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日出ずる国のエラーコラム


 日本全国の地名、古墳名、歴史の縄文語(アイヌ語)解釈。これまでの通説とは全く異なる内容なだけに、懐疑的に感じられる方々が多いことと思います。しかし、関東から九州までの古墳名や地名、そして各国風土記を縄文語解釈した筆者から見ると、各地で6世紀代まで縄文語が使用されていたのは確実です。

 一方、記紀の神代、欠史八代周辺や風土記の地名由来譚は、ことごとく漢字表記にこじつけたウソ物語で満たされています。その一貫した編纂方針を見れば、これらの作業が意図的であることは明白です。目的はただ一つ。

「編纂者側の人々を正当な権力者として日本の歴史に刻むために、先住民の文化や歴史を抹殺すること」

 これ以外ありません。ここでの先住民とは、近畿地方も含めた、縄文語を共有する日本全国の「縄文人+弥生人+大規模古墳人」のことです。決して、北海道や東北などの北方に偏った話ではありません。

 6世紀代、出自に疑いのある継体天皇が即位しました。その後、天皇、皇子はすべて亡くなったと日本書紀(百済本記引用)にあります。ここから大化の改新、記紀の編纂に至るまで、言語が縄文語から上代日本語に切り替わるほどの大革命がおこります。

 上代日本語を操り、自らの正当性を主張するために、先住民の文化や歴史をウソで上書きした勢力とは、いったい何者なのか。本書の第一部「縄文語と上代日本語の隠された境界線」では、天皇の諡号周辺の縄文語解釈を進めながら、それを明らかにしていきます。

 第二部「記紀、風土記のウソを徹底的に暴く」においては、消された日本先住民の足跡を辿るべく、関東から九州地方までの確度の高い縄文語解釈を抽出してまとめています。ビジュアル資料を豊富に揃えましたので、日本全国で縄文語(アイヌ語)が話されていたことが一目ではっきりと認識できることと思います。

 「記紀、風土記」と「縄文語解釈」どちらに信憑性があるか、じっくりと比較していただければと思います。

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日出ずる国のエラーコラム[総集編]
第一部「縄文語と上代日本語の隠された境界線」
百済系敏達天皇で王朝交代!蘇我氏本家を滅ぼし、大化の改新は言語まで変えた!

 筆者はこれまで、神話、欠史八代、邪馬台国周辺、全国大規模古墳、風土記地名由来譚を縄文語(アイヌ語)解釈してきましたが、それにより、少なくとも6世紀代まで全国で縄文語が使用されていたことに確信を持っています。
(※詳しくは第二部]」をご覧ください。実際の写真と統計を見ると、縄文語と地勢がいかに一致しているかが分かります。縄文語の使用年代は、縄文語解釈可能な大規模古墳の築造年代から導き出しています。)

 しかしその一方で、写本が残る日本最古の書物とされる記紀や風土記は、上代日本語で書かれています。上代日本語は、一部の単語を除いて、縄文語と似ても似つかぬ単語、文法を持っているので、そこには必ず、

●縄文語と上代日本語の境界線

 があるはずです。当然のことながら、日本書紀には「言語が切り替わった」などということは一言も書かれていません。

 日本書紀には、邪馬台国の事績を隠蔽しているという実績があります。
 邪馬台国関連の記事は、神功皇后三十九年、四十三年、魏志を引用して、「倭が使者を送ってきた」という条があるだけで、神功皇后やヤマト王権との関係は書かれていません。しかし、実際は、邪馬台国は長期にわたってヤマトに栄えたヤマト王権の前身です。
 日本書紀では、初代神武天皇、第十代崇神天皇の事績内に、魏志倭人伝には登場しない名称(長髄彦、三炊屋媛等)の敵対者としてしっかりと描かれています。

 邪馬台国の例で推し量ると、日本書紀は全編に渡って「権力筋に不都合なことは書かない」あるいは「都合の良い物語で史実を上書きする」主義で貫かれている可能性があります。

 もし、日本書紀が縄文語と上代日本語の境界線を隠しているとするならば、どのような方法でそれを探ればいいでしょうか。
 筆者は、和風諡号、漢風諡号、陵所、古墳、皇居にヒントを求めました。これらが縄文語で辻褄の合う解釈ができれば、天皇の在位年代がその使用時期を示すことになると考えたからです。これはヤマト王権中枢部での縄文語の使用状況を把握するための重要な資料となります。

 歴代天皇の名称は、和風諡号、漢風諡号、諱などと分類されていますが、第四十代天武天皇以前の和風諡号と諱については厳密な区別はないとされています。これらを縄文語の見地から見るとさらにその区別はなく、地名も人名も言い換え表現が存在する例は無数にあります。
 分かりやすい例として「六甲山」を挙げてみます。以下、すべて「六甲山」の形容です。

◎縄文語による「六甲山」の言い換え表現
「六甲山」=「ルッケイ(山)」=「崩れているところ(の山)」
「向津(峰)」=「ムィェ・カィ・テュ」=「山頂が・波のように折れ砕けている・峰」
「兵庫」=「ピ・オコッ」=「石の・沢」
「底筒男」=「ソコッ・テューテュ・オ」=「滝壺の・出崎の・尻(ふもと)」
「中筒男」=「ナィコッ・テューテュ・オ」=「水のない涸れた沢の・出崎の・尻(ふもと)」
「表筒男」=「ウェン・テューテュ・オ」=「険しい・出崎の・尻(ふもと)」

 「六甲」は「六児/無古/武庫/務古/牟古」等が転訛したのではなく、「六甲」や「向」がそれらに転訛したと捉えられます。「兵庫」も「武器を埋めた」などという由来ではありません。
 後半三つは「住吉三神」ですが、これらも六甲山の別名と解釈でき、必然的に主祭神としてふさわしいのは神戸市東灘区の本住吉神社となります。その漢字表記から海の神とされていますが、元々は先住民による六甲山の自然崇拝だったということです。
 天皇の名称の場合も、このような異称を後世の人々が勝手に分類して物語を創作したと考えることができます。

 漢風諡号については、淡海三船が後世にまとめて命名したというのが通説ですが、それであっても命名の元となった言葉があるはずなので、それを陵所、古墳、皇居の中から探るということです。
 また、筆者の私見では、淡海三船の時代(奈良時代後期)の大和朝廷中枢の人の言葉など、まったく信じることができません。彼らは、風土記、記紀で、先住民の歴史をことごとく上代日本語で上書きした人々の子孫で、自分たちの存在を正当化するためなら、どんなことでも言う人たちです。

 神功皇后以前は邪馬台国の卑弥呼、台与の事績を隠蔽している時代にあたり、創作の可能性が高いので、ミスリードを避けるために割愛します。(※詳しくは拙著「日本書紀のエラーコラム[増補版]」をご参照ください。)

 論より証拠ということで、まずは分かりやすいところから探っていきます。

 以下に第十五代応神天皇から第四十六代孝謙天皇までの和風諡号を一覧で並べてみます。
 時代の古い順からその漢字表記を見て、日本語で解釈して不自然ではないものを見つけてみてください。例えば、応神天皇の「誉田」などは、普通に考えれば、何を意味しているか分かりません。「誉められる田」と言ってしまえば、記紀、風土記と同様のこじつけ解釈となりますが、それでも解釈できればいい方です。どんどん代を下って行きます。

