※岬が崩れているところ。石がごろごろしている磯。


■敦賀半島を対岸から望む



 「保食神」は「豊受」とも存在が重なるといわれますが、「豊受」も、

◎縄文語:「豊受」=「トヤ・ウカゥェ」=「海岸の・石が折り重なったところ」

 の意で、丹波と伊勢の岩礁の地勢を表しています。「保食神」と同一視されるのは単に敦賀と丹波、伊勢が似た地勢を持っていることに起因しています。「豊受」と「稲荷神」の「ウカノミタマ」も同一視されますが、これも伏見稲荷大社の後背の稲荷山の頂を指しています。

◎縄文語:「稲荷(神社)」=「イナゥ・リ」=「幣の・高台」 (高台の祭場)
◎縄文語:「ウカノミタマ」=「ウカゥ・ウン・ミンタ」=「石が折り重なったところ・にある・祭場」=磐座⇒写真(google画像検索)
◎縄文語:「狐」=「クテュニン」=「岩の段々のある崖」=磐座


  天日槍を「槍」や「新羅」と結びつけているのは記紀風土記ですが、新羅は南方系民族で縄文語を使う可能性が高いので、

◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 の解釈が登場するはずですが、その気配はまったくありません。北方系渡来人の影響が感じられます。

 結局のところ、天日槍は「山裾の川岸の野原に沸く城崎温泉から来た」ということを示しているだけで朝鮮半島との関係はまったく不明ということになります。天日槍の物語は記紀風土記編纂時の渡来人の出自を飾るために利用されていると考えます。

◎縄文語:「天日槍」=「ア・ヌピ・ポケ・イ」=「横たわっている・野原・沸いている・ところ」=城崎温泉⇒google map
◎縄文語:「城崎(温泉)」=「ケナ・ケ」=「川端の木原・のところ(の温泉)」

 同様に、スサノオが新羅から来たという日本書紀一書の内容も、単に「山裾」から来た可能性が高いと言えます。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十九回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[福井県]百済・八架神・八幡神社・秦氏・波多野・秦野・幡多・波田・羽田・大畠・小畑・服部・味真野郷・真柄村・檜王谷・檜隈、檜前、日前・白山神社・九頭竜川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「百済・八架神・八幡神社」について(『今立郡誌』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【人皇二十三代の帝、顕宗天皇の御世、百済国努理使主(ぬりのおみ)の御裔、阿久太子の弥和と云う人来りて、蚕織を産業として今に絶えず。或は説をなして曰く、百済の人此の地に滞りし故に、村名を百済氏と唱えたりと。<中略>
 文治三年、右大将源頼朝の舎弟、三河守範頼此の地に落ち来り、当社を信仰し、八架神八幡神社と改め、清和源氏の氏神と尊崇して、子孫世々此の地に逗り住せり。】

×「秦氏・服部」について(吉田郡松岡町誌『郷土松岡』 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【藤原利仁の妻は越前押領使として坂井郡を領有した秦豊国の娘である。彼、利仁が延喜中(九〇一~二二)越前国に入らしめ、そしてその子孫を名族長者として坂井、吉田両郡の各庄におちつかしめたのには、すこぶる遠いゆかりがある。
 ゆらい秦氏は・・・・・・大陸から帰化した氏族のうちで代表者とみなされてきたことは誰もが知るところである。服部の姓もまた秦氏の支族で、服部はもとハトリとよばれた織部(はたおりべ)である。今立郡服部谷・・・・・・十三村のうち、服部樫尾村と服部河内村の二つがあった。越前には秦氏の足跡はほかにも多かろう。志比庄に地頭職となった波多野義重のごときもその支流の一つとつたえられる】

×「秦氏、秦野、幡多、波田、羽田、大畠、小畑」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
波多野ばかりでなく、ほかにまた秦野、幡多、波田、羽田、大畠、小畑などともなっている秦氏族の秦とは、朝鮮語のハタ・バタ(海)からきたものとされているが、秦氏族とは京都・太秦の有名な広隆寺を氏寺としていたそれだけではなかった。だいたい、それが単なる氏族といあわれるものであったかどうか私には疑わしいほどで、この秦氏族というのは日本全国いたるところにひろがっていたものであった。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「百済氏 」=「クッチャ・ウシ」=「湾や湖沼の入口・のところ」
◎縄文語:「八架(神)」=「ペ・カ」=「川・岸」=八幡
◎縄文語:「八幡(神社)」=「ペッチャ」=「川端」※全国の八幡神社は川端の立地。

 百済の地名が各地にあるのは、百済人がいたからではありません。「クッチャ=湾や湖沼の入口」という縄文語に「百済」の漢字を充てたからです。
  今立郡誌にある八幡神社とは朽飯八幡神社のことです。この「朽飯(くちいい)」はもともと「くだし」と読んでいたようです。