15.応神天皇:誉田(ほんた)
16.仁徳天皇:大鷦鷯(おおさざき)
17.履中天皇:去来穂別(いざほわけ)
18.反正天皇:瑞歯別(みつはわけ)
19.允恭天皇:雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)
20.安康天皇:穴穂(あなほ)
21.雄略天皇:大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)
22.清寧天皇:白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)
23.顕宗天皇:弘計(をけ)
24.仁賢天皇:億計(おけ)
25.武烈天皇:小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)
26.継体天皇:男大迹(おおど)
27.安閑天皇:広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)
28.宣化天皇:武小広国押盾(たけをひろくにおしたて)
29.欽明天皇:天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)
30.敏達天皇:渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)
31.用明天皇:橘豊日(たちばなのとよひ)
32.崇峻天皇:泊瀬部(はつせべ)
33.推古天皇:豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)
34.舒明天皇:息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)
35.皇極天皇:天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
36.孝徳天皇:天万豊日(あめよろづとよひ)
37.斉明天皇:天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
38.天智天皇:天命開別(あめみことひらかすわけ)
39.弘文天皇:
40.天武天皇:天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)
41.持統天皇:高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)
<日本書紀ここまで>
42.文武天皇:倭根子豊祖父(やまと ねこ とよおほぢ)
43.元明天皇:日本根子天津御代豊国成姫(やまと ねこ あまつみよとよくに なりひめ)
44.元正天皇:日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみずきよたらしひめ)
45.聖武天皇:天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)
46.孝謙天皇:高野姫/別称:倭根子(たかのひめ/やまとねこ)


 まず、第十六代仁徳天皇の「大鷦鷯」は日本語の「ミソサザイ」の古名ですから、大きなミソサザイがいるかどうかは別として、不自然ではありません。しかし、次の「去来穂別」「瑞歯別」「雄朝津間」このあたりは、まったく意味不明です。
 意味不明な和風諡号がさらに続き、第二十一代雄略天皇までいくとようやく「大泊瀬幼武」が何となく意味が通じる感じがします。次の清寧天皇の「白髪武広国押稚日本根子」も無理をすれば、なんとなく解釈できますが、次の顕宗天皇の「弘計(をけ)」、仁賢天皇「億計(おけ)」で、再び迷宮入りとなります。そして武烈天皇の「小泊瀬稚鷦鷯」でまた日本語解釈できそうですが、次の継体天皇から敏達天皇までは欽明天皇で一度浮上する以外は、また意味不明となり、第三十一代用明天皇以降になってようやくおおよそ日本語として解釈できそうな名前が続くことになります。
 確実に日本語と判断できるのは、天智天皇以降でしょうか。日本書紀以降も見るとさらにはっきりと日本語として解釈できます。

 これらが何を示しているのか。これは前半の和風諡号が縄文語(アイヌ語)の音に似た漢字を充てていることにより、日本語で解釈することが不可能になっていることを示していると考えます。

 この中で言えば、清寧天皇などが分かりやすい例です。日本書紀には「生まれながらにして白髪」だったという逸話が書かれていますが、これは高確率で漢字表記にこじつけたデタラメ物語です。
 「白」は、多くの場合「将」「親王/新皇」「城」などと同様に「シロケorシ・オ=山裾」の意の縄文語に充てられた漢字です。「将軍塚古墳」「親王塚古墳」「駿河」「新羅」「白浜」「(因幡の)白兎」などの例があり、筆者がとった統計では95%以上が「山裾」の地勢と一致しています。(※詳しくは「第二部」をご参照ください。)
 清寧天皇の場合は、「白髪=シロケ=山裾」で陵墓の河内板門原陵、あるいは皇居の磐余甕栗宮の地勢となります。いずれも「山の麓」です。

 このように、筆者は、少なくとも6世紀代まで全国で縄文語が使用されていたと考えているので、天皇の諡号に縄文語が使用されていたとしても全く不思議はないわけです。

 仮に第三十一代用明天皇の和風諡号が日本語で解釈可能だとすると、用明天皇が縄文語と上代日本語の切り替わりのタイミングということになります。
 聖徳太子の父親である用明天皇の在位は西暦585年から587年です。この時代以降、革命的な出来事が次々に起こり、平城京の奈良時代へと突入していきます。記紀風土記もちょうどこの時期です。

・遣隋使(600年~)
・冠位十二階(603年)
・十七条の憲法(604年)
・遣唐使(630年~)
・大化の改新(645年)戸籍・計帳・班田収授法
 ※改新の詔は後世の創作とするのが通説
・壬申の乱(672年)
・飛鳥浄御原令(681年)
・日本書紀、古事記、風土記の編纂(7世紀末~8世紀初頭)
・平城京(710年)

 ここでは仮に用明天皇を上代日本語の切り替わりの画期としましたが、注意しなければならないのは、用明天皇以降、そしてそれ以前も、縄文語に充てた漢字が偶然日本語として解釈できている可能性があるということです。さらに正確に縄文語の使用状況をつかむためには、陵墓、皇居、諱など、他の要素との整合性を見ながら、縄文語解釈を進めていかなければなりません。

 以下に第十五代応神天皇から第四十一代持統天皇までの縄文語解釈の一覧を挙げます。
 応神天皇の縄文語解釈から時代を降って見ていくと、漢風諡号と和風諡号が、陵墓、皇居などと密接に関係していることが分かります。
 意外なことに、王朝交代説のあることで有名な継体天皇も縄文語解釈できていて、その子らの安閑天皇、宣化天皇までも陵墓、皇居と辻褄の合う縄文語解釈が可能です。この辺りまでは、まだ縄文語が使用されていた可能性が高いことが分かります。

 問題は、敏達天皇から始まる欽明天皇の子の世代です。
 敏達天皇の和風諡号は「渟中倉太珠敷」ですが、その縄文語解釈は、

◎縄文語:渟中倉太珠敷=「ヌィナ・ク/ペト・タ・モシ」=「隠している・人/川口を・切る・国の端」

 となります。本当でしょうか。筆者も縄文語のこじつけによる偶然だと疑ったので、敏達天皇の周辺の解釈も進めました。(一覧下につづく)

※自信のない解釈には「?」を付記しています。
※古墳名については治定が正しいとは言い切れませんので参考程度です。


 すると、欽明天皇の子たち、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇、そして孫の舒明天皇は、それぞれ、漢風諡号、和風諡号、陵所、皇居等で、

●「入口を欠く水脈」「川口が死んでいる水脈」「涸れた水脈」「塞がっている水流」

 をキーワードに類似の解釈ができることが分かりました。これは、

●継体天皇系とは異なる、別系統の後継者を表現している

 のではないでしょうか。代表例として敏達天皇の諡号と皇居の縄文語解釈を挙げてみます。

■敏達天皇
【和風諡号〈古事記〉】他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)
◎縄文語:「他田(訳語田)」=「オサッ・チゥ」=「川口が涸れている・水脈」