◎縄文語:「朽飯(くだし) 」=「クッチャ・ウシ」=「湾や湖沼の入口・のところ」

 『日本の中の朝鮮文化』 には「百済氏」から転訛したとにありますが、そもそも「百済氏」自体が縄文語由来です。

 朽飯八幡神社の目の前を服部川が流れています。「服部」は「ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」の意です。つまり、朽飯八幡神社とは「淵の入口=クッチャ(百済)」にある「川端=ペッチャ(八幡)」の神社ということになります。


■朽飯八幡神社 ※淵の入口にある川端の神社。



 繰り返しになりますが、秦氏の活躍が語られるのはほぼすべて水辺です。「秦」も「機織り」も「ハッタ=淵、水がよどんでいるところ」が語源です。「秦氏が機織りが得意」というのは漢字表記からの連想ゲームです。

 日本全国に「ハタ」を冠する地名が多いのは、決して「秦氏が活躍した土地」が多いのではなく、それだけ「淵、水がよどんでいるところ」という地勢がありきたりだからです。北方系渡来人の方針により「秦」の字が充てられ、先住民文化が渡来人の活躍物語で徹底的に上書きされています。 なぜ北方系と言えるのか。それは南方系の言語である縄文語(アイヌ語)には「機織り(機を織ること)」などという言葉は存在しないからです。上代日本語は百済王族、高句麗の扶余系言語です。

◎縄文語:「秦(氏)/幡多/波田/羽田」=「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」※秦氏の活躍が語られるのは水辺。
◎縄文語:「太秦/蜂岡(町)」=「ウテュ・マサ/ハッタ・オカ」=「水辺の・草原/淵の・跡」※広隆寺所在地。
◎縄文語:「秦野/波多野」=「ハッタ・ノッ」=「淵、水がよどんでいるところの・岬」
◎縄文語:「大畠」=「オオ・ハッタ」=「大きな・淵、水がよどんでいるところ」
◎縄文語:「小畑」=「オン・ハッタ」=「古い・淵、水がよどんでいるところ」 ≒小さな淵
◎縄文語:「服部/機織り」=「ハッタ」=「淵、水がよどんでいるところ」

 そもそも朝鮮語の「ハタ・バタ(海)」でさえ、縄文語由来の可能性があります。 朝鮮半島南部の新羅、加羅諸国、百済庶民は倭人と同系の南方系民族で、縄文語を共有しています。倭人との区別も曖昧だったのではないでしょうか。

 秦氏ゆかりの広隆寺、松尾大社も、水辺の解釈が可能です。

◎縄文語:「広隆寺」=「コッ・ラー」=「窪地の・低いところ」※太秦周辺の湿地の跡。
◎縄文語:「松尾(大社)」=「マーテュ・オ」=「波打ち際の・尻」

 少々話が飛びますが、飛鳥寺、法隆寺、東大寺、四天王寺ですら、その名称は縄文語解釈可能で、周辺地名の縄文語解釈と地勢が完全に一致しています(※第二百七十三回コラム参照、※第二百六十二回コラム参照)。神社仏閣は記紀風土記同様、当時の為政者に都合の良い物語を流布する役割を担っていて、その由緒には縄文語解釈のかけらも見当たりません。それだけ徹底して先住民文化が抹殺されたということです。

◎縄文語:「四天王寺」=「シテュ・ウン・ノッ」=「大きな峰・にある・岬」※上町台地の突端。
◎縄文語:「薬師寺」=「ヤケ」=「岸の末端」※全国の薬師神社、薬師寺はほとんど川端。
◎縄文語:「法隆寺」=「ポン・レ」=「小さな・山陰」※松尾山の麓の小丘陵。
◎縄文語:「斑鳩寺」=「エンコ・カ」=「岬の・ほとり」※松尾山の麓。
◎縄文語:「春日(大社)」=「カケ」=「その上のところ」 ※春日山。
◎縄文語:「興福(寺)」=「コッ・パケ」=「窪地の・岬」 ※春日山の峰の突端。
◎縄文語:「登大路(東大寺)」=「トー・タンチャ」=「湖沼の・こちら岸」 ※周辺の地名は窪地で一致。


 話を今立郡周辺(現越前市)に戻します。
 第二十六代継体天皇が皇子時代を過ごしたとされるかつての味真野郷真柄村に味真野神社があります。現在の遺構は室町時代の鞍谷氏のものです。また、東方には継体天皇の皇子である宣化天皇生誕の地とされる檜尾谷町があります。昔は「檜王谷」と呼ばれていたようです。近隣には白山神社があります。
 宣化天皇の諱は「檜隈高田」で、皇居は「檜隈廬入野宮」で、比定地は奈良県明日香村檜前の於美阿志神社です。越前市檜尾谷町周辺も「檜隈ノ里」と呼ばれています。「ヒノクマ」の名は紀伊の日前神宮・國懸神宮でも有名です。
 これらを縄文語解釈してみます。