【漢風諡号】敏達天皇
◎縄文語:「敏達」=「プッチャ・チゥ」=「入口を欠く・水脈」

【皇居】訳語田幸玉宮
◎縄文語:「訳語田/幸玉」=「オサッ・チゥ/サッ・コタンパ」=「川口が涸れている・水脈/涸れている・国の端」


 話は少し飛びますが、第二十六代継体天皇にも王朝交代説があります。前代は武烈天皇ですが、その武烈天皇の漢風諡号と和風諡号も「水の流れが死んでいる水脈」「涸れた水流」と解釈可能です。
 また、継体天皇は「川口」や「一方の川」という解釈が可能で、一貫して「水流で系統を表現」しているとすれば辻褄が合います。アイヌ語の「川口」は、現代日本人の感覚とは異なり、「川の出口」ではなく、「川の入口」と解釈します。河口から上流に向かうというニュアンスです。

 話を戻すと、欽明天皇の陵所が飛鳥だったのに対し、その子の敏達天皇、用明天皇、推古天皇、そして、用明天皇皇子である聖徳太子の陵所は河内の磯長に移っています。「磯長」を縄文語解釈すると、

◎縄文語:「磯長」=「シ・ナィ・カ」=「大きな・川の・ほとり」(本流のほとり)

 と解釈できますが、河内磯長周辺には、大きな川はありません。この「シナ」はもしかすると「支那=中国」を表すのではないでしょうか。つまり、

◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「支那の・ところ」

 ということです。「支那」という言葉は、仏典を通じて日本に入ってきたということですが、日本に仏教が伝来したのは欽明朝ということになっているので、「支那=中国」の解釈も十分考えられます。

 そして、訳語田幸玉宮の前の敏達天皇の皇居は「百済大井宮」です。これを普通に縄文後解釈すれば、以下のようになります。

◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「(川や湖沼の)入口が・多い・ところ」

 百済大井宮の比定地は奈良県北葛城郡広陵町ですが、確かに川の入口が多い感じもします。

 しかし、これも漢字表記どおり「百済=百済人」と解釈したらどうなるでしょうか。

◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「百済人が・多い・ところ」

 ということになります。つまり、「百済大井宮」とは「百済人の宮」だった可能性が浮上してくるということです。

 さらに、日本書紀の継体天皇崩御の条には

【日本書紀】
「二十五年春二月 天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。時に八十二歳であった。
 十二月五日、藍野陵に葬った。
 ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御と書いたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、『二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また、聞くところによると、日本の天皇、および皇太子、皇子みな死んでしまった』と。これによって言うと、辛亥の年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」

 とあります。しかし、残念ながら、継体天皇が死んでから今まで、千四百年以上にわたって後世の人々はこれを解決していません。

 この記事が実際に継体天皇の時だとすると、死んだ天皇とは、言うまでもなく「継体天皇」です。そして、死んだ皇太子、皇子ら全員というのは、素直に考えると継体天皇の子息、「安閑天皇」「宣化天皇」「欽明天皇」らということになります。
 そして、次の代が「敏達天皇」になる訳です。

 ただ、敏達天皇の兄弟、そして孫である舒明天皇までが、辻褄の合う縄文語解釈ができているというのはどういうことでしょうか。もし、民族が入れ替わるほどの革命的な事件が起こったのであれば、ここで使用言語が変わってもいいはずです。時間軸が矛盾しているような気がしますが、視点を変えるとすんなり解決できます。

 少々時代が降りますが、乙巳の変(645年)を見てみます。継体天皇の没年が辛亥だとすれば531年です。乙巳の変までは百年以上の開きがあります。

 乙巳の変は、大化の改新のきっかけとなった事件で、専横を極めた蘇我入鹿が、舒明天皇の皇子である中大兄皇子とその友人である中臣鎌子に暗殺された事件です。蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に火を放ち、自害しました。蘇我本家はここに滅びます。この時、天皇記はじめ、多くの書物が失われたと言われています。

 本当でしょうか?どうもきな臭いです。

 まだ、続きがあります。この乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された時、舒明天皇の第一皇子の古人大兄皇子が自宅に逃げ帰って言います。

韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。私は心が痛い」

 蘇我入鹿は「韓人」と対比の関係にあるので言うまでもなく「日本人」です。では、この「韓人」とはいったい誰か。奇を衒わずに読めば、実際に蘇我入鹿を切ったのは中大兄皇子とその仲間たちですから、中大兄皇子を指すとするのが妥当です。

 中大兄皇子は、舒明天皇の皇子ですから、古人大兄皇子の異母弟ということになります。中大兄皇子の母親は皇極天皇で、古人大兄皇子の母親は日本人の蘇我馬子の娘である蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)です。古人大兄皇子は蘇我入鹿とは従兄弟に当たります。
 ということは、古人大兄皇子の父親の舒明天皇と、古人大兄皇子本人も「韓人」と捉えることができ、

自分の身内である韓人側の人たちが罪を犯したので、自分も心が痛い」

 という主旨で言ったということになります。

 当時、蘇我氏は代々天皇に娘を嫁がせ、権力を握りました。蘇我氏の母親を持つ古人大兄皇子も即位を勧められますが、それを断り、出家して吉野に籠もります。しかし、結局は中大兄皇子に謀反の罪を着せられ殺されてしまいます。

 蘇我氏はいつから天皇家に娘を嫁がせていたのでしょうか。最初に記録に表れるのは欽明朝です。蘇我稲目が娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇に嫁がせていて、堅塩媛は用明天皇と推古天皇の母、小姉君は崇峻天皇の母になっています。

 余談ですが、蘇我稲目の父は蘇我高麗、祖父は蘇我韓子なので、蘇我氏が朝鮮半島系の渡来人だとする説がありますが、こういった漢字表記にこじつけた説ほど危ういものもありません。第二章で解説していますが、縄文語解釈では「高麗/狛=コ・マ=湾曲した川(地勢一致率7/7=100%)」の意です。この解釈を採用すると、蘇我高麗とは、単に「湾曲した川沿いに住んでいた者」ということになります。「韓子」も「カ・コッ=回る、巻く・谷(曲がる川)」の意で、いずれも奈良県橿原市の「曽我町」の地勢を表しています。「曽我(蘇我)」は「サ・カ=湿地の・ほとり」、周辺の「真菅」は「マサカ=浜の草原の上」です。

 話を戻します。この蘇我稲目、欽明天皇の時代は、前述した「継体天皇とその皇子らが全滅した」時期にあたります。次代が「何かを隠している人」と縄文語解釈できる敏達天皇で、百済大井宮の人ですから、欽明天皇周辺の系譜も鵜呑みにすることはできません。

 古代人がしでかしている欠史八代系図のパズルのような組み替えを参考にすると(日本書紀のエラーコラム 第二十四回参照)、蘇我稲目が嫁がせたのは、革命を起こしたと思われる「敏達天皇」の可能性があります。敏達天皇の即位は、572年ですから、継体天皇が亡くなってから四十年の開きがあります。

 つまり、継体天皇とその皇子らが亡くなったのは、百済系渡来人である敏達天皇の勢力が王権を簒奪したためであり、その兄弟とされる用明天皇、崇峻天皇、推古天皇も、継体天皇との血縁はなかったのではないかということです。

 では、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父とされた欽明天皇とは一体誰なのか。欽明朝の大きな出来事としてあげられるのは、以下です。

・任那滅亡
・仏教公伝
・帝紀、旧辞の編纂


 ずいぶんと大きな出来事が起こっています。もし、革命が起きたというのであれば、欽明朝と捉えられなくもありません。継体天皇の死からこの辺りの年代の辻褄が合わないので、継体天皇の子の、「安閑天皇&宣化天皇」VS「欽明天皇」(辛亥の変)だったのではないかと捉える説があります。(喜田貞吉、林屋辰三郎)
 筆者もこの考え方に一部賛成ですが、少々異なります。

 欠史八代を神話として昇華させ、邪馬台国を隠蔽した日本書紀編纂者の手口を鑑みれば、彼らはあらゆる手を使って自らに不都合な歴史を消し去った可能性が高いと言えます。

 筆者の私見では、

●欽明天皇=敏達天皇

 です。

 つまり、欽明天皇は敏達天皇の分身ではないかと疑っているのです。欠史八代で言えば、神武天皇=崇神天皇のようなものです。一人の事績を分割して二人の天皇を登場させています。塩土老翁や武内宿禰が不自然に長命になっているのも、系図を組み替えたり、不要な人物を挿入したりして物語を創作した結果だと考えます。(※「日本書紀のエラーコラム〔増補版〕」第三十回参照)

 欽明天皇が創作された天皇ではないかと疑われる要素を並べてみます。

・和風諡号の「天国排開広庭天皇」が日本語で無理なく解釈できる。前後の天皇の和風諡号は辻褄の合う縄文語解釈が可能なので、欽明天皇だけが不自然である。
・日本書紀の欽明朝の記事が、百済と任那等、朝鮮半島情勢に偏り、日本国内の記事があまりにも少ない。
・任那滅亡、仏教公伝、帝紀・旧辞の編纂など、革命的な出来事が多い。
・蘇我氏が初めて天皇家に娘を嫁がせ、蘇我氏が権力を握る(蘇我氏が「欽明天皇=敏達天皇」を担いで革命を起こしたのではないか)。それが乙巳の変まで続く。
継体天皇とその皇子らが辛亥の年(五三一年)に全員死んだとすると、安閑、宣化、欽明朝は存在しない。敏達天皇は、継体天皇に接続する。
・敏達天皇の即位は五七二年で、継体天皇の死から約四十年の開きがある。革命を隠すためには、継体天皇とその皇子らが全滅してから敏達天皇即位までの間に創作物語を挟まなければならない。

 欽明天皇の事績を敏達天皇に置き換えて読むと、時代の流れが非常にスムーズになることが分かります。先々代の安閑天皇、先代の宣化天皇も、敏達天皇の事績を移植した内容が含まれているかもしれません。
 いずれにせよ、この時代の画期は、間違いなく欽明天皇(=敏達天皇)です。継体朝が皇子ともども滅び、別系統の欽明天皇(=敏達天皇)が即位しました。  

 しかし、ここではいきなり「縄文語(アイヌ語)⇒上代日本語」となることはありませんでした。なぜなら、天皇に娘を嫁がせて後ろ盾となっていた日本人の蘇我氏が実権を握っていたからです。そして、

●乙巳の変(皇極天皇)以降は、縄文語解釈が不可能

 になります。つまり、

●大化の改新とは、使用言語が「縄文語(アイヌ語)⇒上代日本語」に切り替わるほどの大革命だった

 ということになります。さらに、それは、

●天皇周辺の民族が日本人から百済系渡来人に変わった可能性

 も示しています。まさに、

●「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した!」

 ということになる訳です。


 最後にもう一つ。敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇、舒明天皇に「別系統の後継者」の意を含ませたのはいったい誰なのでしょうか。普通に考えれば、権力者に近い書記官が権力者を貶めるようなことを理由もなく書くとは思えません。

 この書記官は、敏達天皇(=欽明天皇)と蘇我氏が起こした革命を面白く思っていなかったのではないでしょうか。あるいは、創作物語で史実を隠蔽することが許せなかったのかもしれません。固有名詞が縄文語解釈可能ということは、先住民系の倭人か、あるいは縄文語が理解できる渡来人ということになります。
この内容は欽明朝に編纂が開始された帝紀・旧辞に記載されていたのでしょうか。

 仮説としては、

●権力者は継体天皇系から敏達天皇系に変わったが、新しい権力者に従う者たちは許されて、彼らのために働かされた。しかし、少なくとも書記官の一人は面従腹背の状態だった。書記官は、天皇の諡号などの固有名詞の中に真実の歴史を盛り込み、後世の人々にその解読を託した。

 ということが考えられます。そして、その結果、

●記紀や風土記で渡来系古代人がいかに自らに都合の良い物語を創作しようとも、固有名詞の縄文語の意味までは気づかず、そのまま放置されてしまった

 ということになります。蘇我氏なども書記官が書く漢字を完全には読めなかったのではないでしょうか。当該書記官だけが理解できたとしなければ、この状況は生まれません。

 しかし、その縄文語のヒントが読み取れるのも数代の話で、乙巳の変で先住民系である蘇我氏本家が滅び、書物も焼かれ、新たに縄文語に無知な渡来系の書記官に代えられていく中で、固有名詞も含めて上代日本語にとって変わられてしまいました。

 もしかすると、縄文語で歴史解読のヒントを盛り込んだその書記官とは、たった一人の人物だったのかもしれません。権力者の意向に逆らう、まさに命がけの作業です。彼が書いた期間だけ、固有名詞に真実が眠っている。まるで炙り出しの文字のようです。

※日本書紀には「漢文の完成形に近いα群」と「倭習の強いβ群」に分ける区分論がありますが(【参考】「日本書紀の謎を解く」森博達 中央新書)、いずれにせよ縄文語(アイヌ語)ではないことは明らかなので、いわゆる区分論とは「百済系渡来人の漢文」か、あるいは「中国系渡来人の漢文」かの違いになると思います。筆者は中国語の素養がないので、齟齬があればご指摘いただければと思います。

 乙巳の変以降、公地公民、班田収受、国衙、税制、記紀・風土記編纂と、着々と日本支配の体制が整えられていきます。平城京や平安京は、残念ながら、日本古来の伝統文化と言うには少々無理があります。それらは間違いなく渡来文化をベースに発展したものです。現代で言えば、中華街や韓国人街の勢力が拡大し、その支配地域を広げていったということです。各地の国衙はもちろんのこと、記紀の疑わしい神々が活躍する神社仏閣も、その作業を補助する役割を担い、日本の伝統文化として現在まで続いています。
 記紀に登場する八百万の神々は、縄文語に充てられた適当な漢字をその表記から解釈したことにより生まれたデタラメ神様で、多くはもともと先住民の自然崇拝です。(※第二部参照)