◎縄文語:「味真野(郷)」=「アッチャ・マ・ノッ」=「隣の岸の・奥の・岬」
◎縄文語:「真柄(村)」=「マ・オロ」=「奥・のところ」
◎縄文語:「檜王(谷)」=「ペン・ノッ」=「川上の・岬」
◎縄文語:「檜隈/檜前/日前」=「ペナ・クマ」=「川上の・横に平べったい山」
◎縄文語:「白山(神社)」=「ハ・サン」=「浅い・平山」

 「檜隈」「檜前」「日前」はいずれも「川上の横に平べったい山」を指しています。偶然ですが、越前、明日香、紀伊もすべて同様の地勢です。それだけありきたりな地勢ということです。
 白山神社は縄文語の「ハ・サン=浅い・平山 or 出崎」に「白山」の字を充てて神社としたもので、全国の白山神社周辺には当該の地勢があります(※第二百九十回コラム参照)。熊野神社も「クマ・ノッ=横に平べったい・岬」の意でほぼ同義ですが、江戸期の熊野信仰の流行があるので、地勢と一致するかどうかは不明です。


■越前市檜尾谷町 ※川上の平山。


■奈良県明日香村檜前地区(於美阿志神社北方の見晴らしの丘) ※高取川支流の平べったい山。

■和歌山市東部の丘陵(千塚古墳群) ※「日前=川上の平べったい山」。


■熊野本宮大社対岸の峰 ※横に平べったい山。



 越前押領使の秦豊国が領有した坂井郡は、現在の坂井市あわら市周辺です。

◎縄文語:「(秦)豊国 」=「トヤ・コッネイ」=「海岸の・窪んでいるところ」

 名前の縄文語解釈と地勢が完全に一致するので、南方系の新羅人であっても不思議はありません。坂井市に河口をもつ九頭竜川ももちろん「クッチャ=淵の入口」の意です。


■坂井市、九頭竜川 ※海岸の窪んでいるところ。淵の入口の川。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第三百回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[埼玉県]高麗川・金子[神奈川県]高麗山[東京都]小金井[群馬県]多胡郡・甘楽郡・下仁田・富岡・鏑川~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「高麗川・金子」について(『金子族資料』金子健二 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【今日、金子の名称を有する土地で、その昔、韓国人居住部落たりし事実を明らかに証拠だてているものが決して少数でない。而してその最も顕著なる例は武蔵国入間郡金子村(現入間市)である。此の村は東西合して可成り大きな村であるが、その隣接地は昔の有名な武蔵国高麗郡であって、往古この区域一帯の地は所謂、高麗帰化族の独占居住地であった。
 かの源平時代に武名を転訛に轟かした金子十郎家忠(入真郡仏子(ぶし)村高正寺はその菩提寺なりと伝云)等が、金子の姓を名のったのは皆、この地名に因みしものと伝えられている。即ち己が所有地又誕生地の名をとって姓としたものである。故にこの村は高麗郡誕生の後久しからずして建設されたものと推定することが出来る。高麗郡は、高麗国からの日本への移住民族に依りて建設された所である。<中略>
 昭和十五年名津、祖先発祥地、武蔵国北多摩郡小金井に於て、
   編者 金子健二 誌之】

×「高麗」地名由来(『続日本紀』)
【天正天皇霊亀二年(716)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野国の7国在住の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を置く。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「金子」=「カンナ・コッ」=「上にある・窪地」
◎縄文語:「高麗」=「コ・マ」=「湾曲する・谷川」
◎縄文語:「小金井」=「コッカ・ネ・イ」=「窪地のほとり・である・ところ」

 筆者は、『続日本紀』に書いてある「高麗系の帰化人を移住させた」という内容自体疑っています。日本全国の「高麗」を冠する地名は「湾曲する川」あるいは「湾曲する山=丸山」の地勢です(※日出ずる国のエラーコラム[総集編]No.12参照)。
 縄文語の「コ・マ」に「高麗」の漢字を充て、物語を創作している可能性があるということです。神社仏閣の由緒や記紀風土記で語られる地名由来は共通してこのロジックで成立しています。


■埼玉県日高市 高麗川/高麗神社 ※湾曲する川。



 つまり、「高麗人を移住させた」ことが、たとえ 一部史実であっても大げさに喧伝されている可能性が非常に高いということです。それは、七世紀以降大和中枢の権力を握った百済王族、高句麗の北方系(扶余系)民族が自らに都合の良い物語を創作し、政治的な意図をもって流布させたからです。可能な限り日本の地名、文化、歴史を漢字から解釈し、渡来人の活躍を語り、先住民文化を徹底的に上書きしています。

 入間郡を起源とする「金子」の苗字も「上にある窪地」の縄文語解釈が可能で、入間郡の周辺地勢と一致しています。朝鮮半島系渡来人には、倭人と同系同族の朝鮮半島南部の南方系と、百済王族、高句麗の扶余北方系があります。金子の苗字が縄文語解釈可能である以上、高句麗と同系の北方系と断じることはできません。

 神奈川県の大磯にも高麗山があり、高麗人が上陸した物語が語られていますが、こちらは「高麗山=湾曲する山=丸山」の意です。一目瞭然です。本当に高麗人が上陸したのでしょうか。高麗山にある釜口古墳は「丸山(高麗山)の崖」の縄文語解釈が可能です(※第二百六回コラム参照)。


■大磯高麗山  ※持ち手の曲がりのような湾曲した山(丸山)。



 高麗郡と同類の例で群馬県の「甘楽郡」があります。 こちらもその発音にこじつけて朝鮮半島系渡来人の活躍が語られる土地です。周辺地名も含め、「湿地」の縄文語解釈でつじつまが合います。「甘楽」≠「韓」であることがはっきりと分かります。

◎縄文語:「多胡郡(郡)」=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」
◎縄文語:「甘良(甘楽)(郡)」=「カン・ラ」=「上にある・低いところ」
◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタッ」=「西の・湿地」(※「上仁田」は存在しません)
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地

 そもそも、七世紀以降、北方系渡来人の息のかかった人々が国衙中心に全国に広がったので、日本全国朝鮮半島系渡来人が活躍したのは間違いないことですが、基本的にすべて大げさに伝えられています。

 南方系日本先住民が貴族の支配にあらがって再度活躍を始めるのは、平安末期、武士の登場以降です。源氏、平氏は、そのトップに中央の貴種を頂いただけで、下々の出自は現地の土豪でした。
 日本のいわゆる貴種とは百済王族、高句麗の北方系(扶余系)渡来人を中心とする人々のことです。明日香村の高松塚古墳の壁画が高句麗文化を色濃く反映しているのはその理由です。


■多胡碑(鏑川沿いを西に向かって、甘楽町、富岡市、下仁田と並ぶ。いずれも、湿地、低地の意)
 



第二百九十一回第二百九十二回第二百九十三回第二百九十四回第二百九十五回第二百九十六回第二百九十七回第二百九十八回第二百九十九回第三百回/ 】※google map以外の衛星画像は国土地理院の電子地形図を加工して作成しています。
騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十一回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]松阪市/意非多神社・宇留布神社・穴師神社・服部伊刀麻神社・黒部神社・土古路町・櫛田神社・藤原~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「意非多神社・宇留布神社・穴師神社・服部伊刀麻神社・黒部神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
意非多意非神社やそれから近くの宇留布神社は村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にもあげられているものであるが、穴師神社のほうはさきの伊賀でみている。穴師とはすなわち安羅・安那とおなじ阿羅・阿那からきた阿那之(し)ということで、そのことは田中勝蔵氏の「秦氏帰化年代攷」にもこうある。「アナと新羅古語阿那あるいは阿羅と同語で、・・・・・・は日鮮共通の助辞のシと思われる」
 服部伊刀麻神社の伊刀麻とはなにを意味したものかわからないが、服部はこれもさきの伊賀でみている呉服(くれは)からきたものにちがいない。とすると、こちらの西黒部、東黒部や黒部神社などというのも、もとはその呉服のクレ(呉)部ということからきたものであったろうか。】

■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「意非多(神社)」=「オプッ」=「川尻」
◎縄文語:「宇留布(神社)」=「ウ・プッ」=「丘の・川口」
◎縄文語:「黒部(神社)」=「キ・プッ」=「山の・川口」
◎縄文語:「服部/伊刀麻(神社)」=「ハッタ/エテュ・マ」=「淵、水が深くよどんでいるところ/岬の・谷川」

 「宇留布神社」「黒部神社」は「河口の丘陵」で解釈が一致しています。服部/伊刀麻(神社)も同類の解釈が可能です。河口付近に丘陵があったことが分かります。

 服部伊刀麻神社跡地の出間町の隣には土古路町がありますが、

◎縄文語:「土古路(町)」=「ト・オロ」=「突起したもの・のところ」=丘陵

 の意で、伊刀麻(出間町)の「岬の谷川」や、意非多神社、宇留布神社、黒部神社の「河口の丘陵」の解釈とも一致します。

 「服部」や「秦氏」は、縄文語の「ハッタ=淵、水が深くよどんでいるところ」由来の名称で、秦氏の活躍が語られる場所は必ず水辺となっています。「秦氏」と「機織り」との関係が語られることが多いですが、これらを結びつけるのは縄文語の「ハッタ」の発音で、「秦氏が機織りを得意とした」などという漢字こじつけ説がどこまで史実かまったく不明です。記紀風土記には他にもこのような漢字表記こじつけ説が無数に記載されていますが、すべて信用できません。

 穴師神社は考えるまでもなく、

◎縄文語:「穴師(神社)」=「アゥ・ナ・ウシ」=「枝分かれた、隣の・方の・ところ」

 の意です。朝鮮半島とは関係ありません。繰り返しになりますが、

◎縄文語:「安羅/阿羅」=「アゥ・ラ」=「枝分かれた、隣の・低地」
◎縄文語:「安那/阿那」=「アゥ・ナ」=「枝分かれた、隣の・方」

 で、こちらも縄文語由来です。朝鮮半島南部は東夷南蛮同様、南方系民族で縄文語(アイヌ語)圏です。
 また、穴師神社の南方には「櫛田神社」があります。 『倭姫命世記』には