 日本書紀が本当に隠したかったこと、それは邪馬台国ではなく、敏達天皇から大化の改新に至るまでの「権力者周辺の民族、言語が入れ替わる大革命」だったのかもしれません。

 日本人とは何か。日本の歴史とは何か。日本の伝統文化とは何か。まっさらな頭で今一度考え直す必要があると思います。


▼▼▼歴代天皇の諡号と諱、陵所、古墳、皇居、各名称の関連性▼▼▼

※縄文語解釈の選択肢は多数ありますが、和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、古墳名、皇居、地勢、基本的にそれぞれの縄文語解釈の整合性がとれるものを採用し、他の関連の見当たらない単独の解釈は「?(不明)」扱いとします。解釈の確度が高くないものにも「?」を付加しています。
※古墳名については治定が正しいとは言い切れませんので参考程度です。

■第十五代 応神天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「川口、川尻」の地勢で一致。


【和風諡号】誉田(ほむた)
◎縄文語:「誉田」=「ホ・ウン・テュ」=「川尻・にある・岬」
or「誉田」=「ホ・テ」=「こぶの・腕」
or「ホ・タ」=「こぶの・塊」

【漢風諡号】応神天皇
◎縄文語:「応神」=「オ・ウン・シ」=「川尻・にある・山」

【陵所】惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)
◎縄文語:「惠我藻伏」=「エンコ・ノミ・プッ・テュ」=「岬を・祭る・川口の・岬」

 和風、漢風諡号と陵所の地勢が一致しています。周辺の古墳名を見ると、おしなべて、現在の大和川と石川の合流点周辺を「川尻/川口/川下」と呼んでいたようです。河内湖の岸辺だったのかもしれません。

「ボケ山=ホ・ケ・ヤマ=川尻の・ところの・山」
「墓山=パンケ・ヤマ=川下の・山」
「岡(ミサンザイ古墳)=オ・カ=川尻の・ほとり」

 日本書紀には「生まれながらにして腕に瘤がある」と記載されていますが、充てられた「誉」という漢字から「ホ=瘤」の意が発生し、物語が創作された可能性もあると考えます。元となった物語の創作時期次第です。

■第十六代 仁徳天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「岸の浜、低地」の地勢で一致。

【和風諡号】大鷦鷯(おほさざきのすめらみこと)
◎縄文語:「大鷦鷯」=「オオ・サン・チャ・ケ」=「大きな・平山の・岸・のところ」

【漢風諡号】仁徳天皇
◎縄文語:「仁徳」=「ニタッ・ケ」=「湿地・のところ」

【陵所】
・百舌鳥野陵(もずののみささぎ)/百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
◎縄文語:「百舌鳥野」=「モィ・チャ・ウン・ノッ」=「入り江の・岸・にある・岬」
 ◎縄文語:「百舌鳥耳原」=「モィ・チャ/メミ・ハ・ラ」=「入り江の・岸/その泉・水が引いた・低いところ」
※百舌鳥古墳群南の石津川河口が入江になっていた。
・大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)
◎縄文語:「大仙」=「オオ・サン」=「大きな・平山」

【皇居】難波高津宮
◎縄文語:「難波高津」=「ニナ・ワ/トンケ・チャ」=「ずっと続いている高台(上町台地)の・岸/沼(河内湖)の外れの・岸」


■第十七代 履中天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。

【和風諡号】去来穂別(いざほわけのすめらみこと)
◎縄文語:「去来穂」=「イ・チャ・ホ」=「その・岸の・尻」

【漢風諡号】履中天皇
◎縄文語:「履中」=「ラ・チャ」=「低いところの・岸」

【陵所】百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)
◎縄文語:「耳原」=「メミ・ハ・ラ」=「泉の・水が引いた・低いところ」

■第十八代 反正天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。

【和風諡号】多遅比瑞歯別(たじひのみつはわけのすめらみこと)
◎縄文語:「多遅比瑞歯」=「タン・チャ・ヘ/ムィ・チャ・パ」=「こちら・岸の・頭/入江の・岸の・頭」
※履中天皇が「尻」、反正天皇が「頭」で対比関係。

【漢風諡号】反正天皇
◎縄文語:「反正」=「ハー・チャ」=「水が引いた・岸」

【陵所】耳原陵(みみはらのみささぎ)
◎縄文語:「耳原」=「メミ・ハ・ラ」=「その泉・水が引いた・低いところ」

【古墳名】田出井山古墳
◎縄文語:「田出井山」=「タン・チャイ・ヤマ」=「こちら・岸の・山」

■第十九代 允恭天皇
※和風諡号と陵所の縄文語解釈が「低地の岸」の地勢で一致。
※漢風諡号と古墳名の縄文語解釈が「岬」の地勢で一致。

【和風諡号】雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)
◎縄文語:「雄朝津間稚子」=「オア・トマ・ワカ」=「川尻が群在する・湿地の・水」

【漢風諡号】允恭天皇
◎縄文語:「允恭」=「エンコ」=「岬」

【陵所】長野原陵(ながののはらのみささぎ)
◎縄文語:「長野原」=「ナィカ・ウン・ヌ・ラ」=「川岸・にある・野原の・低いところ」

【古墳名】市ノ山古墳(市野山古墳)
◎縄文語:「市野山」=「エテュノッ・ヤマ」=「岬の・山」

■第二十代 安康天皇
※和風諡号、漢風諡号、皇居の縄文語解釈が「川辺」の地勢で一致。

【和風諡号】穴穂(あなほのすめらみこと)
◎縄文語:「穴穂」=「アゥ・ナ・ホ」=「枝分かれた・方の・尻(岸辺)」

【漢風諡号】安康天皇
◎縄文語:「安康」=「アゥ・コッ」=「枝分かれた・窪地、谷」

【陵所】菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)
◎縄文語:「菅原伏見」=「シカ・ワ・ラ/ペッチャ」?=「地面の・縁の・低地/川岸」
or「シカ・ワ・ラ/プッチャ」=「地面の・縁の・低地/川口の岸」
※宮内庁治定の宝来城跡では地勢が一致しない。

【皇居】石上穴穂宮
◎縄文語:「穴穂」=「アゥ・ナ・ホ」=「枝分かれた・方の・尻(岸辺)」

■第二十一代 雄略天皇
※和風諡号、漢風諡号、別称、陵所の縄文語解釈が「水が湧く低いところ」の地勢で一致。偶然か、皇居の地勢とも一致。

【和風諡号】大泊瀬幼武(おおはつせわかたけのすめらみこと)
◎縄文語:「大泊瀬幼武」=「オオ・ポッチェイ/ワッカエテュキ」=「大きな・ぬかるんだところ/水が湧いているところ」

【漢風諡号】雄略天皇
◎縄文語:「雄略」=「イ・オ・ラ・ケ」=「それが・群在する・低い・ところ」

【別称】獲加多支鹵大王 ※稲荷山古墳出土鉄剣
◎縄文語:「獲加多支鹵」=「ワッカエテュ・ラ」=「水が湧いている・低いところ」

【陵所】丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
◎縄文語:「丹比/高鷲原」=「タン・チャ・ヘ/テケウ・ハ・ラ」=「こちら・岸の・頭/飛び越えるような水辺の・水の引いた・低いところ」