「天照大神を祀る場所を探していた倭姫命がこの地を訪れた時、櫛を落としたので櫛田と名づけた」

 とありますが、もちろん漢字表記にこじつけた後世の創作物語です。

◎縄文語:「櫛田(神社)」=「ク・チャ」=「対岸の・岸」

 「穴師神社」の「隣の方」とほぼ同義となります。「櫛」に結びつけて「理容の神」とされているようですが、何か効果はあるでしょうか。博多の櫛田神社も那珂川沿いで「対岸の岸」の意です。
 このように神社は大方、先住民文化を塗りつぶす役割を担っています。


 余談ですが、土古路町の東方に「藤原」地区があります。これも縄文語由来です。

◎縄文語:「藤原」=「プチ・ハー・ラ」=「その川口・水が引いた・低いところ」

 日本の苗字が無数にあるのは、ほとんどが縄文語由来でそれぞれ拠点とした地域の地勢を反映しているからです。


■松阪市、多気郡明和町、櫛田川河口周辺 ※「河口の丘陵」の縄文語解釈で一致。
(国土地理院の電子地形図を加工して作成)





騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十二回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]伊雑宮・玉柱屋姫・磯部・的矢~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「伊雑宮・玉柱屋姫」について(『アマテラスの誕生』筑紫申真 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【伊雑宮にはアマテラスと玉柱屋姫とがまつられています。玉柱屋姫はアマテラスのカミ妻(たなばたつめ)であったのでしょう(この神社付近には、たなばた伝説にちなんだ神社や岩があります)。元来、玉姫とは、カミのたましいのよりつく日の妻(め)、という意味ですが、玉柱屋姫ということになると、玉姫は柱屋、つまり柱にとりついたおとこガミをまつっていた日の妻であった、ということになります。
 伊雑宮の祭神の玉柱屋姫は、太陽神のアマテラスのカミ妻たる巫女で、柱によりついたアマテラスをまつっていたのでした。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「伊雑(宮)」=「エテュ・ワ」=「岬の・岸」
◎縄文語:「玉柱屋(姫)」=「タパ・シ・ヤ」=「こちら岸の・山の・陸岸」

 日本の神様が漢字表記のこじつけから生まれていることを示す好例です。語源は南方系先住民の縄文語です。たとえ「玉姫」であっても、

◎縄文語:「玉(姫)」=「タン・マ」=「こちら・谷川」

 となり、「多摩川」「玉川」などのように近隣の川との対比表現となります。

 また、伊雑宮の所在地は志摩市磯部町です。地勢を見れば一目瞭然です。

◎縄文語:「志摩」=「スマ」=「石、岩」※伊勢志摩は「イソ・スマ=磯の・石、岩」
◎縄文語:「磯部」=「イソ・ウン・ぺ」=「磯が・ある・ところ」

 海際には磯部町的矢の地名があります。

◎縄文語:「的矢」=「マーテュ・ヤ」=「波打ち際の・陸岸」

 この「マーテュ」には「松」の字が充てられることが多く見られます。ほか、万塚古墳や馬塚古墳なども同様です。


■伊雑宮 ※対岸の山の岸。


 『日本の中の朝鮮文化』の中では、「磯部」の「磯」をいわゆる「海の岩礁」の意とすると群馬県の「磯部」の解釈ができないとのことで、「接頭語のイ+新羅のソの神」を由来だとしていますが、違います。
 群馬県の磯部は、

◎縄文語:「磯部」=「ウセィ・ウン・ぺ」=「湯が・ある・ところ」=磯部温泉

 です。西方の「碓氷峠」も同源と思われます。

 余談ですが、磯部温泉の南の甘楽郡は半島系の渡来人が活躍した説で有名ですが、これもいわゆる「韓」由来の地名ではありません。周辺地名と一連で「湿地」を表しています。日本の歴史が渡来系物語で上書きされているのが如実に分かります。

◎縄文語:「甘良(甘楽)」=「カン・ラ」=「上にある・低いところ」
◎縄文語:「多胡(郡)」=「タン・コッ」=「こちらの・窪地」 ※甘楽郡の東隣。
◎縄文語:「下仁田」=「ス・ニタッ」=「西の・湿地」※甘楽郡の西隣。「上仁田」は存在しません。
◎縄文語:「富岡」=「トマ・オカ」=「湿地の・跡」※甘楽郡の西北。
◎縄文語:「鏑(川)」=「カパ・ラ」=「薄っぺらな・低いところ」=浅い低地 ※甘楽郡を貫流。


■多胡碑(鏑川沿いを西に向かって、甘楽町、富岡市、下仁田と並ぶ。いずれも、湿地、低地の意)。磯部温泉は富岡市の北方。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十三回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]奈良波良神社・西外城田神社[奈良県]石上神宮・布都御魂・布留御魂・布都斯魂[福岡県]槵触峯(久士布流多気)~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「奈良・布留御魂・槵触峯・石上神宮」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
奈良波良神社奈良は朝鮮語ナラ、国ということであるが、では(西外城田神社が祀る)布留の御魂とはどういうことか。フル(布留)は<中略>朝鮮語の「火」を意味するとともに、これは新羅の呼称だった徐羅伐(ソラブル)、すなわちソの国のフル、その都京ということであった。
 今日の朝鮮のソウル、日本の『古事記』にみえる「日向の高千穂の久士布流多気」の「布流」、また『日本書紀』の「日向の高千穂の槵触峯」の「触」、それからまた大和の添上郡、添下郡の「添」などももとはソフル(添)で、これらもみなソの国のフル、その都京ということからきたものだった。
 したがって大和の、いまは天理市になっている布留石上神宮も、もとは石上坐布留御魂社といったものであった。そして石上の石とは、これもさきにみた磯部の磯、また伊雑宮の雑とおなじで、やはりもとは新羅のソからきたものだった。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「奈良波良(神社)」=「ナラ・フル」=「山中の平地の・丘」
◎縄文語:「(西)外城田(神社)」=「テュ・チャ」=「小山の・岸」
◎縄文語:「布留御魂」=「フ・ミンタ」=「丘の・祭場」

 奈良は「山中の平地」の意で、説明の必要もありません。
 奈良波良神社の「原」は「ハー・ラ=水が引いた・低いところ」と解釈することが多いですが、所在地の地勢と一致しません。ここも「フ=丘」と解釈すると、近隣地名や地勢と完全に一致します。

■多気郡奈良波良神社、西外城田神社 ※周辺は丘地形。(国土地理院の電子地形図を加工して作成)



 奈良の石上神宮の主祭神は布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神です。石上神宮HPの解説を要約すると以下のようになります。

・「布都御魂大神」=神武天皇の大和攻略を助けた霊剣
・「布留御魂大神」=饒速日命が天津神から授けられた天璽十種瑞宝に宿る霊威
・「布都斯魂大神」=素戔嗚尊が出雲国で八岐大蛇退治した時の天十握剣の霊威

 真偽不明の由緒が語られていますが、実はこれらも例外なく縄文語由来です。

◎縄文語:「布都御魂(大神)」=「ピ・テュ・ミンタ」=「石の・峰の・祭場」
◎縄文語:「布留御魂(大神)」=「フ・ミンタ」=「丘の・祭場」
◎縄文語:「布都斯魂(大神)」=「ピ・テュ・ウシ・ミンタ」=「石の・峰の・ところの・祭場」

 すべて石上神宮後背の「布留山の磐座」を指しています。もともとは先住民による自然崇拝だったということです。いつの間にかへんてこりんな神様にされています。そして、布留町の石上神宮。

◎縄文語:「布留/石上(神宮)」=「フ/イソ・カムィ」=「丘/石の・神」

 三重県の西外城田神社など、その周辺に「布留御魂」を祀る神社が多いのは、単に「丘」地形なだけです。朝鮮半島と関係があるとすれば、由緒の物語創作です。

 奈良県の添上郡、添下郡は奈良湖の北の浜辺です。古代の「層富(そほ)」という地名から解釈。

◎縄文語:「添(上郡)」=「サ・ホ」=「浜の・尻(はずれ)」 ※奈良湖の岸辺。


■石上神宮 ※起源は後背の布留山の磐座を祀る自然崇拝。



 筆者は天孫降臨の地を福岡県の日向峠に比定しています。ニニギは塩土老翁から伊都国を譲り受けたと考えています(※第三十回コラム参照) 。よってクシフルダケも福岡県となります。糸島半島の立石山が相応しく見えます。

◎縄文語:「槵触峯/久士布流多気)」=「ク・フ・タ・ケ」=「対岸の・丘の・石の・ところ」※糸島半島の立石山。


■福岡県糸島市立石山 ※筆者比定クシフルダケ。「対岸の丘の石のところ」。糸島半島の付け根は大きく湾が入り込んでいた。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十四回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[三重県]白木・園相神社・小社神社│因幡の白兎」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「白木・園相神社・小社神社」について(『日本の中の朝鮮文化』金達寿)
【伊勢の宮川中流にも、新羅ということだったとみられる白木というところがあって、ここに園相神社(そないじんじゃ)というのがある。<中略>
 園相の園(そ)とは、宮内省坐園神社・韓神社の園とおなじソの、すなわち「ソのフルの神」のソということである。<中略>ここにはまた小社神社(おこそじんじゃ)というのがある。<中略>小社神社のあるところは地名までが小社となっていた。この小社のコソ(社)とはどういうことであったか。<中略>
 要するにこれも新羅のコセ(居世※)からきたものだったのである。】
※新羅の第一代王となっている赫居世


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「白木」=「シロケ(or シ・オ・ケ)」=「山裾(or 山・尻の・ところ=山裾)」
◎縄文語:「園相(神社)」=「ソ・ナィ」=「水中の隠れ岩の・川」=園相神社対岸の宮川の岩
◎縄文語:「小社(神社)」=「オコッ」=「沢」