【皇居】泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)
◎縄文語:「泊瀬朝倉」=「ポッチェ・アッチャケ・ラ」=「ぬかるんだ・対岸の・低いところ」
※伝承地には黒崎と岩坂がありますが、岩坂は山の中なので縄文語解釈とは一致しません。

■第二十二代 清寧天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「平山のほとりの低地」の地勢で一致。羽曳野丘陵のほとり。

【和風諡号】白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
◎縄文語:「白髪武広国押稚日本根子」=「シロケ/トンケ/シリ・コッネ・オソ・ワッカ/ヤ・ムンテュ/ナィ・カ」=「山裾/湖の尻/大地の・窪んだ・尻の・水/岸の・草むら/川・岸」

【漢風諡号】清寧天皇
◎縄文語:「清寧」=「ティネィ」=「湿地」

【陵所】河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)
◎縄文語:「坂門原」=「サン・カ・ト・ハ・ラ」=「平山の・ほとりの・湖の・水が引いた・低いところ」

【皇居】磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)
◎縄文語:「甕栗」=「ムィ・カッ・ク・ル」=「頂の・形が・弓の・岬」
=「香久山」=「カッ・ク・ヤマ」=「形が・弓の・山」

■第二十三代 顕宗天皇
※漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「川口」の地勢で一致。
※別称、陵所の縄文語解釈が「祭場のある山」の地勢で一致。

【和風諡号】弘計(をけ)
◎縄文語:「弘計」=「ウォ・ケ」=「水の・ところ」

【漢風諡号】顕宗天皇
◎縄文語:「顕宗」=「クッチャ」=「川の入口」

【別称】<古事記>袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)
◎縄文語:「袁祁之石巣」=「ウォ・ケ/イウォ・シ」=「水の・ところ/祭場のある・山」

【陵所】傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)
◎縄文語:「傍丘磐坏」=「コッチャ・オ・ケ/イウォ・テュ」=「谷の入口の・尻の・ところ/祭場のある・小山」

【皇居】近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)
◎縄文語:「八釣」=「ヤ・シリ」?=「内陸の方の・山」

■第二十四代 仁賢天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所、古墳名の縄文語解釈が「川下、ぬかるんだところ」の地勢で一致。

【和風諡号】億計(おけ)
◎縄文語:「億計」=「オ・ケ」=「川下の・ところ」

【漢風諡号】仁賢天皇
◎縄文語:「仁賢」=「チゥ・ケ」=「水脈の・ところ」

【陵所】埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)
◎縄文語:「埴生坂本」=「パニ・ウン・サン・カ・ポッチェイ」=「川下・にある・平山の・ほとりが・ぬかるんだところ」

【古墳名】ボケ山古墳
◎縄文語:「ボケ山」=「ホ・ケ・ヤマ」=「川下の・ところの・山」

【皇居】石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)
◎縄文語:「広高」=「シ・オ・トンケ」=「山・裾の・湖沼の外れ」

■第二十五代 武烈天皇
※和風諡号と漢風諡号が「涸れた水流で一致」。
※和風諡号と陵所の縄文語解釈が「ぬかるんだところ」で一致。

【和風諡号】小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)
◎縄文語:「小泊瀬稚鷦鷯」=「オ・ポッチェイ/ワカ・エ・サッ・チゥ・ケ」=「川尻(川の合流点)の・ぬかるんだところ/水が・そこで・涸れている・水流・ところ」

【漢風諡号】武烈天皇
◎縄文語:「武烈」=「ぺ・エ・ラィ・チゥ」=「水が・そこで・死んでいる(水が流れずにたまっている)・水流」

【陵所】傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)
◎縄文語:「傍丘磐坏」=「コッチャ・オカ/イウォ・テュ」=「谷の入口の・跡/祭場のある・小山」

【皇居】泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)
◎縄文語:「泊瀬列城」=「ポッチェイ・ヌピ・ケ」=「ぬかるんだところの・野原の・ところ」

■第二十六代 継体天皇
※和風諡号、皇居の縄文語解釈が「川尻」の地勢で一致。
※陵所と皇居が「一方の川」で一致。

【和風諡号】男大迹(おおど)
◎縄文語:「男大迹」=「オホント」=「川尻」

【漢風諡号】継体天皇
◎縄文語:「継体」=「キタイ」=「てっぺん、山頂、上流?」

【別称】彦太尊(ひこふとのみこと)
◎縄文語:「彦太」=「ペンケ・ペト」=「上流の・川口」

【陵所】藍野陵(あいののみささぎ)
◎縄文語:「藍野」=「ア・ナィ」=「一方の・川」

※宮内庁治定の三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)の築造時期は5世紀の中頃なので時期が合わない。学会の定説は今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m 、6世紀前半)。縄文語解釈でも、「一方の」という対比表現あるので、近接する三嶋藍野陵よりも今城塚古墳の築造時期の方が新しいことが分かる。

【皇居】磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)
◎縄文語:「玉穂」=「タン・マ・ホ」=「こちらの・川の・尻」

■第二十七代 安閑天皇
※和風諡号、漢風諡号、陵所の縄文語解釈が「窪地」の地勢で一致。

【和風諡号】広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)
◎縄文語:「広国押武金日」=「シ・オ・コッネ・オシタケ/カンナイ」=「大地(国)が・そこで・窪んでいる・底のところ/上にあるところ」


【漢風諡号】安閑天皇
◎縄文語:「安閑」=「ア・コッ」=「一方の・窪地」

【諱】勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)
◎縄文語:「勾」=「マ・カリ」=「谷川を・巻く」(曲がった川)

【陵所】古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
◎縄文語:「古市高屋」=「ペ・チャ/ト・カ・ヤ」=「泉の・岸/湖沼の・ほとりの・岸」

【皇居】勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)
◎縄文語:「勾金橋」=「マ・カリ/カンナ・ハ・ウシ」=「谷川を・巻く(曲がった川)/上にある・水が引いた・ところ」

■第二十八代 宣化天皇
※和風諡号、陵所、諱の縄文語解釈が「湖沼の入り江」の地勢で一致。
※漢風諡号、諱、陵所、皇居が「平山、横山」の地勢で一致。

【和風諡号】武小広国押盾(たけをひろくにおしたて)
◎縄文語:「武小広国押盾」=「トンケ・オ/シ・オ・コッネ・オシタ・タ」=「沼のはずれの・尻/大地(国)が・そこで・窪んでいる・底の・方」

【漢風諡号】宣化天皇
◎縄文語:「宣化」=「坂」=「サン・カ」=「平山の・ほとり」 ※陵所名の一部。

【諱】檜隈高田(ひのくまのたかたのみこ)
◎縄文語:「檜隈/高田」=「ペナ・クマ/トンケ・チャ」=「上流の・横山/沼尻の・岸」

【陵所】身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵:むさのつきさかのえのみささぎ)
◎縄文語:「身狹桃花鳥坂上」=「モィサ・ノッケ/サン・カ・ナィェ」=「入江の隣の・岬/平山の・ほとりの・川」