 いずれも縄文語解釈と地勢が完全に一致しています。もちろん、地名、神社名の由来に新羅は関係ありません。

 日本全国の「白木」は単なる山裾です。「白」「城」「新王」「親王」「塩」はほぼ「山裾」です。「因幡の白兎」でさえ「山裾の浜」の意です。

◎縄文語:「(因幡の)白兎」=「シ・オ・ウン・サ・ケ」=「山・裾・にある・浜・のところ」=白兎海岸

 「白兎」の物語は、漢字表記にこじつけて創作されただけです。日本各地に無数に存在するこのような物語がことごとく先住民文化を上書きしています。八百万の神、神社の由緒も同類です。その徹底ぶりは驚嘆に値します。
 「塩尻」の場合は例外で、「シ・ウテュル=山の・間」で山が両側から迫っている地形を表します。

 宮内省坐園神社・韓神社は平安京に存在した神社ですが、平安京に朝鮮半島の神が祀られて朝廷から重んじられるのは当然のことです。平安京自体が渡来人中心の都で、そのような性質を自ら持っているからです。 縄文語の先住民とは言語さえ異なるのです。日本語は高句麗、百済王族の扶余系言語と特徴が一致しています。(※wikipedia「百済語」参照

 園相神社のちょうど宮川対岸には大きな岩の塊があり、これを指して「水中の隠れ岩の川」と形容したと考えられます。


■園相神社と小社神社 (国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■園相神社の対岸 ※水中の隠れ岩。

■白兎海岸 ※山裾の浜。




騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十六回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[福井県]若狭・根来・白石・遠敷(おにゅう)・鵜ノ瀬・小浜~」
□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「若狭・根来・白石・遠敷」について(『残る古代朝鮮文化の跡~若狭小浜~』週刊朝日1972/5/19 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【神宮寺できいた説明は、たいへんおもしろかった。
 まず、若狭の古代文化は、対馬暖流にのって渡来した朝鮮の新羅系の人々が築いたものだという。ワカサの語源は朝鮮語のワカソ(往き来)である。
 神宮司のある遠敷川の一帯は、国府・国分寺が置かれ、特に史跡が多い。この遠敷とは朝鮮語ウォンフー(遠くにやる)のなまりである。
 遠敷川の上流に、根来というところがある。これは朝鮮語ネ・コーリ(汝の古里)のなまりである、というのだ。<中略>
 つぎに良弁僧正の話。奈良・東大寺の開祖とされている良弁は、子供のときにワシにさらわれ、高い杉の木の上にひっかかっていたのを、義淵僧正にひろわれたという話がある。歌舞伎にもなっていて、有名な話だ。
 神宮司住職山河尊護さんの説では、良弁は下根来白石の常満長者の子だという。ワシとは和氏のことで、神童なのを見込まれて、和朝臣赤麿という人に、大和に連れていかれ、義淵僧正に預けられたのだそうである。
 赤麿は、遠敷川(鵜ノ瀬川ともいう)の下根来白石にある鵜ノ瀬に天下った若狭彦・姫神の直系の子孫で、神宮寺の開祖。
「形、俗体にして唐人のごとく、白馬に乗じ・・・・・・といいますから、大陸から来た人でしょう。白石シラギ(新羅)だと思います」と山河住職はいうのだ。】

×「若狭彦神社・若狭姫神社」について(『若狭彦神社由来記』高木好次 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【下社は古来、若狭姫神社、遠敷神社とも称したが、明治初年、国幣中社に列せられて、官祭を仰せ出された後は、若狭姫神社、または若狭彦神社下社と公称されるようになった。また上社及び下社を併せて、若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる。・・・・・・
 小浜下根来白石鵜ノ瀬というところがある。遠敷川の清流が巨巌に突当って淵をなしておる。この巨巌の上に、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方一五〇米のところに、創祀の社と伝える白石神社がある。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■

◎縄文語:「若狭」=「ウェン・ケィ・サ」=「険しい・頭(岬)の・浜」
◎縄文語:「遠敷」=「オ・二アゥ」=「川尻の・枝(分かれ)」
◎縄文語:「根来」=「ナィ・カ・オロ」=「川・岸・のところ」
◎縄文語:「鵜ノ瀬」=「ウッナィ・チャ」=「枝川の・岸」
◎縄文語:「白石」=「シ・オ・ウシ」=「山・裾・のところ」
◎縄文語:「小浜」=「オホ・マ」=「深い・谷川」

 比定地が不明な「小浜」以外は、地図とストリートビューで確認可能です。和歌山県の根来も「川岸」です。

 繰り返しになりますが全国の地名の「白」は「山裾」の意で、「新羅」も「山裾」の意です。

◎縄文語:「新羅」=「シロケ(orシ・オ・ケ)」=「山裾(or山・裾・のところ)」

 筆者が考えるに、朝鮮半島南部も倭人と同系同族の南方系民族で縄文語(アイヌ語)を共有しています。

 朝鮮半島系渡来人にも南方系北方系の二種があります。南方系は、中国東夷南蛮、朝鮮半島南部の倭人と同系同族、北方系は百済王族、高句麗の扶余系民族のことです。縄文語(アイヌ語)は日本先住民の南方系の言語で、上代日本語は北方系の言語です。

 良弁が東大寺の開祖ということですが、東大寺の名称、周辺の地名は縄文語が語源です(※第二百六十二回コラム参照)。その由緒には縄文語のかけらも見られないので、良弁も北方系渡来人だったのでしょうか。

 『日本の中の朝鮮文化』に前述の「週刊朝日(1972/5/19)」の引用として次の記述があります。

【小浜は民族移動の通路だったのですよ。北方民族が新羅を通じて小浜から大和に入っていったのではないでしょうか。人も物もここを通ったのです。京都の出町柳は若狭から物資が出る町という意味なんです】(元小浜市長鳥居史郎)(『残る古代朝鮮文化の跡~若狭小浜~』週刊朝日1972/5/19 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)

 北方系民族が大和に入ったことには筆者も頷けます。「新羅を通じた」という根拠が「白」や「新羅」を冠する地名や神社であれば、再検証が必要だと思われます。神社やその由緒などは、七世紀以降に「北方系渡来人の出自の改竄」「渡来系氏族の活躍」を語るために政治的な意図を以て設けられたと考えるからです。


■若狭彦神社、若狭姫神社周辺 (国土地理院の電子地形図を加工して作成)


■鵜ノ瀬 ※枝川の山裾の川岸。


■小浜港の青井崎 ※険しい岬の浜。


■根来(和歌山県岩出市) ※川岸。



騎馬民族北方系渡来人のエラーコラム
第二百九十七回「漢字表記渡来人こじつけ説のウソを徹底的に暴く!名称由来はすべて先住民の縄文語だ!~[福井県]須可麻神社・菅窯由良度美(すがまゆらとみ)[兵庫県]日出神社・多遅摩比多訶神~」

□□□ 通説・俗説・文献 □□□
×「須可麻神社・菅窯由良度美」について(『若狭文化財散歩』武藤正典 ※『日本の中の朝鮮文化』より引用)
【菅浜の南の砂浜は、神功皇后の子、応神天皇が太子のとき、ここの浜でみそぎをされ、敦賀へ移られたと伝えられ、新羅人が漂流して土着したものとも伝える。現在の菅浜神社は古い延喜式内で須可麻神社と称し、菅窯由良度美(すがまゆらとみ)を祀っている。菅窯が菅浜に転じ、焼窯の神様で、須恵器などをつくった帰化人の集団が丘陵に住みついたところであるともいう。また、新羅王子天日槍(垂仁天皇三年)が若狭道を通ったとき滞在したところであるとも伝える。】


■■■ 縄文語解釈 ■■■
◎縄文語:「須可麻(神社) 」=「シ・カ・モィ」=「山の・ほとりの・入り江」
◎縄文語:「菅窯由良度美」=「シ・カ・モヨロ・ト」=「山の・ほとりの・入り江のところ・の中」


 須可麻神社の扁額には別名の麻気神社の名もあります。

◎縄文語:「麻気(神社) 」=「モィ・ケ」=「入り江・のところ」

 須可麻神社、菅窯由良度美、麻気神社はいずれも菅浜地区の入り江の地勢を指しています。焼窯の神様というのは後世のこじつけです。八百万の神はすべて同類です。古代朝鮮語のスカ(村)とも関係ありません。


■須可麻神社 ※山のほとりの入り江。


 菅窯由良度美は神功皇后の祖母とされています。菅窯由良度美は多遅摩比多訶神(天日槍四世)に嫁いでいて、多遅摩比多訶神は但馬の日出神社の祭神となっています。

◎縄文語:「日出(神社) 」=「ピタ」=「小石河原」
◎縄文語:「(多遅摩)比多訶 」=「ピタ・カ」=「小石河原・のほとり」


 日出神社の所在地は「畑山」、背後の山の頂付近には「比丘尼屋敷跡」があります。

◎縄文語:「畑山 」=「ハッタ・ケ・ヤマ」=「淵・のところの・山」
◎縄文語:「比丘尼(屋敷跡) 」=「ピ・コッネイ」=「石の・窪地、谷であるところ」




 日本の地名のほとんどは、近畿含め、南の九州までほぼすべて縄文語由来で、日本全国が南方系先住民の居住地だったことを示しています。縄文語を共有する東夷南蛮、新羅、加羅諸国、百済庶民は倭人と同系の南方系民族で、日本先住民や縄文語地名とは相性がいいと言えます。
 漢字解釈になったのは大化改新以降のことです。記紀風土記、神社仏閣の由緒等に見られる漢字表記こじつけ物語は縄文語地名の本来の意味をことごとく上書きしています。それは七世紀以降大和中枢の権力を握った百済、高句麗の北方系渡来人の方針が多分に影響しています。




◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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