【皇居】檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)
◎縄文語:「檜隈/廬入野」=「ペナ・クマ/イウォ・ヌ」=「上流の・横山/神の・野原」

■第三十代 欽明天皇
※欽明天皇は創作された天皇ではないかと疑っています。

【和風諡号】天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)
◎縄文語:「天国/排開/広庭」=「ア・コッネ・オソ/パラコッ/ピ・ナィェ」=「横たわっている・窪んだ・尻/広い谷/細い・川」?
=日本語で解釈可能

【漢風諡号】欽明天皇
◎縄文語:「欽明」=「クマ」=「横山」

【陵所】檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)
◎縄文語:「檜隈坂合」=「ペナ・クマ/サン・カィ・イ」=「上流の・横山/平山を・背負っている・ところ」

【皇居】磯城島金刺宮
◎縄文語:「金刺」=「カンナ・シ」=「上にある・山のそば」

■第三十代 敏達天皇
※和風諡号(日本書紀)と皇居(訳語田幸玉宮)が「国の端」の意で一致。                    
※和風諡号(古事記)、漢風諡号、皇居(訳語田幸玉宮)が「川口が涸れている水脈」の意で一致。

【和風諡号】
<日本書紀>渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)
◎縄文語:「渟中倉太珠敷」=「ヌィナ・ク/ペト・タ・モシ」=「隠している・人/川口を・切る・国の端」
<古事記(別名)>他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)
◎縄文語:「他田(訳語田)」=「オサッ・チゥ」=「川口が涸れている・水脈」

【漢風諡号】敏達天皇
◎縄文語:「敏達」=「プッチャ・チゥ」=「入口を欠く・水脈」

【陵所】磯長陵(しながのみささぎ)
◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【陵所他説】葉室塚古墳
◎縄文語:「葉室」=「ハオロ・イ」=「中にない・者」

【皇居】
・百済大井宮
◎縄文語:「百済大井」=「クッチャ・オー・イ」=「(川や湖沼の)入口が・多い・ところ」or「百済人が・多い・ところ」

・訳語田幸玉宮
◎縄文語:「訳語田/幸玉」=「オサッ・チゥ/サッ・コタンパ」=「川口が涸れている・水脈/涸れている・国の端」

■第三十一代 用明天皇
※和風諡号が先代の敏達天皇と「川口/川下を切る」の意で一致。
※漢風諡号が先代敏達天皇の「川口を欠く」、舒明天皇の「塞がっている」の意で一致。

【和風諡号】橘豊日(たちばなのとよひ)
 ◎縄文語:「橘豊日」=「タンチャ・パナ・タ・ヨピイ」=「こちら岸の(本国の)・川下を・切る・分かれた者(原義:それを捨て去った者)」

【漢風諡号】用明天皇
 ◎縄文語:「用明」=「ヤ・オ・ムー・イ」=「陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・ところ」
or「ヨピイ」=「分かれた者(原義:それを捨て去った者)」


【諱】池辺皇子
 ◎縄文語:「池辺」=「イカ・プ」?=「それを溢れる・者」
or「池辺」=日本語の「いけべ」=「池畔」

【陵所】河内磯長陵(しながのみささぎ)
 ◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【皇居】磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)
 ◎縄文語:「池辺雙槻」=「イカ・プ?/ナペ・チャ・ケ」=「それを溢れる・者/冷たい水の・岸の・ところ」
or「池辺」=日本語の「いけべ」=「池畔」

■第三十二代 崇峻天皇
※皇居と地勢が「湧水」で一致。
※諡号、陵所、地勢ともに共通する確度の高い解釈はありません。

【和風諡号】
<日本書紀>泊瀬部(はつせべ)
 ◎縄文語:「泊瀬部」=「ポッチェ・ペ」=「ぬかるんでいる・ところ」

<古事記>長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)
 ◎縄文語:「若雀」=「ワッカ・サッ・チゥ・ケ」?=「水が・涸れている・水脈の・ところ」

【漢風諡号】崇峻天皇
 ◎縄文語:「崇峻」=「サッ・チゥ」=「涸れている・水脈」

【陵所】倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
 ◎縄文語:「倉梯」=「ク・レン・シ」?=「人が・外国の・ところ」

【皇居】倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)
 ◎縄文語:「柴垣」=「ク・レン・シ/シプィ・カ・ケ」=「人が・外国の・ところ/湧き水の・ほとりの・ところ」

■第三十三代 推古天皇
※和風諡号と皇居が「湖岸」の地勢で一致。
※漢風諡号と諱が「涸れた川」の意で一致。

【和風諡号】豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
 ◎縄文語:「豊御食炊屋」=「トヤ・メ・ケ・ヤ」=「湖岸の・山の尾根の・ところの・岸」

【漢風諡号】推古天皇
 ◎縄文語:「推古」=「サッコッ」=「涸れた川」

【諱】額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
 ◎縄文語:「額田部」=「ナィコッ・タ・プ」=「涸れた川を・切る・者」or「涸れた川に・ある・者」

【陵所】磯長山田陵(科長大陵)
 ◎縄文語:「磯長山田」=「シナ・ケ/ヤ・オ・ムー・チゥ」=「中国の・ところ/陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・水流」

【古墳名】山田高塚古墳
 ◎縄文語:「山田高塚」=「ヤ・オ・ムー・チゥ/トンケ・テュ」=「陸岸(本国)が・そこで・塞がっている・水流/湖のはずれの・小山」

【皇居】豊浦宮/小墾田宮
 ◎縄文語:「豊浦」=「トヤ・ウン・ラ」=「湖岸・にある・低いところ」
 ◎縄文語:「小墾田」=「オ・ハ・ル・チウェ」=「川口の・水が引いた・跡の・水流」

■第三十四代 舒明天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所(滑谷/押坂)が「川口が死んでいる/涸れている/塞がっている」の意で一致。

【和風諡号】息長足日広額(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
 ◎縄文語:「日広額」=「ペッパ・ナィコッ」=「川口の・涸れた沢」

【漢風諡号】舒明天皇
 ◎縄文語:「舒明」=「チウェ・ムー・イ」=「水脈が・塞がっている・者」

【諱】田村
 ◎縄文語:「田村」=「チウェ・ムー・」=「水脈が・塞がっている・跡」

【陵所】滑谷岡(なめはざまのおか)/押坂陵(おさかのみささぎ)
 ◎縄文語:「滑谷」=「ナペ・サマ」=「湧水の・ほとり」
 ◎縄文語:「押坂」=「オサッ・コッ」=「川口が涸れている・谷川」

【皇居】飛鳥岡本宮
 ◎縄文語:「飛鳥岡本」=「アゥ・チゥ・カ/オカ・エ・ムー・チゥ」=「枝分かれた・水脈の・ほとり/後が・そこで・塞がっている・水脈」

■第三十五代 皇極天皇
※漢風諡号と陵所が「山裾、丘」で地勢が一致。

【和風諡号】天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天豊財重日足」=「ア・トヤ/ト・カ・ラ/?(不明)」=「横たわっている・湖の岸/湖・岸の・低いところ」

【漢風諡号】皇極天皇
 ◎縄文語:「皇極」=「コッ・ウン・キ・オ・ケ」?=「窪地・にある・山・裾の・ところ」


【陵所】越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
 ◎縄文語:「越智/崗上」=「オ・チャ/?」=「川尻の・岸/」
※比定地は複数あります。(車木ケンノウ古墳/牽牛子塚古墳/岩屋山古墳/小谷古墳)。 これら古墳の地勢を考慮すると、「崗上=丘の上」で日本語と捉えることができます。

【皇居】飛鳥板蓋宮

■第三十六代 孝徳天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。陵所は、敏達天皇以来、大阪の磯長が多くなっています。

【和風諡号】天万豊日(あめのよろずのとよひのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天万豊日」=「?」

【漢風諡号】孝徳天皇
 ◎縄文語:「孝徳」=「コッ・ウン・ト」?=「窪地・にある・突起」

【諱】軽
 ◎縄文語:「軽」=「?(不明)」

【陵所】大阪磯長陵
 ◎縄文語:「磯長」=「シナ・ケ」=「中国の・ところ」

【皇居】難波宮

■第三十七代 斉明天皇(第三十五代 皇極天皇 重祚)
※漢風諡号に妥当な解釈がありません。

【漢風諡号】斉明天皇
 ◎縄文語:「斉明」=「?(不明)」

■第三十八代 天智天皇
※漢風諡号と諱が「川口」で一致するも、確度が高いとは言えません。

【和風諡号】天命開別(あめみことひらかすわけのみこと)
 ◎縄文語:「天命開」=「?(不明)」

【漢風諡号】天智天皇
 ◎縄文語:「天智」=「タン・チャ」?=「こちらの・川口」

【諱】葛城
 ◎縄文語:「葛城」=「コッチャ・ケ」=「谷の入口の・ところ」

【陵所】山科陵
 ◎縄文語:「山科」=「ヤマ・シナ」?=「山・中国」

【皇居】近江大津宮

■第三十九代 弘文天皇=大友皇子は割愛

■第四十代 天武天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。

【和風諡号】天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
 ◎縄文語:「天渟中原瀛真人」=「?(不明)」

【漢風諡号】天武天皇
 ◎縄文語:「天武」=「?(不明)」

【諱】大海人(おおあま)
 ◎縄文語:「大海人」=「?(不明)」

【陵所】檜隈大内陵
 ◎縄文語:「檜隈大内」=「ぺナ・クマ/オオ・エテュ」?=「川上の・横山/大きな・岬」

【皇居】飛鳥浄御原宮

■第四十代 持統天皇
※和風諡号、漢風諡号、諱、陵所、皇居、ともに共通項のある縄文語解釈はありません。

【和風諡号】大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
 ◎縄文語:「天之廣野」=「?(不明)」

【漢風諡号】持統天皇
 ◎縄文語:「持統」=「?(不明)」

【諱】鸕野讚良(うののさらら)
 ◎縄文語:「鸕野讚良」=「?(不明)」

【陵所】檜隈大内陵
 ◎縄文語:「檜隈大内」=「ぺナ・クマ/オオ・エテュ」?=「川上の・横山/大きな・岬」

【皇居】飛鳥浄御原宮


▼目次
第一部 「縄文語と上代日本語の隠された境界線」
【百済系敏達天皇で王朝交代!蘇我氏本家を滅ぼし、大化の改新は言語まで変えた!】
第二部 「記紀、風土記のウソを徹底的に暴く」
【No.1】香久山は「弓の形の山」だ!風土記は後世の人々を騙すためのデタラメが満載!
【No.2】愛宕山は「ぽつんと離れた山」の意!「カグツチ」という火の神などいない!
【No.3】住吉三神は「六甲山の自然崇拝」。海の神ではない!
【No.4】仲哀天皇偽陵の「五色塚古墳」は「岩崖の墓」の意だ!
【No.5】「処女塚」も「求女塚」も悲恋物語とは関係ない!「砂浜の入り江の古墳」の意だ!
【No.6】「因幡の白兎」も大ウソこじつけ物語!「将軍塚」に将軍は眠らない!
【No.7】「稲荷神」「狐」もデタラメ!お揚げをお供えしても無駄!
【No.8】「八雲立つ出雲」は「先住民の入り江」!宮崎の巨大古墳「弥五郎塚」は「先住民の墓」!
【No.9】「八幡大神」などいない!八幡と富士見は同語源の「川端」!「富士山が見える」のは偶然だ!
【No.10】「羽衣」は単なる「岬の頭」!「羽衣伝説」は縄文語に渡来系物語が便乗しただけだ!
【No.11】「天日槍」は新羅から来ていない!城崎温泉から来ただけだ!
【No.12】本当に「高麗」に高麗人が移り住んだのか?全国の「高麗」の地勢は「湾曲した川」だ!
【No.13】「甲斐の黒駒」は本当に馬か?全国の「黒駒」の地勢は「山裾の湾曲した川」だ!
【No.14】「百済」は「川や湾の入口」の意!風土記はしゃあしゃあとウソをつく!
【No.15】ウソつき神様大集合!天照、事代主、八幡、稲荷、住吉、金刀比羅のデタラメを暴く!
【No.16】地名の八王子も王子信仰もウソっぱち!牛頭天王も縄文語の地名に空想物語が便乗しただけ!
【No.17】旧国名はデタラメ由来だらけ!常陸、総、伊豆、駿河、尾張、伊勢、伊賀、摂津、豊、筑紫、肥、日向、風土記は悪意に満ちた大ウソつきだ!
【No.18】「椀貸」は「岸の外れ」の意!椀貸塚古墳は「椀」を貸してはくれない!
【No.19】「造山」「作山」は「自然地形を利用した古墳」の意だ!「作石」の石の宝殿は「あの世への入口」だ!
【No.20】「銚子塚古墳」は「中くぼみの山」で「前方後円墳」の意!酒器の「銚子」とは似ても似つかない!
【No.21】まんじゅう、松、馬、万、升、窓、古墳も地名もすべて「マーテュ=波打ち際」の意!風土記に騙されてはいけない!
【No.22】楯縫は楯を作っていない!「こちらの湿地」の意だ!
【No.23】「日置」は「山裾」の意、「日置部=砂鉄の生産地」ではない!
【No.24】「金鶏伝説」のデタラメを暴く!「金の鶏」など埋めていない!
【No.25】「薬師如来」も縄文語に便乗しただけ!全国の「薬師」は「岸の末端」だ!
【No.26】「荒川」は「荒れる川」ではない!「タマ川」と同義、「一方の川」の意だ!
【 あ と が き 】

◎参考文献: 『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著、北海道出版企画センター)※参考文献を基に、筆者自身の独自解釈を加えています。/『日本書紀 全現代語訳』(宇治谷孟 講談社学術文庫)/『古事記 全訳注』(次田真幸 講談社学術文庫)/『風土記』(中村啓信 監修訳注 角川ソフィア文庫)/『古語拾遺』(西宮一民校注 岩波文庫)/『日本の古代遺跡』(保育社)/wikipedia/地方自治体公式サイト/ほか

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